クリスマスの季節 −558−
  
家族の温(ぬく)もり、私が子の頃 

千葉県市川市菅野
東京都千代田区神田


 新宿御苑 1953年 兄弟


 霧ヶ峰 54年 社員 父 兄 母 親戚


 野沢 54年 両親と 


 1956年 兄弟




昭和三十年代の半ばです。神田の店は繁盛していました。その
全盛時に、業界の行く末と斯業(しぎょう)の体質を見極め、後
にも先にもたった一度、父は「商売をやめる」と言い出したの
です。

居ても立ってもいられない不安を皆さんもご存知でしょう。そ
の最初が何時だったかを私は憶えています。冬の放課後、闇を
押しのけ、枝に掛けたランドセルを探していた頃ですから小学
三年、それより後でも先でもなかったです。

※

我が家では、昭和二十年代の後半にはスキーも始めています。
但しスキーは新しがり屋の埒(らち)外で、奥利根の温泉で、宿
の人が勧めてくれたのです。

温泉宿で、板と(左右とも成形した一枚板と)、登山靴のよう
な履き物と、先に輪のついた太く節くれだった竹を借り、肩に
担ぎ、門前の坂道をヨロヨロ進み、田圃の新雪にズボズボ脚を
取られ、遭難を疑似体験しながら、喘(あえ)ぎ喘ぎ着いたのが
地肌むき出しのスキー場。

滑走面は、河川の土手と変わらない広さで、天然繊維の綱を動
力で回転させ、転(ころ)ぼうと喚(わめ)こうとお構いなく引き
ずり上げてくれる仕掛けが一基。

※

水溜りの向こうは土を盛った畑で、雪の翌日、授業の一つが流
れ、雪原で遊んでよいことになり、まあ、教室の外は自由でし
たので天にも昇る心地。教室を飛び出す前の先生の言葉「畑の
持ち主の許可を得ました」なんてのも憶えています。

先ずは走りまわり雪合戦に興じていました。次いで人形だか怪
獣だかを作ろうというクラスの意向が伝わり、力仕事を率先す
る気質が働き、精だして雪を転がし、像が仕上がったときは水
星でしたが、互いに労をねぎらい、現われた先生に誉められ、
歓声を上げ、先生に抱きつき、先生を奪い合う時分には、金星
ではなく、火星でも木星でも土星でもなく、天王星でも海王星
でもなく、冥界、いえ冥王星で佇(たたず)んでいる我が身に、
侘(わ)びしかったですね〜、秀才や英才を仰ぎ見ながら。

ところが、彗星が輝いていたのです。あの子と並んだら、秀才
なんか宇宙の塵、英才なんか闇の暗黒、私には銀河にも宇宙に
も思えた「学園近くの、大きな門構えの女の子」が、微笑みな
がら立っていたのも冥界、いえ、冥王星でした。

                 クリスマスの季節−10−




そう、女の子はお掃除の分担を終え、男の子はふざけてサボっ
ていた時、校庭に出て遊びたかった私一人で残り部分を掃除し
たのに、オンナの子がセンセに「男の子、サボってる」と告げ
口をしたのでしょう、突然現われたセンセ、ほかの男の子には
目もくれず、つかつか歩み寄り、私を皆の前で難詰しました。
生憎、お人好しでなかった私は、さっさと帰って・・・、不登
校ではないんです、登校を拒絶したんです。

私、できる子じゃなかったです。教室で指されると、発育不全
もあったのでしょう、呂律がまわらず立ち往生。その時の屈辱
感、穴がなくても目の前真っ暗。そんな時のセンセの、ある種
の表情が厭で嫌いで、センセという存在そのものが苦手でした。

                         センセ




日曜は運転手のOさんと出かけていました
国会議事堂へも ←議事堂前の写真があります
Oさんはずんぐりむっくりした商用車を
ピカピカに磨き上げていました

両親は職住一致と平休一致
父は積極的に車を使わせてくれました
菅野で育ち中学も越境だった私は
問屋街には
梱包のほかは友達も遊び場もなかったのです
自分が決める外出ではなく
多くは兄と一緒
時に住み込み従業員が加わることも

高校時代は様子が一変しました
兄は運動部中心の生活
全国の上位を狙う私立の運動部です
高校までの種目は練習を始めた時期が遅く
大学進学時に種目を替えています
学生時代はスポーツ面に載るまでに
一方、私の高校時代は
家では商品企画を手伝い
外では同級生との交友がすべて

