0・旅の終わりに
一週間のメキシコ旅行は楽しかった。
雨に降られたり、バスの長時間移動が続いたりで、かなり疲れたりもしたけれど、
大きく括るといい旅行だったように思う。
最近の旅行は滞在型が多かったから、
毎日のように都市を移動していくスタイルは新鮮だった。
(その旅の様子はまた改めて書きたいと思う。今となってはあんまり憶えてないが)
9日間の夏休みをフルに利用した日程を組んでいたので、
14時間以上の帰国フライトの翌日にはニュース勤務が待っていた。
それはちょっと辛いかなぁと感じていたけれど、
「一年に一度の夏休みだもんな」と言い聞かせて旅を続けてきた。
アメリカ大陸への上陸は初めての経験だった。
そんなに海外旅行の経験が豊富なわけでもないけれど、
その数少ない旅を選ぶ時でも、
英語が母国語の国はしんどそうだなぁという思いがあってなんとなく避けていた。
メキシコへの日本からの直行便は無い。
たいていはロスでトランジットすることになるのだけど、
今回はチケットを取るのがかなり間際になったせいで、ヒューストン乗り換えだった。
メキシコシティーを飛び立ったのが9月11日の7時半。
ヒューストンには9時半頃に着いた。
そして12時にヒューストンを発つ飛行機で日本に帰国する予定だったのだ。
今、思うと微妙なタイミングだったと思う。
もう少しメキシコ発が遅い便だったら、
メキシコからの出国も出来なかっただろうし、
もう少し帰国便が速ければ何の支障もなく帰国できていたのだ。
どの道が幸運だったのかはわからない、
なんて事は書かない。はっきりとわかる。
メキシコから出国できないという不可避な状況の元に夏休み延長+ルチャ三昧。
そういう可能性も隣にあったのだ。
僕には運がない。
1・遭遇 (9.11 AM 9:30)
「トランジットだから荷物はスルーなんだよ」なんて彼女にいばっていたら、
恰幅のいい空港職員のおばちゃんが近づいてきた。
なんだかわからないけれど、荷物をピックアップして外に出ろと言っているようだ。
あれーなんて言いながら入国審査を受ける。
「なんだかBOMBINGとか言ってたよ。なんだろう?」不安そうに彼女が言う。
しかし英語力は果てしなく僕とどっこいどっこいの人だ。
PONPING とでも聞き間違えたのだろうと高をくくっていた。
到着ゲートには騒然としたムードが流れていた。さすがになんだか変だぞと太平楽な僕も気付く。
全ての出発便の時間はPM12:00に変えられている。テレビのCNNの前に人が集まっている。
しかし何を言ってるのかは全くわからない。
彼女がどこからか情報を仕入れてくる。
「11機がハイジャックされて、貿易センターとペンタゴンに突っ込んだって」
しかし全くリアリティーがわかない。興味のない映画の筋を聞いているような、そんな上の空な気分だ。
飛行機が遅れたら明日の会社遅刻しちゃうかなぁとか、そんな事を考えていたように思う。
日本人ツアーに説明する添乗員の話を聞く。
アメリカの全ての航空便の運航がストップして、まもなくこの空港もシャットダウンするという。
ようやく現実感と不安が襲ってきた。
不安の種類はいくつかあって、一番強いのが「僕らどうしたらいいの?」というものだ。
航空会社は別に指示を出すわけでもなく、「まもなく空港シャットダウン」を繰り返すだけだ。
元々メキシコ旅行だった僕らにはアメリカの情報などほとんどない。
ヒューストンってどこ?の世界である。
そもそも持ち金だって二人合わせて20ドル紙幣一枚、プラス頼りのVISAカードだけである。
この時点で心の中で「コバンザメ作戦しかない」と決める。
つまりその場その場で最も頼りになりそうな日本人を見つけてひたすら頼る作戦だ。って威張るなー!
