私はこれといって特徴のない地方都市で生まれた。
中学時代、私の通う学校は駅の向こうにあり、いつもコンコースを通って登校していた。
その朝、私は何の理由もなく切符を買い電車に乗った。降りたのは山間の小さな駅。季節はよく覚えていないが、肌寒かった覚えがあるから冬の初めだろうか。確実なのは絹糸のように細く、冷たい雨が降っていたことだ。
当時の私はサッカーに熱中していた。あるいは自分が熱中していると信じていた。
ポジションは4-4-2の右サイドバック、ただし控えの。フィールドに出るのはいつも残り十五分を切ってからで、接戦になるとそれすらも許されなかった。
強くなりたかった。熱烈にそれを願っていた。
薄ら寒く、そして妙に閑散とした駅前バス停の屋根付きベンチに腰を下ろし、売店で買った少年チャンピオンを読みながら、自分はどうしたら強くなれるかを考えていた。
漫画を読み終わると腰を上げ、目の前に停まったバスに乗り込む。
運転手の怪訝そうな顔に耐えきれず、二十分ほど乗ったところでそそくさと降りる。降りてみて随分と山の中に入ったことに気づいた。「登山道入口」と書かれたバス停は、この天気では当然のことながら人気がなく、寂しいたたずまいを見せていた。
時計を見るともう十時を過ぎていた。空が暗いので時間の感覚が失われていたらしい。
反対側の停留所でバスの時間を調べると、帰りは後二時間ほど来ない。山に登る気はなかったので、その時間をつぶさなくてはならなくなった。
何にせよ、親への言い訳を考える時間はあるわけだ−−そのときの私はそう考えることにした。
寒さをしのぐために周りを見回すと、登山道入り口の脇に小さな自販機コーナーがあった。プレハブの中に自販機が何台か、古ぼけたテーブルに椅子が何脚か置いてある。登山帰りの連中がバスを待つのに利用するのだろう。
中に入りテーブルに鞄を置くと、缶入りのミルクティーを買った。
缶の暖かさを感じながらぼんやりしていた私は車の止まる音で我に返った。
見たことのない車だった。

ファストバックの白い小型クーペで、大げさなオーバーフェンダーにフェンダーミラー。もちろんそのときの私には、ミラーの位置が目新しいただの古ぼけた白い車にしか見えなかった。
ドアが開くとパンツスーツの女性が一人降りてきた。
「あら、君何してるの?」
初対面の彼女は、自販機コーナーに入ってくるといきなり私に声を掛けてきた。
「……バスを、待ってます」
ちょっと面食らった。いくら制服を着ていると云っても、初対面の自分にこれだけ単刀直入に声を掛けてくるとは考えもしなかったのだ。
「そうじゃなくて、学校は?」
彼女はきびきびした動作で缶コーヒーを買いながらたたみかけてきた。私は黙るしかなくなった。
「黙秘権? 座るよ」
向かいにすとん、と座ると真っ直ぐ私を見つめてきた。良い匂いがした。
「実はさあ、私も仕事さぼってる最中なんだ」
いたずらっぽく笑う。見た感じは二十代はじめという印象。
「だから説教なんかしないから安心して」
そういうとコーヒーをうまそうにすすった。営業の人だろうか、それにしては……
「変わった車ですね」
私はそれでも自分の話をする気にはなれなかった。かといって目の前の女性はそのときの私にとって、反感を持つのが難しいほど魅力的だったのだと思う。だから私は無難な話題を持ち出したのだ。
「父が乗っていたのをもらったんだ」
また笑顔。
「七十四年式のチェリーって車……知らないよね」
私は小さく頷いた。その名前は聞いたことがなかった。
「外車ですか?」
彼女はうれしそうに首を横に振った。
「違うよ、正真正銘の国産車」
日産自動車が初めて量産したFF車だ。オーバーフェンダーがついているのはスポーツバージョンのX1Rというグレードだが、そんなことを知ったのはずっと後になってからだった。
