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一〇八
五月の爽(さわ)やかさを、夾雑(きょうざつ)物にはばまれた経験もあります。就職
して間もないころ、メーデーにかり出され、千駄ヶ谷の鳩森神社に集合、代々木公園に向
けて行進に加わったときの話です。
その日は涼しく、微風で快晴という絶好の行楽日和。
拘束される息苦しさと、大音響の演説に耐える疲労、散会後の屋内飲食の味気なさに、
「大人とはこんなものか」と妙に納得しましたが、我々の社会の、自由を自ら遠ざけ、新
緑を人為で塞ぐ感性を、深層では拒んでいたと思います。
美は、もっと力強いです。習慣や規律や価値観に楯(たて)をつく、それが美です。万
人が素肌で感じている新緑の喜びを、「自由に」ではなく、「人為に」ゆずらなければな
らない理由など存在しません。新緑の季節に繰り返す示威運動は、体制であれ反体制あれ、
権力のご都合主義にすぎません 。
「踏踊」には静寂と沈黙が必要です。
一〇九
音楽と同じ、文学と同じ、いえ、それ以上だと思います、美術に必要な静寂は。
イヤホーンの音量を調節すれば、意図的に静寂(集中空間)を確保できます。音楽鑑賞
には、必ずしも静寂は必要ありません。文学も、押しの強さ次第ですが、通勤電車でも没
我できますから、音や文字は、我慢や妥協との抱き合わせで、静寂を割り引くことも可能
です。しかし美術は、単に静寂だけでなく、沈黙も必要です。
草原の、子らのざわめきはそよ風にのって、空に溶けこんで行きますが、美術館内の密
集は、作品が奏でる「踏踊」を妨げます。
好きな作品も、観客の私語が割りこめば発展は望めません。美術館内の混雑は「踏踊」
の連続性を寸断し、新たな扉を加えるのではなく、訪館前の期待まで曇らせてしまい、両
親との折角の外出も、悲しみと疲労に彩られてしまいます。
今月下旬、父と一緒に、郊外の美術館に出かけることになりました。五月下旬には、新
幹線で小一時間の温泉への、一泊旅行も同意してくれました。娘の日程が合わず、困って
いまたところ、父から日程の変更を提案、自分の予定表に、新しい印が書きこまれました。
今回は総勢五人。父は、美術専攻の孫娘と出かけることが、なによりも嬉しそう。数年
前まで、父に美術鑑賞の趣味があるとは、夢にも思いませんでした。母も我々家族も、父
を誘わなかったので(父の外出時に合わせて出かけましたので)父は「行きたい」とは言
い出しかねていたのでしょう。
美術館内の父は、一人で順に作品を調べ、気に入った作品の前で、黙ったまま見入って
います。今回予定している美術館は、現代米国の作家展と、東洋古美術の常設展ですから、
混雑による心身への影響を、気づかう必要もありますまい。家族と美術館に出かける喜び、
温泉に泊まる楽しみ、父も母も、新しい「踏踊」を見出しました。
一一〇
静寂の育苗、沈黙の豊穣、声なき讃歌、律法なき祈り……
文字や音や色を用いましても、人には表現できないが楽曲があります。限りなく広く、
遥かな宇宙を仰ぎますと、最も静謐な星から、もっとも暗い沈黙から、存在を讃え、生命
を祝福する旋律が聞こえてきます。
人は永久には生きられません。個体はもとより種の継承も、人は永遠には存在できませ
ん。やがて無に帰する、それが明日であっても不思議はないです。ではなぜ煩(わずら)
うのでしょう、自意識からの解放を、美への昇華を。
本八幡時代の自然は、静寂と歩みが一つでした。真夏の真昼、人々が午餐(ごさん)の
休息でくつろぐとき、帽子もかぶらず、ズック靴をはいて、扉をひらき、稲穂の立った田
んぼをとび越し、草深い荒れ地を渡り、楢(なら)の樹海に分け入りますと、湧水の澄ん
だ流れと、鏡の湖面がありました。
一一一
原始の自然は、限りなく美しかったのでしょう? 火山も荒野も、自然の構築物はこと
ごとく美しい。自然から生まれた人間には、なぜか自然に対して、美と称される照応が予
定されています。
畏怖(いふ)はあっても、植物で被われた地表に、醜さを見出すことは困難でしょう?
