折々の文章


────────────────────────────
クリスマスの季節 −66−
────────────────────────────

電話局側が切り替えれぱ足りました。ですが……

有線も無線も接続部品は、秋葉原に沢山あります。往時に較べ
ますと、チョットホント?と言いたくなる安さですから、接続
のモトは今までの部屋でよかったのです。それを敢(あ)えて、
別の部屋を指定して工事をお願いしたのは、奇蹟を期待したか
らです。

風が抜け、探し物が現われました。

空き地や空き事務所が、ペンシル・マンションに替わって行く
通りに、今朝、モニターとプリンタの廃棄物。モニターは、画
面が道路に接して擦(こす)れていました。我が家のモニターと
較べますと新品同然。

パソコンの各種ケーブルも余ってきます。秋葉原の片隅では、
中古部品が地ベタの箱で売られています。ただ、お客はほとん
ど見かけません。一方、中国の事務所界隈では、中古はケーブ
ルも一瞬で無くなります。常時接続の下(もと)ですと、廃品を
組み立てれば出費は知れています。中国の成長する理由が解る
ようです。


 ※


先週末、自然公園を二歳児と父親が歩いていました。雪が舞う
空模様。他に人影はありません。綿入りのつなぎ服。白い縫い
ぐるみを着たお星さま。絵本の世界。

我々の「こんにちは」に、フードをとった頬(ほお)が林檎。父
親が挨拶を促しましたが、そのまま道を逸(そ)れ、芝地から振
り返って再び笑顔。二歳は父親の言葉。女の子は私の推測。


 ※


通勤電車から眺めますと、二十年前に記述した茫洋(亡羊?)
の感が一層深まっています。足許の緑地は、もう潰す余地さえ
ありません。皆さんも、ご自分の足で確かめて欲しいです、お
住まいを中心に、広域をご覧になって。

点線の里山を保護する? 海外から招いたお客さまに、残りの
景観美を眺めていただく? そうなるのかなあ〜。

自然風味の総花公園は、どれも似通って見えますでしょう。開
花や催事外では、影さえ見えないのが現実では。無理ないです
よ、児童や生徒が、一人で出かけるのは無理ですから。

足許が「豊か」になりますと、奥の自然も素晴らしい観光資源
になります。その逆で潤(うるお)うヒトなど(子など、従って
親など)いるのだろうか。子育ては、自分が済めば、済んだこ
とになるのですか。

机上で喧喧(けんけん)ゴウゴウの時代は(ゴヴゴウの漢字は、
PCを離れると書けません)過ぎたと思います。媒体は共有さ
れています。廃品の再利用を含めますと、PCは誰もが当たり
前の今、一人一人は先ず「自分を表わす」ことができる筈。そ
の作品に、未来の子育てが窺(うかが)われませんと、海外のお
客さまを意識した、和風の名所が、整備される以上の期待は抱
けません。


 ※

  
小学生低学年の頃、近所のドブ川で摘んだセリを持ち帰り、茹
(ゆ)でて食べたことがあります。言葉少なく、気配で喜びを察
しました。セリに似た毒のある植物との違いを、判っていたの
ですから我ながら立派。夕飯のオカズ。調理は母。

千葉県や茨城県では、今もセリの残っている水辺で、クレソン
を見かけます。


 ※


私は空を飛べるのですよ。学生時代の夢、ヘリコの操縦は破れ
ましたが、本当の夢で会得した(蒲団の乾燥を維持するため、
雨の日は慎重に避けていた)滑空技術が、まさか、夢抜きで身
につくとは、夢にも思いませんでした。今いる部屋も、空を眺
めるだけで、高度数百メートルに舞い上がり、地表を見渡すこ
とができるのです。公園に出かけた折も同様です。

造成された自然風味の公園が、自然ではなく、不自然に見えて
しまうのは、緑豊かな運動施設が、郷土の自然と調和しないで、
荒れた川面や、抉(えぐ)られた地肌に見えてしまうのと同じで
しょう。