しかし職業柄、恥の観念が希薄な上、
わずかなプライドもいつでも捨てられる用意ありの人である。(だから威張るなよ)
とりあえず日本人ツアーが移動を始めたので、
「もし良かったら付いていかせてくれ」と限りなく下手から接近する。
明らかに自分の客の事でいっぱいいっぱいなツアコン女史は
「安全の保証はしないが」と言ってとりあえず了承してくれた。
空港の周囲を巡回する地下モノレールに移動する。
しかしツアー客に続いて乗り込もうとする時、あえなく定員オーバー。
第一の頼みの綱は、地下の彼方に消えていった。
2・パニック (AM 11:00 )
この時点で11時近くになっていただろうか。呆然とする僕らの後ろに一人の女性がいた。
メキシコ留学からの帰り道だという学生のT子さんは、不安だから一緒に行動しても良いかと言う。
もちろん断る理由は無かったが、不安なコバンザメが3匹集まっても何の進展もない。
とりあえずモノレールでツアー客の行きそうなホテルに行ってみようと言うことになる。
ホテルのロビーには、同じように空港から閉め出された人であふれていた。
とりあえず部屋を取ろうとフロントに行くが、すでに満席であると言う。
CNNでは繰り返し、騒然としたニュースを繰り返している。
言葉がわからず、正確な情報が入って来ないなか、
「11機がハイジャック。まだ不明」という情報だけが頭を駆けめぐる。
だんだん新たな不安に襲われてくる。
テレビの見出しには「AMERICA ON ATACK」などのタイトルが踊る。
僕はこの時明らかに取り乱していたと思う。
今から思えばヒューストンなんて事件とは全く関係のない場所なのだが、
この場所にいつ新たな飛行機が墜落してきてもおかしくない。
そんな恐怖に襲われていた。
言ってみれば、地下鉄サリン事件が起きたという情報を別の地下鉄の車内で聞くようなものだ。しかも英語で。
彼女に荷物の番をしてもらって、
なんとか東京に電話しようと思うがカードを使っての国際電話のかけ方すらわからない。
電話機に書いてある英語の通りやるのだが、カードの種類が違うのかうまく行かない。
「国際電話はみなつながらなくなっているのだ」と誰かが言っている。ような気がした。
混乱は極みに達していた。
3・宣告 (AM 12:00 )
とにかく電話だけでも何とかしないといけない。
Tさんと二人で悪戦苦闘していると、そこに日本人ビジネスマンの方々を発見した。
これだー! この人たちを逃したらダメだとコバンザメたちは直感しました。
とりあえず国際電話のかけ方を教えてもらおうと話しかけると、
親切にも自分の会社のプリペイドカードで掛けてくれると言う。
僕はとりあえず会社に掛けることにした。
何件もお願いするわけにはいかないだろうから、
会社の人に実家などへの連絡をお願いしようと思ったのだ。
こういう時に一番に会社に掛けるというのも、
いかにもでなんだが、まぁ一応報道機関の社員だしなーとか思いつつ掛けた。
東京はやはりバタバタしているようだった。
後輩から電話を替わったデスクは僕の居場所を確認した上で言った。
「なんとかして陸路でニューヨークに向かってくれ。
お金の心配はしないでいいから出来るだけ早く行ってくれ」
うむむ。予想していたとは言え、なかなかな言葉に軽いショックを受ける。
聞けば日本からの便が全て止まっている為、応援部隊を送ることが全く出来ないのだと言う。
しかし、アメリカ初上陸。英検4級(3級は不合格)の私である。
っていうか、そもそもヒューストンからニューヨークってどんくらい離れてるのよ。
「いや車をチャーターするなりなんなり考えてさー」とかなんとか気軽な事をさらにデスクは言う。
あげくの果てには「ここからは休暇じゃなくて業務だから」とまで通告される。
どうやら異国の地で僕の休暇は終わりを告げたらしい。
自分と彼女の実家への連絡を頼んで電話を切った。
どーすれば良いのだろうか?
