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『Lien 〜終らない君の唄〜』

 この文章は、Win95/98の18禁ゲーム『Lien 〜終らない君の唄〜』(Purple)をプレイして、私が感じたことを纏めたものです。感想と雑記を合わせたようなものであり、考察とは少し違うと思います。あくまでも自分の感じたままに書いたものであって、ここで私が書いていることの客観的な妥当性はないからです。しかも、敢えて暴走気味に、過大評価気味に書いていると言えなくもないです。(従って、身内では『爆察』という造語で表現しています) だから考察ではないのですが、このゲームをプレイした時点で『私がそう感じてしまった』ことであり、一度そう思ってしまった時点で、私自身は『そういうもの』として受け止めてしまいました。だからこの文章を読んだ皆さんが、読み終わった後にどのように受け止めるかは、それこそ皆さん次第です。ただ…何かを感じてもらえたなら、嬉しく思います。
 具体的にどのようなことについて書くかなのですが、今現在の私は、『Lien』を『ONE』と強く結び付けて考えています。『ONE 〜輝く季節へ〜』(Tactics)に関しては、ここでは特に何も書きません。説明も、紹介もしません。ただし…先に書いておきますが、上記のような事情から、この文章では『Lien』と『ONE』のかなりのレベルのネタバレを、ダブルで扱っています。この点、お気をつけてください。具体的にどことどこを結び付けて考えているのかは、以下、本文中で書いていきますが、その結果として『Lien』という作品は、私にとっては『ONE』という作品があってこその素晴らしい作品という位置付けになっています。ただしそれは『Lien』が『ONE』以下だとか、そういうことではありません。言うなれば『太陽』の輝きを受けて夜を司る美しい『月』のようなものだということです。しかし『月』の美しさは紛れもなく、そして『太陽』に勝るとも劣らないと言えるでしょう。ただ…同じように評価することはとても難しい。そのようなものとして、私は受け止めています。もちろんこれは、私がそう感じたに過ぎないものであって、『Lien』という作品が『単独では輝けない』と言うつもりはありませんし、決してそんなことはないと思います。ただ私にとっては、『ONE』という作品と照らし合わせて見ることにより、より強烈な光を放つ作品に思えてならないのです。そう御理解いただきたいと思います。
 なおこの文章を書くに当って、極めて有意義な意見を提示して下さったSilentBellsさんはじめ、メーリングリストの皆さんには、厚く感謝します。それでは、本編です。

