■大敷とは?
大敷は「大敷網」と呼ばれるその名の通り大きな網を使う漁業法で、魚群の通り道に張り出した垣網と、それに突き当たった魚を誘い込んで持ち上げる袋網から構成されています。この袋網に迷い込んだ魚類を持ち上げ、船に積み、港に持ち帰るのです。この網を持ち上げる作業を網持ちと呼び、朝夕2回行われる網持ちをそれぞれ「朝持ち」「晩持ち(夕持ち)」と呼んでいます。
■大敷の構造
垣網 |
東西に長く伸びる網。この網に突き当たった魚が運動場へと入り込みます。
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運動場 |
約130m×40m 最大水深70m以上の網で、垣網に突き当たった魚が入り込みます。魚群を入れるために口が広く開いていて、運動場に入った群れがそのまま網の外に出て行くこともあります。
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登り網 |
運動場に迷い込んだ魚が、この網を伝い、1段箱に落とされる。網の底が徐々に浅くなっていくので登り網と呼ぶ。
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一段箱 |
登り網を上ってきた魚が一度、ここに落とされます。口を小さくして上方につけることで、運動場に比べると網の外に出て行く魚が少なくなるように工夫されています。以前はこの一段箱を網持ちしていました。
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二段箱 |
約100m×40mの網。1段箱に入った魚が、さらにここに落とされます。現在は、この二段箱を網持ちしています。
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■大敷の歴史
明治29年 椎名が三角網大敷を導入、大きな利益を上げましたが、椎名・三津・高岡の沖合いは鯨の来遊する海域で、古くから網捕鯨を生業としてきた近隣の津呂や浮津の捕鯨組の怒りをかい、諍いが起きました。
明治31年 諍いが収まり、調停を済ませたに後、高岡大敷組合が組織されました。
明治32年 高岡に三角網大敷が敷かれました。それまでは、磯建て網(現在のエビ網)、鯖建て網、大魚網(追魚網)等による漁業が盛んで、ブリ、メジカ、サバ、イワシ等がとられていました。しかし、それらの漁業は大敷網の出現によって、徐々に廃れていきました。
大正10年 高岡大敷が北海道式落網大敷を導入。
昭和50年頃 高岡大敷は2段箱を敷きいれ、現在の形となりました。
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