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随想 繊維問屋にて (5-3)




          五六

  やはり中学生活の記憶は戻りません。わずかな記憶はあらかた「編集中期」に書きまし
た。しかしその中身は、あたり障りのないように薄めたり変えたりしてあります。その辺
が実名を使う「編集中記」や「連載」の限界です。

  文字の表現者は名を伏せ、素顔を知られている者はさらに名前を変えて発表すべきと思
っています。結果として執筆のつど、無名で出版しなければならないのですから、よいと
される書きものも、売れる保証はありません。

  出版した後々まで、執筆者は素顔を現わすべきではないと思います。学問や報道や娯楽
の書きものは別ですが、書いたことで得意を感じてしまう出版は、あるいは「もの書き」
の看板を下げて人と交わる執筆態度は、私の考えている文字の表現には値しません。

  絵画や楽曲では、表現者と作品の間に、一線を引くことができると思います。私もそう
ですが、混同していることが多々あります。しかし文字の表現は、どうしても作品と執筆
者を同一視しがちです。これほど欺瞞にみちた作為は、人間界広しといえども、ほかに探
すことは困難でしょう。

  文字の表現も、作品とは似て非なる執筆者を、装丁の途次、きれいにぬぐい去ってしま
う必要があります。しかし、私のメーリングリストでは実名を義務づけているため、この
随想にも、表現に徹しきれない点があります。

  中学の同級生に、中東からの帰国子女がおりました。

          五七

  長方形のぐるりが三階建てで、内庭を校庭に使っていた中学校の、東側一階の教室が、
十三もクラスがあった一年の私のクラス。その棟の一階はどこも終日、陽があたらず、暗
い印象が残っています。しかし義務教育の後半は(小六と中学時代は)担任の先生にめぐ
まれ、学校が心に食いこんでくる負担は避けられました。

  我々の部屋は夜間中学の教室としても使われ、なにかの都合で下校が遅れますと、電球
のともった教室に「大人」が出入りするのを目撃しました。彼らを侵入者と思っていた最
初の頃は、我々の教室が我々だけの教室ではなく、私の机が私だけの机でないことを認識
できず、答案とかナイフとか、ヘンなものを机に残したまま帰りますと、困ったことにな
った筈です。

  幸い私は、カタログの拳銃には惹かれましたが、ナイフは苦手、いえ、柄にコルクを貼
った小型のナイフを、有名小売店の文具売り場で買い、いつまでも大切に持っていました。
飛び出しナイフは、手に入れることは可能でしたが普段は持たず、夜間中学の生徒を驚か
すこともなかったです。

  教室に飛び出しナイフを持ち込んだ同級生は「普通」の子ではなく、中学全体にとって
も特異な存在、番長と呼ばれていた生徒とその仲間で、彼らは、飛び出しナイフや自転車
のチェーンを、凶器の自覚をもって、つまり喧嘩のときに実際に使うために所持、一年次
も、教室の床や机に刺していました。

  A先生が担任だったのは偶然ではありますまい。A先生は一年の最初の教室で、クラス
の役を指名するとき、しばらく私を見つめ、別の子を指名しましたが、私がとても幼く見
え、負担にならないように変えたのだと、先生から直接、母が聞いています。A先生は私
よりさらに小さく、持病のために痩せほそり、片方の視力も失われていました。

          五八

  A先生が亡くなられたのは、私が卒業してからです。知らせが届いたのは、葬儀が終わ
って何日か経ってからでしたが、誘う相手に心当たりがなく、一人でお線香をあげに、郊
外のお宅にお邪魔した折、偶然、番長の彼と出合いました。卒業生への連絡が一斉であっ
たこと、連絡直後の日曜の、午前中にお邪魔したことが、出合いの説明になると思います。

  A先生の奥さまも、とても小さな方でした。二人の娘さんはまだ小学生の齢でした。私
が雄弁だったとしましても、何を話せばよかったのでしょう。逃げるようにして帰る途中、
はじめて彼と言葉を交わしました。白い顔と赤い頬に、突き刺すような目と尖った鼻の、
長身で頑健な姿が浮かぶだけで、なにを話したか憶えていません。

  彼は格闘技のプロを目ざしましたが、足先のけがで転向を余儀なくされ、某代理店に就
職、大手の企業相手に営業活動をしていたことまで判っています。偶然に受付で、再び本
人と出合い、直接その後を聞いたのです。

  彼は包帯にくるまれて登校したこともあり、学校の内外の生徒を、呼び出して暴行を加
えることもありました。当然、彼、およびその仲間の存在は、私にも恐怖を植えつけ、な
あなあで合わせていながら、心の中では、よく思ってはいませんでした。

  中学時代の彼は、勉強など見向きもしなかったのでしょう。私も店のことが頭をよぎる
と、不安でいたたまれなくなり、教室の勉強もうわの空、この中学とは懐かしさの生まれ
る関係にはなかったので、理由や状況は違いましても、公立中学が名の知れた受験校の現
実に、一人は反抗し、一人は無視していたと思います。

  教師を必要としたのは、中学生の私ではなかったです。教師を必要としたのは小五まで
の私でした。距離の保障を欲したのは、偏見と抑圧の回避を必要としたのは、教師を必要
とするのは、過去も現在も未来も、エリートではないのですよ。

  A先生はクラスの全員に距離の保障を与えました。距離の壁を侵すものには、証人に不
自由しない職員室で殴ることさえ辞さず、彼の暴走を小さな体で制御、それが彼の必要も、
満たしたのだと思います。

          五九

  長方形の長辺は東西の校舎、短辺は南北の校舎。中庭をかかえた北側の棟は、南に向い
て陽がよく当たり、朝礼の時はこの棟に向かって整列しまたので、一階中央に位置する職
員室は中がまる見え。狭い敷地のことです。休憩時間に、コンクリートの校庭に出た生徒
には、職員室内の教師の表情までわかりました。

