そこには何もなかった。
いくらばかりの時間が過ぎようとも。
上も下も分からないほどの暗闇が、そこに存在しているものを覆い尽くしているだけなのかもしれなかった。
だが、目に見えるものは何もない。
まあ、それもいいのかもしれないな…
自分の位置さえもつかめない中にいて、頭の中でそう思った。
動かしてみれば目の前に手をもってくることもできるし、それが自分の手だということも目に見ることもできる。
暗闇にあっても、それは水の中のような抵抗はない。
だが、目に見える手の指の間から何か黒いものが滑り落ちていくような、そういった不思議な感覚はあった。
当然、それが錯覚であり、自分の頭の中の想像が元になっていることも理解は出来ていた。
ただただ闇が広がっている。
自分の体中にそれが張り付いてくるような感じがする、そんなとても深い暗闇がある。そんな中に自分がいる。
それだけで自分の周りの状況を理解するのには十分だと思った。
「さて…」
小さな声が口から漏れ、その声にあわせて首が動く。首が動き、顔が下を向く。
微かな息遣いが聞こえた。
それは次第にはっきりと聞こえ、非常に荒々しく乱れていることが分かった。その乱れた呼吸の合間に、ヒューヒューという音が混じる。
おそらく、何か言葉を発しようとしているのかもしれない。が、それが言葉となって口からは出ていないのだろう。
乱れた息の中の言葉を聞くために、静かにその場にしゃがむ。
「これで、本当に最後だよ。」
この言葉に乱れた息の中から笑いにも聞こえるものが出てきた。
乱れた息に顔を近づけていくにつれ、鼻につく匂いがし始めていた。
その臭いは元々あったのではなく、ちょうど顔を近づけ始めた頃から臭い始めた様だった。
何度嗅いでも嫌な臭いで、何度嗅いでも慣れる事の出来ない匂いだった。
赤い。
目の前に赤く光る小さなものが現れた。それは自らが光っているのか、どこからか光がそれにのみ差し込んでいるのかは分からなかった。
もしくは蝋燭の火が燃え尽きるときのように、最後の最後に勢いが出ただけの弱い光なのかもしれない。
この赤く光るものこそが目的。
青い。
赤い光に手を伸ばすと、自分の手の上には青い光がある。それは不気味なほどに暗闇の中で青白く光っている。
乱れた息の中から少しの言葉が聞き取れる。
この青が恐ろしく、憎く、眩しく、懐かしい。
息を大きく乱しながらも、身体のどこかを動かしたのだろうか。衣擦れの音がしたと思った。
だが、その後、何か液体のようなものが落ちる音が続き、息はさらに乱れた。
「…もう、動くことは出来ない。」
自分の口から言葉を出すのにこんなに困難になったことはなかった。
もっと他に気の利いた言葉もあったのかもしれない。だが、口から出た言葉はこんな言葉だった。
なんの感情もこもっていない、低く冷たい短い言葉。
だが、その言葉を聞いた後からか、聞こえ続けていた乱れきった息が次第に小さくなっていった。
ああ。そうだな。もう、本当に最後だ。
先程よりもはっきりとした言葉が聞こえた。
やっと、頭が晴れていくような気がするよ。
息遣いは完全に静かで穏やかになっている。
もう、何も出来ない。何もすることもない。このまま、消えていくだけだ。
その声はとても穏やかだった。
聞こえてくるその穏やかな声に、感じていたのは恐怖。
何故、消えていくと分かっていてこんなにも穏やかに話せるのか。もしかしてこれは自分を落としいれようとする演技なのか。
何も信ずることが出来ない。それが一番恐ろしいと感じているのかもしれない。
「そう。」
お前さんは何を恐れる?お前さんに恐れるものは何もないだろうに。
他人の考えが見えるのか、穏やかな声のまま言われた。
だが、恐れを持つのは悪いことではないのかもしれない。
大きく息を吸い込んで、吐き出すと同時に続ける。
恐れを失うということは、生物として成り立たないと聴いた事がある。まるで、この身のようだ。
言葉の後に続いた笑いは自嘲のものなのだろう。
穏やかなまま続けられていく言葉に、なんの反応も出せないまま、ただ聞くだけ。聞く事しか今の自分には出来ないのだと思った。
最後の最後にこれまでの人生を、実に穏やかな口調で、時には自嘲の笑いを含ませて言葉を続けていく。
それをただ聞くだけ。
語ることに意味があるのか、聞くことに意味があるのか。そんなことは分かるはずもない。
おそらくこの先、同じような状況にあっても分からないだろう。
それでも、やはり自分に出来ることは、ただ最後まで聞いてやることだけなのだろう。
出来る事をしろ…と、言葉にすれば簡単だな。
ああ。本当にこれで最後なんだなあ。
小さな赤い光から、何かが零れ落ちたような気がした。
そして、赤い光は乾いた音を立てて暗闇の中に落ちるように転がった。
小さな赤い光を、青い光を乗せた手の指先でつまみ取る。赤い光はみるみるその色を失い、青い光の中に消えていった。
「さて、と。」
ゆっくりと立ち上がると、上も下も分からない暗闇の中に光が現れ始めた。
光の方向を見れば、その元は雲の中から現れた巨大な丸い月だった。月は大きく白く歪んで見えた。
月の光で照らし出された自分の周りを見ると、そこは狭い狭い路地だった。
もう、暗闇は消えてしまった。
狭い狭い路地を出ると、まるで別世界のような夜の街が現れる。いつもの街の姿がそこにある。
振り返れば、路地には何もない。月の光に照らし出されても、そこには何もなかったのだ。
ただ、ひどく積もった埃と布切れ。そして、濡れた地面しかなかった。
揮崎人形
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