………………………… 戻る ……
update 4/21・5/3・5/19・6/6・6/13・6/26・7/3・new 7/8
……雪。
雪が降っていた。
懐かしい校舎。懐かしい中庭。
そして、そこに居座る巨大な雪だるま。
「なんだ、これは?」
まるであのときと同じ。
思い出の中から抜け出してきたかのように、そいつはそこにいた。
こうしていると、あの日の光景が甦ってくる。
「10年以上も前からの伝統らしいわよ。昔の卒業生が卒業前の思い出に、クラスの皆で
大きな雪だるまを作って記念撮影をしたのが始まりなんですって。それ以来ずっと続いて
いるらしいわ」
……忘れもしない、懐かしい声。
「そうなのか? 馬鹿な奴らもいたもんだな」
思わず苦笑いを浮かべてしまう。
「そうね。よっぽど馬鹿だったんでしょうね」
相変わらずの手厳しい口調。
こみ上げてくるものを堪えながら、声のした方を振り返る。
そこには思い出のストールを纏った人影がひとつ。
「……雪、積もってるわよ?」
呆れたような口調。
「たまにはいいさ。俺にとっては、雪なんて何年ぶりかもわからないからな」
降り積もる雪の中、傘もささずに佇んでいた俺。
この雪の冷たさも、限りない白さも、何もかもが懐かしかった。
俺を見つめるそいつの表情が弛む。
「そろそろ行きましょうか。名雪も待っているわ」
「ああ、そうだな」
そうしてふたり、寄り沿い歩く。
10年以上の歳月を、一瞬にして埋めてしまうかのように……。
『Kanon another story』
雪が降っていた。
思い出の中を、真っ白い結晶が埋め尽していた。
十数年ぶりに訪れた白く霞む街で、
今も降り続ける雪の中で、
……俺はひとりの女性と再会した。
『Epilogue・美坂香里』
§
「……相沢君」
土曜日の放課後の教室。
差し込む陽射しの角度も高くなり始めて、季節の風はいつの間にか暖かさから暑さへと
姿を変えつつあった。
「少し、時間とれるかしら?」
そんな中、クラスメートの美坂香里からの不意の誘い。
「ああ」
このまま帰っても、勉強以外には特にすることもない。3年に進級して受験を控えた身
としては、遊んでばかりもいられなかったからだ。
「どうせ真っ直ぐに帰るつもりだったからな」
けれどせっかくの香里の誘いとあれば、特に断る理由もなかった。
「そう。じゃあ、百花屋で構わないかしら?」
「香里に任せる」
香里は頷くと、机に置いたままだった鞄を手に取った。そして視線で俺を促すと、特に
何を言うこともなく教室を出ていく。俺も無言のまま教室を出ると、足早に香里のあとを
追いかけた。
特に会話らしい会話もなく、ただ香里と肩を並べて歩く。こうして香里とふたりきりで
並んで歩くのも久しぶりのことだった。
いつもならこんなときは、他愛もないことで話がはずんでいた。だからこそこの沈黙が
胸に痛かった。
「で、香里の用件はなんだ? 改まって」
無言のまま、オレンジジュースの入ったグラスを指先で玩んでいる香里。一度は合わせ
た視線をグラスに落として……再び俺の方を向き直る。
香里はそこで、ひとつ小さく息をついた。
「そうね。たいした話じゃないわ」
言葉とは裏腹に、いつもの香里らしくない表情。ポーカーフェイスを崩すことなどない
香里だからこそ余計に、これから交わされるであろう話の重要性が伝わってくる。
「そうか。なら、香里が話したくなったら話せばいい」
無理強いはしたくなかった。
こうして俺に声をかけてきた以上は、どうしても話しておきたいことがあるのだろう。
そういう時の役回りは、大概の場合は名雪の方だったけれど、だからこそ俺にはわかって
しまう。
香里の気持ち。俺に声をかけた理由。俺が相手でなければならないわけ。
考えられる話の内容は決まっていた。今はもうここにはいない、ひとりの少女のこと。
雪のように儚く消えてしまった、香里とよく似た面影を宿した少女のこと……。
思い出せばそれは、心の痛みを伴うことだった。
哀しいだけではない、優しく暖かい思い出もあった。楽しい思い出だって数え切れない
ほどたくさんあった。
それでも今の俺たちにとっては、全てを思い出としてしまい込んでしまうには、流れた
時間はまだ短すぎたから。
栞と一緒に過ごした時間の短い俺ですらもがそう感じるのだから、幼い頃から栞と共に
育ってきた香里にとっては、決して消えることのない痛みを生涯背負い続けて生きて行く
ことなのかもしれない。
それでも俺は、……いや俺たちは、栞と出会えたことが幸せだったと思えるから。
そして栞の方もそうだったと、俺は信じているから。
香里は無言のまま、グラスの中身をストローで掻き混ぜ続けていた。
窓の外に視線を流したり、そっと溜息をついてみたり。そんな仕草が可愛らしかった。
全く中身の減っていないオレンジジュース。汗をかいていたグラスの表面も、今はもう
すっかり乾ききっていた。
……そうしてようやく、香里の重い口が開く。
「ねえ、相沢君。相沢君はこれからの進路をもう、決めたのかしら」
進路の選択。受験生にとっては最大の悩みの種である。栞のことを別にすれば、今の俺
たちにとって、最も身近で深刻な問題であると言っても間違いではなかった。
けれども単なる進路の悩みや相談くらいのことで、香里がわざわざ俺を誘うわけがない
ことは充分に理解していた。それにこうした話をするならば、それはむしろ名雪の領分に
も思えた。だからこそ、香里の問いかけに対して思うことがないわけではない。
けれど、今の時点では推測だけであれこれ考えても仕方がないことだと思った。だから
俺は、やや間をおいて言葉を返した。
「正直言って、決めかねているところだ」
これは、偽りのない本音だ。
「特に、子供の頃からの夢があるわけでもないしな」
なりたいものが特にあるわけではなかったから。
いや、それは正確に言えば嘘だったけれど……。
「多分、なるようになるんだろうと思う」
俺が今、なりたいもの。これから俺が選ぼうと思っている、迷っている道。
おそらくはそれこそが、香里が俺を誘ってまでしたかった話の核心ではないかと思う。
だが俺は、敢えてそれを口にすることを避けた。
そしてふと香里の方に視線を送ると、俺自身の考えを裏付けるかのように、香里の瞳は
俺を見据えたままだった。話の続きを待っているかのようにしか見えない。
「……俺が悪かった。全部、腹を割って話す」
俺は、覚悟を決めた。
するとそれまで厳しい表情をしていた香里の口元が、少しだけ弛んだ。
「わかっているみたいね」
「ああ」
俺は、香里に本心を吐露した。
進路を決めかねているのは本当だということ。なぜかと言えば、今さらのように目指し
たいものがひとつできたからだということ。しかしそれは、今の俺の成績ではとても難し
い進路選択だということ。そしてそれを人生の選択とするだけの強い意志が、今の俺には
欠けているということ……。
「このままその道を選んでも、それは一時の感傷かもしれない」
そう思う気持ちが、心のどこかに存在する。そしてそんな曖昧な気持ちでその道を選ぶ
ことを、栞は決して望まないだろう。
「感傷……そうかもしれないわね。でも相沢君の気持ちは理解できるわ」
けれど感傷に流されて人生の大事を決めてしまうことは、すなわち栞を冒涜することに
なるのではないか。
さらにこうも言える。俺がその道を選ぼうと思ったきっかけは、栞のことがあったから
には違いない。けれども栞を失った今となっては、栞と同じように病気で苦しんでいる、
他の誰かのために生きる道を選ぶことになる。
もちろんその道それ自体を進むことに躊躇いはない。人生の選択において、栞のことを
だしにしたような罪悪感と、栞自身は救えなかったという虚無感を除けばだ。
しかしその道を選ぶことは、ある意味で自己満足に過ぎないのではないか。自分の心の
痛みを和らげるための逃避と何ら変わらないのではないか。
どうしても、そんな風に思い悩む気持ちが心に重くのしかかっていた。そして、そんな