 さて、志郎の置かれた立場について考えてみましょう。ゲーム中での志郎は、幽霊という極めて不自然な存在として物語を牽引して行きます。SilentBellsさんは、その志郎をして『究極の障害者』という表現をされました。死者とか生者という概念以前に、その究極的に不自由かつ無力な環境を、ある意味『究極の障害者』という概念で捉えられたのです。自分自身では、何をどうすることも出来ず、ただ歯がゆい思いをするだけの志郎。これはまさにその通りであると思いました。ただ私自身は、そのように指摘されるまでは、自分からそのことに気がつくことはありませんでした。究極的に不自由ではあっても、それは死んでしまったから、幽霊だから仕方がないことだと。そこまでの考えしか持てませんでした。従って、SilentBellsさんのこの考えは、まさに目から鱗が落ちる思いだったのです。そしてその時点ではまだ『Lien』を初期プレイ中だった私は、以後、劇的にこの作品を見る目が変化したのです。
 究極の障害者という立場に置かれた志郎。まさにその通りだと思います。そして私は、逆説的な結論を導き出しました。それは、志郎を究極の障害者と位置付け、あたかも生者の如く描くことこそが重要であって、実は障害を描くこと自体は目的ではなかった、というものです。
 確かに志郎は、物語の開始前の時点で死んでしまいました。すでに死んでしまい、幽霊として存在するところから物語は始まるのです。そしてその後の志郎は、極めて不自由かつ無力な生活を強いられました。でも志郎は、この話の流れから言えば死人です。すでにこの世からの退場を余儀なくされた存在です。本来ならば、その時点で志郎という存在は終わっているわけです。
 一般的には、何かの作品中で幽霊というキャラクター設定を使う場合、概ねギャグ、コメディである場合が多いと思いますが、その結果、幽霊の持つ特異性をいかんなく発揮して、はちゃめちゃな展開になることが多いと思います。というか、そういう展開に持ちこむために、幽霊という特殊性を持つキャラクターを設定するわけです。それでは志郎の場合はどうでしょうか。確かに、取り憑きシステムなどが存在し、幽霊としての特質を利用してはいますが…。
 さて、ここで『ONE』を引き合いに出してみます。主人公・折原浩平は、その物語の最後で、かつて望んだ永遠の世界へと消えていきました。実際にその時に、物理的な意味での消滅を伴ったのかどうかはわかりません。精神的な死という表現も、ある意味可能であるとは思いますし、あるいはドラえもんの『石ころ帽子』のエピソードにもあるように、社会から認識されなくなることによる、死(黙殺)ということだって、可能性として考えられます。この永遠の世界への消失については方々で議論され、しかも決定的な結論が出てはいませんし、出るような問いでもありません。従ってここでも、それについてこれ以上書くことはしません。ただし少なくとも、消えていなくなる直前の浩平は、生きてそこにある存在だったにも関わらず、死んでいる、いや…初めから存在すらしなかったも同然の状況に追いこまれていることだけは、間違いありません。ここまで書くと、むしろ『Serial Experiments Lain』を引き合いに出した方が早いのかもしれません。とにかく、他人との共通した接点や記憶を介在せずに、自分自身のみが自己の存在を主張することの滑稽さと無常さが、そこにはあると思います。
 志郎に話を戻します。幽霊としての志郎。でも、究極の障害者としての志郎。そう考えた時、そこに存在を認識され、他者の記憶の中にも確かに存在する、幽霊ではあるけれども紛れもなく『志郎』と認識される確たる存在。先ほど引き合いに出した、物理的な肉体を持つ浩平よりも、よほど『生きてそこにある』と思えて来ませんか? 肉体の喪失ということを、究極の障害者という立場に置き換えて、幽霊ではあるけれど、生きた存在として描かれた志郎。それに対して肉体を持ちながら、あたかも死者、あるいは存在外のモノとして描かれた浩平。この時点で志郎の持つ究極の障害者というハンデは、確かに究極のハンデではありますが、志郎という死者に対して、生者との線引きすら無きが如しにしてしまう究極の優しさと捉えることも可能だと思います。そしてそれは、ハンデを背負って生きて行くことを目的としてではなく、ある意味『ONE』という作品の描いた浩平というキャラクターに対する、対極の位置付けにあると思えて来るのです。この時点で私は、『Lien』という作品の影に、『ONE』という作品の存在を強く意識しました。そう考えて『ONE』と対比し始めたところ、興味深い考えが浮かび始めたのです。

 まず『Lien』という作品内部におけるお話の流れを、簡潔に記してみます。

  『Lien』
     1.志郎は平凡な生活を送っていました。
     2.志郎は交通事故で死にました。
     3.志郎は幽霊になって復活しました。
     4.志郎とヒロインは、平凡で幸せな日常を送りました。
     5.しかし最後には、志郎が本来還るべきところへ還って行きました。
     6.そして物語が終りました。


 ざっと、こんなところだと思います。1と2は、実際にはゲーム開始前の時点でのことであり、背景設定と言える部分です。そして3から物語が始まり、4がゲームのメイン部分、5がクライマックス、6がエンディングとエピローグに相当する部分です。これに対して『ONE』におけるお話の流れを、同様に簡潔に記してみます。項目番号ごとに対比させてみるとわかりやすいので、薄い色の文字で、上記の『Lien』におけるお話の流れを、再度併記してみます。

  『ONE』
     1.浩平は哀しい過去を忘れ、平凡で幸せな日常を取り戻しました。
       1.志郎は平凡な生活を送っていました。
     2.しかし浩平は、永遠の世界へと消えていなくなりました。
       2.志郎は交通事故で死にました。
     3.1年後、浩平は永遠の世界からの帰還を果たしました。
       3.志郎は幽霊になって復活しました。
     4.浩平とヒロインは、再び平凡で幸せな日常を取り戻しました。
       4.志郎とヒロインは、平凡で幸せな日常を送りました。
     5.でも人はいつか必ず、還るべきところへ還って行きます。
       5.しかし最後には、志郎が本来還るべきところへ還って行きました。
     6.そして物語が終ります。
       6.そして物語が終りました。

