うがった味方


  評論のページです。テーマは色々ですが、基本的に REVIEW JAPAN に投稿したものを中心にしていきます。      
森達也        /「A2」(映画) 高橋英夫       /「友情の文学誌」(岩波新書) ロンドンブーツ1号2号/「岬」(CD) U2 /「ALL THAT YOU CAN'T LEAVE BEHIND」(CD) 福本伸行     /「賭博破戒録カイジ」(コミック) 小林紀晴  /「写真学生」(エッセイ) 忌野清志郎  /「瀕死の双六問屋」(エッセイ) 重松清  /「ビタミンF」(小説) SOULFLOWER UNION / 「UNCHAIN」(CD) THE HIGH-LOWS /「Holidays in the sun」(ビデオ)  
         
他に誰が僕の事を心配してるんだろう      映画「A2」 / 森達也    
東中野のBOXで「A2」を見た。前作は気になりながらも見てはいなかった。
僕はこういう「気になりつつも機を逃す」パターンが多く、ちょっと改善しようと思い行ったのだ。
まず、全くナレーションを入れないスタイルに驚いた。
ストイックなスタイルを選択しながら、映像は過剰で饒舌。
デジタルビデオの映像は、ある意味アダルトビデオのように剥き出しで生々しい。
 
監督の森達也自身の逡巡や綻びが見えなかった事や、
登場するオウム信者たちがとても魅力的に見える事、
逆に言えばそういう選択をしている事に対して、若干の不満は残るったけれど、
内臓をわしづかみにするような、いくつかのシーンで全てが帳消しになる。
中でも、オウム信者の若者と同じ大学の部活の友人同士である新聞記者が語り合うシーンに圧倒された。
 
清水(新聞記者):真理って何なのかね?
秋山(信者):真理? ・・・何で魂が流転してるのかを知って、
       どういうふうにこれから流転していったらいいかを指し示すものじゃないですかね?
清水:うーん、やっぱり分からないな。
秋山:うん、だって普通の人なんだもん。
清水:心配してる人は、たくさんいるんだよ。
秋山:誰が?
清水:アダチとかさ。
秋山:アダチ、心配してるかねぇ。だって電話くれないじゃん。
清水:あいつ、あいつ何かね、こう言っちゃ何だけどね、
   何か「えーっ」って怖がっているような・・・
秋山:怖がっているのか。
清水:俺が「見たよ」って言った時もちょっとショックを受けていて、
   オウムに入ったんじゃないと思っていたというか・・・・・・・
   そういう可能性もちょっとあると思ってて、そっちのほうを信じてたから、ちょっとショックを受けたみたい。
秋山:そうか。他は?
清水:他は? あと・・・モリワケさんとかさ。
秋山:モリワケか。モリワケは・・・いいじゃん、君から説得すれば。
清水:説得・・・。
秋山:付き合ってるんでしょ。
清水:うん。
秋山:いやぁ、ちょっとマスコミの人はあんまり信じていないから。
 
                         (「A2」現代書館より)
 
理論的に見れば「俗世間」と「教団」の狭間でのわずかな揺らぎを表すシーン、みたいな事なのだろうけれど、
それ以上に僕には、この「他は?」という言葉が痛かった。
他に誰が自分の事を心配しているのだろうか?
そんな事を考えて、不安でたまらなくなった時、それは自分にも確かにあったからだ。
 
映画では反対運動の住民とも親しくなり仏教本の差し入れを受けたり、
テレビカメラの前でヘッドギアをかけながら携帯をかけたりと、
一面的なオウム信者像を裏切る、かなり人間力のある存在として描かれていた信者。
それが、この「他は?」という言葉の瞬間、わずかな感情の揺れを表す。
不安な一人の青年の顔がそこに覗いたような気がした。
 
友達というのはとても不安だ。
当たり前の話だけれども、自分が大切な友人だと思っていても、相手は全然そんな事を思っていないかもしれない。
時期が過ぎて離れるようになったら、気にもとめられないかもしれない。
利害だけでの付き合いの方が、よっぽど気楽なように思える。
学生時代、他人との距離感をつかみきれずに、落ち込んだり傷つけたりしていた時にそんな事をよく考えた。
そして今も、仕事関係の付き合いの方が、気分的に楽な事が多い。
関係が定まっている方が心が揺れないから、だ。
 