迷いを抱えているからこそ俺は……。
「あの子を失った今、その道を行く強い意志が持てない……」
俺の考えを見抜いたかのように、香里が、まるで自分のことのように呟く。
「ああ」
搾り出すような声で同意する。
「俺は栞を助けたかった。そして、自分の無力さを知った」
それはきっかけだった。
「だから俺は、その道に進むことを考えた。でも」
そこまで言ったとき、香里の言葉が、続くはずだった俺の台詞を奪い取った。
「救いたかったのは栞だった。だから……あの日、全てが終わってしまった」
香里の言葉が胸を刺す。
そう。俺が救いたかったのは栞だった。そして栞を永遠に喪ってしまった以上、もはや
その道に拘ることに何らかの意味があるのだろうか。
俺がその道を選ぶことによって救われるであろう人たちが、この世界に存在することも
確かに知っている。けれどもそれを行うのは、必ずしも俺でなくたって構わないはずだ。
そう考えたとき、その道を選ぶということは、栞を救えなかったことに対しての、単なる
代償行為に過ぎないのではないか。
栞と出会ったことで見出した道。そして栞を喪ったことで見失った道。
今の俺には、心に迷いを抱えたままその道を行く勇気がどうしても持てなかった。
「だから今は、その道を行く確固たる自信がない」
やっとの思いで言葉を紡ぐ。けれど、返ってきた答えは。
「相沢君は……馬鹿ね……」
言葉とは裏腹に優しく言葉を紡ぎ出し、穏やかに微笑む香里。その笑顔からはすでに、
迷いは消え去っているようにすら思えた。
「確かに、自分のために相沢君が道を曲げたのなら、栞はきっと悲しむわね」
「……ああ」
鋭い指摘に胸をえぐられる。
「でもその選択に関して、相沢君は栞のせいだと主張するつもり?」
「そんなこと、あるわけがない。あくまでも俺の意志だ」
これは間違いなく、俺の本当の気持ちだ。
「ただし栞のことがなければ、選ぶことはなかった道だと思う」
「そんなのあたりまえよ。だって、人と人との関わりってそういうことじゃないの?」
叱責するような口調で返される。そして一呼吸おいて香里が続けた。
「相沢君がその道を選ぶのは、紛れもなく相沢君自身の意志よ。でもそこには必ず、栞が
生きた証が込められているわ。人が生きたこと、人が人と関わったことってそういうこと
じゃないの?」
いつの間にか、香里の声が少しだけ震えていた。
「栞は、あたしや相沢君にたくさんのものを残してくれたわ。それこそが……人が、あの
子が、栞がこの世界で生きた証でしょう? だからこそ残されたあたしたちは、それを背
負って生きていかなければならないのよ……」
香里の頬を、滴が伝う。
「忘れてしまう必要なんか、目を背ける必要なんか、どこにもなかったのよ。その人との
思い出を大切にしながら、それでも自分で選んで、自分の足で歩いていくのよ。その人と
自分の人生が交わったことを誇りに、幸せに思いながら、胸を張って」
涙を拭いながら、言葉を継ぐ香里。
「相沢君は、栞を救いたいと思って……そして道を見つけたわ。でもどこかで気付いてい
たはずよ。その道は、栞の未来へは続いていないことに」
そうだ。俺は知っていたはずだ。
「……ああ」
だから俺は、その一言だけを呟く。
「今の医学では栞の病気は治せない。知っていたでしょう?」
「ああ」
「今から頑張って医者になったところで、栞はそのときまでは生きられない。それを承知
の上で、誰かのために生きる道の意味を栞から受け取った。違う? 相沢君」
「……ああ。そうだ」
ならば。
「信じて進めばいい」
香里と俺の言葉が重なる。
「別に傲慢な考えだって、自己満足だって、感傷だっていいじゃない。相沢君がそうする
ことで、これから先の人生に何かを見出すことができる。栞が生きた証を示し続けること
ができる。そしてその道を歩き続けることで、確かに救われる誰かがこの世界にはいる」
香里はもう、涙を流してはいなかった。
「自分自身のために生きて、その結果誰かが救われるのなら……。胸を張って、傲慢に、
自分の満足のために生きればいいじゃない。それって、羨ましいことだとは思わない?」
「ああ、そうだな。羨ましい生き方だと思うぞ」
香里はそこまで語り終えると、晴れやかな笑顔を見せた。まだ少しだけ瞳は潤んでいた
けれど……。
「それにしても、よくわかったな」
当然の疑問をぶつけてみる。
進路に対する悩み。俺はそのことを、まだ誰にも話したことがなかったからだ。
けれど良く考えてみれば、当然のことだったのかもしれない。相手は他の誰でもない、
香里なのだから。
「あたしもそうだったから」
そう。俺たちは、同じだったんだ……。
§
栞は生まれつき身体が弱かった。
あたしは、栞の病名が何なのかは知らなかった。ただとても難しい名前の病気だという
ことと、そしてそれ以上に治療が難しい病気だということだけを聞かされていた。
お父さんもお母さんも、それ以上のことは訊いても教えてはくれなかった。
これはあとになって知ったことだが、栞の病気は、内臓の機能の異常により徐々に衰弱
して、やがて死に至るものらしかった。
今の医学では、治療法のない病気。唯一の解決策は臓器移植を行うことだったが、栞の
場合には適合の可能性は絶望的な確率だったという。
それでも身体の成長がまだ伴わない子供のうちは、臓器にかかる負担も小さくてすんだ
ため、幼い頃の栞は比較的元気に過ごすことができた。けれどそんなことは、まやかしに
過ぎなかった。
緩慢な死への道。
やがて成長するに従って臓器にかかる負担が大きくなり、いつかは機能の限界を超えて
しまう。そしてそれ以降は坂道を転がり落ちるように容態が悪化して行き、いずれは衰弱
して死に至る。それがいつなのかは、個人差により早いか遅いかというだけの話だった。
両親はすでに、栞が生まれた時点で医師から知らされて覚悟を決めていたようだ。
「残念ですが、お嬢さんは成人するまでは生きられないでしょう。今すぐどうにかなる、
ということはありません。しかし症例の報告では、10年で約3割、15年で約8割の方
が亡くなられています。覚悟はされておいて下さい」
そう。あたしだけが何も知らずにいた……。
あたしと栞はたった1歳しか違わない。まだ何もわからない、分別のつかない幼い頃の
あたしに対して真実を伏せたという事情はあったけれど、そんなわけであたしは、両親の
苦労や悲しみを全く知ることのないまま成長した。
そしてあたしが物心ついた頃にはもう、栞はあたしにとっても家族にとってもお荷物と
なっていた。
両親は、何をするのにも栞のことを全てに優先した。今思えば当然のその行動が、幼い
あたしには理解できなかった。
両親の愛情を独り占めする妹。幼いあたしにとって、栞は認めたくない存在だった。
外で遊ぶことも、友達を作ることもできない栞。必然、その相手はあたしがすることに
なる。
学校が終わるとあたしは、栞の相手をするために真っ直ぐ家に帰った。だからあたしは
友達と遊ぶことがあまりできなかったし、そのことが原因であたしの心の中にはいつも、
栞に対する嫌悪感と不満感がつきまとっていた。
栞と遊んであげる。それはあたしがお姉ちゃんだから当然のこと。そうすれば、両親は
あたしを誉めてくれる。
でも、つまらない。どうしても何かが気に入らない。
だから時には栞を泣かせてしまうこともあった。本気で栞のことを嫌っていたわけでは
ないし虐めていたわけでもない。それでも辛くあたってしまうことがときとしてあった。
それなのに栞は、いつだってあたしのうしろを追いかけてきた。あの子は泣き虫だった
から泣くことも多かったけど、それでも決まって最後は笑っていた。
「おねえちゃん、あそぼ」
「ねえ、おねえちゃん。ごほん、よんで」
「おねえちゃん、ケーキたべよ。はんぶんこしよ」
「おねえちゃん、いっしょにねても、いい?」
……どうして。どうしてこの子は、そんなに笑っていられるの? あたしのことが嫌い
にならないの?