人も同じなのですよ。人は慈愛に包まれて生まれてくる、その照応に比肩できる美しさ
を、人為でつくり出すことはできません。
価値観や善悪の判断は、外的因子に影響される、そうではありましても、より深層では、
美と表現される衝動に支配される、それほどまでに古代の環境は美しかった。
湧水の流れと鏡の湖面は、大気よりも透明で、宝石よりも明るく輝いておりました。な
ぜ太古の自然がその逆でなかったか、不思議でなりません。
一一二
小学校裏手の沼には魔物が住んでいましたので、踏みこむ者は容赦なく裁かれましたが、
楢の樹海は妖精さえ遠慮して、訪れる子に……、
そう、誰でも選ばれる資格があるのです。扉を叩く者に、自然はすべてを捧げてくれま
す。自然は訪問者を遇する作法を身につけており、遵法者の資格、能力、経験、境遇、経
歴、権力、財貨、精神、感情の一切を捨象、ただ一個の人間として、最高のもてなしで接
してくれます。これほど偉大な芸術家を、人間界で見出すことは不可能でしょう。
自然の美を眼前にして、自ら斧をふるい、自然をうち砕くことは困難だと思います。
「観念」と「金銭」が、それを強いるのだと思います。
義務の現場が新緑の庭園であり、通学路が照葉樹の雑木林であれば、はたして卒業生は、
校庭をコンクリートで塗りつぶし、雑木を引き抜き、通学路を車道に変えることを喜ぶで
しょうか。人々は百済観音にペンキをぬり、向日葵(ひまわり)を看板に変えることを喜
ぶでしょうか。
芸術と呼ぶ習慣がない、それだけのことではありますまいか。感動のかけらもない作品
も、ひとたび芸術と呼ばれますと、人は頭からまもるように応じています。では自然も芸
術と呼びましょう。自然の芸術は万人が参加できる表現活動です。滅びてしまったものは、
新たにつくり出さなければならないのですから。
巨額の費用と、五百年千年という気の遠くなるような歳月と、企画力と、起業力と、経
営力と、人々の協働を必要としています。
繊維問屋が軌道に乗るにつれ、私の青春も開けてきました。「奇面組」という連載漫画
が私の愛読書。色彩は違いましても、「踏踊」の様式は同じだったと思います。
一一三
高校時代は掲示板からはじまります。発表時間もとうにすぎた午後になって、春の陽の、
おだやかに降りそそぐ校庭を横切り、体育館横の、誰もいない掲示板を見あげたとき、こ
の学校に受かっているのはわかっていたのですが、私の「奇面組」が始まりました。
中学の校舎は暗すぎました。中学の太陽は、直方体を対角線で切り分けた上半分に注ぐ
だけ。高校は、北側が鉄筋の校舎、東側は屋根の低い体育館、南側西寄りに室内プール、
西側の高台に小運動場、高台に上がる崖にはミニミニ緑地と、都心にありながら、太陽に
めぐまれた学園でした。
嬉しかったですね〜。いえ、試験の結果ではありません。結果は期待通りではなかった
のです。当時は「上」がある学校で最も困難視された私立には受かっていました。でも、
私は私立はいやでした。今も、租界の特権より、枠外の孤独を選びます。
受験科目の多かった公立はどこも駄目と思っていました。中学も高校も、三年になりま
すと結石の勢いが強まり、受験勉強はとても無理(やる気もなかったです)。学校の勉強
も切れ切れで(こちらも興味があったのは数学と、中学では生物、高校では体育かな?)、
成績は皆が上がる分、自分が下がる、それでも公立高校に入れたのです。しかも昔の府立
第N高女! 徹底した硬派でしたが、ほろ苦く爽やかな喜びを知りました。
一一四
女の子、お嬢さん、娘さん、女子高生……。やはり高一の女子には「おんなのこ」がふ
さわしい。よいところの女の子も、そうでないところの女の子も、高一最初の教室では、
期待と緊張と、あどけなさが交じりあい、真新しい制服と初々(ういうい)しさが調和、
私はうっとりさせられていた……、のではなく、緊張と警戒の殻に閉じこもっていました
が、実は硬い殻は見せかけで、思い起こしてみますと、女の子一人一人の表情態度を、特
に最初の頃は克明に、見つめていたと記憶しています。
クラスの男女比は一対二。人数だけでなく成績も女上位、という事前知識(ないし偏見)
がありましたので、入学早々臨戦態勢。軟派の男子はルンルンだったかも知れませんが、
男子を不出来と思っている女の子もいたようなので(再び偏見ないし自意識過剰)、初め
からもてる期待ゼロの私は完璧に女の子を無視、ついでに先生も学業も首尾一貫して自然