 実際に『ONE』をプレイすればわかるように、1はゲーム開始前の過去の部分、すなわち背景設定に相当しますが、そのまま引き続き、ゲーム開始時点およびゲームのメイン部分での浩平の状態でもあります。そして2はクライマックス、3はエピローグに相当し、ゲームとしてはこの時点で終了します。しかしエピローグから推測すれば、その後に関しては『そして2人は、平凡ではあるけれども幸せに暮しました』と言えると思います。これが4です。そして5と6は、限りある命であるからこそ、当然いつかは辿りつくべき結末であると思います。
 さて、このように比較して見て行くと、何か共通した部分が見えて来るように思えます。出会いと別れ、そして再会。けれどもいつか辿りつくべきところがあること、そして再び来る別れ。そこに至る決断と、何が本当の幸せであるのかと言うこと。一瞬一瞬の輝きとその大切さ、永遠なんて必要ないこと、それに気がつくこと。平凡な日常の大切さと、心から大切に思える人との絆。こういった要素が、主人公の非現実的な消失と回帰を中心として描かれていることがわかります。これらのことに関して、もう少し表現を変えて書いてみます。

 『ONE』の中で描かれた、主人公・浩平の、永遠の世界への消失と回帰に関して、もう一度取り上げてみます。これに関しては、オフィシャルサイトやレビュー系サイト、その他多くのファンページやネットニュースなど、色々な場所で様々な解釈論議がなされたようですが、最終的には整合性のある答えは出ていないようですし、また答が出るような問いでもないと思います。『ONE』をプレイした一人一人が、自分なりに納得のいく回答が得られればそれで良いのだろうと思います。正しい答や辻褄の合う答、公式な見解が重要なわけではなく、そこにある永遠の世界という存在を、どのように受け止めることが出来るかということが重要だと思うからです。しかしながらその解釈上の難解さ故に、そのまま『永遠の世界』というものを受け入れてしまえば楽なのですが、一般的にはなかなかこれが難しいことのようです。理解困難なものに対する抵抗感のようなものがあるのでしょうか、すんなりと受け入れることの難しさがあるように思えます。
 『Lien』の上手いところは、『ONE』でいうところの『永遠の世界』での内面心理描写を切り捨てて、ただ『消えていなくなること』、そして『戻ってくること』、この部分に関して、実のところ『ONE』同様に全く非合理的であるにも関わらず、非常に受け入れられる確率の高い概念を導入することで、この問題を回避しています。『幽霊』という、今現在の科学においては解明され得ない非合理的な、しかし誰もが理解しやすく、かつ馴染みのある概念を用いることによってです。実際問題、一度死んだ人間が生き返るはずもなく、また科学的には幽霊の存在は否定されているわけですが、感覚的に『幽霊として復活しました』と言われると、『あるわけない』と思いながらも、『お話の中のことだから仕方がない』という受け止め方をする人がほとんどだと思います。従って『幽霊』という形式は、感覚的には非常にわかりやすい概念だと思います。科学万能の現在に至る以前においては、魑魅魍魎の類に対する畏怖の念や迷信的信仰などは、世界中の至る所に存在し信じられてきたわけですし、今もなお多くの人々が信じてやまない対象だからです。そしてこの幽霊という、むしろ非現実的な概念こそが、リアリティという点から一歩離れて受け止めることで、作品世界を受け入れやすくしているのだと思います。
 それで、この『幽霊』という志郎の立場ですけれども、もうすでにここまでに書いてきた通り、その立場はある意味では『究極の障害者』とも言え、すなわち肉体の喪失そのものすらも、身体機能の喪失における究極的な事態として捉えることによって、『幽霊』である志郎を生者の延長線上にある存在として見ることを可能としています。従ってこの時点で志郎の存在は、本質的に、永遠の世界へと消えて戻ってきた生身の体の浩平と、立場上の大きな違いはないわけです。志郎は一度姿を消しましたが、浩平同様に帰って来ました。そしてヒロインの前に、そこに存在するのですから。