「おねえちゃん……」
その言葉を聞くたびに胸が痛んだ。無垢なその笑顔が堪らなく辛かった。
きっかけは栞の入院だった。
幼い頃の栞は身体が弱いとはいいながらも、定期的な通院と検査のおかげで、家で安静
にしている限りにおいては、日常生活に支障をきたすほど体調を崩すこともなく生活して
これた。幸運も重なったのだろう、その歳までは検査以外で入院することもなかった。
けれどある日のことだった。あたしが学校から帰ってくると、真っ先に出迎えるはずの
栞の姿がなかった。
『おねえちゃん、おかえりなさい』
その声が聞こえないことで、これほどまでに寂しくなるなんて、この日までのあたしは
知ることもなかった。
そしてあたしは、両親の残した書き置きから、栞が発作を起こして緊急入院したことを
知った。
両親はその日遅くに一度は帰宅したが、あたしに言い含めると再び病院へと向かった。
あたしは戸締まりをして、布団に潜って寂しさを紛らわそうとした。
信じられないほどに静まり返った家の中にひとりきり。
風の音だけが大きく唸りを上げ、家の軋みが嫌な想像を膨らませた。
寂しかった。心細かった。
そしてあたしは知ってしまった。栞の気持ちを。あたし自身の本当の気持ちを。
栞がいつもそばにいてくれたからこそ、寂しくなかったことを。そして栞にとっても、
あたしがそうであったことを。
それまでのあたしは、栞にとって決して良い姉とは言えなかった。それでもあの子は、
あたしのことをあんなにも慕ってくれた。好きでいてくれた。
それは確かに、他に選択の余地がなかったからかもしれない。あの子には、他には誰も
いなかったのだから。
けれど、それでもあの子があたしに対していつも向け続けてきた屈託のない笑顔には、
嘘はなかったと信じられたから。だからあたしは、あの子の優しさと寂しさを素直に受け
入れることができた。
そして思い知った。あの子の存在が、あたしの中でこれほどまでに大きく膨らんでいた
ことを。
あたしは、病院で苦しんでいるだろう栞のことを思って泣いた。
もう、寂しくはなかった。ただ何もできない自分が悲しかった。
明日になったら、栞の大好きなケーキを買ってお見舞いに行こう。そしたらあの子は、
どんな顔をするのだろう。
驚くだろうか。それとも喜んでくれるだろうか。
あたしは、あの子の笑顔を守れればそれでいい。そのたったひとつの真実に、ようやく
辿りついた日だった。
絶対に忘れてしまってはいけなかったこと。遠い日の想い。誰も知らない誓い。
なのにあたしは……。忘れてしまえるはずなんて、なかったのに。
§
それからのあたしは、執りつかれたように勉強を頑張った。
もちろん勉強の合間の息抜もしたけれど、それは自分のためではなくて、全て栞の相手
をするためだった。
あたしには、ひとつの目標ができたから。
たったひとつ、絶対の目標。医者になること。その目的は、突きつめれば栞ただひとり
のためだった。
栞が病気で苦しんでいるのならば、あたしが治してあげればいい。その頃のあたしは、
本気でそう信じ込んでいた。
栞の病気は、現在の医学では対処療法以外に術のないこと。栞の命は、成人するまでは
もたないこと。すなわちあたしが医者になったところで、栞の病気を治すことはできない
こと。そしてあたしが医者になる日を、その姿を、栞が見届けることはないこと。
あたしは、そんな簡単な現実すらも知らないでいた。
ありもしない夢を見て、何も知らずにあたしひとりが道化を演じていた……。
「お姉ちゃん、お医者さんになるの?」
栞が無邪気に問いかける。いったいどこからこの話を仕入れてきたのだろう。
「もしかして私のため? だったらごめんね、お姉ちゃん」
……この子は。
「馬鹿ね。栞ひとりのためだけにわざわざ医者になるわけないじゃない。栞のことは関係
ないわ。そんなこと気にしないで早く休みなさい」
あたしは素直じゃないから、こんな風にしか返せなかった。
「そうだね。でも、もしお姉ちゃんがお医者さんになったらそのときは、私が最初の患者
さんになってもいいよね」
もちろん、あたしが医者を目指すのはこの子の力になりたかったからだ。でもあたしの
口は、全然違うことを言う。
「ほんと馬鹿ね。いつまで世話を焼かせるつもりなの? そんな病気はさっさと治して、
何でも好きなことやればいいのよ。あたしが医者になってもまだ病人なんかやってたら、
こんな太い注射を打ってあげるんだから」
「そんなこと言うお姉ちゃん、嫌いですっ」
拗ねたときのいつもの口癖。これが可愛くて、ついからかってしまう。
「だったら、さっさと病気を治してしまいなさい。栞にだって、将来の夢くらいはあるで
しょう? 病気に負けている場合じゃないわよ。気力で頑張りなさい」
この頃の栞は、わりと頻繁に倒れるようになり始めていた。
栞の未来に対する漠然とした不安感。あたしは本当のことを何も聞かされていなかった
から、最悪の事態までは考えもしなかったけれど、栞の先行きにかかる暗雲を感じずには
いられなかった。
だから敢えて、将来の夢を叶えるために頑張りなさい、なんて口にしたりもした。そう
することで、病気と戦う気力が起きればいいと願いながら。
本当は栞が誰よりも苦しんで、誰よりも頑張っていることを知っていたけど、それには
目をつぶって、わざと軽口を叩くようにした。そうすることで、少しでも明るい雰囲気に
なることを願いながら。
「私は何かになれるとしたら、看護婦さんになりたい。お姉ちゃん、もし私が看護婦さん
になれたら、そのときはお姉ちゃんと一緒に働けるかな? お姉ちゃんがお医者さんで、
私が看護婦さん」
本当に他愛もない、子供のような夢を嬉しそうに話す栞。
ありもしない夢物語。おそらく栞自身は、そんな未来が訪れるなんて、本気では思って
もいなかったのだろう。自分の身体のことは、自分が一番良く知っていたはずだから。
でもあたしにとってその話は、この上もなく甘美な夢物語に感じられた。
叶うわけがない。……それでもあたしは、そんな幸せな夢を見ていたかった。
「看護婦さんは重労働なのよ。ひ弱な栞に勤まるかしら? それに栞はどんくさいから、
見ていて不安になりそうだわ」
「酷いよ、お姉ちゃん。そんなこと言う人には、お見舞いのケーキ、わけてあげない」
頬を膨らませて拗ねる姿が、やっぱり可愛い。
「馬鹿ね、冗談よ。でもそうね、確かにそんなのも悪くはないわね。だったら早く病気を
治して、看護婦さんになれるように頑張りなさい。勉強のことに関しては、お姉ちゃんは
いくらでも力になってあげるから」
「だったら、約束。指切りしよ、お姉ちゃん」
……遠い日の約束。果たされることのなかった願い。
絡めた小指を離すときの切なさは、今でも忘れられない。
中学に進学する頃の栞は、ひと頃よりも体調が良くなっていた。
あたしは本当のことを知らなかったから、栞の病気が良くなり始めているのだと思って
