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今はお昼。
水瀬家の食卓。
俺の前には…ご機嫌な名雪。
そして俺の隣には…不機嫌なあゆ。
秋子さんはキッチンで…けろぴーは自己都合により不参加だ。
名雪がご機嫌なのにはわけがある。
俺に言わせれば、水溜りより浅いわけとしか思えないが…。
敢えて訊いたなら…
『そんなことないよ』
『海より深いわけがあるんだよ』
…ということになるだろう。
それがどんなわけなのかは…見ればわかるけど。
名雪の手には…真っ赤に染め上げられた、焼き立てのトースト。
とてもわかりやすいぞ。
それさえあれば、いつでもどこでもお手軽に…
名雪は、幸せになれるのだから。
一方、あゆが不機嫌なのにもわけがある。
俺に言わせれば、これもつまらない理由なのだが…。
『つまらなくないよ』
『とても重大なわけがあるんだよ』
…あゆもわかりやすいやつだからな。
反論といっても、この程度だろうと予測がつく。
そもそも誰も…何も…悪くないぞ。
ただ…早めの昼飯を食べ始めていただけ。
それだけだ。
昼飯時に…他所のお宅にお邪魔するお前が悪い。
そうだろう?…あゆ。
そもそも事の起こりは…あゆが昼飯に乱入してきたことが原因だ。
『うぐぅ…お昼ご飯食べてる…』
『どうしたあゆ。デートの約束は午後のはずだろう?』
『待ち合わせは、駅前のベンチだしな』
『…せっかくのデートだから…お昼ご飯も一緒に外で食べようと思って…』
『だから、早めに迎えに来たんだよ』
『そういう事なら、連絡をよこせばよかったんだ』
『俺は朝飯抜いたから、はらぺこだったしな』
『一緒に昼飯を食う約束はしてなかったはずだ』
『というわけで…俺は何も悪くないぞ、あゆ』
『うぐぅ…」
…それだけ。
いいかげんに機嫌直せよ…あゆ。
結局は秋子さんの提案で、あゆも一緒に昼飯を食べていくことになった。
「わ〜い、秋子さんのお料理が食べられるんだね」
…現金なものだ。
本当に、扱い易いやつ。
「あゆちゃんは、何が食べたいの?」
「ご飯もできるわよ」
「ありがとう、秋子さん」
「でもボク、今日は皆と同じくトーストでいいよ」
「あら…そう?」
「じゃあ…準備するから、少し待っててね」
そして秋子さんは、再びキッチンへ。
「あ…俺も、トーストもう一枚お願いします」
「はいはい」
振り向きざまに、優しく微笑んで…キッチンへと姿を消す。
けれど…。
この違和感は…。
秋子さんの瞳が…
笑っていなかったような気がする。
何か…そう…ほんの一瞬…怪しい光をたたえて…。
…考えすぎか。
秋子さんが食事の準備に取りかかると、あゆが名雪に話しかけた。
「ねえ…名雪さん」
「なに? あゆちゃん」
「ボク…やっぱり…名雪さんのこと、なゆちゃんって呼んでもいいかな?」
名雪…。
見てるほうが恥ずかしくなるから…。
そんなに赤面して…嬉しそうな顔をするなよな…。
顔を赤らめて…少し照れた名雪は…
「うん。いいよ」
「じゃあこれからは、なゆちゃんって呼んでね」
「うん…そうするよ」
それにしても何時の間に…こんなに仲良くなったのか。
端から見ても、仲良しのふたりだった。
まあ何はともあれ、名雪の数少ないささやかな野望は…
これでひとつ、達成されたことになるわけだ。
…とそこにキッチンから。
秋子さんの声がする。
「よかったわね、名雪」
秋子さんって…本当に…地獄耳…。
…とか思っていると…
続けざまに…
「わたしもね、昔はあきちゃんって呼ばれてたのよ」
「姉さんは今でも、そう呼んでるけど」
と…話題に参戦してくる。
「うわ〜可愛いよ、秋子さん。あきちゃん…か…」
あきちゃん。
確かに…可愛い呼び名だ。
だが…。
「でも流石に、俺たちはあきちゃんとは呼べませんけどね」
当たり前だ。
年上で…お世話になっている人で…。
もちろん…年齢的にも…。
「そうかしら…少し残念ね…」
秋子さんってば…本気ですか?
