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折々の文章 |
──────────────────────────── クリスマスの季節 −56− ──────────────────────────── 京葉線は身近です。Dへ出かける? Dは約四十年前、オヤジ サン連中の視察旅行に参加した際、ぽつねんと立ち寄ったこと があります。臨海に完成した時は、家族を連れて出かけました。 我が家にとってDは、子が春や夏のお休み、仲間と出かける適 地になっていますので、家族で出かける出費は免れています。 お世話になった編集者がある年、移ったお住まいも京葉線の沿 線でした。近年その地を引き払い、遠方の郷里に帰られました。 京葉線沿線で働く関係者もいます。休日に出かける公園も京葉 線沿線は有力候補。児童の頃、自転車で出かけた干潟も京葉線 沿線……なんて当時はなかったですね。「窓」と「鏡」の二重 写しは、京葉線も総武線も同じです。 総武線は新婚時代、房総半島への日帰り旅行で利用しました。 今は車で、都内や千葉県の総武線を横切っています。 「窓」を掛ける場所がなくなりました。「鏡」が「鏡」を映し 出す美の無限連鎖が、到る土地で生まれています。 ※ 「鏡」作品は感動美と自己実現美に根を下ろしました。「鏡」 作品は、現場作業と協働者を制作過程と構造に秘めてしまい、 表層だけで評価を待ちます。権威を付加する審査過程を(制作 側にも鑑賞側にも実りある表現分野を)伏せておきませんと感 受できない社会通念に、その象徴を見る思いです。 衰えた私に「鏡」作品は過剰に過ぎます。「鏡」作品は窓外の 基準を免れていますので、誰にも自己納得が容易な反面、自己 にも他者にも道筋が見えません。 ※ 結婚後に訪れた市川、懐かしかったですね〜。それが武蔵野線 や京葉線が出来てからは、電車遅延時の通勤途上、高架から眺 める住宅密集地に様(さま)変わり。 懐かしがっていた時期も過ぎてしまい、資質のクール(←冷た いの意)が頭をもたげ、立ち見の車窓から無意識に観察、その ある時期から、本八幡駅にのしかかるビルを透して、「窓」作 品が見えています。 脳裏に、借景を保存しておいた私だけが掛けられる作品ですが、 その類型は、今も普遍ではありますまいか。 ※ 北北西の天と地に流れ星。鋭利な刃物で、天を切り裂く流れ星 は苦手ですが、今朝はどちらも穏やか。 空気が乾いています。所々に雪も。月はなく、灯のない場所は 真っ暗。高圧線の鉄塔、必ずしも灯がある訳ではないのですね。 空は黒くはありません。桜で覆われた道路の、目の高さまでが 黒いのです。走っていても、芽の膨(ふく)らみも節(ふし)の形 も判るのですよ。 限りなく暗い舞台に、ミリ幅の黒い光で、桜の枝を描きますと、 今朝の走路を再現できます。 冬場は足音も乾いています。バサバサは雪に濡れた落ち葉を踏 む音。 タッタッタッタッタッタッタッタッ←足音 タタタタタタタタタタタタタタタタ ↑ 足音から生まれるリズム。タはアクセントの位置。 ザッザッザッザッザッザッザッザッ バサバサバサバサバサバサバサバサ ※ 「暗闇にモノ」の絵と「暗闇にヒト」の絵を観たことがありま す。何処にでもある!なんて言われそうですね。持ちまわり展 の、関東地方では最後のほうでしょう、他にも海外の、有名す ぎるほど(←?)有名な作家展を開いていた、自治体の美術館 での話です。 近年、この種(←どの種?)の展覧会は縁遠くなりました。あ の展覧会が立ち寄った商業美術館の一、二は、もうこの世には ないのですから、金銭的余裕があったとしましても(←真っ黒 ではなく真っ赤かも?)小規模な公立美術館が、持ちまわり展 を招き寄せる機会は少ないでしょう。 どちらも、暗い室内に展示する大作がありました。後者はそれ こそ、冬場の私の走路で開催したいほどの品揃え。ひっそりと した佇(たた)ずまいも入室を遠慮するほど、淋しい館内は打っ て付けの展示環境。一度贅沢を知りますと、大規模な美術館で 開催される特別展の、一律の照明が哀れに思えます。 橡三の終わった後で、写真を下さいと頼まれた学生さんが二人 あります。一人は橡三直後に拡大して進呈。もう一人は昨日今 日……。 サイト版が「通用しない」のは我が家も同じです。アルバム作 りは避けられません。そこで、紙に焼いた写真だけ使い、ピ〜 ンと張り詰めた濃色無地のアルバムを作成、そのアルバムを見 て、橡三全体が分かる写真集をお国に持ち帰りたいとのご希望 が届けられ、残りの写真を集めた簡易アルバムを作成、お渡し したのですが、内心、ハッとしました。 