 『ONE』では、浩平が永遠の世界から帰って来たその後のことに関しては、特に描いてはいません。基本的には、再会までで物語を締めくくっています。(茜や澪も、物語的には再会シーン+αで終っていると言えるでしょう) しかしながらエピローグから推測すれば、昔話や御伽噺の締めくくりのように、『そしてふたりは平凡ながら、幸せに暮しましたとさ』という流れが妥当であると考えます。そこに至る物語の過程で、平凡で変わり映えのない日常の、けれどもだからこそ得がたい大切さが、心に染みるほどに表現されてきたからです。私たちプレーヤーも、作中人物の浩平やヒロインたちも、今はもうそのことを、痛いほどに知っているからです。

     一瞬一瞬こそが、かけがえのない煌く時の流れであること。
     永遠なんてどこにもなく、また必要のないものだということ。
     全ては滅び行くからこそ、光り輝くものだということ。

     …その大切さを知ってしまったから。

     ふたりが、ともに今を生きること。
     ふたりが、お互いを想いあうこと。
     ふたりが、思い出を刻み込んで行くこと。

     …これこそが、本当の幸せであることに気付いてしまったから。


 『Lien』において、幽霊の志郎と各ヒロインとの間にある絆と想い、本当に大切にしなければならないもの。一度、志郎の死別という形で決着し(『ONE』でいうところの、永遠の世界への消失と想いの行方)、自分にとって本当に大切なものがなんなのか、そのことに気が付いたふたり。生身の体を持つことが重要なのでしょうか。寿命が長いことが重要なのでしょうか。実は、そんなことは2の次だったのです。かけがえのない今を大切に生き、ふたりの想いを積み重ねて行くこと。限りある今この瞬間を、大切に、精一杯、悔いなく生きること。それこそが重要であり、その先にあるものなんて、その後のことなのかもしれません。(先のことを考える必要がないという意味ではなく、まず今この瞬間を大切にすること、という意味です) そう考えると、『究極の障害者』として、あたかも生者の延長線のごとく描かれた志郎の、幽霊であった期間のヒロインとの触れ合いは、『ONE』のハッピーエンド後の、浩平とヒロインのあるべき姿、そして来るべき最後の瞬間を代弁しているように思えます。志郎が幽霊であることとか、いずれ近いうちに輪廻の輪に戻る、それまでの僅かな期間にすぎないこととか、そんなことは瑣末事に過ぎず、そこには志郎のもうひとつの濃縮された、まさに人生の縮図がそこにはあったのです。たまたまそして、人は誰しもが還って行くことになる輪廻の輪の中へ、志郎が先に戻って行くだけ…。たまたまここに至る過程で、ちょっとした手違いがあっただけ…。
 何が本当の幸せかに気が付かせ、その過程を描いた『ONE』という作品。それに対して、何が本当の幸せであるかに気が付いた後の、アフターストーリーを描いた『Lien』という作品。このように対比して見ると、非常に興味深く思えて来るのです。

