(C)Copyright 2005 SHIMADA, Ichiro. All rights reserved.


随想 繊維問屋にて (5-2)




          二二

  セキカワ家のご主人には、なにか事情があったのでしょう。

  セキカワ家の長男は、技術関係の専門高校を卒業後、ある資格試験に合格したのですが、
不景気のため採用通知がこなかったそうです。長男は趣味と進路が一致していましたので、
もし採用されていれば、本人にとっても家族にとっても、これほどの仕合わせはなかった
と、アルバムを開きながら、セキカワクンのお母さんは話していました。

  父はセキカワ家の次男を、高卒後に採用しました。採用されたセキカワクンは、お金の
出し入れを任されましたが、出納業務を信頼関係に委ねたことは、父の失敗だったと思い
ます。

  秋葉原界隈に、名うてのワルがおり、そそのかされたという事情もありますが、過ちが
二度も続きますと、さすがの父も見放してしまい、届けを出さないのは本人のためになら
ないと署の指摘もあり、そのときを限りに、セキカワ家の記憶も終わりました。

  幼く、しかも活発な子が、結核性の病気で寝たり起きたりの生活を強いられますと、本
人には気力も体力もあるだけに、荒れるのは当然でしょう。荒れに荒れ、寝間から茶の間
にオモチャを投げる、そのような折、両親は無言で耐え、もっと小さい弟は、悲しく恐ろ
しく、消え入りたい気持ちになります。しかし、両親の諍(いさか)いにくらべれば、ま
だマシでした。

  引越しの数年前から、両親は生きるために、我が子のために戦っていたのですが、一族
の相克ですから、どうしても夫婦間に齟齬が生じます。夜ごとくり返される争いに、小学
生ができることは、和解を願い、平安を祈り、夜中に枕を濡らす程度。その後、現場に移
って、あとからあとから現われる魔物の正体を見届けてからは、場外から当事者の一人へ
と、忍従から攻撃へと、私の動きも変わりました。

  つけ込まれたくなければ自分でやれ!  気を許せば行きづまってしまいますから、神経
を集中して世の中の動きを察知、倒さなければ倒されてしまいますから、重荷になる従業
員はただちに除け、などと考えもしないで、そのように応じてきました。

  私が中学時代から繊維問屋に関わったのは、蓄財や贅沢や地位が目当てではなく、両親
の平安のためその一念でした。その後、自らが経験してきた大人の行為とは別物です。

  労働価値論に「複写価値」という新語を加え、雇用と、労働と、配分を深く考えた時期
があります。大人は理性と思考を働かせば、誰のために働き、なにを決め、どのように選
ぶかがわかる筈ですが、私が見聞きし、また参加している社会には、いまだに「共通の認
識」が、育っていないように思われます。

          二三

  図画の授業で、中学の屋上から、駿河台方面の建物を写生したことがあります。鉛筆で
素描してから水彩で色づけしました。青い空の下、ビルの最上階が、どこまでもどこまで
も続く先に海が現われ、建物が船に変わり、水平線の彼方に消えていく、そんな絵を描い
ていました。

  中学からの帰りは、神保町から駿河台下へかけての書店街を、つめ襟の学生服にズック
の鞄をさげ、右へウロウロ左へチョロチョロ、三省堂を裏口から表へ串刺しに抜け、我孫
子など他県の越境組とわかれ、新宿−両国間の都電が走る靖国通りをトコトコ歩いて、小
川町を経由、J町へ戻りました。往路は都電、復路は歩き。

  店の所在は学区外です。また中学進学時に越したこともあって、店の周囲には、一人も
顔見知りはいませんでした。そもそも子どもの姿がなかったのです。それを寂しいと思う
こともなく、郊外を懐かしむ気持ちも湧かなかった。しかし、緑野を走りまわる生活を断
たれたのですから、体によい筈はありません。子どもなのに結石を、しかもくり返し発症
させたのは、体質だけではなかったと思います。

          二四

  下校時は三省堂にお世話になりました。いえ、本ではなく切手売り場。

  中学時代も高校時代も、塾には行かず、参考書を買った記憶もありませんが、文庫本は
買いました。

  書物を買いはじめたのは大学に入ってから。それも三省堂ではなく東京堂。

  マチナサイ! 東京堂を出た直後に、レインコートの男に声をかけられたのは大学一年
の時です。手さげ鞄を、本で一杯にさせていたこと、その鞄を、横積みの本に置きながら
立ち読みしたことが、万引きの疑いを引き寄せました。幸い当時は、買った単行本は、お
店の紙で包んでくれましたので、手さげの中を改めた刑事は苦笑しながら、文句を言うス
キも与えず立ち去りました。

  中学時代に、切手に夢中になったのは、集めるより見るのが目当て。外国の、動物や植
物、船や人、風景や運動種目の、デザインと色合いが好きで好きで、三省堂の陳列ケース
を手垢や吐息で、ベットリにさせてしまいました。

  とりどりの切手のモザイク模様の一枚一枚、一片一片が広大な「踏踊」の宇宙。昔の記
憶も同じなのです。ひと言で「むかし」とかたづけてしまえば、埃をかぶったアルバムに
すぎませんが、記憶を一枚一枚ほぐしますと、喜びも、不安も、恐怖も、絶望さえもモザ
イク模様に変えられます。

  ハッピーも、それが単一の色合いですと、自分一人の幸福か、自己耽溺にすぎないでし
ょう。あるいは次第にやせ細ってしまう自分探し。

  単色へのこだわりは、今、手にしている一千粒の宝石の、九百九十九個を見落とすこと
です。記憶を掘り起こすのは、現在の舞い方を学ぶことです。

          二五

  切手売場をあとにしますと、小川町への一人旅、中学の気配は薄れます。

  小川町の交差点には、建物二階の高さに、人一人が入れる監視塔が立っていました。大
手町方面からの都電が新宿=両国系統と合流する場所です。都電が大手町方面から来ます
と、監視塔の職員がポイントを切り替えました。靖国通りと本郷通りが交差するまん中を、
自動車の走行を妨げ、我がもの顔で右折左折する都電を見ていますと、通りを突っ切り、
歩道に乗りあげてしまいそうでハラハラしました。

