【パート1】
1.序論:「聖書に書いてあるから」ということ自体が聖書に対する冒涜である。
まず最初に、「聖書に書いてあるから、同性愛はいけない」と言うこと自体おかしいのだ、ということをはっきりさせておきましょう。
同性愛を非難するクリスチャンのうち、ほとんどの人が「聖書に罪と定めてある」と、聖書を引き合いに出します。このこと自体がたいへん欺瞞的なのです。
なぜなら、そのように言うクリスチャンのほぼ全員が、聖書に定めたとおりの生き方などしてはいないからです。
「同性愛者は死ななければならない」(参照:レビ記18章22節、20章13節)と言っているのは、旧約聖書のなかの「律法」と呼ばれる掟です。
しかし、同じ律法の中に、たとえば「反抗的な息子は殺せ」(参照:申命記21章18節以降)と書いてあります。また、「結婚している兄が死んだら、家系を絶やさぬように、弟がお兄さんの妻と再婚してあげなさい」(参照:申命記25章5節以降)とか、あるいはそんな極端なケースでなくても、ふだんから「タコやイカは食べてはいけない」(参照:申命記14章9節以降)とか……、ほかにもいろいろ面白い掟があるのですが、そういった掟を全部守っているクリスチャンがいるかと言えば、そんな人はまずほとんどいないでしょう。
にも関わらず、同性愛の禁止に関してだけはムキになって「聖書に書いてある」と言い出す人がいるわけです。
自分が守ってもいないし、従ってもいないくせに、その聖書を盾に自分の主張を正当化するのは、聖書を自分の目的のために都合よく利用することであり、要するに聖書に対する冒涜です。
結局、そういう人は「聖書、聖書」と言いながら、自分の都合で守るべき教えとそうでないものを区別しているものなのです。こういう人たちは……
(1)律法の中で、自分が守り切れない厳しいものは「神はこのような不完全な私をも赦してくださいます」などと言って逃れ、
(2)自分が守る必要を感じないものについては、「これはユダヤ教の律法であって、キリスト教はこれを克服した」などと言って排除し、
(3)自分でも守れるな、これは、と思ったものについては、「イエスは律法の一点一角も消え去ることはない、と言われた」(参照:マタイによる福音書5章18節)などと言って、頑固に順守を主張したりするわけです。
つまり、判断をしているのは自分の主観であって、聖書はそれに後から理由をつけるために都合よく利用しているだけなのです。
自分の主観に過ぎないものを、神の意志、聖書の意志であるかのように称するのは、自分で判断したことや発言したことに対して自分で責任を取らない事にもつながります。そういう人は、自分の判断に過ぎないものを、「聖書が言っている」と、聖書の権威を借りて正当化したりするのです。これもまた、聖書に対して不謹慎な態度といえます。
まして、人をほめたり、たたえたりするのではなく、おとしめたり、断罪するために聖書を利用する。こんなに傲慢な聖書の使用法はありません。
したがって、「聖書に書いてあるから」という理由で、同性愛者、あるいは他のどんな人をもおとしめることは、意外に聞こえるかも知れませんが、実はゆるし難い聖書に対する冒涜だと言えるのです。
2.旧約聖書には同性愛についてどのように書いてあるか。
2−1.レビ記18章22節/20章13節
聖書に書いてあることを論じることは、意味がないという人もいます。特に同性愛者の人は、聖書に書いてあることを読めば読むほど、自分が切り捨てられるような気がするので、もうこれ以上傷つきたくないから、聖書の話はしたくない、と言う人が多いです。
しかし、聖書を根拠にして「同性愛はいけない」と言っている人がいるかぎり、そういう人に対して、「あなたは、実は聖書をかくれみのにしているだけで、結局自分の思い込みや偏見に基づいて言っているだけですよ」ということを証明するためにも、きちんと聖書に書いてあることを検証する必要があると思います。
聖書を使って差別する人は、いつも責任を聖書になすりつけて、自分の発言の責任をとらないのです。発言の責任は、聖書にあるのではなく、本人の責任なのだということをわかってもらわないといけません。
同性愛を禁じていると言われている旧約聖書の箇所は、以下のとおりです。
