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今朝は…なんとなく早起きしてしまった。

今日は日曜日。
普段も早起きの方だけど…
こんなに早く起きる必要なんかなかった。
名雪と約束した待ち合わせの時間にも、まだ早すぎる。
もっとゆっくり起きてからでも、時間は充分にあったはずだ。

けれど…たまにはこういう日もあっていい。
…そう思う。

そして私は…何気ない視線を窓の外へと向けた。



陽射しは徐々に暖かさを増している。
柔らかな光の粒たちは…
眩いばかりの美しさへと姿を変えて…
もうすぐ、また暑い季節が巡り還ってくるのだろう。

こんな北の街でも…
夏の空の碧さと風の薫りを感じることができる。
それは決して長くはない季節。
けれど…たくさんの想いを空色の思い出に変えて…
陽の沈むまで駆けまわった…一年のうちで一番楽しかった季節。

なのに…去年の今頃は…
そんな季節の移り変わりですら…
あまりにも、哀しく思えてならなかった。



     ふたり同じ制服に袖を通して…

       『栞。リボンが曲がってるわよ』

       『え〜? お姉ちゃん…お願い〜』




     ふたり一緒に学校へ通って…

       『待ってよ…お姉ちゃん。歩くの速すぎるよ〜』

       『…早くしなさい。遅れるわよ』




     ふたり一緒に中庭でお弁当を食べて…

       『そのおかず、貰うわよ』

       『だめです〜。最後に食べようと思って残しておいたのに〜』




     栞と偶然会った廊下で、他愛もないお喋りをして…

       『今日、百花屋に寄って帰ろうか?』

       『うん! じゃあ放課後、お姉ちゃんの教室まで迎えに行くね』




     そんな私たちをからかう親友たちに包まれて…

       『あら…香里の妹? 可愛い子ね』

       『あ…え…? …ええ?』




     そして…真っ赤な夕焼けの中…
     ふたり他愛もない話をして、道草をしながらの帰り道…。

       『お姉ちゃん、あのパフェおいしかったよ〜』

       『そう? じゃあ、今度は私もそれにするわ』




     そして…

       『…ただいま』

       『ただいま〜、お母さん』




…たったそれだけ。
本当にそれだけのことだった。

あの子が…
ずっと望んでいたのは…
たった『それだけ』のことだったんだ。

そしてそれは…
その気持は私だって同じだった。
私だって…あの子にそうしてあげたかった。
それは…私の願ってやまなかったことでもあったんだ…。

それなのに…それだけのことですら…
そんなささやかな願いすら…叶うことはなかった…。
栞と一緒に学校へ通えたのは…
あの子の高校の入学式の日…その最初の一日だけだった。

私にとってそれは…幸せな思い出として残る日になるはずだった。

けれど…
積み重ねられたのは哀しい思い出の繰り返しだった。

あの日私は…
無力という意味を…
流れて行く時間の残酷さを…
その先にある哀しみにも似た予感を…
無意識のうちにも感じて…心を凍えさせていた…。



それでも去年の今頃は…
まだ…栞の未来に絶望してはいなかった。
その頃はまだ、僅かな可能性が残されていたのだから。

小さな頃から、決して丈夫ではなかった栞。
そんなあの子を見ているのが、子供心にも辛かった。
でもあの子の笑顔が…
決して笑顔を失わなかったあの子の優しさが…
どれほどまでに、幼かった私の心を勇気付けてくれたことか知れない。

そして…
私たち姉妹は…
ずっと今までそうやって…
ふたりで頑張って…ここまで辿りついたんだ…。

だから…栞が私と同じ高校への進学が決まって…
穏やかな日常の風景と…僅かな希望を胸に描いたけれど…
以前と何ら変わることのない…同じ生活の中に戻ってしまっただけ。

そして…あの子の哀しみを想って…刹那哀しかっただけ…。

ただ…それだけ。
…それだけのはずだった。

でもそんな…
ささやかな希望のひとひらが…
既に生まれてしまった…行き場のない想いの存在が…
私の中で…
消えない傷跡だけを残して…
あの子に対する私の心の模様を変えてしまっていた…。

