………………………… 戻る ……
… 1 ……………
…夢。
…夢を見ていた。
その夢の中では…
とても辛いことがあって…
とても哀しいことがあって…
とても切ないことがあって…
たくさん…たくさん…いろいろなことがあって…
泣きたくて…
身体を震わせて…
胸が引き裂かれるような思いをして…
けれど…
最後には…
わたしの想いが報われて…
お互いの想いが通じ合って…
大好きなあの人とふたり、幸せになるという…
…哀しい…夢…だった…。
そして…
わたしは、もう知っている。
そんな幻想の世界なんて、本当の幸せではないことを。
たとえどんなに幸せな夢を思い描いたとしても…
それは、決して叶えられることのない哀しい夢。
ただの…まぼろし。
…いつわりの…世界。
たとえ本当の世界で、どんなに辛い想いをしたとしても…
あの人のいない世界になど、なんの意味もない。
そんな幻想の世界になど、なんの価値もありはしない。
あの人のいる世界で、ともに生きること。
おなじ風景を見て…
おなじ風の匂いを感じて…
おなじ空に抱かれて…
そこにある、美しい世界を共有すること。
たとえその隣には、いられなくても…
共におなじ人生を歩むことはできなくても…
この世界には、あの人がいて…
そして…わたしがいる。
だから…違う世界になど、価値はない。
あの人の存在しない世界になど、本当の幸せはない。
あの人が幸せでいて…
あの人とおなじ世界を共有すること。
あの人が感じるものを、わたしもおなじように感じること。
それが…わたしの…幸せだったんだ。
そしていつの日か…
新しい幸せを…見つけてみせる。
別な幸せを…つかんでみせる。
あの人から独り立ちして…。
だから…わたしには…
そんな嘘の世界など、必要はなかったんだ。
違う世界を望んでは…いけなかったんだ。
わたしは…そんな簡単なことに…
本当に、今の今まで気がつくことができなかった。
けれど…私はもう知っている。
だから…。
…だから…わたしは…。
… 2 ……………
祐一がこの街へやってくるのは、本当に久しぶりのことだった。
最後にわたしと祐一が会ったのは、7年前の冬。
そして、それ以来の再会ということになる。
祐一の両親が仕事で急遽海外へ行くことになり…
叔母であるわたしのお母さんが、祐一の身柄を引き受けたからだ。
7年前まで祐一の家族は、電車で数時間のところにある街に住んでいた。
多少離れてはいるが、決してお互いに行き来できない距離ではなかった。
だから学校が長期休暇の時期になると決まって…
祐一は、わたしの家に泊りがけで遊びに来ていた。
それこそ…休みの間中ずっと…という感じで。
陰には、祐一の両親が留守しがちだという事情もあったためだ。
だからわたしと祐一はいとこだけど、半分は姉弟みたいなものだった。
それほど、わたしたちの仲は良かった。
そして…いつの頃からか…
わたしの心は、祐一のことだけを見つめていた。
いとこでも…姉弟でもない…
ひとりの女の子として…祐一だけを…心に想っていた。
けれど…7年前の冬。
祐一の家族は、両親の仕事の都合で…
遠くの…
本当に…遠くの街へ…引っ越していった。
とても子供がひとりで行き来などできないくらい遠くの街へ…
そしてそれ以来、祐一がこの街へ来ることはなかったんだ。
そう…
7年前の…あの冬の日から。
7年前の冬の日。
祐一は、この街でひとりの女の子と出会った。
その女の子の名前は「月宮あゆ」ちゃん。
それ以来…
祐一は、わたしといるよりも…
