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随想 繊維問屋にて (5-4)




          八八

  MLでの連載はリズムに乗るのがむずかしいです。翌日、読み返しますと、ぎくしゃく
が目につきます。折々の部分校正と、脱稿後の全文校正をあわせますと、私の場合、原文
の優に三割は削ることになりますが、それですとMLの連載では、全文削除の連載日が生
まれてしまいます。

  私の作文は、日本酒の精米と似たようなものです。削れば削るほど調子が出ます。意味
や筋におかまいなしに、言葉を削る悪癖があります。書き始めは、意味にこだわるのでギ
スギスします。好きな音楽、例えば交響曲を流しながら読み直し、調和したときが校正の
筆を置くとき。まだそれは少し先。

  幸い、父の治療の副作用は今のところ現われていません。検査の目的の一つに、処置に
耐える体力の判定がありましたが、説明に誇張があったとしましても、心臓と胃腸は若い
人並みの丈夫さであり、持病の血糖値も正常域、白内障の進行はおそく、聴力は正常で、
日課となっている台帳の記帳も毎日続けています。

  今から十五年前の問屋では、業界でもいち早く汎用コンピュータを導入、台帳廃止によ
る「整理」を実施しましたが、必要の折は自前でソフトをつくれるため、相手の心を傷つ
けるよりも、手作業を残すほうが建設的と判断、説き伏せる愚をさけ、一線から引いてい
た父の、台帳だけは残しました。治療を開始した今も変わらず、父は正確に記帳を続けて
います。

  隙があったとすれば一病息災にあったのでしょう。週に一度は持病の診察をうけ、月に
一度は院内の眼科に立ち寄り、それを十年以上続けていたのですから、また数年前は、別
の部位に異常を発見、すみやかに除去して懸案を除いたのですから、さらに検査が必要と
は、夢にも思わなかったと思います。一病の、検査があるから大丈夫という思い込みに、
不覚があったのかも知れません。

  幼いころの我が家は、名医とされるお医者さまに恵まれていました。その先生は、患者
の胸と背中を丹念に手で叩き、患者のおなかを押さえるだけで診察がつくという、現在の
検査重視の治療法とは対極にありました。「これがF先生であったなら」という母の想い
にも、胸の疾患だけに共感をおぼえます。親切な外科のお医者さまからも、他の科に対す
る舌うちが密かに漏れた……。

  重い病気は、患(わずら)ってみて、はじめて恐ろしさを実感できます。そのときにな
りますと、なまじの死生観は通用しません。一病にかかわらず定期的に検査をうけ、息災
にかかわらず自分の生を顧みておくことが、今ほど大切に思ったことはありません。しか
し、検査と回顧をしくじったとしましても、美を潰すことはできません。悔やむ必要など
ないのです。

          八九

  家の明かりは当初、六十ワットや百ワットの裸電球でしたので、日が暮れると、とても
心細くなりました。電灯の下だけが明るく、電球の傘からはみだしますと、夜叉や魔物が
隙をうかがい、天井には、心を貪(むさぼ)る鬼が住んでいました。

  笑い声が凍りつき、家族の談話が墓標を刻む夜半には、寂しさも賑(にぎ)わいに感じ
るほど心が痛み、拒んでも振りほどいてもまとわりつく恐怖に、一睡もしないで夜を明か
したこともあります。そのような夜は朝になっても、夜叉も悪鬼も消えません。授業中も、
放課後の最後の一人になっても、魂に食い込んだ悪鬼は、しめつけを緩(ゆる)めてはく
れません。

  荒れる? 責める? 逃げる? どの選択もしめつけを増すばかり。夜叉のはびこる夕
刻は、なお逃避や反抗が悪鬼をあおり、夜叉の攻撃力を強めます。孤独の寂寥感も、絶望
の暗黒も、夜叉のすすり泣きと同じように、もがけばもがくほど苦しみを増し、他者に求
めようとも、他者を拒もうとも、自縄自縛に陥ってしまいます。一個内と家庭内の別なく、
内的解決には限界があるのです。

