『今日のフォアテリ フォーチュン・キャンバス』
《 一 》
ここは修智館学院の本敷地という高台にある図書館棟の地下の書庫。それも更に奥に行ったところ。
「ヒナちゃん先におりているからね!!」
「エリスちゃんも早く早くッ。行こ、かなでちゃん!」
そう言い残して悠木かなでと萩野可奈の二人は書庫の奥にある古びた扉の向こうの暗闇に乗り出した。そして扉の傍にあるという木製の年季の入ったハシゴを伝って光の届かない所に降りていく。もちろん、真っ暗な洞窟だからという事で登山用サーチライトをそれぞれ手にしている。だから暫くするとその明かりに照らされた洞窟の壁面が少しだけ扉から覗く事も出来た。
「お姉ちゃん……、あまり奥に行ったら危ないよ」
と、かなでの妹・陽菜が注意を促しているけれども、洞窟に降りた二人は更に奥を光で照らしながら覗き込んでいた。
かなでと可奈が学院紹介の為に構内を案内するペアになった時、まるで鏡合わせの様に駆け寄り、申し合わせたかの様にパチッと両手を合わせていたから、この二人なら息がピッタリかもと陽菜も思っていた。
しかしながら、一度走り出すとすぐには止まってくれない姉、そして荻野可奈は学院に到着してからずっとせわしく生徒会副会長の千堂瑛里華や生徒会役員の東儀白、今回無理やり参加させられていた紅瀬桐葉といった修智館の学生にまでテンション高く質問攻めにして何故かメモまで取っていた。
この双子のような二人が一緒になると、もしかすると誰にも止めることが出来ないかもしれないという予感もあった。
だからもう引き止めないといけないと陽菜は扉の向こうに身を乗り出してみるのだけど、闇の中に見えてくるのは洞窟の奥でチラチラとする登山ライトの光だけ。
「お姉ちゃん……」と声を掛けると暗闇の中から「大丈夫大丈夫」と姉の声だけが響きながら返ってくるだけ。
「お姉ちゃんお願いだから帰ってきて……」
陽菜のその声が暗い空間に再び響く。しかし今度は何も返ってこない。
「陽菜さん、どう……?」
陽菜と一緒にここに居た金髪の少女・鳳仙エリスが様子を伺おうと身体を寄せてくる。
「ごめん、お姉ちゃんたち止められなかった」
入れ替わるように顔を引っ込めた陽菜は書庫の床に座り込むなりそう答えるしかない。
「……どうしよう」
悩むよりも先にそう漏らしてしまう。
「だったら、私が先輩たちを引き止めてこよっか」
暗い空洞から陽菜に振り返ったエリスは陽菜の心配する様子を察した、のではなく、自らの好奇心が先立つような感じで陽菜にそう申し出た。
少し前までの具合の悪そうな様子とは違うエリスの言動と輝く水晶のような瞳に、陽菜は戸惑い「危ないよ」としか口に出来なかった。
陽菜とエリスがペアを組む事となったのは、学院に到着してからそう経たない間に少し気分を悪くしたエリスに陽菜が付き添った事からだった。ペアがそれぞれ別行動する為に解散してからはその顔色は次第に良くなっていたなとは思っていたけれど……この今の好奇心に満ちた瞳が本来の姿なのかもしれない。
そもそもこの四人はわざわざ洞窟探検の為にこの学院を訪れたわけではない。都会にある撫子学園の鳳仙エリスと萩野可奈は他の学生とともに、夏休みの七月に遠く珠津島という所の修智館学院を訪れていたのだ。九月にここで開催される文化祭に学園相互交流の一環として出展する、その打ち合わせの為に。
訪問初日の今日は到着したばかりだという事で、手始めに学院の施設を両校の学生がペアを組んで案内して周る事となっていた、はずだったのだけれども……。
それが……図書館の中にあるという年代物の絵画を見たいというエリスの要望から陽菜が図書館の書庫に案内した所で、書庫の奥の方で修智館のジャージ姿のかなでと可奈が何やら準備しているのを見かけてしまう。このアクシデントが今回の大騒動の幕を切ってしまったのだった。
「……よし! 私も降りてみる!」
座り込んだまま中々決断しない陽菜の言葉に待ち切れず、更には暗闇よりも未知の空間への興味の方が勝ってしまったらしいエリスは、そう言うと扉を跨ぎ、そのたもとにあるハシゴを降り始める……。
「ちょっと待ってエリスさん!!」
這うように扉に身を寄せ手を伸ばし必死に引き止めようとする陽菜。
「任せといて!」
覗きこむ陽菜を見上げたエリスは片手を振って余裕を見せていた……。
「って……アレ!?」
「エリスさん!!」
バキバキッと何かが砕け散るような音とともにエリスの姿が一瞬のうちに真っ直ぐ暗黒の底に引きづり込まれ、そして「…ズン!!」と落ちた音が底から響く。
「エリスさんっ、大丈夫!!」
一瞬でエリスが消えてしまった事に驚いた陽菜が暗闇の底を凝視すると、木クズの埃の匂いと真っ暗な洞窟の地面に、その姿ははっきりとはしないものの金髪の輝きが辛うじて見える。そこにエリスが居るようだ。
「だ、大丈夫なのっ!! エリスさん!!」
「……う〜〜ん、ちょっと腰打っちゃったかもしれないけど多分大丈夫……」
エリスの声が返ってきたから陽菜は少し安堵して腰を再び書庫の床に落とし……
「ああっ!?」
洞窟からのエリスの悲鳴に、座り込む間もなく慌てて洞窟に顔を出す陽菜。
「ハシゴがバラバラ……」
それはつまり、木製のハシゴが壊れてしまったという事。確かに扉のそばにさっきまであったはずのハシゴが無くなっていた。このままでは陽菜が後を追って降りる事もエリスやかなでや可奈が図書館に戻ってくる事も出来ないから、つまり大変な事になったということだ。
「本当にケガしてないの?」
陽菜の問いかけにエリスは身体を色々と擦ってみると「うん……特に異常はないよ」と答えていた。
「お姉ちゃんたちは!?」
次の確認はやはり問題の二人の事。
「声が全然しないからもっと奥の方に行っちゃったかも。でもまだ追いつけると思う」
かなでや可奈の後を追おうか、そう言い出すエリスの声に「待って待って!」と陽菜は引き止める。
「だめよエリスさん、真っ暗だから危ないし。誰か呼ぶまで待って」
「そんな事してたら先輩たちがもっと奥に行っちゃう。今ならまだ引き止められるって」
すると、ゴソゴソとする音が響いてきた。
「エリスちゃん?」とその行動に不安を感じる陽菜。すると暗闇に突然明かりが灯った。
「そこに転がってた箱に備え付けみたいなの見つけたからライトはこれで大丈夫だよ」
その光源にいるエリスの手には懐中電灯。
どうしてそんなものがこんな所に都合よくあるのかと一瞬思考が止まる陽菜だったが、そんな疑問よりも今はエリスを引き止める事の方が先だと頭を切り替えようとした。しかしどうすればいいのか即座に浮かばなかった為、
「でっでも、そんな格好じゃ洞窟なんて」
とただ制服姿にスカートだと汚れたり怪我をしたりして危ないと注意するしかない。
「大丈夫、すぐまたここに戻ってくるから」
ぐずつく間にエリスが洞窟の奥に歩き出していた。「待って」と引き止めようとする陽菜の声にも、スニーカーの踏みしめる音が微かに響き返すだけだ。
「エリスさん……」
ついさっきまで、普段ひと気のない図書館の奥の書庫には四人も居たのに今は一人だけ。ここでやっと自分ひとりではもはやどうにもならないと陽菜も確信せざるをえない。
そこでやっと、なんで思いつかなかったんだろうと悔やみながら、誰かを呼ぶために携帯電話をポケットから取り出していた。
「大丈夫っ悠木さんっ」
書庫の奥の開けっ放しになった古びた扉の前で不安そうに座り込んでいた陽菜のもとに暫くして駆けつけてきたのは、修智館学院の生徒会副会長でもある金髪の少女・千堂瑛里華と、一緒に構内を周っていた撫子学園の理事長代理・鷺ノ宮紗綾だった。
この二人が一緒なのは、生徒会長である兄の千堂伊織が名乗りを上げようとした事に何やら不審に思った瑛里華が、「女同士の方が安全です!」と強引にペアを組んだからだ。
陽菜からこれまでの状況を詳しく訊いた瑛里華と紗綾は、まずはその扉の向こうを覗き込むがやはり真っ暗闇で何も見えない。洞窟の奥に向けて声を掛けても無駄だと分かったから、そのまま三人は顔をあわせ、溜息をつくしかない。
「悠木先輩と萩野先輩も何とかしないといけないけど、まずはあの鳳仙さんね」
最初に会った時のエリスの印象のままだった瑛里華がまずその心配をしている。そしてここにいる唯一の大人の女性でもある紗綾理事長代理がより具体的に瑛里華に伺っていた。
「千堂さん、先程お兄様にも連絡されていたようですけど。例えば何か代わりとなるようなハシゴはこの施設にはありませんの? 司書の方とか呼んでみてはどうでしょう」
「生徒会長と、同じく生徒会の孝平……支倉くんに今すぐハシゴかなんかを持ってくるよう携帯で言いつけてますので、きっと直ぐに来るはずです」
生徒会副会長と理事長代理だけにこういったトラブルへの対応が早い。瑛里華は催促するかのように生徒会長の伊織に再び携帯電話で連絡を取ろうとしていた。
「兄さん早くしてください!」
と第一声を大きく張り上げ過ぎたからか、それから先は口元に手を添え更に身体でその様子が周囲に漏れるのを遮るかのようにしながら通話していた、まるで秘密事を話すかのように。しかしそのやり取りは次第に緊迫感が欠け落ちていくようで、やがて携帯を切った瑛里華は呆れた様に息を抜くと
「兄さんからの情報によると、一応、この中は通り抜けられるみたい」
まず最初にそのような通話内容を陽菜と紗綾に伝えていた。
生徒会長のメッセージはだいたいこうだ。
「俺も何度かもぐってみたから間違いないんだが、洞窟の中はそんなに複雑じゃないって事は保証しよう。大丈夫、必ず島のどこかからは出られるからね。一応書庫から降りた所のそばに箱があるからその中にある懐中電灯を持っていくといい。では後の健闘を祈る。ああでもハシゴだけは孝平君と一緒にでも後でそちらに持っていくとするよ」
生徒会長の保証は陽菜の知っているだけでも一度たりとも破られた事がない、本当に信頼できるものだったりする。もっとも、生徒会で普段からその振る舞いを見てきた瑛里華から言えば「ノリと思いつきばかりでいいかげん」なのだそうだが。
そもそも、そこにあるという懐中電灯は既にエリスが見つけてしまっていた。
「さて……どうしようかしら」
