チャボが歌う「夏」


チャボがセカンドソロ「DADA」を出した頃に書いた文章。

自分が何もしないまま

ただ、なんとなく人生を終えてしまうんじゃないかって、

それだけが一番怖かった


夏がいいよなぁ。

チャボの歌を聴くと、僕はいつも夏を思う。
セカンドの「絵」そして「DADA」やっぱ夏だよなぁ。

僕が夏が好きだって言うと、不思議そうな顔をする知り合いがいる。
「だってお前、夏にだって夏らしいこと何もしないじゃん。ただダラダラしてるだけじゃない」
いや、そうだけどさ。なんだけどさ。

「夏が好き」だって言う人には2つのタイプがあると思います。
とにかく夏が来たんだから、うれしくってもう、なんたって夏だもんよぉ!と
思いっきり盛り上がってしまう人。ショーナンとかウィンドサーフィンとかバーベキューとか
そんな感じで盛り上がってしまうのがタイプAの人々です。楽しそうです。
それならタイプBの人たちが何をしているのかというと、
何もしていないのです。これが。
アパートで横んなって、扇風機の首振りを一日数えていたり、
ぬるくなったビールを飲もうか捨てようか考えていたり、
帰省のタイミングを外して、悪くなったパンを食べて1人で腹を壊していたりする日々。
それでも夏が、いやそれだからこそ夏がと思っている人たちも
確かにいるのです。

          *            *


楽しくなんかちっともないんだ。
嬉しいことなら夏とか秋の方が多いんだ。
だけど春が去ったて、秋の終わりがやってきてもなんとも思わないけれど
夏の終わりには どうしようもなくなってしまうんだ。
いてもたっても いられなくなるんだ。

          *            *

ラジオと 武蔵野の夕空と
そしてお前が 夏の終わりを 知らせている
夏 OH OH  夏 OH  OH
OH  OH  OH
夏 OH OH
                                「スケッチ・89・夏」

        *            *

そんな「夏」を描いてくれる人が好きだった。
そんな感じを表現してくれる人が好きだったのだ。
沢木耕太郎は再起に賭けるボクサーと燃え尽きる瞬間を求めて共に闘い、
そして果たせなかった日々を「一瞬の夏」と呼んだ。
真島昌利は何も起こらない夏の日々を淡々と歌って
そして「ひどく遠く離れている」とつぶやくように叫んだ
彼らの夏の景色は、いつも届かないものだった。
追い求めて、追い求めて、それでも遠くにあって
ふと気がついて、あの時こそが夏だったんだと振り返る、
そんなあり方しか許されないものだった。

        *            *

過ぎ行く太陽の季節
過ぎ去る太陽の季節
過ぎ去った太陽の季節   
            「潮騒」

        *            *

チャボの夏もそうだったのだ。
「お前に終わりを知らせ」られて、はじめてそれが夏だったと気が付くもの。
過ぎ去ってしまった季節、そして熱く焦がれる季節。
彼は夏を歌うけれど、それは「現在としての夏」ではない。
彼の歌うアナザータウンとしての「ホームタウン」と同じ
「ここではないどこか」としての、
ありえない、だけどいつかあったかもしれない
そして、どこかにありえるかもしれない、そんな季節なのだ。

ひまわりの舟に乗ってのぞきに行くのは「次の夏の景色」であり
戻ってくると「そこはとっくに秋だった」ということはそういうことなのだ。
それは、沢木耕太郎や真島昌利が描こうとした、渇望したのと同じ「夏」のように
僕には思える。
そうでなかったら「スケッチ・89・夏」での
「夏 OH OH」のシャウトは出来なかったはずなのだ。
「夏」という言葉だけで、夏のすべてを表現してしまう。
そんなことはできなかったはずなのだ。

        *            *

なにもできなかったけど
なにかできるような 気がしてたんだ
なにをしたいわけでもなかったけど
なにかしなくちゃいけないような 気がしてたんだ


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