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クリスマスの季節 −63−
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しっかり着るので寒くありません。ちゃんと走っているのです
よ。なのに、腕も腰も膨らんだ気配。
十数年前、ノドの炎症が治まらず、大きな病院で診(み)てもら
ったことがあります。
営業のお仕事ですか?
えっ?(ポカーン!)
手術して除かないと・・・
放って置くとどうなります?
声が出なくなります。
もう少し出なくなってからでも大丈夫ですか?
ハイ。
次第に声が出なくなり、潮時かな〜と思った頃、大きな声を出
したら、少し出るようになりました。それからです、食物がノ
ドに引っかかり、ノド風邪の症状が現われ、微熱が二、三週間
続いてから、痛みが治まる状態を年に数度、繰り返すようにな
ったのは。
昨年のはじめ、ひどく食物が引っかかり、痛みと不快感が暫く
抜けず、弱熱が続いたことがあります。普通のヒトでは中熱に
相当したかも知れません。イツモの倍ほど長引いた症状は、お
医者さまのお薬で治まりひと安心。ところが
再び昨日今日、微熱が続いています。ノドも痛い。ヤッパリ風
邪だったのですね〜。タダ、今回は食物がノドに引っかからな
かった。発声時、なんとなく気になっていた感触が、アレ以来
現われない。
自分を健康と思っていたその状態が、丈夫なヒトとは違ってい
るのに気づいたのは中年になってから。食べる量も、友人(高
校のT君)の半分以下でした。
ほとんど毎朝、走っています。十キロ前後をとてもゆっくり。
中学時代は、九段坂で心臓が口から飛び出し(←比喩です)最
下位争いに加わりました。百m走は速かったですよ。橡展の会
場で、訪れた友人(Y君)が、憶えていてくれた記録は、私の
記憶より一秒少なかったですが、そんなに速くはなかった。
走るようになってからの朝食は二度。疲労骨折でしょうか、ア
チコチ傷(いた)みだした最近も、朝はしっかり食べます。肩身
が狭いのはお昼。
近年、平日のお昼はウドンです。腰掛けた周囲は先ず定食。つ
まりウドンと何か。私は単にウドン。食券のお店はよいのです
が、後払いのお店は、威勢よく
ハイ! 五百何十円、ハイ! 六百何十円! と続いた後、ひ
と呼吸置いて、ハイ! 三百二十円!
小三か小四迄に、だったのでしょう、私の娯楽窓が「この種の
情景」に、感受窓が「斯様(かよう)な情景」に、属するように
なったのは。
………… やがてどぶ川が消え、デージーの庭が現われました.
瓦(かわら)に巣くったムクドリを見に、竹垣を伝って屋根に登
れば、見渡す限り平屋の甍(いらか)、市川にはクロマツ林、北
には田畑が広がって、二階建てが少ない時代、東西に細長く、
狭い敷地のわが家でも、薔薇が見事に咲きました.
青空が広がり、雲の影が甍(いらか)を伝う家並み(やなみ)には、
静謐(せいひつ)という言葉が生きていました.夜明けが家族を
力づけ、夕闇が家族を呼び覚ます時、孤独さえ友として、夜空
の声に、聞き入ることができたのです.
子育てのときは夢中でも、子離れしてみますと、子が生き甲斐
であり、子が生きる支えだったことがわかります.しかし子が
生きる縁(よすが)だったのを知ったのは、父の病気がきっか
けです.両親もわが子を信頼しています.両親は、父にとって
最も重要な選択を、我々兄弟に委ねました.
前々から「子の世話にはならないよ」「動けなくなったら施設
に入ります」と話していた二人です.今回も、二人だけの生活
に不安を感じ、いろいろ援助を申し出ましたが、将来の入居の
意志は変わりません.先のことはわかりません.しかしこの気
持ち、わかるような気がします.