ヒューストンからニューヨークってどれくらいあるの?(正解:2600キロ以上あります)
日本で言うと東京−北海道くらい?(正解:全然違います)
などなど素朴な疑問が山のように噴出する。
ヒッチハイク?とかタクシーチャーター?とかのキーワードが頭をよぎるが
それにしても持ち金は20ドルである。
電波少年もびっくりだ。
「途方に暮れる」という言葉を、僕は全身で体現していた。
4・地獄に仏 (PM 1:00)
捨てる神あれば拾う神ありとはよく言ったものだ。(すごい書き出しだなー)
完全に困惑してる僕に、ビジネスマンの方々が相談に乗ってくれた。
僕はもうここぞとばかりに、NHKの名刺を取り出し、(我ながらあざとい技だ)
自分は報道ディレクターで、なんとしてでもニューヨークに行きたいのだがとまくし立てた。
ジャーナリストと言いながら、
言ってる事は「ヒューストンって、どこらへんなんすかねー」なんて言う
小学生レベルの事だったり、
そもそも国際電話をかけられないジャーナリストなんているのかなど
どっから見ても怪しい男全開だったのだが、
日産自動車と、その関連会社の一行だと言うその人たちは、本当に親切に話を聞いてくれた。
(何度でも繰り返し書きたいくらいだが、本っ当にこの人たちはいい人だった!)
そしてよくよく聞くと、自分たちも足止めされてるわけにはいかず、
レンタカーで支社のあるデトロイトまで行くのだと言う。
そそそそそ、それだー!!
と心の中で僕は叫んだ。
デトロイトの正確な位置だってわからないが、
明らかにヒューストンよりはニューヨークに近い!ような気がする!!
僕は、限りなく下手から、同行させてもらえないかと頼んだ。
快く彼らは了解してくれた。神様のように見えた。
僕には変な運がある。
5・出発 (PM 3:00 )
日産のチームには現地に駐在している方が何人かいて、
現地の事情に詳しい彼らが行動の計画を建てたり
レンタカーの手配などを迅速に行っていた。
伝聞情報では、幹線道路でも検問が強化されていたり、
封鎖している道路もあるのではないかと言う。
実際進んでみるとそんな事は無かったのだが、
この時点では情報は相当に錯綜していた。
とにかく一刻も早く出発した方が良いのではないかというのが、この時点での方針だった。
僕には一つ問題があった。
彼女をどうするかと言う問題であった。
行動を共にするという選択肢もあるが、
ニューヨークはテロリストの魔窟と化しているのではないかという不安もあった。
そもそも僕のニューヨークの認識と言えば
「タクシーに乗ったら運転手が銃を突きつけてきて、HOLD UP!」みたいな誤解に満ちたものである。
連れていくのは相当危険なんじゃないかと考えていた。
すると日産の人が、自分たちがヒューストンに泊まっていたホテルを引き継がせてくれる、と言う。
いやほんと
みなさん車は日産ですよ!!
というわけでもう恐縮+感謝の言葉のレパートリーが尽きてきた所で出発となった。
15人乗りの大型バンに乗り込む時、現地に残る彼女と軽く握手した。
だいぶ心強くなってきたとは言え、また日本で会えるかなぁなんて事も真剣に心をよぎった。
6・ROAD MOVIE (9.11 PM3:00 → 9.12 PM2:00)
運転は国際免許を持っている4人の方が交代で頑張ってくれた。
コースはまずヒューストンからダラスへと北上し、
そこからLittle Rockを抜けてメンフィス、そしてナッシュビルへ。
さらにインディアナポリスを越えてデトロイトへ向かうと言うものだ。
なんて、今地図を見ながら振り返っているが、本当にとんでもない距離だ。
日本に暮らす僕には、遠さの感覚というのは、
マキシマムで東京→九州(あるいは北海道)で
それ以上の遠さって実感として把握できないのだが、
当然の事ながらそんなものじゃ全くきかない。
果てしなくハイウェイをぶっとばし、3時間くらいごとに運転を交代する。
その苦労には本当に頭が下がる思いだった。
運転組以外の人は後ろの4列の座席に2,3人ずつ座って、
話をしたりニュースに耳を傾けながらしていた。
日産の人たちは、現地工場の視察でメキシコから戻った所だと言うことだった。
