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『観鈴ちんは、最期は幸せだったのか?』

 ハッピーエンドって何でしょう。幸せな結末とは何でしょう。『AIR』のラストを巡って色々な意見が出ているようです。それで……あのラストは、本当に『ハッピーエンドではない』のでしょうか。あるいは『不幸な結末』『バッドエンド』なのでしょうか。そしてこれらの言葉は、同じ意味を持つのでしょうか。

 観鈴は、あの時本当に幸せでした。幸せに包まれながら、その人生の終焉を迎えることができました。その人生は短く儚いものだったかもしれません。しかし彼女自身が語っているではありませんか……。

     「ごめんね、おかあさん…」
     「でもわたしは、ぜんぶやり終えることできたから…」
     「だから、ゴールするね…」

     「ぜんぶ、した」
     「なにもかも、やりとげた」
     「もうじゅうぶんなぐらい…」
     「この夏に一生ぶんの楽しさがつまってた」
     「すごく楽しかった」

     「いろいろなことあったけど…」
     「わたし…がんばって、よかった」
     「つらかったり、苦しかったりしたけど…」
     「でも…がんばって、よかった」
     「ゴールは…幸せといっしょだったから」
     「わたしのゴールは幸せといっしょだったから」
     「ひとりきりじゃなかったから…」

     「やった…」
     「やっと…たどりついた」
     「ずっと探してたばしょ…」
     「幸せなばしょ…」
     「ずっと、幸せなばしょ…」


 ……みすずちんのことを思い出して、悲しくなってきました。それは確かなことです。でもこれだけは言えます。みすずを失って悲しいと思うことは私自身の感傷であって、みすず自身は『幸せ』を手にし、その中で還るべきところへと還って行きました。彼女は幸せだったのです。そのことは、決して間違ってはいないと思います。
 確かに生き続けることで、もっと違った形の幸せを望むことも可能だったのかもしれません。しかしあらゆるものに際限なく貪欲に、全てを求めてすら飽き足らず、永遠に続く物を求めることは愚かです。どこかで終わりが来るのです。そしてその時に、はたして幸せに逝くことができるのでしょうか。そう考えた時、むしろ満足して眠りについた観鈴のことが、羨ましく思えるのは気のせいでしょうか……。
 何事もなく平穏無事な人生を送れるはずだったという前提があるのなら、観鈴の最後は不幸だったとも言えるのかもしれません。しかし本来、今までの『空の少女』たちがそうであったように、観鈴もまた幸せな記憶を手にすることのできないまま、癒されることのないままに輪廻の輪に戻るはずだったのです。従って、得られるはずのない幸せな思い出を手にすることのできた観鈴の最後は、死という不可避の事象をもってしてもなお、幸せな最後だったといえるのではないでしょうか。そしてその幸せな記憶によって癒されたからこそ、『空の少女』の思いは過去の呪縛から解放されることができたのではないでしょうか。それが……『AIR』というお話の最後だったのではないでしょうか。

 晴子さんはどうでしょうか。彼女は確かに観鈴を失いました。その点では不幸と言えなくもないでしょう。少なくとも、愛する人を失うことが幸せの形という事はないでしょうから、これに関しては納得できます。しかし『観鈴を失ったから、晴子さんは不幸な結末を迎えました』と同義ではないと思います。それならば晴子さんはこれ以上、もう前に進んで行くことはできなかったでしょうから。しかし実際には、悲しいだけではない、新しい人生と生き甲斐を見つけ出しました。それどころか『そら』に対して語りかけます。

     「あんたには、翼があるやないの」
     「いかなあかんで…」
     「うちも長い時間かかってしもたけど…」
     「ようやく、踏み出すことできたんやで」
     「いろんなこと変わってしもたけど…」
     「それでも、踏み出せば、どんどん道は続いてる」
     「生きていくんや、うちは」
     「夏は終わったけど、空は果てなく続いてる」
     「うちは歩いていくから…」
     「ずっと、雲追いかけて…」
     「せやから、あんたは飛ぶんや」
     「翼のない、うちらの代わりに…」
     「ひとの夢とか願い…ぜんぶ、この空に返してや」


