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     § 1





香里が『俺たち』の前から姿を消してから、もうだいぶ時間が経っていた。

俺と汐里…『俺たちふたり』の前から姿を消してから…。

そして今となっては…
香里のことを覚えている者は、『俺たち』以外には誰もいなくなっていた。

そんな少女など、始めから存在しなかったとでも言うかのように…。



1度だけ、名雪に問いただしたことがある。

  「香里のことだけどな…」

だが名雪の返答は、俺が想像した通りのものだった。
意外そうな表情を浮かべながら俺に返す。

  「…かおり? 誰のこと?」

香里の1番の親友だった名雪ですらもが、香里のことを覚えていない。
そんなことが…本当にあるのだろうか…。

  「クラスメートの香里」

  「お前の1番の親友の、美坂香里のことだ」


そこまで言って初めて、何かを思い出したような表情をする。

その時の名雪は、少しだけ哀しそうな顔をして…
心の奥底の痛みを思い出したような、辛そうな視線で俺を見る。

  「そう…香里…のこと」

  「でも…どうして祐一が…」

名雪の記憶の中には、確かに『美坂香里』という少女が存在した。
それは、遠い日の哀しい記憶。
辛い思い出…。

そして名雪と同じように…
香里のことを思い出してくれるクラスメートもいた。
けれど…返ってくる答えは同じ。
同じだった。

それは…ずっと昔に時を止めてしまった、ひとりの少女の思い出。
季節の移り変わりと共に過ぎ去ってしまった…
胸の痛むような記憶の欠片。

だから『俺たち』が知っている『美坂香里』という少女のことだけは…
『俺たち』と共に同じ時間を過ごしたはずの少女を覚えている者は、誰もいなかった…。

『美坂香里』という少女。
俺たちの前に確かに存在したはずの、ひとりの少女。

消えてしまった少女。

始めから存在しなかったはずの少女。



彼女の真実は…すでに遠い思い出の彼方にだけある。

俺と…汐里の心の中だけに…。



  「祐一、今日は汐里ちゃんとデートなの?」

  「ああ。夕食は外で食べてくるから、必要ないと秋子さんに伝えてくれ」

  「うん、わかったよ」




今、俺は汐里と付き合っている。

『美坂汐里』という名の少女。

香里の妹…だった…はずの少女。

…いや、違う。
香里という姉がいたはずの少女だ。



そう…。

確かにあの冬の日、俺たちの前には『美坂香里』という少女がいた。
夢でも…幻でもなく。

この雪の街で出会って…
栞を想う俺の背中をそっと押してくれた…
そして…栞の哀しみを想って、俺の胸で大粒の涙を零したひとりの少女。

笑顔で…全てを俺に託してくれた少女。

…俺の心の中に、今も鮮明な面影を残すひとりの少女。

少なくともあの頃の俺たちにとって…
現実に存在したはずの…
…哀しい少女。

その思い出は、今も俺たちふたりの心の中に残されている。
だから…『美坂香里』という少女は、確かに俺たちと共にここにいた…。

俺は…そう信じている…。

哀しい思い出と過酷な現実に目を背け…
未来への希望を閉ざして生きていた『栞』という名の少女と共に…。





     § 2





     夢を見た。
     お姉ちゃんの夢。
     大好きな…大好きなお姉ちゃんの夢…。

     だけどそれは…とても哀しい夢…だった…。




私は昔から、体の弱い子だった。
ちょっとしたことで体調を崩しては、入退院を繰り返していた。
そんな私のことを、いつだってお姉ちゃんは優しく見守っていてくれた。

お姉ちゃんは、どんなときも私のことを1番に考えてくれた。
いつも私のそばにいてくれた。
優しくて、美人で、頭も良くて、何でもできるお姉ちゃん。
私はそんなお姉ちゃんを、誇りに思っていた。

