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折々の文章 |
──────────────────────────── クリスマスの季節 −58− ──────────────────────────── 二十三日は久し振りにお天気に恵まれ、武蔵丘陵森林公園に出 かけました。毎度のことですが、広〜〜〜〜〜〜〜〜い公園は 貸切状態。ごくごく稀に、入園する幼児や児童が伸び伸びと歩 きはじめる。いいですね! 若い親御さんの心持ち。 男の児と一緒の相方(あいかた)は、なぜかお父さんが目につき ます(←過去に訪れた機会を合算してのこと、冬場一回の訪園 で見かける父子は数組程度)。出合った時は、幼児とも小学生 とも挨拶します。無論、お父さんとも。 迂回して林を抜け、乳母車を押すお母さんを待つのが森林公園 での父子(おやこ)の図式。 パリの街路では、屈(かが)んでいるお父さんの向こうが乳母車 でした。持ち上げた右手は、傘の柄(え)に見えますが乳母車の 取っ手を握っています。トレンチコートは通勤服でしょう。乳 母車を停め、鞄を背負った通学途上の我が児と、信号を待つ父 子(おやこ)の図式。古今の傑作よりも美しくありません? 森 林公園の父子(おやこ)とパリの父子(おやこ)は。 ※ え! 父子(おやこ)は何処か?ですって。ほら、池の向こう側 ですよ。樹木の間に、若いお父さんと、その児が見えますでし ょう。この後(あと)は林に分け入り、落ち葉を踏みしめながら 進んだのですが、父子も同じ道を選ぴましたので、すぐに追い つかれてしまいました。辺(あた)りには小雀(コガラ)の鳴き声。 私は親子を撮るのが好きですから、ご覧になる皆さんは飽きる でしょうが、先ずヒトを探してから構図を決めます。「秋から 冬へ」の写真も、「冬の水色」も、楽しそうですね、父子の姿。 ※ 父子の姿、判りましたでしょう。公園だけではありません。森 林公園の十万倍百万倍の緑野に、親子の歓びが溢れているので すよ。えっ、まだ見えない? まだ聞こえませんか? 鏡が窓 を塞いでいるのですね。窓を開けませんと、親子の歩みは見え ないですし、親子の声は聞こえません。では、何を基本に暮ら しているのですか。そう、政(まつりごと)に託し、法を律する 基本です。 ※ 闇を額縁にした絵が浮かぶ理由は、確か原画は(ヒトと風景の 写実画は)観た筈ですが、それが三十年も四十年も昔なので、 額縁も観た状況も忘れてしまい、絵だけが意識下で永らえ、暮 らすほどに現実味を増し、深く刻まれ、やがて地平の向こうを 見通せるまでに拡張、十キロを走り終え、気持ちも考えも清算 された瞬間に、蘇るのでしょう。 ※ 「何処ですか?」の公園でも、出合った親子は数組限り。つま り凍(こご)える公園は野鳥の泡沫(うたかた)の天国ですから、 桜の季節の雪洞(ぼんぼり)同様、覗き穴は要りません。 夏場は照り返しにうだり(←路面に近い幼児はもっと大変)自 転車を避けながら歩いた舗装道路も、今はキセキレイが道案内 です。瞬間、頭上に鮮(あざ)やかな青! カワセミとは今も昔も、探鳥の標的ではなく、互いに遠慮しな い間柄です。キセキレイが去ってからは、梢(こずえ)のカワセ ミと冬空探しの先陣争い。 印象に刻まれた親子が二組。 小学校の上級生でしょう「お兄ちゃん」に、随(したが)ってい たのは幼稚園の年長さんでしょう「女の児」が、凍った水溜り に嵌(は)まってしまい、お母さんに助けられ、頂戴したお小言 を伴奏に、右に左に雀躍(こおど)りしながら川面に接近、好奇 心を満たしていました。帰り際も、彼方(かなた)に女の児の躍 る姿。 駐車場に戻る途中、大きなボールを、抱えてはポイと投げる幼 児に遭遇。