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『名雪との性行為が回避出来ない事に関する考察』
名雪シナリオにおいては、他の4人のヒロインのシナリオの場合とは異なり、名雪と祐一の性行為を回避する事が出来ないような構成になっています。これは全年齢版でも同様であり、問題となる性行為のシーンそのものは直接的には描かれてはいませんが、実際には性行為が行われた事を暗に示唆した表現となっています。これに関して穿った見方をすれば、全年齢版製作時の労力を可能な限り軽減しただけ(問題となるシーンのみを削除しただけで済ませた)という見方も可能ですが、そうは言っても全年齢版において性行為の存在を仄めかしている事や、そもそもオリジナル版において、名雪だけを他のヒロインとは別格に扱った(名雪だけを性行為が回避出来ないように設定した)何らかの理由が必ず存在すると思えるのです。そこで、どうして名雪シナリオだけは性行為が回避出来ないのかについて考えてみました。なお佐祐理シナリオに関しては、あくまでも番外編的なものとして扱い、今回の考察からは除外して考えます。
まず初めに、名雪シナリオそのものについて考えてみます。
名雪シナリオは、『Kanon』という作品内の5つのシナリオ中で唯一、奇跡や幻想を抜きにしても成立し得るお話であると考えます。(実際には色々と問題点もあって、それが完璧に成功しているとは言い切れませんが…) 何故かと言えば、名雪シナリオでは現実的で日常に立脚した物語が展開されているからです。正直な感想を言えば、事故に遭って大怪我をした秋子さんが、命を取り留める絶対的な必要性すらもないと思うのです。秋子さんの怪我の回復が示す意味は、名雪シナリオのテーマそれ自体においては意味を持たないと考えます。(かけがえのない大切な人を失わずに済む事に意味がない…と言っているわけではありませんので、誤解の無いように注意願います) 要するに秋子さんの回復それ自体は、名雪シナリオのテーマからすれば本質的な要素ではないため、実際問題として命を取り留めようが、帰らぬ人となろうが、どちらでも構わないと言えるのです。ただし名雪シナリオのテーマ以前の問題として、『Kanon』という作品そのものの持つ重要な要素である『皆で一緒に幸せになろう』というテーマがあります。(ここで言う『皆』には、作中人物のみならず『Kanon』のプレーヤーまでもが含まれます) これは個々のシナリオの結末に対して、個々のシナリオのテーマとは別に、その外部から大きな影響を与えています。従って名雪シナリオにおいて、秋子さんの回復あるいは死亡のどちらの結果でも構わないという事であるならば、秋子さんが命を取り留める事で『皆で一緒に幸せになる』という結末に収束するのがシナリオの自然な流れと言えると思います。秋子さんの回復の必然性は『Kanon』という作品全体における正しい方向性の結果であって、名雪シナリオ自身のテーマに対してそれが絶対的な影響力をもつわけではないと考えます。それでは、秋子さんが事故に遭うことそれ自体も、名雪シナリオのテーマにおいては意味を持たないのでしょうか。
そう考えたとき、ひとつのことに気がつきます。一般的には、秋子さんが事故にあうことそれ自体を無意味と考える方々も多いようであり、そのことが名雪シナリオに対する否定的意見となりがちですが、私の考えはむしろ逆です。『秋子さんが事故にあうことそれ自体』にこそ重大な意味があると私は考えます。この重大な意味とは何かと言うと、それは『秋子さんを永遠に失うかもしれない』という、母親離れが出来ずにいる名雪に対して与える『危機感』そのものだと思います。もし母親を失ったとしたら、これからの人生を名雪はどう生きていけばいいのか。その危機感によって名雪に決断を迫り、秋子さんから自立させることが最大の目的であって、すなわち名雪に対して『母親離れ』(=精神的な成長)を促すことこそが、この悲劇的なイベントの最大の目的であったと考えます。その結果、祐一の支えもあって、秋子さんの回復を待たずに名雪は立ち直ります。完璧にではないかもしれませんが、母親から自立した少女の姿がそこにはあったと思います。秋子さんの回復を待ってからの決断では、遅すぎるのです。そして一度立ち直った以上、この時点でもし仮に秋子さんを失っていたとしても(その場合、確かに一時は深い哀しみに包まれるかもしれませんが)、名雪はもう、自分自身を見失う事はないだろうと思います。名雪の心は祐一と共に成長を遂げたのですから。そしてそんな名雪や祐一を祝福し、私達プレーヤーにも『より大きな幸せ』を与えるべく、ただそれだけの理由で秋子さんは回復するのではないでしょうか。それは一つの幸福の形として大団円が描かれたという事であって、秋子さんが助からなければ、名雪の全てが終わっていたなどということは決してないでしょう。
さて、名雪シナリオにおける『通過儀礼』について考えてみます。これは、2つの形で表されていると思います。
1つはもう既に書きました。母親から自立することが出来ずにいる少女『名雪』。しかし少女は母親の庇護から離れ、独り立ちするという形で大人へと一歩近づきました。少女を庇護する絶対的な存在が失われようとしているとき、少女はどうすればいいのでしょうか? 自らの意志で歩き出す事は出来るのでしょうか? …その結果、苦しみ悩んだ末の決断として、名雪は秋子さんから巣立って行く事になります。敢えて水瀬家に父親不在という設定を持ちこんだのも、それを強化するためなのでしょうか?
