本当のお別れ


ひさしぶりに、ハイロウズについて、真島昌利について、文章を書きたくなった。

そんなアルバムを作ってくれたことが嬉しくて、日曜日の朝の寝床で一気に書いた文章です。

 

「RELAXIN' with the High-Lows」ぜひ、聞いてみてください。


  岡本君 また夏が来た
  去年よりも暑くなりそうだ
  熱気の中 押し潰された
  歩道橋で君を思い出す
             (「岡本君」  「Relaxin' with the High Lows 」より)
 
 
最初は複雑な気分だった。
 
ハイロウズの新譜「relaxin' with the High Lows 」の3曲目「岡本君」。
シングルカットされた「青春」で幕をあけるアルバムの、クライマックスとなるナンバーだ。
「君のいない夏はぬけがらのようだ」という一節。
そこで歌われているのは、
10年以上前に発表されたマーシーの1stソロそのものの世界のように感じたからだ。
 
 
ハイロウズになってから、マーシーはこの世界を意図的に封印していたはずだ。
それを今あらためて展開することの意味をどう受け取ればよいのか、僕にはわからなかった。
正直、彼らはあせっているのか、とも思わずにはいられなかった。
ただの再生産だったらどうしようかと、本気で心配した。
「夏のぬけがら」だけを頼りに人生のある時期を乗り越えたような記憶を持つ男子にとって
もしそうだったら、あまりに辛いなぁと。
 
 
しかし、その予測は微妙に外れていた。
どこが、あの頃のマーシーのソロとは違っていたのか
馬鹿馬鹿しいけれど、決定的な違いがあった。
「岡本君」はヒロトが歌っていた。
 
 
当たり前のことだけれど
ハイロウズのナンバーの半分はマーシーが作っている。
マーシーの詩をヒロトが歌う。
この当たり前の関係が、どれほど大きな意味を持つかに僕は気づかされた。
 
 
「岡本君」で歌われる風景
それは、1stソロの「花小金井ブレイクダウン」で「ひどく遠く離れてる」とつぶやいていた、
あの夏の風景と全く変わらないものだ。
それはマーシーの歌の出発点であり、
そこから必死に飛び立つ為の翼が、ブルーハーツやハイロウズのバンドサウンドであったはずだ。
すこしでも動きを止めてしまえば、
一人の部屋に戻ってきたら、またあの世界に立ち戻ってしまう。
それはマーシーにとって、ひとつの怖れであったのではないか。
 
 
しかしハイロウズでは、マーシーはその原風景を歌うことを拒否していた。
もっと言えば、真剣に詩を書くこと自体を拒否していたようにすら見えた。
「第3次世界大戦だ。わくわくするぜ」みたいな詩を
どこまで本気で書いているのだろうと、かなり不安な思いで聞いていた。
宮台真司的な言葉で言えば「意味から強度へ」の逃避。
それは、内面を突き詰めたら再びあの世界に立ち戻ってしまうことを知っていたからではなかったか。
もうあの頃の自分はいないのだ。
そう言い聞かせる姿のように、僕には見えていた。
 
 
 誰もいない廃車置き場で
 水たまりの中 百円拾った
 スパイごっこ アイスキャンデー
 突然の ひどい雨
 
 
ヒロトの歌声の奥で重なるように響く
マーシーのかすれた声
そこにマーシーの決意を読みとるのは、うがった見方だろうか。
マーシーは自分の原点を突き放す為に、そこから自由になる為に
この歌をヒロトに託したように聞こえる。
ヒロトが歌った瞬間に、この歌は感傷そのものではなく、感傷からの距離の歌に変わっているからだ。
 
 
もしかしたら僕らは、あの頃から一歩も進んでいないのかもしれない。
たぶん、そうなんだろう。
表に出ては無茶をやらかして
夜になれば、膝を抱えたままの場所に戻ってくる。
でも、いつも思うんだ。
もっと遠くまで、僕はいきたい。
 
 
考え違いをしていたのかもしれない。
これまで、ハイロウズでこの曲が歌われなかったのは、
それを拒否していたのではなく、
マーシーが何よりも大切にしていたことの裏返しであったのではないか。
だけど本当に前に進むためには、そこにもう一度立ち返って決着をつける必要があったのだ。
「岡本君」は2回歌うことは許されないナンバーだ。
なぜならば、それは訣別の歌であるからだ。
「青春」という歌を作ることが、青春の終わりを宣言する事と同義であるように。
マーシーは、そこから永遠に旅立たなければならない。
そしてマーシーは、それを選んだのだ。
 
 
 岡本君 本当のお別れだ
 またねじゃない本当のさよならだ。
 
 
そしてまた
夏がやってくる。
 

 


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