体(上の空)、仲間ができるに従い、偏屈の矜持(きょうじ)で唯我独尊(父の治療がと
りあえず月曜日で終わります。元気です。とてもとても元気です。)
一年の一学期末に通信簿を渡されました、その順番が問題でした。最後に手渡されたの
は私です。最初に手渡されたのは、後日、とても親しくなった友人の一人です。(※←現
在の橡展にも、毎回ご来展いただいています)。受験の余韻が残っていた男の子と、プロ
のバイトで、家を助けていた男の子の二人が、クラスの成績の表裏を飾った次第。以降、
本分を棚上げにした高校生活、つまり、勉強も、成績の査定もモノともしない学園生活が
始まりました。
一一五
入学がこれほど嬉しいものとは、思ってもみませんでした。夢か、はたまた幻か、いえ、
これが現実です。本人が「志望」を自覚する前に、周囲から当然視されていた学校を踏み
筈し、劣等感にさいなまれていたのですが、陽の光に逆らうには老獪(ろうかい)不足、
青空に刃向かうには狡猾(こうかつ)未熟、もし不満があったとすれば枕一つ、校則も式
次第も、教育課程も文句もヘチマも、女の子のテニスに……(知らん顔でしたが、なんと
眩しかったか)、テニスに塞がれた校庭を巡るだけで瞬間凍結、夢のひとひらも欠いた男
の子でしたが、大気を胸一杯、吸いこんで、舞い上がっていたのです。
授業中はよく眠りました。帰宅後の手伝いと深夜のラジオが本分ですから、「夜分」の
教室には枕が要ります。教室には、都電の振動も渋滞の警笛もありません。冬は教室の奥
まで陽がさし、夏は涼風が遠慮も会釈も抜きにして通りすぎて行ったのですから、学校が
なぜ枕の支給を躊躇(ちゅうちょ)したのか、今もって不思議でなりません。
最も優れた授業は担任の先生の世界史でした。先生もよくご存知だったのでしょう。い
つもおだやかな声音(こわね)で、教えるのではなく声の大きい一人言、読経に魅せられ、
目が覚めますと女の子の背中を見つめ、再び眠くなりますと、目を開けたままの熟睡技法
に工夫を凝(こ)らした。
一一六
女の子嫌いと言いましても、授業中はスナオでいられるものです。二年の席は、中央よ
りやや後、三年の席は最後列で、黒板の字は遠のいても、皆の動きはよくわかる……、い
え、そうではなかったです。三年のときは結石が原因の遅刻が多く、始業前の雑談に加わ
れず、背中ばかり見わたす席ですと、誰が同級生だか判りません。その状態は卒業まで続
きました。
座席の配置や遅刻だけが原因ではなく、三年の理系ともなりますと、教室が塾化してク
ラスの絆が弱まったのでしょう。私は出席できるだけで楽しかったのですが、私が例外な
のかも知れません。
一年の席は中央よりやや手前、背中を見わたすには少々難ありの席。斜め二列前の内気
な子から、目をそらすのに苦労しました。
口をきいたのは二言三言、それ以上の会話は記憶にないです。二年はクラスが別でした。
その子は三年のクラス替えで理系を志望、一方、私も、仲のよかったE君のクラスを志望、
つまり文系ひとすじの私も理系を選択、再びその子と同級になりましても、三年のときは
顔も合わせなかったですが胸はときめき心うきうき。
ひそかなひそかな片想いです。巡り巡って思われる……。思っていますと思われている
ことが見えなくなります。頭からもてないと信じていました。しかし、そうではなかった
のかも知れません。
他者の片想いは思ってもみず、片想いの連鎖の中で舞っていました。男の子と女の子が
ひとつ教室で学んでいれば、皆の心も片想い。古風そのもの。
一一七
ある日、二列前の女の子がレインコート姿で坐っていました。着席しているのに雨具を
着ていたのです。淡いグレーにピンクの蕾、竹橋の近代美術館でみかけた夜桜の日本画が、
同じ灰色と桃色の組み合わせです。母が描いた妹さんの肖像画も、桜の振り袖にグレーの
背景。
当時はめずらしい柄物のレインコート。その彩色が私の好きな組み合わせでした。母親
の見立て? 父親の贈り物? きっと後者です。下校時なのに長話のホームルーム、一刻
も早く着たかったのでしょう。でも、なぜ?
中学一年のときに母がコートを作ってくれました。名士を顧客に、青山に店を構えてい
た洋服店の、やさしさと威厳と権威の同居している技術者に、礼服の指導を受けた母がさ
っそくの小手調べ。須田町で濃紺綾織の生地を買い、型紙を起こし、裁断、縫製、仮縫い、
仕上げまで完全にオーダーメイドのトレンチコート。昭和30年代の前半に、中学生がダブ
ルのトレンチ!