昔からの素朴な農家が、昔からの野山に調和する一方で、美学
を欠いた市街にではなく、森林の跡地や田園の一角に、建築家
が設計した催事記念公園や、芸術家が表現した作品展示公園を
見出しますと辛(つら)くなります。巨匠の作品(←減り続ける
自然美)を引き摺(ず)り下ろし、初心者の習作(←ヒトの構築
物)で地表を飾る。

「春の小川」は、住宅街に接した水辺で、散歩者の切れ目を狙
って写しました。やはり子の姿はなかったです。

有名な画家の絵と判った段階で、額縁の代金にも満たなかった
作品が、一戸建てを買えるまでに跳ね上がったと報じられてい
ます。滑空の美意識とは違った何かが、働いてしまったのです
ね。鑑定が覆(くつがえ)ったとしましても、一連の出来事は末
代まで記録され、観照の自由は、二度と蘇(よみがえ)りません。

「春の小川」は出かける前から、何処で何を撮るか決めていま
した。写し手は粗末でも、高度一万メートルの美意識は陽光を
反射して、キラキラ耀(かがや)いていたのです。なのに、目の
前にカワセミが居なかったからでしょう、昔の自然をご存知の
高年者も、写真機の前方を覗(のぞ)いて曰く

何かヨイもの、見つかりましたか?


 ※


今回は、写真を載せる前に題名をご紹介しました。春の小川か
ら、皆さんはどのような写真を連想されます? 麗(うら)らか
な陽射しに誘われ、若草が萌(も)える小川で和(なご)む親子。
老いた私は、その種の気持ちに偏(かたよ)りがち。

載せた画像から判別するのは難しいですが、以前、リコリスの
群生を撮った場所は、広い駐車場の自然公園です(←この連載
の何処かで、最初の子が絆創膏を差し出している写真の公園で
す)。その公園を、近年、散歩して驚きました。マムシの方が、
ヒトの数より多かった! 入園から帰るまでを反芻(はんすう)
しますと、大凡(おおよそ)出合った人数を割り出せます。そこ
に一人、あそこに一人と数えた結果、やはり、看板の数とどっ
ちつかず。ところが

幼い頃、水辺を遊びまわった時も、ヘビに出合った記憶は少な
いです。ヤマカガシは馴染み。シマヘビは稀。アオダイショウ
は鄙(ひな)びた住宅街で。マムシは数年前、朝のランニング時、
荒地の車道で、とぐろを巻いたままぺしゃんこ。

高台の林でも、乾いた草地でも、ヘビがのたくった文字で「マ
ムシに注意」が目につきました。

ヘビが好きな親子は多くはないです。湿地も水辺も、注意看板
を見出す前に、気配で、マムシの生活圏が判ると思っています。
注意看板の立地は、ほとんど、私の勘とは違っていました。

自然が傷むので入らないで下さい、という趣旨でしょうか。注
意看板を文字通りに解釈しますと、ヘビが冬眠する冬場は、立
ち入ってよいことになります。一方、ヘビは禁止の掟など守り
ませんから、ヒトの遊戯圏へ出入り自由。つまり春から秋まで
は、マムシに怯(おび)えながら遊ぶ親子・・・

小川の春は、子の視線が、セリやザリガニの漁師になります。
水辺の草は奥の底まで、掻(か)き出し、手足を泥にしてセリを
摘みます。マムシの恐れも他者に頼らず、自分の判断と自分の
危険負担で避けていました。


 ※


実際に野原や河川を訪れ、春の小川が、関東地方に何ヶ所ある
か数えて下さい。驚くほど(あるいは驚かないほど)人手が加
わっています。小川には空缶、流れには菓子袋、水鳥の岸にパ
ン屑、水辺に疑似餌、河川敷に段ボール(←大人でもギョッと
します)はまだヨイほう。我が物顔の看板と、廃品と廃車と廃
土の放置が今の美意識。

