鬼子母神の朝顔市

和泉橋をはさんだ神田川の南岸は、すでに堤
も桜もありませんでしたが、柳原堤や柳原河
岸、あるいは「土手」と呼ばれていました。

その土手の、柳森神社から和泉橋までの間に
は、川に下りられる通路がいくつかあって、
濁ってはいましたが、小学生でも水にさわれ
たとは大正末から昭和にかけての思い出話。

和泉橋近く、靖国通り(という名称は当時は
なかったそうです)と昭和通りが出合う岩本
町交差点の北東の角に、和泉橋ビルと呼ばれ
ていた五階建ての大きな建物がありました。

和泉橋ビルは古着の常設市場です。ビルが建
つ前の常設市場は木造で床は土間。常設市場
に入っていた業者の多くは、岩本町界隈で独
立店舗を営む古着商。扱う古着は着古した普
段着から豪華な婚礼衣裳まであらゆる種類。

年末には行火(あんか)を抱え、風呂敷に包ん
だ古着を背負い、朝の八時には列を作って市
場に入った、その土間が子らの格好の遊び場
で、走りまわっては古着商を困らせていたの
ですが、市場が五階建てに変わってからは、
学校帰りの子らは最上階に駆け上がり、カー
テンの隙間から垣間見たのがダンス・ホール
と神田の恋の物語。当時からダンスには、玉
の輿を引き寄せる魅力があったのでしょう。

祖父の自伝には浅草界隈の地名がいくつも出
てきますが、祖母の実家も浅草です。祖母の
父親は文字通り浅草住まい。父親の死後、祖
母の母親は、南千住行き市電の停留所・山谷
の近くに移っています。今の地図に山谷の地
名は見当たりません。しかし山谷は池波正太
郎の「剣客商売」や八百善ゆかりの土地で、
母の印象は「お妾さんが住んでいる住宅街」

橋場には、祖父が職方(下請け職人)依存か
ら離れるために開いた町工場があり、竜泉寺
町には、戦中から戦後にかけ、祖父の縁者も
住んでいました。因みに、橋場には平賀源内
のお墓、竜泉には樋口一葉の碑があります。

学童期までは、浅草寺の酸漿(ほおずき)市に
手を引かれ、見物に出かけていた母の記憶か
ら、入谷の朝顔市が抜けていました。朝顔市
は当時、あったのでしょうか? ただその季
節になりますと、岩本町でも、路地裏や古着
商の勝手口に、行灯(あんどん)作りの朝顔や
丹波ホオズキの鉢が置かれていたそうです。

その頃の、鷲(おおとり)神社の酉(とり)の市
は、境内が殺気立ち、歩道を歩くのがやっと
で、将棋倒しで、怪我人が多数出たことも。

酉の市も昼間は静かで、吉原田圃の方角から
同性に見張られた「しどけない姿」が、二人
三人と連れ立って参詣する姿と、参詣の様子
を眺めに来た男たちの姿があったそうです。

今年も入谷の朝顔市は7月6〜8日でした。
写真は5日の昼休みに立ち寄った境内です。









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