溜息混じりにそう漏らす瑛里華。他の二人も見通しだけは立っているものの今は何も手出し出来ない事から手持ち無沙汰。
「鳳仙さん、もう二人に追いついてるかなぁ」
瑛里華が陽菜にそう話しかけてくる。
「お姉ちゃんたちはジャージ姿だから平気だと思うけど、エリスさんは制服のままだからきっと動きづらいはずです。ケガとかしてなければいいんですけど」
と、陽菜はそこまで言うと「私が引き止めなかったばかりに」と不意に後悔の気持ちが大粒でこぼれ始めてしまう。
「待って待ってっ!」
陽菜の顔に再び浮かび上がってきた暗い影に慌てた瑛里華は、思わずその小さくなった陽菜の肩を掴むとこんな提案を出してきた。
「鳳仙さん一人じゃ危ないんだよねぇ。だったら私が助けに行ってあげるわ!」
しかしそれでも陽菜の表情からは不安が少しも取り除かれていない。
「でも千堂さん、洞窟の中は真っ暗だよ」
「……私って暗がりでも目が効くから」
「それにハシゴが壊れたままだし」
「あの程度の高さ、私だったら大丈夫」
「でも……」
こんな押し問答はついさっきもエリスとの間であったから、陽菜の不安はますます募り、その身を強張らせてしまう。
すると瑛里華が陽菜の肩に触れていた両手を背に回しギュッと抱きしめてきた。
「こういったトラブルなら私たち生徒会に任せなさいって」
「……え」
突然抱きしめられた事から陽菜の抱いていた不安が一瞬で吹き飛ばされてしまい、今度はどう反応していいやらと、戸惑いの色に変わる。
「この後どうせ兄さんや孝平たちが駆けつけてくれるでしょ。だったら、私が先に入って鳳仙さんや悠木さんのお姉さんたちを引き止めておけば少しは手間が省けるのよ。ねっ、だから任せてよ」
ポンッと陽菜の背中を軽く叩いて離れた瑛里華はもう一押しとばかりに笑顔を向ける。
呆然と瑛里華の姿を視野に納めていた陽菜も、その瑛里華の笑顔に焦点が合わさると、やっと自らの肩の力を抜く事が出来た。
「洞窟の中どうなってるのか判らないから……本当に気をつけてね、千堂さん」
それでも僅かな気遣いを含ませながら、陽菜はやっと瑛里華のこの提案を受け入れるのだった。
「という事ですので鷺ノ宮理事長代理……ではなくって紗綾さん、兄さん達を待ってる余裕もないですので先に鳳仙さんを捕まえてきます」
「……うちの生徒と悠木さんのお姉さんをよろしくお願いします」
紗綾との間でそう言葉を交わすと、瑛里華は書庫に開かれた洞窟へ足を向ける。そして飛び込むようにその身を闇の中に投じた。
「千堂さんっ!」
まさか文字通り飛び降りるとは思わなかったから、続けて飛び込みそうな勢いで陽菜は洞窟の入り口の中に顔を突っ込んだ。暗がりの中、深みの底に、つい少し前のエリスのように金色に輝く髪が目に止まったのでそこに向けて「足、大丈夫ですか!」と聞かずにはいられない。
「ええ、問題ないわ」と平然と答える瑛里華はそのまま「じゃあ後を追うね」というなりその暗がりからも姿を消してしまう。すぐに洞窟の奥に向かったらしい。
瑛里華の別の呼び名が面白い事を見つけると目を輝かせて突進するという「突撃副会長」だった事を陽菜が思い出したのは、瑛里華が洞窟の奥に姿を消してから暫く経っての事だったりする。
「悠木さん、どうかなさいましたか?」
書庫の床に座り込むなり考え込んだままの陽菜を気遣う紗綾。
「……いえ」
中に入ってしまった三人は揃ってどちらも好奇心が強いと改めて気付く陽菜だった。
「もしもの事があったらどうすればいいんだろう……」
そうつぶやく陽菜。しかし瑛里華たちは既に手の届かない所に入り込んでしまったのだから、もう後からやって来る孝平たちの応援を待つほかない。
「孝平くんだったら助けてくれるよね」
と、陽菜にとって幼馴染であるその名を思い出した時、瑛里華が陽菜の前では孝平に頼ろうとしていなかった事に気付くのだった。
《 二 》
「荻野先輩たち、ホントどこまで行っちゃったんだろ……」
暗闇に懐中電灯が放つ光をかざしながら、夏真っ盛りというのに空気の冷えた洞窟の中を自分だけの足音を立てながら歩くエリス。
かなでと可奈の二人の上級生が奥に入り込んでしまった洞窟は両手を伸ばしても届かないくらいの幅と高さがあり、いかにも洞窟といったように曲がりくねっていて、道筋を遮る隆起を何度も乗り越えながら進まなければならない。更に足元が湿っているから一歩一歩確かめるように踏みしめる必要もあった。けれどもそう注意していても緩い上り坂で何度かエリスは足元を掬われている。
「荻野せんぱーい、悠木せんぱーい」
黙々と足元を集中させながら歩くだけではなんだか本来の目的を見失いそうな気がするから、時々エリスは奥に向かってこう呼びかけてみている。けれども返事の代わりに自分の声だけがこだまするのみ。
「今の所、分かれ道とかも無さそうだったから……絶対追いつくはず、だよね」
長い時間が経ったような気分と、たった一人でいる事に改めて不安を覚え始めるエリス。
「お兄ちゃん……」
母校での仕事の為に遅れてこの珠津島に到着する予定となっている、教師でありそして従兄の上倉浩樹の事を思い出して奮い立とうとするも、いつも頼りにしているひとがすぐに駆けつけられないという現実に逆に強張ってしまう。
どれだけ過ぎたか判らない時間、足元と進む先に見える闇に集中しながら黙々と奥をめざすエリスだった。
上り下り曲がりくねる道筋が暫く続いた先の、目の前にそびえる人の背丈ぐらいある上り坂を越えた時、突然、それまでの如何にも洞窟だった道筋が、足元も側壁も天井も人工的に荒く削りだされ拡げられた地下通路のようなものに様変わりした。
エリスは暗闇に突然現れたその変異に少し息を呑むと、確認するべく懐中電灯で周りを照らしながら開いた眼で見渡してみる。
「荻野せんぱーい、悠木せんぱーい」
再びその人工の通路の奥にいるはずの二人に呼びかけてみる。しかし暫く耳をそばだてていても、何も返事は……
「やっと追いついたね! エリスちゃん!!」
「エリスちゃん、ケガなかった?」
不意に背後からそんな声と共に二つの影が飛び出し、エリスの両手に絡み付いてきた。
「えっえっ?」
予想もしない急な出来事に、顔を左右に振って両腕に取り付いてきた正体を探ろうとするエリスだったが、それが暗闇の中ずっと探していた先輩二人だと判った途端、肩の荷が下りた様な気がしたのか、その場に座り込んでしまう。
軽い冗談のつもりがエリスに思った以上のショックを与えてしまった事に
「どしたの!! 大丈夫!?」
と慌てて声を掛けるかなでと可奈だった。けれどもエリスはこう口にするだけ。
「本当に心配したんですよ……」
自分よりも小柄な先輩達を下から泣きそうな笑顔で見上げているのだった。
カツ、カツ……
そんな音が洞窟の方から耳に届いたのは、そこに居た三人がやっと落ち着きを取り戻し、「これからどうしよう」と話し始めた頃。少し汚れたジャージ姿の二人はまだ座り込んだままのエリスの前に塞ぐようにして立つと、音のする先を登山ライトで照らしてみる。
「キャッ、眩しいわねぇもう〜」
片腕でライトの明かりを遮りながら洞窟の暗がりより髪を光で輝かせながら目の前に突然現れたのは、赤いベストに半袖シャツという制服姿の瑛里華だった。
「えりり〜ん!!」
「千堂副会長さん?」
驚く二人の前に到着した瑛里華は「鳳仙さんだけだと危ないから追いかけてきたのよ」
とスカートを払いながら事情を伝える。
「そんな、私たちなんかの為に……」
座り込んだまま申し訳無さそうな表情を見せるエリス。すると膝を下ろした瑛里華は手を差し出し「具合悪そうなのに無理しないで。疲れてるの?」と気遣う。
「ぅ…」
心配そうに身体を寄せてきた瑛里華に対して反射的に目を伏せ身構えてしまうエリス。それが急な体調不良が起きたかのように見えた事から瑛里華は驚き慌てて「本当に大丈夫なの!?」と真剣な表情を投げかけてくる。
恐る恐るといった様子で少し顔を上げたエリスだったが、しかし明かりだけ灯る暗がりが色彩を誤魔化してくれた事から、瑛里華の姿をその眼に写し取るとやっと安堵の表情に落ち着いた。
「……特にはケガしてないから大丈夫だよ」
瑛里華が急に緊迫した表情を見せたのが自分の所為だと判っているエリスは、慎重に立ち上がると確かめるように身体の方々を擦りながら、その眼差しをゆっくりと瑛里華に向けてみせた。
「うん、ちょっと疲れちゃったけど、座って休んでたから、もう大丈夫だと思う」
そう瑛里華に応えるエリスの表情にはやっと笑顔が戻っていた。それは金色の髪とともに輝きを取り戻したようだった。
その頃、図書館の書庫では……。
洞窟に入り込んだ四人を待つ、ゲストとして来ている撫子学園理事長代理の鷺ノ宮紗綾とホスト役の修智館学院学生・悠木陽菜の所には、心配してゲストとホスト双方が駆けつけ顔をあわせていた。
「……」
「荻野さんや鳳仙さん、それに悠木さんのお姉さん、怪我してなければいいんですが」
まず駆けつけたのがホスト役の紅瀬桐葉とゲストの美咲菫の二人。陽菜に駆け寄った美咲の心配そうな表情を察した紗綾がこれまでの経緯を伝えている。
桐葉はというと、ここに来てからはやや離れた書棚を眺めているけど、紗綾が美咲に話す状況説明にだけは耳を傾けている様子だった。もっとも、他の人たちよりも最も遠い霜星馬場の芝生から現場へ、瑛里華の次には駆けつけていたように、顔には見せていないけれどもこの事態に憂慮している事だけは間違いなかった。付け加えると、美咲とここまで一緒に辿り着いていた事から、あれだけ嫌がっていたホスト役という責務を桐葉が怠らずに努めていた事が伺える。
「なんでエリスちゃんを止めなかったの!!」
修智館の学生である東儀白に付き添われながら最後に駆けつけるなり、すぐさま問いただしてきたのはエリスの親友である藤浪朋子だ。引き止められなかった陽菜はただ「ごめんなさい」と謝るほかない。
「直ぐに私たちに助けを求めてこられたのですから、そう責めないで下さいな」
陽菜の両肩をそっと支えながら、紗綾が緩やかにそう話しかけ事情を教えると、それまでは携帯電話からの断片的な情報しか知らなかった朋子も「ごめんなさい、私も言い過ぎたわ」と素直に謝るのだった。
