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編集中記
【No.245】

  母には縁談がいくつかありました。しかし実際にお見合いしたのは京都の人と父の
二人だけです。京都の人は、高雄の紅葉狩りを口実に、祖母が母と弟妹を連れて出か
けたのですが、話を進める前に召集され御破算になりました。

  遠縁で問屋仲間のYさんが、知り合いのMさん(両親の仲人、結婚後は親身な相談
役)に依頼、紹介してくれたMさんの親戚が、復員後、鉄鋼会社(海軍の仕事)に勤め
ていた父でした。

  父はお見合い後、通勤を都電に切り替え車窓から店の奥を覗いたり、有り金をはた
いて洋服を買ったりしたそうです。銀プラの写真の、白い上下がそれです(結婚後、
父は母の妹に室町の造船会社を紹介するなど、勤めの傍ら、商いを禁じられていた祖
父の家族も世話するようになりました。昭和十九年十二月、出産二ヶ月前の母が父の
郷里に疎開、翌一月には祖父の一家も市川に疎開、三月の二度目の空襲で、銀座七丁
目の父の事務所は焼失、父は郷里の鉄鋼所本社に転勤、終戦直後は仕事がなく、疎開
先を引き払い、病床の祖父に代わって作業衣の製造卸を開始、母と一緒に見様見真似
で型紙を----等々ですが、この間にも記憶の空白がありますので、昔を辿るのは屏風
大のジグソーパズル、既製品ではなく、家族で著わす謎解きです)。

  祖父の母の通夜とはいえ、既に昭和十四年には、お酒の入手は難しかったそうです。
偶々、浅草の親戚が伝書鳩に凝っていた、その縁で、両国の料亭のご主人と懇意にな
り、わけてもらった薦被りのお値段は「お振り袖」相当額。両親の結婚は十七年の五
月ですから、締めつけと物不足はもっと深刻でしたが、祖父は有力な商人でしたので、
店は閉じても、娘の結婚式は滞りなく済ませています。

  祖父の遺品に「結婚式祝品寄贈芳名」と題した帳面が残っています。その中からお
祝いの品々をご紹介しましょう。

  桑製三尺鏡臺       桑製三尺針箱       朱研出し栗箪笥       桜材刳り火鉢  
  張交ぜ五尺二曲屏風半雙                小田巻呉服細工       鎌倉刻四尺卓
  桑製手火鉢         桐製三味線箱       ラヂオセット         旅行鞄
  銅製花瓶           小間紙入り手箱     絞り帯揚げ           宮古上布
  漆器三抽出小箱     無地綸子縮緬       絹足袋・キャリコ足袋 
  携帯用抹茶器       松春慶塗菓子鉢     白絽                 衣裳籠
  女持洋傘           紙壱締、末広一對   草履                 商品券          
  ハンドバック       文化洋装講座六巻   硯箱                 有明スタンド
  漆器飯櫃           風呂敷             小物入箱

  現金は五圓〜二十圓がほとんどです。「米四升及びせんべい」のお祝いが印象的。

  寄贈者には二見理千、杵屋佐次郎・六寿、花柳寿美輔、武藤などのお名前もありま
す。他には白木屋(日本橋)、芙蓉荘(湯河原の別荘兼旅館)、「隣組第○○群一同」が
目につきました。お返しは五圓十圓の「国債」が圧倒的、次いで鰹節と風呂敷です。

