2007年12月24日(月) 日本キリスト教団香里ケ丘教会クリスマス・イヴ音楽礼拝説教「恐れることはない」改題
説教時間:約20分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。
礼拝堂(メッセージ・ライブラリ)に戻る![]()
「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る![]()
教会の案内図に戻る![]()

聖書:マタイによる福音書1章18〜25節 (新共同訳・新約)
イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。
「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「見よ、おとまが身ごもって男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使たちが命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。
:ルカによる福音書1章26〜38節 (新共同訳・新約)
六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。
天使は、彼女のところに来て言った。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。
「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
マリアは天使に言った。
「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
天使は答えた。
「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」
マリアは言った。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」
そこで、天使は去って行った。

クリスマスは、イエス・キリストの誕生をお祝いするお祭りです。
聖書にしたがって、約2000年前の時代を生きた、大工のヨセフとマリアの物語を読むとき、私たちは、このイエスの両親となった若いカップルが、私たちが想像する以上に、厳しい世の中を生きてゆこうとしていたことに気づかされます。
その当時、パレスティナ地方では、庶民はヘロデ王への税金、ローマ帝国への税金、ユダヤ教の本山に納める神殿税など、少なくとも3つの権力に対して、厳しい納税の義務を課せられていました。しかも、いまのように一定に定められた税率を適用するのではなく、お金を持っていればお金をむしりとられ、お金がなければ家畜を取り上げられ、家畜もなければわが子を奴隷として奪い取られるという、徴税というよりは武力を持つ者による強奪といったほうがいいようなありさまでした。
しかも聖書には、ヘロデ王が、ベツレヘムに「ユダヤ人の王」が誕生するという情報を聞いたとき、彼がベツレヘム周辺一帯の2歳以下の男の子を皆殺しにしたと伝えられています。そういう恐ろしい殺戮を命令一つで実行できるような権力者のもとで日々恐怖に脅えながら生きている、というのがヨセフのような大工も含めた一般庶民の暮らしだったわけです。
どこにも希望なんかありはしません。空しさと不安と恐怖と怒りでいっぱいです。信じるものなど何一つありません。
もちろん、ユダヤ人の間には、「間もなくメシアが現れて、権力者を追い散らし、我々ユダヤ人の国家を打ち立ててくれる」という信仰がありました。しかし、実際にはそんなメシアがいつ来るかもわからないし、自称メシアに率いられた反乱軍やテロリストの集団は、連日のようにローマの軍隊に鎮圧され、十字架で処刑されているというのが実態でした。
何も信じられない。何の希望もない。その日の苦労は、その日一日だけでもうじゅうぶんだ。明日のことなどわからない。そんな毎日をヨセフも、婚約者のマリアも送っていたわけです。
そんなヨセフにとって、唯一の楽しみは、婚約者のマリアと結婚し、子どもをつくり、育て、小さいながらも幸せな家庭を作ろうと夢を描くことだったでしょう。
しかし、その夢もやがて、はかなく打ち壊されます。彼は、結婚する前に婚約者マリアに子どもができたということを知ります。
ヨセフは、自分の婚約者が、自分の子ではない子どもを身ごもったと聞いて、たいそう怒り、嘆き、悲しんだことでしょう。マリアのやったことは、誰が見ても、夫となるヨセフに対する裏切り以外の何物でもありません。