          九〇

  師走のある日、宿題の探しものがあったので、やむなく明かりの範囲をあとにして、押
し入れを調べたことがあります。茶の間には炬燵(こたつ)が掘られ、火桶には燠(おき)
があり、炬燵にもぐりこんで逢魔が刻をやり過ごせば、やがて母が戻ります。しかしその
日は、母の顔を見たくはなかった。

  恐る恐る押し入れを探しますと、木箱が落ちましたので、音にひるんで諦めようとしま
したが、奥に青を認め、好奇心に駆られて覗いてみますと、紙に包まれた小函が二つ。

  魅せられたのは心でしょうか。状況と環境は、心など、いとも簡単にうち砕いてしまい
ます。孤独に瀕したとき、絶望に陥ったとき、自然は大いなる癒し手、万人に手を差しの
べてくれます。

  願っても、自然が削られていく高度産業化の現実を、知らない訳ではありますまい。  

  魅せられたのは包みの青。薄明かりに照らされ、輝きを増す包みの青が、夜叉も悪鬼も
消し去ってくれました。

          九一

  本八幡の家には茶室がありました。父の何番目かの姉の子が、大学受験に上京した折、
しばらく寝泊まりしていた六畳間に、炉をこしらえただけの部屋でしたが、床の間があり、
出入りの襖も配置され、お点前には恰好の部屋でした。

  母はお茶とお花の師範でしたが、戦前のお茶の先生で(母の母と同い歳、家元の参与か
顧問)、お花の家元の代稽古だったご婦人に、戦後も懇意にしていただき、我が家が最も
落ち着いていた僅かな一時期、お茶とお花の会を月に一度、先生を迎えて開いていました。

  父は和服で、私は普段着で同席しました。二人とも見ているのがやっと。わずか半年で
身につく作法ではありません。足がしびれました。同時に孫を慈しむような温(ぬく)も
りも記憶しています。

  きらびやかな衣裳はありません。立派なお道具も欠いています。しかし、お茶にはやす
らぎが、お花には生命力が、みなぎっていました。

  無知な私が恥じ入る必要もなく、引っこみ思案の私が臆することもなかったのは、お点
前が、自己への執着を退けたからです。

  作法に集中すれば美が生まれます。心など要りますまい。様式は誰をも等しく遇し、作
法は「踏踊」の自由を約束します。静寂を課し、借景の保障を求めます。

          九二

  市内の我が家は、都内からの疎開者向けに、畑をつぶして売りに出された俄づくりの建
売りでした。粗末は当然としましても湿気がひどく、敗戦直後の、結核に冒されていた父
の体に障り、幼い兄の、全快をも妨げました。

  夜な夜な現われる台所のイモリはご愛敬ですが、風呂場のヒルは歓迎できません。狭い
庭にはどぶ川が放置され、エビガニが採れたのですから、家が南向きでなかったら、皆の
回復はもっと長引いたと思われます。しかし就学前の私には、どぶ川もかい掘りの好機、
全身、泥にまみれ、母をこまらせていたと思います。

  やがてどぶ川が消え、デージーの庭が現われました。

  当時の住宅は、平屋が普通でした。瓦に巣くったムクドリを見に、竹垣をつたわって屋
根にのぼれば、見渡すかぎり平屋の甍(いらか)、市川方面にはクロマツ林、北には田畑
が広がり、二階建てを探すのが困難な時代、東西にほそ長く、狭い敷地の我が家でも、太
陽の恵みを十分に受け、薔薇が見事に咲きました。

  青空が広がり、雲の影が甍をなぞる家並みには、まだ静謐(せいひつ)という言葉が生
きていました。夜明けの太陽が人々を力づけ、夕闇が家族のぬくもりを呼びさますこの地
には、孤独さえ友として、夜空の声に聞き入ることができました。まだ幼かった私にも、
ほかの子と同じように、自然に親しむ技術がそなわっていましたので、時を忘れ、永劫の
美を奏でていたのです。