                                         Sep 22, 1999  plnssnr@reverie-prmnr


【No.244】 一昨日、出版社の担当者から手紙が届きました。新刊の「市場反応、なかなか良い ようです。----積極的に自著PRをして頂いたため」とあります。 私が出版をお願いしている二社はどちらも、Web Siteも電子メールのアドレスもあ りません。仕方なく、Internetでは私が宣伝、また宣伝の内容と方法を事前に出版社 に連絡、互いに齟齬が生じないように配慮しているのですが、宣伝している割には今 一つ、Siteへのアクセスが鈍く戸惑っていました。 随想の購読とInternetの利用には、あるいは文芸本を読もうとする心理とInternet に向う必要には隔たりがあって、技術やゲームやビジネス関連はよいのでしょうが、 随想の新刊告知にはInternetは微力に過ぎると思っていたのですが、今回、Internet 上での宣伝(著者が無料でできる告知)も役立つことを知りました。 「MLと単行本とSite」の組合せについては、随想に関連した話題をSiteに載せるこ とで、既刊の随想まで取り込んで表現を拡張できる効果があり、素直に喜んでいます。 出版社がある学者からのお礼の葉書を転送してくれました。文面には「読み易い文 体、好感のもてる装幀、この厳しい時代に癒しの役目を果してくれるのではないでし ょうか」とありました。ありがとうございます。 Sep 16, 1999 plnssnr@reverie-prmnr 電子メールでの連載は調子を出すのが難しいです。数行ごとに空行を挿入しないと 読みづらい点もありますが、それ以上に、目も画面もちらついてしまうからです(平 日は推敲の時間がありません)。それを工夫したのが「随想 繊維問屋にて」でしたが、 特に前半は難が目立ちます。「随想 中町にて」も、投稿時の訥々とした状態は変わり ませんでした。 以前は、書き上げた原稿はすぐに出版社に渡し、校正用のゲラが届いて初めて推敲 を開始、それも一晩限りのこともあり、一回の校正に費やす時間は長くて三日でした。 今回は急き立てられる状況が薄れたこと、および、出版社の切り替えで四ヶ月近く も余裕が生まれ、出版を断わられる度に推敲を重ねた結果、前回より読み易くなりま した。 電子メールと印刷物では連載の性格が異なります。印刷物の連載は事後の修正が効 きません。それだけが理由かどうかは分かりませんが、印刷物では編集者や校正者に、 「介入」する根拠を与えてしまいます。 電子メールでの連載は、表現を「デッサンの段階」から公開できますので、より動 的な表現の機会(=鑑賞の機会)が生まれます。結果として、最近の私の連載は「覚 え書き」の気配が濃厚です。 当初、私の「ホームページ」はMLの案内文でしたので、アクセスがないと無意味 でしたが、出版後は宣伝のための母屋に変わりました。宣伝は電子メールでも足りま すが、Siteは署名に付記する「本社所在地」として役立っています。 現在の私のSiteは資料庫であり考える道具です。アクセス数は二の次です。 Sep 17, 1999 plnssnr@reverie-prmnr
【No.243】 法事の席での、大凡、55〜70年前のお話です。 祖父の商売は繁盛しましたので、母と妹弟はいつも真新しい着物を身につけていま した。新調の着物が届きますと、祖母は子が着ていた着物を惜し気もなく与えてしま う、その江戸っ子気質が枷となって、頑なに疎開を拒み、祖父の説得でようやく転じ た直後、東京大空襲で焼け野原になった、中に、店の金庫がぽつねんと立っていたそ うです。 不発弾が庭に落ちたので、築地の病院を予約していた妊娠中の母は、長男を連れ父 の郷里に疎開、そこで出産しましたが、その後の住まいは父の実家の遠縁の民家(実 家からやや離れた一部屋)でした。父は兄姉が多く、郷里には寝泊まりできる場所が なかったのです。しかし出産前後に、母は義母から家事を仕込まれ、その後の母の生 活に、とても役立ったと感謝しています。 佐吉さんの一番弟子の佐次郎さん(その後、改名)は、血縁ではたった一人のお子で、 私の祖父と母も出征を見送ったご子息が程なく戦死、あと継ぎを失って、随分、寂し い想いをされたそうです。 母の三味線歴は二十年ほどです。四年に一度のオオザライ(大御浚い?)では、一門 のお師匠さん(本職の、佐吉さん直属の高弟たち)が、それぞれ抱えている優秀な弟子 (名取りクラス)を競わせるのですが、人気役者の踊りと一緒に、佐吉さん、佐次郎さ ん、そして母の順に坐って、三味線を弾いている舞台写真が、残っていた筈ですが見 当たりません。佐吉さんが米国旅行からの帰国時には、高弟や半玉が歌舞伎座で二日 ほど歓迎の会を開いた、その立て三味線は十五歳(満十四歳)の母でした。 お師匠さんがそろそろ「名取りを」と促したのですが 「ケチッているのではない、 本職になると役者と駆け落ちして嫁に行かなくなる」と心配した父親の反対で、許し てもらえなかったそうです。三味線は付け焼刃が効かないので、弾き手が足りず、戦 後も一門の会に、母は応援を頼まれていました。 