…とは言え…
「でも…名雪がなゆちゃんで、秋子さんがあきちゃんか…」
「わかる気はするな…」
俺が呟くと…
「で、ボクがあゆちゃんなんだよね」
「お前はまんまじゃないか。芸がないな」
「うぐぅ…祐一くん、酷いよぅ」
あゆがすねた。
…とそこへ…
「さあ。できたわよ」
秋子さんが、トーストとお惣菜とミルクを運んでくる。
そう言えばあゆは、猫舌だったっけな。
「ありがとう、秋子さん」
「あら。あきちゃんっては呼んでもらえないのかしら…」
「…え?」
「…冗談よ」
…マジで残念そうである…。
秋子さん、どこまで本気なんですか?
秋子さんのフェイントに気を取られている間に…
お盆のまま食べ物を置いて、秋子さんはキッチンへと戻って行った。
さっそくあゆは、トーストに手を伸ばしている。
「いただきま〜す」
…その時。
秋子さんのフェイントに気を取られたせいで…
それに気がつくのが少し遅れたのだ。
俺は小声であゆに話しかける。
「あゆ…その物体はなんだ?」
「トーストだよ?」
「それは…見れば…わかる…」
「おいしそうだよねぇ」
思わず名雪の方を見る。
視線が重なる。
頷く名雪。
緊張が走った…。
「わたし…急用を思い出したよ」
「ごちそうさまでした」
嘘をつけ…。
しかし俺も…。
「用事を思い出した。じゃあな、あゆ」
名雪に続いて席を立とうとする俺。
しかししっかりと、あゆに袖を掴まれる。
「祐一くんの用事って、ボクとのデートだよね」
「あ…ああ』
思わずどもる。
「だから…先に行って準備しておくぞ」
準備…?
我ながら、意味不明な言いわけだ。
「そんなもの、ひつようないよね」
「せっかく迎えに来たんだから、一緒に行こうよ」
「それに…祐一くんのトーストもまだ、来てないよ?」
それが来てからでは遅すぎる…ような気がする。
いや…もはや遅すぎた。
あゆの分に続いて、俺の分のトーストを焼き上げ…
秋子さんが食堂に戻ってきた。
「さあ…召し上がれ」
ああ…神様…。
「いただきま〜す」
あゆの口へ運ばれるその物体。
黄昏色の色彩を放つ…鮮やかなオレンジ色。
逢魔ヶ時の色を映し出した…魔性のトースト…。
(この色は…魔界に一番近い色なのかもしれないな…)
覚悟を決めた俺は…ふとそう思う。
俺の前に差し出された、同じ色の物体。
もはや…回避は不可能の状況だ。
考えてみれば、あゆがトーストでいいと言った時の秋子さん…。
あれはまさしく、獲物を狙う狩猟者の瞳。
あゆに謎ジャムを食べさせる千載一遇の好機。
それを黙って見過ごすほど、秋子さんは甘くはなかったのだ。
そして…それを見ぬけなかった俺。
「わたしの自信のジャムなのよ」
にっこり微笑む秋子さん。
優しい笑顔で…。
悪意は少しも感じられないけれど…。
「おいしいから…きっと驚くわよ?」
おそらく本気で…そう信じているのだろう。
けれど…。
なかなか誰も食べてくれないジャム。
それを食べてもらうために…。
ふともう一度、秋子さんを見る。
悪戯っぽく笑って…。
まるで子供のような無邪気な感じで…。
…。
確かにそこには…童心に還った…『あきちゃん』が…いた…。
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補足:
このSSでは、あゆは謎ジャムを知らないという設定です。
あゆシナリオにて、あゆが謎ジャムを食べる件がありますが、
秋子さんSSを書くという構成上と面白さの点から、このような設定としました。
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