「信者」である時の強者としての存在と、一人のナイーブな「青年」。
異なる側面が共存するあり方に森達也はこだわる。
そして「住民運動」と「近所のおっちゃん」が、同一人物の中に現れる姿が、それと相似形を作る。
たぶん何も無ければ、話をする事も無かったような人たちが、
「敵」「味方」の、のっぴきならない関係になる所から交流が生まれていく。
そんなコミニュケーションのあり方を、映画は映し出していく。
疑い始めたら、とてつもなくあやふやだけど、
全く異なる者同士でも、何かを共有しているように感じる事ができる。
人と人とのつながりの不思議さだけが、強く印象に残る。
 
垣根を境にして、オウムの若者と親子のように話す人々。
警察と対峙し、左翼的なデモまで行ってオウムとの対話を求める右翼。
そこには対話不能と思ってきた相手とのコミニュケーションに対する、過剰な欲求と喜びが感じられる。
極端に言えば、森はそれを「恋愛」に近い関係として描いているように思える。
 
「世界はもっと豊かだし 人はもっと優しい」
A2のタイトル候補だったというこのコピー。
それが指し示すのは、他者を排除する事で安心するのではなく、
他者とコミニュケーションする事で豊かになる可能性、だ。
もっと言えば、この不安で曖昧な世界の輪郭をはっきりとさせる為に
「他者」は積極的に必要とされているのではないか、という事だ。
 
 
秋山:まぁでもね。私から見ると非常に不思議なんですよ。何でマスコミっていうのは、事実と違っても、
   自分の報道局の方針でバンバン報道しちゃうっていう印象が非常に強いから。
   それで傷つく人ってけっこう多いと思うんですよ。当事者なんかは。
   何で、そういう職業に就くのかなって・・・・・・。それはね、非常にいつも不思議に思っていたんだけど。
清水:俺も不思議に思うよ。そんなさぁ、親とも離れて、好きな人とも離れて。けっこう、それが不思議なんだな。
   ・・・・・どうしても分からない。
秋山:そうか。
清水:うん。
秋山:5年前は一緒の部活をやっていたのに。
清水:うん。また。
秋山:はいはい、また電話ください。
清水:ごめんね。
秋山:ええ。・・・いい記事を書いてくれるように期待してますんで。
清水:じゃ。
秋山:じゃぁがんばってくださいね。
 
 
そして「友人」と「マスコミ/教団」の狭間を行き来する、
不安と確信の狭間を行き来する二人のシーンの美しさも、おそらくそこにあるのだ。
それがオウムであり、他の会社組織であれ、
どんな集団性で誤魔化そうとしても、僕らの個人としての不安や孤独は消される事はない。
オウムの事がわからないと言うのならば、
全ての他人の事を、僕らはわかる事ができない。
話をそこから始めようと、森は言っているように思う。
 
「また電話ください」
信者と新聞記者の対話のシーンは、そんな信者の言葉で終わる。
逆光の中去っていく新聞記者の背中を、二人から等距離のポジションでカメラは撮影を続ける。
一人一人である事の不安や孤独を、中途半端に抱えながら、僕らはバラバラで、でもグチャっと固まって生きている。
でも、そこから出発して何をつかむ事もできるのではないか。
この映画は、そんなヒントの集まりであるように感じた。
 

友情とは何か
 友情の文学誌  /  高橋英夫(岩波新書)
 
「男と女の間に友情は成立するか」
 
学生の頃、誰かの下宿になだれ込んで朝まで語ろうとする時に、
そこに女の子が混ざっていたら、必ずそんな話題が上がっていたように思う。
議論の為の議論をする為に、時には終電の時間を忘れさせる目的も併せ持ち、
もっともらしい経験談と共に、話されたテーマ。
 
 
「男女の間の友情なんて、どっかにウソがある」
「じゃぁお前の言う友情って何なんだよー」
「うるせー、もっと飲めー」
 
 
不毛だった。ヒマとエネルギーを持てあましてたとしか言いようがない。
少なくともここ数年、そんな会話はした事がない。
しかし仕事仲間は増えたけど、友達はと言われると、あの頃からそんなに増えてはいない事に気付く。
 
 
現代の文学には「友情」が描かれていないと、岩波新書「友情の文学誌」の著者、高橋英夫さんは真顔で(知らないけど)語る。
そして最近「改めて、友情って何だろう?」と考えてきたそうである。
引用する。
 