そして私は、そんなお姉ちゃんの『1番』でいられることを嬉しく思っていた。
とても幸せなことだと思っていた。

私は…誰よりも、お姉ちゃんのことが大好きだった…。

…なのに。



中学3年生の秋。
もう少しで文化祭が始まるという、少し肌寒い季節。
私は美術部の生徒として、文化祭に展示するための絵を描いていた。

そのころの私は体調もよく、以前からは考えられないくらい元気でいられた。

  「美坂さんの体調も、この頃はだいぶ良いみたいですね」

  「それで安心してしまってはいけませんが、この分なら念願通り高校へも進学できますよ」

  「でも…決して無理はしないようにね」


…そんなお医者様の言葉が、何よりも嬉しかった。

お姉ちゃんと一緒に、憧れの制服を着て同じ高校へと通う。
小さな頃から、ずっと夢見てきたことだった。

小学生の頃に見た、制服姿の高校生のお姉さんたち。
街を行く姿がとても大人びて見えた。
…本気で憧れた。

だからお姉ちゃんと約束したんだ。

  「一緒にあの高校へ入って、ふたりであの制服を着ようね」

  「ね…お姉ちゃん」


そして…お昼休みには、手作りのお弁当を広げてふたりで食べる。
学校帰りは、お気に入りの喫茶店で甘いものを食べて…。
夕焼けの中、好きな人の話をしながら帰る…。

長く延びる影…
夕陽に赤く照らされて…
私を振り返る…お姉ちゃんの笑顔…。

そんな他愛もない日常が、私の憧れだった。
憧れだったんだ…。



順調に中学へ通えるようになったのは、本当に最近になってのことだった。

けれど…お姉ちゃんがまだ在学中だった2年生の頃までの私は…
満足に、学校へ通うことすらできない子だった。

だから…私には、中学生活の思い出らしい思い出がなかった。
小学生の頃と同じように…。

お姉ちゃんとの思い出も…。
クラスメートたちとの思い出も…。
大切な友達や、好きな人との思い出も…。

…私には、何も残されてはいなかった。

それでも私は…
勉強だけは、他の子に遅れないように一生懸命頑張った。

お姉ちゃんが高校で待っていてくれるから。
いつまでも、お姉ちゃんのそばにいたかったから。
お姉ちゃんの優しい背中を、ずっと追いかけたかったから。

だから…自分にできる精一杯で頑張った。
お姉ちゃんも、自分の時間を割いてまで私の勉強を見てくれた。
中学の先生たちも、私の足りない出席日数を補うために陰日向に力になってくれた。

だから…私は頑張ったんだ…。

そして…もうひとつ…。
中学生活の思い出を作ることのできなかった私にとって…
文化祭に参加して絵を展示することは、中学生活最初で最後の夢となっていた。

だから…一生懸命、心を込めて絵を描いた。
大好きなお姉ちゃんの絵を…。

  「汐里、何を描いているの?」

  「やだな〜、お姉ちゃん」

  「まさか…人物画…ではなさそうね。それにしては色使いがシュールだし…」

  「私がどうしても描きたい絵だもの、お姉ちゃんに決まってるよ〜」

  「…」


そんな他愛もないやりとり。
夢のような時間。

それがあまりにも楽しかったから。
時の経つのも忘れるくらい、幸せな時間の流れだったから。
私はいつしか、絵を描くことに夢中になるあまり無理を重ねていた…。

自分でも気がつかないままに…。





     § 3





私は…文化祭に間にあわせるために、一生懸命に絵を描き続けた。
お昼休みや放課後の美術室で…そして自分の家で…。
少しずつ完成していくお姉ちゃんの絵。
この調子で描き続ければ…。