ビジネスで来たというのに、さらに仕事の予定が滅茶苦茶になってしまったというのに
チームはとてもいいムードだった。変な上下関係も無く、
関連会社の人ともいい関係を作っているように見えた。
僕は心から「本当にいい社風なんですね」と伝えた。
日産の人は、
「いやー商売的に言うと、もっとT社とかみたいにシビアにならないとダメなんですよ」なんて照れていた。
夜になる前にダラスの近くで夕食となった。
せっかくだからということで、みんなでT-BONEステーキを食べる。
もっと大味なものを想像していたが、とてもおいしい肉だった。
トイレに立つと、
ラジオからBANGLESの「WALKIN' LIKE A EGYPTIAN」が聞こえてくる。
はすっぱなヴォーカルを聞きながら、ああアメリカだなぁと感じた。
苦労して運転してくれた人には申し訳ないが、僕はこの旅を楽しみ始めていた。
真夜中も車は北上を続けた。
メンフィスを越えたあたりで、
カーステレオからオーティスの「dock of the bay」がかかったり、
赤く鋭い三日月が地面すれすれに浮かんでいたり、なんだか旅情が高まっていた。
明け方、湖に立ち上る霧。そして地平線を赤く染める朝日。
その中をjapanese kamikaze buisinessmanを乗せたバンが疾走する。
今、思い返すと相当悪くない風景だったように思う。
7・誓い (PM 4:00)
夜が明け、デトロイトが近づいてくると車内にも安心感が高まってくる。
インディアナポリスを越えると、もう勝手知った場所だからというようなムードが漂う。
そんななかで、一人再び不安に襲われてきた男がいた。私である。
デトロイトに着けばまた一人。
コバンザメ君としては、何か道を探らなければならないのである。
日産の人も相当に不安に思っているらしく、相談に乗ってもらう。
現地オフィスに連絡してくれ、明日の飛行機の予約を押さえてくれたと言う。
しかし、飛行機は本当に飛ぶのか不安が大きい。
無理を言って、タクシーをチャーターしてくれないかと依頼する。
この頃になると、もはや手の掛かる息子を見るような視線になっていた気がする。
運転を主に担当してくれたMさんの元に秘書から連絡が入った。
1時間40ドル。往復分の旅費。さらに20%のチップで行くと言う。
ニューヨークまではおそらく10時間。
総額でも1000ドルくらいで行くだろうとMさんは言った。
それくらいなら、緊急時の費用としては現実的な線だ。
しかし問題があった。支払いはキャッシュかチェック(小切手)しかだめだと言うのだ。
もう何度目からの途方に暮れていた僕にMさんは「いいですよ。なんとかしますよ」と言った。
そして
白紙の小切手を渡してくれ、
かかった金額を書き込んで運転手に渡して帰国後に振り込んでくれればいい。と言うのだ。
いかに無知な僕でもそれがいかに危険な行為かくらいはわかる。
僕が好き勝手な金額を書き込んでバックレたら、とんでもない事になってしまう。
どうしてそこまで信用して、良くしてくれるのか。
ほとんど僕は言葉を失ってしまった。
デトロイトを出発する前に、ホテルのバーですこしだけビールを飲んでMさんと話をした。
獣医を目指してアメリカに渡り、日本語学校で教えていた彼女と結婚し
色々あって現在の営業の仕事に就くことになったと言う。
「普段はアイリッシュやチャイニーズ、黒人やヒスパニックなど、自分が属するものごとにバラバラなんだけど、
今回みたいに<アメリカ>に対して何かが起こった時の、彼らの結束というのは尋常じゃない」
そうMさんは語っていた。アメリカ社会で10年以上暮らしてきた実感のこもった言葉だった。
別れ際、改めて今回の事への例を伝えると
「もし前田さんが逆の立場だったとしても、同じ事をしたでしょう。だからいいんですよ」
「僕らも前田さんの姿を見て、仕事頑張らないとなぁって思いましたよ」
そんな事をMさんは言ってくれた。
僕は恥ずかしかった。
そんなジャーナリストとしての使命感に燃えているわけでもなく、
上司の命令で嫌々向かっている部分が多い事は自分がよく知っていた。
でも
とてもそんな事を伝えてがっかりさせる事はできなかった。
