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四条河原町でバスを降りるとまず目にとび込んでくる建物に阪急百貨店と高島屋がある。幕末期には阪急百貨店のあたり[右写真]に土方楠左衛門が寓居した薬種商亀屋が、高島屋のあたりに薬種商亀田屋があった。
亀田屋は店主の名を太兵衛といい、その離れには土佐藩の岡本健三郎が下宿していたという。「亀田屋のまえを振り返らずに通る者は豪傑だ」とはやされた女性 足立タカとはとは恋仲であったと伝わっている。
両所には現在、寓居の跡をしめす史碑も見当たらないないため、おそらく撮影のさい衆人から「余程のお上りさん」と思われていたに違いない。マネする人は要覚悟。
当方の場合、京都へ来る機会など滅多にある話でないうえ、事実「お上りさんなのだから」と敢えて周囲の目を無視し、気のむくまま撮影におよぶ。今に思えば自意識過剰な気もするし、また「ちと痛い行動だったかな」という気もしないではない。
秋の日はつるべ落とし。持参したデジカメ(使用機種:Canon PowerShot A20)に河原町周辺の史跡を撮影すべく、日没を気にしながら三条通・御池通・二条通方面へむけ序々に北上を開始する。鉛色の空模様が背中をせっつく一材料。
旅行前あらかじめ調べておいた資料を参考に古高俊太郎邸跡・谷守部寓居跡[右写真左]・中岡慎太郎寓居(現あぶらとり紙専門店象・旧書林菊屋)跡[右写真右]・宮川助五郎寓居跡・本間精一郎遭難地跡・福岡藤次寓居跡など、近在の史跡を矢継ぎ早に見てまわる。
想像以外に当時をしのぶヨスガのないもの、往事をしのぶ碑が残るもの、じつに様々な形で史跡が点在している。幕末から一世紀と数十年、存在の有無や在否をとわないこの変遷も一つの歴史ではあるだろう。
と、そんなことを考えているうちに坂本龍馬・中岡慎太郎の終焉の地 近江屋跡(現京阪交通社)に到着。時間帯は既に夕刻をまわり周囲の人の通りも多くなるなか、間隙ぬうようにして遭難之地碑[左下写真]を撮影。書籍で幾度となく目にしてきた石碑ではあるが「こうして目のまえにすると別の感動がわいくるもんだなぁ」と実感する。
やがて河原町にかかる蛸薬師通りを一旦西へ左折し、裏寺町通りにめんする常楽寺と西導寺をたずねる。寺にはそれぞれ麻田時太郎と安岡勘馬が眠っている。早速、墓を詣でるべく門前まで来たが、入口には敷居がおかれており両寺ともに参詣不能。
門の脇に設けられる潜り戸をぬければ境内にも入りこめそうだが、そんな家屋侵入まがいなど出来るわけもなく、すごすごと退散することに決める。わざわざ持参してきた線香の束と100円ライターがここでは無駄におわった。
「線香だったらほかにも使う機会があるだろう」と気をとりなおし、木屋町方面の土佐稲荷神社(ここも敷居に阻まれ参詣不能)・土佐藩邸跡[左下写真]・田中幸助寓居跡・彦根藩邸跡・後藤象二郎寓居跡をそれぞれまわる。四条河原町・河原町二条方面には土佐藩絡みの史跡が多く、個人的にはじつにイイ感じである。
中京区の木屋町から河原町にかかる小さな通りの一つに「龍馬通り」なる通りがある。龍馬を偲ばせる史跡などは精々一つくらいしかないが、京都には同地のほかにも伏見区にもう一つの「竜馬通り」があるそうだ。
伏見区の竜馬通り周辺には薩摩藩士らが斬りあいになった寺田屋騒動の伏見寺田屋があり、こちら中京区の龍馬通りには京都における海援隊士たちの拠点材木商酢屋[左下写真]が存在する。
ここは創作木工芸という看板ともども、以前からぜひ足を運びたいと思っていた場所だけに感激もひとしお。店鋪前の石碑[右下写真]を撮影後さっそく店内へ入る。
この日、店舗2階の史料展示コーナー「ギャラリー龍馬」は公開時間を既におえ、私は史料を拝むことが出来なかった。これには多少ガッカリときたが時間は時間なので致し方ない。しばし店鋪内の商品をながめたのち、あとわずかで没する太陽を恨めしく思いながら史跡めぐりに再出発する。
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