  職員室内のやや西側、校庭寄りの自分の席で、椅子を机とは反対にむけ、同僚の教師と
碁を打つのがA先生の授業の支度。

  碁盤に見入るA先生の姿は、我が子を越境までさせて進学校に送りこむ親の我意に、春
の光の中から、静かに、語りかけているように思われます。

          六〇

  職員室の二階西隣りの教室が、私の中二のクラスでした。明るさに満ちた部屋ですが、
一人を除いて、誰の顔も浮かびません。

  高一のクラスは? 皆と再会した場合、ほぼ全員の顔が判ると思います。一人で一人で
記憶を呼びさますのは、神経が疲れるので省きます。口をきいたことのない女生徒の顔も、
判るかも知れません。

  高二になり高三になりますと、顔を判別できる見込みも薄れます。クラスが進学準備に
取り込まれますと、一年間クラスを共にした顔も、卒業後は見分けがつかず。

  高校時代は中学以上に、結石を発症させていましたので、不快感と吐き気を口実に、授
業は聞き流し、進学を準備している級友とも、話らしい話はしなかったです。同性の親し
い友人が四人いたこと、硬派の私にも、スキーを楽しむ異性の友人が、一人を核に数人い
ましたので、それだけで充分でした。

  片想いの女生徒を心に秘めたまま、遅刻を友として、高校に通っていた私には、当時か
ら、名前も知らない級友もいましたが、私の高校生活は青春時代まっ盛り、二度と戻らな
い青春を、たった一度で燃え尽くしてしまいました。

  常習遅刻は、担任の了解を得ていましたので、昼前の授業が始まり、静まりかえった校
庭を、横切って登校する日々もあり、とり残される寂しさはありましても、罪悪感はなか
ったです。

  私の場合、結石の不快感や痛みでさえも、つき合いながら日常を楽しむことが可能でし
たが、それは再発防止の見込みはともかく、悪化する恐怖心を、免れられていたからです。

  最初の痛みは激烈でした。

  激烈な痛みは一度で終わり、その後は、結石の部位と石の動き具合で、突発する短時日
の疝痛と、数週間続く鈍痛と長期間続く不快感に変化、痛みの程度も「転げまわる」から
「のたうつ」程度に軽減されました。

  四十歳近くなって、めずらしく痛みの予兆を感じましたので、近所の、学校医を兼ねた
内科医に出かけましたところ、「その臓器は痛みを感じません。気のせいです」と尿検査
もされずに帰されました。この内科医は、一般に成人病とされる結石の症状の、痛み発生
のメカニズムを、無視しているのかも知れません。

  一方、神田の店近くの、同じく学校医を兼ねた内科医は、すでに老先生は亡くなられ、
若先生の髪にも白いものが見られますが、「最近、自分も結石の痛みを経験しました。あ
れは痛いものですね」とおっしゃって手厚く診察してくれました。先のお医者さまは、患
者にも心があることを学んでほしいです。(※←2004年の夏から秋にかけて、次第に強く
なる腰痛が数ヶ月続き、ぎっくり腰と自己診断しましたが、血尿が出ましたので、若先生
を訪ねましたところ、結石と診断されました。二十年振りです。父の死後、母の介護で生
活が変化、脚走は変わらず続けていますが、体調の維持に混乱が生じています。若先生曰
く「よく痛みを我慢されましたね」)

  中学生に、鎮痛剤の大量投与はできますまい。鎮痛剤が嘔吐を招き、嘔吐の衝撃が激痛
に輪をかけ、寝床から畳の床へ、畳の床から台所の板敷きへと、ころげまわることを何日
も続けると参ります。

  痛みから解放されたときの感想は「静寂」と「平安」につきています。

  痛み再発の恐怖心からは逃れられません。長期間服用すると内臓に副作用をおよぼす薬
も、対症療法にすぎないのですから、予防のために飲むことはできません。視野にお酒が
入ってきたのも、私にすれば当然でした。

  激しい痛みを懸念される重篤な病気にかかったとしますと、なにが救いになるのでしょ
う。高年者の場合はどうなのか。静寂と平安は、どのようにすればえられるのでしょう?
 

  中二の教室に、L君の笑い顔が見えてきました。

          六一

  学期の切り替え時に編入された子は、中東の駐在員の兄妹で、妹は一年生だったと思い
ます。

  一目見て、「普通」とは違った印象を受ける人々がいます。一目惚れの魅力や、美貌の
程度をさすのではありません。相手の存在に、自身の平衡が脅(おびや)かされる、その
反作用として、虐げたくなる印象の人々です。

  奇妙に思われるかも知れませんが、今でも私は車中で、例えば帰宅の途中、空いている
車内のドアにもたれ、読書に夢中になっていますと、遠まわしですが、若いカップルに執
拗(しつよう)に干渉されることがあるのです。洗い髪に白髪がまじりの、昔でも小さい
部類の人間ですので、貧相このうえない姿が、彼らの気に障るのでしょうか。そうではな
いと思います。

  ある種の人間は状況如何で、顔見知りであってもなくても、特定の相手を目障りに感じ
る? このような印象に気づいたのは中年になってからです。

  人間には、資質によるのか、そのときの気分なのかは分かりませんが、枠からはみ出し
た少数派を、いたぶろうとする衝動を、秘めているのではなかろうか。例えば「小さい→
弱い」「小さい→目につかない」であれば一般の枠内におさまり、無視する気持ちは満た
されますが、「小さい、しかし異色」となりますと、ある種の先入主は納得できず「普通」
の状態に、つまり「小さい→とるに足らない」状態に引き戻そうとする衝動が、隠されて
いるのではありますまいか。「小さい、大きい」は比喩です。

  大きいについての先入主には、いたぶるとは反対の、下手(したて)に出ようとする衝
動があるのかも知れません。相手が「弱い」と見える場合で、相手に「異色や、異端や、
異邦」をかぎとりますと、先入主の期待は裏切られ、「普通」とされる観念が牙をむき、
例えば、異性と一緒の席では、そぶりに出して「一般」の優位性を誇示している?