その子と一緒にいることのほうが多くなっていた。
そしてわたしは気がついたんだ。
それが…祐一の…初恋であることに。
そしておそらくは…彼女の方も…そうなのだろうと思う。
けれど…。
ならば…わたしのこの想いは…
祐一のことを想い続けたわたしの気持ちは…
…どこへ行けばいいのだろうか。
そんなの…あまりにも酷すぎる。
だからわたしは…
ふたりの気持を知りながら…
あの子よりも先に、祐一に告白したんだ。
本当は告白することで…
今のふたりの関係が壊れてしまうことが怖かった。
他のなによりも…本当に…怖かった…。
けれど…
祐一は…優しいから。
優しい…祐一のことだから。
もしかしたら…わたしの方を見てくれるかもしれない。
おそらく祐一は、今の自分の気持ちにまだ気がついてはいない。
自分の初恋に…あの子への想いに、まだ気がついてはいない。
だから…先に告白してしまえば…
そうすれば…
きっと祐一は、わたしだけのものになる。
あの日のわたしは、本気でそう思っていた。
それがどんなに卑怯な手段であろうとも…
それがわたしの精一杯だったんだ。
だから…あの雪の降る日…
わたしは…祐一に…告白したんだ。
ありったけの想いを…祐一に告げたんだ。
けれど…。
『ごめんな、名雪』
『おれ、好きな子がいるんだ』
…そう。
祐一は、すでに自分の想いに気がついていたんだ。
『おれ、あゆのことが好きなんだ』
『名雪にだけは、本当のことを言わなくちゃな…』
『名雪だって勇気を出して、おれに気持ちを打ち明けてくれたんだもんな』
『でも…ごめんな、名雪』
『そして…ありがとう…』
…。
…惨めだった。
こんな最低の告白、しなければよかった。
けれど…ふられたことが惨めなわけじゃない。
卑怯だと知りながら告白して…砕け散ったことが…
そんな…醜い自分が、あまりにも惨めだった。
…惨めだったんだ…。
… 3 ……………
雪が…ふたりの上に降り積もる。
こんな醜い心を隠してしまえるのなら…。
…。
『名雪…』
不意に祐一が声をかける。
『ほら…名雪うさぎだ』
俯いていた視線を上げる。
そこには…
見つめる視線の先には…
祐一の手のひらの上…
雪うさぎ…。
『名雪、雪うさぎ好きだったろ』
『祐一特製の、名雪うさぎだぞ』
それが…祐一の慰めだと知っている。
けれど…その時のわたしには…
それを受けとめるだけの心の余力は、もうどこにもなかった。
なかったんだ…。
…。
純白の雪うさぎ。
穢れのない、雪の結晶。
純粋な、想いの結晶…。
今のわたしほど…
今の醜いわたしほど…
これに似つかわしくないものはないと…そう思ったから。
こんな穢れのない雪うさぎは…わたしなんかじゃないと…
そう思ったから。
本気で思ったから…。
だからわたしは…。
…。
そうして…
冬の街に一瞬だけ生れ落ちた名雪うさぎは…
わたしの想いそのままに…
わたし自身の手で…
わたし自身の穢れた手で…
冬の街に…砕け散って…儚く消えた…。
そうしてそれっきり…
わたしと祐一は口をきくこともないままに…
この冬の日に別れを告げて…
それぞれの生活へと…帰っていったんだ…。
そしてこの時…わたしは願ったんだ。
あの子さえいなければ…
あの子と祐一との出会いさえなければ…
ううん…
いつかふたりは…必ず出会う運命だったのかもしれない。
ならば…
あの子さえいなくなれば…。
そしてその時、祐一のそばにいるのがわたしだったら…。
その時は…。
その時こそは…。
…。
けれど…それ以上…
どうすることもできないまま…
わたしは…なにもできないまま…
