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随想 繊維問屋にて (5-1)



2005-03-07版です。
旧版に手を入れました。
※印はサイトに載せた際の注記です。


    【はじめに】

  この随想はインターネット上の「散歩者の夢想メーリングリスト」で、1997年12月07日
〜98年04月29日に連載したものをまとめたものです。メーリングリストの名前は、ジャン
・ジャック・ルソー著「孤独な散歩者の夢想」(今野一雄訳、岩波文庫)に由来します。
メーリングリストのホームページは次の場所にあります。

  URL: http://www02.so-net.ne.jp/~reverie/  

  メーリングリストとは、参加者が発信した電子メールが、入会者全員に配信されるシス
テムです。歓談や連絡などに用います。

  内容は、メーリングリスト管理人の子ども時代の想い出ですが、おおよそ35〜50年も昔
ですので、事実ではなく創作になっていると思います。また、連載はその日の気分で、気
ままに投稿しましたので、同じ出来事でも、矛盾した描写や反対の感想を述べている部分
もあります。

  お茶一つ、おもてなしできませんでしたが、忍耐づよくお読みいただいたメーリングリ
ストの皆さまに、心からお礼を申し上げます。

                                                                島田一郎@散歩


          一

  昭和33年から、私は神田の繊維問屋に住みはじめました。

  今は日本橋横山町の雑踏に、繁栄のなごりがみられるだけになりましたが、神田駅や秋
葉原駅の東側から、浅草橋、東日本橋、堀留など広範な一帯は往時、日本屈指の繊維問屋
街であり、大阪や岐阜などとともに、我が国の衣料の、生産と流通を担っており、繁栄の
絶頂にあったと思います。

  店は広い間口の、入ってすぐはセメントの土間、奥が座敷で、商いは正坐して「いらっ
しゃいませ」とやったものです。

「土地一升、金一升」の問屋街では、ネコの額ほども隙間がなく、遊び場ゼロは今も昔も
同じです。私もすみの畳で門前の小僧よろしく、番頭さんの口ぶりをまね、「コカッチャ
ン、なにしたの、ゲンサン、お客さんですよ」などと、年端(としは)もゆかぬ見習いに
も、白髪(しらが)まじりの古参にも声をかけ、手伝っていたつもりが、実は遊んでおり
ました。 

          二

  ひと口に衣料品と言いましても、布帛(ふはく)と莫大小(メリヤス)、つまり織り物
と編み物では問屋がわかれ、製造卸と仕入卸の別もありましたが、私の住んでいた問屋は
男物の布帛のいわゆる重衣料で、商品の多くが自家製の現金問屋、西からの仕入に頼って
いた問屋とは違い、ものづくりの忙しさもありました。

  当地の重衣料は、生地を仕入れ、型紙を起こし、郊外や地方の工場に縫製を委託するほ
か、裁断を終えた生地を職方に持ちまわり縫製を委託加工、穴かがりとプレスは専業の下
請けに頼る「自家生産」でした。

  埼玉に縫製工場と女子寮を建設、主に東北や上越の中卒女子を集め、自前の設備でも縫
製したのが、両親の繊維問屋でした。

          三

  第一と第三が、当時の問屋街のお休みでした。土曜ではなく日曜の話です。敷地二十九
坪に、目一杯建てた問屋の、一階は店と商品棚、二階は住まいと食堂と商品倉庫とお手伝
いの部屋、三階相当の屋根裏は商品倉庫。裏通りをへだてた別棟にも、裁断場と倉庫があ
りました。

  問屋一軒に、家族と店員の二十人あまりが寝泊りしました。従業員は、一階の座敷では
横一列に、棚と棚の間では一人で寝ました。

  便所は、一階の階段前に一ヶ所だけで、私も弱りましたが、娘時代から暮らしていた母
は、もっと困ったと思います。

          四、五は省略、六

  中学時代から、私は一つの仕事を担っていました。相克と葛藤のもつれをほどく調整役
です。報酬はお酒。お酒は、もう少し大きくなってからと思っていましたが、盆やお正月、
ヤスサンと腰を据えて飲んでいたという証言もあり、はっきりしたことはわかりません。