いた。もしかしたらこのまま病気が治ってしまうかもしれない。そしたらあたしが医者に
なる意味はなくなるけれど、栞の身体が良くなるのならそれで構わなかった。
けれどそんなもの、本当は見せかけに過ぎなかった。笑顔の裏側で、栞の身体が徐々に
蝕まれていることを、あたしだけが知らずにいた。
栞の人生にとって束の間の平穏な時間。でもそれは、燃え尽きる寸前の蝋燭が一瞬だけ
明るく輝く姿と変わらなかった。
そんな栞の身体の変化に気がつかないまま、あたしひとりが浮かれていた。
だから栞があたしと同じ高校を受験したいと言ったとき、驚いたけど嬉しかった。この
子が、普通の子と同じように高校へ通えるなんて思いもしなかったし、最近の栞は身体の
調子も良くなってきていると思い込んでいたから。
勉強が遅れていることは少し不安だったけど、それは学校を休みがちだったから仕方が
ない。きちんと教えてあげれば理解も早いし、なにより頑張れる子だったから、他の子と
比べて遅れている分は、あたしが教えてあげればきっと大丈夫。
あたしだって、この子と一緒に過ごせる時間を夢見ていたのだから。
ふたりで頑張ろう、栞。そうすればきっと、願いは叶う。
でも本当はもう、夢を見ていられる時間は過ぎ去っていたのに……。
そこから先は、悲しい出来事の連続だった。それまでの日々が、あまりにも幸せだった
から。
あの子は入学式の日に倒れた。そしてあっという間に、まともに起きあがれないくらい
容態が悪化してしまった。
高校受験のために無理して頑張ったことが、皮肉にもあの子の衰弱を早めてしまった。
あの子はたったひとつのささやかな夢を叶えるために、それ以外の全てをその代償として
しまったことをあたしは理解した。
そしてそれに手を貸したのは、あたしだ。ただ、そうして自分を責めるのは簡単だった
けれど、それ以上に無力な自分が切なくて悔しかった。
あたしは、日に日に弱って行くあの子を見ていられなかった。
そしてあたしは知ってしまった。両親があたしに対して秘密にしていたことを。
「香里はもう大人だから」
そう言って今さらのように打ち明けられる、残酷な話。あたしにとってそれは、とても
信じられることではなかった。受け入れられることではなかった。
『栞はもう、次の春を迎えることはできない』
それでは、あたしは。あたしはどうすればいいのだろう。あたしの想いはどこへ行けば
いいのだろう。
全ては無駄だった。ただ知らずにいただけ。知らずに夢を見ていただけ。
始めからあたしのしてきたことに、意味なんかなかったんだ……。
「どうしてっ! どうして今まで教えてくれなかったの?」
両親の気持ちは、概念として理解できる。それがふたりの優しさだったことも。
でもあたしの感情は、それを受け入れることができなかった。決して認めることなんて
できなかった。
始めから、そのことさえ知っていれば。
……違う。
あたしは決して知りたくなかったんだ。栞がいつかいなくなってしまうという、そんな
現実を。あの子を失うことが、これほどまでにあたしの心を傷つけてしまうから……。
そしてあたしは、この日を境に未来への希望を失った。
医者になる夢も、願っていたのとは逆の意味で無意味となった。だってあの子のいない
世界でそんなものを目指したところで、いったい何になるのだろう。
あたしにとって、栞が行動原理の全てだった。
『栞のため』
あたしはこんなにも、栞に依存して生きてきたなんて。
いつも弱々しく見られがちだった栞。それとは対照的に、しっかりしていると言われる
ことの多かったあたし。でもそんなの嘘だった。
たったひとりで、治らない病気と戦い続けてきた栞。そんな栞にすがり続けてきたのは
あたしの方だった。
あたしはこれから、この子を失ったあと、どうやって生きていけばいいのだろう。
「教えてよ……しおりぃ……」
全てはこの手から滑り落ちた……。
§
「それからあとのことは、相沢君も知っての通りよ」
「そうだな」
初めて聴かされた香里の胸の内。改めて、栞に対する想いの深さに驚かされる。
「あたし、あの子のことを見ないようにしてた。あの子のことを忘れてしまおうとした。
どうせあたしの前から消えていなくなるのだから、こんなに辛い想いをするくらいなら、
妹なんて初めからいなければよかったのにって思ったから。でもそんなこと、できるはず
がなかったのにね。余計に辛くなるだけだったわ」
何かが吹っ切れたような、そんな穏やかな表情で語る香里。
「だから、相沢君には感謝しているわ。あたし……」
そこまで言いかけて口篭もる。
ふと香里を見ると、何か気まずそうな表情で視線を逸らした。少しだけ照れ臭そうに。
素直な気持ちを表現するのは、やはりまだ苦手のようだった。
そんなところが香里らしいと思った。
ばつが悪そうにして視線を投げかけたあと、もう冷たくもないオレンジジュースに口を
つける香里。
「なによこれ。薄いわね」
思わず笑みがこぼれてしまう。
香里が、ふう、とため息をひとつつく。
「あたし……栞を亡くしてから、これからのことをもう一度考えた」
「それで俺たちは、同じ道を選ぶことになるわけか」
香里が医師を目指すわけ。その原点となる想い。
その理由は薄々想像していたことではあったが、実際に聞かされると心が痛かった。
「厳密に言えば少しだけ違うわね。そもそも相沢君とあたしでは、想いの年季が違うわ。
もっとも一時期、あたし自身も夢を見失いかけたときがあったけど」
「そうだな。年季に関しては、香里に譲ってもいいぞ」
クスっと香里が笑う。
「冗談よ。でもね、他にもきっかけがあったから。それであたしは今、ここにいるのよ」
「どういうことだ?」
さすがにこれは、何のことだかわからない。
「ま、おいおい話すわ。そんなわけで、これから先のことを色々と考えながら、今までの
あたし自身を振り返ってみたわ。そして愕然としたの。信じられないくらい、なにも見え
なくなっていたことに」
「そうだな。見ていて辛かった。名雪も心配していたぞ」
少しだけ、申し訳なさそうな顔を見せる香里。
「そうね。名雪にも心配かけたわね。それで、ようやく自分の周りが見えるようになって
気がついたのよ。相沢君もあたしと同じ道を選ぼうとしているんじゃないかって」
もともと聡明で鋭い香里のことだ。本来だったら簡単に、もっと早く見抜いてしまって
いたはずだと思う。それだけに香里がここまで言うのだ。俺たちの想像以上に、精神的に
張り詰めていたことが容易に伺える。
「だからもしかして、相沢君が栞を失ったことが原因で悩んでいるんじゃないかと思った
のよ。誘ってみて良かったと思うわ。予想した通りだったわね」
香里のこういうところには、勝てないと思う。そして素直な気持ちで感謝したい。今は
もう香里のおかげで、俺自身の迷いも悩みもどこかへ消えてなくなっていた。