春の小川で、セリを摘む子が、増えるとよいですね。


 ※


卒業制作展の季節です。ある会場では、展示日も含めますと、
三月下旬まで一日も空きがなく、七日〜十日単位で卒展が開か
れます。気持ちは卒展に向きます。

関東地方の(←だけなのかなあ〜?)公園に冷めています。母
のリハビリがなければ、疾(と)うに行く先は変わっていました。
冷めたのは公園一般、ではありませんよ。我々の社会の公園に、
です。お金と暇(ひま)があれば、すぐにでも出かけたい公園が
いくつもあります。

前にも書きましたが、新卒から結婚までは、地図を塗りつぶし
ながら、奥多摩や奥武蔵を歩いていました。主に一人で。勤め
先の同僚とも。当時は足りないものがあったのです。伴侶と子
です。

結婚後は日帰り旅行が、子が出来てからは児童公園が、必需品
になりました。矢切から越してきた我が家は東隣りに、敷地数
戸分の畑を隔て、樹木に囲まれた児童公園があります。休日は
幼い子らを遊ばせながら、山頂(標高二m)の石のベンチに寝
転んで、白い雲を眺めていました。

児童公園も自然公園も大切です。しかし今の週末、繰り返し出
かけた公園は、どう贔屓(ひいき)目に見ても、大切に見合う利
用の様子も、大切に応える雰囲気も見当りません。我々の社会
の親子は、「日々の歓び」を、何に見出しているのです?


 ※

  
以前、有償ソフトを購入してインターネット電話を開始、九十
七年の夏、我が家に泊まった子が、フランスの某と意思疎通で
きたと書きましたが、当時、インターネット電話と書いた通信
は、今のインターネット電話とは別物でした。それでも、国際
電話をタダ同然で利用したい気持ちに、曲がりなりにも応えて
くれました。

現在(二月十四日)パソコンを利用した通信で有り難いのは、
プロバイダの有料サービスを利用したテレビ電話です。テレビ
の画像にこだわりません。主に国内と海外の定点通信。月々千
円弱で、国際間も無制限です。

パソコンから発信するインターネット電話も役立ちます。海外
の一般電話や海外の携帯電話に、例えば一分五円(中国は一分
十円)で掛けられます。

テレビ電話とインターネット電話に加え、IP電話を導入する意
味が私には曖昧(あいまい)です。近年はIP電話よりも、携帯電
話の大幅値下げを期待しています。

固定電話は国内電話も国際電話も、料金に怯(おび)える時代は
去ったのでしょう。なのに、私の頭はゴチャゴチャです。いっ
そ、月数千円のカード一枚で、いつでもどこでも、インターネ
ットも各種電話も使い放題になりますと、頭痛の種も減るので
すが。

新たな悩みがあります。中国で貿易に携わる某さん曰く

アメリカとの商談電話が、長くて仕事になりません。高い国際
電話に戻りたい・・・


 ※


 これ、落ちていたよ。

 ………………………

子の一人が高三の夏休み、都内の美術研究所(予備校)で夏季
講習を受講、床に落ちていた鉛筆を拾った時の素描です。年長
の相手は無言、表情は「余計なこと、しないでよ」

緑地を撮り始めてから、公園に向かう心に寒〜い穴。撮るを観
るに、公園を絵画に、差し換えても同じかも。

絵だけを、写真だけを、映画だけを楽しむことは出来そうにあ
りません。月曜(十七日)に載せる写真(栃木県南)も、撮っ
た場所から一歩出ますと、行けども行けども白い埃(ほこり)。
列をなすダンプカーは、住宅街の路地をも走行、塀に押しつけ
られる児童も、門から飛び出す幼児も、運転席からは死角の筈。

渋滞知らずの街道脇には、拡幅用でしょう、延々と土砂が積ま
れ、いつもはガラガラの、県境平坦な道も百メートルにわたっ
て舗装を剥(は)がされ。

昨年、学校が夏休みに入った初日の佐倉で、虫かごを下げた児
童のお父さんに尋ねられました。

 クヌギの木は、どれですか?