  『もう少しで完成だよ、お姉ちゃん』

あと…少しで…。



  「汐里。少し顔色が悪いわよ」

心配そうに私を見つめるお姉ちゃん。

  「え〜、大丈夫だよ〜」

本当だった。
不思議なくらい、辛さは感じなかった。

  「なら…いいわ。でも無理はしないようにね」

言いだしたらきかない私の性格をよく知っているお姉ちゃん。

溜息をひとつ吐いて…
それでも応援の言葉をかけてくれる。

  「文化祭に間にあうといいわね。お姉ちゃん、楽しみにしているわ」



そう…その頃の私は…
気持ちが張り詰めていたから、何も苦しくはなかった。

けれど私の身体は…
いつしか疲労の極限に達していた…。

自分でも気が付かないままに…
気力だけで支えられる限界を越えていた…。



美術室で倒れた私は、そのまま救急車で病院まで運び込まれたらしい。
私は意識を失っていたから、その時のことは覚えていない。



  「美坂さん、いくら体調が良かったとはいえ、それは一時的なものです」

  「あなたの体は決して丈夫ではないのだから、無理はいけませんよ」


先生に叱られる。
でもそれは、愛情からの叱責。
幼い頃からお世話になっている大好きな先生。
本気で私のことを心配してくれているのが、痛いほどわかる。

だから私は…。

  「ごめんなさい、先生」

  「でも…あの絵だけは、どうしても完成させたかったんです」

  「文化祭にだけは、どうしても参加したかったんです」

  「だって私の中学生活には…」

  「何の思い出も残っていないから…」




けれど…もう、絵を描き続けることはできないだろう。
こうして倒れてしまったからには、これ以上のわがままは許されない。

そしてなによりも…
これ以上絵を描き続ければ…
またみんなを心配させてしまうから。
大好きな人たちに迷惑をかけてしまうから。

…それがとても辛いから。

でも本当は、お姉ちゃんの絵を完成させたかった。
みんなに絵を見てもらいたかった。

どんなにお姉ちゃんのことが大好きなのか…
その私の想いの全てを込めて描き続けた絵だったから…。

だから…そのことだけが少し哀しかった…。

  「ごめんね、お姉ちゃん」

  「お姉ちゃんの絵、文化祭には間にあわなかったよ…」


そっと呟いた…。



  「そうそう、香里ちゃんには私の方から連絡をしておいたわよ」

  「高校が終わったら、直接様子を見に来るって言っていたわ」


先生が教えてくれた。

学校で倒れることの多かった私は、いつもこの病院へ運び込まれていた。
だからその度に先生は、お姉ちゃんに連絡をしてくれていた。

最近は私が倒れることもなかったので、しばらくなかったけれど…
先生は、そのことを覚えていてくれたらしい。

  『ごめんね、お姉ちゃん』

  『また…心配かけちゃったね』


少し心が痛む。

けれど…
その時の私は、その先に待ち受けているものを知らなかったんだ…。
本当の『心の痛み』というものを…。





     § 4





…あの子が学校で倒れた。

その知らせを担任の先生から聞かされて、私の心は凍りついた。

最近はあの子の体調もよく、倒れることなんてなかったから…
心臓が止まるかと思うほどにショックだった。

おそらく倒れた原因は、絵を描くために無理をしすぎたからだろうと思う。

もしそうだとすれば…

  『ごめんね、汐里。お姉ちゃんのせいね…』



最近のあの子は元気だったから…
私もついあの子を甘やかしてしまっていたのかもしれない。

あの子の体は、決して良くなったわけではない。
ただ…この頃は、体調が安定していただけ。
それもあくまでも一時的なものだった。

そのことは、充分に理解していたはずなのに…。

あの子の元気な笑顔を見て…
好きなことに打ち込んでいるあの子の姿を見ていたら…
せめてあの絵が完成するまでは、影ながら応援してあげよう…そんな甘えがあった。

あの子のためを思うなら…

  『あの時、無理にでも止めるべきだったのかもしれない…』

もしそうならば…
あの子の体調に気づいていながら、止められなかった私の責任だと思う。
いつもあの子のそばにいて、あの子のことを1番わかっていたつもりだったのに…。

  『ごめんね、汐里。お姉ちゃんを…許して』



本当のことを言えば、私の心にも迷いがある。

好きなこともできずに、夢も希望もなくただ日々を過ごすだけ。
そんな人生に何の意味があるのだろうか。

ならば…好きなことをさせてあげるのが…
それがあの子にとっての1番の幸せなのだろうか…。

今の私にとっての幸せは、あの子の笑顔を見ること。
あの子がいつも笑顔でいられるように、力になってあげること。
そのとき初めて私自身も幸せを感じられるし、笑顔でいることができるから。