俺は、誰かにそう言って欲しかったのかもしれない。俺自身が選んだ道は、少なくとも
間違ってはいないということを。
「ありがとうな、香里」
「別に、普通のことよ」
いつもの不敵な笑みを浮かべる。この貸しは高くつくわよ、とでも言いたげに。それは
香里らしい笑顔だと思った。
そして、暫しの沈黙。
やや間をおいて、再び香里が話し始めた。
「長くなっちゃったわね。でも、まだ話は終わりじゃないわ。もう少しだけ、付き合って
くれるかしら?」
そう言って、こちらを見返す香里。
「ああ、構わない。今さら慌てるつもりはないさ」
§
栞は学校に通えた時間よりも、病院生活の方が長かった。
だからあたしは、栞には友達なんていないと思っていた。友達を作る暇なんて、そんな
出会いなんて、あの子の人生にはなかったはずだから。
でもあたしのその考えは、少しだけ違っていたことを知った。
あの子を失ってから暫くが過ぎた頃。ひとりの少女が、その両親に伴われてあたしの家
を訪ねてきた。
なんでも、栞のためにお焼香にきたのだという。
あたしの知らない子。栞と同年代くらいの、色白で小柄な可愛い子。どことなくあの子
を思い出させるその風貌は、見ていて少しだけ辛かった。
「栞とは、その、どういった……」
あとになってよく考えてみれば、間抜けな質問だったと思う。自分でも恥ずかしいくら
いだ。考えられる可能性なんて、限られていたのだから。
その子は栞と同じだった。
何の病気かを訊くことはできなかった。でも、その子も栞と同じで、入退院を繰り返す
生活だったという。
同じ病院に入院している、お互いに重い病気に苦しむ同じ年頃の少女。具体的にどんな
風にして出会ったのかはわからないけれど、その出会いは決して偶然のものではなかった
のだろう。そしてふたりは、いつの間にか親しくなっていたようだ。
「わたしも友達がいなかったから、栞ちゃんが一番の親友でした。それに何と言っても、
お互いに励ましあって病気と闘ってきましたから。だから、栞ちゃんのことは本当に残念
で……。悲しくて、悔しいです」
同じ病院内でのことだったし、その子と栞が親しくしていたことはわりと知られていた
ようで、栞が亡くなったことは、親しい看護婦さんから伝え聞いてすぐに知ったらしい。
ただしその子自身の病気も重かったため、外出許可が下りなかった。そしてようやく昨日
退院できたので、栞に会いにきてくれたのだという。
あたしは栞が倒れて以来、あの子と向き合うことをやめてしまった。話すことだって、
たくさんあったはずなのに、栞と口をきこうともしなかった。
もしあの子と話していたら、きっと栞は嬉しそうに語ったのだろう。
『あのね、お姉ちゃん。私にもね、お友達ができたんだよ』
『そう、よかったわね。なら大切になさい』
なのにあたしは、こんな大事なことすら知らずにいたなんて。
あたしがするはずだった多くのこと。それを目の前の少女が、あたしの代わりに果たし
てくれたに違いない。
あの子を励まして、元気付けて。ときには一緒に笑ったり、喧嘩もしたかもしれない。
お見舞いにもらったケーキや果物を、ふたりで分けあって食べたりしたかもしれない。
胸の奥が痛い。
「……ありがとう。栞もきっと喜んでいると思うわ」
あたしには、そう返すのが精一杯だった。
目の前の少女に対する、感謝の気持ちと申し訳なさ。栞に対する罪悪感と後悔。多くの
感情が、あたしのなかで渦を巻いていた……。
「わたし、栞ちゃんにたくさん励まされました。それまでのわたしは、なにもかもが投げ
遣りになっていて。そんな自分が恥ずかしくなるくらい、栞ちゃんは真っ直ぐで……」
少しはにかむようにしながら、栞との思い出を話す少女。
「病気と向かい合うのは、正直に言えば辛いことでした。だから栞ちゃんに出会うまでの
わたしは、全てを諦めていたんです。でも病気と闘いながら、わたしを元気付けてくれる
栞ちゃんを見て……」
本当に純粋な、曇りのない瞳。
「わたしも頑張らなきゃって思ったんです。栞ちゃんも頑張っているんだ、耐えているん
だって。そしてわたしは大きな手術を受けました。栞ちゃんが勇気をくれたからです」
少女の瞳に、少しだけ滲むものがあった。
「わたし、栞ちゃんに恥ずかしくないように生きていこうと思っています。栞ちゃんの分
も、なんて言ったら傲慢かもしれませんけど。たとえ辛くたって、わたしにできる精一杯
で頑張ろうって」
そして少女は、一生懸命笑った。涙を浮かべながら。
「栞ちゃん、いつも笑っていました。わたしの記憶の中の栞ちゃんは、いつも笑顔だった
から」
少女の頬を涙が伝う。
「……っく……ごめんなさい。お姉さんの方が辛いはずなのに。わたし、いつかどこかの
世界でまた栞ちゃんと出会えたら、そのときもお友達になりたいです」
左手の袖で涙を拭って、少女は続けた。
「栞ちゃんと約束もしたんですよ。実はわたしたち、将来の夢が同じなんです。だから、
わたし看護婦さんを目指そうと思います。一緒に看護婦さんになろうね、っていう約束は
果たせなかったですけど。栞ちゃんみたいな子が夢を叶えられるように、そのお手伝いが
したいんです」
そう言って、少女はもう一度微笑んだ……ような気がした。涙で歪んだあたしの瞳には
もう、何も映りはしなかったけれど。
「……栞の分も……っ……。どうか……よろしく……お願いします……」
「はいっ」
あたしは。
この日のことを、生涯忘れはしないだろう。
§
「いい子だな。栞もその子と出会えて幸せだったんじゃないか?」
「そうね。あたしもそう思うわ」
香里が少しだけ寂しそうに笑う。
「俺たちは栞を失ってしまったけれど、その子には栞の分も元気に頑張って欲しいよな」
素直な気持ちから、その子のこれからを応援したい。
確かに栞は死んでしまったのかもしれない。でも栞の想いは、こうして誰かの心の中に
受け継がれていく。そう考えると、少しだけ胸が熱くなった。
そしてふと気がつくと、香里の表情が再び曇っていた。憂いの混じった、悲しみの色を
浮かべて。
「まだ、話には続きがあるわ。構わないかしら」
「ああ、すまん。続けてくれ」
香里は大きく息を吐くと、何かを堪えるようにして瞳を閉じた。
暫しの沈黙をおいて、再び香里の口が開く。
「昨日のことよ。その子のご両親が、もう一度見えられたの。お礼を言いに、ということ
だったわ」
「おそらく、その子の病気が治ったから、栞に感謝しているんだろうな」
しかし香里は無言のまま、ただ静かに首を横に振った。
「どういうことだ? 他に何か、お礼を言われるようなことがあったのか?」
「違うわ」
沈痛な面持ちの香里。
栞のこと以外で、これほど悲しげな顔をした香里を見たことがなかった。
ややあって、香里の口からその子の父親の言葉が語られた。
『お宅のお嬢さんの、栞さんのおかげです。うちの娘も、最期は安らかに逝くことができ