濃紺のトレンチコートは、母を着こんでいるのと同じです。真冬の下校時、壁につるし
てあったコートを羽織り、ボタンを丁寧にかけ、ベルトを締めますと、心まで温まりまし
た。身長の伸びなかった高校でも着続け、処分したのは、我が子の衣類があふれ、しまい
場所に困った中年になってからです。
高三の教室にも、灰色にピンクの蕾の、レインコートが掛かっていました。
一一八
小学時代は順位が常に最初。成績以外の話です。中学を経て高校に入ると、小学時代の、
複雑で孤独な立場も遠い過去になりましたが、新学期の初顔合わせは相変わらず不安と憂
鬱(ゆううつ)。せめて生年月日順に出欠をとってくれたらと、校庭にも黒板にも、祈り
をささげていたものです。
なにしろ朝礼も先頭……、いえ、中学の朝礼は背の高い順に並びました。
たかが朝礼です。朝礼でどやされるのは中列以降の私語が相場、前列は黙っていれば災
禍なくやりすごせます。やはり難関は出欠の確認、答案の返却、そして自己紹介と、五十
音順に指示される教室の行事。
高一最初の教室では、幸運の女神がほほ笑みました。私の前に三人も女の子がいたので
す。臍(ほぞ)をかためていた自己紹介も、臍をかまずに済みました。
余裕がうまれると途端に態度も大きくなります。「あ」行の最初の三人、特にその一人。
いくら女の子が三分の二いましても、軒並み懸想(けそう)しますと、恋に焦がれて炭に
なります。
カ行もサ行も、一行に何人かは気になる女の子がいました。本当は女の子も男の子も、
全員に関心があったのでしょう。しかし感覚は刺激に麻痺。鑑賞の素材や観察の対象が増
えますと、機微を感受する性能が衰え、表面の特徴だけが目につきます。後日、スキー仲
間になった女の子も「各行」の一人には該当せず、最初の出会いも記憶にありません。ア
カサ各行の関心は純粋に、見なれない作品や未知の作品の、「鑑賞」に属していたと思い
ます。
一一九
異国情緒の女の子がいました。肌が白く、洋風の顔立ちでしたが、声はか細く動作はひ
かえ目、全体の雰囲気はむしろ和風。慣れるに従いお転婆が現われ、まぎれもなく高一の
女の子。
頬が赤くみずみずしい肌の、はちきれそうな女の子もいました。大きく黒い瞳の、素顔
にはあどけなさが色濃く残り、小学生でも通ってしまいそうな幼さながら、利かん気で、
下町の魅力を醸(かも)していました。
同じ勝ち気でも、悧発(りはつ)が顔ににじみ出ている女の子もいました。顔立ちがよ
く、大柄で活発な女の子の前では、どうにも居心地が悪く、つまり相手の発育に圧倒され、
自分がいじけたように感じていました。その気持ちを相手は「せり合い」と受けとめたの
でしょう、学年末まで歯車がかみ合いませんでした。
はかない印象の子も(当時の)現代の高校生です。雰囲気を深読みして、病気がちと思
ったのは勝手な臆測、教室でくつろいでいるときの表情は和気藹々として、沈んでいたと
きの私まで、晴れやかな気持ちになりました。
張りあってくる子も利(き)かん気も、高一の女の子は無邪気で、生命力をみなぎらせ
ていました。同時に、女の子にはもう一つの表情、各々の家庭の個性も、にじみ出ていた
と思います。普通の女の子の背後には、豊かな家庭、つまり普通の家庭の、様々な表情が
あり、ア行の一人もスキー仲間も、幸せそのものだったと思います。男の子も同様でしょ
う。
女の子が大人になり母になり、中年になり社会を「睥睨(へいげい)」する年齢に達し
ますと、なぜか高一時代の家庭を薄めてしまい、物に動じなくなる傾向があります。それ
では扉もかすんでしまいます。
美の衰えを、年齢や配偶者の責に押しつけても詮ないことです。幸運にも普通に育つこ
とのできた大人には、幼いころの想いに、また、高一時代の家庭の表情に、新たな扉が用
意されていると思います。それは過去ではなく、これからの「踏踊」のためにあるのです。
一二〇
各行の一人の子(すでに書きはじめから、この「繊維問屋にて」は「踏踊」になってい
ます。楢の樹海は、この書き物の舞台ではなく、各自の扉の奥をお探し下さい)、各行の
女の子の一人からは、父と娘の交流が伝わってきました。父一人と娘一人の家族? 家庭
の事情を知らされたわけではなく、想像だったと思います。
母と娘の情愛を、姉妹のいなかった私は妻の実家から知り、我が家の現在から、その絆
の強さを知らされました。
私の母も、絆の復活を心から望んでいたと思います。しかし母は祖父(母の父)との絆
の見返りに、今一つの絆は、祖母が死ぬまで復することはなかったです。その母は子をも
う一人、女の子を産みたかったのですが、命の危険を押してまで産むことはとても無理、
