………………………… 戻る ……

真冬の冷気が部屋全体を包み込んでいる。
凍り付きそうなほどに寒くて…冷たくて…刺すように痛い。
吐く息が白くなる。
それでも、心の奥底が冷えきってしまったわたしにとっては…
こんな表面的な寒さなど、どうでもいいことだった。
わたしは…自分の内側から…凍えていたのだから…。

そして…
そんな冬が訪れた部屋の中で、わたしはひとりきり…
冷えきった床の上に、うずくまるようにして…
膝を抱きかかえるようにして…座り込んでいた。
この手をほどいてしまえば、何か大切な物がこぼれ落ちてしまう。
二度と取り戻すことのできない、大切な何かが…。
そんなふうに、大切な物を抱きかかえるかのように…
わたしは…ひとりきりで…自分を強く抱きしめていた。

ひとりぼっちで…そこに…いた。

そしてその視線の先には…白い目覚まし時計がひとつ。
わたしは…定まらぬ視線で…
ぼんやりとそれを見つめていた。

ただそうして…いつまでも…それを見つめていた…。



     ドアをノックする音。
     ややあって、ためらいがちな声がかかる。

       『…名雪』

     祐一の声が耳に届く。
     でもわたしは…
     答えることが出来なかった。

     祐一は構わず続ける。

       『俺は、今日一日、あの場所で待ってる』

     …。

       『ずっと、待ってるから…』

     …。

     あの場所とは、むろん『あそこ』のことだろう。
     いつも待ち合わせに使っていた…
     そして7年前のあの日、哀しみを刻みつけた…
     わたしの想いが、どこにも行けないまま砕け散った…
     雪に白く彩られた想い出の場所。
     駅前の…ベンチ…。
     そこはこの街で…いちばん大嫌いな場所。
     …いちばん…大好きだったはずの…大嫌いな場所…。

     わたしは言葉を返すこともできずにいて…
     けれど祐一は、わたしが聞いていることを確信しているかのように…
     本当に、穏やかな口調で語りかけてくる。

       『それと、この目覚まし時計…』

     ことん、と何かの音がした。

       『名雪に、返すから』

     祐一に貸しっぱなしだった、あの白い目覚まし時計。
     わたしのいちばんのお気に入りの…目覚まし時計。
     そして…。

       『じゃあな、名雪』

     それっきり…
     全ては静寂を取り戻した。
     祐一は…わたしを待つために、あの場所へと向かったのだろう。
     決してそこへ行くことのないわたしを待ち続けるために…。




そして今、わたしの目の前には…
想い出の目覚まし時計が置かれている。
いつの間に取りに行ったのだろう…
自分でもよくわからない。
ただ…気がついた時にはもう、じっと目覚まし時計を見つめていた。
本当に無意識のうちに体が動いたのだろう。
そう…。
そこには…私の声が録音された、白い目覚まし時計が置かれていた…。

そこには、まだ笑っていられた頃のわたしがいるはずだ。
もう戻れない、あの頃のわたしが…。



       『あの目覚まし時計、ここで買ったんだよ』

     放課後…学校の帰り道。
     お気に入りの雑貨屋さんの前。
     そして…祐一とふたり…寄り道をして…。

       『俺が借りた、余計に眠気を誘うやる気のなさそうな目覚ましのことか?』

     ひどいことを言われているような気が…しないでも…ない。
     もちろん、傷つけようとは思っていないのだろう。
     しかし、どうやら本音で言っているようだ。

     …それってひょっとして…目覚まし時計のことではなくて…

       『祐一、ひどいこと言ってる?』

     実際のところ、本気でひどいことを言われているとは思わないけれど…
     どうやらその対象は、目覚し時計ではなくて…
     吹き込んである、わたし自身の声の方のようだ。

       『いや。ただ、珍しい目覚ましだなって思って』

     これも本音だろう。
     けれど、うまくはぐらかされてしまったような気がしないでもない。
     …べつに、いいけどね。
     そして…

       『わたしの、にばんめにお気に入りの目覚まし時計だよ』

     …嘘をついた。
     本当は…いちばんお気に入りの目覚し時計なのに…。

       『だったら、いちばんはどれなんだ?』

     当然の疑問だろうと思う。
     そうでなくとも、祐一は好奇心が強いほうなのだから。
     でも他にもちゃんと、お気に入りの目覚まし時計があるから…
     いきなりでも、返事には特に困りはしない。