「スクラップになりかかっていたのをレストアしたんだけど、結局新車を買う方が安かったよ」
私はどう応えて良いか分からず、また黙った。
「サッカーやってるんだ」
どうして分かったのだろうかーー私の驚きが顔に出たのだろう。彼女はおかしくてたまらないという顔をしてまた笑う。とても魅力的な笑顔だった。
「シューズケースだよ……すごいでしょ、これでも毎週金田一少年を見てるんだ」
そういわれて自分がディアドラのシューズケースを持っているのに気づいた。確かにサッカー用品で有名なメーカだが、女性にとってはさほどメジャーな存在だとは思えなかった。
「ディアドラの靴といえばサッカーシューズとドライビングシューズだからね」
そういうと優雅な仕草で自分の靴を見せた。確かに特徴的な二股のライン。そのときはハイカットのバスケットシューズに見えたが、後で考えると彼女はドライビングシューズを履いていたのだ

私はやっと合点がいって、ケースを開けてお年玉で買ったシューズを見せた。ディアドラの「ナンバー10」ーーバッジオがローズボウルスタジアムでPKをはずしたときに履いていたモデルのレプリカだ。イタリアの至宝はこれで世界一の栄光を失った。
「やった、当たったじゃない」
私は彼女の顔に視線が吸い寄せられるのを感じ、何とか言葉を紡ぐ。
「車が好きなんですね」
「ええ、大好き……アイルトン・セナって知っている?」
黙って頷く。その前年に死んだ有名なドライバのことなら聞いたことがあった。
「私のアイドルなの」
そうして私のサッカーシューズを指さして続けた。
「君のアイドル?」
どうしても部室に置いておくことが出来ず、毎日磨いている靴。
「ロベルト・バッジオって知ってますか」
誰もがバッジオになれるわけではないことを、そのころの私はやっと理解しかけていた。
「もちろん知ってるよ、イタリアの英雄じゃない」
きれいな瞳が真っ直ぐに向けられるのに、どぎまぎする。
「実はゴールデン・ウィークにイタリアに行ってきたの、サンマリノ・グランプリ」
「聞いたことあるな」
名前とは異なりサンマリノではなくイタリアのイモラで行われるF1レースだ。もっともそのときの私はサンマリノ共和国なんて知らなかったのだが。
「去年セナが死んだレースなんだ」
「へえ」
「ホテルでのんびりしてたら、バッジオがCMに出てたよ」
何を言い出すのか、私は不思議に思いながら聞き返した。
「サッカー用品の?」
彼女はゆっくりと首を振った。
「政府広報っていうやつかなあ、PKをはずす映像が流れて、『人は誰でも過ちを犯す、しかしやり直しはいくらでも出来るのだ』って言うの、バッジオが」
私は黙って彼女の顎の輪郭を見ていた。
「レースはセナの居たチームのデーモン・ヒルが勝った」
彼女は不意に手を伸ばすと私の頬にさわった。
「そのとき思ったよ、試合は終わっても人生は続くってその通りだと思うけど、逆に人生が終わっても試合は続くこともあるんだよね」
私は彼女に触られた驚きから体を硬くし、その言葉を遠くに聞いていた。
「……じゃあね、私はとりあえず人生続けてくるよ」
そういうと残りのコーヒーを飲み干し、彼女は出て行った。
そこから先のことは良く覚えていない。おそらく帰宅後に父親から大目玉を食らったに違いないが、それも全く記憶にないのだ。
その後の私はサッカーを大学を出るまで続ける。結局学生時代通して補欠のままだったが、就職してから入ったクラブでようやくレギュラーになり、うれしさのあまり「ナンバー10」の復刻版を買った。
現在セリエAのプレジアに所属するロベルト・バッジオは、この十年ずっと最高のファンタジスタで今も私のアイドルだ。
あの女性のことは今でも時折思い出す。残念ながら、いつか乗るつもりのチェリーX1Rは程度の良い中古が未だに見つかっていない。