  編入されたL君は、小柄で、日焼けした偏平な顔が砂漠の砂を連想させ、抑揚に特徴の
ある日本語と、流暢な英語を話す子でしたので、私には眩しすぎて、声をかけることがで
きませんでした。

          六二

  今までに眩しいと感じた相手が三人います。三人だけしかいなかったです。憧れたり、
畏敬を感じた人は多数ありますが、私が眩しいと感じ、しかも当人は、自身の眩しさに気
づいていなかったであろう相手は、わずか三人だけでした。一人は小学校の一時期、一緒
に帰宅していた開業医の子、一人は中学時代に、ほんの一瞬すれ違ったL君、今一人は大
学時代のD君。名前の符丁は適当につけてあります。

  D君とは今も年賀状をやりとりしますが、お互い、随分変わりましたので、どちらも、
大学時代とは別人になりました。

  眩しがることは、当人の心情はともかく、相手に対しては、必ずしも誠意ある交渉では
ありません。眩しがりますと、相手の期待や必要を、正面で受けとめることができなくな
ります。小学校時代のM君に対しても、私は至らなかった思います。しかし私は、今も自
分の姿勢を変えていません。悪ずれした身に、昔の感性は戻らないので、今はもっぱら人
間以外の、文字の表現に眩しさを求めています。

  散文の世界では美も意味の装いで、概念を飾る意匠として、表現されると思います。

          六三

  ふてぶてしさの芽をはらませながらも、引っ込み思案の鎧をまとった私に、声をかけき
たのはL君のほうでした。当時の私には、周囲を観察する余裕に欠けていましたが、L君
がすんなり、融和できる状況に(受け容れられる状況に)なかったことは確かでしょう。

  学校には、上辺の観察では見ぬけない出来事が生じているものです。しかし現場の大人
は、余裕がありさえすれば、状況を認識、先例や雛型の再発を事前に危惧、潜行する悲し
みや苦しみを初期の段階で発見し、継続や拡大を防ぐことができる筈です。義務の現場の
「義務」とは、そのことが第一だと思います。

  知らなかった!をくり返す大人の現場。無視し、蔑視し、加害に手を貸すことさえ辞さ
ない一握りの大人。子どもの世界で「疎外」が生じる場合、恥じるのは加害者であり、状
況を読みとれなかった大人のほうです。

  片や親にも隠し、虐げられている身でありながら、自らを恥じている子の苦しみがあり
ます。片や自己の観念を疑いもせず、現在の社会にどっぷり漬かり、惰性で生活している
大人があります。L君がA先生の教室に編入されたのは、偶然ではなかったのかも知れま
せん。

          六四

  ものを書きはじめた当座は、美が悲しみを癒してくれると応じていました。状況が切迫
するにつれ、感受性も研ぎ澄まされ、美は悲しみの結晶であると理解しました。今は美を、
より能動的に受け止めています。

  与えられた環境に促され、自然にものを書きはじめますと、状況の側が、私に従ってく
るようです。昨年の夏、子らにある交流が生まれ、短い滞在でしたが、宿泊について高年
の夫婦に援助を頼んだことがあります。その経過が新たな「踏踊」を生んでいます。

「踏踊」は二人の海外旅行へと発展、さらに年末の家族旅行へと進み、今春の休みには京
都旅行を……。

  先月末、体調をくずした高年の一人が、入院しながら検査を受け、これ以上望めない親
切な説明と、十分な時間を費やして関係者と何回も話し合いがもたれ、まだ迷われている
お医者さまの、治療の方針が決まるのを待っている状態です。私は美が好きなので、美に
ついて書き始めただけですが、神さまも、お節介な企(くわだ)てがお好きですね。

  安定した状況が崩れますと、内部に抱えていた美が砕けてしまいます。静寂と平安を得
るために要する美は、既存の様式や他者の作品で満たされることもありますが、扶養家族
を抱えた壮年者の失業など、希望が幻想と化す状況下でも、絶望や虚無を打破することの
できる「踏踊」を、様式美への発展も視野に入れて考えようとしますと、現実の険しさに、
暗澹(あんたん)とする想いです。

  煩(わずら)う必要はありますまい。美は希望でもあるのですから。

          六五

  六年の新学期に、郊外の私立からお茶の水の公立へ移った私は、越境通学でありながら、
校風のおおらかさに救われました。

  それまで通っていた私立は、現在の住まいと同じ県の北西部にありますが、我が子の受
験を、何度か経験した今になっても、校名さえ聞こえてきませんので、当時はなおのこと、
有名進学校ではなかったと思います。しかし私立である以上、教師が期待していた生徒像
は、公立の小学校とは違っていたと思います。

  たまたま、両親が新婚の一時期、その学校の近くに住んだことがありますので、また敗
戦から、神田の店に越すまでの十年ほど住んだ家から、遠いとはいえ歩いて通える距離で
したので、まず兄が幼稚園に入り、その引きで私も翌年入園しました。当時は経済的に困
っていましたが、戦前に富裕な商家で育った母の、見栄に縛られた選択だったと思ってい
ます。

  小学校に進学する際、私の知恵が問題にされたそうです。しゃべり方をヘンと感じたり、
知恵遅れとみなす先生がいたのです。幼稚園の園長先生(女性)の保証「大丈夫です」救
われ、私も進学できたとは、当時を回想する母の口癖。

  店のごたごたは、私の小学校時代から始まっていました。中学時代は魔物の正体が眼前
にあり、私も組みつくことができましたが、小学生には諍いの原因がわかりません。ただ
ただ平安を祈る日々。