そしてもう1つは、自ら(=名雪)の内部における変革です。『母親』(=秋子さん)がいて、その『娘』であるところの自分(=名雪)。『母親』(子を生み出せる存在=女性)に対する『娘』(少女=女性に至る手前)という、思春期の『少女』の微妙な立ち位置から、自らも『命』を生み出すことの出来る存在である大人の『女性』へと成長すること。これは単に肉体的な成熟を意味する事ではなく、むしろ精神的な内面の変革を意味します。例えここで不幸にも『母親』(この場合、秋子さん)を失ったとしても、そこから受け継がれた『命』(=名雪自身)が証としてここにあるということを提示し、そしていつか自分も『母親』となり、『命』を繋いで行くということを名雪に理解させます。これに関して言えば、秋子さんに代わって愛すべき対象となった祐一との『性行為』によって、無意識のうちにも名雪の深層意識下に変革への種が蒔かれていたのではないでしょうか。その結果、名雪の内部には『女性』としての『自覚』が、あるいは無意識のうちにではあったかもしれませんが生まれたのだろうと思います。
なお秋子さんと祐一の存在そのものを比較した場合、この2人は等価関係ではありません。ここにも書いたように、秋子さんはいわば1つ前の世代の人間であって、秋子さんと名雪の関係はバトンを渡す者と受け取る者という関係です。どうあっても、共に同じ未来を戴くことは出来ない間柄なのです。当たり前の事ですが親子というものはそういう関係であり、子は親を越えていかなければならないのですから。しかし祐一と名雪の関係は、これとは違います。いわば二人三脚の関係であり、ふたりは共に同じ未来を目指して寄り添い歩く間柄です。この点、誤解のないように御理解願いたいと思います。
以上、この2つの事柄が、名雪にとっての『通過儀礼』にあたると考えます。従って、名雪シナリオにおいては『性行為』は必要不可欠なものであったと考えます。必用不可欠である以上、回避することが出来ないのです。
さて…ここまで、名雪シナリオにおいて性行為が回避できない理由を述べてきました。それでは何故、他のヒロインのシナリオの場合には、性行為の回避が可能なのでしょうか。それは無論、彼女達との性行為に(テーマ的な意味で)絶対的な必要性がないからです。欲求以外の駆動力が、そこでは大きく欠けています。さらに、名雪シナリオの本質は『現実的』あるいは『日常的』と表現しました。…そうです。他の4人のシナリオでは、『非現実的』であり『非日常』と言える表現がされています。そして彼女達には、奇跡を抜きにしての祐一との未来は有り得ないのです。性行為に関して、名雪シナリオの場合と同様の意義を持って表現するとしたら、母となるべき資格のないこの4人に対して、それは容認出来ないという考えが浮かびます。(資格を持たないのは、何も彼女達自身の責任ではありませんが…) 以下、個別に書きます。
最も『非現実的』存在と考えられるヒロインは当然『あゆ』です。いったんあゆの正体を知ってしまったならば、誰しもがあゆとの性行為に対して疑念を抱くと思います。『羽根あゆ』を構成する要素を何であるとするかは難しいですが、意識不明のあゆ自身や、あるいは祐一の生み出した一種の思念体であると仮定するならば、やはり『最後の一線』を越えるのは、構成上望ましくないと考えます。本質的には行為はなかったとするのが、シナリオの流れからは妥当であると思います。
そして何よりも最大の問題点は、行為に結果が伴わない事です。あゆと違って名雪の場合には、行為の結果としての『生産性』が存在します。名雪は、祐一の子供を身篭ることが可能なのです。名雪には、生まれて来る子供の『母親』としての未来が存在するのです。しかし羽根あゆには、どう考えてもその未来の可能性はありません。(羽根あゆではなく、意識が回復した生身のあゆとの行為ならば問題はありません) この行為そのものに、テーマとしてのプラス思考は全くありません。例えそれが、ふたりの『純粋な愛情』からのものだとしてもです。これに関しては、あゆと祐一が『羽根あゆ自身の正体』が何であるか、あゆの実体がどうなっているか、それを知っていたかどうかは問題ではありません。何故ならば、テーマ…すなわち製作側(裏方)レベルの問題であって、『Kanon』という作品内においてそれを容認するか否かの問題だからです。従って、あゆと祐一の純粋な愛情それ自体を否定するわけではありません。ただ…純粋な愛情と結び付くべき要素は、この『Kanon』という作品内においては『ふたりの想いの結晶として成される性行為』ではなく、『より大きな幸せをふたりにもたらす奇跡の成就』であると思うのです。