佐倉にはオハグロが飛び交う緑地があります。後背に水場。草
地の奥の、林に囲まれた暗い場所です。地域でも知っているヒ
トは、何人いるのかしら?

我が家近くでも晩夏の早朝(←暗闇)、走っていますと、飛ん
でいるカブトムシやカミキリムシが顔を掠(かす)めます。採ろ
うと思えば素手で。

中国東北地方の、僻村へ通っていた勤労者は、寝起きしている
某市開発区の自宅でADSL。パソコンは、メモリ256MB
を装備した新品一式を、日本円換算4万円台で地元調達。AD
SLも、パソコンのなんやかやも、各々業者が手筈。

一方、数ヶ所で寝起きしている私の自宅用パソコンは(←いず
れも新古品を購入)増設したメモリ(←以前は高かった)16
MBが一台、32、48MBが三台など。一台の、住居周辺の
電気屋さんでは、相性の悪いLANボードしか売ってません。
秋葉原を見ていなかったら、パソコンもADSLも何さ!だっ
たかも。

産業の空洞化は言葉まで空洞化しました。失業は新卒に及び、
中高年は、転職市場未整備のまま終身雇用の梯子(はしご)を外
され、息の詰まる住環境と、「ありがとう」も「失礼します」
も言えない烏合(うごう)と、新興や途上の経済に呑み込まれる
技術水準と、静穏への自立的主体的努力の見えない社会で、映
(は)えるのは絵画への投機と道路の掘り起こしだけ、なんてこ
とナイと言えないところが寒いです。暮らしの美、大切にした
いです。


 ※


写真から、撮影者を読み取るのは不可能と思っていました。月
毎に、撮影者が違うカレンダーではそうでした。写真が絵なら
どうでしょう?

作品を一点見れば、表現者を読み取ってしまう鑑賞者が居る居
ないはどちらでもよいです。興味ありません。

紙面も画面も、今は完全に文学離れ。在りし日、書物に没頭し
た歳月が嘘のようです。但し、文学を遠ざける若者は、その欲
のなさに、感心するより呆(あき)れます。

新聞紙からも離れました。車内で盗み見るのが精一杯です。購
読紙は家計を節約するため、断わって欲しい気持ち。

画面の新聞は頻繁に見ます。見出しを、です。本文も読むには
読みますが、新聞紙で読む時と調子が違い、本文は見出しの補
足程度にしか感じられません。新聞紙では大仰な見出しに絶句、
本文を読まないと平常心に戻れませんが、画面では、見出しに
驚く度合が少ないからでしょう。

時事も評論も紙面の活字は、画面で見るより尤(もっと)もらし
く思われます。私自身の文章も、書物のほうが権威ある風情。
額入りの絵と額なしの絵の違いにも、多少、その傾向があるの
かも?

写真を連ねることで、撮影者(←私)の関心や発想が判ってし
まいました。自分のことですから当然です。しかし私には意外
でした。被写体と向き合う自分は、仕事や暮らしを忘れ自由に
なれる、花に癒(い)やされ樹木に救われ、イヤなことを忘れら
れる……、いえ、ケッコウ、芸術作品を撮りたいなんて思って
いました。今は違います。

私の場合、時事も文学も写真も絵画も、紙の時代は互いに独立
していたと思います、読み方も鑑賞態度も、表現姿勢も被写体
の選び方も。それが今は同時進行、対象に向かう地平(次元)
を切り換えるのが困難です。

刺激に麻痺したのでしょう、あるいは歳でしょうか、仮想現実
が感受性を素通りする一方で、足許では「すべてを一つ」で観
てしまいます。綺麗な絵も綺麗だけでは足りず、素晴らしい映
画も、感動するだけでは歓びになれません。




次頁へ
前頁へ
クリスマスの季節1へ
折々の文章、始まりへ
折々の文章、下書きへ