  日に焼けた顔は見た目にも暗く(芯は明るいです)、自己表現がお粗末で、教師を恐れ、
教室のすみで小さくなって、ひたすら授業の終わるのを待ち、教師の発する質問には、声
を出すこともできず、休み時間になるや校庭に逃げ出す生徒が、当時の学校になじむには
無理がありました。私は当時の学校の、一部の教師の期待に反していました。

          六六

  小六の担任(女性)は、春の陽のようにおだやかで、砂丘の砂のようにサッパリとした
先生でした。小四の担任(男性)は、梅雨時の月の裏側のように暗かった。

  眼鏡の奥には、片や距離と観察の光が宿り、片や隔離と氷が、いえ、攻撃の光さえ漂っ
ていたと思います。小四年になりますと私の心も、なにか仕訳の基準があったのでしょう、
生徒を選別する教師の態度を感じとり、ますます担任を不快にさせたのかもしれません。

  四年五年と、次第に伸びた答案も評価には生かされず、私よりも母が業を煮やして転校
を提案、私にも異存はなく、清算の喜びを味わいながら転校しました。この頃は勉強嫌い
の私にも余裕が生まれ、また転校が刺激になったのでしょう、六年の二学期と三学期は通
知表も五点評価でオール五!

  なぜ同じ生徒が、わずか一年でクラスの下位から上位に上がれたのでしょう。前の学校
では、偏見の申し送りと、えこひいきがあったのだと、思うよりも感じていました。

  異端? 異邦? 私はどちらも好きです。異端の政治家ですか。政治や経営に、異端も
異邦も存在しません。「二重生活」の一面には、政治があり職業があります。異端や異邦
は、他の一面に属しています。権力を利用した蓄財や観念的美学は正統の最たるもの。暴
力をふるう番長も荒れる生徒も、学業や運動の成績上位を誇る者も、同じ「正統」に属し
ています。

  俗にいう落ちこぼれた子の、観念ではなく、異端または異邦の状況に置かれた子の、異
端や異邦を、脱け出そうとしても脱け出せない轍(わだち)こそが、私は美しいと思いま
す。その種の轍を歩めば、状況が本人を異端か異邦の、いずれかの極へ追いやってしまい
ます。

          六七

  一個の内部では、異端や異邦は正統と共存できるとも考えています。できなければ人間
は暮らせません。自己の情報を完全に遮断して、一切の営みを社会から隔離した生活が可
能でも、関係で成り立つ人間界ではそれは「空無」そのもの、可能不可能の概念さえ適用
できません。

  正統だけで燃え尽きる生涯があります。画布の地肌からは、異端も異邦も感受すること
はできないでしょう。画布の布地だけで満ちたりる一生に、美を見出すことはできないで
しょう。

  転出の際は、春休みに決まったこともあり、先生とも生徒とも話す機会はありませんで
した。一学年に二クラスあるなかで、私は五年間を通して二組でしたが、今でも記憶する
わずかな生徒は一組に属したか、校庭で遊んだ生徒だけです。五年も四年も二組の顔は、
教師を除いて、誰一人、思い起こすことはできません。

  進級時、常に願ったのは一組に移ることでした。目に見えないレッテルがはがれること
を、期待することさえ自らに封じながら、心の底では祈っていました。休み時間の校庭と
図工室には、つかのまの自由がありましたが、二組の教室に入りますと、途端にレッテル
が進路を妨げ、無視の饗応を惜しむ生徒は、色眼鏡に手を染めた……。

  ホーソンの「緋文字」が好きです。筋を忘れた今になっても、「踏踊」の緋の色は、ま
すます輝きを増しています。

          六八

  お茶の水の小学校は、駿河台下の交差点近くにあり、都心の公立校の例にもれず、あま
りの狭さに驚きましたが、まさか運動会もココでやるとは!  

  円周にそった短距離走を、先生も生徒も当然のように思っていました。その感覚は、お
かしいと思います。

  全力で走る運動会はどこに消えたのでしょう。校庭から、運動に必要な面積を削っり取
ったのは誰なのですか。学校施設についての通念は、なにかが狂っています、などと思う
筈もなく、編入のあいさつで教壇に立たされた私でも、「○○デス、ヨロシク」程度は話
せましたが、関門は昼食でした。

  コンクリートの校庭に板敷きの一角がありました。これが生まれて初めてのプール。幸
い、狭いプールは水遊びと変わりなく、夏場の体育はなんとか凌げましたが、もうひとつ
の初めてが給食でした。どうしても食パンがのどを通りません。冷や汗がでるほど弱りま
した。しかし、一緒に給食をとっていたI先生が、困惑に合わせたように壇上から発した
言葉「残していいよ!」で、学校生活が変わりました。

          六九

  編入された小六になっても、校庭や廊下を走りまわる性癖は抜けず、階段の飛び降りは
小五から高三まで一貫して続きました(小四までは平屋の校舎)。

  小五の、増設した二階建ての階段には、自由への衝動がにじみ出ています。中学の階段
は、ツタに埋もれた建物に似て、朽ちた空気と御影(みかげ)石の肌ざわり。高三の階段
には、校内売店のパンの香り。

  小六の階段では、飛びおりた最初の踊り場で急停止、生涯の、第三回目の一目惚れに茫
然自失、落下物を避けようと、立ちどまった相手に笑われるまで、金縛りにあいました。

          七〇

  一目惚れの子の姓はK、その兄の性はB、苗字が合いません。おかしいと思い、しばら
く思案していますと、Kの名前の男の子が浮かんできました。男の子「K」も同じクラス。
Bをとりまく一人でもあったのでしょう。Bから距離を置くにつれ、記憶のひだからずり
落ちていたのです。

  孤立には慣れていました。新しいクラスにも期待しませんでしたが、なにしろ勝手がわ
かりません。心細さを拭うことができません。どうにも居心地が悪く、もじもじしていま
すと、以前とは違い、編入直後から声をかけられ、却ってしどろもどろに。