中学時代に出かけた手近な先が豊島園と新宿御苑
新宿御苑は菅野時代も出かけています
昭和二十九年の春休みです ←二十八年の冬かも
制服姿なので遠足と思っていましたが
写っていたのは兄弟だけ
当時の新宿御苑には
電気自動車や飛行機の乗り物も

           クリスマスの季節−233−







店の上客です。1961年当時。両親は戦後、祖父に託され神田の
店を再興、さらに自立する親族に開業資金を全額工面、ために
資金に窮して市川市の自宅を売却、仕入先にも発注の解約を乞
い、幸いにも容れられましたが

その直後(1957〜58)、今も社会に根付いている「正統な継嗣の
観念」に基づいて、起こされた屋号継承の裁判は、両親には癒
やす術のない打撃になり、中学生の私は、教室に居ても不安で
した。
                          Two




小指の先ほどの大さで
鋭いガラス片(?)を塗(まぶ)した粒と
茶褐色の細かい二粒を ←三粒とも中学時代の採集標本
売薬の瓶に綿を詰め保存

 えっ、この石が? よく出ましたね!
 分析しましょう

数日後、尋ねて曰く
私のコレクションはどうなりましたか?

 ア〜、アレネ 平凡な成分でしたよ

粒とは砂ではなく小石状
ガラス片とは雪の結晶状でキラキラ綺麗

              クリスマスの季節−499−




高校時代は掲示板からはじまります。発表時間もとうにすぎた
午後になって、春の陽の、おだやかに降りそそぐ校庭を横切り、
体育館横の、誰もいない掲示板を見あげたとき、この学校に受
かっているのはわかっていたのですが、私の「奇面組」が始ま
りました。

中学の校舎は暗すぎました。中学の太陽は、直方体を対角線で
切り分けた上半分に注ぐだけ。高校は、北側が鉄筋の校舎、東
側は屋根の低い体育館、南側西寄りに室内プール、西側の高台
に小運動場、高台に上がる崖にはミニミニ緑地と、都心にあり
ながら、太陽にめぐまれた学園でした。

嬉しかったですね〜。いえ、試験の結果ではありません。結果
は期待通りではなかったのです。当時は「上」がある学校で最
も困難視された私立には受かっていました。でも、私は私立は
いやでした。今も、租界の特権より、枠外の孤独を選びます

             随想 繊維問屋にて (5-5) 一一三




幼い日に戻ったような懐かしさを感じました。家族が一つにな
って父の運命を決めるのです。父は当初から「手術の選択は家
族にまかせる」と決めていました。母も同じ考えなので、選択
は我々兄弟に委ねられました。一方、私は両親との交流は深か
ったのですが、両親の物質上の家には距離を置き、両親の権利
上の家には関わらない方針でしたので、意見が割れた場合(心
の中では割れていました)正解を得られそうもない選択でもめ
るのは両親を苦しめるだけだと思い、また母とは機会あるごと
に話し合ってもいましたので、同席は必要ないでしょうと伝え
ましたところ、母は強い調子で同席を求め、外科医の診察室で
ほんの一瞬、昔の家族が蘇りました。

レントゲン写真を前にした医師の話は、従来の説明の繰り返し
でした。腫瘍の影はさらに膨れ、このまま時間をかけて大丈夫
ですかと、思った通りを尋ねますと、医師は眼鏡を外し、顔を
拭い、しばらく呼吸を置いて下した結論が手術の回避。

完治は信じられず、延命の年数も知らされないまま手術を選ん
だ場合、父も母も、手術が終わるまで不安に苦しめられ、手術
後も、退院を告げられるまで容体の急変に怯え、高年ゆえに寝
たきりのまま死んでいくのであれば、気持ちが放射線照射に傾
くのは自然でしょう。

選択の余地はなかったのです。父は退院します。再び孫娘と出
かけられます。垂れこめていた暗雲が晴れました。誰よりもほ
っとしたのは母でした。父は急変を恐れ半信半疑でしたが、退
院できると聞いて力づき、寝たままになる杞憂を……

                  随想 橡の木の葉 一一




ケラケラコロコロ笑い転げ、日がな一日遊びまわる子どもを見
たら、大人はケッタイに思うでしょう.しかし、一歩運動場を
後にしたら、ケッタイな子Aの心は不安におののき、Bの心は
悲しみに泣き崩れ、Cの心は----、なんてことないとは言えま
せん.
                    編集中記【その59




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