次は『真琴』です。彼女の実体がそこにあることは、あゆの場合と比べればまだ多少はましとしても…。羽根あゆの場合と同様に、本当の人間として存在しているわけではない真琴との間には、子を成す事は、おそらく不可能だと考えます。真琴はあくまでも、限定条件と時間制限付きでの『人間の女の子』なのですから。真琴シナリオのラストが、真琴復活か否かを推測することは難しいですが、真琴の復活があり得るとするならば(私はそう信じています)、その時は今度こそ『ただの人間の女の子』として帰って来るのでしょうか…。是非、そうあって欲しいものです。従ってあゆの項目で書いたのと同様に、真琴のその後がどうなったのかはともかくとして、あの時点での性行為が『Kanon』という物語において妥当なものであったとは考えにくいです。特にあゆの場合とは違い、真琴はいずれ消えて行く運命にあるという認識の元での行為なのですから。
『栞』の場合はどうでしょうか。彼女の場合は先程のあゆや真琴に課せられていたような、存在それ自体に関する特殊性はありません。しかしあゆや真琴の場合と同様に、栞にもまた未来の可能性がありません。最後に奇跡が起こらなければ、助からなかったはずなのですから。従って奇跡が起きて病気から回復し、復学した栞とのその後の関係についてはどうこう言うつもりはありません。しかし栞シナリオ中でのふたりが結ばれるシーンの段階ではまだ、栞に関してもお腹に子を宿し産み育て、いつか良き母親となる未来の可能性は閉ざされています。しかもその時点での祐一と栞は、お互いにその事を理解した上での行為だったのです。それ故に栞シナリオに関しても、祐一と栞の間の純粋な愛情を否定するわけではありませんが、作品の持つ方向性としてこのふたりの性行為を容認出来なかったのではないでしょうか。
最後は『舞』です。一見すると、4人の中では唯一その存在に関わる特殊性を持ち合わせていません。特殊な力と、それにまつわる哀しい過去を持つという形になっているだけです。しかしクライマックスシーンにおける舞の自殺を『再生を願ってのもの』と考えるならば、あゆや真琴、栞の場合と同様に、今ここにいる舞という存在は、消えるべくして消えて行く運命にある事になります。『あの日』から『現在』に至る複数の未来が存在し、今ここにいる舞はその中のひとつの投影に過ぎないのだとしたら…。(もちろん再生以外の説も考えられますが、今ここにいる舞が失われるという点では同様でしょう) またあの状況下での舞との性行為における2人の気持ちは、あくまでも心に傷を負う事での贖罪的意味合いが強く、愛する2人がお互いを求め合ってのものという、その繋がりを心から欲してのものではないと考えられます。舞シナリオにおいてはこの点が、他の4人のシナリオにおける性行為との大きな違いだと思います。
さらに舞の女性としての精神的な部分は、年齢の序列に反して最も幼いと考えられる点も考慮できます。彼女にとっては、性行為は大人への『通過儀礼』とはならない思うのです。舞シナリオのラストがあの日に帰ってそこからもう一度、別な幸せな未来を取り戻すという形であったと考えるならば、過去の自分とその力を受け入れて別な未来へと歩き出す事で、あの日の少女はやっと一歩前へ歩き出せるようになったばかりなのです。まだようやく大人への入り口に立ったばかりです。5人の中では最年長者でありながらも、そんな舞にとっては性行為というものは最も似つかわしくないと思うのです。
最後にまとめますが、結局のところ名雪シナリオと他の4人のシナリオでは、その方向性が全く逆だと思います。(最後はどのシナリオもハッピーエンドですが…) 従って日常を描いた名雪シナリオにおいては生身の繋がりを描き、非日常を描いた他の4人のシナリオでは生身の繋がりを否定して、その格差をあからさまに示しているのが、名雪以外の4人のシナリオにおける性行為の回避フラグなんだろうと推測します。
さて…こう考えると『Kanon』における真のヒロインは果たして誰なのでしょうか。一般的には『あゆ』と考えるのが妥当であるとは思いますが、『あゆ』の存在はあくまでも物語における鍵であって『過去の思い出の中の人』であり、全ての原点と言えると思うのです。そして物語としての集束点を名雪に求めるとするならば、他の4人のヒロインと名雪の扱いの格差も頷けます。真のヒロインはやはり名雪であったと考える事も不可能ではないでしょう。この場合『あゆ』はあくまでも『思い出の中だけ』に留めておくべき存在であって、攻略対象のヒロインにするべきではなかったように思います。物語における『鍵』であり『影』に徹するべきだったのかもしれません。
以上、名雪を除く4人に関して、その性行為が妥当ではないと考える理由を述べてきました。そしてこれらの理由により、彼女達には性行為の回避フラグが存在するのだと考えます。現実問題として、性行為の通過と回避がエンディングに対して全く影響しないことからも、このような推測が不可能ではないと考えます。