  最初のひと声は誰だったのだろう。

  影が一つふたつ、走り去っていくだけです。小五以前にも、小六以降にも、必ず誰かが
いた筈です。その子らの存在は、別の子らの影になり、気づくことができませんでした。

  手を差しのべることが自然であり、またそう願っていながら、周囲の雰囲気におし戻さ
れ、声をかけられなかった子どもたち。その後も長らく、私は、彼らの存在に気づきませ
んでした。

          七一

  編入されたクラスは、いくつかの層をなしていました。皆の脳裏には進学があったので
す。当時は、公立重視が普通でしたので、区立の小学校でも六年になりますと、成績に一
喜一憂する生徒が少なくなかったと思います。

  ある時、私はBを中心とするグループと一緒でした。Bは親分肌で、成績はできる子の
筆頭にあり、活発とやんちゃが同居、とりまきに媚びられ得意になっている印象でした。

  いま鳴いた烏がもう笑った」と発した瞬間、拳固が私の顔を強打しました。腕を伸ばし、
横手から遠心力をつけて殴ってきました。くやしくて衝動的に、というのではなく、この
言葉以前に、敵意が蓄積されていたのでしょう。

  なにかあったので声をあげて泣きだした、それを周囲がとりなしたので、今度は声をあ
げて笑いだした、その変わり身の早さに、浮かんだ言葉を口に出した途端の出来事。

  痛いと思うより唖然としました。私を睨んでいるBを認めたのは、少し経ってから。ほ
かの子も驚いたのでしょう、黙ったままでした。Bには以前、自宅に誘われたことがあり、
悪い感情などみじんもなかったのですが、二学期に入って成績が前後したことと、無関係
ではありますまい。

  成績の順位に配慮すべきだったか? そんなことはどうでもよいと思っています。泣き
たいとも悔しいとも思わず、怒りも寂しさも感じませんでした。乾いた風が、心の洞を吹
きぬけただけです。黙ってその場を去り、その後、口をきくこともありませんでした。

  性格のよし悪しに関係なく、親分肌のつきあいを嫌うようになったのは、対手が部下や
子でも、親分肌のつきあいに無言の拒否を貫くようになったのは、それでも最近の話です。
やさしさや思いやりが、優越感を得る方便であり(同調者への施しであり)、うぬぼれの
通じない相手には、手のひらを返すような親分肌が少なくありません。一人を恐れる程度
の精神性では、美も、胸襟を開いてはくれません。

          七二

  皆と集い、皆と寛いながらも、野や山や、好きな美術や好きな音楽が頭をかすめ、一緒
にいるのが億劫になることがあります。皆と飲んだり食べたりすることが苦痛になる、顔
や態度には出しませんが、その苦痛が、近年こらえ性がなくなったせいか、ひどくなって
いるようです。

  団地自治会の会食でも職場の忘年会でも同じです。なぜ、せっかくの自由時間を、お酒
の酔いや、カラオケの耽溺に費やすのでしょう。楽しい? しかしその楽しみは個人の好
みです。会社の人間関係に資する? 個人の自由時間まで割かなければ維持できない人間
関係は、拘束時間内の意志疎通に問題があります。

  酔いにべったり寄りそうことで、逃避ではなく快楽をむさぼり、他者にかしずかれてい
なければ満たされない人間関係は私の美観とは相容れません。ではお互い袂(たもと)を
わかつか?

  袂をわかっているのは「皆」の側です。袂は、孤立する側がわかつのではありません。

  お酒。そう、我々は本当にお酒が好きです。この際、下戸にはご遠慮願って、飲もうと
思えば飲める人と話をしましょう。もし我々の生活からお酒をとり上げたら、飲めるのに
飲まないとしたら、果たして我々の生活はよくなりますか。人生は楽しみを増しますか。

  飲める大人は、お酒なしでは楽しめますまい。我々の社会では、飲めるのに飲まないで
人生を楽しむ者を、「皆」の側が「正統視」することはありえないと思います。子はどう
ですか。子にはお酒はありません。それは子が部屋住みだからですか。それとも、子には
人生を楽しむ権利や資格がないからですか。

  子は大人の側からみれば皆「異端」なのです。それは大人が子に、自ら袂をわかってい
るからです。もし子を「正統」の側に組み入れたら、早晩、子もお酒を飲むようになりま
す。晩酌の陶酔や深酒の酔態で、美ではなく、うわべの快楽をむさぼるようになります。

  小六の校庭はあまりに狭かったです。都心で育ったBは、霜柱の校庭で、短靴を泥まみ
れにさせていた子の自由を知ることもなく、たそがれた荒れ地で、震えながら遊んでいた
子の孤独を思うこともなく、大人の受けを狙った子を演じ、大人の下準備に躍起になって
いたのです。

          七三は省略

          七四

  成績の向上は母を喜ばせました。しかし私は違いました。通信簿は昼食や遠足の弁当同
様、純粋に私事と思っていましたので、自分の成績が他人に知られていたことに、秘部を
あばかれたような屈辱を感じました。

  この気持ちは現在にいたるまで変わりません。今の子は、得点や偏差値の公表になれて
しまっているようです。自己採点で、自己の成績を客観視できる訓練をほどこされていま
す。しかし私は違います。

  私は、明日のことは思わないように努力しています。父の検査に対しても同じです。大
切なのはこの瞬間です。明日の父の病状ではなく、今の父と一緒に生きることが喜びなの
です。私の明日とは、何歳まで生きられるとする期日のことにすぎません。

  結果とは経過の滓(かす)にすぎません。結果にこだわる自分を発見しますと、私はす
ぐに軌道を改めます。通信簿など見るのもいや。

  就職後、しばらくしてアルバムも通信簿も卒業証書も、そのときまでの学校の記録を、
ことごとく燃やしてしまいました。

  過去を清算した……。そう思われる人も多いと思います。しかし今を生きる私にとって、
未来も過去も、どれほどの意味があるのでしょう。

  こだわる過去とは、うぬぼれか繰り言にすぎますまい。期待する明日とは、うぬぼれか
欲得にすぎますまい。

  美に値する明日とは、「明日への希望」だけだと思います。しかし明日への希望とは、
もし到達が可能であっても、到達の瞬間に消えてしまう現在の祈りであり(過程の支えで
あり)、未来に属するものではありません。