 従って、『Lien』の各ヒロインは(志郎の生前に接点を持たない柚さんは別にして)、志郎の死という事実をどこまで受け入れることができたのか、前向きになれたのか、その度合いの差はともかくとしても、実のところを言えば『ONE』のヒロイン同様に、志郎を失った時点で(ゲーム開始以前の時点で)すでに、志郎に対する想いに関して、ある種の結論は出していたはずです。『ONE』のヒロインが、浩平を失った時に自分の想いをどう受け止めたのか、ということと同様にです。ただしその結論が、必ずしも前向きなものばかりだったとは言い切れませんが…。これに関しては、例えば若葉の例があります。若葉は志郎を失ったことに対して、前向きな回答を出せずにいる節があります。とは言え晶やみなもと比べると、この時点での若葉には、志郎に対する特別な感情はまだないわけですし、まして自分のせいでクラスメートを失ったとすれば、そういった罪悪感を拭い去れないまま生きることもわかる話です。従って幽霊として戻って来た志郎に対する若葉の態度や、若葉シナリオにおける若葉の気持ちの変遷は、非常に理解できます。そして晶やみなもはおそらく志郎を失った時点で、彼女たちなりに志郎に対する想いに関して、前向きな決着を付けているだろうと考えられます。『ONE』のヒロインの場合も、後ろ向きに1年を過ごしながらも、ようやく前に歩き始める決意をした七瀬の例もありますし、もっとはっきりと浩平不在でも、強く前に歩き始めた澪や繭の例もあります。このへんは、晶やみなもの気持ちに通じるのではないでしょうか。
 彼女たちにとっては、幽霊となった志郎との再会は思いがけないものであり、心の傷を癒すひとつの助けにはなったのかもしれません。けれども本来は、このような救済はあろうはずもなく、予期することもできません。願って得られることではないからです。従って彼女たちは、たとえそれがどれほど苦しく辛いことであっても、志郎に対しての想いに決着を着けることで自分の日常へと帰って行ったはずです。そして志郎のことは、一度は思い出に変えたところから物語は始まると考えます。
 失われたものを取り戻すことは決してできません。生きてともにある幸せは、確かに素晴らしいことです。でもそれが全てではありません。2人がどれだけのことを思い出に変えることができたのか、その1つ1つの時間の積み重ねがかけがえのないものであり、それは決して色褪せるものではありません。形あるものはいつかは必ず失われて行きます。けれどもその時になって後悔だけはしないように、この一瞬一瞬を大切に生きて行くこと。そうして築き上げたお互いの想い、それぞれの心の中に残して行く何かの痕跡。それらが全て、光り輝くものでありますように…。2人の思い出がたくさんあれば、たとえいつか別れが来るとしても、きっと自分の人生を強く生きて行ける、それが支えになってくれる。それだけのもの(勇気や強さ、優しさ、愛情といったもの)を自分の心の中に築き上げ、また相手の心の中に残して行くこと。それが大切なことであって、永遠に共に生き続けることなど本質的なことではなく、従って『生きていること』それ自体が全てではないのかもしれません。何が本当に大切なことなのかに気が付くことができたから、今度の『人生』や『出会い』では、後悔だけはしない生き方をしていこう…。いつか必ず来る、その人との別れの日まで…。
 『Lien』のヒロインたちは、一度は失った志郎との日常を取り戻したのではなく、むしろ想いに決着をつけたことによって、もう1つの『人生』『出会い』『別れ』を手にしたのではないかと思います。そしていつか来る『別れ』を知りながらも、本当に大切なことに気が付くことができたから、志郎との別れをあれほどまでに穏やかに受け入れることができたのではないかと思います。こう考えると、なにも必ずしも相手が志郎ではなくても構わないわけで、その相手が幽霊の志郎であったことは、ヒロインたちの心の傷を癒すための最大限の優しさと捉えれば、非常にわかりやすく思います。
 全てを受け入れた上での別れ…。別れるために出会ったわけじゃない。でも、全ては滅びに向かって進んでいるものだから。永遠なんて、どこにも存在しないから。いつかは、全て失われてしまうものだから。でも、もしかしたら…。今ここにいる2人の真実の想いだけは、築き上げた思い出だけは、それこそが『永遠』なのかもしれない。形に残るもの、形あるものだけが全てではないのだから。そして…志郎とまたいつか、輪廻の輪の中で巡り会うことを祈りながら…今はさよなら。そして私は…今は自分の人生を、悔いのないように精一杯生きて行こう。前を見つめて歩いて行こう。いつか辿りつくところまで。それが、志郎が教えてくれたことだから…。(『Lien』エンディング)
 …だから。例えば澪や繭シナリオでは、浩平視点からの都合として、浩平の永遠の世界からの回帰が描かれていますが、ヒロインの物語としては、すでに決着しているのではないかと思っています。例え浩平が帰って来なかったとしても、浩平の思い出を胸に抱きながら、澪は、繭は、あるいは七瀬は、きっとこれからの自分の人生を生きて行くのではないでしょうか。それが、浩平が教えてくれたことだと信じて。(『ONE』エンディング〜そして再会へ) 澪や繭の物語として見た場合、最高に幸せになるための条件としては、確かに浩平との再会がベストなのですが、本質的に彼女たちの物語としては、決して『浩平でなければならない』必然性はないと感じるからです。