 
 仕事の切れ目に「十分間だけ」とか、「いま、二時半か、三時から用事だが、じゃぁそれまで」という具合に、
 友情に意識を向けてきた。(中略)
 「友情」と向き合ってみると、「友情にもさまざまある」というのが最初の感想 だった。 
 
むむ。どう受け取っていいのか、相当にとぼけた文章である。
しかし、筆者はこのくそ真面目とも言えるスタンスで、古代ローマの哲学者にとっての友情を、杜甫や李白の友情を、
漱石や鴎外の友情を紐解いていく。
 
 
その中で筆者がこだわっていくのは、友情における「距離」そして「差異」の問題だ。
曰く「人は似たものが似たものと友になるのか。それとも自分とは異なるから友となるのか」である。
どっちの場合もある。終わり。
 
と終わらせてしまわない所が高橋さんの偉い所で、
遠い地へ赴任した友へ寄せた杜甫の漢詩や、13歳下の若者と友情を育んだ森鴎外の例をひきながら、
越える事ができない距離や差異が、逆に友情を純粋なものに昇華するのではないかという結論へと導いていく。
 
 
新書特有の平易な文章で、ある意味当たり前の結論に一歩ずつ近づいていく。
その愚直さに徹するスタイルが意外に心地よく、自分の心が弱っているのかと不安にもなったが、そういうことばかりでもないだろうと思う。
それでは何かと言うと、人と人との間における「距離」という切り口の持つ普遍的な魅力なのではないかと思う。
 
 
現代の文学で友情を描けているものが本当に少ないかどうかはわからないが、
コミニュケーション能力、人脈、ネットワークというものが何よりも必要な能力とされ、
色々な意味での<距離>というものが加速度的に近づいているように見える中で、
豊かな<関係>を育てていく力は自分の中で衰えてはいないか。
そんな気分にさせられた。(やはり弱っていたのかな)
 
 

真島昌利の夢
 
 岬 / ロンドンブーツ1号2号
 
真島昌利の手によるこの一曲は、ロンドンブーツファンよりむしろ
ハイロウズのファンの心を揺さぶる作品である。
 
 僕と君は岬へ行く
 僕と君は証明する
 
 
この必殺の一行には泣く。
泣くと同時にそのストレートさに驚く。
そこには真島昌利の世界観が、あまりにストレートに表現されているのだ。
 
 
 どこか遠くの方で 雷が鳴ってる
 大粒の雨が ドシャ降りの気配
 
 洗たくモノは 干してきたまま
 窓は閉めたっけ? まぁいいか
 
 
何か悪い事が起きそうな、わずかな不安が溶ける日々。
いつも後ろ髪をひっぱる、そんな曇りのち雨の日常をいかに振り切るか。
「青春」の路線を継ぐ疾走感あふれるサウンドと最少の言葉で綴られるのはそんなテーマだ。
 
 
そして「岬」とは何か? 何を「証明」するのか?
若い芸人コンビのイメージを借りて、マーシーはある理想を描こうとしていたように思う。
 
ここではないどこかを目指すこと。
その場所では日常の負債の全てが反転するのではないかという夢。
そして、そこを目指して走ること自体を、自分たちのあるべき姿として掲げること。 
それは「TRAIN-TRAIN」に歌われた世界観と酷似してはいないか。
マーシーがロックに託した希望と理想が、そこにはある。
 
しかし。
このストレートな歌を自分自身で歌う場所には、真島昌利はいないのかもしれない。
勢いだけはあるロンドンブーツの歌声を聞きながら、そんな事も思った。
 

      後に残してこれなかったもの    ALL THAT YOU CAN'T LEAVE BEHIND / U2    
「Where the street has no name」の間奏に入ると
東京ドームのグラウンドに降りて、ボノが走り出した。
驚きながら殺到するアリーナ席の客よりも早く、ドームの広い外野を一周するボノ。
帰りを待つように、キラキラとしたフレーズを弾き続けるエッジ。
93年「ZOO-TV TOUR」東京公演。
俺たちはどこまででも前進し続けることが出来る。
ボノは全身でそう叫んでいるように思えた。
 