暗黒の走路の桜は、径数ミリの一枝まで丹念に描かれています。 精細で、とても丁寧ですね「現実の幻想」画は制作する側も観 る側も。経済だけではなかったです「泡」は。 ※ 前頁の風景は、憧れたり羨むことは出来ますが、住んでいない 私に同じ歩調は採れません。同じか違うか「分からない」と言 ったほうが正確です。観光地と旅行者の関係が気になります。 被写体と表現者の関係も、作品と観照者の関係も気になります。 描写の矛盾は放置してあります。整合性も図りません。このこ とは書きはじめの最初から、機会あるごとに断わっています。 画題の属性は表現者が付加します。どのような絵を描き、どの ような文章を著わすかは表現者が決めることです。厭なら描か なければ……。食べるために!がありますね。 被写体の属性は別です。よいとこ採りするだけで、表現者は被 写体に何も付加できません。傑作写真? 素晴らしい風景画? 自我の振り子は、反対側に振れすぎました。 下描きを進めている「父と子、パリ」は、日陰で影が濃くなり、 輪郭の判らない建物が背景になっています。母はその対応に困 っていましたので、パリ市街の旅の写真と、絵の本に載ってい たジャン・ベローの「パリの街頭」を探し出し、「この際、太 陽を二つ想定しては?」 十九世紀の四十九年(四十八年?)に生まれ、前世紀の三十五 年(三十六年?)に亡くなったジャン・ベローの、左手に建物、 中央に馬車、右手に歩道のあるパリの絵が、作家の没後、半世 紀を経過した八十六年(五月十二日?)の街を描くのに役立つ のですから驚きです。 いえ、パリにではなく、我が国の、家並み(資源)と自然(呼 吸)と情報(無形財産)を改廃する速さにです。今現在の構築 も、青写真はその必要性さえ認識されていないのでは? 一世 紀後も、混沌と消耗が果てしなく続きます。基本、要ると思い ますよ。 街路樹の、根元を保護する丸い輪が両者そっくり! ※ クリスマス、すぐですね。皆さんはお正月とどちらに重きを置 きます? 年賀状は大の苦手です。昔は頂いた年賀状も放置。結婚した時、 それがカミサンにバレてしまいお小言を頂戴、それ以来渋々。 自分でも呆れるほど字がヘタです。ピコワードに飛びついたの も、悪筆から逃れたい一心でした。ワープロをオフコンに見出 した時は驚喜しました。 今は文面も宛名もパソコンです。橡展を宣伝するため、住所録 を整備しましたので、周囲の誰彼構わず「年賀状は代わりに出 してあげるよ。よかったら声をかけてネ」 宛名シールを貼った年賀状は、受け取っても嬉しくはないでし ょう。以前の宛名シールは、自前のソフトで作リましたので、 手早く仕上がる手書きよりも「熱心」な点に救いがあります。 近年の宛名シールは、手応えのなさに拍子が抜けてしまい、嗚 呼! 年賀状なんてなければよいのに! 「お前さんが率先したら」と叱られますね。 在りし日にお願いした印刷会社は親子二代の家族経営。何年も 前に廃業のご挨拶。パソコンが普及したのと、中国で印刷する ほうが安いですから、傍(はた)から見ても時間の問題でした。 悪筆のヒトも、年賀状関連のお仕事ですと、愉快ではないでし ょう、この文章。 益々盛んになるクリスマスの行事でも、悪筆に悩まされていま す。デザインを冷やかすついでに、気に入ったクリスマス・カ ードを贈り物に添えるのですが、一字でも自筆が入りますと、 カードは台無しですから、ある時から書きこみを中止。中止し て喜ばれたと思っています。 贈り物の予算ですか? 千円でよいのです。五百円でも。月並 みですが気持ち次第。贈る側の? 受ける側の? 贈り物が輝 くか翳(かげ)るかは、贈り手と受け手だけでは片付きません。 綺羅にこだわる前に、お金の遣い方、考えて欲しいことがあり ます。前頁の風景も、次頁の林も、大仰な振り付けは迷惑でし ょう。林では、野鳥が群れていました。 街並みや野外が素肌のまま美しくなりますと(社会資本に対す る美意識が磨かれますと)相手がヒトでも野鳥でも、より気持 ちに配慮した予算を組めます。 耽美や、懐旧や空想や夢見る「鏡」は無数にあります。では自 由へ誘(いざな)う画題は? 「窓」の開(あ)かない館内で、子 を育てたくはありません。 ※ 暗闇でも、ヤツデの花に出合うと痺(しび)れてしまいます。昔 から、珊瑚樹の実とヤツデの花には弱かった。 珊瑚樹の生け垣は油汚れの印象。ヤツデは実が落ちますと、便 所裏でも芽吹いてしまい、建物の裏に出入り出来なくなります ので、実生(みしょう)は早目に引き抜きます。 