  小川町の交差点すぐにはカナザワが、小川町と駿河台下の間にはミナミがありました。
どちらもスポーツ用品の小売店です。この二店は、カンダハーやラングリーメン(どちら
もスキー板の締め具)への逃避口。重い足どりの復路にほんの一瞬、希望と、ときめきと
自由の息吹(いぶき)。

          二六

  書店街が通学路なのに、書物の記憶が少ないのは、読書経験が浅かったからです。その
一方で、小説を読んでいた記憶がうっすら。はて? 何を読んだのだろう。

  読書の好みも変わりました。小説から離れ、十年以上たっています。現在、惹かれる言
葉は、どのような本なのだろう。

  独白? 近いです。読者を意識しない表現、家族のために書き、家族にも知らせない独
語。自分が実際に経験したコトモノを、自分も関係者も傷つけずに。

  自己犠牲を払うほど、今の社会は公正ではありません。私はそう思っています。それだ
から自己犠牲を回避するのではありません。自己耽溺をさけ、できるだけ自己に客観的に
書く表現に魅力を感じます。

  社説も評論も苦手になりました。その書き手が、当事者でない場合が圧倒的に多いです
から。

  経済活動の、我々の生活の龍骨の、対策ではなく、その責任を難ずるのは、史的評価を
問い、我々の生き方を論評するのは、経済を主導し、破綻の原因に手を貸した当事者自身
にお願いしたい。当事者のほとんどは大学を卒業され、企業を経営されてきた日本でも最
高位の英知ですから、自身を表現することなど造作もない筈。

  自分をくり返し文字に換えてみますと、他者の文章表現の、言葉の背後にひそむものが
わかってきます。小説も、評論も、詩歌も、時事や記録さえも同様に思われます。「背後
の表現」に創作や粉飾が感じられますと、あるいは傍観者や第三者の気配が読みとれます
と、いかに権威の高い文章表現も、世間の評価通りには読めなくなります。私は我ながら
狷介(けんかい)であり、貧しい思想の持ち主です。

          二七

  小川町には今一つ、立ち寄る場所がありました。小川町の交差点を駿河台下方面へ少し
もどった、靖国通り南側の海外雑誌の古書店です。

  ところ狭(せ)しと積んである成人向け雑誌は無視。米欧の、電話帳ほどの厚さがある
通販カタログの古書が目当て。

  重くて、持ち帰るのに難儀な通販カタログ、子どもの小遣いでは買えない古書には少し
もひるまず、衝動的に買いもとめ、胸をワクワクさせながら持ち帰り、服飾デザインと格
闘中の母に手渡しました。

  そのころから、印刷媒体の資料提供は私の役目。国内の業界誌紙や、海外の業界誌輸入
代行者を意識しての一人相撲。大学に入って、丸善や紀伊国屋書店を訪れるようになるま
で、あたかも業界誌の権威のようにうぬぼれていました。

  通販カタログの、最もお気に入りのページは拳銃とナイフ。本物の拳銃や本物の猟銃が
一桁違うと錯覚するほどの値段で売られていました。米国では玩具やファッション、リネ
ンや食器と同じ次元で、銃が売られていたのですね。

  通販カタログから、母はアメリカの実用衣料を学びました。中学生の私は、無味乾燥の
問屋街で、様々な色彩を学びました。

          二八

  淡路町から須田町へかけては、羅紗(ラシャ)の卸商が目白押しでした。万世橋から和
泉橋、浅草橋までの神田川南岸、両親が「ドテ」と呼んでいた一帯には、背広の吊るしや
イージーオーダーの製造卸が無数にあり、製造卸に出入りする表裏の生地屋や副資材の業
者も、軒を接してひしめいていました。

  その後、流通革命を克服できなかったドテの業者は、一様に倒産や廃業に追いこまれ、
さらにバブル期の地上げとその反動が、過去の繁栄を跡形もなく拭い去り、代わりに秋葉
原からあふれだした電気業者やシステム業者が事務所を構えましたが、今となってはそれ
もむかし語り。ここのところひとしきり、バブル以前のさびれた風情が、元気をもり返し
ているようです。

  寄り道もそろそろ終わり、ようやく我が家へ。店に入った途端、不安な気持ちに。「今
日は大丈夫だろうか、二人は平和でいるだろうか」と。

  両親が近所の事務所にいるときは判決は一時延期。母に会うまで、店内をうろつき気を
紛らしました。従業員はそのような私を、うっとうしく思ったでしょう。

  採用を中卒から高卒に換え、新入社員が住み込みから通いに変わりましても、以前から
働いていた従業員は住み込みで働きました。私も一つ屋根の下、わだかまりも好悪も感じ
ないで、空気のように接していましたが、水面下では「叛乱」が進んでいたのです。それ
をヤスサンは、裁断場の二階で顔を合わした折に、伝えたかったのだと思います。

          二九

  当時、店は労働組合の結成に神経質になっていました。労働者のなかには「働くこと即、
自己実現」という妄想にとりつかれ、創業者が家族まで巻き込んで築いた中小や零細の事
業に、独善的要求を突きつけ、事業の存続を危うくさせてしまう連中がいるという風に、
両親も私も考えていましたので、店では労働組合は禁忌でした。

  不思議です人の進路は。労働組合を生理的に嫌っていた私ですが、就職後、全員加入を
義務づけられていた労働組合の、青年婦人部長に祭りあげられ、理性と良心を頼りに、水
俣病をはじめ労働組合として取り組むべき課題の、情宣活動に力を入れましたところ、ど
こでどう調べてくるのでしょう、社内からも社外からも、実にいろいろな筋から、陰に陽
に干渉が入ったものです。