 
久ぶりのU2の新譜「All that you can't leave behind」
ここ何作かのハイパー路線から一歩身を引いたような、静謐なアルバムである。
「HOME」というタイトルにする案もあったという。
それも納得できるような、どこか懐かしさを感じさせるナンバーが並ぶ。
こういったアルバムを今まで彼らがリリースしたことはなかったのに、
何かベスト盤を聞いているかのような、落ち着いた肌触りを聞き手に与える。
90年代。強引なまでに道を切り開き、前進し続けたU2の姿はそこにはない。
 
 
このアルバムに U2の停滞を見る人もいるだろう。
確かに、アルバムが出るたびにあまりの変化や極端な振れ幅にギョッとして、
必死にその意図を探したりする必要はこのアルバムにはない。新しい扉を開けているかと言えば、それは否である。
しかし、彼らにはやはり今この時にこの歌を歌わなければいけない必要が必然性があったのだ。
彼らにとって「後に残してこれなかったもの」とは何か。
それは仮タイトルであったという「HOME」という言葉に鍵があるように思える。
 
 
 The only baggage you can bring
 is all that you can't leave behind.
                                               (WALK ON)
 
 
 俺は旅慣れているから、あっという間に出発の準備は完了だ。
 本当に必要なものだけが荷物だ。そうさ。これは俺みたいに旅人だけに言えることじゃない。
 全ての奴らに言えることだ。
 
              (瀕死の双六問屋/忌野清志郎)
 
 
ほとんど同時期に出された二つの作品の奇妙な符合。清志郎も語っているが、二つの作品の基調にあるのはブルースだ。
そしてブルースで「HOME」という単語が伝えるもの。それは、いつでも帰れる場所ではない。
探し続けて、探し続けて、そしてたどり着くことができない、そんな場所なのだ。
ボノは同じ「WALK  ON」でこう歌い継ぐ。
 
 
 Home - hard to  know what it is if you've never had one
  Home - I can't stay where it is but I know I'm going home.
 
 
 それを持ったことがないから、それがどんなものだか知ることは難しい。
 それがどんな場所であろうと、そこに滞まる事はできない。
 だけど、僕はそこに近づいていくんだ。(自分訳)
 
 「一つは故郷に帰っていくこと、もう一つは向かっていく・・・・というか、
  いまだ完全には実現していない新しい故郷に向かっていくことなんだよね。
  アウンサン・スー・チーと、彼女のビルマ人民の。
  『WALK ON』は彼女に捧げられた曲なんだ。
  彼女の故郷はまだ出来上がっていない。これから創り上げなきゃならないんだ。
  そのために、安全な暮らしと家族を後にして現地へ向かうんだ。監禁の危険を冒して」
                         (ボノ/ロッキングオン12月号より)
 
 
スー・チーにとってのビルマが、彼らにとってのアイルランド、あるいはもっと大きな理想と重なる。
「ヨシュア・トゥリー」と「魂の叫び」でたどり着いた地点をあっさりと捨てて、
新しい時代に鳴らされるべき、新しい音を探して旅に出て、90年代その旅を続けてきたU2。
しかしたどりつくべき故郷は、本当に存在するのか。
この一遍のバラードように美しいアルバムでも、その美しさ故にその絶望が際だつ。
 
 
「心の中に絶望のかけらもないなんてふりをしてはいけない。鬱とかそういったものから抜け出るには
 自分が背負い込んでいることに正直に立ち向かうことなんだよ(ボノ)」
 
「このアルバムはゴスペルに強く影響されてるともいえるんだ。
 今作のスピリット、なんとか歓喜へ向かおうとする決意のようなもの。
 これはゴスペルのスピリットだからね(エッジ)」
 
 
ゴスペルとブルースのど真ん中の地点でありたいとボノは語った。
90年代、ロックを別の地平に乗せるための牽引車として走り続けたU2。
その使命感を降ろしたこのアルバムには、U2の核だけが残っている。
現実に存在する絶望から目をそらさずに、その絶望そのものをエンジンとして走り続ける。
 
 
彼らの旅はまだ終わらない。このアルバムを聴いてそう確信した。
 
 

       世界は僕らの手の中      賭博破戒録カイジ / 福本伸行  
 ああ・・・・
 それにしても
 金がほしいっ
 ・・・・!!
 