ました。本当にありがとうございました。お礼の言葉もありません』
その瞬間、俺は自分がとんでもない勘違いをしていたことに気がついた。
「じゃあ、その子は?」
「ええ。つい先日、亡くなられたそうよ」
先刻の話を聞かされたばかりでは、とても信じられないような結末。
俺はあまりにも呆然とした表情をしていたのだろう。疑問に答えるかのように、香里が
話し始めた。
「その子が受けた手術は、意味がなかったんだそうよ。お腹を開いてはみたけれど、その
まま縫合して終わり。そのときにはもう手の施しようがないくらい、病状が悪化していた
らしいわ。無理に手術をしても快復の見込みはないし、むしろ体力の低下を招いて死期を
早めるだけ。だからその子には、手術は成功したと話して真実を隠したんだそうよ」
「そんなことって……」
とても信じられなかった。
「それが、現実なのよ」
あまりのことに、言葉も出ない。
「その子が退院できたのは、最期は家族の元で、という医師の配慮だったらしいわ」
そんな馬鹿な話があってたまるものか。
「じゃあその子は、何も知らなかったのか?」
やっとのことで言葉を搾り出す。
「誰も話さなかったのなら知らなかったはずでしょうね。でもあたしは思うの。その子は
気がついていたんじゃないかって」
「どうして、そう思う?」
俺の問いかけに対して、穏やかな口調で答える香里。
「……栞もね」
懐かしむような表情を浮かべながら。
「栞もね、最期の最期まであたしたちを気遣ってくれたわ。本当に最期の瞬間まで、笑顔
を作り続けた。笑顔でいようとしたわ。残されるあたしたちが、少しでも辛い思いをしな
くてすむように、精一杯の笑顔で」
「ああ、そうだったな」
思い出せばいつだって栞は笑っていた。だから栞のことを思うときは、悲しいだけじゃ
ない、優しい気持ちになることができた。
「そしてそれだけじゃないわ。あの子は最期まで、生きようとすることを諦めなかった。
あたしたちと過ごせる限られた時間を、全て大切にしたかったからだと思う」
「だから俺たちは、栞のことが忘れられないんだろうな。悲しいから忘れたいと思う以上
に、忘れたくない、かけがえのない大切な思い出だから」
香里の言いたいことが、何となくわかったような気がする。
「だったらその子も、栞と同じかもしれないな」
「ええ。あたしはそう思うわ」
俺の言葉に香里が頷く。
「その子がどこまで知っていたのか、他人のあたしにはわからない。少なくとも、医師も
ご両親も、本当のことを隠していたのだから。でも自分の身体のことは、自分が一番良く
知っていたんじゃないかしら」
「そうかもしれないな。香里の言う通りだろう」
その子は、栞と同じように一生懸命笑い続けたのではないか。命が続く限り、自分自身
の人生を前向きに生きようとしたのではないか。
そして、叶うことのない約束と知りながら、それでも夢に向かって前向きに頑張ろうと
したのではないだろうか。
それがその子と栞との約束だったから。
その子は結局、栞との約束を守ることはできなかった。でも約束を守ろうとして精一杯
頑張ったこと、その気持ちこそが尊ぶべきものではないか。
「その子、幸せだったのかな」
「それは、あたしにはわからないわ。でも、栞の最期の言葉、覚えてる? 相沢君」
俺は栞の最期に立ち会うことはできなかったけれど、香里から伝え聞いて知っていた。
「ああ」
栞の最期の言葉。栞は『幸せだったから』と言ったそうだ。
ならば。その少女も幸せだったのだろうか。
それは俺にはわからないけれど。
生きてさえいれば、もっと別な幸せを手にすることができたのかもしれない少女たち。
それでも彼女たちが生きた軌跡を辿れば、幸せの欠片を見出せるのだろうか。
……きっとそうだろう。
俺たちが栞から受け取った輝くような思い出。栞にとってもそれは、同じ輝きを持って
いたと信じられるから。
「栞やその子が幸せだったかどうかを 俺たちが決めることは確かにできないよな。でも
栞と出会ったことで、俺は幸せだったと胸を張って言える。本当に大切なのは、そういう
ことなのかもしれないな」
「そうね。あたしもそう思うわ」
今はもういない、ふたりの少女が教えてくれたこと。
前を向いて歩き続けることの大切さ。最後まで諦めない強さ。
……そして、いつも笑顔で。
栞を失って見失いかけていた大切なもの。
その少女が思い出させてくれたこと。
見も知らぬその少女の笑顔が、栞がいつも見せてくれていた笑顔と重なって見えたよう
な気がした。
§
あたしはその子のおかげで、見失いかけていたものをもう一度取り戻すことができた。
でもそれは、あの頃の気持ちとは、少しだけ違うものに変わっていた。
あたしが医者を目指したきっかけは、確かに栞のことがあったからだ。けれどその子に
教えられて気がつくことができた。
栞みたいな子はどこにだっていることに。今この瞬間も、これから先も、治らない病気
に苦しみながら。そして同時に、あたしや相沢君と同じ想いを抱えている子たちもまた、
大勢いることを。
あたしは、栞の病気が治らないと知ったとき神様を恨んだ。でもそれと同じだけ、今の
医学の限界を思い知った。どんなに助けを求めたところで、誰も力になんてなれない現実
がこの世界にはあることを知ってしまった。
けれどその考えに思い至ったとき、別のことにもまた気がついた。
確かに栞の病気は今の医学では治せないものだった。でも、多くの治らないと言われた
病気を、あたしたちは克服してきた。
それは、あたしたちと同じ想いを抱えて、その道を選んだ人たちがいたからだ。その人
たちが、未来のあたしたちが同じ想いで悲しむことのないように頑張ったからだ。
だったらあたしにも、未来の栞たちのために、栞と同じように苦しむ子たちのために、
頑張ることができるんじゃないかって。
あたしは栞を救うことはできなかった。でも、未来の栞たちを救ってあげられる。
だからあたしは、町医者ではなく医学者としての道を選ぼうと思う。
栞のことがきっかけで医者になろうと思ったときは、町医者の道を選ぼうと思った。
目の前で苦しんでいる人たちを助けたかったからでもあるし、なにより栞のそばにいて
あげたいと思ったからだった。
でもあたしは今、自分が本当にしたいことが何なのかを見つけることができた。
今の医学では治らない病気をひとつでも多く減らすために、医学の進歩のための研究に
身を捧げたい。そうして、ひとりでも多くの栞のような子を救ってあげたい。その子たち
に、笑顔と未来を取り戻してあげたい。ささやかでちっぽけな、でも本当の幸せをその手
にできるように。
あたしは、そんな手助けをしてあげたい。
直接的に誰かを救ってあげることはできないかもしれない。今の医学では治らない病気
の研究なんて、結局は無駄になるかもしれない。それでもあたしは、その道を行きたいと
思う。