両親の新婚旅行は佐吉さんの「三部屋しかなかった旅館」を兼ねた湯河原の別荘で、 二人が旅館に着いた翌日、心配?した佐吉さんと佐次郎さんが、様子を見に、湯河原 へ押しかけてきたそうです。 Sep 11, 1999 plnssnr@reverie-prmnr 疎開先の民家で母と乳飲み子は栄養失調になり、母は「この子は死ぬために生れて きた」と思ったそうです。勤め先の事務所が爆撃で焼失後、父も母の元へ疎開しまし たが、F川の土手で栽培した苦労が忘れられず、父は亡くなるまでカボチャを口にし ませんでした。 両親はF市で終戦を迎え、家族四人で引き上げたのが市川の、祖父の一家が避難し ていてた疎開者目当ての粗末な建売り。この家には一時、二家族の八人と祖父の家財 が同居していたことになります。 両親が疎開先を引き上げる際、郷里に預けておいた家財を運んだのが馬力です。人 間でも引ける荷車に家財を積んでも空きがあり、薪を積み上げ、F市から市川まで届 けてもらったそうです。 取引銀行が財閥解体のため預金封鎖の解除が遅れ、祖父は新円切り替え時の対応を 封じられ「無一物」になりました。代わりに問屋を再興、バラックを取り壊し店を新 築、祖父一家を元の住まい(新築の問屋)へ移し、母の妹には嫁ぎ先(資産家の長男)を 紹介、母の弟を私大に通わせ、病に伏していた祖父を看取り、葬式を出し、私大を卒 業した義弟と「継嗣」に肩入れしていた義母に、問屋の事業資金と麹町に一戸建てを与 えたのが、養子であった父でした。結果として店は運転資金にも事欠き、再び危機に 陥るのですが、この辺りから「随想 繊維問屋にて」が始まります。 祖父は幼い長男と幼い長女を結核で失い、跡取りには神経質になっていました。後 継ぎ(母の弟、祖父母の実子)がありながら養子をとったのは、祖父は次女(私の母)に 長男の幻影を見ていたのかもしれません。それほど祖父は亡くなった長男に期待して いたのです。この辺の事情を「お茶やお花に長唄など、芸事を中心に据えた商家の生 活」を調べながら、現在の連載の終了後に書いてみたいと思います。 「お父さんはよく働いた」が今も母の口癖。お父さんとは母の伴侶、七月下旬に亡く なった私の父です。 Sep 15, 1999 plnssnr@reverie-prmnr
【No.242】 現在の住居表示の「谷中」には、お寺が約七十もあります。その半数が一つの宗派 (日蓮宗)とは驚きました。谷中霊園も、日蓮宗のお寺(天王寺)の境内が、東京府に移 管されたものです。毎日、車窓から谷中を見上げていますが、谷中にお参りしたのは 半世紀も昔の話。祖父のお寺の当時は、荒れ寺と呼ぶには立派すぎましたが、お骨の 見えてしまうお墓があって、暗い印象を拭えません。しかし今のA寺は手入れがよく、 陽が燦々と降りそそぎ、寛ぎの場に変わっていました。 Aug 12, 1999 plnssnr@reverie-prmnr
【No.241】 自由と狭隘について 私のMLでは自称「自由人」をお見かけすることがあります。はじめは案内文に興 味をもってご参加されるのですが、次第に「ご自分だけの自由」を持ち出され、ML の趣旨に相応しくないと認めながら、つい、大所高所の社会時評や、古今東西の哲学 を披瀝され、あるいは財テクの自慢話を展開なさる、例えば新聞の家庭料理欄に、政 経の「言いたい放題」を投稿するような出来事が、忘れた頃に繰り返されるのですね。 はじめは放っておきます。このMLの参加者は分別のある年代ですから、自称「自 由人」はほんの一握りの筈です。しかし運悪く、もうお一人、自称「自由人」が現わ れ、その話題に加わりますと困った事態になります。折角の雰囲気が壊れてしまい、 退会者が出るのです。これが管理人の悩みです。 偏狭で、横暴で、わからず屋の管理人は、MLの趣旨を尊重する人々の退会が恐ろ しいというそれだけの理由で、言いたくない言葉、つまり「誠に恐れ入りますが、そ の話題はこのMLの趣旨に相応しくありません。何卒、変えていただきたく、お願い 申し上げます」を発するのですが----。 そうしますと、単に「わかりました」で済む筈がもう目茶滅茶。自称「自由人」に より、MLの存在価値の講釈やら言論の自由の説諭がはじまり、やがてご本人の夢見 るMLが構築されてしまいます。見かねて、このMLの案内文を改めてご覧いただき ますと、判で押したように「偏狭」とか「非常に狭苦しい」の科白を残して去って行 かれます。 自己の思い込みや一方的な好みを、趣旨の違った集いに持ち込んで、齟齬が生じる や、狭隘と言い残して立ち去るのは自由とは違うと思います。わがまま? 不作法? まあ、そんなところでしょう。狭隘なMLや硬直したMLや気ままなMLや無作法な MLや口角泡を飛ばすMLや存在価値のないMLや真摯なMLや深刻なMLや賑やか なMLや怠惰なMLや寂しいMLや深遠なMLが多様に併存してこそ「自由」は実現 できるのです。ですから管理人は、相変わらず「不自由で非常に狭苦しいML」をそ のままにして、自由の確保に努めております。 Aug 07, 1999 plnssnr@reverie-prmnr
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