  適度の労働には充実が予定されています。しかし分業と協働の社会では、その道ひと筋
では充分ではありません。人はなんのために働くのでしょう。このことを考えますと、企
業活動の、評価の指標と配分の方法に、最も重要な項目が一つ、欠けていることに気づき
ます。

  欠けている項目がなにかは、自分の子ども時代を顧みますと、容易にわかると思います。
子どもは大人を信じています。情報の露出の程度によって違いはありますが、信じられる
期間に長短もありますが、子どもは大人を信じた状態で生まれてきます。信じている子ど
もの想いをたぐりますと、大人は現在の自分の姿を、客観的に読みとれるのではあります
まいか。「二重生活」は、労働組合には担えますまい。

  管理職候補を組合の役員に就任させ、組合の動きを掌握、組合の進路を会社が管理すれ
ば、労働組合を一部はね返りの不満のはけ口として利用できます。賃金や年金や時短や人
員整理など制度の改廃や合理化の折、従業員の意志を内から統制する技術としても活用で
きます。しかし労働組合の効用など、つゆほども知らなかった子どもの私は、両親の平安
をおびやかす外圧として、労働組合を一途に嫌っていました。

  外部から、組合結成の働きかけがあったことは知っていますが、幸い、店の従業員は組
合運動に走るよりも、蓄財にはげむ方が益になることを知っていました。

          三〇

  叛乱を焚きつけたのは、分離独立した身内と、その子を溺愛した母の母つまり私の祖母
と、祖母の近親者数人でした。父はこの近親者数人にも、町工場の設立を助け、当時六十
人以上かかえていた職方の一人として、仕事を優先して与えるなど、生活が立ち行くよう
に面倒を見ましたが、善意は仇(あだ)となり、従業員を抱きこむお先棒をかついだのは、
彼らだったことが判りました。

  出入りする縁者に足を引っぱられては、深手を負うまで気づかなかったのも無理ありま
せん。気づいたのは、住み込みの従業員がごっそりやめ、やめた彼らが独立した店で再雇
用されたからです。

  一緒にはやめないで、店内の出来事や商品情報を、移籍先に流し続ける従業員もいまし
たが、狭い地域での揉め事です。引き抜きは同業者と得意先の知るところとなり、店をひ
いきにしてくれた小売店が、先方の様子をこと細かに教えてくれましたので、店に害をな
す従業員も、長居はできなかったと思います。

  黒幕には「仕入問屋」がいましたので、私はその後、同業者すべて敵と思うようになり、
大学二年次に出かけた「縫製自動化の視察旅行」の折も、同業者には心を許しませんでし
たが、最近、出かけた中の一人で、すでに故人が、店のよき理解者であったこと、民事の
裁判で、店に有利な証言をしてくれたことを知り、恥ずかしくもあり懐かしくもあり。

          三一

  誘いに乗らなかったのは高卒の従業員です。その一人がヤスサンでした。今一人が、食
堂で靴の泥を落としていた小売店の息子さんです。ほかにも何人かいたのでしょうが、今
となっては名前も印象も残っていません。

  引き抜かれた従業員を、当時、どう思ったのでしょう。反感? 憎悪? 敵意? そう
ではなかったと思います。双方の店の距離は百メートルもありませんでしたが、私の店は
交差点側にあり、相手方面に出かける必要がなかったことが幸いしました。

  一刻も早く忘れること、引き抜きの結果は考えないこと、それが重くのしかかる不安か
ら逃れる唯一の方法でした。やめた従業員を目にしたときも、不安を悟られまいとして、
姿を隠すのは私のほうでした。

  このときを限りに、縁台将棋や屋台のラーメンは、私の視野から消えました。

          三二

  ヤスサンは亡くなる前に、一つの夢を話したそうです。赤いスポーツカーを駆って得意
先を訪問するという、その言葉が本当であることは疑いませんが、この夢は、営業活動の
ためにヤスサンが考え出した選択肢の一つであって、ヤスサンの心は別だったと思います。

  ヤスサンが亡くなり、奥さんが家捜ししましたところ、床下から、三百万円もの現金が
出てきたそうです。しかし、ヤスサンの死の床には、とうとう奥さんは現われませんでし
た。奥さんには別の男があったのです。病院の天井を見つめながら、ヤスサンは、なにを
夢見ていたのでしょう。

          三三

  台頭する量販店や、チェーン展開する専門店への対応を迫られ、あるいは雑誌やクチコ
ミを媒体に、全国ブランドへの試行が始まっていた時代に「のれん」にこだわり、産地か
らの仕入に甘んじ、問屋街で店を構え客を待つようでは、当座は成功しましても、やがて
は時代からとり残されます。

  店の分裂や引き抜きも、外から見れば内輪もめにすぎないでしょう。しかし当事者にと
っては悲惨そのもの。また仕掛けられた以上、受けて立たないと事業は成り立ちません。
身内を相手にした母も、争いごとの嫌いな父も、やりきれなかったと思います。その父を
中学生の私は、あることに耐え切れず、一度だけ非難したことがあります。

  長じた私は、ひどい悪戯をした幼い我が子に、怒りにまかせ、手を上げたこともありま
したが、父を難じた言葉と我が子に上げた手の記憶は、今もザラついた澱(おり)になっ
て、振り払っても消えません。

  今の我が家では、親子や夫婦の、言葉による自己主張のぶつかり合いは日常茶飯事。言
葉を用いて、我が子を本気で叱りつけることも珍しくはありません。しかし、相手も負け
てはいませんので、気力の衰えはじめた近年は、私が黙ることも多いのですが、子に振り
上げた手と、父を難じた言葉は、口喧嘩や叱責とは違いました。