       『歯車の見える時計』

       『歯車…?』

       『すっごくおっきくて、文字盤が透明で、中の歯車が見えるの』

       『今度部屋に入ったら、探してみて』


     そう。
     これも、お気に入りの目覚し時計だった。
     それもとびきりの。
     祐一に貸してあげたあの白い目覚し時計さえなければ…
     この大きな目覚し時計が、間違いなくいちばんのお気に入りのはずだった。
     だから…いちばん…という点以外では、確かに嘘はない。

       『でも、どうしてそれがいちばんのお気に入りなんだ?』

     これも、もっともな質問だ。

       『高かったから』

     即答する。

       『…なるほど』

     祐一のようなタイプには、いちばん説得力のある答えだろうと思う。
     実際、わたしの返答に納得がいったようだ。
     それっきり、祐一から目覚し時計に対する質問は出なかった。

     わたしは…このとき…祐一に嘘をついたんだ。
     だって…。

     あの夜…
     祐一が目覚まし時計を貸して欲しいと言ってきたとき…
     ある考えが、わたしの頭に浮かんだ。

     祐一は、特別な人だったから…
     だから、わたしのいちばんのお気に入りの目覚まし時計を使ってもらいたかった。
     いちばん大切な目覚し時計だから…
     祐一の部屋に、祐一のそばに、一緒に置いて欲しかった。
     そう思った。
     そうすれば、祐一と一緒にいられるように思えたから…。
     それに、あの目覚し時計にはわたしの声が吹き込んである。
     わたし自身は、朝は弱いけど…
     わたしの声で、毎朝祐一を起こしてあげられる。
     本当は、わたし自身で毎朝祐一を起こしてあげたいけれど…
     せめて、このささやかな願いを…
     いちばん大切な宝物に、代わりに叶えて欲しいと思ったから。

     だから…祐一には…あの目覚し時計を貸してあげた。

     祐一は鈍いから…わたしの本当の気持ちには…気づきはしないだろう。
     けれど、それでも少し恥ずかしかったから…
     やっぱり照れ臭かったから…
     だから…嘘をついた。
     嘘をついたんだ…。




そして…その目覚し時計も、今はこうしてわたしの元へと返ってきた。
つまりそれは、こういうことだろう。
目覚まし時計には、わたしの声が録音されている。
今日まで毎朝、その声で祐一を起こしつづけてきた。
けれど祐一は…今…目覚し時計を返しにきた。
だから…きっと、こう言いたいのだろう。

ずっとあの場所で待ちつづけるから…
いつまでも待っているから、わたしに来て欲しい。
来て、わたし自身の本当の声で語りかけて欲しい。
こんな機械仕掛の声じゃない、本当のわたし自身に…。

そして…

それは…



       『…祐一…』

       『…さっきの言葉、どうしてももう一度言いたいから…』

       『…明日、会ってくれる?』

       『…ここで、ずっと待ってるから…』

       『…帰る前に…』

       『…少しでいいから…』

       『…お願い、祐一…』

       『…ちゃんと、お別れ言いたいから…』




それは…

あの日のわたし自身の願いでもあったんだ…。
そうだったんだよ、祐一…。

だから…祐一の気持もわたしにはわかる。
わかるんだよ、祐一…。

  (でもね…)

胸が錐で刺されたように痛む。

  (…ダメ…なんだよ…)

お母さんのことを想うと、もう…

  (わたし、もう笑えないよ…)

  (笑えなくなっちゃったよ…)


涙も…もう…こぼれてはこない。
そんなもの、体のどこにも残されてはいない。
全て…失われてしまった。

  (わたし、強くなんてなれないよ…)

心も…体も…もう、空っぽの存在。
虚無に囚われた、抜け殻だった。

ただ…ここにあるだけ。

ここにあるだけ…ただ…それだけだった。

  (ずっと、お母さんと一緒だったんだから…)