当時の医療では、叶わぬ夢だったのです。
無口な父です。近年まで、娘を欲しかったのは母だけと思っていました。父の想いは頭
になかった。
一二一
昨年末の旅行の折、すでに病気の影響もあったのでしょう、足腰が弱っていた父は座敷
に坐ると立てなくなった、その父を、普段は美術館に出かける以外、滅多に会う機会のな
い娘が世話しました。
日本画に使うために、母は孫娘に、シルク・スクリーンの技法を教えてもらい、父は二
人の会話を笑いながら聞くだけでしたが、旅行中に介添えをした孫娘の感触を、検査入院
の二週間あまりも、通院治療のひと月も、ことに触れて話題にしました。孫娘の手のぬく
もりが、父にはよほど嬉しかったのでしょう。
多くの悲しみを目にします。父が逝き、母が逝き、中学の男の子や高校の女の子が、父
一人との絆にすべてをゆだね、母一人との絆に希望を託し、やさしく逞しく生きていく子
らを目にします。
産みの母も、実の父も健在でありながら祖父母と住み、迷いながらも屈することなく、
自らの選択と、自らの意志を頼りに「普通」に暮らし、高校生活を謳歌している女の子も
いるのかも知れません。私の高校時代もみな「普通」の子、それぞれの想いを育み、精一
杯生きていました。その子らと一緒だったのですから、学校に出かけるだけで(教科書は
開くまでもなく)、舞い上がるほど楽しかったのです。
一二二
小学校と高校の逸話は「編集中記」でつまみ食いしましたので不自由でなりません。美
術では同じ主題をくり返すのがあたりまえです。文字の表現では、主題の重複を避けよう
とする枠に囚われ、もどかしさを感じます、という記述そのものがすでに過去との重複。
この際、美術の慣例に従い、重複の世界に立ち入ります。
中学時代は店の手伝いが優先したこと、公立でありながら進学専科であったこと、など
から親しい友は少なかったと思います。それでも気の合う子が何人か。
古書店の子は細身の長身、お医者の子はふくよかな長身、どちらも話し声が、私の頭上
を流れていく男の子でしたが、高校時代の親しい友人二人は、さらに細身の長身か、さら
に頑健な長身で、二人の声は頭の遥か上にあり、見あげて話す私の首は、落ちている小銭
を探すのにまったく不向き、とは言え、背筋を伸ばしながらの毎日は、気持ちまで大らか
になりました。高校の他の仲間二人はむしろ小柄。我々の世代は、前の世代に較べまして
も、後の世代に較べましても、小柄な子が多い印象。
学生服姿が当然の時代、大人の意向に反する主張など考えもしませんでした。学校にも
教師にも距離をおき、また距離を望んでいた男の子には、校則や式次第は問題外、ひとた
び家のことが頭に去来しますと、なにが瑣末(さまつ)で、なにが重要かは自ずと明らか
になります。
自己主張にこだわる勝利の拳も、高処に坐して、痛みのわかち合いを説く社会時評も、
仕事にゆきづまった大人や、家族の幸せを祈る親子、また足場を外され居場所を失ってい
る子には役立ちません。
非の微塵もない我が身を責め、親にも話さず体をまるめ、苦しんでいる子もまったく同
じ。希望に飢えている親と子が、現在も無数に暮らしています。「普通」であることがい
かに大切か、その「普通の女の子」の一人がスキー仲間。
一二三
信濃町から、青山一丁目のアパートへ向け、歩いたことがありました。青山には皆が集
まって遊び、一緒に泊まれるアパートがあったのです。アパートの友人は母と子の二人暮
らし。皆が押しかけますと、彼の母御(という語感がぴったりのさばけた人)は遠慮して、
食事も寝泊まりも子らの勝手にさせましたので、他家が苦手の私にも、楽にお邪魔できた
のです。
青山に向かう傍らにAさんがいたのです。生まれて初めてのアベック! 体は石のよう
にかたまり、言葉は星間物質のように稀薄でした。
青山の子は、勝負ごとが嫌いではなかったと思いますが、麻雀が好きだったのは別の男
の子、男ばかりの兄弟と、麻雀に親しんでいたその子の家も、進学したある日、お邪魔し
たことがあります。麻雀に誘われているとは夢にも知らず。
青山に集まるのに目的はなかっです。高校卒業後も我々は、九州旅行など交友を重ねま
したが、以前は考えもしなかった好みの垣根が生まれていました。
高校時代にも目的のはっきりした交友があります。私の場合はスキーでした。
今は人と会うのに目的のいる齢……、と思っています。共通項は簡単には見つかりませ
ん。なぜ再会の場に、田園や緑野を選ばないのでしょう。人は変わります。しかし自然に
親しむ気持ちは、何歳になっても変わらないと思います。
一二四