  店の打撃を最小限に食いとめたのは、ヤスサンの外回りの営業力にほかなりません。商
品づくりと資金繰りに追われていた両親には、ヤスサンの存在が、言葉に尽くせないほど
ありがたかったと思います。ヤスサンにも遣り甲斐であった筈。しかし引き抜き事件の後
も、通信教育の話題になると多弁になるほかは、夜を徹して飲んだ折も、ヤスサンはほと
んど話さず、私も黙って対していました。

          三四

  ヤスサンが強いお酒を飲みはじめたのは、メリヤス問屋の松原さんに、結婚を反対され
たのがきっかけでした。松原さんご夫婦は、両親の結婚式の仲人です。松原さんのご両親
と父の両親は、互いに実の兄弟と実の姉妹で、血縁の従姉妹として、父は松原さんを親の
ように思い(兄と姉の多かった父は、松原さんとは年齢が親子ほど離れていました)、父
の大切な相談相手でした。

  父も母も、他人の人間関係については、無関心といってよいほど口をはさまず、ヤスサ
ンの結婚にも、意見はあったのでしょうが、異議は唱えませんでした。しかしヤスサンの
保証人だった松原さんに反対されては、父も動きづらかったと思います。

  ヤスサンの結婚相手はミササンでした。ミササンは従業員の親戚のツテを頼って探し出
し、東北のある地方から働きに来てもらったお手伝いさんです。ヤスサンとの結婚話がな
かったら、名前さえ思い出せなかったかも知れません。

  お手伝いの部屋は店の二階の、床が高くなった狭い場所で、仕切りはガラス戸、入口は
引き違い戸、内部をカーテンと鍵で守られ、店では比較的居心地のよい場所でした。しか
し何人もの男性従業員が寝起きするのですから、母は慎重を期したのでしょう、お水一杯
でも、従業員がお手伝いにモノを頼むのを、厳しく禁じていました。

  店で売る商品の、デザインの案出から資材の調達、仕様の決定、型紙の製作、縫製の指
導のすべてに関わり、母の忙しさは相当なもので、家事など放っておけばよかったと思い
ますが、母には意地があったのでしょう、ご用聞きに頼むのも、献立を考え、料理を教え
糠(ぬか)をかきまわすのも、お手伝い任せにはしませんでした。

  今日(〜1997年)、中国大陸に出かけますと、例えば月に5百元で、炊事、洗濯、掃除、
光熱費の支払いなど、家事のすべてを、通いのお手伝いに頼む生活を見かけますが、また
裕福な女子大生は一人で、一般の学生も仲間でお金を出しあい、通いのお手伝いを雇うこ
とがありますが、母がお手伝いを必要としたのは、楽をするためではなく、自分の戦争に
勝つためでした。

  母と相性のよいお手伝いですと、家事も仕事もうまく行き、家庭の雰囲気も明るくなり
ました。お手伝いは頻繁に替わり、勤務中に婚約が調(ととの)い、惜しまれながらやめ、
今も年賀状の届く人もあり、生まれた子を見せるため、わざわざ母を訪れてくれた人もあ
ります。

  ヤスサンが結婚を望んだミササンの、仕事ぶりは可もなく不可もなく。

          三五

  美も醜も清貧も欲得も、程度の違いはあるでしょうが、そのいずれも持ち合わせ、しか
も道徳や倫理や躾(しつけ)と、学習や美観に従い、自己の醜さを隠し、内部のだらしな
さを伏せ、飽くなき欲望を制御するのが人一般の態度ではありますまいか。

  だらしなさを垂れ流す生き方が、必ずしも本人の不利益になるとは言えません。美醜の
判断基準は個人差があるのですから、本人の資質如何で、醜いとされる生活でさえ、自然
で、居心地よく感じる人があっても不思議はないです。

  最近まで、ミササンに惹かれたヤスサンの気持ちがわかりませんでした。式の直前まで
揉めたこともあり、馴れ初めから一緒になるまでの経緯は、誰にも明かされませんでした。
父にも母にも松原さんにも、ヤスサンはそのことを、話さなかったと思います。

  私もヤスサンとミササンが結婚すると知ったとき、「奇妙なとり合わせだな」という印
象を持ちました。

  結婚後、はじめて顔を合わせたときも、浅黒く表情を変えないヤスサンには、結婚前と
違った点が、不思議なほど認められませんでした。

  若い男なら、誰に対してもやさしい素振りと笑いで応じる、当時、そのようにして男に
接する若い女性が少なくなかった、そのやさしさが自分だけに向けられた思い、相手に夢
中になる若い男もあったというのが、両親の当時の固定観念であり、ミササンの、姉が弟
をいたわるような笑いに、ヤスサンは魅せられたというのが周囲の大方の見方でしたが、
笑顔抜きのミササンしか知らなかった私は、ミササンのやさしさと思いやりを見損じてし
まい、ヤスサンとミササンの縁組に醒めた印象をもっていました。しかし今は違います。

          三六、三七は省略、三八

  店のまわりには、およそ緑(みどり)はなかったです。やがて地下鉄が走る都電通りの、
アーケードをつき破った並木の柳が、界隈ではただ一つの緑でした。

  店には鉢花もなかったです。母は古流と江戸千家の師範で、草花にはこだわりをもって
いました。しかし、新たに借りた事務所に新年の花が生けられたのは、私が高校に入って
からです。

  植物よりも縁がうすかったのは動物です。ネズミやゴキブリを除きますと、店で暮らし
た十四年間で、目にした生きものはクサキリかクビキリギスの二、三匹と、シオカラトン
ボの一匹だけです。 

  クサキリは、夏の夜に決まって鳴きましたので、柳に住みついていたのでしょう。指を
かまれときの痛みが、今も残っています。

  三階に上がりますと、原反の仕上げに使われていた薬品が縫製後も目や鼻を刺激、涙が
ぼろぼろ落ち、目がしょぼしょぼになりました。この刺激臭は、ナンキンムシやネズミに
は効果なく、定期的に防虫剤を焚き、殺鼠剤をまかないと、ナンキンムシは階下の人間を
かみ、ネズミが商品をいためます。三階には明かり窓が一つあるだけで、昼も棚の影は闇
になり、消灯後はまっ暗でした。