 そして、生前に志郎との接点を持たない柚シナリオにおいてすらも、永遠の世界という概念を介して、同様に『ONE』と結びつけることが出来ると思います。そこには永遠に限りなく近いものが存在することを知りながらも、そしてお互いを深く想い合いながらも、輪廻の輪の中へと帰って行くことを選んだ、柚シナリオの最後がそうです。柚シナリオでは、お互いに生きている人間同士ではないけれど、『今ここに存在する2人の気持ち』こそが『一番大事』なことに気がついています。だから、決して今生で結ばれることはないのかもしれませんが、この2人の心の交流もまた幸せの形の1つなのでしょう。そして…そんな風に幸せを手にしながらも、それでもなお時の輪の中へと還って行くことを2人は選びました。本当に大切なことが何なのかを理解した上で、安らかに終焉の時を迎えます。客観的に見て2人の今いる位置は、永遠の世界にいるのと同じことなのかもしれないと思います。幽霊として、輪廻の輪の中から外れたところにいれば、そこには永遠に限りなく近いものがあるはずです。でも…2人はそれを望みませんでした。『そんな永遠なんていらなかった』ことを…『そのことを、もうすでに知っていた』からです。そしてそこから眺める、世界から隔絶された自分たちを包む、自分たちとは交わることのない時の流れのある世界。時の止まった自分たちの世界から見る、光り輝く世界。その世界へと帰って行くことを、2人は望みました。このことは、永遠の世界に決別を果たして現実へと帰って来た、浩平の姿と重なるものを感じます。柚シナリオとは、永遠の世界が重なり合った2人の物語と受け取れなくもないのです。
 この永遠の世界との決別は、例えば晶シナリオなどにも影響を持っていると思います。志郎が、輪廻の輪を外れて晶の傍に残ること。これはまさに、志郎が永遠の世界に囚われることに例えられます。(もっともこの場合、晶自身は時の流れに身を置くことになりますが…) しかし、そんな永遠なんて、時の流れから外れた場所に身を置くことなんて、本当に大切なことではないのだから。それは間違っているから。だから…だから晶の言葉と行動があるのでしょう。もちろん感情論として、『志郎がずっと傍にいてくれたなら…』ということとは別問題です。けれど…そんな志郎をかけがえのない相手だと思うからこそ、志郎が時の輪の中に帰ることを望む晶がいるわけです。そう考えると、みなもの想いや、消えていった早香・青葉も含めて、志郎が輪廻の輪に帰ることの意義や、それに対するヒロインの想い、潔さが納得できてしまいます。

 繰り返します。

     『永遠はあるよ、ここにあるよ』

     …けれど。

     『こんな永遠なんて、いらなかったんだ』


 だから…実は残念だと思っていることがあります。シナリオ的に、輪廻の輪の中に戻ること、そのことでお話を完結させてしまえば良かったのに、と強く思います。あくまでも物語的な『ハッピーエンド』に拘り、余計な転生物語を描いてしまった事が蛇足だったと感じています。その瞬間瞬間の出会いと、ともにあった時間こそを大切にすべきであって、時の輪の中で出会いと別れを繰り返す中で、その時々の相手が誰であるかは、本質的にはその時点での意志であって構わないと思うのです。もちろん『生まれ変わってもまたこの人と巡り会えたら…』という、壮大なロマンティシズムを否定するつもりはないですし、むしろ私的にはそういったお話は、大好きだったりします。(例えば『久遠の絆』とか…) ただ…それでも、この『Lien』というお話においては、若葉・柚シナリオの転生エピソードは、最後の最後で蛇足だったのではいかと、残念に思えてなりません。結果的にまた巡り会う。それはそれでまた1つの出会いであって、物語です。それはそれでいいじゃないですか。だから…そんな未来を夢見ることができるような、そんな終わりかたで充分であって、輪廻の輪の中に帰って行く柚と志郎などは、すでに充分にそれを予感させるだけのものを残してくれていたと思うのです。まして、自分の人生を全うすべき若葉に至っては、今生で転生した相手と再会する必然性などないとさえ思います。

 最後に。ここまで何を書いてきたのかよくわからないですが、言いたいことは、『ONE』という作品の影を感じさせながら、『ONE』が描かなかった部分を補完するような形で物語が展開して行くのが、この『Lien』という作品ではないのだろうか…ということです。結論を出すまでの過程と苦しみを描いたのが『ONE』だとすると、そうして導き出した結論に対して、実際にどういった生き方をして行くのか、その姿を描いたのが『Lien』なのかもしれません。だから…志郎が死んだこと、幽霊として復活したこと、その後の展開、そして別れ。実は、ゲームとして楽しませる部分はとても多いのですが、本質的にはすでにどうでもいい部分だったりするのかもしれません。なぜならば、すでに結論は出ているわけですから。

『以上』

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