朋子も勿論、最初の連絡を受けてから絶えず心配してはいた。けれども、今でさえ白に付き添ってもらっているように自らの虚弱さが足を引っ張ってしまい、心身が一緒に並んでくれず、新敷地の実習棟から学院敷地でも高台に築かれていた本敷地の図書館に辿り着くまでかなりの時間を要してしまった。
そんな苛立ちを陽菜にぶつけてしまった事に気付かされた朋子は更に恥ずかしさがこみ上げてきた事も手伝って「本当に、ごめんなさい」と陽菜の手を両手で優しく包みながら謝罪していた。
「でもまぁ、藤浪さんの気持ちもわかるんですけどね」
朋子と陽菜の遣り取りを眺めていた竹内麻巳がそう呟いた。心配という点ではエリスの所属する美術部で部長を務める竹内も負けてはいなかったのだ。ただ、美咲たちの後に紗綾理事長代理から説明を受けていた事から早々に冷静さを取り戻していた。しかし……
「ここでただ手をこまねいている、っていうのももどかしいわね」
訪問先でのトラブルだから全く勝手が判らない事、加えて対策があっても今すぐに実行できない状況。心配はすれど未だに行動できない苛立ちから「上倉先生なら直ぐにでも洞窟の中に飛び込んでるのに」と、まだ学院に到着していない母校の教師の事を愚痴ってしまうのだった。
「ねぇ、肝心の生徒会長はまだなのかしら?」
そんなゲストの不満を代弁するかのように竹内のホスト役を務めていた修智館学院の美術部の部長がぶっきらぼうに言う。
「まだ……ハシゴを探しているのではないかと思いますわ」
少し言葉を選ぶように応えたのは、ここにいる唯一の年長者である紗綾理事長代理だ。
「きっと大丈夫ですから、皆さんもう少しお待ちしましょう」
明確には洞窟遭難というこの事態が緊迫した空気を帯びていないのはこの理事長代理が動じる事無く皆を宥めている事が大きいのかもしれない。もちろん先に伝わっている生徒会長の「保証」があることから少なくとも深刻な事態だけは逃れているともいえるが。
「仕方ないわね」と部長もその「保証」を拠り所に一応は納得する。
「あの……私」
停滞する雰囲気に割って入る声。その声の発せられた先に振り向いた桐葉が目にしたのは、今も朋子に付き添っている東儀白の真剣な表情だった。白はここに居る中では最も年下だが、ここにいる唯一の修智館学院の生徒会役員でもある。
「監督生棟の物置の奥にハシゴが仕舞われていると思いますから様子を見てきます」
構内を案内してくれた時も白は大人し過ぎると記憶していた朋子は、今もさっきまではただ付き添うだけだった白の意外な行動力に「白ちゃん?」と目を丸くしてしまう。
そんな朋子たちのそばへ近づいた桐葉に朋子を預けると、白はそのまま図書館奥の間から外に駆け出していった。
「藤浪さん、美咲さん、それに竹内部長さん。わたくしたちはあくまでもここに訪れている立場なのですから、この学院を熟知している生徒会の方々にお任せしましょう。それに上倉先生もこちらに向かっている所ですから」
紗綾の言葉にその三人の撫子学園生徒はただ頷くだけだった。
暗がりを懐中電灯や登山ライトが照らしている。地下通路の床には時折、歳月の積み重ねによって柄が傷んだスコップやつるはし、朽ちた木製の荷車などが転がっていたが、それはつまり、ここが人工的に作られた物であり、過去の遺物である事を示していた。所々では壁面からの水滴が水溜りを作っている。夏真っ盛りというのにここは冷え切った空気が漂っている。
「兄さんはまっすぐ行けば出られるって言ってたんだけど、一体どれだけ歩けば出口に辿り着くのよ……」
「エリスちゃんは疲れてない?」
「えっと……なんとか」
「えりりん、出口があるんだったらまいぺーすに話しながら歩こうよ」
瑛里華とエリス、そしてかなでと可奈の四人はのんびりと下校するようなペースで暗い通路をまっすぐ進んでいる。エリスを他の三人が囲むような配置はつまり、この中で一番体力がないエリスへの配慮だ。
「でも本当に疲れたら少し休むんだからね、鳳仙さん」
瑛里華の気遣いにエリスは頷いてみせる。
「ねえ可奈ちゃん、そっちってどんな感じの学園なの?」
「えっと〜そだね。世間じゃあ全国から優秀な生徒をスカウトしてその才能を開花させているっていうけど、私から見たら結構自由気ままにさせてくれるとこかな」
更に可奈はエリスが絵画の特待生で本当に凄いって事を付け加えていた。
「私なんてまだまだですよ」と照れてしまうエリスは「荻野先輩の方がもっと凄いんですよ」とその小さな先輩に憧憬を込めた眼差しを向ける。
「最初の自己紹介の時にも趣味が小説書きって仰ってましたけど、それって趣味で書いてるって事だけではなかったのですか?」
瑛里華のかしこまった話し方に「普通でいいよ」と、ちんまり照れている可奈。
「これでもあの『ロジウム』って雑誌とかで女の子向けの小説出してるんですよ」
代わって自慢げにエリスが教えてくる。
「へぇ〜〜その雑誌ならヒナちゃんの部屋で見た事あるよ。文字ばかりのだったね」
「もしかしたら私も悠木さんの部屋で読ませてもらったかも……そういえば荻野先輩のお名前って」
と、そこで瑛里華は考え込むと「あっ」と思い出した。
「そこで連載していた『桜色ロマンス』って今月に文庫本が出てませんでしたか!」
「その連載小説ならわたしも読んだかも」
「わ〜〜〜ッ!!」
この場に読者が二人もいた事が決定打だったらしく、可奈は両手で顔を覆いながら激しく身悶えしゃがみ込んでしまう。
「恥ずかしがらないでって先輩」と言ってエリスはひと回り更に小さくなったかのような上級生を引っ張り上げていた。
「先輩と比べれば私なんてまだまだですよ」
そんな絵画特待生のエリスもまた、嬉しそうに照れているのだった。
「修智館学院って全寮制なんだよね」
「共同生活ってなんだか楽しそうですね」
「いえいえ、みんな好き勝手だから寮長兼風紀委員としては苦労が絶えないのだよ〜」
話題は今度はホスト側に代わる。珠津島という自然豊かな場所や島の繁華街から離れた山の中腹の森に囲まれた学院というロケーションは、都会にある撫子学園の生徒にとって興味尽きない。同じく「全寮制」という環境も物珍しかったりする。
「え、寮長なの!? かなちゃん凄い凄〜い」
可奈は素直な反応を見せ、更には創作意欲を刺激したのかこんな事も言い出す。
「そうだ、今度の小説の題材にもなるから後で寮生活の事とか教えて! お願い!」
可奈は更に好奇心を抱いた様子だったが、それに対して、これまでのかなでのキャラクターとは異なる一面にエリスは意外そうな様子だった。そんなエリスを察した瑛里華はそっとエリスの耳に添える。
「こう見えても悠木先輩は生徒会としても結構頼りにしているのよ。それに色んなイベントとか寮で企画されてるから寮の雰囲気も明るいの」
「それは何となくわかる気がするかな」
いたずらも好きみたいだけど、自分に心配もしてくれた。それに可奈と一緒にこうして場を和ませている。きっとこんな寮長のいる寮生活は楽しいはずだ。
「寮で私たちが準備している今夜の歓迎会も楽しみにしていてほしいな」
エリスにとっての可奈、そして瑛里華にとってのかなで、お互いに自慢の先輩を持っている事をこうして確認し合うのだった。
撫子学園の事、修智館学院の事。四人それぞれについての事を話しながら歩くうちに、地下通路は一段と広い空洞に辿り着く。
「うわぁ、ここはなんだろう?」
登山ライトで周囲を見渡す可奈。かなでも同じく周りの暗がりに光を当ててその様子を探っている。
この広大な地下空間は、天井や壁面がコンクリートで囲われた、豆腐をくり抜いたかのような構造をしているようだ。所々で大きな岩などが壁面から突き出すように残されている。
「みんな見て見て!! トロッコみたいなのがあるよ」
暗闇の奥に何かを見つけたかなではそのトロッコらしきものがあるという場所に駆け出していく。
「悠木先輩、気をつけて」
「まちがいないね。これできっと脱出できるはずだよ」
瑛里華たちも近寄ってみると、そこにはワイヤーが通った大きな滑車装置と荷車のようなトロッコ、そして少し先から急に下っていく二本の線路と真っ暗なトンネルが築かれていた。ワイヤーの一方はトロッコに繋げられており、もう一方は線路に沿ってまるで地の底まで伸びているようだった。
「これは……井戸のつるべみたいな構造をしてるのかも」
「という事はこれに乗れば、反対の線路から別のトロッコが上がってくるって構造なんだね」
トロッコを揺らして動くかどうか、かなでが確認している。かなり太いワイヤーはほつれも傷みも見られない。滑車装置も若干さび付いているものの一応動くようだった。
「でも本当にこれで出られるのかなぁ」
それが最初の疑問だったが、この点に関しては可奈が明快に推測している。
「図書館の辺りだと天然の洞窟なのにこちら側は誰かが作っていたんだよ。中間だけ作り込むなんてありえないから、このトロッコで下りた先も人の手が入っているはず。これを降りればきっと外に出られるって」
次の問題はトロッコが本当に動くかどうかという事。かなでや可奈は直ぐにでも乗り込みたかったのだが、それを瑛里華とエリスは引き止め、まずは空でトロッコを降ろしてみる事にした。
期待と不安の交差する視線に見守られる中、トロッコは空のままガタガタと音をたてつつワイヤーを引っ張りながらトンネルの中に消えていった。そして暫くすると反対側の線路から下にあったトロッコがワイヤーに引っ張り上げられて来た。
「上がって来た!」と停止したトロッコに駆け寄ったかなではその状態を色々と確認してみた。見た目からはここにあったトロッコとはそう変わりない状態といえた。
「本当にこれで降りるの?」
動く事だけは確認されたものの、暗闇の中を滑走するこの乗り物に、エリスは抵抗感を覚えていた。瑛里華も同じ考えだったから「もしもの事があったら」と反対する。
「それならえりりんたちの上級生であるわたしたちが一度降りて様子見てくるよ」
最軽量な自分たちだからトロッコにもそう負担は掛からないからと、その二人は早速そのトロッコの荷台に乗り込んでしまう。
「先輩、危ないですから止めておきましょうよ」
「私たちに任せなさいって〜」
エリスの制止にも耳を傾ける事無く、かなで達を乗せたトロッコはゆっくりと動き始め、やがて急斜面を加速しながらトンネルの闇に消えていった。