レビ記18章22節「女と寝るように男と寝てはならない。それはいとうべきことである」
レビ記20章13節「女と寝るように男と寝る者は、両者共にいとうべきことをしたのであり、必ず処刑に処せられる。彼らの行為は死罪に当たる」
この聖書の箇所を引用して、じっさいにあるクリスチャンの団体が、「死ぬべきだ」と差別発言をした事件は、いくつもあります。
しかし、旧約聖書の性の考え方は、現在の我々の感覚とずいぶん違うので、それをそのまま現代にもってくると、おかしなことになってしまいます。また、そういう根底にある考えの違いを無視して、都合よく部分的に切り取って現代に当てはめようとすることは、かえって旧約聖書に書かれた本来の意図をそこねることにもなりかねません。
基本的に旧約聖書が書かれた時代の、古代イスラエル人の性に関する考え方は以下のとおりです……。
(1)古代イスラエルでは、性行為は子孫繁栄のためにある。
古代のイスラエルでは、子孫繁栄のためにならない性行為は、すべて違法行為とされていました。
たとえば、オナニーという言葉の起源になったオナンという人物は、子種(つまり精液)を膣外射精してしまったので、「彼のしたことは主の意に反することであったので、彼もまた殺された」(創世記38章10節)というわけです。
ただし、非公式ではありますが、神殿娼婦相手の買春は黙認されています。子孫繁栄のため以外のセックスは罪だといいながら、それだけではガマンできない男の欲求は、ちゃんと容認する抜け道があるわけです。旧約聖書のなかにも、神殿娼婦を買うことがあたかも自明の文化であるかのように書いている場面があります(創世記38章15節以下など)。
男に都合のいい、男性優位社会の証拠ですね。そういう時代に、そういう時代であることの反省もなく書かれた本だというわけです。
(2)性は男中心の家系存続のためにある。
極端な言い方をすれば、女性は、男性の家系を存続させるために、出産・育児をさせられる家畜であり家財道具です。そして、その道具は新品でないといけません。
結婚した新婦は、それまできちんと処女であったということを示す証拠を新婚初夜に取られ、それを新婦の両親は、娘をしっかりと管理して育ててきた証拠として保管する事にもなっています(参照:申命記22章13節以降)。
また女性は、結婚前は父親の所有物、結婚後は夫の所有物として扱われるので、たとえば、姦通(婚外交渉)は、男性の他の男性に対する私有財産権の侵害として裁かれます。女性の所有権がハッキリしている場合(つまり結婚か婚約している場合)は基本的に男も女も死罪、強姦にあたるような場合だけ男だけが死罪、所有権がハッキリしていない場合(つまり婚約していない場合)は、男は結納金を支払ってその娘を妻にしなければならない、というわけです(参照:申命記22章22節以降)。
女性は男性よりも劣った、ケガレた存在とされています。特に月経中は、社会から隔離されて、キヨメられてから社会復帰するように、細かい規定が決められています(参照:レビ記15章19節以降)。月経は血が漏れる現象として、神の創造の意図が不完全であると考えられたためではないかという説も聞いたことがありますが、もしそういう発想でこんな規定ができているとしたら、それこそ神の創造を「不完全な仕事」としておとしめていることになるのではないかと思われますが、そういうのを水掛け論というのかな。
(3)性行為の主体はイスラエル人の男性である。
そういうわけで、古代のイスラエル民族において女性というのは、基本的に性において(いや他の何についてもそうですが)主体として認められていない、ということになるのです。そして、それに加えて、これに民族の純血主義の発想が根底にあります。
旧約聖書の掟のなかで、「異邦人(イスラエル人から見た、イスラエル人以外の人)」との性行為については、あまり詳細な記述が見当たりませんが、これはたぶん、異邦人との結婚は最初から前提とされていないからでしょう。論外、というわけでしょうね。
女奴隷と寝た場合、という判例がありますが、ここで触れられているのは、やはり所有権の侵害に対する賠償の問題のみです(参照:レビ記19章20節以下)。