我々夫婦も、動けなくなったら、同じように振る舞うであろう
からです.しかし治療の選択を、私はわが子に委ねません.ま
ず本人に伝えて欲しい.選択は自分でします.関係者へは私が
伝えます.しかし私は誰にも伝えません.自分の重荷は、自分
一人で引き受けた方が、私が楽だからです.
この歳になって迷いが出ました.「どちらでもよいのだよ」、
父の声が聞こえてきます.
デージーの庭に薔薇が咲き、薔薇の庭に日本水仙が植えられま
した.薔薇も水仙も、母が植えました.
現在のわが家でも、日本水仙が植わっています.私が植えまし
た.位置も同じ東側、しかし昔は南向きの東でしたが、今は南
東向きの東、つまり北東の一角の、昼には影になる部分.
わが家は南東向きなので、夏は風通しが悪く、冬は陽が入らず、
花つきがよくありません.せっかくの日本水仙も、最初の年だ
け花がつき、以後、肥料を与えても分球しても、青葉が茂るだ
けです.
私が分譲するのであれば、南に向けて区画を切ります.草花は
生涯の友です.南東向きに区切って得られる利益が、自分の生
活に加わるとしたら、生涯そのことを悔やみます.もしこの団
地が南に向いていたら、千の家族が数十年間、いや数百年間、
日本水仙の美を得られます.
昨日は東京都美術館に、テート・ギャラリー展を見に行きまし
たが、祝日も手伝って混みました.遊園地も庭園も、混雑する
日は入場を制限し予約をとります.雑踏の中で鑑賞する美とは
何でしょう.
芸術作品を、主義者や分限者が私物化することは、かたくお断
わりします.しかし、いくら美術が身近になったと言いまして
も、鑑賞する土壌が損なわれてしまえば、せっかくの作品も台
なしです.
美を愛するのであれば、足元の美が失われていく状況に、暗澹
(あんたん)とした気持ちを感じて当然ではありますまいか.テ
ート・ギャラリー展もまた「踏踊」の一つ、わが家の庭と地続
きにあり、心象に穿(うが)たれた扉の一つ、英国絵画の最高傑
作も、はるか昔の、日本水仙の一輪なのです.
日本水仙に続いてグラジオラスを植えました.剣先の蕾が開き、
家族が持ち帰る草花で四季折々、花の絶えない庭でした.もと
の敷地は畑だったので、草花の育ちがとてもよく、肥料や薬剤
はほとんど要らなかったと思います.
脳裏に、草花の一つ一つが刻まれて行きます.交響楽団にも匹
敵する演奏装置が、生活の一こま一こまを譜面に変え、現在を
様々な作品で満たしてくれます.
わが家を出て北に進むと、原っぱ、畑、田んぼ、溜め池、小川、
林、森など、子に必要な自然がひと通り揃っていました.
幼い私が、最初に美を意識したのは、林立する巨大な粟です.
行く手を塞(ふさ)いだ粟畑の、代赭(たいしゃ)色の穂に魅せら
れ、その場を動けなくなりました.粟とは初めての出会いでし
たが、それが河原の葦とは違い、食用に供する穀物であること
を、生まれる前から知っており、この世で偶然再会して、衝撃
を受けたのです.
若い芒(すすき)の赤い穂も、珊瑚樹の赤い実も、最初の一目で
懐かしく、今でも見るたびに痺れていますから、感受性の宝庫
だった幼い頃に、粟の穂に行きあたれば、動けなくなるのも当
然です.
花壇と縁側の間は、子が好きに使えましたので、次にダリヤを
植えました.
今は矮性(わいせい)種で、色数の豊富なダリヤが、鉢植えや花
壇をにぎわしていますが、当時の私が選んだダリヤは、丈の高
い八重咲きでした.ポンポン咲きも好きですが、そのときは、
球根のよし悪しも花の種類も意識しなかったです.