冬場の日帰りのスキーが、中学時代の私の、運動らしい唯一の運動でした。最寄り駅か
ら数分で上野駅、早朝に発車する急行に乗車、越後中里で下車、駅前のゲレンデで、リフ
トを使わずに練習をくり返しますと、ある程度スキーも上達します。
一方、中学も高校もスキー部に所属、夏場も合宿をかさね、競技スキーに励んでいた兄
に教えてもらう機会もあり、また、転げ落ちるのも技術のうちなら、一般の雪面を滑るの
に、さほどの困難はなかったです。(緩斜面は優雅にすべりますが、傾斜がきつかったり
コブがありますと、技術も足腰も通用せず、滑るよりも転がり落ちる方が現実的でした。)
一人でスキーに出かけるのに、両親は歓迎こそすれ心配はしませんでした。年頃の、感
情的な我がままを咎(とが)めるられる以外、両親は私に、口をはさむことは何もなかっ
たと思います。
それは、小学生時代から築いてきた信頼の証(あかし)です。物欲がうすく、頼りにも
されていたのです。すでに当時の我が家には、高校生の望む程度の贅沢は、職住一致の商
家ですから、応えるだけの経済力がありました。しかし、一人だけの宿泊や、雪原の単独
行には制約があります。滑ることのできる仲間がほしい! その切なる願いを、叶えてく
れたのがAさんです。
彼女に同性のスキー仲間がいたのであれば、一緒に出かけてはくれなかったと思います。
しかし彼女の仲間にも、そこそこの技術の子はいなかったので(彼女の技術は私より上)、
男の子は私が、女の子は彼女が中心になって、冬や春のスキー旅行を計画、よき相棒にな
りました。
一二五
当時は青山でも、高校生の男女二人連れは人目を引く存在で、私はコチコチになってい
たのですが、Aさんには緊張する材料がなかったので普段と同じ。二人には計画の打ち合
わせであったものが、外苑にたむろする若者には恰好の標的となり、一足ごとに冷やかさ
れ、消え入りたい気持ちになりました。相棒は冷やかされてもどこ吹く風。
二年に進級した最初の日、学校の廊下を歩いていますと、女の子とすれ違うたびにクス
クス笑われ、閉口したこともあります。雪山で春の陽射しを十分に浴び、顔の皮膚がそっ
くりむけても闇夜のカラス。
もう一人もクラスの中で、黒い顔に目を光らせながら坐っていました。同行者はほかに
もいましたが、日焼けに無防備だったのは二人だけで、スキーに出かけた人数を誤解した
生徒がいたとしましても不思議ではありますまい。クスクス笑いは、日焼けが原因ではな
かったのかも?
一二六
毎朝走るだけでも、陽光に溶けこむことができますから、輝くことは、あるいは黒光り
は、運動によれば容易に実現できます。
高校の子が練習を重ね、計画を詰め、予算をひねり出し、男の子と女の子が、運動目的
の宿泊旅行に出かけたのですから、輝かないわけには行きません。
相棒との旅行はスキーシーズンに限られました。わずか三年間でしたから、回数も少な
かったと思います。しかしこの楽しみこそ、高校生活の真価ではありますまいか。
現代の高校生は、部活ではなく個人の資格で、男の子と女の子が、外苑を歩きながら打
ち合わせ、春や夏の休暇を、運動の宿泊旅行にあてることができるのでしょうか。丸暗記
や条件反射の塾勉が、本人の一生にとっても社会にとっても、どれほど役に立つかは知り
ませんが、あの自由の機会を、なんとしても現実化したいです。
費用のことも考えてみました。国際間では、ホームステイが常識化しつつありますが、
我々の足元では、組織化されたホームステイ網はホの字も見当たりません? 貧しいので
す我々の社会は。ここにも高年者の、起業力と協働が必要になります。
高校生が春や夏の休みを、自転車で、自分の好きな土地に出かけ、ホームステイ網を頼
りに、ある者は北海道を巡り、ある者はスキーツアーを楽しむ。男の子と女の子が、夜お
そくまで語りあい、始業式の教室を日焼けした顔でうめつくす。もし事前の教育が行き届
かなかったのであれば、うしろ指をさすのでなく、皆で祝福すればよいのです。若い母親
と嬰児のために、援助の手を差しのべればよいのです。
ホームステイは、泊まる側だけでなく泊める側にも、「踏踊」の扉が約束されています。
その扉には、情報と協働の連携が欠かせませんが、それにはインターネットが最適だと思
います。
一二七
夜行バスの記憶があいまいです。就職後の、独身時代のスキー旅行が、もっぱら夜行バ
スを利用しましたので、高校時代のバスの記憶が上書きされてしまいました。しかしバス
でも列車でも、車中の楽しみは変わりません。スキー旅行の車中で初めて、皆と一緒に、
お弁当を食べる喜びを知ったのですよ。