  明日への希望とは、現在を生きる喜びの、原動力に相当すると思います。同様に意味あ
る過去とは(過去が美に値するのは)、現在を生きられる過去に限ると思います。現在の
心性や、現在の観念や思想と同調し相互作用できる過去、頭脳の中で息づいている過去に
限ると思います。

  ころがっている過去ですと、せっかくの「踏踊」も過去に戻され、過去を現在に組み入
れることが(それは充実を約束されている表現であり、過去に得意になったり、過去の自
分を哀れんだりすることではありません)「踏踊」の発展が、困難になると思います。

  音楽の筆記試験に、どれだけの意味があるか解りませんが、音感がずれている私でも、
筆記試験はゴマカシがききました(と書いて笑ってしまいました。どう考えても私の音楽
は落第点です。美術の公募展で、幼児の作品を入選させることは先ずありますまい。気持
ちは純粋と思っていますが、幼児だけでは、作曲も演奏もできません。今の学校も音楽を、
それは図工も同じですが、国語や算数と同じ通知票で「考査」しているのですか)。

          七五

  小五までの音楽が拷問だったことにくらべれますと、音楽の筆記試験に罪はありません。
私の喉は細く過敏で、もともと大きな声が出ない体質(週に数時間でも、一年ほど大声を
出し続けますと、治療しないと声が出なくなってしまう体質)なので、音程が狂う以上に、
発声が苦痛でしたが、前の小学校の音楽の先生は、自分の受け持つすべての生徒に、歌う
技術を伝授しようと、授業中、声の出ない生徒を教壇に立たせ、皆の前でくり返し発声を
練習させ、出る筈もない声には納得せず、昼休みに呼び出し鍛練を強要する、その苦しみ
と情けなさと恥ずかしさを感受できない音楽教師に、音楽を教える資格はありません。

  朗々と歌う嬉しさ、楽しさ、解放感は、歌っている人の傍らにいる私にも十分、伝わっ
てきます。現在、私が最も必要としている楽曲はいずれも声楽です。音楽を聴く喜びを知
り、愛する声楽にたどりつくのに、発声の訓練は必要なかったです。

  音楽は、もっと美しく、もっと自由です。発声を課した授業にも、筆記試験の授業にも、
美と自由は感じられません。それを初めて教えてくれたのは、学校では中学の音楽の先生
です。中学のすぐれた授業は、方針としてではなく、教師個人の、資質に依存していたの
ではありますまいか。

          七六

  図工室と校庭は、小五までがよかったと思います。図工室の印象は、小六だけでなく、
中学も高校も失われています。小六のときは、新しい環境になれるのが精一杯でした。で
すが、中高の図工室は、どこへ消えたのでしょう。

  高校のときは、人生にとって最も大切な音楽と美術を、なんと、青春のまっ盛りに、二
者択一させられてしまったのです。嗚呼、世の中、オカシイ!

  高校の美術室は、ここにも片想いの子がいましたので、入室経験ゼロにもかかわらず、
素描できる程度の記憶はあります。中学の図工室はさっぱり浮かびません。

  高校の美術と音楽は、選択の余地があっただけに救いがあります。しかし自然は、選択
さえ許されない貧困さ、みじめさ、哀れさ……。

  喩えて言いますと、庭園をそなえ、哲学の道を通学路にする小学校の子(未来)と、そ
うでない我々の子(現代)の違いです。貧富の格差が大きすぎます。

  高校時代は、なにを血まよったのか、美術ではなく音楽を選びました。人前で歌う恥ず
かしさと、交代でデッサンのモデルに立つ恥ずかしさの、どちらがよいか迷ったあげく、
時間単位より分単位の恥ずかしさのほうがマシと考えました。幼いころの恥ずかしがりの
資質は、改善をみなかったのです。しかし、改めて考えてみますと、内気や控え目をない
がしろにする自己主張が、足を机上に投げ出し、パフォーマンスの大仰さを競う現代の生
活が、烏合の力学が、果たして美に値しますかどうか?

  個人の「得意」は半世紀ほどで滅びますが、自然、および様式美は、普及すればするほ
ど輝きを増します。

          七七は省略、七八

  小六の学校は、裏門が児童公園に接していましたので、最寄り駅に帰るときは、この公
園を経由しました。寄り道の最初の日課が、この公園で遊ぶことでした。小学校からお茶
の水にかけては、ゆるい上り坂で、公園の北側も登り斜面。しっかり根を張った木立の間
を、駆けあがって遊ぶには恰好の場所。

  校庭が狭かったせいか、休み時間の体育館も自由に使え、昼休みは館内をかけまわり、
用具置き場から備品を引き出しては、跳び箱や球技に夢中になっていました。しかし児童
公園も体育館の遊び仲間も、集めてもわずか数人にとどまり、はっきり記憶している相手
がたったの一人では、とても情けない気持ちになります。

  記憶がうすれたのではなく、体育館も児童公園も、小学生の常連はとても少なかったの
です。児童公園では、我々の遊ぶ時間が遅かったのでしょう、土曜の午後は、小さい子も
多数遊んでいましたが、体育館や校庭を走りまわる生徒の数は、本当に少なかったと思い
ます。

  小学校の裏手には(相手から見ればこちらが裏手)私立の大学があり、さらに一帯には、
学校や予備校が軒を連ねていますから、日本広し(?)といえども、この界隈ほど学生や
生徒の多い土地はほかにないです? しかし、摩訶不思議なことに、競漕する川もなく、
日光浴する芝生もないのに、この地の膨大な学生や生徒は、奥ゆかしくもネコの額ほどの
公園を、ひと握りの生徒が占拠する現実に異を唱えない。

  現在の住居から車で十分ほどの場所に、某国立大学の新たな学園用地が拓かれています。
その一帯は緑がうっそうとしていましたが、昨夏、再び手が入り、残りの緑も根こそぎに
されました。

  若い頃の出張の折、欧州の島国を、首都から高速道路を北上中、偶々日曜でしたので、
ある学園街で半日ほど自由を楽しみました。お話になりません双方の自然の違い! 双方
の思想の違い!