  楽しいお酒? 少なくともヤスサンのお酒は、そうではなかったと思います。私の方は、
このころから痛みをともなう持病をわずらい、予防のために、水分を大量にとる必要があ
ったのです。私の飲酒を、とがめる人はいませんでした。

          七

  ヤスサンとは、歳が七、八歳ほど離れていました。私が中学生だったからでしょう、ヤ
スサンは私の前では素顔でした。

  ヤスサンは、ほかの従業員とは合わなかった? お互いに避けた? 父の方針? のす
べてだったと思います。新宿や成増、三軒茶屋や上野の、大口のお得意さま相手に、受注
と配達と集金に走り、ヤスサンは私とも、顔を合わす機会は少なかったです。

  現金売りと言いましても、大口のお客さまには掛け売りが自然でした。掛け売りも、手
形や小切手は受けつけず、月末には現金による完済が条件でした。昭和30年当時の師走の
売り上げは、一日に百万円をこえる日が大晦日まで続き、伝票を書くだけでも目のまわる
忙しさで、毎日、銀行員が売上金を集めに来店。私も必死に、伝票を書いたのを覚えてい
ます。

          八

  二階は二十九坪の広さ。そこに主人夫婦の居間兼寝室と、兄弟一緒の子ども部屋があり、
子ども部屋には三階の倉庫を支える鉄柱が数本。繁忙期には、樹脂貼りの冷たい床に、商
品が山積みになりました。

  二階には商談用応接間、押入れ、台所、従業員食堂、お手伝いの部屋もあり、部屋と部
屋とは障子かガラス戸で仕切られ、隅には商品倉庫も。

  従業員食堂は、殺風景な机が一つあるだけの六畳。板の間です。頭上のぐるりには木製
の物入れ。それが従業員の私物置き場。つまり従業員には、私物さえ、各自専用の置き場
がなく、革靴の泥を食堂の床にそぎ落とす高卒がいたとしましても、不思議はなかったと
思います。しかし年に一、二度、騒ぎの生じた女子寮とは違い、店では、私物の紛失は一
度もなかったと記憶しています。それほどまでに、私的な空間が少なかった。

          九

  ひどい所によくもと思うかも知れません。しかし両親も私も、自然なことと思っていま
した。

  第一第三日曜が休みになる前は、休日はお盆の二日と正月の三日だけでした。招待旅行
と社員旅行を除く三百と数十日は働き通し。従業員は三食とも仕出し屋のお弁当でした。
味噌汁を暖める大鍋と、番茶をわかす巨大なヤカンが、数少ない暮らしの匂い。

          一〇

  仕事は生き甲斐になりますが、仕事とは別の楽しみも必要です。それはテレビだったと
思います。昭和28年が、母が記憶しているテレビ放送の開始年。神田に移り住んだときは
(昭和33年は誤りで昭和32年の春)テレビは食堂にありました。私も従業員も、同じテレ
ビを見たのです。熱気にもかかわらず、板の間を吹き抜けるすきま風が、妙に冷たかった
と記憶しています。

  食堂のテレビを両親は見ませんでした。一つ屋根の下に住んでいたのに、両親と私は、
夕食も別々があたりまえでした。兄は、運動部の合宿が中心でした。

  夕食は母が用意した取り合わせです。煮魚一皿、野菜のおひたし、つけ物とご飯を、食
の細かった私は喜びました。刺身や肉は、無理にのみこんで食欲をなくし、従業員のお弁
当を、うらやましく思っていました。

  母の料理は、今でも並みではありません。その母が持たせてくれたお弁当に、閉口させ
られた記憶があります。中一か中二のお昼、お弁当を取り出して驚きました。白いごはん
には、おかずがなく缶詰一個。中身は水煮の小海老。食材だったのでしょう、時間がなく、
最も豪華な缶詰を持たせてくれたのです。缶を開ける勇気がわかず、家へ帰って、台所に
戻しておきました。

          一一

  この子は死ぬために生まれてきた」という言葉が、私にはこびりついていました。よく
もここまで育ってくれたいう、両親の感慨だったのですが、私が中学生になると、この言
葉は別の意味をおびてきました。