彼は、この希望のない世の中で、自分だけの小さな幸せを守りたいと思っていたのですが、それさえも打ち砕かれてしまった。もう何も信じることはできない。何も頼りにできない。もうこれ以上、何を失うことがあるだろうか。神は一体何を考えておられるのか。そう彼は悩み、苦しんだことでしょう。
そんなヨセフに希望を与えたのは「夢」であったと聖書には書かれています。
すべてに失望して、マリアとも別れてしまおうと考えていたヨセフは、ある晩、夢を見ました。聖書によれば、ヨセフの夢に天使が現れて、こう言ったと伝えられています。
「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(マタイによる福音書1章20−21節)。
人間の心とは不思議なものです。夜眠っている間にも、ちゃんと心は活動していて、昼間目覚めている間にはとても思いつけないような突拍子もないことを、「夢」というかたちで私たちに見せてくれます。
夢で見たことというのは、まあ悪い言い方をすれば、根拠がありません。
しかし、私は、この「根拠もなく」というところが大切なのではないかと思うのであります。
目に見える状況のすべてが、絶望的に見えるとき、幸せの根拠など求めても、どこにもそんなものは見当たりません。自分が幸せになれる根拠など、どこにもないと思ったら、最後に希望が持てる場所は、人の心の中にしかありません。
人の心は本当に不思議です。希望が全くない状況でも、根拠もなく希望を思いつくことができます。どん底に落ちた人間でも、眠っている間に希望を思いつくことができる、それが人間の心の不思議な働きであり、そんなどん底から這い上がる力を、神さまは人間の心に与えてくださったのであります。
「マリアのお腹の子は、神の霊によるものかもしれない」というのは、ヨセフにとって、夢にたまたま出て来た何の根拠もない思いつきです。しかし、彼はこの思いつきを案外気に入ったのではないかと思います。
それは彼が起きている間は考えつきもしなかったことです。ですから、このインスピレーションは自分の外からやってきたように感じられました。ひょっとして本当に神さまや天使が、自分にこの絶望的な状況を突破させてくれるアイデアをくださったのかもしれないとヨセフは思ったことでしょう。
「マリアの子どもは神の子」。そう考えれば、自分はいまの絶望から一歩踏み出て、新しい生き方を始めることができる。その子は自分の子ではないけれども、神から授かった命として、マリアといっしょに育てるというのは、案外素敵な人生じゃないか、とヨセフは考え直したのでしょう。
こういう心境の変化は、自分以外の人にはなかなか理解してもらえないことです。もし、ヨセフがマリアを赦して受け入れても、周囲の親族たちが事態を知ったら、きっとヨセフの頭がおかしくなったと思うに違いありません。
しかし、ヨセフは何の根拠もなく自分の心のなかに浮かび上がった希望にしたがってみることにしました。それ以外に、自分の人生を前に進ませる道はなかったからです。そして、自分が変わりさえすれば、すべてがうまくいくということに気づいたからです。
一方、マリアはマリアで、自分が突然身ごもってしまったことで、婚約者のヨセフの信頼を失い、スキャンダルを背負ってゆかなければならないつらさを思い、ヨセフ以上に大きな絶望と未来への恐怖を抱いていたことでしょう。
しかし、マリアも天使に出会います。そして彼女の心にも、「この子の命は神が授けたものなのだ」という考えが与えられます。
ヨセフの夢と同様に、これも根拠のない希望です。そんなことを誰かにしゃべったりしたら、「いったいどんな証拠があって、そんな突拍子もない思いつきができるんだ」と、世の中の多くの人は笑い、嘲ることでしょう。だからこそ天使はマリアに「恐れることはない」と告げたのだろうと思います。
「恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」(ルカによる福音書1章30節)と天使ガブリエルは告げます。この天使は、彼女に与えられた絶望的な状況を「恵み」だと言い切っています。
しかし、絶望に打ちひしがれた人が、自分の置かれた状況を素直に「恵み」だと受け取ることができるでしょうか。苦しみのさなかにいる人が、「この苦しみこそが、私にとって恵みなんだ」と解釈することができるでしょうか。ふつうは、なんとかこの苦しみから逃れたいとひたすら願い、その願いもかなえられないと悟ったなら、自ら死を選ぶことも考える、それが人生の冷たい現実ではないでしょうか。