けれど…

  『一時の感情に流されて、汐里を失うことはできない…』

そう思う。

あの子が本当に大切だから。
あの子のことを、心から愛しく思うから。

だから…私も辛い。
思い悩むこともたくさんある。

このまま何もできずに、病気と戦うだけの人生が続くのだとしたら…。
あの子を待ちうける未来が、ただそれだけのものならば…。

もしそうならば…。

  『あの子、なんのために生まれてきたの…』



答えの出ない問いかけを胸に抱えながら…
通い慣れた道を急ぎ足で、汐里が運ばれた病院へと向かう。

…何度この道を歩いたことだろう。
あの子が倒れる度に、繰り返し通った病院への道。
この道から見える風景は、辛い思い出を甦らせるから嫌いだった。

そして…いつしか私は、無意識のうちに駆け出していた。
ただ汐里の無事だけを祈りながら…。





     § 5





     夢を見た。
     お姉ちゃんの夢。
     大好きな…大好きなお姉ちゃんの夢…。

     だけどそれは…とても哀しい夢…だった…。

     そして…
     哀しいまでの目覚め…。

     それとも…この現実こそが夢なのだろうか…。




美術室で倒れた日から、私の体調は日を追うごとに悪くなっていった。

けれど…お姉ちゃんと一緒に同じ高校へ通うこと…。
その想いだけが、『今の私』を支えていた。
だから…その夢のために頑張った。

たとえ高校に入学できたとしても…
今の私ではおそらく、満足に高校へ通うことはできないだろうと思う。
それほどまでに、私の身体は急激に衰弱しつつあった。

でも…なぜか『そうしなければいけない』と感じていた。

だから…自分にできる精一杯で頑張った。
何も思い残すことなどないように…。



そして私の積年の想いは…

  『お姉ちゃんと同じ制服を着て、同じ高校へ通うこと』

私を支え続けてきたそのひとつだけの想いは…
たった1日にも満たない間だったけれど…叶えられたんだ…。

だから…私はもう、思い残すことなんてない。

あとはもう…お姉ちゃんに幸せになって欲しい。
ただそれだけを願う。



なのに…なんでこんなに哀しいのだろう。
自分でもその理由がわからない。

心の奥底から滲み出てくる、この哀しみのわけは何だろう。
涙が溢れて止まらないのに、その理由がわからない。

何がどうなっているのか、全くわからない。
ただ…哀しみだけが、心の奥底から溢れて止まらない。

涙で霞むその場所には…
認めたくはない現実が眠っている…
そんな想いだけが、強く私の心を責め苛んでいた…。

本当の幸せは…
抱きしめていたはずの温もりは…
確かにいつか感じていたはずの腕の中の温もりは…

何だったのだろうか…。

そしてそれは…

…どこへ消えてしまったのだろうか。



何度となく問いかける疑問。
私は…いったい何のために生まれてきたのだろう…。

全てが空虚だった。
生きる目的を見出せない私は、全てが辛く哀しかった。

死ぬことは怖い。
けれど…私は何のために生きているのだろう。
そのことを思うとき、死という現実に対してすら誘惑を感じていた。

死を選ぶこと。

全てが終わること。
苦しみから解放されること。
哀しみのない世界へと旅立てること。

だから私は…手首を切った。



けれども…そこまでだった。

気がついてしまったから。
今の自分があまりにも惨めなことに。
何も残せないまま、ひとり消えてしまうことの虚しさに。

そして、出会ってしまったから。
私を救ってくれる…そんな予感を感じさせるその人に…。

だから私は…。



そして今…私は『ここ』にいる。
本当に大切な、かけがえのない人と共に。
自分ひとりだけのものではない、命を抱きしめて…。



祐一さんに出会った頃の私は、辛い思い出と現実から逃げていた。
哀しい過去を封じ込めて、偽りの世界に生きていた。

けれど、祐一さんと一緒にいたい。
祐一さんと、同じ時間を過ごして行きたい。
同じ未来を夢見て、そしてそれを現実のものとしたい。

そう願うようになったから…。

心の奥底で望んでいた、『死』に対する願望。
贖罪としての、私自身の死。
間違った答。

けれど…この苦しみから逃れるためだけの答。
行き止まりの道へと続く出口…。

その呪縛から、ようやく解き放たれた私。
そして私は…ようやくお姉ちゃんの本当の気持ちに気がつくことができたんだ…。

  『ごめんね、お姉ちゃん』

  『私、馬鹿だったよね』

  『でも…もう、迷わないよ』

  『だって私は、いつだってお姉ちゃんと一緒なんだから…』

  『どんなに苦しくたって、私…最後まで生き続けるよ…』