「あ〜あ、行っちゃったわね」
「先輩たち、大丈夫なのかなぁ」
トンネルの中を見下ろす瑛里華とエリスの二人は諦めと憂いの混ざった表情をお互いに見せ合うものの、「待つしかない」という点で一致する他なかった。
そして試運転の時よりも少し早く、トンネルの中からカラカラとやけに軽い何かが近づいてくる音が耳に届き始める。
戻ってきたのはワイヤーに繋がれた、トロッコの部品の一部だけだった。
《 三 》
「いやぁ〜ゴメンゴメン」
軽く運動して爽やかに汗を掻いて来ましたって感じに生徒会長の千堂伊織が図書館の書庫にやってきたのは、白が監督生棟に向かってもう暫く経ってからだった。同じく生徒会役員の東儀征一郎と支倉孝平が二人掛かりでハシゴを抱えながらその後に続き、
「申し訳ない。これを倉庫の奥から引っ張り出すのに手間が掛かってしまったのでね」
と、征一郎が丁寧にわびる。
修智館の美術部部長とエリスの親友の朋子は待たされた事に眉を少し釣り上げて不満そうな表情を見せたものの、征一郎の謝罪、そして何よりも竹内部長の後輩であり親友の救助が専決だと判っているから「とにかくこっちよ」とハシゴを抱えた二人に指示を出す。
三人分くらいの背丈に伸ばされたハシゴが書庫の扉からゆっくりと洞窟の中に下ろされ、る。これでやっと下に降りる事が出来るようになった。
「うちの妹なら旨くそちらの生徒さんたちと合流しているはずですからご安心を」
そう伊織はゲスト側の代表である紗綾理事長代理に話しかけると、洞窟への入り口の前で全員に今後の手順を話し始めた。
「俺はまぁ結構前にもこの中に入った事があるんで自分がリードしよう」
「俺はここで待機しておく」
生徒会長の伊織が洞窟の中に入り、後方は副官的存在の東儀征一郎が任される。
「あと……もちろん俺だけでは退屈……」
「おい、遊びじゃないんだぞ、伊織」
釘を刺すかのように厳しい視線の朋子が口火を開こうとするよりも先に瀬一郎がたしなめる。
「まあまあ。もしもの時の手伝いとか征に連絡してもらう役にたってもらいたいんで」
苦笑する伊織は傍らに居る孝平と、そこから距離を置いている桐葉に視線を投げると
「うちの生徒会役員と彼女に同行してもらうよ」
「俺も行けるんですか!」
「……」
桐葉だけはあからさまに面倒そうな表情を隠さず見せているが、それでも呼び寄せに応じて洞窟への入り口に歩み寄ってきた。
孝平は呼び出された時から洞窟の中に降りるつもりでいた。もとより伊織にハシゴの運び出しで召集されるよりも前に直接、瑛里華から携帯でゲストのエリスやかなで達の洞窟遭難の連絡を受けていたのだ。
瑛里華とは期末試験が終わってから暫くして紆余曲折の末に晴れて公認の仲になっていた。その瑛里華は実は、孝平を軽く打ち上げるくらいの人並み外れた体力を一族の性質として持つのだけれども、彼女であり女の子だから孝平はやはり心配せざるを得ず、だから内心では今すぐにでも助けに向かいたいところであった。
この洞窟の構造を知っているという伊織の指示で瑛里華たちのいる所に追いつき、恐らくは出口までの全行程の半分を越しているはずだろうから、そのまま洞窟の出口まで連れ出す。というのが大まかな説明。
生徒会長が「何か質問は?」とこの場に居る全員に振る。特に何もなければ後は出発だけ……と言うよりも先に、突然小さい身体が突撃するかのように伊織に掴みかかった。
「ちょっと待ってください! 私も行く!」
何も出来ない苛立ちに我慢ならなかったのだろう、朋子が伊織のシャツの襟元を自分に引き寄せようとしていた。突発的だったから伊織も即座には何が起きたのか判らなかった。
その朋子を引きはがしたのは同じ撫子の美術部部長・竹内だ。
「無茶よ、あなた余り体力とかないでしょ。それに洞窟で発作を起こしたらどうするの」
親友を心配する朋子の気持ちを竹内はよく判っていた。だから
「代わりに私が付き添います」
「竹内先輩……」
美術部の後輩でもあるエリスの為にも、自分たちも救援に加わらなければならない。
撫子学園サイドからの申し出を予め察していたらしい伊織は「じゃあよろしく頼むよ」と即座に了解していた。
「懐中電灯かき集めてきました」
「早い早い。さすがは我が妹の彼氏殿だな」
さすがに明かりもなしにゲストの竹内を伴って行くわけにはいかないので懐中電灯を図書館の事務所や講堂などから孝平が急いでかき集めていたのだ。
竹内が隊列に加わるまでの間に、監督生棟に向かっていた白が修智館学院のジャージを三着届けていたので、洞窟に降りる事になった桐葉と竹内は別の部屋に着替えに出向いていた。ジャージはその兄の征一郎が女性陣の為に用意を指示していたらしい。白もジャージに着替えて桐葉たちと一緒に後を追おうと考えていたのだけれども、征一郎はそれを引き止めていた。
ジャージ姿の桐葉と竹内、「男の子なら服が汚れてもへっちゃらだろ」という一言で夏服の制服姿のままの伊織と孝平の四人が書庫の扉の前に揃う。
「準備もできた事だし、さぁ出発するかね」
まるで子供が軽い気持ちでちょっと遠出にチャレンジするかのような口調の伊織を先頭に、エリスや瑛里華、かなでと可奈が潜り込んでしまった修智館学院の地下にある洞窟へと四人はハシゴ梯子を降りていくのだった。
上がって来たトロッコの一部はワイヤーごと滑車装置に絡みつき止まる。反対側のかなで達が降りて行った側のワイヤーはピンと張ったまま。
「……これってどういうことかなぁ?」
呆然とするエリスの一言に瑛里華はハッと我に返ると、エリスの両肩を掴み、
「って大変だわっ!! 先輩たち、戻ってこれないじゃない!!」
と言ってエリスを現実に引き戻そうとする。
このトロッコ装置が壊れてしまった事で、もうこれを使って下に降りる事は出来なくなってしまった。ワイヤーを伝って降りる事も考えたものの、どれだけ降りればいいのか判らず、何よりも歩いて降りるには斜面が余りに急すぎる為に常識的には危険で不可能としか言いようがない。
「鳳仙さんを背負えば……」とも瑛里華は考えたけれども、それは余りに人知を超えたものであり、決して人に、ここにいるエリスにも知られてはならない事であった。
「先輩たち、無事に下まで降りたのかなぁ」 滑車装置のそばに座り込んだエリスがボソッと漏らす。
「判らない……」
エリスに背を向けトンネルの奥底を見通そうと凝視する瑛里華はそう答える他なかった。なんら手が浮かばない為、俯くエリスの表情に重い影が圧し掛かり始める。
「お兄ちゃん……助けに来て……」
普段ならどんな時でも直ぐに駆けつけてくれる従兄はしかし、まだこの学院には到着してないだろう。だから尚の事、気持ちが沈み込む。涙が出てきそうになる。
「……待って待って! ちょっと静かに」
突然の立ち尽くしていた瑛里華の声。瑛里華はただそこに立ち尽くしていた訳ではなかった。ワイヤーを飲み込んでいるトンネルの向こうに瑛里華は目だけではなく耳も集中させていたのだ。
「もしかして、何か聞こえるの?」
「…………」
耳に手を当てて音を集める瑛里華は何かに集中するかのように身動きしない。そうして暫くすると
「先輩たち、無事なんですね〜!」
「えっ、何!?」
突然、エリスたちのいる広い空洞にも大きく響き渡るような声を瑛里華が発した。さっきまで塞ぎ込んでしまっていたエリスもこれには驚き身を起こしてしまう。
「先輩たちは無事に降りたそうだわ。下にも広い空洞があるんだって」
「あっそうなんですかぁ、よかったぁ……」
仰ぐように座ったエリスの表情にはついさっきとは打って変わり、安堵の色が浮かび上がっていた。
「あちらにもまだ道が続いているから、そこを辿ってみるそうよ」
かなで達のメッセージをそう伝えた瑛里華にエリスは「私たちはもう暫くここで待つしかないの?」と訊くのだった。
ここまで歩いた洞窟を戻るという選択肢ももちろんある。けれどもアップダウンの激しかった道筋を思い出すとあまり通りたくはなかった。それに、もしかすると待っている間に孝平たちがここまで来てくれるかも知れない。そんな事を瑛里華は考えていた。
「ここってどんな構造しているのかな?」
時間を持て余し始めていたエリスはそう言うなり、立ち上がると手持ちの懐中電灯で辺りを照らながら歩き回り始めた。
トロッコ乗り場のこの地下広間は、ただ削り掘られただけの地下通路に比べるとやはりかなり広く、コンクリートで頑丈に出来ていて、更に多くの朽ちた土木工事の道具類が散乱していた。さっきまでは気付かなかったけれども、突き出ている大岩の陰に隠れて地下水の小さな流れもあるようだ。
「足元に気をつけてよ、鳳仙さん」
「うん、わかってるよ」
崩れたテーブルのようなものや壁に掲げられたと思われる朽ちた何かを見つける。もしかするとここに地図かこの施設の設計図面でもあったのかもしれないけど、今は風化してしまい何も読み取る事が出来ない。
ふと、エリスはその場を冷たい空気が通り過ぎたように感じた。
岩が突き出して入り組んだ場所にまでエリスが入り込もうとしていたので「あまり遠くに行かないで」と注意する瑛里華。するとエリスが「ねぇ来て来てっ」と呼びかけてきた。
「ここにも洞窟があるよ」
その洞窟の入り口は岩を削り、足元をならす様に人の手が加えられていたが、そう程なく先からは天然の洞窟となっている。そして確かに空気がこの中へ流れ込んでいた。
「風が流れているって事は……どこかに吹き出しているはずだから……」
「もしかするとこの洞窟からも外に出られるのかもしれないわね」
懐中電灯で洞窟の足場を照らしながら瑛里華は言う。しかし疑問はある。
脇道があるとは一言も兄から聞いていなかった瑛里華はその洞窟に踏み込むか少し迷ってしまう。しかし、険しくなったら引き返すというエリスの意見、トロッコを使う事が出来ないから抜け道が他にないという状況、そして瑛里華自身もこの先に何があるのかという興味もあるから、
「なら、危なくない所まで行ってみよっか」
「そうしましょ」
と、この脇道に進んでみる事を決めた。
こうして二人は懐中電灯を手に再び天然の洞窟の中に入っていった。
「いやぁワイヤーがさび付いててほんと、良かったねぇ」