  三階の階段脇が子どもの雑貨置き場で、目の痛みをこらえ、たびたび三階に上がりまし
たので、好奇心も手伝って、倉庫を隅々まで点検しますと、離れの裁断場とは違い、吸い
殻も酒瓶もありませんでしたが、ある日、半透明の粘液の入った、注射器に似た道具を見
つけ、だらしないという不快感と、このことは誰にも知らせないでおこうという考えが湧
いてきました。

          三九

  ヤスサンがいつ、どのようにお酒を飲んだかはわかりません。しかしヤスサンは「お酒
に弱かった」という見方には疑問があります。数年も経たないうちに、肝臓がボロボロに
なって死んでしまった。だからお酒に弱いと言われましたが。

  普通にお酒を飲んでいれば、体をこわすことは、なかったのではありますまいか。お酒
に強いとされた私は、飲み方の印象からそう思われていたので、本当は、飲めば飲むほど
苦痛が増し、強い人のようにお酒を楽しめなかったのですから、もし、ご両親のどちらか
でも健在であったなら、また、もし、小児麻痺にかからなかったら親戚さえいなかったと
しましても、ヤスサンも、お酒に強いと思われる飲み方ができたのかも知れません。

  ウィスキーの空びんがころがっていましても、ヤスサンではありますまい。ヤスサンは
どんなに酔っても、酒びんの始末を忘れるほど、自分を失うことはなかったと思います。
泥酔しましても、頭の隅では醒めていて、酔いつぶれた自分の姿を観ていたか、ガラスの
ような意識の破片が、お酒をあおるその訳を、自分に語りかけていたと思います。

  紙一重です此岸と彼岸の境は。一歩手前で踏みとどまれば、ヤスサンの人生も変わって
いたと思います。しかしヤスサンには、それを押しとどめる何かが欠けていました。結婚
を反対されたことで、最後の堰まで破壊され、幼い頃から、積もりに積もった土石が一挙
に噴き出し、体が蝕(むしば)まれるのも意に介さず、物理的に飲める限界まで飲んでし
まった……。

          四〇

  結婚休暇を終えて、出勤してきたヤスサンが、私が元気な姿を意識した最後です。一階
の流し近くの商品棚から、薄い板を差し込でスラックスを引き出すヤスサンを見て、黙っ
て通りすぎるのも変だし、何を言ったらよいのか皆目わからず、口をモグモグさせながら
声をかけますと、ヤスサンも言葉は発せず、顔をゆがめて、笑ってくれました。

  その後、店での私の必要も、調整役は変わらずでしたが、店売りから商品企画の手伝い
に移り、男子寮や自宅から出勤する従業員には、関心も関わりも薄れてしまい、数年後に
ヤスサンが倒れたときに、両親が熱心に面倒を見ることがなかったなら、従業員一般の病
気同様、ヤスサンの死も、他人事として済ませてしまったと思います。

  ヤスサンが倒れたとき、父はヤスサンに、都心の有名な病院でみてもらうように命じた
のですが、病院に通うヤスサンを知らない人が見たら、ひとり者と思ったかも知れません。

          四一

  店の状況が好転したのも、ヤスサンが結婚した頃だったと思います。結石は成人した後
まで離れませんでしたが、両親の苦悩と相克は次第におさまり、私は子ども本来の自由を
とり戻すようになっていました。

  店をとりまく環境は、私でもわかるほど変わり始め、学校を終え店に近づきますと、不
安が生じるのは避けられず、両親の忙しさも、いやが上にも増しましたが、以前のような
追いつめられた気持ちは次第に薄れ、私の場合は雑誌に関心が移り、両親は二人の事業を、
生き甲斐に思うように変化しました。

  店では、通販カタログの古本に刺激され、欧米のファッション誌も購読するようになり、
私は忙しい母の代わりに誌面を点検、当初は母好みのデザインを、やがては自分好みの色
刷り誌面も、刃物が入れると見苦しくなりますので、綴じ代の金具を引き抜き、接着部分
を力まかせに剥がし、誌面を傷めずページ単位で分類整理、それが商品企画に役立ったの
はまちがいありませんが、色刷り誌面の収集は、自分のためでもあったのです。

  ドイツの男性向けファッション誌Lは、色刷り誌面がとてもよく、ネクタイの写真を筆
頭に、室内の写真も草花も、海浜も帆船もホテルも専門店街も、飛行場も航空機も山岳も
雪原も、車や酒や喫煙具の広告も、宣伝デザインの色調も編集デザインの彩色も、色彩に
飢えていた中学生を夢中にさせ、背広の空き箱を譲りうけ、集め続けていたものです。

  黒紺と茶褐色の、濁色と褪色のうずまく環境と状況のもと、より多彩な表現への渇きを
覚えたのは私の場合、色刷り誌面に親しんでからです。渇きは今も同じです。人が一億人
集まれば、一億通りの表現が生まれる筈ですが、多くの人は、未だに自分の言葉で、語ろ
うとはしていません。

          四二

  当時はもう一人、父の親戚で、大卒が雇われたこともありました。なにか事情があり、
しばらく店にいたのですが、ハタから見ますと、雇用契約か下宿契約か、はっきりしない
ところもありました。

  大卒の従業員は私には新鮮でした。なにがと聞かれますと困ります。嗚呼、これが大学
出というものか、結構、のんびりしているな。大学出は頭がよいのだから、体ではなく頭
で働くのだろう、などと考え、仰ぎ見るような、照れくさいような、少し構えた気持ちで
対していました。なにしろ学校の先生を除けば、日常、普通に口をきける相手で、大卒は
周囲に、一人もいなかったのですから、まぶしく思ったのも無理ないです。

  大学にはその後も、私は偏った見方をしていました。私が大学に入って驚いたのは、大
学に通う目的を麻雀と心得ている学生の存在でした。および履修科目を、就職試験の階梯
に利用している学生の存在でした。