そして…私にとっての現実は…
長く苦しかった夢は…終わりを告げた。





     § 6





祐一さんとふたり、隣り合わせでベンチに腰掛ける。

何から話せばいいのだろうか。
ねぇ…お姉ちゃん…。



ややあって、祐一さんの方から口を開く。

  「じゃあ…香里は今…」

  「ええ…」


俯いていた顔を上げる。
視線を祐一さんへと向けて…
もう1度、自分の身体に視線を戻す。

両手でそっと自分の身体を抱きしめるように包みこむ。

  「お姉ちゃんは…ここにいます」

  「いつだって…私と一緒にいるんです」


それは、言葉通りの意味…。



お姉ちゃんは、いつだって私のために何でもしてくれた。

力になってくれた。
勇気も、優しさも、ときに厳しさも与えてくれた。
たとえようもないくらいの愛情を与えてくれた。
そして…かけがえのない生命を与えてくれた。

  「私が今、こうしていられるのは…」

  「お姉ちゃんが、命をくれたからなんです」

  「私のために…」


そう…奇跡はあのときすでに起きていた。
大切な人の命と引き換えにして…。



けれど…その重すぎる現実は、当時の私には受け止めきれないものだった。

だから私は…現実から逃げた。
ただ…お姉ちゃんとふたり、幸せだった頃の幻想を願った。

そして…望んだ世界が生まれたとき、そこにはお姉ちゃんがいた…。

私自身の命を代償として、つかの間の幸せな幻想の世界がそこにはあったんだ…。



     夢を見た。
     お姉ちゃんの夢。
     大好きな…大好きなお姉ちゃんの夢…。

     だけどそれは…とても哀しい夢…だった…。




全ては夢だったのだろうか。

…そう、哀しい夢。

だって…
お姉ちゃんが、そばにいてくれるもの。



     そして…
     哀しいまでの目覚め…。

     それとも…この現実こそが夢なのだろうか…。




いつもと同じ風景。

  「お姉ちゃん、私…哀しい夢を見たよ…」

  「夢の内容は思い出せないんだけれど、とても哀しい夢だった…」

  「どうしてあんな哀しい夢を見たんだろう」


お姉ちゃんが、笑顔で答えてくれる。

  「馬鹿ね、栞」

  「そんな夢のことなんか、忘れてしまいなさい」

  「それに…思い出せないんだから、もう大丈夫よね?」


確かにそう。
夢を思い出すことはできない。
けれど…あまりにも哀しい夢だったことだけが、心に残っている。

  「うん、そうだね…」

でも…なぜ、こんなにも哀しくなるのだろう。

私の本当の幸せは、どこにあるのだろう…。

…違う。
どこにあったのだろう…。



そして…。



  「私は、祐一さんと出会ってしまったんです」

そう。
本当に心から大切に思える人に出会ってしまった。
この人と、共に生きたいと願ってしまった。

  「だから私は…現実の世界に還って来ることができました…」

  「目を背けていた、私が生きるべき世界へと…」






     § 7





その知らせは、とても信じられないものだった。

  『うそ…だよ…』

そんな現実なんて、あるはずがない。

  『おねぇ…ちゃん…』

震える足を1歩1歩動かしながら、その部屋へと向かう。

  『どうして…』

私は…その部屋のドアを開けた…。



ベッドの上のお姉ちゃんに呼びかける。

  「お姉ちゃん、しっかりして」

  「私だよ、汐里だよ」


お姉ちゃんの瞳が開く。
苦しみに歪んだ表情に我慢の色が浮かぶ。
おそらくは、私を心配させないためなんだろうと思う…。
そして…。

  「ごめんね…汐里…。しんぱい…かけて…」

どうして…。
どうして謝るのだろう…。
悪いのは私なのに。

  「お姉ちゃん、ごめんね、ごめんね」

涙で声が詰まる。
それでも私は…お姉ちゃんに謝り続ける。
お姉ちゃんが助かるのなら、私はどんな罰を受けたって構わない。
だから…。

  「汐里…。ごめんね…」

  「お姉ちゃん…だめみたい」

  「あなたの絵…完成する…まで…待てなくて…ごめんね」


お姉ちゃんの声が、だんだんと弱々しくなっていく。
そして…。

  「お姉ちゃん…汐里の…こと…大好き…よ…」

全てが吹っ切れたように、微笑むお姉ちゃん。

…それが、お姉ちゃんの最後の言葉だった。



あの秋の日。

…私が美術室で倒れた日。

私のことを心配するあまり、お姉ちゃんは…。



普段はあんなに慎重なお姉ちゃんが、どうしてあんなに軽率な行動をしたのだろう。
無理に道路を渡ろうとして、お姉ちゃんは事故に遭ったと聞いた。
よっぽど慌てていたのだろうということらしい。