下のトロッコ乗り場にはかなで達の乗っていたトロッコと、ワイヤーの繋がれた部分だけ大きく欠けてしまったトロッコが止まっている。かなで達が降りてきた時にはもう一方のは壊れてしまったようだ。
「エリスちゃんやえりりん、二人だけで大丈夫かなぁ」
瑛里華とは少し前にどうにか声だけで連絡を取る事が出来た。自分たちは二人ともピンピンしてる事、上にはもう戻れない事、自分たちだけで出口を探す事、こういったことを既に伝えている。
「むしろ自分たちの方が心配されていると思うよ」
エリスたちのいる所は少なくとも、最初に入っていった書庫の入り口にまで戻っていれば脱出できる。しかし自分たちはもう上には戻れないんだから、これから自分たちで脱出口を探さないといけない。
「どこかに出られるトコってありそう?」
「まぁ待って。今調べてみるよ」
トロッコ乗り場の広間を登山ライトの明かりで照らしてみると、ここにも上と同じように土木工事に使ったと思われる道具が散乱している。金属製のものは錆び付き崩れ落ちたのか、かなりやせ細ってボロボロとなっている。
カマボコ状に真っ直ぐくり抜かれコンクリートで固められているらしいこの広間はライトでも向こうの果てを微かにしか照らせないくらい奥行きがあるらしい。
「……このまま真っ直ぐに行くしかないみたいだね」
「みたいだね」
そう言って慎重にゆっくりと歩き始めた二人。少しするとその先の突き当りがはっきりと見えてくる。そこには小さな出口があるようだ。
地下を通り抜けているらしい風の流れも、この入り口に集結する為かはっきりと感じられる。
二人は顔をあわせて頷き合うと、手を繋ぎながらその入り口から入っていった。
「これはまたすごい所に出ちゃったねぇ」
「なんだろここは? 一体何があるの?」
廊下のように狭い通路を暫く歩くと突然に再び広大な場所、海の匂いのする大空洞に出た。その規模はトロッコ乗り場の広間よりも天井は更に高く、ヒカリゴケらしきものが所々で緑色に輝いて見せる天井の輪郭から、この空洞の奥行きもかなりあるようだ。何箇所かに照明装置らしきものも見えるが、どれも機能していない様子。そして何よりも、その大空洞のほとんどは地底湖もしくは巨大水槽の水面が占めていた。
「ヒカリゴケっていうのかな? そこらじゅう生えてるみたいだけど、こんなの初めて見たよ」
「街でもこんなおっきい水槽みたいなのって見たことがないね」
巨大な池を囲うようなコンクリ作りの遊歩道を歩く二人。遊歩道というよりもむしろ幅の狭い港の岸壁に近い。浅い水面下にフジツボの密生が見える岸壁には、転落防止用の柵がない代わりに所々に大きな金属の出っ張りが設置されていた。
「可奈ちゃん、これってまるで何かの秘密基地みたいだね」
「うん、なんか謎の秘密結社の隠れ家みたい。潜水艦とかが隠れていそうだよね」
そう言いながら対岸に向けて登山ライトをかざしてみるが、その向こうまでは見えない。
謎の対岸を目指す二人は、ヒカリゴケが点々と弱い光を放っているこの地底湖の周りを一周出来ると思っていたが、しかし実際には途中までしか通じていなかった。一方の果てはその先が崩れていて、向こうに見える岸壁の続きには渡れそうになく、そしてもう一方の果ては別の小さな出入り口に繋がるだけ。
「その昔、ここに海軍施設があったそうだから、もしかしたらそれが残っていたのかも」
小学校の時に郷土学習で習った、半世紀以上前の事をかなでは思い出した。その頃と言えば孝平とも一緒に遊んでいた頃だ。
「へ〜、この島にそんなのがあったんだ」
都会の地下街でも見た事がない広大な空間、ヒカリゴケの輝きが映る地底湖、そして人工施設。そんな不思議な大洞窟を改めて可奈は眺め見る。
その傍らではかなでが昔の記憶に何か引っ掛かって物思いにふけている。すると突然「あ、もしかして……」と言うなりもと来た出入り口に向かって岸壁を駆け出していた。
そしてそこでかなでは見つける。
「かなでちゃん! どしたの、ねぇ!」
後を追いかけた可奈もそこに書かれたものを目にする。
「ゆうきかなで、ひなちゃん、はせくらこーへー。地底帝国の秘密基地をみつける」
日付ははっきりとは読み取れないがあわせて書かれている年数は今から七年も前らしい。
「なんでここにかなでちゃんや陽菜ちゃんの名前があるの?」
謎の秘密基地にかなで達の名前。まったく話が繋がらない事から可奈は尋ねてくる。
「……うん、思い出した」
壁面に書かれたものを指で確認しながら可奈に話し始める。
「ずっと昔にこーへーって男の子、学院で可奈ちゃん達を出迎えた時にもいたあの支倉こーへーとひなちゃんとね、ここまで来た事があったんだよ」
それは懐かしく楽しき、かなでの良かった昔の思い出のひとつだった。
《 四 》
「ここまで来ても我が妹たちは見つからないとなると……」
そう考え込むのは救助隊リーダー・伊織だ。地下に降り立った救助隊四名は、険しい洞窟を抜け、地下通路を歩き、そしてこのトロッコ乗り場の広間まで到達していた。
「もしかしてここで行き止まりなんですか」
「いやいや俺の記憶する所ではここにあったトロッコを使えば更に下に行けるんだけどね」
「トロッコ?」
伊織の懐中電灯の光が差した、広間の奥の滑車装置に竹内も視線を向ける。しかしそこにあるのは滑車とワイヤーと金属片だけ。トロッコなんてどこにもない。
「瑛里華たちはそれで降りたんですか!?」
「俺のヒント通りならそうなんだけどね。しかし……使ったとしてもこれは二回程度だな。さてさて」
伊織は滑車に絡むワイヤーと破片を確認するが、どれも内に外に錆び付き、特にワイヤーの繋がってた部分はかなり朽ちていた。
「ああ、あれから相当傷んでいたんだなぁ」
「会長、あれからって何時の事なんですか」
滑車装置に後から近づいた孝平がそっと突っ込む。ここにいる者の中で孝平だけが生徒会役員であり、そして伊織やこの場にいない瑛里華の言う千堂家の秘密を知る者だった。
「前にここに来たのはもう三十五年くらい前になるな。その時の生徒会長をちょっと驚かそうと思ってね。下準備と合わせて二度くらい潜った事あるんだよね」
具体的な年のところだけ小声で、伊織は懐かしそうに孝平に教えてやる。数十年前にも学院で伊織が学生生活をしていたというのだ。これはつまり、不老不死のような存在だという千堂家の秘密のひとつを示している。
「まぁ少なくとも動かした形跡はあるから、もう一方のにでも乗って降りたんだろうよ」
ワイヤーが伝っている下り坂とトンネルを見下ろしながら伊織はつぶやいていた。
「待って、これを見て」
ここまで必要最低限しか口にしてこなかった桐葉の声が急に響き渡った。その声に全員が振り向くと、桐葉は懐中電灯で広間のとある場所を照らし出していた。
全員がそのポイントに近寄ると、なんでもない小石の集まりだと思っていたそこには「E2」「K2」と読める文字と二つの矢印が。それらは小石を並べて表わされていた。
「K2はきっと悠木さんのお姉さんと名前のよく似ている荻野さんの二人」
桐葉は淡々とそのメッセージを読み解く。
「二人は矢印の先、トロッコで降りてるわ」
そう説明しながら滑車装置のある場所を懐中電灯で照らし出していた。装置の先の下りトンネルの底にあの二人が居るという事だ。
「となると桐葉ちゃん、瑛里華たちはこっちってことかい?」
伊織は矢印の指す先を見やるが、しかしその先には何も不審な所はない。ただの壁面と岩場だけしか見当たらない。
「違う。よく見て」
桐葉の声に押されながら更に壁面に近寄る。
「……おやおや、そういえばあったなぁ、ここにも」
壁面そばの岩陰に隠れて洞窟の入り口が口を開けていた。伊織も数十年前に地下に足を運んで以来だったから、そのもうひとつの洞窟の存在をすっかり忘れていたようだ。
「この中に瑛里華たち二人が入り込んだって事ですか、会長」
続いて孝平がそこに顔を突っ込む。
「どうやらそうみたいだねぇ……よし、瑛里華とお客さんは彼氏の君にお任せしよう」
生徒会役員の昇進試験だと突然、生徒会長は目の前の生徒会役員に話を振ってくる。
「それから桐葉ちゃんには悠木たちを頼もう」
「……私が? なぜ?」
明快過ぎるほど不服極まる顔でストレートな反応を見せる桐葉に伊織は苦笑いしながら近づくと、こう耳打ちした。
「そもそもキミは、この島に何か興味があって戻ってきたんだろう? 丘の上の眠り姫」
「……っ!!」
「夜間の構内散策もそろそろ我が妹が嗅ぎ付きそうだから気をつけておいた方がいいね」
傍から見ていると、おちゃらけた表情で絡んでくる伊織に、何故か驚き、すぐさまキッと睨み返す桐葉。しかし伊織は全く動じてない様子だ。そしてそのノリのままに桐葉を更に口説いているようだ。
「紅瀬ちゃんの探しているものはそこにはないかもしれないが、遠回りしてみる事も真実みたいなものに近づく手だと思うんだけどね」
桐葉はなおもその屈託もない笑顔に睨みつけていたが、やがて大きく溜息をつく。
「……判ったから。私が、下に降りるわ」
終始にっこり笑顔で口説き攻め続けた伊織にさしもの桐葉も降参してしまうのだった。
「そうかぁ、ありがとうありがとう〜」
伊織の気持ちとしては桐葉の肩を叩いて更なる交友を望みたかったらしいが、しかしそこは桐葉も譲れないらしく、これ以上近づかないよう最大出力の視線で釘を刺していた。
「降りた先も色々とあるけどほぼ一本道だから迷う事はないと思うよ。地底湖の脇を抜ければ後はまぁそこまで長くは掛からないはずだ」
と、下の様子を伊織は桐葉に伝える。
「降りるのは……紅瀬ちゃんの人並みはずれた跳躍力があるから大丈夫、だろ?」
「だから私を選んだのでしょ、まったく…」
うんざりする桐葉だったが、深く息を吐き出すと、直ぐにでもその場を離れたいといった態度で早速滑車から伸びるワイヤーにハンカチみたいな布を巻き、その感触を確かめていた。
「桐葉さん」
「何?」
駆け寄ってきた竹内に呼び掛けられたけれども桐葉は振り向かない。そして続く竹内の言葉は聞こえてこない。沈黙されると逆に気になるからか、桐葉はそのうち我慢できなくなってその様子を観測しようと振り返ってみる。そこには戸惑った表情のまま硬直した竹内の姿が。