  深刻な葛藤には、距離を置くか、力を添えるか、二つに一つだったと思います。一人は
中学から部活に入り、合宿生活を中心にすえ、一人は中学から店に関わり、調停役として
首まで浸かってました。加えて痛みをともなう持病を患(わずら)い、痛み再発の恐怖と
葛藤のもつれに、次第に神経をすり減らしていった。

  その頃から、今年も何ヵ月生きられた、十七歳まで持つとしましても、あと何年は生き
られる。十七歳になったときは、今まで何年生きられた、二十六歳まで持つとしましても、
あと九年は生きられる。

  痛みは三十歳ごろを境に、再発しなくなったのですが、「何歳まで生きられる」が「俺
は十分に生きた」に変わるには、四十歳をこして、さらに数年を要しました。

  お酒をやめたのもその頃です。お酒も十分すぎるほど飲みました。

          一二

  ヤスサンはお金に堅く、目端がきき、売れ筋をおさえ、新宿のNさんはじめ、多くのお
得意さまに好かれました。しかし黄ばんだ歯を見せ、もみ手するお愛想とは裏腹に、素顔
で笑うと顔がゆがんでしまい、当時の私は真顔で、ヤスサンは笑いを知らないと思ってい
ました。そのヤスサンを、初めて意識したのは、裁断場の二階です。

  店は都電通りに面し、はすむかいには幹線道路二本の、三本の道路が交差する交通の要
所で、都電通りには戦後の一時期、トロリーバスが走っていたのを覚えています。(※←
トロリーバスの記憶は、別の場所かも知れません?)

  交差点は当時、渋滞情報の最初に「○交差点は……」と放送され、年に数度、ドーンと
いう衝撃音の響いた場所です。交差点の中央に、別系統の都電の停留所があり、そのコン
クリート製防護壁に、衝突する車があったのです。

  店の裏は二間幅の路地。路地をよこ切り、幅三尺の狭間の数歩先に十坪の敷地。木造モ
ルタルです。一階は商品倉庫。二階は作業台。屋根裏も商品倉庫。屋根は物干し。裁断場
と呼んでいました。

  裁断場は従業員の逃げ場です。叱られたとき、もの思いに沈むとき、また油を売ったり
煙草を吸うのに使われていました。

          一三

  裁断場の二階では、昭和26年に入社した従業員が黙々と仕事一筋。彼がいましたので、
防犯防火の心配はなかったのですが、寡黙の資質は同僚にも働き、裁断場で時間をつぶす
従業員の側も、彼には関心がなかったようです。

  注意すべきは板壁にめぐらされた角材でした。裁断場の二階には、床から一メートル六
十センチの高さに頑丈な角材があり、十センチ間隔で穴があけられ、要所要所に畳針がさ
し込まれていたのですが、切っ先は歩く側に向き、延反(えんたん)(反物を平らに延ば
すこと)後に針を抜き忘れたり、生地を吊るしたままですと、顔に刺さる危険があります。

  萎(な)えた側の足を引きずり、一歩踏み出すごとに、体が揺れてしまうヤスサンには、
裁断場の二階は不快だったと思います。その二階の隅で、針を避け、床に坐って本を読む
のが私にも息ぬきでしたが、三階に上がるヤスサンには私の姿がわからず、降りる段にな
って私に気づき、ヤスサンは一瞬、ギョッとしたと思います。

          一四

「あんたか」 端正ですが浅黒く、表情の乏しい顔と、しばらく無言で向き合いましたが、
再び足を引きずり下りて行った、そのときのヤスサンは今から思いますと、父母も知らな
いあることを、知っていたのだと思います。

  裸一貫から出発したのであれば、機会に恵まれていた時代のこと、成功したのかも知れ
ませんが、歌舞音曲に明け暮れた学生が、現金と、若旦那の権威だけで問屋を起こそうと
しましても、簡単には行きますまい。

  両親の店は、自ら企画し、自ら生産する製造卸、相手は先代の長男と母親とその一族、
だけではなかったです骨肉の争いをあおったのは。当時、J町でも最有力の仕入問屋。

  仕入問屋が、援助を口実に、画策をめぐらしたことは、「のれん」継承者の店がその者
からの借家であり、その本店の地続きであったことからも明らかです。しかし、両親の店
をつぶす思惑は外れました。