受けとる相手は英語を話す異国の父親。男の児の雰 囲気、「父と子、パリ」にそっくり。 ※ 三十一日は畑一面真っ白。道路は乾燥。満天に☆。 元旦はドアを開けてビックリ。ある筈の雪が、結晶のカケラも 見当たりません。走るのは無理と思い込み、危うく寝過すとこ ろでした。 二日は快晴。畑は真っ白。道路も濡れていました。大晦日は霜 ですが、二日は薄雪。 寝泊りする土地に縛られず、冬は四時か四時半に門外へ。真っ 暗。連休は五時から。荘厳? 冬の夜明けに相応(ふさわ)しい 言葉を、探していますと日が暮れます。 我が家では、走路の藪にウグイス。暫く伴走。植え込みや生垣 にもウグイス。下枝(したえだ)から下枝へと渡って行きます。 窓辺のライラックにはシジュウカラ。辺り構わずヒヨドリ。子 が幼かった頃は、秋にモズが鳴きました。新線の橋脚に軌道。 ※ 女の児(こ)の躍(おど)る姿は、昔(高校か大学時代に)見た映 画の場面にそっくりです。この感覚だったのですね。 音楽も聞こえます。別の曲を聴きながら作文しても、姿も音も 浮かびますから、一夜漬けではありません。自在に描けますよ、 状況次第で誰もが何時でも。 ※ スポーツは観るだけのもの? 自分では遣らない種目に、アー ダヨカッタ・コーダワルカッタはヘンですよ』とは誰も言わな くなりました。あるいは私が耳にしなくなりました。一方、美 は観るだけのもの? それはヘンですよ』とは、嘗(かつ)ても 耳にしたことがありません。 スポーツは観るだけでも楽しめます。美は現実化しても歓びに なれます。 美も写し撮るだけにしないで、暮らしに反映させてもよいので は? 今居る部屋には、新年のカレンダーが二つあります。一 つは日本の写真コンテスト入選作品集、一つは日本の花写真集。 いずれも「現実」に美を見出しています。その「現実」のほと んどが自然美。 日本画もそうですね。虚構でも空想でもなく、現実に存在する 自然美を反映させた作品がいかに多いか。墓碑銘? 少ないの は父と子の像です。非現実? ※ 子の幼い頃の、記憶に新鮮な造形も躍る姿と駆ける姿。昔の映 画はフランスやイタリアが舞台でしたから(←刻まれている情 景は一作だけではありません)美意識の平原は意外と狭いです。 映画のほうは大人が演じていましたから、老若の美意識は意外 と近いです。今日の貧しさは現実感と自立心と表現力と推進力。 その基本(竜骨)の認識と育成。子にとって、鏡の像と窓の外 には、無限の隔(へだ)たりがあるのかも。 ※ 基本の有無の暮らしへの影響は、途方もなく大きいのですよ。 今日(こんにち)的な例を一つ。経済は未曾有の局面を迎えてい る、ダカラ雇用を、ダカラ就業形態を、ダカラ賃金制度を……。 ダカラ問題なのではないのかなあ〜。「泡」の頃も、私は息が 詰まるほど苦しかった。自己を磨くにも、職場を変わるのは当 然だと思っています。民間での十年程度のお勤め経験は、議会 でも役所でも学校でも、必要だと思いますよ。ところが 給与規定も退職金制度も年齢の拘束も職場の人間関係も一人一 人の観念も、現実は反対を向いていました。過度の残業や有給 休暇の未消化も常態になっていました。過去形は誤りかも。失 業者が増加した今も(←今ダカラ、ではありません)職場を広 げる具体化は(即刻の具体化は)なされません。率先するのは 余裕のある側からです。配分に限界があるのなら(←ない訳な いです)賃金水準も変わるのが理(ことわり)です。 取得する有給休暇は、鏡に見惚(みと)れるために在るのですか。 それとも広い公園で、父と子を表わすために在るのですか。 できるだけ自由に暮らすほうが美しいです。自由は無責任や奔 放とは違います。いつの時代も法は笊(ざる)。基本……、大切 ですね。 |