364日の曇天のために
ピーズというのはカステラのボーカル、大木知之(トモ)の双子の兄
大木温之(はる)がやっていたバンド
バンドブーム全盛の頃に、ポコチンロック(!)とかバカロックとか呼ばれてデビューした。
しかし本当はとてもシリアスなバンド、
マンガでいうと、初期の松本大洋とか土田世紀に近い感じ
メンバーチェンジしながら、去年ぐらいまでがんばってたんだけど
結局、「もう俺つかれたよ」と辞めてしまった。
まずは、こんな詩からはじめようと思う。
だが自分の詩を読み返しながら
思うことがある
こんなふうに書いちゃいけないと
一日は夕焼けで成り立っているんじゃないから
その前に立ちつくすだけでは
生きていけないのだから
それがどんなに美しかろうとも
(谷川俊太郎/夕焼け)
僕は彼の熱心な読者ではなかったが、
それでもこのフレーズには驚いたのである。
一日は夕焼けだけではない、
というよりは夕焼け以外の一日はどうしようもなく汚れていて
だからこその夕焼けの美しさであり、詩の輝きであるということ。
そんなことは、当然の前提であったはずだからだ。
彼は、詩集「世間知ラズ」でその当たり前とあらためて対峙していた。
「女を捨てたとき、私は詩人だったのか/好きな焼き芋を食っている私は詩人なのか」と
60歳のおそらく日本でももっともポピュラーな詩人は自問するのだ。
そして「私はただかっこいい言葉の蝶々を追っかけただけの/世間知らずの子ども」と言い切るのだ。
ダウンな日常を一瞬のうちに転化してしまう<夕焼け>のマジック、
彼は自身の最良の部分を封印して、雨上がりの虹ではなく
果てしなく続く、曇りのち雨の日々を描くこと、
それと向き合うことを選択したのだ。
それはとても勇気づけられる姿だった。
一日は夕焼けだけでは成り立たないという絶望、
そのうえで希望を歌うのではなく、
切り捨てる日常にこそこだわり続けようという意志に
ピーズと重なる姿を僕は見たのだ。
●(同じ夢を見れる人が)いないと思っているから、
こういう歌がかけるわけじゃないですか。
大木温之「いると思うからかけるんじゃん!」
● ほんとにいると思っていたら、歌なんか書かないで
やっぱりその辺を走り回っているでしょう。
大木温之「うん。走り回っているよ!」
● ああ、そういうことだったのかぁ(笑)
大木温之「俺は100%生きてるよ。俺は諦めてないぜ!」
ダウンな現実を地を這うように歌うピーズの唄。
描かれるのは、どうしようもない行き止まりの状況でジタバタしている、
つかの間の希望を追い求めて、結局ますますダメになっていく、そんな光景だ。
それが同情を誘うでもなく、なれ合いの共感も拒否しているのは、
この「どん底のポジティビティ」なのだ。はるの「俺は諦めてないぜ」という叫びなのだ。
「来るべき人とは、見る夢も同じだと信じている」そう本気で言いきるはるの目は
うつむいてはいるけれど、決して後ろを向いてはいないのだ。
嬉しくなってくるじゃないか。
現実がクソだからこそ、希望を歌うのではなく
現実を諦めていないからこそ、クソのような自分とその日常をリアルに描いて
それでも前向きなのだ。
そこには現実を音楽のマジックでプラスに転化しようとする意志は無い。
ただ、あてのない消耗戦を引き受けて対峙する構え、それだけがある。
ピーズの唄はどこにも連れていってくれない。
僕らの立っている場所、その場所を明らかにするだけだ。
その場所でどうするよ、そう問いかけるのだ。
絶望を弄んで、死にたい奴は死ね。
そう吐き捨てるのだ。
「どんどん自分に入っていったら何がわかるだろうと思っていたら
余計わからなくなったってのが感想だなぁ。
格好悪い自分を突き詰めたって、結局格好悪いなぁって思ってさ」(大木温之)
救済とも昇華とも無縁な、
地面をはいずり回るような曲ばかりが並ぶアルバム「とどめをハデにくれ」
そこにあるのは、踏みとどまる意志だけである。
それが結局格好悪い自分を確認するだけであっても
それを見届けようとする覚悟なのだ。
僕たちは歌われる「クズな俺達」に共感するのではない。
その覚悟にこそシンパシーを感じるのだ。
弱い順番に死んでいくのなら
そろそろ次あたり 俺の番だろう
そうだろう?
この地面が底なしの泥沼でも泳げるかい?
底なしの底になにがある
その奥には何がある?
(ニューエストモデル/“底なしの底”)
変な取り合わせではあるけれど、
ピーズを聴くと、この唄を僕は思い出す。
中川敬はインタビューで「書き殴りや、そういうのは全部」と切り捨てていたけれど
僕にとってのニューエストは、
まずこの「底なしの底」、あるいは「漂えど沈まず」だったのだ。
底なしの泥沼でもがいている、水槽のなかで漂っている自分という認識
そしてそのなかでも泳いで行くんだぜという決意。
それが、圧倒的な不安のなかで、震える足で踏ん張りながら叫ばれる姿に共感したのだ。
それは「クズんなってGO」でのピーズの背筋の伸ばし方と同じであるように思えたのだ。
その出発点があるからこそ、
「知識を得て、心を開き、自転車に乗れ」というメッセージが飛翔でき
ドカドカ進む姿が説得力を持ち得たのだ。
「グシャグシャな状況は、絶対に、当たり前にあるのだから、そこに立って歌っていく」と
小山田圭吾は語った。そういったメンタリティだけが、今の僕にとってはリアルだ。
ビートたけしは、宗教ブームに対して、
安直に救われよう、日常のストレスからお手軽に楽になろうと言う姿勢がなにより気にくわない。
そんな言葉で違和感を表明した。信頼できるのはそんな姿勢なのだ。
スタンド&ファイト、という言葉がボクシングにはある。
踏みとどまって戦え、ということだ。
どこかに連れさるマジックはもういらない。
この場所が踏みとどまる場所なのだ。
そこで戦う覚悟だけが今は欲しい。