  大学は学問をするところ、私は商人の子だから商学を学ぶために進学する、経済学部は
万一商学部に入れなかった際の滑り止め、選択科目を整すればなんとかなる筈。法学部に
入るくらいなら大学を変えよう、などと真剣に考えていたのですから、世間知らずもよい
ところ。

  当時、店に入社した親戚は、大学生活を余暇の一種と考えていたのでしょう。しかし私
には、レコード鑑賞を教えてくれた貴重な存在として、深く記憶に刻まれています。

          四三

  音楽も私には大切な糧の一つ。音楽について書くのはひどく苦手。ゆがんだ鏡面に映し
出される油彩のほうが、少なくとも色感については書けますから、音楽についての私の言
葉よりマシです。

  小学校の頃から社会に出た後々になりましても、歌については苦い経験が沢山あって、
思い起こすたびに平常心を失いがちです。最近は好々爺の心境で、いつまでも根にもつこ
とができなくなりましたが、私と同じような資質の子らが、厭な思い繰り返すことのない
ようにと、できるだけ昔の感情を呼び覚ましながら、音楽についても触れてみます。

  私の高校生活は、とても恵まれていたのです。

  中高時代は、阿修羅と呼ばれることもあったように、平常心の素顔もしかめっ面に見え
たらしく、また小五までの疎外感から苦手意識が先ばしり、教師にも教室にも人見知りを
続けていましたが、それでも高校生活が楽しかったのは、小中高いずれにも人生を享受で
きる要素が豊富にあって、公立の高校時代は小中の分まで一度に経験したため、同窓の生
徒には人並みの楽しさに思えたことも、私には格別楽しく感じられたのです。

          四四

  音楽を美として意識した最初は幼い頃、母の長唄を聞いた折です。当時の母は、着物で
過ごす折が度々でしたが、和服の母は、幼い私にも凛として美しく、眩(まぶ)しくもあ
り嬉しくもあり。その母の、居ずまいを正した姿を浮かべますと、三味線の音色と唄声が
聞こえてきます。私が美術の美を「踏踊」と表現し、感覚の再現にこだわる底には、母の
長唄があるのです。

          四五

  小学校で観劇に出かけた折に聞かされた歌も、印象に残る一曲です。当時は、ラジオや
テレビから流れてくる曲は多数ありましたが、自分で選曲できる媒体は身近になく、親し
める流行歌は流れまして、私には「音楽のない暮らし」が高校に入るまで続きました。

  社会に出ましても「音楽なしの生活」が再三訪れています。その典型が職場でした。ホ
ワイトカラーの仕事とは所詮、夢中のときは、自分を見失っているか他者が見えない状態
であると思っています。

  ビジネスの結果は、氷のように無感動で働きましても、愛社精神にあふれましても一向
に関係なく、むしろ仕事本意の生き方は、巨視的判断力を失い、リスクを増加させる無謀
な選択、かどうかはともかく、耳の奥に音楽が聞こえてくる働き方をすれば、我々の社会
は、もっと豊かになる筈です。

  音楽の有無の因果は厳密です。私は唯物的発想、および標本調査的見方をする傾向があ
り、また経験も積んでいます。有意差を問題にする以前に絶対値を読みとり、全体的評価
を下す以前に構成要素の分布と相互作用を見いだすように心がけ、人間個々の行動は、多
分に環境と状況と関係に決定づけられると考えています。

  しかし、こと美観に関してましては、つまり美醜の判断は、環境にも感性にも拠るので
はなく、取捨に依拠し、良心に対する本人の誠意と勇気に準ずる課題であろうと思ってい
ます。

  かくも大切な音楽の、私にレコード鑑賞を教えてくれた親戚が、仕事熱心ではなかった
ことはなんとも皮肉。彼は充実を知るところまで、一つことに、打ちこんだ経験がなかっ
たのでしょう。

          四六

  望みを絶たれた状況で必要になる音楽は、できるものなら無しで済ませたいです。朝の
太陽も夕暮れの青空も慰めになりますが、慰めになる音楽は朝の太陽とは違い、慰めを必
要とした原因が除かれますと、疎遠になることが少なくないです。

  私の美は、やはり選択としか言いようがありません。私もこの国の人々と同じように、
子どもの頃から経験を重ねてきました。これからもいろいろ起こるでしょう。その自分の
心の底に、いつの頃からか、美を抱えていることに気づきました。抱えている美は、選択
の果実ではなく経過の所産です。美の選択とは、表現し表出することを選ぶことです。抱
えている美を外に表わし、一緒に歩くという選択です。

  小学時代や中学時代に、シューマンやモーツァルトの協奏曲を聞く機会があったなら、
高校時代以上に美しく聞こえたことでしょう。

  大卒の親戚は母からお金を預かり、自分の好きな曲を買い、応接室の蓄音機で勝手に聞
いていましが、彼の行為は、心からの感謝に値します。

          四七

  店の二階の応接間には、フィリップスのラジオつき蓄音機がありました。おおよそ幅80
センチ、奥行45センチ、高さ70センチの、塗りのすぐれた高級家具調の蓄音機です。

  家族がラジオを聞かなくなったのはずっと昔。我が家は流行歌にもクラシック音楽にも
興味がなかったのですから、蓄音機は一体なんのために買ったのか。危機を克服、できる
贅沢の象徴として、最先端の家電を買ったのです。

  贅沢では苦い想いもあります。大学三年のゼミ旅行で自動車が要るとかで、私は店の車
を借りたのですが(二足の草鞋を履いた私の希望を、普段は贅沢に控え目だったこともあ
り、両親は二つ返事で応じてくれました)、たまたまそのときの車がクラウン・エイト。
八気筒の国産車。