…そう。

あの頃から、私には自分の心が見えなくなっていた。
自分の心が見えなくなっていることにすら、気がつけずにいたんだ…。

だから…あの頃からなんだろうと思う。
私は自分がそれ以上に傷つく事を恐れて…少しずつ何かを間違えていった。

そして寒い季節を迎えたあの日の…医師の宣告。

  『おそらく栞は、次のあの子の誕生日までは生きられない』



あの日から、私の栞に対する態度は決定的に変わってしまった。

…自分ではそのことに気がついていた。
けれど…もう自分でも、どうすることもできなかった。

私は…何もかもが間違っている…
そのことに理性では気がついていたけれど…
止めようのない感情が…それを許してくれなかった。
知識上の概念として理解できるだけで、その本当の意味をわかっていなかった。
そして…溢れる想いがあまりにも強すぎるから…
その陰にある、あの子の本当の気持ちに気づいてあげられなかった。
それほどまでに…
あの頃の私には、心に一切のゆとりがなかった。

…今ならば、そのことがよくわかる。

あの頃を振り返れば…
追い詰められていたのは、あの子の方だったのか。
それとも…本当に追い詰められていたのは私の方だったのか。

少なくとも言えることは…
栞のことが本当に大好きで大切に想う気持ち。
私にとってのその気持は、小さな頃からずっと変わりなかったはず。
なのに…いつの頃からかそれすらも見失っていた。
そんなことですら思い出せないほど…あの頃の私は追い詰められていたんだ…。



だから私は…
今この場にはいない『あの人』に…そっと感謝する。

本当に大切なあの人に…。

その人は、栞の心を救ってくれた人。
そして私の心もまた…同じように癒してくれた人。
栞との切れかけていた絆をもういちど…強く結びつけてくれた人。
本当に大切なことがなんなのか…
私が見失いかけていたものを、思い出させてくれた人。

起こらないはずの…『奇跡』を起こしてくれた人。

いつも栞の隣に立って…
栞と共に…同じ未来を歩いて行く人…。
私が願ってやまない…あの子の幸せを叶えてくれる人…。

…私の『大好き』な人…。



きっとあの人の運命の相手は…栞なんだろうと思う。

そしてそのことを、本当に嬉しく思う。
だって私は…あの子のことが大好きなのだから。
あの子の幸せが、ずっと私の願ってきたことなのだから。
今はこんなにも穏やかな気持ちの中で、幸せを実感できるのだから。

だから…今はこれでいいと思う。

何も…あの人の心を手に入れることだけが幸せの形なわけじゃない。

大好きなふたりが本当に幸せで…
そんな願ってやまなかった光景の中に、私の姿もある。

だから…あの人の隣にいるのが私じゃなくても…
その人との出会いが『かけがえのないもの』だとわかるから…。
今が本当に大切で、透き通るような気持でふたりの傍にいることができるから…。

だから…
たとえあの人と一緒にいられなくても…
あの人の運命の相手が栞なんだとしても…私にはもう…どうでもいい。

ただそれでも…
自分の正直な気持ちだけは…
本当の想いだけは…偽れないことはわかっている。
わかっているから…。

  (…ごめんね…栞…)

だから…そっとあの子に謝罪する。
別にあの人のことを手に入れたいわけではない。
けれど…私はきっと、生涯あの人のことを忘れはしないだろう。
いつか他に愛する人ができて…
その人と本当に幸せになることができたとしても…
それでもきっと、一生あの人のことを忘れることはないだろうと思う。
そう思えるくらいあの人は…
私と栞に、本当に大切なものを与えてくれたのだから…。
だから今は…自分の気持ちのままに、あの人のことを想い続けたい。

  (…想い続けることは、自由だものね)

  (…だから…今はごめんね…栞…)

  (でも…いいわよね?)


そして…。

  (ありがとう、祐一)



あの人の名前を口にするとき…
私は、他人行儀に『相沢君』と呼ぶ。
もちろん、いつものポーカーフェイスで…。
だから周りの友達は…おそらく名雪ですら、私の想いに気がついてはいないだろう。

でも…たったひとり…
私の想いに気がついている人がいるとしたら…。

  (…栞…)

私と同じ想いを胸に抱くたったひとりの女の子。

あの人を愛する気持ちも…
もうひとりの姉妹を大切に想う気持ちも…同じ。
そのどちらもがかけがえのない気持ちであり、偽りのない愛情だから…。

だからあの子はきっと、私の胸の中の想いに気がついているのかもしれない。

  (でもね…栞。この気持ちは、きっと変えられないと思うわ)



あの子は私のことを…
私が心に抱く想いを、どう思っているのだろうか。

いつかは栞に、この想いを話さねばならないと思う。
それが私なりのあの子への誠意であり、愛情だと思っている。
真実を告げることで、何かが変わることを期待しているわけではない。
けれど…本心を偽ったまま逃げ続けることは、間違っていると教えられたから。