  夕暮れの児童公園をあとにして、足早に駅にむかい、総武線にかけこみますと、郊外の
我が家が近づきます。

          七九

  はじめての電車通学……、小五までの通学は、最短距離を小一時間かけて歩く経路と、
コの字に迂回して、コの縦棒部分で私鉄一駅を利用する経路がありましたが、本格的な電
車通学は、小六のときが最初です。

  小六の往路はラッシュにもまれ、窒息寸前もいくたびか。復路はいつも同じ景色。総武
線の都内の車窓は、お世辞にも自然豊かとは言えませんので、通学という「学校生活のも
っとも充実した部分」は、空想に費やしていました。

  白衣をまとった傷痍軍人が、義手や義足をつけ、車内を行き来していたり、各自の小銃
を円錐状に集め、着席している部隊に出会ったこともありましたが(※←もっと昔の記憶
かも?)、いつもの車内は単調で(総武線通学の同窓生を知らなかった)、緑豊かな通学
路とは比較になりませんでした。

  無味乾燥な町並みに慣れてしまいますと、気づかないことがあります。晩年の安らぎを。

  父は(※←肺がんの治療方針を決める検査中)事務所の窓越しに、首都高速の架橋をな
がめながら、なにを想い、なにと闘っているのでしょう。我々の社会では多くの人が、晩
年を、道路や壁を凝視、自己の想いと闘いながら、送らなければなりません。

          八〇

  省線の本八幡駅が、郊外に住んでいた我が家の最寄り駅です。

  当時は船橋の干潟でシャコがとれ、谷津では潮干狩り、京成稲毛には、浮き輪をかかえ
た海水浴の水着姿。行徳には江戸前の魚の臭い、京葉線沿線に、潮が満ち潮が引き、訪れ
る人もなかった広大な干潟で、気の遠くなるような自由と孤独を楽しみました。

  父とは「よく」印旛沼へ行きました。「よく」とは母の言葉で、印旛沼の記憶は一回か
ぎり。ほかには、丸抱えの縫製工場の所在地、埼玉県Sの水郷地帯があるだけです。

  行動範囲は広かったと思います。自転車で、自宅から神田まで往復を何回かやりました。
交通事故の危険など考えもしなかった。京葉道路ができたのはそれよりずっと後。

  船橋より千葉側は、遠足や親子連れで出かけました。江戸川河口から行徳や浦安へは、
自転車で、一般道をいとも気軽に出かけ、ハゼやセイゴ釣りに興じていました。

  施設や場内でのスポーツを、私は貧しいと思います。ゲレンデのスキーも同じです。自
由には、行動の広がりと自然美が欠かせません。霧氷原を滑る陶酔、菜の花で覆われた平
原を地平に向け自転車を駆る爽快。自我の軛(くびき)も春の陽に溶かされてしまいます。

          八一は省略、八二

  父についての最もつらい経験はすでに触れましたが、事業の先々を案じて、夢にうなさ
れている父の姿も、数えきれないほど記憶しています。

  母と二人三脚になってからも、父の肩には、事業の重荷が食いこんでいたのです。ヤス
サンは所詮、従業員の一人、心の支えを期待するなどとても無理、そこに我が子が住み込
み、たびたび職場に顔を出したのですから、父は多少なりとも、気持ちが安らいだと思い
ます。

  父は室町の金融機関本店に貸し金庫を借りていました。中学生の私を代理人の一人に登
録、貸し金庫を訪れる時は私を伴い、財産について説明してくれたのも同じ気持、あるい
は「いつ死んでもよいように」だったと思います。

  いつ死んでも家族が困らないように、身辺を整理しておくのが事業に携わる者の義務だ
と思っています。

  法人と個人の全財産を常に査定しなおし、負債総額に対照させ、清算時の残高を直感的
にはじき出す、事業主には死もまた勘定科目の一つであり、貸借の均衡が負の側に揺らい
だときは、言い知れぬ不安と恐怖に苦しめられます。

  神田に移り住んでからは父も母も、私の生活や勉強や就職について、希望も苦言も漏ら
したことはなかったと思います。二人とも、我が子に期待していたのですが、学問のこと
も就職のことも二人にはまったく知識がなく、自分の期待をどのように伝えてよいかわか
らなかった?  

  そのためか、高校を卒業する頃には、私も相当うぬぼれが強くなり、両親に対して傲慢
に振る舞っていましたが、不安症で控え目は父親ゆずりで、私にできたわがままと言えば、
時代かぶれの観念論をふりまわすのが精一杯、事業にふりまわされていた二人には、もと
より通じる筈もありません。

  本八幡時代は、なにが父の不安をやわらげたのでしょう。相克の相手が妻の実弟と実母
では、不安の癒しを妻にもとめるのは難しかったと思います。夢にうなされ、泣いていた
父を記憶しています。家族を失った夢をみた……、父をなだめていた母は、そう話してく
れました。

          八三

  自転車で近所の農家に牛乳を買いに行く、その荷台に乗せられた感触が、私の記憶する
最初の父です。

  本八幡から十五分ほど北に歩いた市川市Nが、小六までの私の我が家、その後背には田
畑がひらけ、乳牛を飼育していた農家から、毎朝わけもらった牛乳が、幼い兄弟の、一人
は結核性の療養の助けになり、一人は栄養失調の回復に役だったとは母の記憶ですが、私
が牛乳を飲めるようになったのは、下剤効果のうすれてきた近年のことで、牛乳なしでは
助からなかったと聞かされても半信半疑。また、荷台に私をのせ、牛乳を買いに行ったの
が父ではなく母だったという記憶も消えています。