たまたま私と同じ病院へ運ばれたお姉ちゃんは…
最後の言葉と、たったひとつの奇跡を残して、そのまま帰らぬ人となった。



私は…お姉ちゃんから、その奇跡を受け取った。
それがお姉ちゃんが最後に望んだことだと説得されたから。

けれど…その時の私には、何かを考える力など残されてはいなかった…。

ただ…だまって頷いただけ。
心が哀しみに押し潰されてしまったから。

自分の犯した罪と、失ったもののあまりの大きさに…。



そして…お姉ちゃんの命は、私とひとつになった。





     § 8





手術は成功した。
その後の拒絶反応などもなく、適合性の高さを物語っていた。

お姉ちゃんの『私を生かしてあげたい』という気持ちが乗り移っていたのだろうか。
今なら…そう思えてならない。

けれど私は…。

哀しみに押し潰された、あの頃の私は…。



私が無理をしたから…
倒れるまで、無理を重ねたから…
お姉ちゃんに、心配をかけてしまったから…。

だから、お姉ちゃんは…私のところへ来る途中で事故に遭った。

つまり…お姉ちゃんを殺したのは、私だ。
そしてその命を奪い取って、生き長らえているのも私。

だから…本当はお姉ちゃんが幸せになって、私が死ぬはずだったんだ。
なのに、現実はその逆になってしまった。

  『私が死ねば良かったんだ…』

  『お姉ちゃんの代わりに、私が死ねば良かったんだ…』

  『私が…お姉ちゃんを…殺したんだ…』


幾度となく、そう思った。

そんな風に、自分を責めていた…。



『その言葉』を口にする度に、お父さんに頬を叩かれた。

けれど…痛みなんか、感じなかった。
私の心は既に、今以上の痛みなど受けつけはしなかったのだから。

だから私は…死ぬことを考えた。

だって…私の心は、すでに死んでいるのも同然だったから。

きっと…これ以上哀しいことなんて、この世の中にはありはしないだろうと思ったから。



お姉ちゃんを失って…

お姉ちゃんの幸せを奪い取って…

お姉ちゃんの命を犠牲にしてまで、生き続けていたくはない。

  『私の命を返しますから、お姉ちゃんを生き返らせてください』

ただ…それだけを願った。

そして…。



     夢を見た。
     お姉ちゃんの夢。
     大好きな…大好きなお姉ちゃんの夢…。

     だけどそれは…とても哀しい夢…だった…。

     そして…
     哀しいまでの目覚め…。

     それとも…この現実こそが夢なのだろうか…。




確かに私の手術は成功した。

けれど、現実を放棄して…
『生きること』を望まなかった私は、その日からだんだんと衰弱していった。
私の中には、『生きていく意志』が残されてはいなかったから。

幻想の中の私は、お姉ちゃんと共にあることを望んでいた。
それは、お姉ちゃんを生かし続けることだったから。
でもそれは…自分が生き続けることと等価ではなかった。

私の命が失われれば、幻想のお姉ちゃんも消えてしまう。

けれど…幻想を現実として受け入れ…
哀しい過去の思い出と現実を拒否した私は、そのことに気が付くこともなかった。

ただ…お姉ちゃんといられること。
そのためだけに、自分の命を費やしていたから…。

自分の命と引き換えに、幻のお姉ちゃんに命を吹き込んで…
そんな間違った幻想の中で、残りの生を過ごすことを望んでしまったから。



でも…祐一さんと出会ったことで、私は生きることを望んだ。

お姉ちゃんの命を奪って生き長らえた私。
でも…それでも、今は祐一さんと一緒にいたい。
そう思ってしまったから。

生き…悩み…苦しみながら、お姉ちゃんのことを思い出の中で生かし続けること。
それが、私にできる償いであることに気が付いたから。

そして…お姉ちゃんは、私が生き続けることを望んでくれたのだから。



幻想の中でも、お姉ちゃんは私を愛してくれた。
私のことを考え、悩み…苦しんでくれた。