そんな些細なこと…
けれど…本当に大切なことを、あの人が教えてくれたから。

だからいつかきっと、栞にはこの想いを伝えなければならない。
…いや…『伝えたい』と思う。



考えてみれば、栞の病気のせいもあってのことだろう…
お互いに、強く何かを主張するということがなかったように思う。
私は…栞に対して接するとき、無意識に手加減をしていたのかもしれない。
栞のことを大切にするという『言い訳』をして、自分の想いを表には出してこなかった。
そうして本当の気持ちを押さえているうちに…
いつしか私は、栞との間に見えない壁を作ってしまっていた。
そしてあの医師の宣告を聞いたあとの私は…栞のことを忘れようとすらした。

大好きな妹だから…。
本当に大切な人だから…。
かけがえのない存在だから…。

だから…途中で失うくらいならば…
こんなに哀しい思いが待ち受けているのならば…
栞なんて子は、初めから居なかったことにしてしまえばいい…。
私には大切な人なんて…失って哀しむべき相手なんて初めから存在しない…。
…そう願った。
そう思い込もうとした…。

けれど…初めからそんなことなど、出来はるはずなかったのに。
こんなにも哀しく切なくなるほど、私にとってかけがえのない相手だったのに。

栞との想い出を、消し去ってしまうことなど初めから無理だったんだ。
栞のことが大好きだというこの気持ちが、消えてしまうなんてあるはずがなかったんだ。

なのに…自ら壁を作って、気持ちをぶつけあうことなどしなかった。
あの子の本当の気持ちに、応えようとはしなかった。

あの子とだったら…どんなに辛い思い出だって…
それですらも、ふたりの共有する幸せに変えられたはずなのに…。
ごく普通の姉妹として接することが、あの子の…そして私の本当の願いだったのに。

たとえそれが、姉妹喧嘩だってかまわなかったんだ。
そしたら…そのあとに、謝ればいい。
『ごめんね、栞』って。
『お姉ちゃんは、本当は栞のことが大好きなんだから』って。
素直な気持ちを伝えるだけで良かったんだ。

…ただそれだけのこと。
ただそれだけのことでよかったはず。
それだけで、ふたりとも幸せでいられたはずだった…。

なのに私たちは…それすらもできない姉妹だった。
お互いに、本当の気持ちを見せあうことができなかったんだと思う。
私が壁を作って、あの子を遠ざけたのも本当のこと。
でも…あの子の方も、決して私に踏み込んでこようとはしなかった。
お互いに相手を想う気持ちが強すぎて…自分の気持ちを押さえてしまったから…。
そうしていつか…ふたりとも、心の奥底にある本当に大切な想いを見失ってしまったから…。

だからこれからは、もっともっと私に甘えて欲しい。
拗ねられたってかまわない。

私は…あの子の想いを、余すことなく受け止めてあげたいと思うから…。

  (もっとも…今では、祐一がその役割を果たしてくれるから…)

正直に言えば、それは少し寂しいことではあるけれど…。
でも…自分の世界に閉じこもっていた栞が、未来へと足を踏み出していく。
だから私は…ほんの少しの寂しさと、それ以上の喜びであの子を応援してあげたいと思う。

栞も祐一も、本当にかけがえのない大切な人だから。
ずっとふたりを…遠くからでもいい、見守っていきたいと思う。



…朝の透き通るような空気。
窓の外には…降り注ぐ初夏の陽射し。
一瞬…時が止まったかとすら思えるほどの静寂…。
そんな穏やかな日常の中で…
本当に大切なものを思い描いて、暖かさで胸がいっぱいになっていた…。





不意にリビングのドアが開き、その音で気持ちが現実に引き戻される。
頬杖をついたまま、何とはなしに視線をドアの方へと向ける。

…本当は、少しだけ驚いた。

ただ…それは栞の方も同じだったようだ。
誰もいないと思っていたのだろう、一瞬だけ驚いたような顔をした。

  「おはよう、お姉ちゃん」

けれど…一瞬だけの間を置いて…
それでも何か思い巡らすような表情をしながら、栞が朝の挨拶をする。

栞の瞳が私の瞳を見つめ返す。
しかしすぐに、その瞳が『ふっ』と優しさを帯びる。
栞の表情が弛み、一瞬生まれていた緊張感は既にどこかへと消え去っていた。

そしてもう一度微笑み返す栞。

  「お姉ちゃん、今日は早いんだね。びっくりしちゃった」

…そう。
私の方も驚いた。
普段なら、栞はまだ眠っている時間だ。
私にしたところで、大抵はまだ眠っていることの方が多い。
そんな中…栞と祐一のことで物思いに耽っていた時に、急にこの子が現れたのだ。
いくら私だって、多少は動揺もしようというものだ。
けれど…こういうのも悪くはないと思う。
だから私は、わざとこんな風に言い返してしまう。

