政治力とは何か 〜ZERO-ONE 両国大会に寄せて〜


青エスさんに勧められて始めて見に行ったのが7月の両国大会でした。 マス席でふわふわしながら見ていたら、 最後の小川のマイク「おれたちは政治力なんかに負けません」にびっくりしたのでした。   リングスが無くなって腑抜けのようになっていた心に 何かが響いたのでした。   (そーいや、この日が青エスさんと初対面だったなぁ)
 


「政治力」について、色々と考える毎日。
ウォッカをトマトジュースで割って、考えを深めようとしている。
今は午後10時、奥さんはいない。ちょっとやってみようと思う。
 
政治力を求める心とは何か。
乱暴に定義してみると、
世界を思う通りに動かしたい、世界を手中に収めたいという欲望、とかそんな感じだろうか。
世界の仕組みをこの手で把握したいという思い。
自分がこうあるべきだと思う、その形に世界を変えようという思い、
それ自体は否定されるべきものではないようにも思う。
むしろ現在の世界の形が、誤ったものであるのであれば、それは正義だ。
 
だけど、
表現者が政治家へと変質していく、そんな過程をたくさん見てきたように思う。
徒手空拳であったはずの青臭い人間が、
いつの間にか正論にまみれた胡散臭い存在に変わっていく。それは何なんだろうと思うのですよ。
 
 
そこには「マスに届かせる」という罠があるように思う。
 そんなやり方では内輪で終わってしまう。
 ただの自己満足だ。
 あなたが素晴らしいと思っている物を一人でも多くの人に届ける為には、そんなやり方ではダメだ。
とても正論のように見える罠。
 
 
最初はシングル・マンであったはずの表現者が、
優秀であればあるほど、多くのしがらみや、人間関係に絡まれて身動きがとれなくなっていく。
表現の核が失われ、過剰な欲望だけがベクトルを失ったまま、残る。
そんな過程をたくさん見てきた。
 
ちょっと前、ハイロウズが「リラクシン」を出した時、
マーシーは「全体性を取り返したかった」と語っていた。
おお!と僕は思ったのだ。
ブルーハーツの1stアルバム。
最もシンプルな形で「つまり、こういうことだろ!」と世界を切り取っていた。
マーシーが取り戻そうとした<全体性>とは、そういう事だろうと思う。
 
ピーズのはるが、昔インタビューで語っていた言葉。
「酔っぱらってるとさぁ、なんか答えが見えたって気がする事ない?
 ああ、こういう事だったんだぁって」(あやふや記憶)
 
政治とは全く反対のやり方で、世界を手の中につかむ事は可能だ。
それはとても奇跡的な確率ではあるけれど。
 
そして表現者が現在、表現すべきテーマは、
「それは可能なのだ」という事を身をもって示す事、それだけなのだと思う。
いくらかの才能と、柔らかな知恵と、一つの意志があれば
世界と一人で対峙する事は可能であるのだ。
そんなメッセージを、少なくとも僕は欲している。今。
 
 
本当に、人の一生を変えてしまうようなメッセージは
例えマスコミを媒介にしようとも、結局のところ、「ひとり」から「ひとり」へとしか手渡されない。
だとしたら、そもそも陣取りゲームのような駆け引きなんか、
適当にお茶を濁していればいいんじゃないか、と思う。
本当に大切な事は、たぶんそこには無い。
 
 
というわけで、
僕は小川の行動と言葉に期待する。
彼が何に対して戦っているのか。そしてどこに向かおうとしているのか。
それを明快な形で指し示す事が出来たならば、
それが例え、どんな結果に彼を導こうとも、
その行動に勇気づけられる人はいるはずだ。
 
そしてその人たちは、ちょっとやそっとで
小川の事を忘れたりしないだろうと思う。
 
(11時20分。ウォッカ3杯くらいで書き終える)
 
 

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