  高速道路を走行直後、料金所を出て渋滞にはまりますと、原因不明のエンストを起こし
て顔面蒼白、胃がキリキリ痛み、四、五人乗ってクーラーをつけたまま都内の坂を登りま
すと、オーバーヒートして立ち往生する車でしたので、運転の未熟な私には負担でしたが、
皆のためにと、店の車を提供したゼミ旅行で、皆の私を見る目が変わりました。苦労知ら
ずに見えたのでしょう。結婚式の祝辞でもこの話が出てしまい、悲しい思いで聞いていま
した。

  普通の家庭であれば、心地よい居場所を確保できた時代でした。高校時代の友人も、裕
福とは言えませんが、私や私の両親ほど殺風景な住まいではなかったです。高校時代の友
人は、それぞれの個性と家庭環境に応じて、できる範囲で、温かく素敵な部屋住んでいま
した。

  職場の先輩を招いた折、先輩は我が家を「人の住む部屋とは思えない」と漏らしていま
した。そう、我が家は繊維問屋の二階でした。住宅ではなかったのです。

  普通の勤め人が家を買い、家具をそろえ、電気やガスを引いて生活する総費用より、豪
華な蓄音機や、8気筒の国産車を買う方が安かったと思います。

  ゼミ旅行がきっかけです人は持ち物で……、持ち物のなかには家や車だけでなく、地位
や業績や作品も含みます……、人は持ち物で、判断してはならぬと固く心に決めたのは。

          四八

  フィリップスの蓄音機は左右にスピーカーのある大型で、レコードの穴に差しこむ支柱
を替えますと(ドーナツ盤には太い支柱を使用)一度に五〜六枚のレコードを、回転盤か
ら浮き上がった状態で重ねられ、一枚演奏が終わると次のレコードが回転盤に落下、一時
待避していた針のアームが再び盤上に着地、連続してレコードを聴けました。

  届いた蓄音機に関心を示したのは母でした。母の興味は長唄のレコードでしたが、どの
ように買い求めてよいのか皆目わからず、結局、母には無縁の、父にはもっと無縁の飾り
でした。

  この辺になると記憶がひどく曖昧。中学時代か大学時代かの別もわかりません。学校で
の音楽は苦手でしたが、秋葉原で買い求めたトリオのラジオを、木製の事務机に置き、歌
番組や深夜放送を楽しんだこと、机の下に一升瓶があったこと、深夜の応接室で強いお酒
を飲んだことなど、切れ切れの記憶が蓄音機のまわりをぐるぐるまわっています。

          四九

  体内に美が蓄積されますと、音楽は娯楽だけではなく、癒し手としても応えてくれます。
体内の美の量は、状況の変化で刻々と変わります。常に揺らいでいます。

  体内の美が大きくなりますと、音楽それ自体に予定されている力も最大に発揮されます。
美は癒し手を必要としている側に属しています。

  最初のレコードの印象は強烈でした。あるいは中学の音楽の授業が先だったかも知れま
せん。身辺の状況が巨大な美を育んでいたのです。音楽表現のお粗末な私も、音楽を必要
としていることに変わりはないです。しかし、私の音楽は純粋に私的な営み、他人に強い
るなど思いもよりません。

          五〇

  高一の頃、ほとんど話したことのない同級生の家に、仲間の後からついて行った記憶が
あります。彼とはそれからも話すことはなかったですが、過去の多くの同級生の中で、名
前と顔を思い出せる数少ない一人です。

  同級生の家には、父親のレコードが部屋一杯にあり、聞かせてくれた曲目の、名前はも
とより室内楽という分類さえ知らないままに、はじめて聴く曲に震えていました。

  同じ高校時代、こちらは大学に入ってからも往き来していた仲間の一人は、プロの交響
楽団で、太鼓を叩いて家計を助けていました。彼からは無料で、交響曲の生演奏を聴く機
会を与えられ、音楽の、雰囲気の楽しみも知らされました。しかし社会に出てからも、生
演奏の券を購入した記憶はありません。私には欠けては困る曲がいくつかあります。それ
らの曲も、生演奏には出かけません。生演奏の素晴らしさと窮屈を天秤にかけますとと、
気ままとCDの組み合わせに軍配が上がります。

  弱った組み合わせもあります。料飲店と酒席の歌です。息苦しさを感じますこの社会を
席捲した交際術に。

  美しい自然、熱い珈琲、澄んだ演奏の朝・昼・夜を常として、未知の人と語り合える社
会はいずこ?

          五一

  お酒は飲まず、歌もお断わりでは、一般的な日本人とは言えますまい。母校の友や、昔
の同僚と出合ったときに、「お酒は飲まない」と応じれば、私が飲めるのを知っています
から、相手は白けてしまうでしょう。

  それでも私はお酒を飲みません。医者がとめたのではなく、自分の体調や飲酒時の内面
の状態を考えて、時間をかけてお酒から離れ、今は祝いごとや家族旅行の折に少し飲むだ
け。懐かしい友と再会しましても、お酒が中心の席に、長居する気持ちはありません。

  酔って自然に親しむのと、覚めて自然に親しむのとどちらがよいか尋ねてみますと答え
は明らか。もう私は、酔いの手伝いを必要としませんので、同世代の仲間と疎遠になりま
しても、また一期一会であればなおのこと、お酒抜きの意識や感覚を好みます。

  話題もお酒がない方が豊富です。仕事の話? そうではありません。人には、話し言葉
では尽くせない情報が蓄積されています。折角の蓄積も、圧縮されたままでは歯が立ちま
せん。鋤や鍬で丹念に耕しませんと、沃野も荒れたまま朽ちてしまいます。体内の田畑を
耕し続けますと、旧友と再会してもお酒は要らず、懐古だけではなく「これから」につい
ても、話し合えると思います。

          五二

  下町は、裸電球で照らし出された小さなお店がひしめき、物価が安く、人情にあふれて
いると思いがちです。亀有や柴又はそうでしょう。山手線外側の、駅前繁華街から一歩は
なれた問屋街は違います。