新聞紙の球根の、何を買ったかは、花が開くまでわかりません
でした.自分が植えた草花は、色や形には動かされません.現
われた太い芽も、緑色の最初の蕾(つぼみ)も、言葉を失うほど
嬉しかったですから、赤紫を認めたときは、十分すぎるほど幸
せでした.子にも、花を咲かせることができたのです.
幼い私が描いた絵は美ではありません.遊戯か、色や素材の実
験か意志疎通の企画であって、幼いころの描画は、様式の前奏
にも「踏踊」の雛型にもなれなかったです.
未完成状態は最も好きな雛型(ひながた)です。子は自然との関
わりから美を紡ぎ、両親との関係から美を蓄積します.
トウモロコシも植えました.種の入手? 育て方? はっきり
しません.地面を耕して方形に種をまいた、種ではなく苗を植
えたのかも知れません.記憶はそれだけ.ある日、穂が伸びて
埃(ほこり)のような雄花が咲き、ある日、茎が膨らんで極細の
糸が房をなし、髭(ひげ)が色づけば収穫でした.
わずか数株でしたが、照り映える緑の葉と、金色に輝く豊かな
髭が、影を光に変えました.
穫り入れの緊張と、収穫を母に差し出す喜びは、絵画も音楽も
及びません.
収穫の喜びを知らないと、美が心象に育っていないと、同じト
ウモロコシを見ても、「踏踊」の扉は開きません.今の子の、
何人が収穫の喜びを知っているのでしょう.過去も、現在も、
未来も、我々は美を貶(おとし)める不利益を知りつくしている
と思います.しかし、美を鑑賞する土台については、心象を育
む環境と状況については、保護も演出も充分とは言えません.
最先端の美術に関心があります.それは心象に雛型があっての
話、代替であるなら、先端の追究より、金色の穂を選びます.
義務の教育に農園が付属して、義務の庭が御苑であって、義務
の通学路が自然遊歩道であればよい----と想うことがあります.
老後? 第二の人生? 私にはその言葉がわかりません.もし
老後という人生が存在できるのであれば、それは老後に突然生
まれるのではなく、若い頃から、老後の人生と第一の人生が鎬
(しのぎ)を削っていたのでしょう.第一の人生が朽ちれば、自
然に老後が跋扈(ばっこ)します.
トウモロコシの庭からは、これ以上の収穫は期待できませんが、
戸外にも、子が遊べる自然があり、子の居場所がありました.
学校の裏は田園でした.春は梅の香りで始まり、田んぼの蓮華
(れんげ)草と、菜の花と、ソラマメの香りに引きつがれ、子は
誰の許しも得ないで、春の野原を走っていました.
桜の印象がありません.この地の桜は、入学式の象徴でしたの
で、入学の緊張や進級の不安によって、鑑賞する余裕を欠いた
のでしょう.晴れた桜はけだるく、曇った桜はうっとうしい.
学生の頃、菜の花の描写に苦しんだことがあります.作法は写
実、動機は郷愁、細描にこだわったことが、死語の羅列に終わ
り、夜更けに書いた原稿を、朝には捨てる日々でした.
抽象美術にも「錯誤」のうかがえることがあります.事前に立
体化された構築物がないと、頭脳は意味不明の観念をくり出し
ます.それを表現者は前衛と錯覚し、自足の罠(わな)に陥りま
すが、当時の私はお化けの山に、愕然として筆を捨てました.
描写する必要はなかったのです.扉で守られていたのですから.
表わしたいのであれば、環境を戻せばよいのです.畑に遊ぶ菜
の花讃歌は蛇足にすぎません.菜の花が消えた子の心は、わか
らなくて当然です.
花見のお弁当が楽しいのは、子の心が息づいているからです.
夜明けの桜が美しいのは、澄んだ空気と沈黙があるからです.
自由は喧騒の彼方にあります.静寂がいかに美しいかを、桜の
樹肌が語っています.