時は流れて…
時だけが流れて…
わたしの想いは心の奥底の澱となったまま…
祐一との再会は…
大好きだった人との再会は…
心の空白を埋められないままに…果たされたんだ…。
…。
祐一は、7年ぶりにこの街へ帰ってきた。
けれど…
その隣にいる女の子は…
やっぱり…わたしじゃなかったんだ…。
7年前とおなじ…
何も変わらなかった。
何も…変わらなかったんだ…。
… 4 ……………
わたしがあゆちゃんと再会したのは、この高校へ入学してからだった。
クラスメートとして…。
小さな街だから…
決してあり得ないことではなかったけれど…
それでもそれは…わたしにとって…
本当に…予期せぬ偶然だった。
7年ぶりのことだった。
だって…あの日以来、お互いに連絡を取り合うことなどなかったのだから…。
わたしたちは…
7年前のわずかな時間を…
祐一をまんなかにして…
3人…あの冬の日を駆け抜けた…。
わたしたちは、ただそれだけの関係だったのだから…。
祐一があってこそ、成立していた繋がりだったのだから…。
そして…
わたしたちはお互いのことを何も知らなかったから…。
もちろんあのベンチで待っていれば、偶然会うことはできただろうと思う。
もしかすると彼女は、あの後も…
わたしのことを待って、毎日のようにあのベンチまで来ていたかもしれない。
けれど…
それを拒否したのは、わたしの方だったのだから…。
あの冬の日から…
雪うさぎと共にわたしの想いが砕け散った…あの日から…
わたしがそこへ足を運ぶことは、なかったのだから。
だから…わたしは…あの子のことを避けた。
避け続けた。
はじめは何か言いたげな素振りを見せていたあの子の方も…
いつしか…
そんなわたしの態度に気づき…
あの子の方もそれを察してくれたのか…
わたしたちがお互いの時間を…
お互いの空間を…共有することは…なかった…。
祐一が…この街へ戻ってくるまでは…。
祐一とわたし、そして彼女が同じクラスになるまでは…。
祐一とあの子の距離が近づくのに、それほど時間はかからなかった。
もともとお互いに、想い合っていたのだ。
再会さえ果たせば…あとは…
本当に自然な成り行きだったということなのだろうか。
そしてわたしは…
自分の心の空白は…
そのままで…空白のままで…
残されていたことに…今更ながらに気がついたんだ…。
そしてその空白は…
埋められることがないままに…
他のものがその隙間に入り込んでくるのを…
胸を痛めながら…切なく感じていた…。
そしてあの日…。
ふたりの姿を見てしまった…あの日…。
ふたりの影がひとつに重なって…そして…
ふたりが本当の恋人同士になる姿を見てしまった…あの日…。
… 5 ……………
視界が滲む。
涙で…全てが歪む。
そして…歪んだ光景が…
どんどん…うしろに流れて行く。
もう…何も考えられない…。
ただ…この場にだけはいたくない。
それだけの想いで…。
そして…。
…。
……。
…。
『名雪!』
誰かに呼ばれたような気がした。
…誰?
…お母さん?
…お母さんの…声…?
全身に衝撃が走る。
初めに背中に…
そして…
少しおいて…腕と…膝と…頬と…。
頭がくらくらして…
何が起きたのか、わからないままに…
もの凄い、大きな音を聞いたような気がした…。
…そして…誰かの…悲鳴…。
『わたし…転んだんだ…』
ひとり…呟いて…
ゆっくりと…起きあがって…
振り向いて…
そこは…赤い世界。
いや…白い世界に紛れ込んだ…
鮮やか過ぎるくらいの…夕焼の…赤…。
血の…赤…?