それは、あまりにも突然の出来事だったから…。

だから…。

もう…何も考えられない。
これで何度目だろう…
同じことばかり考え続けている。
思考は同じところをぐるぐる回るだけ。
これ以上、どこへも行くことができないでいた。

  (お母さん…わたし、立てないよ…)

  (わたし、歩けないよ…)

  (もう何も見えなくなっちゃったよ…)

  (どうしたらいいのか、もう…わからないよ…)


昨日と同じ今日を過ごして…。
そして今日と同じ明日が来て…。
…その次の日も…いつまでも…また同じ日常を繰り返していく。

いつもと変わらぬ幸せな日々が、ずっと続いていくと信じていた。

だから…。

  (お母さんがいなくなったら、私…)



お母さんがいなくなる。
そんなこと、想像したことすらなかった。
起こるはずのないことだと思っていたから。
だからそんなこと、考える必要などなかったんだ…。

お母さんは…ずっとお母さんで…
いつもそこにいてくれて…
笑顔で…楽しくて…
ただ…幸せで…本当に幸せで…
ふたりがそこにいるだけで…ただそれだけでよかった。
それはずっと変わらないもののはずだった。
そう思っていた。
そう…信じていた。
そのことに何の疑問も持たなかった。

だって…あまりにも穏やかで、幸せな日常だったから。

だから…こんなこと…
今の自分にとって、起こり得ない出来事だったはずなのに…。
それなのに、そんなあり得ないはずの現実が…。
それが今、喉元に突きつけられた刃のように、私を苦しめている。

  (お母さん…)

もう、何も考えられない。
お母さんの無事を祈る…そんな単純なことすらもできずにいる。
ただ忍び寄る死の影に怯え、うずくまるだけ。
現実にはまだ、本当にお母さんを失ったわけではない。
なのに…。
私の心の中は、虚無に蝕まれ始めていた。
それはまるで…ピースを欠いたパズルのように…
私の心は、すでに何かを失ってしまっていた。
無邪気で…ただ幸せだったあの頃。
もう戻らない時間。
二度と…戻れない…時間。
たとえお母さんを取り戻すことができたとしても…。
もうあの頃のように、明日が無条件で存在するなどとは思えない。
あの頃と同じように…
何も知らずにいたあの頃のように…
無邪気な笑顔で笑うことは、もうできはしないだろう。
だから…永遠に…
わたしの中から…失われてしまったものが…
…確かにそこにはあったんだ…。



思えば、私にはお母さんしかいなかった。
私はお父さんの顔を知らない。
まだ本当に小さかった頃、いちどだけお母さんに尋ねたことがある。
お母さんのあんな笑顔は、あの時ただいちどきりだったと思う。
いつものような…でもいつもと違う…優しい笑顔。
けれど…お母さんは…。
あれは、お母さんの泣き顔だったのだろうか。
今でもそう思えてならない。
涙はなかった。
けれど…笑顔で泣いていた。
そう思う。
だから…それ以来…にどとお父さんのことを訊くことはできなかった。
お母さんが、あまりにも辛そうだったから。
お母さんにそんな思いをさせてしまったことが、あまりにも辛かったから。
だから、もう訊くことをやめた。
それでもよかったから。
だって、私にはお母さんがいたから。
お母さんがいるだけで、こんなに幸せなのだから。
確かに、お母さんがいるだけでこれほど幸せなのだから、
もしもお父さんがいたら、それは想像もつかないほどの幸せなのだろう。
そう思ったことも何度かある。
でもやっぱり、それは想像もつかないことだったから。
だって、今でも充分すぎるくらい幸せなのだから。
だから、お母さんがいてくれるなら…。
ずっと私の側にいてくれるなら、お父さんがいなくても大丈夫。
そう思って、今まで二人きりで頑張ってきたんだ。