女の子が一人、地底に降りるというのだから竹内もやはり心配であった。しかしその為だけではない。自分が何もして上げられないのに任せっぱなしだという申し訳なさが、何を言っても無責任さを帯びてしまうと躊躇させていたのだ。
「判っている。あなたの同期の荻野さんを、悠木さんと一緒に助けるわ」
そういい残すと、ワイヤーを握りながら桐葉はゆっくりと降りて行く。
「気をつけてください」
結局、竹内は在り来たりな言葉しか伝えられなかった。
「俺も瑛里華の後を追いますけど、会長はどうなさるんですか?」
桐葉を見送った後、孝平は分かりきった事と思いつつ、確認の為に訊いてみた。
「そりゃもちろん、この竹内さんをもと来た場所に無事に連れ戻すだけさ。せっかくお迎えした大切な大切なゲストだからね」
「本当ですか?」と聞き返す孝平の視線が届くが、この程度、伊織にとっては瑛里華やそこにさっきまで居た桐葉に比べれば大したものではない。せめて自分の片腕の東儀征一郎レベルまでになってくれよと苦笑しつつ、付け加える。
「この竹内さんの事もだけど、上に戻ったら征に色々と指示出さないといけないんだよ。瑛里華達がどこから出るか分かったからさ」
「という事はこの洞窟の出口も判ってるって事ですよね」
「ま、それは辿り着いてからのお楽しみという事で。……瑛里華のこと、頼んだよ」
最後に珍しく真顔を見せたからか、孝平は意外そうな目をするが、すぐに「分かりましたよ」と返すのだった。
「じゃあ瑛里華たちを追いかけてきます」
孝平は懐中電灯を片手に、瑛里華の後を追って洞窟に踏み入っていった。
地下広間の脇から伸びている洞窟は、踏み込んだ最初の辺りはスコップといった道具とかが転がってはいたけど、やがては図書館書庫からの洞窟のように人の手が加えられていないものに変わった。
「エリスさん、そこの足元に注意してね」
いつの間にやらパートナーの呼び名を変えたらしい瑛里華は、懐中電灯で足元を照らしながら慎重に一歩一歩足を進めている。
「……うん、わかってるよ」
その後ろに、同じく足元を照らすエリスが続く。瑛里華の注意があったにも拘らず、足元が複雑な形状の上に水気を帯びて滑りやすくなっている為に、もう何度も足を取られている。その度に慌てて振り返った瑛里華に手を掴まれたお陰で、尻餅だけは避けられている。
何度となく曲がりくねり、書庫からの洞窟の様に何度もアップダウンを繰り返す。何箇所か分岐したような所もあったが、進路の幅と、そして風の流れから正しいと信じられる道筋を進んできた。
「エリスさん、寒くない? 少し休もうか」
「寒くはないけど、少し疲れたかも」
瑛里華は周囲を明かりで照らしてみる。夏の時期としては涼しく比較的湿度もあるから、だから湿っている周囲から出来るだけ乾いた場所を探そうと、手で触れて確かめていく。
「……どこもスカートからパンツまで濡れちゃいそうだわ。困ったわねぇ」
「千堂さん、やっぱりあまり贅沢は言えないと思うよ。私はここで足を下に敷いて座れば大丈夫」
エリスはそう言うと、靴と靴下を脱ぎ、正座に近い格好で腰を下ろした。足元が硬くて少し痛いけど、これなら服はそんなに濡れてしまわない。
「……そうね。私もそうするわ」
瑛里華もそれに習い、靴を脱いで靴下を抜くとエリスに向かい合うように座った。
正座して顔をあわせる二人。何を話しかければいいかとお互いに頭の中が一杯となってしまい、やがて、
「……ぷっ」
「ふふふ」
自分たちの姿が余りに場違いだから、二人とも我慢が決壊したように笑い出してしまう。「なんだかねぇ」と苦笑いに変わり、そして落ち着いた所でこれからどうするかを話し始める。
「まさかこの島の外にまで通じているわけじゃないから、きっと島のどこかに出られると思うけど」
「風に沿えば出られるはずだし」
そんな確認ごとから始まったが、次第に
「全く……か弱き乙女を基準に考えて欲しいわよ、ほんと、兄さんいい加減なんだから」
といったような愚痴に変わっていく。瑛里華が生徒会長でもある兄をなじるのだが、やがてこの状況とは全く関係ない事にまで矛先を向けるのだから、それを訊かされるエリスは困った顔を見せるしかない。
「地下のあの広い所に着くまで話してた時に悠木先輩が仰ってたけど、彼氏なんですよね、その人。羨ましいなぁ」
瑛里華の愚痴が更に、瑛里華が洞窟に入る前に連絡したのに未だに駆けつけてこない彼氏、支倉孝平にまで向けられると、さすがに十分近くも訊かされたエリスが話に割り込んできた。
「えっ!?」と突然の逆襲にそれまでの口調も止まってしまう。
「どうして付き合うようになったのか興味あるな〜」
「えっと……、孝平の、事ねぇ……」
金髪までも輝くような表情を見せ、興味津々そうな青い瞳も輝かせて見せるエリスに、今度は瑛里華が戸惑い、視線を逸らしてしまう。孝平との事については、それこそ千堂家の家庭の事情が複雑に密着しているので、どう説明していいやら本当に困ってしまう。
「あ……生徒会のお仕事とかで一緒にいることが多かったから……かなぁ」
模範解答のような表向きの説明をする瑛里華だった。実際、生徒会での日々も孝平との関係を近づけた事には間違いないから嘘ではない、嘘のはずがない。
「一緒にいること……なんだ。そっかそっかふむふむ」
更に突っ込んで問い詰めるかと思われたエリスは意外にも、それだけを口にすると一人考え込んでいく。
それを見た瑛里華は逆転ポイントだと踏んで攻めに転じた。エリスにも頼りにする人がいるという事は、四人一緒だった時の会話の中で、瑛里華と孝平との関係が飛び出した後に可奈から暴露されていたのだ。
「そういうエリスさんだって、従兄の先生にぞっこんだって言うじゃない。そっちはどうなの?」
「……へ? 私とお兄ちゃん?」
一瞬真顔を見せたエリス。最初はよく分かっていない様子だったが、瑛里華の質問を少しずつ読み解くと、「お兄ちゃんとの事!?」と、急に立ち上がるかのような勢いで反応を見せてきた。予想だにしない反応に瑛里華もさすがに驚いてしまう。
「お兄ちゃんとは……ふた、じゃなくって家族で一緒に住んでいるんだけど、いつもスキンシップしてみても軽くあしらわれちゃうのよ……。私の料理食べるといつも寝込んじゃうし、美術部顧問の仕事はいつもサボっちゃうし、だから竹内部長にはいつもイーゼルで殴られてるのよね……」
なんだかダメっぷりばかり訊かされているから瑛里華も苦笑いしてしまう。
「よく他の女の子に構っているけど……でも、その困っている子を見つけると決まって助けてあげようとしているんだよね」
それが誇らしくもあり、そして自分だけに向けられていないというもどかしさから、エリスの表情には複雑なものが浮かんでいる。
「そうね……、相手に自分の本当の気持ちをさらけ出してしまえば、きっと上手くいくわよ」
一回り小さくなったようなエリスの肩を掴むと更にこう付け加える。
「あとは、相手に逃げ道を作らせずに追い込む事」
孝平に告白されたあの日、自分を追い落とした孝平との遣り取りを、瑛里華はつい思い出してしまうのだった。頼れる存在をお互いに持っている事は瑛里華にとって嬉しい事だから、自分と孝平のように更にステップアップして欲しいと思ってしまう。
「お兄ちゃんの為にがんばってみる」
エリスもそう頷いてみせた。
「そろそろ行こっか」
「えっ……そうだね」
会話が尽きた辺りを頃合に、瑛里華は立ち上がりスカートを払う。裾が少しだけ水気を吸っていたがあまり気にするほどでもない。
懐中電灯を照らしつつ、瑛里華とその後ろにエリスが洞窟の狭い道筋を歩き始めた。
「待って」
「えっ……」
急に立ち止まった瑛里華が懐中電灯を奥にまで照らしている。
「ここからは足元が川みたいになってるようね。足元が冷たいと思うけど行けそう?」
振り返る瑛里華の表情は、この先が一段と歩くのが難しくなった事から、やや迷いを持っていた。
「気をつけながら歩けば、多分、大丈夫」
「そう、わかった」
素足で入る事も考えたが、脱いだ靴で手をふさぐ事の方が危ないと言う判断から、靴のまま浅い水流に踏み込み、その足元の感触を確かめてみる。
「エリスさん、懐中電灯を切ってポケットに仕舞って。明かりは私が点けてるから」
「どうして?」
「エリスさんだけでももしもの時に両手が空いているようにしておきたいの」
エリスの手が空いていれば、エリス自身が滑りそうになっても受け身が取れるし、もし瑛里華に何かあってもサポートする余裕が生まれる。仕舞われた懐中電灯はもしもの時の予備にもなるし。そういった瑛里華の判断からだった。
「冷たくって気持ちがいいね」
「ほんとそうね」
弱く浅い水流を暫く進むうちに歩き慣れたらしい二人はその歩幅を少しずつ増やしていた。靴の中に入り込んだ冷水が歩くたびに吹き出す音が水流の涼しげな音とともに洞窟に響いている。
「それにしても……靴、ダメになっちゃいそうね」
乾かしても染みみたいなものも残さずに元に戻せるかどうか、長い時間水に浸かっているだけに自信がない。瑛里華は片方の靴を足ごと持ち上げて、その靴の感触を確かめようとしていた。そんな何気ない行為だったが
「エッ!?」
水流に踏みとどまったはずの片足が突然揺らぐとともに瑛里華はそのバランスを崩し、そのまま後ろにひっくり返ってしまいそうになる。僅かに傾斜した水流、不安定な姿勢、片足をとろうとしていた片手、懐中電灯を握り締めたもう片方の手、そして滑ってしまった唯一の支え。どうにもならないと瑛里華はただ身体を丸めて浅い水面に叩きつけられ生じる衝撃に備えるしかない。
「瑛里華さん!」
後ろにいたエリスが叫び、その背中を両手で受け止めようと飛び込んできた。だが、そのエリスも向かった勢いのまま足を滑らしてしまい、瑛里華もろとも浅い水面に倒れこんでしまう。そしてエリスのぶつけたエネルギーはそのまま二人をウォータースライダーのように滑らせる。
「えっ!?」
後ろからギュッと抱き付いてくるエリスに声を掛けながら瑛里華はその勢いを止めようと洞窟の岩場を掴もうとするが、その全ては指を滑らすだけ。そして「あっ」と思った時、二人はその水流の先にあった途切れから下に投げ出されてしまう。
「エリスさん!!」
「……!?」
ドスッ!