…。
『わたし…?』
…。
…わたしじゃない。
わたしの血じゃない。
お母さんの…
お母さんの…血…。
『お母さん…どうして…』
…。
…なぜここに…お母さんがいるのだろうか。
…なぜお母さんが…ここで倒れているのだろうか。
…なぜ倒れて…真っ赤な血を流しているのだろうか。
何も…わからない。
…。
…いや…違う。
わかる。
わたしには…わかる。
ただ…刹那…
真実から…目を背けただけ…。
…そう…
見てはいけないふたりの姿を見てしまったわたしは…
抜け殻となったまま…この冬の街をさまよって…
この場所へ…やってきた…。
道路のまんなか…
無意識の足取りで…
とりつかれたように…
赤信号…
呼びとめる…お母さん…
何も考えられないまま…
向かってくる車…
お母さんに背を向けて…
そのままわたしは…
そして…。
…全てが…繋がった。
お母さんが…わたしの身代わりになったんだ…。
…わたしのことを…突き飛ばして…。
… 6 ……………
それからのことは…よく覚えていない。
けれども…
いちどは全てに絶望して…
そして…
わたしは…
夢を見たんだ…。
幸せな…夢を…。
心の奥底で…願った夢を…。
自分の都合のいいように…
想い出を書き換えた…
現実ではない…もうひとつの世界を…。
…。
その夢の中でわたしは…幸せだった。
辛いことや…
哀しいことや…
切ないことが…たくさんあったけど…
最後は…祐一とふたりしあわせになるという…
…幸せな夢…だった。
わたしは…そんな幸せな夢を…願ったんだ…。
でも…
気がついたから…。
それは…本当の幸せではないことに…。
嘘の幸せ…
哀しい夢であることに…。
そこには…本当の祐一はいなくって…
わたしの幸せも…そこにはないことに…。
そこは…
自分の罪と過ちを…
嘘で都合よく塗り固めた…
まやかしの世界であることに…。
…全てに…気がついたから…。
…。
だから今…わたしは…ここにいる。
「わたし…馬鹿なことをしたね」
「本当に…馬鹿だったね」
「ごめんね…祐一…心配かけて…」
「でも…もう大丈夫だよ」
「わたし…わかったから」
「気がついたから」
「わたしにとって…本当の幸せはなんなのか…」
「だから…もう…わたしは大丈夫だよ」
「もう…こんな馬鹿なことはしないよ」
「絶対にしないよ」
「だから…ごめんね…祐一」
「ごめんね…あゆちゃん」
「でも…今だけ…ひとりにしてくれるかな…」
「泣き顔…見られたく…ないから…」
「泣き終わったら…昔の名雪に…戻れるから…」
「全部流れて…溶けて…消えてしまうから…」
「だから…」
…。
…そして。
…わたしは…ひとり病室に残された。
おもいきり泣いた。
たくさん泣いた。
万感の想いを込めて…泣いた。
全てを出し切るまで…
全てが消えてなくなるまで…
わたしを縛り付けてきた…全ての呪縛が断ち切れるまで…
泣いて…泣いて…そして…泣いた…。
泣き疲れて眠ってしまうまで…泣いて…
全てを想い出に変えて…心の奥底に整理して…
そして…
ようやく…
ふたりの前で…笑うことができたんだ…。
昔のわたしのように…。
初めて祐一と出会った頃のように…。
この手首の傷の痛みが癒えるころには…
きっと…わたしの周りにも…新しい風が吹くことだろう。
過ちを刻み付けたこの傷は…一生消えることはないだろう。
けれど…この傷を見るたびに…
この傷の痛みを思い出すたびに…わたしは想うのだろう。
どんなに辛くても…
哀しくても…切なくても…
幸せはこの世界のどこかにある。
そして…この世界から目を背けない限り…
いつかそれを見つけ出すことができるのかもしれない。
そのための方法は…いくらでもあるはずだ。
きっとそう思う。
もう後ろ向きに生きるのはやめたのだから。
だから…今…この世界にあることが…幸せなんだね…。
そうなんだね…祐一…。
…。
『あなたに出会えて…良かった…』
『本当にそう思うよ』
『ねぇ…祐一?』
『わたし…きっと…幸せになれるよね…』
『…なれるよね…』
…どこか遠くの空から…
『…ああ』
優しい…声が…聞こえたような気がした…。
「本当に…大好きだったんだよ…祐一」
………………………… 戻る ……