  辿りついた答は思い想うこと、関係の鉤(かぎ)は思想にあり、普遍化された「私」に
ある、数年前まではそう結論づけていましたが、今はさらに歩を進めています。

  鉤を思想に求めることは、数多(あまた)の過去のくり返し、傑作へのこだわりに留ま
ります。相互に作用する動態思想、などという妖怪が現われたとしましても、それは創造
とはかけ離れ、過程にはほど遠い正統のうわ塗りにすぎず、「踏踊」の宇宙には遠くおよ
びません。二重生活を一重にするのではなく、人間一個のなかで、正統を牽制し、美を創
造する構造と機構、および雛型の蓄積が、必要なのだと思います。

          九三

  父も母もようやく落ちつくことができました。母は一時、父以上に惑っていたのかも知
れません。

  カルテに「今日は診察があります」というメモがあり、なにごとかと案じましたところ、
笑いながら「お加減は」とご機嫌うかがい。お医者さまもほんの少し、息ぬきがしたかっ
たのでしょう。

  昨日は久しぶりの絵画教室、母が父のそばを離れるのは、本当に久しぶり。

  退院してから一昨日までは、母は、片時も父のそばを離れませんでした。お医者さまか
ら「過保護にならないように」「来週の診察が済んだら小旅行もよいですよ」と言われ、
安心した父が熱心にすすめたのです。妹さん(母の妹)への連絡を済ませ、教室に出かけ
る直前に「今日はお稽古!」とささやいてくれました。母の表情は仕合わせそのもの。経
過がよく、母も力を得たのです。

  母の実妹は神田の背広商に嫁ぎました。廃業後、貸ビルを業として、現在は自由時間に
めぐまれ、日本画に熱中しています。勤労者対象の公募展では特別賞を受賞した腕、しか
し同じ姉妹でも、二人の画風はまったく違います。

  妹さんのご主人は大病をわずらったので、今も頻繁に病院通い。待合室で顔を合わせ、
父と一緒に帰ることもありましたが、検査入院以来、お互いに遠慮して、目顔で挨拶する
だけです。

  母の相克の時代、妹さんの立場は微妙でした。型通りのあいさつが数十年も続いていま
した。なにがきっかけだったのでしょう、人もうらやむ仲に戻ったのは。

  母は妹さんの娘時代の、振り袖の肖像画を描いたことがあります。麻紙に向かう熱の入
れように、仲のよさを改めて知らされました。二人の幼いころが、蘇ったのです。

          九四

  子育てのときは夢中でも、子離れしてみますと、子が生き甲斐であり、子が生きる支え
であったことに気づきます。しかし子が生きる縁(よすが)であることを知ったのは、父
の病気がきっかけです。両親も我が子を信頼しています。二人は、父にとって最も重大な
選択を、我々兄弟にゆだねました。

  前々から、「子の世話にはならないよ」「動けなくなったら施設に入ります」と話して
いた二人です。今回も、二人だけの生活に不安を感じ、いろいろ援助を申し出ましたが、
将来の施設入居の意志は変わりません。先のことはわかりません。しかしこの気持ち、わ
かるような気がします。

  我々夫婦も動けなくなったら、同じように振る舞うからです。しかし病気治療の選択を、
私は我が子にゆだねるでしょうか。私は違います。昔からの意志は今も変わりません。ま
ず本人に伝えてほしい。選択は自分でします。関係者へは私が伝えます。しかし、私は誰
にも伝えません。自分の重荷は自分一人でで引き受けたほうが、私が楽だからです。

  この歳になって迷いがでました。「どちらでもよいのだよ」、父の声が聞こえてきます。
様式美は一つではありません。新しい美の発見に、戦慄さえ覚えます。

          九五

  デージーの庭には薔薇が咲き、薔薇の庭には日本水仙が植えられました。薔薇も水仙も
母が植えました。

  現在の我が家にも日本水仙が植わっています。私が植えました。位置も同じ庭の東、し
かし、昔は南向き庭の東端でしたが、今は南東向き庭の東端、つまり北東の一角の、昼に
は建物の影になる場所に植わっています。