お母さんがいてくれたから…
わたしは…頑張ってこれたんだ…。

だから…。



想い出の中のわたし。

そして…お母さん…。



その目覚まし時計は、お母さんにプレゼントしてもらったものだった。
それは、まだほんの1ヶ月前のこと。
わたしの誕生日。
お母さんに欲しい物を尋ねられて、この目覚まし時計を買ってもらった。
ずっと欲しかった目覚まし時計。
でも、お母さんにプレゼントしてもらいたくて、ずっと我慢していた。
見つけた時から、今年の誕生日にはこれを買ってもらおうと決めていた。
だから、目覚まし時計が欲しいと言ったときのお母さんは…
半分あきれ顔で…半分納得顔で…そして、優しく笑っていた。
世界でたったひとつきりの目覚まし時計。
生命を吹き込んだとき、それはかけがえのない宝物になった。
お母さんの想い出の詰まった、大切な宝物…。

思えば、一緒に街を歩いたのは…あれが最後だったのかもしれない。
そう思うと、余計に哀しくなる。

  (お母さん…)

目覚まし時計に両手を伸ばし…
そっと抱きかかえる。
お母さんを抱きしめるように。
わたしの胸の中に。

目覚まし時計は、胸の中で『コチコチ』と時を刻み続ける。
まるで、お母さんの鼓動のように。
目覚まし時計が時を刻み続けている限り、お母さんも大丈夫…
そんな錯覚さえ感じられてくる。
永遠とも思える時間の流れを感じる。
このまま…ここに留まっていたい。
永遠の世界に…こうしてい続けたい。
辛い現実が…
哀しい未来が待ちうけているのなら…
そんなもの、欲しくはない。
ここにずっと、こうして留まっていたい。
もうどこへも行きたくはない。
わたしのことはもう、このままそっとしておいて欲しい。

けれど…

…けれど。



午前0時。

それは…魔法が解ける時間。
どんなに幸せな魔法も解けてしまう…。
どんなに幸せな時間も…永遠に続くことはない。

でも…。
哀しい魔法も…苦しい魔法も…
同じように解ける時が来る。
苦しみが…永遠に続く事はない。
…そんなことは…決してなかったんだ。

そして…いつか…
朝日が差して…全てを溶かしてしまう。
夜の闇が消える…
哀しみも全て消える…
そんな夜明けは…いつかかならずくる…。



       『名雪』

     …わたしを呼ぶ声がする…。

       『…名雪』

     …ほら…もう一度…。

       『もう…目を覚ましなさい? 名雪』

     …それは…誰の声…?

       『あなたはもう…充分に苦しんだわ』

     …それは…お母さんの声…。

       『それ以上…苦しむのはおよしなさい…』

     …ううん…違う…。

       『祐一さん、困っているわよ?』

     …だって…お母さんは…。

       『それにあなたがそんなだと…お母さんも哀しいわ』

     …じゃあ…これは…誰…?

       『それにあなたにはもう…』

     …わたしの…心の声…?

       『祐一さんがいるのだから』

     …でも…やっぱり…お母さんの声…。

       『お母さん以上に…大切な人が…かけがえのない人が…』

     ……そんな…こと…ない…。

       『ふふ…。自分の心にもっと素直になりなさい』

     …そう…だけど…。

       『だからもうあなたには…お母さんは必要ないはず』

     …そんなことない…。

       『いいえ。もう…わかっているはずよ』

     …違う…違うよ…。

       『あなたにはもう…お母さんの代わりに支えてくれる人がいるから』

     …わたしには…まだ…お母さんが…。

       『いいえ。あなたはもう…大丈夫』

     …そんな…。

       『大丈夫よ。祐一さんを信じて…』

     …けど…わたし…。

       『祐一さんは、あなたを信じているわ』

     …でも…わたし…祐一との約束を…。

       『大丈夫よ。あとは…あなたが応えるだけ』

     …わたしが…。

       『さあ。行きなさい』

     …お母さん? どこ?

       『お母さんは…名雪の心の中にいるの』

     …わたしの?