シジミをとった小川は、真間川水域の一部でした.真間川の土
手には、桜並木もありましたが、土手の桜にも際立だった印象
は残っていません.真間川に添った洋館の、鬱蒼(うっそう)と
茂ったバショウが、宴を砕いてしまったのです.
色も、文字も、音も、夜明けも、悉(ことごと)く忘れていた頃、
運転席の窓のすきまに、透き通った闇が現われ、様々な想いが
噴き出してきたことがあります.降り立って闇を見ますと、黒
い幹が、震えながら立っていました.
我が子が去ったのを悟ったのでしょう、残りの蕾(つぼみ)を振
るい落として、剥(む)き出しなった桜の樹肌は、人の恥部のよ
うに生々しく、子を慈(いつく)しむ母のようにやさしく、涙が
とめどもなく流れてきました.
二分咲きだった桜が、記録的な暖かさに急かされ、わずか一日
で七分咲き.青い闇を認めた頃は、児童公園を半周するだけで
息切れしました。寒気の去った今は、宙を翔(と)ぶ爽やかさ.
自由は権利でも概念でもなく、素肌の感覚そのものです.清澄
な大気の中で、人は毎朝自由を知ります.早朝の白い並木を、
たった一人で舞っていますと、雲に乗った心地がします.雲海
は雪柳に引きつがれ、染井吉野に赤みがさし、朝の太陽を迎え
ます.
静寂の育苗、沈黙の豊穣、声なき讃歌、律法なき祈り----
文字や音や色を用いても、表現できないが楽曲があります.限
りなく広く、遥かな宇宙を仰ぐと、最も静謐な星から、最も暗
い沈黙から、存在を讃(たた)え、生命を祝福する旋律が聞こえ
てきます.
本八幡時代の自然は、静寂と歩みが一つでした.真夏の真昼、
午餐(ごさん)を終え、ズックを履き、扉を開け、稲穂を飛び越
し、草地を渡り、楢(なら)の樹海にわけ入りますと、湧水の澄
んだ流れと、鏡の湖面がありました.
原始の自然は、限りなく美しかったのでしょう? 火山も荒野
も自然の構築物はことごとく美しい.自然から生まれた人間に
は、なぜか自然に対し、美と称される照応が予定されています.
畏怖(いふ)はあっても、植物で被われた地表に、醜さを見出す
ことは困難でしょう.人も同じですよ.人は慈愛に包まれて生
まれてきます、その照応に比肩できる美しさを、人為で成すこ
とはできません.
価値観や善悪の軌範は外的因子に影響される、そうではあって
も、より深層では、美の衝動に支配される、それほどまでに自
然は厳しかった----
湧水の流れと鏡の湖面は、大気よりも透明で、宝石よりも明る
く輝いていました.なぜ自然がその逆でなかったか、不思議で
なりません.
小学校の裏の沼には魔物が住み、踏みこむ者は容赦なく裁かれ
ましたが、楢の樹海は妖精さえ遠慮して、訪れる子に……
義務の現場が庭園であり、通学路が照葉樹の雑木林であれば、
はたして卒業生は、校庭をコンクリートで塗りつぶし、雑木を
引き抜き、通学路を車道に変えることを喜ぶでしょうか.人は
百済観音にペンキを塗り、向日葵(ひまわり)を看板に変えるこ
とを望むでしょうか.
芸術と呼ぶ習慣がない、それだけのことではありますまいか.
感動のかけらもない作品も、ひとたび芸術と呼ばれますと、人
は頭から護(まも)るように照応 ………
手を加えながら引用した文章は、ML内で連載した「随想 繊
維問屋にて」の九十八年四月迄の部分から抜粋しました。桜の
描写は、さらに十五年ほど溯(さかのぼ)った「随想 春の夜の、
青い闇」…最初は非売品…で記した情景です。「基本」は私の
場合、小四の頃までに、形成されたのを知っています。
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