  なにしろ小売店と食べ物屋が見当たりません。競争がなければ「高く少なく」が相場。
それでもお店があれば買えますが、近所にはほとんどなかったですから、小物は銀座の老
舗で探し、映画は日比谷へ出かけ、日用雑貨は最寄りの「よろずや」三越本店を利用しま
した。事務所ビルの一階で、コンビニが営業する今と較べますと、随分割高な生活でした。
レコードも日本橋の百貨店や銀座の楽器店で求めていました。

  音楽の知識は貧弱ですので、今でもCDを買うときは迷います。誰の演奏がよいのかわ
かりません。演奏と翻訳には共通点があります。表現力の差か、美観の違いかはっきりし
ませんが、原作に対する生殺与奪の強権を握っている点で、演奏家と翻訳家は、公演者と
出版社は、責任が重いと思います。

  当時の私は、世間の評価は高いのに、自分では感動を得られなかった音楽や文学を、自
分の側に欠陥があると思い込んでいましたが、ほかの演奏家やほかの翻訳家の表現に接し
てみますと、必ずしも自分の側の欠陥ではなく、相性と好みの要素を除いてなお、世間の
評価と自分の印象に隔たりがある場合は、念のため、別人の演奏や別人の翻訳をあたって
みるようになりました。

  手あたり次第に接していた若い私は、原作に対して、誤った判断を下したこともあった
筈です。この誤りは、後日訂正できる性質になく、思春期の感受性が逸した、二度と訪れ
ない機会ですから、残念でなりません。

          五三

  当時、私にも良否がわかるレコードがありました。曲目は田園交響曲。風景描写にすぐ
れ、気持ちの安らぐ名曲に突然批評眼が……、芽生える筈はありません。

  田園のレコード盤は静脈血のように赤く、夕陽を受け、かすかに透けるさまがこの上な
く美しく、黒練りとは違った盤を所有する誇らしさと、赤い盤をジャケットから引き出す
感激に、この盤には、世界で一番よい演奏が収録されていると、思いこむようになったの
です。

  高校時代は、交友から多くの喜びを授かりましたが、内面の葛藤は、外部の交渉がいか
に充実しましても、それだけで解消できるほど平坦ではありません。私の場合、小学校生
活の孤立もあり、中学時代の家庭環境にも影響され、自ら選ぶことはありましても、孤独
を恐れることはなかったですが(友人の数をもって人を評する、交友偏重の価値観には無
縁でしたが)世の中で人間嫌いを押し通すには、美しいものが多すぎました。

  クリスマスの包装紙、記念切手、多色刷りの雑誌広告、レコードのジャケット、赤い樹
脂のレコード盤、クラシック音楽と、これだけでも殺風景な日々には十分すぎるほど美し
かったですが、文字表現の美、美術の美、そして老夫婦の美を知るには、さらに数十年が
必要でした。

  晩年のヤスサンは、なにに美を見出したのでしょう。

          五四

  絶望に瀕しますと、いかに強靭な精神も、重荷に耐えきれず、酒や薬物に走り、自ら肉
体を損なうか、素面(しらふ)で障壁にいどみ、奈落の縁に踏みとどまれたとしましても、
肉体の平衡が崩れ、循環器や内臓の支障に足をすくわれ、追いこまれた精神は窮状が長び
きますと、自らの破壊を免れたとしましても、肉体がその負担を支払うことになりかねま
せん。

  ヤスサンはミササンに夢中だったと思います。その達成のためには、すべてを失っても
悔いのない恋があります。人は時に、理性も財産も、親子の情愛さえも捨て、恋に夢中に
なる生きものです。

  ヤスサンは若く、親兄弟もなかったのですから、またミササンにも異存がなかったので
すから、もしミササンも同じ心でしたら、追い込まれる必要もなく、二人は結婚を強行で
きたのですが、ミササンはヤスサンのように、鬱積した情愛の噴き出しを必要とはしなか
ったので、あるいはヤスサンのような燃え方ではなかったので、ヤスサン一人がもがき、
苦しみ、お酒を浴びなければ生きられなかった。

  恋をしている者の飲み方ではなかったそうです。お酒をとめようとしたのも当事者以外
の、保証人や、私の両親を含む周囲でした。結局このお酒が、結婚を認めさせる決め手に
なりましたが、そのときの心身の負担と、再び飲みはじめたお酒のために、ヤスサンは急
速に衰えていきました。

          五五

  弱ってからのヤスサンは、折々、営業の抱負を語ることがあったそうです。結婚さえも、
築くのではなく済ませてしまったヤスサンの、生き甲斐は働くことだったと言われていま
す。我が子を持つ期待も失せ、生涯つれ添う気持ちも褪せ、悪化した病状を伏せながら、
なお営業に励んでいたヤスサンが吐血して、残した言葉は「救急車は呼ばないで」「病院
には行きたくない」

  ヤスサンの死が、突然思い起こされたのは不惑の頃です。なにかに動かされて書きはじ
めました。それまでの私は、自分だけのために想い、自分だけのためにもがいていたよう
に思われます。子の苦しみも、ヤスサンの悲しみも、それを我がものとするには、それを
人々と共にするには、自らの想いを文字に表わし、なにもかも、問いなおす必要があった
のです。

  ヤスサンは自らを傷つけながら、やはり生きていたいとする気持ちが勝利したのだと思
います。死を恐れ、人生が、生きるに値することを知ったのだと思います。その想いこそ
美の源泉ではありますまいか。そこに至る軌跡には、荒廃を誘う因子が見られるだけで、
ヤスサンの内面の変化は想像もできません。しかし、誰一人、知らない土地で、ヤスサン
の内部には美が息づいていた、恵まれた状況では、とても辿りつけない美を知っていたの
ではありますまいか。

  安らかな表情を残して、ヤスサンは逝きました。



次頁へ
前頁へ


散歩者の夢想メーリングリストの表紙へ