 これは……悲しみに打ちひしがれた、不幸なだけの人間の言葉とは思えません。彼女を支えているものは、幸せな記憶。優しい思い出。色褪せないもの。
 晴子にとっての幸せとは、観鈴を幸せにすることでした。そしてあの別れの時、晴子は確かに観鈴を幸せにすることができたのです。幸せの中で、安らかな最期を迎えさせてあげることができたのです。観鈴を失ったから不幸なのではなく、観鈴を失ってなお、悲しいだけではない、幸せな記憶にも繋がる別れだったと思うのです。観鈴が本当の幸せと共に逝くことができたから。思い出したくはない……ではなく、いつまでも忘れることなく覚えていたい。思い出すとそれは悲しいことだけれど、それでも安らかな気持ちに還ることができる、そんな得がたい別れだったと思うのです。観鈴を幸せにすることが出来たからこそ、晴子は前に歩いて行けるだけの強さを持ち続けていられる、そんな優しさに包まれた最期だったと思うのです。

『以上』

(以下、2000/9/13 追記)

 さて……更に考えていて気がついたことがあります。どうしてすぐに、このことに気が付かなかったのだろうと、恥ずかしくなりました。

     「ゴールは…幸せといっしょだったから」
     「わたしのゴールは幸せといっしょだったから」
     「ひとりきりじゃなかったから…」


 観鈴は『わたしの』ゴールと言っています。代々の空の少女たちは、誰もゴールに辿り着くことはできませんでした。言うなれば、志し半ばにして悲劇の最期を遂げてきたわけです。……その人生において、何も成さないままに。人が死を迎えるにあたって最も悲しむべきことは、この1点に尽きると思います。

     『自分はまだ、何も成していない』

 この生涯ただ1度きりのはずの悲しみを、空の少女は『無限に』繰り返してきました。その繰り返しの中で、常に自分がゴールには辿りつけないことを経験してきたわけです。そして少女は……今度の自分もまた、そこへ辿りつけないだろうことを知りながら、それでもなお望まずとも、避けることのできないままに同じ悲劇を繰り返して行きます。そこには想像を絶する絶望があると思います。
 けれど観鈴は『そこ』に辿り着くことができました。それは全ての空の少女たちが願ってやまなかった想いの積み重ねの果てにあるものです。そして観鈴は言いました。

     「やった…」
     「やっと…たどりついた」
     「ずっと探してたばしょ…」
     「幸せなばしょ…」
     「ずっと、幸せなばしょ…」


 この瞬間、観鈴が背負っていた全ての空の少女たちの想いもまた、観鈴とともに『幸せな場所』へと辿り着くことができたのでしょう。観鈴自身の旅路の果てに、全ての少女たちが願い続けてきたその場所へ、その背負ってきた想い諸共に辿り着くことができたのだと思います。長い長い悲劇の繰り返しという、絶望にも似た旅路の果てに……。
 そう考えた時、観鈴はどれほどの幸せに包まれていたことでしょう。観鈴という1個人だけの問題ではなく、それこそ1000年もの長きに渡って繰り返されてきた想いを成就した観鈴。神奈に端を発して繰り返されてきた、空の少女たちの大切な人への想いの積み重ね。観鈴と晴子のミクロな視点の幸せ(=そして2人は幸せに暮らしました)ではなく、もっとマクロの視点からの、1000年かけてようやく手に入れた、叶わなかった想い。そう考えた時、あの瞬間の観鈴はこの上もなく幸せだったのではないかと思えました。確かに生きてさえいれば、更に小さな幸せを積み重ねることはできたでしょう。しかし空の少女にとってこれに勝る幸せなど、ありはしないのではないでしょうか。

 みすずちんの歩いた最後の3歩。それは、10mという距離の中の3歩ではなく、1000年という途方もない時間の旅路の果ての3歩だったのでしょう……。

『以上』

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