  我が家は南東向きなので、夏になっても風通しが悪く、冬には陽が入りません。そのせ
いか草花の花つきがよくありません。せっかくの日本水仙も、植えた最初の年だけ花がつ
き、以降、肥料を与えても分球しても、青々とした葉がしげるだけです。

  もし私が分譲する立場になれば、千もの家を建てられるこの団地は、利益を削ってでも
真南に向けて区画を切ります。草花の美は生涯のよき友です。南東向きに区切って得られ
る利益が、自分の生活に加わるとしますと、生涯、そのことを悔やみます。もしこの団地
が真南に向いていたら、千の家族が数十年間、いや数百年間、日本水仙の美をえられるの
ですから。

  昨日は上野の東京都美術館に、テート・ギャラリー展を見に行きましたが、春分の日も
手伝ってひどく混みました。遊園地も庭園も、混雑する日は入場を制限し予約をとります。
雑踏の中で鑑賞する美とはなんでしょう。

  芸術作品を、主義者や分限者が私物化することはかたくお断わりします。しかし、いく
ら美術が身近になったと言いましても、鑑賞する土壌が損なわれてしまえば、せっかくの
作品も台なしです。

  美を愛するのであれば、足元の美が失われていく状況に、暗澹(あんたん)とした気持
ちを感じて当然ではありますまいか。テート・ギャラリー展もまた「踏踊」の一つ、我が
家の庭と地続きにあり、心象にうがたれた扉の一つ、英国絵画の最高傑作も、はるか昔の
日本水仙の一輪なのです。庭の水仙が雑踏にふみにじられたら、それは大いなる悲しみで
す。美術館も同じではありますまいか。

          九六

  母は日本水仙に続いてグラジオラスの球根を植えました。夏になると剣先のようにしま
った蕾(つぼみ)がひらき、家族が持ち帰る草花で、四季折々、花の絶えない庭が現われ
ました。もとの敷地は畑でしたので、草花の育ちがとてもよく、肥料や薬剤は、ほとんど
要らなかったと思います。

  花壇の手前をゆるい曲線でふちを取り、ふちのくぼみに瓢箪(ひょうたん)形の池をつ
くって金魚を放しましたが、この池、父と兄弟で庭を掘り、セメントを流し、雨水をため、
茣蓙(ござ)をうかべて灰汁(あく)を抜き、さらに大雨の日、鯉がとび出してしまった
ので、金網の被いもかけました。

  瓢箪池は膝までの深さです。幅は広いところで三尺、長さは七尺、底に石を沈め、冬の
避難所としましたので、氷が張ると隠れてしまう金魚や鮒が、水がぬるむと姿を現わし、
春一番に発見したときの感激は、鶯(うぐいす)の姿にまさるとも劣りません。

  梅雨の日は、ガラス戸をしたたり落ちる雨水に見入り、時間をつぶしましたが、退屈に
耐えきれず、釣り竿をつなぎ、庭のミミズを針にかけ、廊下から瓢箪池に糸をたれると、
ものの数秒で金魚がかかり、あわてて池に戻したことも。

  脳裏に、草花の一つ一つが刻まれていきます。交響楽団にも匹敵する演奏装置が、生活
の一こま一こまを譜面に変え、現在を様々な作品で満たしてくれます。

          九七

  我が家を出て北に進むと、原っぱ、畑、田んぼ、溜め池、小川、林、森など子に必要な
自然がひと通りそろっていました。

  自然の中で、幼い私が最初に美を意識したのは林立する巨大な粟(あわ)です(※←粟
ではなく、イネ科のタカキビ、またはトウキビ、モロコシと呼ばれる茎丈1.5〜3mの一年
草を誤って記憶)。行く手をふさぐ粟畑の、代赭色の穂に魅せられ、その場を動けなくな
りました。粟とは初めての出会いでしたが、それが葦とは違い、食用に供される穀物であ
ることを生まれる前から知っており、この世で偶然再会して、衝撃を受けたのです。

  若い芒(すすき)の代赭色の穂も、珊瑚樹の赤い実も、最初の一目でなつかしく、今で
も見るたびに痺れていますから、感受性の宝庫であった幼いころに、細粒の実をつけた粟
の穂に行きあたれば、動けなくなるのも当然です。