天使の発想は私たち人間の発想を超えています。「その苦しみは、恵みなのだ」というのは、人間の発想ではありません。神から与えられる発想です。そこには、理由や根拠はありません。ただ、根本的な発想の逆転があるのみです。
「恐れることはない。あなたの苦しみは、実は恵みなのだ」。
「あなたのその絶望こそが希望なのだ」。
なぜそうなのかということは説明できません。むしろ、「絶望は実は希望かもしれない」と、まず考えてみることから、すべてが変化し始めるのです。
マリアとヨセフは、最初は絶望に打ちひしがれていましたが、やがて、天使の導きによって、その絶望の中に希望を見いだし、共に支えあいながら生き抜いてゆく決心をしました。
絶望を希望に変えてゆく生き方をしようとしたとき、彼らが互いに孤独ではなく、互いにパートナーとして、いっしょに生きてゆこうと決断したことは、二人にとっては本当に幸せなことでした。
それは、他の人びとには決して理解できない生き方でした。しかし、二人にとっては、自分たちと神さまだけが、二人の心の真実を知っている、それで十分だったのではないでしょうか。
この二人から生まれた子どもは、イエスと名付けられ、成長し、やがて人の絶望を希望に変える働きをするようになります。このイエスは、苦しみや痛みのさなかにいる人間を見つけると、即座に共に苦しみ、共に痛みをおぼえ、共に生きようとする人でした。
そして、十字架にかけられて殺されてゆく、その苦しみのなかにおいてさえ、隣で同じ十字架にかかって死の苦しみのどん底を味わっている人に対し、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカによる福音書23章43節)と語るような人となりました。
死の絶望のさなかにあっても、なおそれが喜びであることを語る。これも人間的な発想ではありません。苦しみぬいて終わってしまうだけの人生にいったいどんな希望が見いだせるというのでしょうか。
しかし、イエスは死にゆく人に、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言います。理由も根拠もありません。ただ、「この苦しみは喜びだ」といっているだけなのです。
おそらく、このことに、ただひとつ理由や根拠に当たるものが存在するとすれば、それはイエスが「わたしと一緒に」という言葉を発したことの中にあると言えるでしょう。
「あなたは楽園にいる」ではなく、「あなたは、わたしと一緒に楽園にいる」とイエスは語りました。
普通、苦しみというものは自分ひとりが感じるものです。人は人の苦しみを苦しむことはできません。人の死を死ぬわけにもいきません。
しかしイエスは、自分を苦しみの極限にあえてさらすことで、この世の人間の誰よりも大きな苦しみを身に受けようとしました。そこまでして、人の苦しみをどこまでも追体験しようとした人は、他にはいません
だからこそ私たちは、「自分の苦しみはイエスにならわかってもらえる」と信じることができます。イエスより苦しい思いをした人はいない。他の人ではなく、イエスになら、わたしの苦しみはわかってもらえる。わたしたちはみなひとりぼっちではないのです。
「苦しみこそが人生。わたしはそれを知っている」と、生涯をかけて、死に到るまで、そう呼びかけたイエスのことを「神の子」と呼ぶのは、ふさわしいことだと思います。
絶望を希望にし、苦難をも喜びにする、そんな不思議なできごとが、人と人のつながりの中に、根拠もなく起こりうるのだ、ということを知らせてくださった神さまと天使のお告げに感謝して、このクリスマスの時を心深く味わいたいと願います。
クリスマス、おめでとうございます。
祈りましょう。
愛する神さま。
この静かな夕べ、愛する兄弟姉妹と共に、御子のご誕生をお祝いする礼拝をもてますことを、心より感謝いたします。
今日もこうして生きることを許され、ここにあることを感謝いたします。
私たちの人生において、絶望的な状況ばかりが身に迫ってくるように思われるそのとき、あなたが私たちに希望を示してくださいますように。
私たち人間の力ではどうすることもできない苦しみ、悲しみにおいてさえも、それを耐え、心の中に喜びを生み出しながら生き抜いてゆく力を、あなたが与えてくださいますように、心からお願い申し上げます。
語りつくせぬ感謝と、つたなき願いの祈りを、ここに集うおひとりおひとりの祈りと合わせて、イエス・キリストのお名前によって、あなたの御前におささげします。
アーメン。

ご意見・ご指摘・ご感想等はこちらまで→牧師あてメール