スローモーションのように感じられた時間を掛けて二人の身体はその底に吸い込まれてしまった。
「瑛里華さん、瑛里華さんッ!?」
暗闇の中、水溜りの底に打ち付けられてしまい、気を失っている瑛里華を抱えたエリスは、水場から這い上がると、泣きながら必死になって瑛里華を起こそうと声を掛けている。
瑛里華は下にぶつかるよりも前に身体を強引に捻って自分が下になるように仕向けていたのだ。だからエリスはなんとか無事で、そして水溜りに叩きつけられた瑛里華は気を失ってしまったのだ。
「お願いだから、目を覚まして!お願い…」
ずぶ濡れになった相手の身体を胸元に強く抱きしめる。自分自身も水浸しだから、冷えた身体に瑛里華の体温が暖かく感じられた。
「……ぅ!」
暗くて全く状況が分からないが、不意に微かに誰のものか分からない血の匂いが漂ってくる。それを感じ取った瞬間、赤黒い記憶がエリスの目蓋に急に流れ込み始めてきた。
「……ッ!?」
重苦しい過去、死んだ両親の血に埋め尽くされた赤黒い過去がその戸を開こうとするのを感じたエリスは、その悪夢から耐えようと瑛里華に必死になって抱きつく。早く目を覚まして元気な姿を見せて欲しいと強く願い、その記憶を払い除けようとした。
「お願い、助けて……」
その涙は寄せた瑛里華の顔に落ちて濡らす。最愛の従兄か、この瑛里華の恋人、誰よりもこの二人が助けに来て欲しい、そんな強い願いがエリスの中に強まっていく。
「……きつい」
「エッ!?」
胸元から自分以外の声が微かに耳に届き、それを耳にしたエリスは顔をそこに寄せてきた。暗がりの中に二つの紫色をした輝きが浮かんでいる。
「瑛里華さん?」
「……エリスさんは大丈夫だった?」
紫色は見間違いかもしれない。青い瞳がエリスの顔をしっかりと捉え、自分よりも先に相手を気遣っていた。
「私なんかよりも瑛里華さんが!?」
「私?」
確認するように身体を揺する瑛里華。腕と足を曲げて伸ばしているようだ。
「……多分、問題ない、わね」
背中とかも擦った瑛里華はそう答える。しかしそれでも具合をよく見たいとエリスは懐中電灯をポケットから引っ張り出していた。暗闇の中にやっと明かりが灯る。
「傷は……私にはないみたいね」
もしかするとあったかもしれないが、千堂家の特質で傷が直ぐに塞がったのかもしれない。これ以上エリスを心配させないよう「打ち身だけ」と怪我の程度を伝える。
むしろ怪我で血を出していたのはエリスの方だった。少し膝とかを擦りむいたらしい。瑛里華への心配が収まって安心した途端、染み出す自分の血の匂いを急に意識した為に、エリスは突然吐き気をもよおしてしまう。俯いてなんとか耐えようとする。
「エリスさん、気分悪いの?」
痛々しい様子に瑛里華も心配してしまう。
「私……」
水で濡らしたハンカチで瑛里華に手当てされた後、やっと落ち着きを取り戻したエリス。やがて「聞いて欲しい事があるの」と口を開き始める。
「昔、両親とドライブに出かけた帰りに交通事故にあってしまったの。死んじゃったおとうさんやおかあさんの血の中に自分がいたから、それ以来、私って血を見るのがダメになったの」
そして自らを笑うように続けて
「血の匂いだけじゃなくて血の色もダメ。私、絵画の特待生なのに赤色が使えないのよ」
そう言うなり、エリスは瑛里華の前にその身体を屈すると突然に謝り始めてきた。
「ごめんなさい。最初に校門前で出会った時、みなさんが真っ赤なベストを身に付けていたからどうしても姿を見るのがダメで……」
「あ、それで悠木さんと一緒のペアになったのね」
実はエリスを狙っていたらしい瑛里華は、構内案内のペアを組み合わせる時に、エリスが即座に赤いベストを身に付けていない陽菜を選んでしまったので、まるで振られたかのような気分になってしまい、暫く少し落ち込んでいたのだ。その傷心は理事長代理の紗綾と一緒に周った事で癒されている。
「その事もだけど、洞窟で追いついた時も」
かなでたちにエリスが合流した直後、瑛里華が追いついた時。その時に急にエリスが苦しそうな表情を見せた出来事。
「瑛里華さんが赤いベストを身に付けてると思ったから」
そうなんだ、とその時のやり取りを思い出していた瑛里華。しかし疑問がある。
「赤いベストを着たままの私と今も一緒だけど平気だったの?」
その指摘にエリスは複雑な笑みを浮かべる。
エリスの説明によると、暗い中では色がよく分からないし、懐中電灯の明かりに照らされると真っ白に見えてしまうのだそうだ。
「だから、瑛里華さんは全然悪くないのに私が条件反射みたいに気持ち悪くなっちゃったから、あの時、瑛里華さんが気分を害したんじゃないかなって心配してたの。本当にごめんなさい」
改めて深く謝るエリス。けれども瑛里華はエリスの辛い過去をこうして教えてもらったから、それは仕方がない事だと慰めるのだった。
自分も自らの体質が人間としての生活に支障をきたしていたから、赤い色や血を目にすると取り乱してしまうというエリスの苦悩は何となく理解できる。
それに本当はエリスだけが一方的に謝るべきじゃなかった。瑛里華自身、エリスの血の匂いに自分の奥底に眠るものが強く脈打ち始めそうだったのだ。顔とかに表れないよう必死だった。人間としての生活をまっとうできない吸血鬼という呪われた血筋。しかし決して自らの正体を明かすわけにはいかない。
だから、瑛里華は尚も謝るエリスを抱きしめてその気持ちをこの身で受け止める。エリスの身体はずぶ濡れで冷たくて、そして暖かかった。
転落による負傷の手当てを一応終えたエリスと瑛里華は、今の状況を確認する為にエリスの懐中電灯で周りを照らしてみた。背丈よりも高い崖からは水が流れ落ち、瑛里華たちの落ちた浅い水溜りを作り出している。瑛里華の懐中電灯はその水溜りに沈み、落下の衝撃でばらばらになっているようだ。
一応、その水場から進む道筋はある。風も一方に向けて流れている。そして崖の上には手が届かないから、つまり、ここから続いている道を進む他ない。
「動ける? エリスさん」
最もダメージが大きかったはずの瑛里華はその吸血鬼としての体質から既に回復している。しかしエリスは軽症とはいえ、ここまでの疲れが一気に吹き出したらしく、腰を起こそうとするも、また辛そうな表情を見せていた。
その時、上から突然に光が差して来た。
「エリス!!」
「上倉先生ッ 早まらないで下さいって」
見上げた崖の上には身を乗り出そうとするなにかと引き止めようとするなにかが、大きな樹のような影が迫っていた。
そこに居るのは瑛里華とエリス、二人にとって最愛の思い人。揃ってここまで駆けつけてきたのだ。
「孝平?」
「お兄ちゃん……って!?」
エリスは待ち望んでいた声に目を輝かせ、頭上に居る従兄、上倉浩樹先生を見上げた、のだけれども、そこには崖っぷちを強引に下りようと踏み出そうとしている姿が……。
「お兄ちゃん、私は大丈夫なんだから、無茶しないで!!」
その姿を見た途端、なんとか立ち上がったエリスが先程までの疲れを全く感じさせない口調で、まるで叱り付けるかのように叫んだ。それを孝平が懐中電灯で照らし出す。
「エリス、無事なのか……」
立ち上がったエリスの姿をその目でやっと確認できた上倉先生は冷静さを取り戻すと、孝平に引っ張り挙げられながら崖の上に身体を戻していた。
「まったくもう。何考えてるのよ」
本気で心配しているエリスの姿、そして今しっかりと立ち上がっている姿に、隣に居た瑛里華は微笑ましく感じていた。それはこの二人のやり取りがその絆の深さを示していたから。
孝平と上倉先生の二人はそれから、少し遠回りをしてエリス達のいる場所に辿り着いている。崖の上までだった道筋それの直ぐ脇から別の道が開いていて、少し曲がりくねりながら瑛里華たちの落ちた所に繋がっていたらしい。
「お兄ちゃん、やっぱり来てくれたんだね。待ってたんだよ……」
そう言うなり、目の前に立つ従兄にエリスはドッと倒れ込んできた。突然の事に上倉先生も慌てるが、それでもしっかりとその身体を抱きとめる。抱きかかえられたエリスの表情はしかし、疲れが抜けて本当に安心したような笑顔が見えていた。
「まったくエリスのヤツは」
そう溜息吐くと先生は、その二人のやり取りを眺めていた瑛里華と孝平に向き変わると、
「修智館のみなさんにはウチのエリスとかが散々迷惑を掛けてしまったので、本当に申し訳ない」
と深く謝ってきた。一回りは年上と思われる青年教師に、大人の人に謝られてしまい修智館の二人もさすがに困ってしまう。
「私こそ、エリスさんのお陰でここまでこれましたから一緒にいてくれてよかったです」
もっとも、彼女と、そして悠木先輩たちが洞窟に入り込むなんてトラブルを招かなければ、このような大変な事にはならなかったとは、瑛里華自身も思ってはいる。けれども、こんな出来事がなければ自分たちの暮らす所の足元にこのような秘密の場所が隠れていた事を知る事もなかったのも確かだ。
「瑛里華も瑛里華だ。なんで三人と一緒になった所で直ぐに引き返さなかったんだ」
不意に隣に立つ孝平が肘で小突いてそう言うので瑛里華は「なっ」と振り向き言い返そうとしたが
「ここまで追いつくのは凄く大変だったんだぞ、まったく……心配掛けやがって」
なんて言われてしまうと、実際その通りだから何も言う事が出来ない。
その孝平の胸に頭を預け、ただ「ごめんなさい」とつぶやくしかない。孝平はその金髪の愛しい人を優しく撫でるのだった。
孝平を先頭に、上倉先生と背負われ眠ったままのエリス、そして瑛里華の順で、洞窟の中を風の流れに導かれながら進んでいく。
孝平と上倉先生がここまで追いついた経緯は歩く中で聞く事となった。最初は孝平だけだったが、更にその後から修智館学院に到着したばかりの上倉先生が追いかけてきたのだそうだ。先生にリードされた為に速いペースで歩く事となり、そうして追いついたと。
「洞窟の途中でそちらの生徒会長とうちの生徒の竹内に出くわして進み方を教わったから、迷う事なかったんだ」
「兄さんが竹内さんを連れて戻ってたんだ……まぁ下手な手出しはしないでしょうけど」
兄の伊織のその後の行動を上倉先生から教えられた瑛里華はそう言う。その口調はとても兄を信用するものは感じられないのだが、瑛里華の反応を見た孝平は改めて、伊織が間違ってもゲストを吸血する事はないなと思うのだった。多分そんな事を仕出かしたら、後で本人が出血倍増させられそうだから。
心配といえばと、孝平は思い出したように切り出してきた。
「桐葉がかなでさんたちの後を追っているんだけど、彼女一人で大丈夫なのかなぁ」
自分たちも確かに険しいルートだったが、桐葉はワイヤーを伝って更に下まで降りなければいけないらしい。加えてかなで先輩といえば、フリーズドライとも称される桐葉でさえ苦手だというから、連れ帰るのも一苦労だろう。
「……あれでも運動神経がかなりいい線いってるから、もしかするとそれを当てにしているかもね、兄さんは」
瑛里華はそうとだけ推測してみせるが、孝平としては自分を瑛里華の元に送る為の止むを得ない選択だったんだろうと受け止めるのだった。
「……ねぇ、風の流れが少し緩い気がするんだけど大丈夫?」
「途中に分岐点もなかったし、洞窟のサイズがさっきよりも大きくなっているからそれでじゃないかな」
後ろから不安そうに声を掛けてきた瑛里華に、孝平は周囲を明かりで照らして確かめてみせる。ただ確かに風の流れも弱くなり、そして洞窟の冷気に温かい空気が混じり合っているような気がした。
「っとストップ!」
「どうした?」
孝平が急に立ち止まったその先、懐中電灯で照らし出されたのは奥行きのある地底湖だった。
「行き止まりなんてそんなぁ……」
ガクリと瑛里華がその場に座り込んでしまう。それはそうだろう。ここまでの道は長かったんだから。