そんなモノローグで始まる「賭博破戒録 カイジ」シリーズの第2部。
おそらくプロの漫画家の中で最も画力が無く、
そして最も刺激的な漫画を書く福本伸行の出世作「賭博黙示録カイジ」の待望の(本当に!)続編である。
 
 未来は
 僕らの手の中--------
 
前作はそんな言葉で始まった。
うだつの上がらない青年の下宿に、
ブルーハーツが大きな希望を込めて歌ったその言葉が飾られていて
主人公カイジは怠惰にトランプ賭博を続けている。
 
あまりにも痛い情景だった。
 
 「未来は僕らの手の中」
 そう・・・・
 確かにそうかもしれない
 しかし その未来の行方が誰もみな明るいとは限らない
 野茂や 伊達や 羽生の
 未来は明るそうな気がする
 なぜなら 彼らは積み重ねているから
 積み重ねていない者にとって この言葉は つらい・・・・・・・
                
                 「賭博黙示録カイジ@」より
 
 
そして物語は<積み重ねていない者>が、
ためこんだ日常の負債を逆転させる為に極限の賭博へ挑んでいく、という形で進む。
巨額の金をつかむか、一生奴隷として暮らすか。
あまりにも荒唐無稽の設定の賭博場での勝負が、同人誌以下の画力で
しかし、圧倒的な迫力で描かれていく。
 
 
本質へと切り込む為には、小手先の技術なんて重要ではないのだ。
<下手うま>的な言い訳など全く存在しない。
正しい意味でのパンクロックなのだ。
そして描かれる本質とは何か。
 
 
物語のカタルシスは、主人公カイジが<ある程度の勝ち>を納めた時に訪れる。
破滅の危機を回避し、それなりの金をつかみ、周りが安堵した時、
カイジは賭博の続行を宣言する。
そこでやめておけば、平穏な日常に戻れる。
小さな勝ちを確定させる賢明さを、あえて捨てる時
それまで、読者と同じ地平にいた主人公は一歩踏み出す。
 
 
 オレはチャンスを・・・・自ら閉じているんだ・・・!
 オレの限界はここ・・・ これ止まり・・・と・・・!
 他の誰でもない オレが オレ自身が・・・
 見限ってるんだっ 自分を・・・・! その可能性を・・・・!
                   「賭博黙示録カイジJ」より
 
 
それは「深夜特急」の第一巻でのマカオの賭博場で、沢木耕太郎が提示したテーマと
同一のものだ。
自分が命を賭けて勝負する「いつか」
その時、平凡ながら、安全な日常を捨て
未来を手の中につかむ為に一歩踏み出すことが出来るのか。
 
 
新シリーズは、前作で手の指を賭けた勝負に敗れ、借金を負った主人公が
再び賭博に復活の道を探す所から始まる。
地中での強制労働という、突拍子もない舞台設定は相変わらずだが
テーマへと最短距離で邁進していく迫力に、第一巻から圧倒される。
 
 

 
 旅は終わらない
 
 写真学生 / 小林紀晴
 
何かも起こらなかった日々 
それで意味もなくイライラしていた 
何をしたいのかもよくわからずに 
でも何かをしなくちゃって 
ただひたすらあせっていた日々 
 
 
そんな何でもない青春を描いた言葉が、なぜか心に響く。 
恋に遠く届かないような異性への思い。 
幸せでも不幸でもない日常への鬱屈と、周囲への違和。 
自分がどこかに置いてきたようなものに出会わされるような気分にさせられるのは 
小林の他の写真エッセイと、全く変わらない。 
でも、これは何なのだろう。 
 
 
一時期の沢木耕太郎フォロワーのように 
本屋に行けば「小林紀晴的」な旅エッセイがあふれている。 
しかし、その他のフォロワーと彼を区別しているのがあるように思う。
 
それは、自分自身の内省に対して、どこまで誠実かということ。 
その内省を、過去のものとしてではなく、現在進行形として抱え続けているということだ。 
つまり、この「写真学生」や「アジアンジャパニーズ」で描かれた自分と、 
今の小林が地続きな場所にいるということなのだ。 
 
ぶっちゃけて言えば、 
ウジウジした悩みを、今もウジウジと考えているんだろうなぁと。 
その一点で僕は小林を信頼する。 
 
 
旅が終わった地点から、旅をとらえ直す。 
当たり前ではあるが、旅行記とは本質的に<事後>である。
しかし、何かが違うのだ。
深夜特急の第3巻は本当は必要なく、未完のまま終わるべきだったと僕は考える。 
「いつでも旅に出ることが出来る自由さ」みたいなものを手に入れたと 
沢木はどこかで書いていた。それが旅を終えるということだ、と。 
最悪だと思った。 
 