この人たちの好意を無駄にしない為にも、
ニューヨークではできるかぎりの仕事をしよう。
その事だけは心に誓った。
お世話になったみなさんと握手を交わしてタクシーに乗り込んだ。
この人たちに出会えただけでも、今回の事は一生忘れる事のできない記憶になる。それだけは間違いない。
そして僕は、もうこれでニューヨークにたどり着くことはできるとかなり安心していた。
8・last trouble and .....(9.12 PM 4:30 → 9.13 AM 7:00)
タクシーの運転手は東欧系の名前の大男だった。名前はALANというらしい。
MY NAME IS TATSUYA MAEDA.と中学の先生に教わった通りの自己紹介をすると、
よくわからないから、お前の事はMR.Tと呼ぶぞと言う。
こんな長旅は初めてだからナーバスになっているのだとも言っていた。
そして、近くに着いたら必ずお前の会社の者に迎えにこさせろと何度も繰り返した。
僕は、はいはいと言いながら眠りについた。
なんどか道に迷ったり、仮眠をとったりしながら、旅は続いた。
そして朝5時。山奥の駐車場で車は停車した。
「どうしたの?」と僕は運転手に聞いた。
ALANは「ここが約束のMidlandだ。ここまで迎えに来てもらえ」と言う。
しかし、どっから見ても摩天楼のニューヨークの欠片も見えない。
むしろ浅間山麓駐車場という風情だ。
ニューヨークまでどれくらいの場所なのかと聞くと、100マイルだと言う。
全然遠いじゃん!!
文句を言っても、全く聞き入れない。
よくよく話を聞くと、こちらの目的地であるマンハッタンのミッドタウンではなく、
ニューヨーク近郊のミッドランドまでの行程だと受け止めていたらしい。
マンハッタンに行きたいのだと言っても、
「この状況でそんな怖い所まで行けるか。ここが約束の場所だ」と譲らない。
朝の5時、暗闇の中である。
ここに放り出されたら、間違いなく野垂れ死ぬ。
僕はもう一度Mさんに電話して、すがりついた。(情けない)
なんとか交渉してもらい、タクシーを乗り換えられる場所までは行こうということになる。
山奥のモーテルで、僕を降ろして、
タクシー会社に一本電話だけしてALANはさっさと去っていった。
相当心細い気持ちで僕はタクシーを待った。
20分後、山道をタクシーが登ってきた。
マンハッタンまでは160ドル。前金だと言う。
クレジットカードで降ろしておいたお金を渡すと、車は動き始めた。
今回は全く素性のわからない運転手だ。
僕は後部座席の端に身を寄せて、
急に銃を突きつけられた時の対応を頭に描きながら車に揺られていた。
しかし運転手は意外にいい人で、(というか偏見持ちすぎか)、
ダンキンドーナツでコーヒーをおごってもらったりしながら、僕らは徐々にうち解けていった。
そこから1時間あまりのドライブで車はマンハッタンへと渡る橋へと差し掛かった。
ついにたどりついたのだ!
ちょうど朝日が昇りかけていた。
アメリカで迎える2回目の夜明けである。
橋の向こうに逆光のマンハッタンの高層ビルが見えた。
感動的なまでに美しい光景だった。
僕は調子に乗って「This is first time New York!」とデタラメな英語で話しかけた。
運転手は「You made it!」と返してくれた。
そうだ、やりとげたんだと僕は思った。
9・ in the end.
今振り返ると、
いやいやお前はまだ何の仕事もしてないだろーよと、
その時の自分に突っ込みを入れてやりたいです。
そもそも、全行程にわたって自力では何もしていないのだから。
でもまぁ良いでしょう。
運も何とかのうちと言うのならば、
僕に降りかかった不運と幸運の行ったり来たりは、
いかにも僕らしいとも言えるような気がするのです。
その後、ニューヨークでは中継や番組の手伝いを中心に1週間強滞在しました。
その時の印象はまた改めて日記にでも記そうと思います。
でも、
その後事故の現場などで感じたショックよりも、
僕にとってはこの道中の出来事の方が大きく、大切な思い出となるように思います。
最後にお世話になったMさんをはじめとする日産とその関連会社の方々に改めてお礼を申し上げます。
ありがとうございました。