普通の家庭の、行楽のお弁当は手がこんでいたのではありますまいか。しかし商家の我
が家では、それまで弁当持参で、行楽や旅行に出かけた経験がなく、小学校の遠足も、心
はこもっていましたが、アルミの箱にほうれん草と卵焼き入りの海苔弁が続きますと、ど
んなに好きではありましても、皆の前で広げる勇気はなかったです。
Aさんとの最初の旅行では、朝食は済ませてから集まるものと思っていましたが、一緒
に出かける男の子の「朝メシ、頼む」に、女の子が笑って応じたのが新鮮でした。私には
悩みの種だった行楽のお弁当が、皆には準備の段階から楽しみだったのです。持ち込まれ
たお弁当の豪華絢爛に、いえ、朝のお弁当は、むしろ洗練された簡素でしたが、前もって
分担していたのでしょう、おにぎりやおかずや果物が女の子の膝に並べられ、食欲がわく
のではなく、緊張が先に走って、手を出せなかったです。
一二八
高校生になって、初めて経験した食べ物がいくつかあります。M製菓の喫茶室で注文し
たホットケーキの、バターと、陶器に入った液体の扱いがわからず、注文したことを後悔
しながら、容器の液体を直接飲んで、その甘さに閉口し、周囲のあきれた視線を意識しな
がら、喫茶室を後にした記憶があります。
ホットケーキの味を知ると病みつきになり、ふたたび食べたいと思う気持ちが嵩じて、
M製菓の喫茶室が夢にまで現われましたが、引っこみ思案か痩せ我慢か。あるいは湯麺の
誘惑に負けたのか、ホットケーキのその後の機会は、とうとう訪れませんでした。
お餅の磯辺巻きを知ったのも、アンミツを食べたのも、食欲が旺盛だったH君のおかげ
です。どちらも同じ駅前の小さな甘味屋。しかし、M製菓の喫茶室や甘味屋では、同窓の
女の子と出会った記憶がありません。
この学校の女の子は、バスなどを利用して、私には知識もなじみもない地域へ帰る子が
多く、住民そのものが少ない問屋街の、下町に戻る私はまったくの例外、同じT駅で乗車
しましても、皆は私とは反対方向の住宅街へ向かい、乾いた寂しさを感じていました。皆
と別れますと、上り調子だったとはいえ「商売」が頭に割り込み、普通の生徒や普通の会
社員の「安堵を見出す自宅への帰途」が、少し重かったのです。
一二九
雪山の直射は、裸眼でも平気でしたのに、舗装道路の照り返しが大の苦手で、銀座の舗
道に立ちますと、頭が痛み、立ち去りたい気持ちが募りました。日曜の夜の、人通りの絶
たえた中央通りはともかく、都心を抜ける通学には、感慨のかけらも湧かなかったです。
好きな街はニューヨークです。ニューヨークには豊かな美術館があります。銀座の画廊
街や、竹橋や上野にはない「扉」があります。訪問の回数は問題ではありません。ニュー
ヨークの扉を開けますと(二ューヨークを頭に描きますと)学生時代に訪れた斯業システ
ム化の視察旅行の、「団体内一人で旅」が泉のように湧いてきます。初めて海外に立った
土地バンクーバーの感激と、バンフの孤独と、驟雨(しゅうう)の羽田で、傘をさしなが
ら見送ってくれた両親が甦ります。
ニューヨークには昨年の夏、新たな扉が加わりました。実際に彼の地に立ったのは、友
人宅に泊りに出かけた高二の娘ですが、この二人と、我が家近くの娘の友と、娘の祖父母
と、我々夫婦と家族など大勢の人が一緒になって、今も制作し続けている扉です。
永久に踊り続けることはできません。必ず過去になります。しかし過去は、新しい扉の
完成をも意味します。扉は過去を新たな作品に変え、我々の生活に、豊かさと充実を約束
します。
先週、父と母は、県内の美術館を訪れました。晴れた一日、新緑の並木を抜け、ツツジ
の芝生を踏みしめながら、父は独力で美術館の入口まで歩きました。
何ヶ月振りだったのでしょう。手術を選べば、寝たきりになっていたのかも知れません。
父母二人だけの、昨秋の海外旅行も本当に幸運でした。孫娘のニューヨーク行き単身旅行
がなかったら、何年も前に断念していた海外旅行に、二人が出かける機会はなかったと思
います。
次は我々も一緒の一泊旅行です。群発地震は大丈夫でしょうか。父は地震が嫌いなので、
K温泉はどうですかと尋ねますと、、父はすぐに同意、とても楽しみにしています。K温
泉は、母の女学校時代の思い出の土地、彼の地にはS美術館もあります。
一三〇
H君は、男女席を同じにしましても平気な子、女の子をこき使うコツをこころえ、臆す
ることなく女の子と話せる子でした。狎(な)れではなく、サッパリしていたのです。ナ
スビやカボチャに接するように、女の子とつき合うことができましたので、車中四角い座
席の、女の子三人の脇に坐り、三人の膝のお弁当を、おいしそうに食べはじめました。