根性が頑固なのはドクダミ。ヤツデは素直。葉は枝(?)離れが よく、切るのも楽です。難は、皺枯れた葉が腐らず、いつまで も地面を覆っている点。 走路にベニバナトチノキの並木があります。歩道が狭いため、 育とうとすると切られてしまい、肩身が狭そう。その一本の根 元からヤツデが育ち、白い花が闇にくっきり。 ヤツデの花を観たのは、緩(ゆる)い坂を駆け下りる一瞬でした。 その一瞬で、名画を観る以上の歓びを得られたのですから、ス ゴ〜ク儲かった気分。 闇で危険なのは、手入れのよい自転車の無灯火です。手入れが 悪い自転車はガタガタギイギイ、音で判ります。 幼い頃は、お正月は晴れ、クリスマスは闇でした。 ※ 辺(あた)り構わず聞こえてしまう旋律って、あるのですね。い え、外からではなく内からです。その種の音は、こびりついた 澱(おり)のように意外と無遠慮。媒体が擦り切れるまで聴いた 音楽は勿論ですが、テレビやお店から入ってしまう流行歌や宣 伝歌もその類(たぐい)です。 夫婦の、親子の、友人の、恋人の(←「スペインの水飲み場」 の若い男女は恋人同士?)、穏やかな会話が私には最高の音楽 です。看板同様、音も、この国は自己主張が過ぎると思います。 内からの色は事情が違っています。音と色とでは、訴求力に違 いがあるのでしょう。車内を一つデザインで染め上げた広告も、 記憶には残りますが、印象の襞(ひだ)に付着しません。想念と 音の相克は激しいですが、色は、心眼を閉じることが出来るの です。 閉じる方法ですか。歩行中は家族のルンルンを心に描き、車中 では居眠りの練習に励み、仕事中は・・・仕事中の雑念は集中 力の不足ですよ。 皆さんには、自然に浮かんでしまう音楽のように、自然に浮か んでしまう絵がありますか。 私には「思い浮かべる絵」と「自然に浮かんでしまう絵」があ るのです。橡三で展示した作品も、公立美術館で観た作品も、 う〜んと唸って浮かんできた絵が、所謂(いわゆる)記憶してい る作品です。その特徴は、時間が経てば経つほど曖昧部分が広 がる点です。強く印象に残った部分だけくっきり浮かび、他は ぼやけてしまう……。 尤(もっと)もらしい描写ですが、実際は違います。ある作品は 同行者の表情も蘇ります。大掛かりな企画展では、次の会場に 移った瞬間、見出した作品が雑踏ともども再現されます。別の 小品は、周囲の様子が消えてしまい、近づいたり遠退いたりし ながら観る様子そっくりに、再現画像も大きくなったり小さく なったり。 私が思い浮かべる画像は、糢糊とした部分も含め、悉く記憶の 再現領域で占められています。真っ暗な部屋を再現するのでな い限り、想起する映写幕に闇部分はなさそうです。 「自然に浮かんでしまう絵」は、闇色の映写幕で記憶の再現領 域が覆われています。その中央が刳(く)り貫かれ、作品が一つ 現われています。さながら闇を額縁にした絵です。 自然に浮かんできた旋律を口ずさむことがありますね。即興曲 の絵画版? もしくは闇に設(しつら)えた窓。 ※ ねえ、臭(にお)わない? そろそろ洗ってやる頃だったの。 お前を同類と思ったのさ。 お客が好きなんですよ。床の蒲団で寝ようとしたら、ベッドの 端から乗り出すのを、友達が押し戻すのだけど、また下りよう とするの。いいよ!と頷(うなず)くと、ヒョイと下りて、アタ シを枕に蒲団にゴロリ。 起きたら頭も臭いました。髪を舐(な)められたのかなあ〜。臭 ったままバイトに出たの。 日程の都合で、昨晩(二十一日の晩)我が家に泊まってもらい、 飲んだり食べたりした折の会話です。母が「実家」に泊まった のは久し振り。出かける前日、目が潤(うる)んでいました。 子はデテ行キナサイ!が私の考えですから、子と顔を合わす機 会は一人減り二人減り、我が家もやがて閑古鳥。 結婚して突然いなくなってしまった家族を、三十数年後に見出 した母の気持ちが伝わってきます。クリスマスは家族だけの機 会とは別に、老いた親御さんや巣立ったお子さんもご一緒に。 我が家と両親の行き来はお盆は無縁、お正月も挨拶に立ち寄る だけでした。賑(にぎ)やかだったのは、父(十二月)と母(七 月)の誕生祝いを兼ねたクリスマスです。それも子らが幼い頃 まで。我が子を家業から遠ざけるため、上の子が中学に入って からはお正月の挨拶も三十分程度。父が倒れた時に疎遠を詫び ましたが、その折、父は「解っていたよ」。我が子と両親の交 流が復活したのは、父の死の二年前からです。 我が家のお祝いごとは、普段の食事より少しだけ贅沢な、材料 を買いに出かけ、調理して飾る演出を楽しんでいます。 |