 
どこまでも付きまとう、どうしようもない自分を連れてどこまで行けるのか。 
その切実さこそが、小林紀晴の本質だと思う。 
この作品で描かれたうだつの上がらない10代の日々も 
アジアの安宿をうろついた日々も 
その過程ということでは全く等しい意味を持つのだ。 
 
 
そう簡単に終わることなんてありはしないのだ 
 
 
僕にとっては 
同時代を感じることができる、大切な表現者だ。 
 

 唯一無二の「シングルマン」
  『瀕死の双六問屋』忌野清志郎/光進社
 
 
その日、高円寺はすごい事になっていた 
JR中央線高円寺駅南口。 
ロックの街の小さな本屋「高円寺文庫センター」に清志郎が握手会にやってきたのだ。 
その場の雰囲気はまさに「凱旋!」という感じだった。 
 
 
それは清志郎の久しぶりの単行本「瀕死の双六問屋」の出版記念握手会。 
整理券をゲットしそこねた僕は 
パンクスやらヘビメタやら不思議少女やらの、 
とにかく高円寺テイストあふれる方々と、本屋の外から眺めていた。 
 
 
清志朗は高円寺の本屋のなかで、 
そうでもしないと照れくささをごまかせないって感じで 
ギターを抱えて、適当な歌を歌いながら握手していた。 
たまに店の外にも歌声が聞こえてくると、みなその入り口に殺到したりして 
もう、高円寺の街ごと清志朗を抱きしめたくなるような 
そんな夏の夕暮れだった。 
 
 
************** 
 
 
本作は「TV BROS」の連載をベースにした散文集。 
伝わってくるのは、清志朗の鬱屈と怒りだ。 
CDの発売中止騒動に端を発する、非生産的な一連の騒動。 
彼にとってあまり順風とはいえない時期だったのだろう、 
しかしそういう時期に鋭さを増すのが清志郎だ。 
なぜか「シングルマン」を思い出してしまう。 
 
 
「本当に必要なものだけが荷物だ」 
「泥水を飲み干そう」 
「たかだか40〜50年生きて来たくらいでわかったようなツラをすんなよ」 
 
 
タイトルだけでも、しびれてしまうストレートなメッセージ。 
それが町田康のような、やぶれかぶれかつリズミカルな文章で綴られる。 
最近尋常じゃないペースでリリースを続ける清志郎 
この本にも、4曲入りのCDが付録でついている(それも新録) 
清志郎の中で、何かがあふれ出そうとしているのが感じられる。 
 
 
「君が代」の理屈が、ほとんど通っていないこととか 
最近のリリースに何の計算も無いことなんて 
たぶんどうでもいいのだろう 
そして50歳になった清志郎は、 
皆が盛大に祝ってくれた30周年のイベントを「あんまりいい気持ちはしない」と吐き捨てる。 
その生理的感覚の正しさだけが、清志郎を清志郎たらしめているのだろう。 
 
 
余計なものを何も背負としない 
自分が代表するのは自分だけなんだ。 
ふわふわしたたたずまいに隠して、 
表に出そぅとしなかったその覚悟が 
散文集には、強く感じ取れる内容となっている。 
 
 
 
この怒りの時期を経て、どんな新しい歌にたどりつくのか 
何かを予感させるこの散文集を読みながら 
僕は「その次」を期待している。      2000-09-29
 

       
ヒューマニズム? ニヒリズム?       『ビタミンF』重松清/新潮社  
 
家族をテーマにした作品集。 
救いの無い世界に行こうと思えばいくらでもいける物語を、 
すべてハッピーエンドに終わらせている事に対して、 
評価は分かれるのかもしれない。 
少なくとも、この佳作ぞろいの作品集に対して 
僕が感じた最大のひっかかりはそこだった。 
 
 
オヤジ狩りにおびえる中年男、家族にいじめを隠し続ける優等生、離婚するまでもないけれど冷め切った夫婦関係。 
現代の家族関係のリアルな問題をモチーフにしながら、 
作者はそれぞれの物語を、 
子ども、家族、そして人間に対する根本的な信頼と希望の物語に収拾してみせる。 
その快感というか、カタルシスはそこに至るまでの描写がリアルな分だけ、圧倒的な心地よさを持つ。 
人間って、家族って、いいよなぁ。 
皮肉でも冗談でもなく、そんな気分にさせられるのだ。 
 