そして…私の幸せを見届けて、何も告げずに消えていった。

大好きだったお姉ちゃん。

私がお姉ちゃんを望む心と…
私を心配するお姉ちゃんの残した心が…
おそらく、あの奇跡を生み出したんだろうと思う。

私にとって必要だったのは…
『強く生き続けることを望む心』だったんだ…。





     § 9





そして…私は、祐一さんと共にいる。

生きることを強く望むようになったとき…
私の身体は、何かを思い出したかのように快方へと向かい始めていた。

お姉ちゃんにもらった、大切な命。
その心の痛みを胸に抱きながら、私は生き続けよう。

お姉ちゃんはいつだって、私の幸せを望んでいてくれた。
最後には、たったひとつだけの大切なものですら与えてくれた。

だから…私が幸せになることで…
お姉ちゃんの望みが叶えられるのならば…。



  『だから私は、祐一さんと幸せになるよ』

そっと呟く。



だから…。



  「だから…私たちの前にいたお姉ちゃんは…」

  「本当に存在したのか、それとも私の心が生み出した奇跡だったのか…」

  「今となってはもう、わかりません」

  「あのお姉ちゃんは、私たちふたりの思い出の中にしか存在していないのですから」

  「クラスメートの方や両親の思い出の中では…」

  「お姉ちゃんの時間は、もうずっと昔に止まってしまっているんです」

  「けれど…」


そこまで言って、言葉を止める。

お姉ちゃんの死という現実に目を背けた私の心。
その私の心が生み出した、幻のお姉ちゃん。

その時私は、弱く醜い自分のことからも目を背けた。

お姉ちゃんのことを思い出さずにはいられない『汐里』という名前。
だから…自分でも知らない間に『栞』という別な人間として生きていた。

…嘘の自分として。
現実にはいない自分として…。

でも私は…本当の自分を取り戻した。
本当の思い出を取り戻した。
辛く哀しい過去を…。

お姉ちゃんのことが大好きだから。
それは…決して忘れてはいけないことだから。
どんなに哀しくたって、見つめ続けなければいけないことだから。



幻のはずのお姉ちゃんが、祐一さんにだけは現実のものとして存在していた。

それは…
私のことを心配するあまり…
お姉ちゃんが、祐一さんに全てを託したからなのだろうか。

自分の命が失われたあとも、私のことだけを思ってくれていたお姉ちゃん。
きっと…そう思う。

私はお姉ちゃんのことを忘れようとすらしたのに…。

なにも言わず、ただ傍にいてくれたお姉ちゃん。
そして…いつか私が現実に帰ることを願ってくれたお姉ちゃん。
そのために…私と祐一さん、ふたりの未来を後押ししてくれたお姉ちゃん。



だから…



  「私は、祐一さんと幸せになりたいです」

  「それが、お姉ちゃんの望んだことでもあるから」

  「でも…なによりも、私がそう望むから…」


思いの全てを込めて、祐一さんに伝えたい言葉。

  「私が元気で幸せでいられる限り、お姉ちゃんもきっと…」

  「…そう思いますから」


祐一さんが、優しく頷く。

  「…ああ。幸せになろうな」



暖かな風が吹いている。
現実に帰ってきた私を祝福するかのように。
時は穏やかに移り変わり、全ては思い出へと変わっていく。



お姉ちゃんがくれた生命。

お姉ちゃんがくれた幸せ。

お姉ちゃんがくれた未来。



いつかそれを…
お姉ちゃんに笑って返せる…
…そんな邂逅の時が巡りくるかもしれない。

時の輪の中で。

だから、その時のために…

いまは、この瞬間を大切に生きていこうと思う。

それがお姉ちゃんとの『最後の約束』だから。

  『そうだよね、お姉ちゃん』



  『幸せにね、汐里』

そんなお姉ちゃんの声が、耳の奥に木霊していた…。

………………………… 戻る ……

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