  「…それはこっちの台詞よ。栞にしては珍しく早起きね」

勿論、冗談である。
栞は決して、朝寝坊な子じゃない。

  (…名雪のことを思い出しちゃうわね)

栞の方も、私が冗談で言っていることを見抜くだろう。
今の私たちにとっては、こんなやり取りですらもが愛しく思えてならない。
そしてそれは、栞も同じ気持ちなのだろう。
だから…栞の方も、ちゃんと私の期待に応えてくれる。

  「お姉ちゃん、私だって早起きくらいするよ〜」

予想通りの反応である。

  「…ふふ。そうだったかしら?」

真顔で答えたつもりだったけれど、気持ちが表に出てしまう。
私の瞳は…おそらく何よりも雄弁に、栞への想いを映し出しているだろうと思う。

  「…そんなこと言う人、嫌いです…」

いつもの口癖。
栞が少しだけ拗ねてみせる。
そんな栞の仕草が可愛く思えてならない。

自然と…表情が弛む。

私のポーカーフェイスを崩せる唯一の相手。
でも…それは悪いことではない。
こんなポーカーフェイスなんて、本当はもう必要ないのだから。
栞のことがきっかけで、身についてしまった仮面。
ならば、栞に崩されたっていいと思う。
そして…いつかきっと…。

  (まあ、私の元々の性格もあるんでしょうけどね…)

そして、私のいつもの口癖が口を突いて出る。

  「冗談よ」

こんな風にして、栞をからかってみる。
栞の方も、それで楽しんでくれているように見える。
こんな幸せな時間が過ごせるのも全部、栞が元気でいてくれるからだ。
…だから。

  (ありがとう、栞)

いつしか私の表情は、素直な気持ちからの笑顔へと変わっていた…。

  「おはよう、お姉ちゃん」

こんどこそ、本当に『幸せだよ』という笑顔で栞が挨拶を返してくる。

こんな一瞬の幸せ。
あるいは間違いに気がつかないまま…
永遠に失ってしまっていたかもしれない幸せが、今ここにある。
だから今は…こんな一瞬一瞬を、ずっといつまでも大切にしていきたいと心から思う…。



栞がテーブルを挟んで腰掛ける。
淹れたてのコーヒーを飲みながら、他愛もない会話を交わす。

どんな些細な話題でも構わない。
今はただ…こうして、栞とふたり何でも話していたい。
そうしていつか…私たちの間に生まれた溝を、少しずつ埋めていきたいと思う。

ふと…栞が口を滑らせる。
栞の早起きは、祐一とのデートが原因らしい。
…早い話が、興奮するあまり良く眠れなかったということのようだ。

  (初々しいというか…まだまだ子供ね)

もちろん、栞が祐一と付き合っていることは知っている。
けれど…やっぱり少しだけ動揺した。

栞が起きてくる前に、ひとりで物思いに浸っていたことが原因かもしれない。

  (ごめんね、栞)

もう一度だけ、心の中で謝罪する。
何となく決まりが悪くて、飲みかけのコーヒーカップへと視線を落とす。

気を取り直してコーヒーを一口啜る。
不思議なほどに、気持ちが落ち着いていくのがわかる。

…大丈夫。
そしてもう一度、栞の方に視線を向ける…。

あとはもう…いつものふたりだった。



     私と祐一が結ばれるということは、この先もおそらくないだろうと思う。
     それは…同じ想いを抱える名雪にしても同じことだろう。

     あの子の想いも…私の想いも…
     いつしか、この蒼い空に溶けて消えてしまうはず。

     けれど…そのことに不愉快さはない。

     祐一と栞が共有する幸せが、私にとっての幸せでもあるのだから。
     大好きなふたりの幸せを、心から祈っているから。
     そして…今はそれでいいと思う。

     だから、頑張りなさい…栞。
     自分の幸せのために。
     今まで犠牲にしてきた、多くのものを取り戻すために。
     …私も頑張るから。

     そして…
     いつかきっと、ふたりとも幸せになろうね。

     本当は、いつまでも一緒に居られたらいいと思う。
     ふたり一緒に居られたら、それが私たちの共有する幸せになる。
     それでも…
     栞はいつか、祐一の元へと行くだろう。
     けれど…ふたりの間の距離が問題なわけじゃない。
     心が繋がってさえいれば、いつでもふたりは一緒なのだから…。

     それが…私たち姉妹の幸せなんだろうと思う。

     だから…。


     『大好きよ、栞』

     『いつまでも…本当にいつまでも…』

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