 
その 「現実は、人間はそんなに捨てたものではないんだ」というメッセージを
素直に受け止める事ができるかで評価は分かれるのだと思う。 
 
 
僕は28歳。少年とオヤジの狭間という立場にいる自分は、この物語にのることができた。 
しかし、もし当事者としてのどちらかに身を置いていたとして、 
この物語に共感できただろうか、あるいはこの物語から何らかの勇気を得ることができたか。 
 
 
それはわからない。 
嫌みとか批判ではない。それは本当に分からないのだ。 
 
 
この物語を支える「技術」と「心」 
その微妙なバランスが、本当にうまいと思う。 
 
 
この人と一度話をしてみたい。 2000-09-27
 
 

 モノノケサミットを越えて  
   『UNCHAIN』ソウルフラワーユニオン
 
 
ソウルフラワー、久しぶりの新譜。 
この前のライブ盤がメチャメチャ良かって、大阪のライブハウスで見たライブもじっつに良かったので期待してたんですが、
これもまたいいっす。 
 
 
来年公開予定の映画のサントラに、カーティス・メイフィールドの「peple get ready」と、
ボ・ガンボスの「トンネル抜けて」のカバー(涙!)を加えた5曲。 
追悼の曲が加わってる事もあるだろうが、泣けるアルバムだ。 
なんというか全体を通して「優しい」のだ。 
ソウルフラワーでしみじみ。何年か前には考えられなかったことではある。 
 
 
中川の社会に対峙するスタンスや音楽に求めるものは、 
震災とモノノケサミットを通じて確実に変わったように思う。 
震災後の彼らの活動を見て、もうロックとは違う世界に行ってしまったのではないかと不安を感じたことがあった。 
ロック界の外側にも届く「うた」を求めていくことで、 
世界を一点突破で反転させるような野望と革命のソウルフラワーから卒業してしまったのかなと、本気で心配した。 
上々颱風や憂歌団みたいにやっていくのかなぁとか思って、ちょっと寂しい気分にもなったのだ。 
(それが悪いというわけではないが) 
 
 
 
この前のライブ盤と実際のライブでその不安は氷解した。 
「こたつ内紛争」と「ええじゃないか」が相まって興奮を倍増させていくステージに、なんで初のライブ盤を出そうとソウルフラワーが考えたのがわかったような気がした。 
そしてモノノケがソウルフラワーにとって必要な過程であったということも。 
そして再び矛先は、こちらに向いてきたのだ。 
 
 
基本的なバンドの体力の充実は、 
このアルバムからも十二分に伝わってくる。 
後は、圧倒的な体力を身につけた彼らが何を歌うのか。 
その新たな世界観を提示する為のフルアルバムがとにかく待ち遠しい。 
モノノケとニューエストを統合した地点を、僕は勝手に望んでいる。 
 
 
それまではこのアルバムでしみじみしていようと思う。 
 
 
(しかしソウルフラワーがインディーズだなんて、絶対変だ。) 2000-09-24
 

 ヒロトの原点 
The High-lows / Holidays in the sun 
 
ハイロウズが、自らのルーツも言える往年のパンクロッカー 
トム.ロビンソンと共演したイベントのビデオです。 
 
もうヒロトがめちゃめちゃ良いです!!必見です。 
なぜか日本語ペラペラのトム。 
ほとんどファンに戻って喜ぶヒロト。 
イベントを盛り上げるために、いつも以上にサービス精神旺盛に客をあおるヒロト。 
共演のCASCADEに小さく怒りを表すヒロト。(収録されてないが、前座で「人にやさしく」をやるという暴挙に出ていた)など、色々見どころはあるのですが、 
何と言ってもラストの「I shall be released」 
ほとんど「素」の状態で、自分を変えたパンクへの思いを歌うヒロトに泣きました。
 
 
 騙されたのか? 
 騙したっていうのかい? 
 間違ったのはどっちだ? 
 僕じゃないって言えるのか? 
 
 
ここまで感情を無防備に表すヒロトって、実はなかなか無いのでは。 
 
1stの頃に発売されたものなので 
今はなかなか手に入りずらいかもしれませんが、ファンならぜひ 
(そうでなくても、ぜひ) 

 
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