  粟が、画題や生け花に用いられる理由がわかります。しかし、私がもっとも好きな粟は、
画布の粟や花器に生けられた粟ではなく、幼いころ、突然、行く手をさえぎった畑の粟の、
不安をないまぜにした代赭色の景色です。

          九八

  花壇と縁側の間にはわずかな地面があって、子が好きに使えましたので、次にダリヤを
植えました。

  今は矮性種で色数の豊富なダリヤが、鉢植えや丈の低い花壇をにぎわしていますが、当
時、私が選んだダリヤは、丈の高い八重咲きでした。ポンポン咲きも好きですが、そのと
きは、球根のよし悪しも花の種類も意識しなかったと思います。

  新聞紙に包まれた球根の、何を求めたかは、花が開くまではっきりしませんでした。し
かし、自分で植えた草花の育つ喜びは、花の色や形には動かされません。姿を現わした太
い芽も、緑色の最初の蕾も、言葉を失うほど嬉しかったのですから、赤紫を認めたときは、
十分すぎるほど仕合わせでした。子にも、花を咲かせることができたのです。

  幼い私が画用紙に描いた絵は美ではありません。遊戯か、色や素材の実験か、あるいは
意志疎通の企てであって、幼いころの描画は、様式の前奏にも、「踏踊」の雛型にもなれ
なかったと思います。

  未完成状態はもっとも好きな雛型です。子は自然との関わりから美を紡(つむ)ぎ、両
親との関係から美を蓄積します。一方、子の描画は、美を表現するのではなく、美の枷か
らの解放だったと思います。

          九九

  同じ庭のすきまにトウモロコシを植えたこともあります。タネの入手は? 育て方は?

  母の姿が浮かびますが、はっきりしません。地面を耕して方形にタネをまいた、タネで
はなく苗を植えたのかも知れません。手をかけた記憶はそれだけです。ある日、穂が伸び
て、埃(ほこり)のような雄花が咲き、ある日、茎の一部が膨らんで、極細の糸が房をな
し、ヒゲが赤褐色に変われば収穫です。

  わずか数株でしたが、茎と葉が、子の全身を包みこんでくれました。照り映える緑の葉
と、金色に輝く豊かなヒゲが、影を光に変えました。

  穫り入れの緊張感と、収穫を母にさしだす喜びは、絵画の美も音楽の美も及ぶものでは
ありません。

  収穫の喜びを知りませんと、美が心象に育っていませんと、同じトウモロコシの絵をみ
ましても「踏踊」の扉は開きません。現代の子の、何人が収穫の喜びを知っているのでし
ょう? 過去も現在も未来も、我々は美を貶(おとし)める不利益を知り尽くしていると
思います。しかし、美を鑑賞する土台については、心象を育む環境と状況については、保
護も演出も、十分に実施しているとは言えますまい。

  最先端の美術に強い関心があります。それは心象に雛型があっての話、代替であるなら、
先端の追究よりも、金色の穂を選びます。

          一〇〇

  義務の教育に農園が付属し、義務の庭が御苑や庭園であって、義務の通学路が自然遊歩
道であればよい……、と想うことがあります。

  老後? 第二の人生? 私にはこの概念がよくわかりません。もし老後という人生が存
在できるのであれば、それは老後に突然発生するのではなく、若い頃から、老後の人生と
第一の人生が、鎬(しのぎ)を削っていたのだと思います。第一の人生が朽ちれば、自動
的に老後が跋扈(ばっこ)します。

  トウモロコシの庭からは、これ以上、現在の収穫は期待できません。瓢箪池も過去の一
部に溶けこみました。しかし家の外には、子が一人でで遊べる自然があり、子の居場所が
ありました。

          一〇一

  小学校の裏手には野原が広がっていました。春は梅の香りではじまり、田んぼのレンゲ
ソウと、菜の花と、ソラマメの香りに引きつがれ、子は誰の許しもえないで、春まっ盛り
の野原を、走りまわっておりました。