  めずらしく父が牛乳を買いに行ったのです。牛乳を入れる一升瓶と牛の臭い、それとぬ
かるんだ畦道が、父と一緒の安堵の中で、はっきりと蘇ります。

  当時の父は、若さも手伝ったのでしょう、実によく働いたそうです。自ら原反を仕入れ、
自ら型紙を起こし、自ら裁断し、自ら職方に持ちこむ唯一の足が自転車でした。当時の我
が家は、父の踏む黒ぬりの自転車と、母の踏む黒いシンガーミシンに負っていました。

          八四

  戦地の話題にふれますと父は口を閉ざします。父のアルバムの写真については、尋ねて
も反応さえありません。黒い顔の兵隊数人の足元に、あぐらを組んだかたまりがうつ伏せ
に横たわり、少し離れた地面には、人間の頭部と、抜刀した職業軍人の武張っている写真
です。

  父の片方の耳の、つけ根から顎にかけて痕がのこっています。戦地でなぐられた傷です。
高校のころ、そのことに触れ、何度か戦争の話題に水を向けましたが、なにも語ってはく
れませんでした。

  なぜあのような写真が、個人のアルバムにあるのでしょう。太平洋戦争の、歴史本や報
道資料で見かける種類の一枚。あの写真にこめられている父の想いがわかりません。

  戦争が、父の人生観に影響を及ぼしたのかも知れません。人間性に対する信頼がゆらい
だとか? では、戦争を知らない私はどうなんだろう? 大人の我々は、信頼を云々でき
るような選択に努めてきたのか?

  平時に非難される選択の一つは、他者およびその家族の絶望と引き換えに、自己および
その家族の「贅沢」を維持することではありますまいか。しかし今は、どこの社会も企業
家精神に殉じて、平然と、あるいはより巧妙に、「整理」に手を染めているようです。

  小学生の私は、おだやかな父が好きでした。母に対しても同じです。母には眩しさを感
じたこともあります。しかし争う二人には、いても立ってもいられないほどつらかった。
耳をふさいでも聞こえてくる諍いに、深い悲しみを憶えました。

          八五

  当時の本八幡駅は、小さな木造で、駅舎の右隣りには、降車専用の改札があったと思い
ます。傘をかかえ、駅舎の軒先で雨宿りしながら、電車がつくたびに乗客に目をこらし、
父を待ちわびる私と同じ姿が、現在の最寄り駅にも認められます。

  幼い子は父親を信じています。これ以上なにを望むのでしょう。忘れているのなら、帰
宅時の改札にお出かけ下さい。必ず見出すことができる筈です、父を待ちわびる子の中に。

  一度だけ、リンタクに乗せられて帰った記憶があります。抱えた傘は使わないで、駅前
広場の、二列に並んだリンタクに乗ったときの、ペダルを踏む息づかいと、防水布のはた
めく音が、昨日のように聞こえてきます。

  リンタクとは、三輪自転車の後部を、二人が並んで坐れるように改造し、客席に防水布
をかけた人力のタクシーです。

  自動車に乗るとかならず吐きました。乗り物酔いはみじめなものです。リンタクは吐く
心配がなく、雨の夜を、夢見心地で帰りました。

          八六

  小学校に通っていた当時の本八幡は、駅前を少し歩くと、片側一車線の千葉街道に突き
あたります。そのころは、北上する通りが約一キロにわたって欠けていました。バスは走
っていなかったと思います。

  千葉街道から逸(そ)れ、路地を京成八幡駅に向かって歩き、踏み切りをこえ、気持ち
広くなった道を北に進み、東に折れ、泥で汚れた小川に沿って進みますと、本八幡駅前か
ら北上する現在のバス通りに出会えます。この地点が、学校の帰りに幾度となく、肥桶を
積んだ馬車と鉢合わせした場所。

  低学年をすぎたころに、欠けていた部分が拓かれ砂利道が通じました。しかしお店はな
く、雨の日はぬかるんだので、わざわざ京成八幡を経由して省線の駅に向かっていました。
ただ、新しい道で営業をはじめた文具店は見るのが楽しく、五、六年になってからは、よ
く立ち寄りました。

  千葉街道から京成八幡までの路地には特別な愛着があります。道そのものは家と家の狭
間にすぎませんが、自転車も遠慮するほど狭かったので、我が子の手を引く必要がなく、
この路地には、父と母の寄り添う姿が染みこんでいるのです。

          八七

  春になるとデージーが売りに出されます。浅い木箱に詰められた赤やピンクのデージー
は春を告げる路地の彩り、狭い場所でしたが、農家がわずかな日銭を求め並べていました。

  今は大型の園芸店が、多種多量の苗や鉢花を販売し、買う側も量販店の感覚で、ポリポ
ット入りの規格品を求めています。当時の小売は、個人営業の対面販売で、路地のデージ
ーも、木箱から根の垂れている苗を選び、オバサンに新聞紙に包んでもらい、持ち帰りま
した。

  ほかの露店は、パンジーやチューリップもありましたが、この路地はデージー一色、買
ってもらった苗はそのわずか一株ですから、ずいぶん小さい春の花、地に植えるとまぎれ
てしまいます。それでも、あふれるような幸福感に満たされました。

  ほんの少しの幸福に、心から満たされることは素敵です。ほんの少しの幸福がつらなっ
て、街全体が満たされることはもっと素敵。しかし半世紀を経た今になっても、デージー
は街ではなくお店に並べられ、ほんの少しの幸福を商っている状態です。幼い私は当時、
路地がデージーで被われる夢を見た……。



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