捕虜の女性と結婚することは許されています(参照:申命記21章10節以下)。これは、女性はどこの民族出身であろうと問題ではなく、民族の純血性はあくまで「父親が誰であるか」であることにかかっている、ということを示しています。子どもにとっては、母親がなに人であるかは問題ではないのです。父親がイスラエル人であればよいのです。
(4)そこで、レビ記再検討。
そこで、このイスラエルの性に関する考え方の特徴を確認した上で、もう一度、問題のレビ記18章および20章の性に関する規定を読み直すと、よく理解できると思います。
そこに書かれている「いとうべき性関係」のリストは、すべて……
(1)イスラエルの男性中心の家系の秩序
(2)男性の女性に対する所有権
(3)女性のケガレ
……などなどを犯す行為なのです。だから禁止されている。しかも、それらは……
(4)異邦人の行い
……であるとされています。「これらはすべて、あなたたちの前からわたしは追放しようとしている国々が行って、身を汚していることである」(レビ記18章24節)、「あなたたちの前からわたしが追い払おうとしている国の風習に従ってはならない」(レビ記20章23節)と書いてあります。
つまり、じっさいにイスラエルの敵国がそういう風習を持っていたかは確かめるすべはもはやありませんが、大事なことは、この聖書の記事を書いたイスラエルの指導者たちは、「そういうことは、あいつらがやっていることだ」と敵国に対する攻撃の言葉としてこれを書いているということです。ある種の行為を禁止するのに、他民族に対する敵意も理由として使われているわけです。
同性愛の禁止の理由は、以上の4点に抵触するからということなのですが、はたして、私たちは、この4点を理由に性の倫理を決定する事ができるでしょうか。男性中心的で、女性は男性の私有財産で、女性は基本的に汚れている……という考え方を、現代の私たちの行動基準にすることができるでしょうか。
わたしは、同性愛の問題だけではなく、性の倫理、男女関係のあり方を、このレビ記18章、20章を基準にして決めてゆくのには、かなり問題があるのではないかと思うのです。
(5)歴史の文脈を無視するのは間違い。
旧約聖書の性倫理がこんな風になっているのには、社会的な背景があります。
古代のイスラエルは常に周囲の大国の領土争いの被害者であり、常に民族存亡の危機と戦っていたのです。殊に、BC586年にユダ王国が滅亡し、バビロン捕囚(新バビロニア帝国への強制連行)を経験して「ユダヤ人」となってからは、彼らは常に周囲の大帝国の占領下に服す歴史を重ねてきました。
そんな彼らが、民族の純血性を守ちつつ、人口の維持も図らなければならない。そのため、常時、他国民・他民族との緊張の中で、男性中心的なリーダーシップを重視し、異邦人との交流や異邦人の風習と思われるものをできるかぎり排除するというスタイルが生まれてきました。だから、例えば性に関しては、このような規定が出来上がっていったのです。
そんな固有の歴史的な文脈のなかでできてきた規定を、いま私たちが、全く異なる歴史的な文脈に生きていながら、そのまま自分たちの暮らしの秩序として生かすことが本当にできるでしょうか? そんなことが妥当でしょうか?
旧約聖書の人びとが、歴史的に、社会的に、必要があって彼らなりに掟を作り上げたのならば、私たちも私たちの歴史・社会を踏まえて、私たちなりに判断すればよいのではないでしょうか?
もし旧約聖書のこれらの掟を書いた人びと自身が、21世紀の日本人が彼らの掟をそのまま使用しようとしたら、困惑した表情で苦笑するのではないでしょうか? 彼らはそんなことを望んだり想定したりして、これらの掟を書いたとは考えられないことです。だいいち、彼らにとって私たちは「異邦人」なのですから、「日本人には関係ない」と感じるはずなのです。
ですから、旧約聖書の記事をとりあげて、「同性愛はいけない」というのは、実は根拠に乏しいナンセンスなことなのです。
【パート2】につづく
〔最終更新日:2002年12月8日〕
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