  桜の印象がありません。この地の桜は入学式の象徴でしたで、入学の緊張や進級の不安
から、桜を鑑賞する余裕がなかったのです? 晴れた日の桜はけだるく、曇りの桜はうっ
とうしい。青い闇夜の桜がよく、残りの花をふり落とした桜が最高です。

  学生の頃、菜の花の描写に苦しんだことがあります。原稿用紙を持ち出して作文を試み
ました。作法は写実、動機は郷愁、脳裏を細描する一語一語にこだわったことが、心象と
はほど遠い死語の羅列に終わり、ひと晩かかって書き綴った原稿を、翌朝には破りすてる
日々でした。

  抽象美術の作品にも「錯誤」のうかがえることがあります。事前に立体化された構築物
がそなわっていませんと、頭脳は意味不明の観念をくり出します。それを表現者は前衛と
錯覚し、自足の罠に陥りますが、当時の私もおばけの山に(子の絵の方がはるかに表現力
のある現実に)愕然として筆を捨てました。

  描写する必要はなかったのです。扉で守られていたのですから。

  表わしたいのであれば、文や絵ではなく、環境を戻せばよいのです。畑に遊ぶ菜の花讃
歌は蛇足です。菜の花の記されていない子の心は、わからなくて当然です。

          一〇二

  桜の下で広げるお弁当が楽しいのは、子の心が息づいているからです。夜明けの桜が美
しいのは、澄んだ空気と沈黙があるからです。自由は喧騒の彼方にあると思います。静寂
がいかに美しいかを、桜の樹肌が語りかけているのです。

「踏踊」は、自由を自己の宇宙にとりこみます。知識も観念も、文字も音も包含した巨大
な銀河が、扉の奥に現われます。扉は自己耽溺を認めません。環境と関係し、人の営みと
交渉し、自己の亀裂を深めるか、自己の扉を増幅するか……。もし「踏踊」の個体が手を
つなげば、美の拡張が約束されます。もし、とり残されるのであれば、寂しさがつのりま
す。悲しみは自由の報酬です。何にも代え難い自由の、悲しみは唯一の報酬です。

          一〇三

  シジミをとった小川は、真間川水域の一部でした。真間川の土手には桜並木もありまし
たが、土手の桜にも際だった印象はありません。真間川に沿った洋館の、うっそうと茂っ
たバショウの株が、桜の宴をうち砕いてしまったのです。

  つくり笑いは不自然です。同様に、静寂をそこなう押しかけ遊戯には、とてもついて行
けません。桜の樹肌には、企てた花見など足元にも及ばない「踏踊」が隠されています。
しかし扉の鍵は、大人はもとより子も、観桜に浮かれる状況下では手にできません。美は
追えば追うほど、作為の及ばない彼方へ逃げ去ってしまいます。

          一〇四

  昔、絵も文字も音も、草花も夜明けの太陽もことごとくおき忘れていたころ、運転席側
ガラス窓のわずかなすきまに、透き通るような青い闇が現われ、闇の中から堰を切ったよ
うに、様々な想いがふき出してきたことがあります。深夜の道に人はなく、降り立って夜
空を仰ぎ見ますと、桜の花弁が舞っていましたので、怪訝(けげん)に思い闇を透かせば、
風にそよぐ黒い幹が、震えながら立っていました。

  人々が去ったのを悟ったのでしょう、残りの蕾(つぼみ)をふるい落として、むき出し
にされた桜の樹肌は、人間の恥部のように生々しく、子を慈しむ母のようにやさしく、涙
がとめどもなく流れてきました。

  昨日は二分咲きだった公園の桜が、記録的な暖かさに急(せ)かされ、わずか一日で七
分咲きになりました。青い闇を認めたころは、児童公園を半周するだけで息が切れました
が、寒気の去った今朝、Tシャツの軽装で十キロの道を走っていますと、宙を翔(と)ん
でいるように爽(さわ)やかです。