そしてたったひとつでもいい、治らないとされる病気の治療法を見つけることができた
なら、あたしが直接助けてあげられなくても、世界中の人たちの役に立つことができる。
今、目の前で困っている人たちだけじゃない、遠く離れたところで苦しんでいる大勢の人
たちを救ってあげられる。
そして時間を超えて、未来の多くの人たちの力にもなってあげられる。たとえあたしが
死んでしまったあとでさえも。
あたしが心から進みたいと思った道。
ようやく、自分自身の意志で見つけ出すことができた道。
……この日あたしは、長い迷路を抜けた。
§
「これって魅力的な生き方だとは思わない? 相沢君」
「ああ、香里らしいと思うぞ」
香里の問いかけに素直に頷く。
医者の道を目指すきっかけは、栞のことがあったからかもしれない。それでも今はこう
して、自分の進むべき道をしっかりと見極めている香里。
心から、凄いことだと思う。
「俺も、香里を見習わなきゃな」
「そう言う相沢君は、どうなのかしら」
自分の目指したいものを語り終えた香里が、訊き返してきた。
「俺か? 俺は正直言って、まだ結論が出せないでいる。先刻まで、あれこれ悩んでいた
くらいだしな。でも医者の道を選ぶことに、もう迷いはない」
「そう。ならば頑張ってね。あたしにできることなら力になるわ」
とても優しそうに笑う。
「なんと言っても、同じことがきっかけで同じ道を選ぶ同志なんだから」
「ああ、よろしく頼む。冗談抜きで、今の俺の成績じゃ困難な道だからな」
「それは困ったわね」
ちっとも困った風でもなく、香里が笑っている。
俺もつられて笑ってしまう。久しぶりに、晴れやかな気持ちで。
これから先の俺たちがどうなるのかはわからないけれど、目指すものさえ見失わなけれ
ば、いつかはそこに辿りつける。そう信じて頑張ろう。
たとえどんなに時間がかかっても、決して諦めないで頑張ろう。
俺には、そのための時間があるのだから。
なあ、栞。
……俺はもう、迷わない。
§
そして、あれから季節は一巡りした。
……冬。雪が訪れたこの街。
去年の冬は、身も心も凍えるような辛さばかりが感じられた。それと比べれば、今年の
冬は過ごしやすいように思えた。
「それは祐一がこの街に慣れたからだよ。わたしは別に去年と変わらないと思うよ。祐一
も、もうすっかり、この街の一員だね」
名雪の言葉。
確かに冬の寒さ自体は変わりないのかもしれない。名雪が言う通り、変わったのは俺の
方なんだろうと思う。少しずつ、時間は流れていたんだな……。
「なあ、香里。雪だるまを作らないか? それも、とびきり大きいやつをだ」
「突然ね。どうしたのよ、いきなり」
結局俺は、栞との約束を果たすことができなかった。
大きな雪だるまを一緒に作ること。
今それを行うことに意味はないかもしれないし、それはただの感傷かもしれなかった。
「確かに今さらかもしれない。でも栞と約束したからな。それに俺たちが一緒にこの街で
冬を過ごすのは、もう最後かもしれないだろう? そう考えたら、何かをやり残したまま
この街を離れるのは偲びないように思えたんだ」
「そうね。学生生活の思い出に、ひとつくらい馬鹿をやっておくのも悪くはないかもね」
俺と香里はクラスの仲間を誘って、中庭に大きな雪だるまを作った。
栞との約束を果たしたい気持ちも確かにあった。でも本当に久しぶりに、子供に還った
ような気持ちで束の間の時間を楽しんだ。
さすがに栞と約束したような、巨大な雪だるまは作れなかった。でもきっと、栞も満足
してくれたに違いない。皆でこうして何かを一緒にやることに意味があるのだろうから。
皆が楽しければ、それで充分だと俺は思った。
「なあ、記念に皆で写真を撮らないか? こいつといっしょに」
北川の言葉に、皆が同意する。
「だったら、明日まで待って。それくらい構わないでしょう?」
けれど、香里だけが延期を希望した。
「何か問題でもあるのか?」
「秘密」
香里のいつもの口癖。悪戯っぽく、それでいて何かを懐かしむような表情を浮かべて。
雪だるまを背に、透き通るような青空の下で、皆で肩を寄せ合っての記念撮影。
真ん中には香里。その身体には、あのストールを羽織っていた。
「……そういうことだったのか」
「ええ。だって、あの子がいなくちゃ意味がないじゃない?」
「ああ、そうだな」
そして最高の笑顔で。
「いいかー? 撮るぞー?」
あとになって、担任の石橋からは注意を受けた。でも、石橋も笑っていた。
結局そいつは、壊されたり撤去されることもなく、春までそこに居座り続けた。
そして……栞を失ってから、もう一度巡ってきた季節。
雪だるまも融けかけていたけれど、春を迎えようと必死にまだ頑張り続けていた。
この北の街では桜はまだ咲かないけれど、陽射しの暖かさや風の心地良さが季節の移り
変わりを教えてくれた。
そんな中で迎える今日という日。
「なあ、香里。この一年、あっという間だったな」
「そうね、あっという間だったわね。あの子を失くしたのがついこの間のようにも思える
けれど、時間が経つのは早いものね」
結局、香里は都心にある某国立大の医学部に現役で合格した。この学園始まって以来の
快挙らしく、石橋たちが浮かれていたのが微笑ましかった。
「それで、いつ発つんだ?」
「そうね。明日には、この街を離れるつもり」
「そうか。早いな」
香里は結局、以前に聞いた通り医学者としての道を選ぶようだ。だからこそどうしても
訊いておきたいことがあった。
「香里は、この街に帰ってくるつもりはないのか?」
「そうね。今はやりたいことをやって、その上でいつかは……この街に帰ってきたいとは
思うわ。でも当面はそのつもりはないわ。だってまだ何も始まってはいないもの。それに
この街の思い出は、あたしにはまだ少し辛いから。時間をおいて考えてみたい」
栞との思い出がつまったこの街。忘れられない大切なもの。
けれど、もう少しだけ時間が欲しかった。その気持ちは俺も香里も同じだろうと思う。
「でも、いつかは。大切な誰かと一緒にこの街で、あの子の昔話でもしながら雪を眺めて
暮らすのも悪くはないと思うわ」
「……そうか。それは確かに悪くはなさそうだな」
「でしょう?」
香里が悪戯っぽく笑う。
「ねぇ、相沢君。相沢君は、これからどうするつもり? 前にふたりで話したときには、
まだ結論が出せないでいるって言っていたわよね。覚えてるかしら。あれからだいぶ時間
が経ったけれど、どんな結論が出たのか、ぜひ聞かせて欲しいわ」
「ああ、そうだな」
俺は結局、今年の受験には失敗した。
さすがに医者の道はそう簡単なものじゃない。むしろ当然の結果だろうと思う。
でもそのこと自体に悔いはない。来年、あるいは再来年、たとえ何年かかるとしても、
必ずやり遂げようと思う。
両親も、俺のやりたいことに対して余計な口出しはしなかった。
「本気でやりたいことがあるのなら、最後まで信念を曲げずにやり通しなさい」