遠慮の資質も度がすぎますと、相手の気持ちを損ねてしまいます。それがわかるもので
すから、益々硬くなり、おにぎりに手が出ない。おまけに骨つきの鳥肉がありましたので、
せっかくのお弁当も彫刻同然。その気持ちを知ってか知らずか、Aさんは適当に選り分け
て私に渡し、すぐに自分も食べながら、皆とのおしゃべりに溶けこみました。
屈託のない楽しみ方が、身についていたのです。Aさんは一歩も二歩も進んでいました。
あたり前のことを自然にできる、例えば混んだ車内で倒れた人を介抱し、出勤を中断、病
院へ付き添って行ける人の一人。
一三一
夜汽車で出かけるスキー旅行には、雑魚寝(ざこね)もあったのですよ。早朝に到着し
た泊り客は、宿の大広間で畳の隙間にもぐりこみ、リュックを枕に眠りました。旅の疲れ
で「混宿」も化粧もお構いなし。女の子もぐっすり寝こんでしまいました。
ひと眠りしますと、高校生の若さです、目ざめはすっきり。各自の力量に応じて、一日
の行動を決め、まずは道具を借りる仲間に付き添う。
見よう見まねでも、滑ってみると面白く、初心者は初心者同士で遊ぶようになりますか
ら、我々の出番は遠のきます。スキーにも教えたがる段階があり、そのような時期は我々
が邪魔、また上達するには、我々に習うより教室に入ったほうが役立ちますから、一緒に
出かけた仲間も、滑るときは別になります。
しばらく一緒に遊んで、皆と別れ、リフトを乗り継いで上へ上へと登りますと、突然視
界が開け、どんよりした地平の果てまで、雪で被われた峰々が続く、その眺望に魅せられ、
汗が冷えるのも忘れて見惚れていますと、脇から差し出してくれた掌(てのひら)に飴が
一粒。
一三二
母は、夜食はお寿司に連れて行かれ、おやつは洋食屋の一品料理を馳走され、飴や駄菓
子は口にしませんでしたので、従業員と一緒に寝泊まりする問屋に住み、下町の子と遊ん
でいたのに、飴には理解がありませんでした。(※←無理解の件は、その後にサイトの何
処かで訂正しました。)
私の幼い頃は、三時のおやつは、芋やスルメがもっぱらで、飴の一粒も、チョコのひと
かけらもなかったです。
父は兄弟の多い農家の末子で、国鉄F駅真裏の質素な農家に育ち、食べず嫌いはありま
したが(お粥は喜びません)、出された食事はきちんと食べ、家族へのお土産も、今川焼
き、どら焼き、特別な機会の西洋菓子と、飴やチョコには無縁でした。
買い食いをとがめられることはなかったですが、歓迎されたわけでもなく、駄菓子屋の
ガラス戸を開けるときは、多少、後ろめたい気持ちがありました。
飴やチョコは、遠足時の「義務」として、わら半紙の記載事項を満たすために買いまし
たが、お弁当は、できるだけ早く済ませたい事情もあって、チューブ入りチョコの出来事
を除き、すぐに片付けてしまいました。
飴はAさんの掌にありました。父の掌を探しても、母の掌を探しても、飴を見出すこと
はできません。
子の居場所も同じなのですよ。家庭を難じることは容易です。しかし、それでは「環境
の回避」や「状況のすり替え」になってしまいます。もし家庭に欠けているものがあると
すれば、補う場所は、自ずと限られてしまいます。
恵まれている子だけではないのですから、親の経済的窮乏や、親の精神的破綻によって、
子が苦しむ場合、手を差しのべる条件を家庭に求めましても、自家撞着に陥ります。
飴のない掌には、飴を一粒、置いてあげるとよいのです。ほんのわずかな幸せですが、
雪の峰々に祝福され、宝石のように輝きます。
一三三
Aさんの手渡してくれた飴はG製菓のW糖、テレビの広告で見知ってはいましたが、有
名にうまいものなしと決め込んでいた私には、広告も効果なし。しかし今、私の掌で、そ
の飴が工芸の傑作のように輝いています。飴から目を離しますと、遥か下を滑っていたA
さんの姿は、たちまち消えてしまいました。
飴ひと粒が、これほどおいしいとは思ってもみませんでした。感謝の気持ちをこめ、飴
の包装紙を丁寧に畳み、ポケットに押し込んでから、再びスキーをかついで、さらに上へ
登りはじめる。
お昼も皆と一緒です。夜も皆と一緒です。そう思うだけで、新雪に足をとられても、ス
キーが肩に食い込んでも嬉しくなります。Aさんの姿は消えても、叶えられた状況は、噛
み締めるだけで満たされます。
※※※
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聳え立つ市庁舎 (「随想 中町にて」抜粋)
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