  父は財産を譲ったために資金繰りに詰まり、仕入先を招き、仕入の解約を頼み、ほぼ全
社から了解を得られ、破綻だけは免れました。争いの相手も、ソコで引いてくれればよか
ったのですが、そのままでは終わりませんでした。「のれん」継承者は仕入問屋とはかっ
て、次の一手を用意しました。その一手を、ヤスサンは知っていたのだと思います。

          一五

  私が繊維問屋に移る前は、父も母も、ある意味では母は父以上に、それゆえ父は母以上
に、つらい思いに耐えていたのだと思います。

  一方、事情がわからない小学生も、霧中を右往左往しながら、一途に二人の平安を祈っ
ていました。問屋の二階に移ってからは、母は意地でも譲れない戦争に、満身創痍で立ち
向かい、父は我が子のために、背水の陣立てで戦いました。そこには妥協の許されない厳
しさのほかに、倒れるときはなにもかもという、開き直りもあったのだと思います。

  疑心暗鬼に苦しむよりも、声を殺して忍ぶよりも、目の前の現実を受け入れ、修羅場で
のたうつほうが、楽なこともあるのです。

  従業員は一日の仕事を終えますと、銭湯で汗を流し、仕出し弁当の夕食をすませ、紙の
板を持ちだしヘボ将棋に興じ、夜具をマットにプロレスごっこ、歌手をまね、またキャッ
チボールと、勝手気ままに楽しんでいました。

  娯楽が佳境に入る頃、路地の入口でチャルメラが鳴りラーメン屋のご入来。父が呼びと
め、呼びとめなくても屋台はとまり、つかの間の夜食の宴に、私も家族用のドンブリを手
にして、階段をかけおりました。

          一六

  歌手の歌まねとプロレスごっこはテレビの影響。ヘボ将棋と問屋対抗の草野球は前々か
ら。屋台を囲んでのラーメンパーティは、家族が移り住んだ春に、父が従業員にふるまっ
てから半年ほど続きました。

  いかに夜食が楽しみでも、ふところの寂しい夜は、誰もラーメンは食べなかったのです
から、人通りの絶えた路地に、律義にも毎夜、屋台が現われた狙いは店の蛇口。屋台の主
人は、食べ終わったドンブリをバケツに汲みおいた水で洗っていました。それを見たのが、
我が家のドンブリを持ち出したきっかけです。家のドンブリは小さく、麺があふれて汁が
足りない。そこで、量を必要としない私は、家族から麺をわけてもらい汁だけを注文、夕
食とラーメンタイムが重なるときは、おかずに、ラーメンの汁も加えてもらいました。

          一七

  ヤスサンの汁をすすっている姿がうかびません。店では基本給を高く、賞与は低く、退
職金は規程を飾る必要上、ほんのわずかという方針でしたが、「この店で働くと、遣わな
ければお金がたまる」がヤスサンの感想であり、ヤスサンは蓄財を優先させ、ラーメンに
は近づきませんでした。

  私は、従業員の生活に関心が向くほど大人ではありませんでした。それでも、直接、目
にした従業員の動きは、今でも記憶に残っています。しかしヤスサンの自由時間がわかり
ません。ラーメンパーティで和気藹々(わきあいあい)の時間も、ヤスサンは単身で商談
に出かけ、私生活では、従業員の輪を敬遠したのだと思います。

  私生活を皆に見せないヤスサンも、慶応義塾大学の通信教育だけは、私から隠そうとは
しませんでした。

  住み込みと言いましても、二十四時間、就労するのではありません。普段の月の、店売
りは夕刻には終わり、地方発送の荷造りも、自動車便の集荷時刻までに済ませ、ものづく
りに加わらない従業員は、やる気になれば、大学の通信教育を受講することも可能でした。
一方、ものをつくる側(母)は連日、深夜まで働くことも。

  ヤスサンは、難しい文章の並んでいる教材に、黙々と答を記していました。 

          一八

  素人お断わりの現金問屋の、当時の顧客は、ブローカーや二次卸は例外で、都内、関東、
上越、東北、北海道などの小売店です。その後、問屋が軒並み倒産劇を演じた流通革命は、
まだ水面下の状態で、大風呂敷きを背おった小売店主が、なじみの問屋を訪れては、仕入
れに腕をふるっていました。