ただそれだけだった。とは言え、両親からはいくつかの条件が出された。
俺は最初は、都心にある予備校に通うつもりだった。しかし結局、この街からそう遠く
ない、この地方の中核都市にある予備校に通うことに決まった。
海外住まいの両親にしてみれば、やはり何かと心配事が多いのだろう。さすがに大学の
選択にまでは口出しするつもりはないようだったが、予備校に通っている間は、少しでも
この街の近くで生活させたかったようだ。
週に一度は、秋子さんと電話で連絡をとること。月に一度は、水瀬家に顔を出すこと。
そして、決して途中で投げ出さないこと。
その条件を飲むことで、両親は俺の我侭を許してくれた。
だから俺も、もうすぐこの街を出て行く。香里と違って頻繁に帰ってくることにはなる
だろうが、それでも感慨深いものがあった。まして大学に合格したあとは、そうそうこの
街を訪れることもなくなるだろう。
俺の今の成績では、大学に合格するまでにどれくらいの時間を要するかわからないし、
香里と同じ大学に進むことなんて、とても考えられないことだった。
だから、もしかしたら香里とはもう、これから先ずっと会うことがないかもしれない。
以前に香里が言った言葉。
『同じことがきっかけで同じ道を選ぶ同志なんだから』
でもそれは、一緒に寄り添い歩いて行くことを意味するわけではない。そして今の俺に
はもう、何がやりたいのか、その目標がはっきりと見えていた。
それは、香里とは違う形で歩いて行く道。
そして俺が出したその答えが何なのかを、香里は訊ねているのだろう。
「俺は……」
俺の夢は、何よりもまず医者にならなければ叶わない。全てはその上でのことだった。
俺は栞を救いたかった。でもそのことで、自分の無力さを痛感した。そして今の医学が
万能ではないこともまた知った。
だからこそ香里は研究者としての道を選んだ。ひとつでも多くの治らない病気をなくす
ために。
そして俺は、それとは違う道を選んだ。
栞の病気は今の医学では治せないものだった。けれどもそれは、この時代に生きる者と
しては避けることのできない宿命だったと思う。最新の医療技術をもってしても、優秀な
医者をもってしても、栞の命を救うことはできなかった。
でもこの世の中には、満足な医療行為を受けられさえすれば助かる人たちが大勢いる。
決して優秀とはいえないような俺にだって、救うことができる人たちが大勢いる場所が、
この空の下にはいくらだってある。
「だから俺は医師の免許が取れたなら、どこか外国へ行こうと思う。アジアやアフリカの
ような、満足に医者にかかることのできない人たちがいる国へ」
「……そう」
始めは俺の話を意外そうに聞いていた香里が、納得したという風に頷く。
「ボランティアとして行くことになるだろうな。でも俺は別に、金儲けがしたくて医者に
なるわけじゃないからな。何より俺は、困っている人を放ってはおけない性質なんだ」
「相沢君らしい考え方ね」
香里がクスリと笑う。
「だからもしかすると、香里とはこれから先、なかなか会えなくなるかもしれないな」
「そうね。そうかもしれないわね」
少しだけ寂しそうな表情で俺を見返したあと、視線を外す香里。その瞳はどこか遠く、
空の彼方を見つめていた。
「人は皆、いつかこうして離れ離れになって行くのね。早いか遅いかの違いだけで」
香里の口から、呟くように零れ落ちた言葉。
「でも、また会えるさ。俺たちは……」
この同じ空の下で、共に頑張り続けているのだから。
そのことを励みにして、そしていつかまた会える日を信じて。
「なあ、香里。もしもの話だけどな。もし俺たちが何年後かに再会して、そのときまだ、
ふたりとも……」
「待って、相沢君。あたしはそんな約束に縛られるつもりはないわ。それにそういう運命
があるのなら、約束なんてしても無意味だとは思わない?」
俺の言葉を遮って、逆に問いかけてくる。
「確かに、そうかもしれないな」
「なら、いいじゃない? 先のことは、先のことよ」
いかにも香里らしいと思った。
少し考えたところで、俺はもうひとつ提案した。
「だったらもうひとつ。いつか俺が誰かと結婚してそのあと娘が生まれたら、栞って名前
を付けても構わないか?」
「そんなの、相沢君の好きにすればいいじゃない。あたしに断るまでもないことよ。でも
相沢君の奥さんの意向はどうするの?」
香里らしい、冷静な突っ込み。
「その点だったら、全く心配はないぞ。俺が結婚したいと思う相手だったら、娘に栞って
いう名前を付けたがるに決まっているからな」
「そう。でも奇遇ね。あたしも娘が生まれたら、栞って付けようと思っていたところよ」
香里だったらそう言うと思っていた。
「栞っていう名前は、俺たちにとっては特別だからな。でも香里の方こそ、亭主の意向は
どうするんだ?」
「あら、その点だったら何も心配はいらないわ。あたしが結婚したいと思う相手だもの、
きっと栞っていう名前を付けたがるに決まっているわ」
そこまで言ってから、悪戯っぽく笑う香里。
「そうか」
「そうよ」
そしてふたり、心の底から笑った。
ひとしきり笑って……もう一度、お互いに視線を合わせて……。
「じゃあ、これでさよならだな。俺は見送りには行けないと思うから」
「そうね。少し残念だけど、名雪にもよろしく言っておいてね」
そして香里は中庭に視線を向けた。そこには誰もいなかったけど、まるで姿の見えない
誰かのことを目に映すかのようにして。
「楽しかったわ。悲しいこともあったけど、幸せだった」
そっと呟くと、ひらりと身を翻す。
「じゃあね、相沢君。またいつか会いましょう」
瞳に光るものが見えたような気がしたけれど、俺が今まで見た中で最高の笑顔の香里が
確かにそこにいた。
今はもういない、ふたりの少女が教えてくれたもの。
目の前を遠ざかって行く、愛しい少女が教えてくれたもの。
俺はそれを背負ってこれからを生きて行く。
寂しくないと言えば嘘になる。でもこれが最後じゃないと信じているから。
その人が、世界のどこかで頑張り続けていることを励みにして。
そしていつかは必ず、この街に帰ってこよう。
そのときは、心から大切に思える人と一緒にいれたらいいなと思う。
ふたりで思い出話に花を咲かせながら、雪を眺めて暮らすのもいいだろう。
……でも。
§
この雪の街で生まれた物語。
そしていつかは、この街に還る物語。
けれど今はまだ、全ては始まったばかりだから。
だから俺たちは、一歩ずつ未来へと向かって歩いて行こう。
……真っ直ぐに。
§
『Kanon another story』
雪が降っていた。
思い出の中を、真っ白い結晶が埋め尽していた。
数年ぶりに訪れた白く霞む街で、
今も降り続ける雪の中で、
俺はひとりの少女と出会った。
『Epilogue・美坂香里』
the
END.
………………………… 戻る ……