宮崎駿 teaches followers

 

大切なことは、しっかりとした裏付けのある人物たち、

その人間たちが生きることを肯定している人たちであること、

その人間の願いや目的がはっきりしていること、

そして、できるだけ単純で無理のない筋の運び、だと思う。

                   (出発点 1979〜1996 / 徳間書店)


糸井重里 talks about rings

大阪の不良少年だったころから、
いままで、前田日明は、何度の敗戦を経験してきたのだろうか。
おそらく、街の喧嘩から、優勝のかかった国際試合まで、
すべての闘いに、彼は勝つつもりだったに違いない。
しかし、負けは、確実にあった。その、多いとはいえない敗戦のいくつかを、私も目撃してはいる。
 
(略)
よく負けた敗者の存在は、よく勝った勝者の助産婦である。
勝ち星の輝きは、敗者の敢闘によってしか生まれない。
リングスを見続けている私たちは、このことを知ってしまった。
前田日明の引退がカウントダウンされはじめた今だから、気になるのかもしれない。
あらためて、思うのだ。
格闘家・前田日明の栄光は、彼の獲得した勝ち星と、
彼の運命に手渡された負け星の和だったのではないか、と。
 
不吉なことを言っているのではない。
引退のその日まで、前田日明は、どんなに重い敗戦を経験することができるだろうか。
相手の格闘家に、どれほど偉大な負け星を送ることができるだろうか。
今の私の興味はそこにある。
勝つことに等しいほどの価値を持つ負けを獲得できているのなら、
前田日明の格闘家としての生命は終わっていない。
おそらく、前田は、生きたままでの引退を、意図しているのに違いないのだ。
 
前田日明に続くリングスの格闘家たちよ。
前田引退への最上の餞は、前田に送る負け星である。
前田自身が、後々まで誇りにできるような敗戦を、私は見たい。
その敗戦は、悲しみの衣装をまとっているだろうが、
おそらくリングスファンの私たちにとっての、宝物になるに違いない。
前田日明の強さと同じくらい、前田日明の大きさを好きな私たちは、
こんな悲しくも美しい夢を見ている。

                         (1997 リングスパンフレットより)


A.猪木 remembers

 

もう何年前の話になるのかな....。ある時、地方の体育館で試合があってね。

雨がな、雨がざーざー降っていたんだよ。

俺は寝ころびながら、窓に降り注ぐその雨を見ていたんだ。

そうしたら、その雨粒のひとつひとつが俺の思い出のように見えてきてね。

こんなこともあったな、あんなこともあったってね。

思い出が降り注ぐような感じで恐怖だった。

 

(「禁談・前田日明 究極の因縁対談3本勝負」 /佐々木徹・集英社)


大槻ケンヂ is tihinking about life and death

 

僕は彼女の死を不幸とは思わない。

哀しみや悲しみを感じるのは主観だ。死者に主観はない。

人の死をどうとらえるかは生きている人間の主観の問題だ。

僕が彼女の死を不幸と考えれば、僕において彼女の死は不幸となる。

だから僕は彼女の死を不幸とはとらえない。

 

ただ若くしての死は不条理だ。それは認める。

不条理自体もしかし、

生きるということ自体が「こうあってほしいのにこうならない」

そして、「こうあってほしくないのに、こうなってしまう」ということなのであり、

つまり人間はみな現実という不条理の中で生きているわけだから、

若き死もいくらでも起こり得るのだ。

あやちゃんは

いくらでも起こりうる不条理という現実の一部分に組み込まれたにすぎない。

死は死以上でも死以下でもない。あやちゃんは22歳で死んだ。ただそれだけのことだ。

ただそれだけのことでいいじゃないかもう。

 

何度も書いてきたが、僕は昨年不安神経症という病を患い、苦しんだ。

今ではすっかり治った。.....といいながらおびえる日もある。

おびえる日もあるが、そんなことはどうでもいいのだと彼女の死に顔を見てオレは思った。

おびえる時はおびえればいい。苦しい時は苦しめばいい。

喜びも哀しみも、きっとみんなそれだけのことだ。それ以上でも以下でもないんだ。

生まれたら、死ぬまでは生きればいい。

その過程に何があっても、どんなことが起きても、

死ぬまで生きたら、つまり生まれてきたなら、その段階ですべての人間はokなのだ。

ノープロブレムなのだ。

確信する。誰の一生も、全部okだ。断じてokだ。

あやちゃん、君の人生もokなんだよ。絶対に。

 

(オーケンののほほん日記/ぴあ)

 


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