  自由は権利でも概念でもなく、素肌の感覚そのものです。清澄な大気の中で、人は毎朝、
自由を知ります。早朝の白い並木を、たった一人で舞っていますと、雲に乗っている心地
がします。やがて雲海は雪柳(ゆきやなぎ)に引きつがれ、染井吉野に赤みがさして、朝
の太陽を迎えます。

          一〇五

  幸い、治療の効果が顕著に現われ、病巣は外科のお医者さまの予想より小さくなりまし
た。これからの二週間は処置の部位をせばめ、集中的に治療します。心配されていた副作
用、例えば不快感や食欲不振はほとんど認められず、母はことのほか喜んでいます。治療
の影響で臓器の一部は損なわれますが、それも機能の低下だけで済むとのこと。

  声が嗄(か)れました。しかし、検査入院当時の衰えは影をひそめ、父はおだやかな表
情を崩しません。

  土日を除く毎日が通院なので、朝一番に病院に出かけていきます。若いご婦人と一緒に
なるそうです。出足が遅れますと、同じ治療待ちの人で混み、事務所に戻るのがお昼近く
になります。しかし、待たされる苦痛よりは、よい病院を利用できる満足のほうが大きく、
それ以上に先生に恵まれ、家族もみな、幸運に思っています。

  治療が終わりり、二人が事務所に顔を出しますと、すぐに珈琲をいれます。検査入院直
後に、秋葉原で買ったフィリップス社製、二九八〇円の珈琲わかしに、MJBのブレンド
をたっぷり盛り、電源を入れてものの数分で出来上がります。MJBの缶は、父が本八幡
の我が家で、初めていれくれた珈琲です。(※←地名は最寄り駅ほか。実際の住所名は今
まで書いたことがありません。)

  事務所が芳香で満たされます。あと片づけも私なので、誰の手も煩わす必要はありませ
ん。父がしゃがれた声で言います。毎朝毎朝、言います。「これが楽しみなんだ」「ほん
とにこれが楽しみなんだ」と。

          一〇六

  珈琲の碗皿も買いました。最寄りの百貨店に出かけましたが、お目当ての銘柄が見つか
りません。それならばと、二人が訪れたことのあるW社の李(すもも)の図柄に決めまし
た。このお値段なら、手がすべっても大きな負担にはなりません。淡い青の西洋李に、ボ
ーンチャイナの柔和な白磁がよく似合います。

  碗は珈琲をそそぐ直前まで熱湯であたためておきます。碗に珈琲をそそぎますと、一瞬、
事務所が明るく輝き、李の実がゆれ、李の花が芳香を放ちます。

  父はすぐには飲まないで、珈琲を見つめることがあります。李の絵が気にいったのでし
ょう。白磁に魅せられているのでしょう。そのような折、母は、父の横顔を黙って見つめ
ています。珈琲がさめますよ、お二人さん……。

          一〇七

  缶の緑があざやかに思い出されます。父が缶を開けますと、珈琲の香りが部屋を満たし、
どのような飲み物かと、家族の誰もが胸をわくわくさせました。

  香りだけで、十分すぎるほど幸せでした。圧巻はアルコールランプで加熱するサイフォ
ン式の珈琲沸かし。熱せられた水が上の器に移り、音をたてながら珈琲とまざり、みるみ
る澄んだ液体に濾過されます。その驚きと興奮で、裸電球の茶の間が隅々まで明かるくな
りました。父も嬉しかったのでしょう。そのときの父の心が、手にとるようにわかります。

「ほう、MJB!」 四十五年前の珈琲を、父も憶えていたのです。父の宇宙を、他者は
親子であっても、理解することはできません。しかし様式美は、悲しみの様式も喜びの様
式も、万人、同じだと思います。父は心象に私と同じ扉を一つ、緑の缶を穿(うが)って
いたのです。

  私は自由です。父という他者に対して、八十一年間生きてきた人間に対して、同じ「踏
踊」を認めたのですから。

「私」はどこでもいつでも、人がいる限り自由を謳(うた)い、宙を跳び、様式美を舞う
ことができると思います。律法も権威も自己耽溺も、珈琲豆と、碗皿と、「義務」の自然
に及ぶものではありますまい。



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