  有力な小売店は、複数の問屋から仕入れた商品を、贔屓(ひいき)の一社に届けさせ、
まとめて出荷させるのが常でしたが、自動車便は、仕向け地ごとに集荷時刻が決まってい
ましたので、午後から夕方にかけては梱包と配達に追われ、どこの問屋もテンテコ舞いで
した。

  公道も配送所と化し、梱(こ)った荷物の持ち主さえ判別できず、泥棒が目のまえから
荷物を抜いても、気づかなかったほどの活況でした。当時の泡のなかには、労働と、品物
と、希望が詰まっていたのです。

          一九

  店裏の、荷物を梱って出荷する路地が通学路なので、中学から帰りますと、いやでも滞
貨が目につきます。

  当時、配送担当の従業員は、一人で猪突する働き者と相場が決まっており、コマネズミ
さながら梱り続けましてもピーク時は追いつきません。父か番頭さんに、応援の従業員を
頼み、梱り屋は采配に徹すれば、混乱は避けられたのですが、幸いこの混乱が、遊び場を
知らない中学生には、よい運動になりました。

  同業者へ届ける荷物は、筋入りハトロンで軽く包み、コヨリ状の紙ひもでしばります。
紙ひもは二つに折って逆ループをつくり、両端を強く引けば簡単に切れます。

  自動車便で出荷する荷物は、厚紙でしっかり梱り、ささくれ立った麻ひもで締め上げて
いました。段ボールを使いはじめた時期の記憶はあいまいです。

  麻ひもは、左手に二回ほど巻きつけ、巻いた紐の先と根元を、手の平の中でU字状に引
っかけ、強く握り、麻ひもの元側を右手で力まかせに引っぱると切れました。甘く巻いた
り、ゆるく握りますと、手の甲に赤い筋が走ります。

  荷造りの担当者も私も、梱っているときは夢中でした。地方発送の荷物は、裏口の右手
へ置いて、自動車便に委ねました。配達の荷物は、左手へ置いて、見習いの従業員に届け
させ、あるいは引き取りを待ちました。そのような折、左手の大きな荷物を、自転車の荷
台に乗せ、持ち去る男がいましたので、ごくろうさまと声をかけたのですが、判取り帳が
ないと気づいたときはアトの祭り、苦い汁を飲まされました。

          二〇

  最寄りの署の刑事が、梱っている場所へファスナーをひとかかえ持参、「お宅のファス
ナーですよ」と告げられたこともあります。店の裏手には、質流れの呉服を卸す店があり、
従業員はそこに持ち込んだのです。古着商からの通報で盗みが発覚。盗んだ従業員は、若
かったという以外、なんの印象も残っていません。

  覚えのない盗難がもう一つあります。ある日、面識のない弁護士から示談書が届きまし
た。依頼人がウチの商品を盗んで売った、その弁償をするので、判を押してくれというの
です。

  示談書の住所は、北関東のどこかだったと思います。盗品リストの該当箇所には、間違
いなくウチの商標。犯人も盗んだと認めています。もしやあの時の? だったのでしょう。
その後、入金理由を思い起こすのに苦労するほど時間が経ちましても、年に一度、ほんの
わずかな額でしたが、弁済のお金が振り込まれてきました。

          二一

  神田に移り住むまえ、小学生も低学年の頃、はじめて失業者を意識しました。

  菅野の我が家から数軒先は、失業者と聞かされていました。家族のことなど考えもしま
せんでしたが、ある朝、釣り箱と釣り竿を荷台にくくり、自転車を押しながら遠ざかって
いくその家の主に、ひどく不安を覚えました。さらに数軒先がセキカワクンの家でした。

  当時も今も、他家で食事することなど滅多にないのに、母は私を連れ、セキカワ家でお
昼を食べたことがあるのです。記憶にあるのは一度だけですが、実際は、頻繁にセキカワ
家を訪れ、昼食を食べた訳が、今になってわかりました。

  母は当時、仕立て直しを、セキカワクンのお母さんに頼んでいました。その関係でセキ
カワ家の事情がわかってしまい、またセキカワクンのお母さんは、それはそれはやつれて
見えましたので、見るに見かねて、折々、人数分の食事を持ち込み、お昼を食べていたの
です。



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