「ここを泳いで行けないのか」
「池の周りの浅瀬を歩けば、もしかしたら」
「どっちにしろエリスを背負って行くには危ないみたいだな。そろそろ起きてもらうか」
上倉先生はゆっくりとエリスを下ろすと、持っていたハンカチを池に浸し、それをエリスの首に顔に額に当ててやった。
そんな様子を見た孝平は、兄妹というよりもやっぱりなぁ、と思ってしまう。それを見習ったからか、孝平は座り込んだ瑛里華の隣に腰を下ろすと
「今は休んで。少ししたらまた考えような。きっと俺が何とかしてみるから」
まずは彼女を励まそうと優しく声を掛けてみる事にした。
「瑛里華せんぱ〜い、支倉せんぱ〜い」
そんな声が聞こえてきたのは、エリスがようやく目を覚まし、そして孝平と上倉先生が、どちらがこの池の向こうまで探るのかを争っていた、まさにその時だった。
その声は池の向こうから。暗くてはっきりとは見えないが確かに誰かが泳いで近づいている。
「あの声……もしかして白ちゃん?」
「俺もそんな気がする」
瑛里華と孝平は顔を合わせ確認しあう。ということはもしかすると
「お〜〜い、白ち〜ゃん!」
「……その声は瑛里華先輩ですか〜〜」
白ちゃんは手を振って応えるとこちらに向かって泳ぎだした。
白ちゃんが向こうから現れたという事は、この地底湖の向こうに出口があるはずだ。
ついに泳ぎ着こうとするスクール水着姿の白に、水で濡れるのも構わず瑛里華とそしてエリスが駆け寄る。その小さな白の身体を二人がかりで抱き上げていた。
「白ちゃん、私たちやっと出られるのね!」
白に導かれて池の浅瀬を辿って行くと、曲がりくねった先に光がこぼれ始めているのが見えてきた。大量の水が落ちるような音が次第に大きくなり、そして目の前に激しい音をたてている水のカーテンが現れる。
「……ここは、どこなんだ?」
孝平たちがカーテンの裏から回り込んだ先は、筒のようにそぎ落とされた崖に囲まれた池だ。滝はかなり高い所から轟音を響かせて池に降り注いでいる。浅瀬に沿って進むが
「えっと……」
「ここは「明賢の滝」ですよ」
瑛里華でも見慣れない場所だったらしく答えに窮したから、代わって白が教えてくれた。
「留年した者はここで滝に打たれるそうよ。ここの生徒会長さんが教えてくれたわ」
別方向からの声に振り向くと、池の浅瀬に立つ水着姿の美咲菫と藤波朋子がいた。さっきまでは岸辺の日傘の置かれたシートで休んでいたのだろう。その二人の所に、さっきまでの疲労感が嘘のようにエリスが駆け寄る。
「朋子ちゃん、美咲先輩!」
エリス自身とっくにずぶ濡れの制服姿だったからか、金髪を陽の光で輝かせながら、その姿のまま三人で水を掛け合い始めていた。
「まったく……」
さっきまで疲れ切ってたはずのエリスを背負っていた上倉先生はそんな様子に呆れていたが、その口元には笑みが浮かんでいる。
「兄さん…というか生徒会長は? それに悠木さんやここにいない人たちは?」
この場にいない人たちについて瑛里華は傍らの白に尋ねる。それに途中で分かれてしまった悠木先輩たちの事も気になった。
「伊織先輩は撫子学園の理事長代理の方とご一緒に監督生棟でお茶されてます。竹内先輩は監督生棟の一室でお休み中です」
竹内はさすがに慣れない洞窟の中を歩いたから疲れてしまったのだろう。我が校の美術部部長が様子を見ているそうだ。
「ほんともう、兄さんはサボってて……」
愚痴る瑛里華に白は「それは違います」と詰め寄ってきた。
「伊織先輩は私たちに瑛里華先輩たちが出てくる場所を教えてくださってます」
そしてあらぬ方向に振り向くと
「それに……悠木さんは兄さまと一緒に悠木先輩達を出迎える為に私の実家に向かわれてるんです。これも伊織先輩の指示です」
白の兄・征一郎が付き添った事も伊織の指示だったという。洞窟のもう一方の出口はどうも東儀家の敷地の裏手にあるらしい。
「なんだか会長に振り回された気分だなぁ」
既にずぶ濡れな制服だったから構わずに池の中に座り込む孝平。それに付き合うように瑛里華も「ほんとそうね」と言いながら浅い水辺に腰を下ろしていた。
夏の差すように暑い日差しも水に浸っているだけで涼しくなる。孝平は二人ともずぶ濡れの制服でいる事が愉快に思えたが、でもこんな格好よりもやはりちゃんと水着姿で遊びたいと思った。
「そうだ、今度海に行こう」
そう何気なく瑛里華に話しかける孝平だった。
かなでと可奈のその後は、修智館の学生寮・白鳳寮に全員で戻った後で陽菜から訊かされている。
地底で謎の秘密基地みたいな所に出た後、更に地下通路を進んでいたら桐葉が追いついたという。しかし三人で一緒に出口目指していた途中で桐葉が突然意識を失った為、かなでと可奈が二人抱えで長身の桐葉を運び、やっと東儀家の屋敷の裏にある防空壕跡のような出口に辿り着いたんだそうだ。
そこに妹の陽菜と東儀家の代表として東儀征一郎が待ち構えていて、見つかるなり直ぐに捕まってしまい、きつくお叱りを受けている。かなでの額には寮での学園交流歓迎会の間もずっと風紀シール貼り付けられていたがそれは妹からのお仕置きだという事だ。
伊織からなぜか強制参加通告が出された桐葉を含めて、夏休み期間中に寮に残っていた学生と今回の撫子学園からのゲストが集まった交流歓迎会、そして翌日からの文化交流の打ち合わせや美術部などでの見学会も問題なく終わり、初日だけ問題が生じた交流会は無事に終了となった。
《 五 》
迎えた九月の文化祭では撫子学園からの展示物としてエリスや竹内部長の絵画などがその作者とともに並ぶなど、夏に訪れた面々を中心にその得意分野を披露している。
美咲は合唱部のみんなとステージで歌い、可奈は特設コーナーを勝手に作って直筆原稿を展示し好評を博していた。なお、鷺ノ宮紗綾理事長代理は習慣として長刀の鍛錬を欠かしていないそうで、交流会当日も修智館の長刀部の練習にそのまま加わり実技指導などをしていた。
そして季節が並木を秋色に変えた頃、今度は撫子学園に修智館学院の学生を招く番となっていた。
「ここはさっきまでの街中と比べて静かね」
「やっぱり若き才能の育成に力を注ぐって言うんだから、静かな所の方がいいに決まってるさ」
校門の前に立つ瑛里華と孝平の二人。二人は今、新しい修智館の生徒会長と副会長という学院の代表として、年末の撫子学園での交流会準備の打ち合わせの為にここに来ている。
九月の文化祭を成功させた事から、伊織から瑛里華に生徒会長の座が譲られ信任選挙で認められたのだ。孝平は副会長、白は兄の征一郎から財務を引き継いでいた。
ではなぜ今回二人だけの訪問なのかと言うと、今は二学期の平日だから最低限の人数しか公休させられないというのも理由のひとつ。
そしてもうひとつは、瑛里華と孝平の関係からだ。二人は文化祭後の千堂家を巡る事件を経てより深い絆を結んだらしく、周りからは「まるで新婚夫婦のようだ」ともささやかれる始末。
実際、初めて島から出たという瑛里華がずっと孝平の腕に絡み付いてその身を預けている様子は、ただの学生カップルという域を超えた雰囲気で近寄れなかったと、撫子学園校門の手前までの二人を目撃した学生が後々に証言している。
瑛里華の姿は冬服の制服だ。真っ赤な色彩はエリスにとって苦手なものだと知っている瑛里華は、正装での訪問という元会長命令に従い、仕方なく制服を着てはいるが、もしもの為に内側の赤いベストを抜いた服装にしていた。完全な正装ではないが、エリスの事情を九月の文化交流の際のエリスの急激な不調で再び目にした事から、孝平も瑛里華のその配慮をよく理解している。
「いきなり会うなんて事、ないよね」
構内に入ったら暑いからとでも理由をつけて上着を脱ぎ白いシャツといった夏の陽菜のような格好にするつもりの瑛里華は、さっきまでの旅行気分から一転して用心深く校門をくぐり、正面玄関に向かおうとした。
「瑛里華さん、いらっしゃい!」
そんな明るい声が届いたのは瑛里華たちの背後からだ。
「え、エリスさん?」
急に呼び止められて驚き、傍らのパートナーにしがみ付いてしまった瑛里華が恐る恐る振り返ると、そこには夏にやってきた撫子学園の面々が揃っていた。付き添いの教師は二人増えている。
代表は学園の理事長代理の妹で理事長の鷺ノ宮藍だと後から挨拶の時に教えられたが、今この場の代表は更に一歩前に立っている、瞳と髪、そして表情を輝かせた鳳仙エリスだ。
「いらっしゃい、お二人とも。撫子学園を代表して歓迎します!」
そう言うなり、唖然とする冬制服姿の瑛里華の前に歩み寄るとその手を掴み、構内へと引っ張っていった。
それから瑛里華会長と支倉副会長の二人はこの学園の生徒会と文化祭の打ち合わせをして、文化活動の見学といった予定を消化していった。
最後に訪れたのはエリスや竹内部長、顧問の上倉先生のいる美術部だ。
「お疲れ様、瑛里華さんに支倉さん」
「そこまで気を使わなくてもいいんだけど」
修智館よりも狭い敷地とは言えずっと歩きっぱなしだったからという事で、早々に特別そうな椅子と冷たい飲み物が用意されるという過剰接待に晒される事となった修智館の二人。それも主にエリス一人から。チラッと脇目を振ると竹内部長や先生の呆れた様子が。どうやらエリスが勝手にしている事らしい。
竹内部長から美術部の活動内容の説明がなされ、九月以降に描かれたというエリスの作品などが披露される。美術作品については修智館の二人は学院の授業程度の知識に少し補われる程度しかないものの、どの作品もさすがは特待生が居る文化部の活動だと驚きを隠せないものばかりだ。ただ、瑛里華はエリスの作品に赤い色がない事も見抜いている。
下級生のデッサン練習の様子などを見て美術部での見学がやっと終了。しかし、エリスは赤い制服のままだった瑛里華に気にする事無く、再び近づいてくる。
「エリスちゃん、私の格好、大丈夫なの?」
余りに不自然なくらい赤い色が平気な様子に瑛里華は逆に不安を覚え、つい問いただしてしまう。
「赤い色……ですよね」
ここで急にやや重い表情に変わったエリス。それを見た瑛里華は、急かし過ぎた自らの過ちにうろたえてしまいそうになる。
「うん、あれから色々とあって、赤い色が使えるようがんばっている所なの」
そう静かに答えるエリスに瑛里華は「ごめんなさい、辛いこと思い出させちゃって」と謝る。
「瑛里華さんは違います!」
謝るだけでなく、更に今身に付けている赤い上着を脱ごうとする瑛里華の振る舞いに驚いたエリスはそれを引き止めようとする。
「でも、赤い服のままだと」
「だって瑛里華さんの赤い服はあの時洞窟の中で何度も私を慰め励ましてくれたじゃないですか」
瑛里華の両手を掴むと、今度は出迎えた時のように飛びっ切り素敵な笑顔をエリスは見せた。
「そんな……私なんて」
そのような思いもしない特別扱いに瑛里華は申し訳無さそうに照れてしまうのだった。
「瑛里華さん、最後に一枚、一緒に写真を撮りましょ」
撫子学園への交流訪問を終えて帰路に立つ瑛里華を呼び止め、一緒に写ってもらった写真は、今はエリスの部屋に飾られている。
深紅の制服に身を包む瑛里華と並んだ自分の表情は笑顔だが、けれどもその笑顔は仮面のようなものだった。到着した時からずっと。
あの洞窟で自分を守ってくれた赤い制服だから、支えてくれた瑛里華さんが身に付けていたものだから、赤い色に対する拒絶反応を必死で押さえ込んでいたのだ。その事を瑛里華に気付かれないよう、笑顔の仮面で覆っていた。
「いつかきっと瑛里華さんの事を描きたい」
あの瑛里華さんの赤い色は本当に複雑で特別なもの。だから頑張って赤い色を使えるようになったら、助けられた感謝の気持ちを一枚の絵に表わしたいと願うのだった。
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