最後に補足をしておきます。実はこの考察の元原稿になった考察をKeyのネタバレ掲示板に投稿した際に、非常に重要な指摘を受けました。要約すると以下のような事になります。
『事情の如何に寄らず、子供を産めない女性は大人になれないという事になってしまう』
『精神的に大人になることと性行為は同一視出来ないと思う』
これはあくまでも誤解だと思うのですが、文章表現が未熟なために私の考えを正確に伝える事が出来なかったのだろうと思います。今回加筆修正するにあたって、本文中に以下の補足文を組み込む事も考えたのですが、文章構成が上手く纏まらなくなりそうだったので、最後に別途記述する形としました。以下…補足文です。
名雪シナリオにおいては、明らかに『母親』と『娘』という図式が存在します。『産み出す者』と『産み出された者』の関係と言い変える事も出来るでしょう。また『息子』ではなく『娘』という点も重要な要素となっていると思います。つまり次世代に『命』を繋ぐ事ができる、『母たる存在』に成長することが可能であるという事を意味します。ただしここで言いたい事は、実際に(物理的に)子供を産めるかどうかという現実上の問題ではなく、『女性』という『性』の持つ本質を意味します。『男性』に対しての『女性』という意味です。
一般的には『娘』(女性)の持つコンプレックスを利用する場合、『父親』(男性)に対するものを採用するのが普通ではないかと思いますが、名雪シナリオの場合はそうではありませんでした。それどころか、母親に対する強すぎるほどの依存心を描くために、水瀬家では父親不在という形態を採用しています。名雪は自分を産み出した存在である『母親』(秋子さん)に強く依存して生きており、その庇護がなければ独り立ちできない状況にあります。しかしそんな名雪にも、いつか母親となる日がやって来ます。『娘』という守られるべき立場から、『母親』という守るべき立場へと変化するのです。とは言え今のままの名雪では、決して『母親』として自立することはできないでしょう。『秋子さん』から卒業し『母親離れ』出来て、初めてそれは達成されるのです。
従って極論すれば、実際に子供を産もうが産むまいが『母親離れ』することが最も重要であって、いつまでも『娘』=『子供』のままではいられないことを自覚することが要求されているのです。またそのような精神面での自覚と自立が問題であるために、一般論として見た場合、例えば病気で子供を産めない身体だからといって大人になれないなどということはありません。言いたい事は、子供を産めようが産めまいが、精神的成長のない人間は(男もそうですが)、いつまで経っても子供だということです。逆に子供を産んだからと言っても、精神的な成長のない女性はやはり『母親』ではなく『子供』と言えます。最近の世の中を見ると、この問題が非常に大きいように思います。精神的に大人になれないまま、年齢だけを重ねた『子供』が『子供』を産んで、『母親』としての『責任』を放棄しているという事件などの事です。彼女達にはそもそも『母親』としての『自覚』は全くなく、従って未だに自立できていない永遠の『子供』なのです。
名雪の場合、今はまだ確かに祐一の支えを必要としているのかもしれません。けれど、秋子さんから卒業する事は出来たように思います。とにかく名雪は、また一歩だけ成長したのです。
なお…性行為自体がそのまま、大人になるためのステップだと言うつもりは全くありません。性行為もまた、その状況と意味付け次第では大人へのステップ足り得るものであって、名雪シナリオにおける名雪の場合は、まさにそのケースに該当したのではないかと考えているということです。名雪シナリオにおける性行為は、名雪が秋子さんから離れて自立するのに必要なきっかけを与えるための、1つの重要な出来事だった(そしてそれは、結果的には不可欠なものだった)と考えています。逆に例え性行為があったとしても、仮に秋子さんから自立出来ないままだったとしたら、その場合の名雪は『大人になれない少女』と言えると思います。
最後になリますが、念のため書いておきます。名雪が子供を産めるヒロインとしたのは『開かれた、存在する未来』に由来します。他の4人のヒロインに関しては、それとは逆に『閉ざされた、存在しない未来』に由来します。ただしこの場合の可能性の問題には、『Kanon』という物語の最後に起こる『奇跡』の有無は考慮に入っていません。あくまでも結果として奇跡が起こった事を知っているだけであって、奇跡が起こる事を知っているわけではないからです。
『以上』
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