       『そう…。だから…いつでも一緒よ』

     …お母さん…。

       『さあ。祐一さんが待っているわ』



  『祐一さんが、待っているわ…』



  「…お母さん!」

思わず叫ぶ。

意識が呼び戻される。

一瞬…視界に…お母さんの姿が…
お母さんの姿が…見えた…ような…気がした…。

いつものように微笑んだ…お母さんの姿が…。

そして…
見つめた先は…
以前と変わりない…
ひとりぼっちの…わたしの部屋だった…。

目覚まし時計の針は…もうすぐ真上を差して…重なろうとしている。

  「ゆ…め…?」

ここ数日…全く眠れない日々が続いていた…。
それほどに…心が張り詰めていたから…。

けど…今…わたしは…
ほんの一瞬…まどろみの中で…お母さんの夢を見ていた。
見ていたような…気がする…。

けどそれは…
わたしの心が生み出した…お母さんだった…。

だから…夢の中でのお母さんとの会話は…
お母さんの姿を借りて語りかけたものだったけど…
それは…自分の心の奥底で見つけ出した答えなんだろうと思う。

だけど…

  「やっぱり…怖いんだよ」

  「どうしようもなく…怖いんだよ」

  「…怖いんだよ…祐一…」


そう…。
わたしは…祐一を傷つけた。
きっと…深く傷つけてしまった。

あの日…7年前のあの日…。

祐一に傷つけられたわたし。
それは…とても哀しく切ない想い出…。
あの日…わたしの心は…二度と消えることのない痛みを刻み込んだ…。

そして…今…。
あの日の祐一と同じことをした…わたし。
そんなわたしに手を差し伸べてくれたのは祐一。
だから…あの遠い日と…ふたりの立場が入れ替わった。
わたしが傷つけたのは…祐一だから。
祐一の心は…きっと…傷ついているから…。

  (でも…わたしは…祐一のことを受け入れて…)

  (受け入れて…思い出に変えることができた…)

  (なら…祐一は…?)


人の心がわかるなら…。
本当に…心からそう願う。

だから…怖いんだ。
…どうしようもないほどに…。

  (でも…祐一なら…)

  (祐一なら…きっとわたしのことを…受け入れてくれる…)


…心のどこかでそう思う。
そう思う気持が…祐一を信じる心が…
お母さんの言葉を借りて…わたしに語りかけてきたのだろうと思う。

けれど…。

あと一歩の…勇気。

ほんの少しだけの…勇気。

なのに…どうしても届かない…。

前へ進めない…。

  (…ゆう…いち… …わたし…どうすれば…)

わたしは…
お母さんより、祐一を選んだ。
心の奥底で…もう答えは出ていたんだ。

…これからの人生を…共に歩んで行きたい人。

けど…祐一は?
祐一は…どうなんだろう?
こんなわたしに…愛想をつかしてはいないだろうか?
わたしはもう…祐一に嫌われてしまったのではないだろうか?

…ううん…。
祐一のことだもの…
きっとそんなことはないだろうと思う。

でも…怖いんだ。

わたしは…
お母さんより…祐一を選んだ。
もう…わたしの心は決まったんだ。
けれど…もし祐一に見放されてしまったら…?
そのときわたしは…お母さんと祐一…
ふたりのかけがえのない人を…同時に失うことになる。
だから…
それが怖くて…
どうすることもできないんだよ…。



けれど…どんなに暗く長い夜も…
そんな夜も…かならず朝日に照らされて…
…全てが光に包まれて…淡い光に溶けていく…。

哀しみのまま、終わる事なんてない。

そして…私はまだ知らなかったんだ…。
幸せの魔法は…すでに…かけられていたということを…。
哀しみの魔法が解ける時間が…もうすぐそこに迫っていたことを…。



時計の針が頂点を指して重なる。

今日が…今日という日が…今…終わる。

  (ごめん…ね… …ゆう…い…ち…)

けれど…。



  「祐一!」

それは…。

本当に…
真剣な想いで…
全ての想いを込めて…
わたしに伝えられるメッセージ…。

  「…ゆう…い…ち…」

ごめんね…。
本当に…ごめんね…。
心の中で…何度も繰り返す…。

けれどそれは…さっきまでの謝罪とは違う…。

嬉しいから。
心から…嬉しかったから。
祐一への…留めようもない想いが…
あとから…あとから…溢れ出てくるから…。

  「ありがとう…祐一…」



そしてわたしは…駆け出す。
『今日』という名の『昨日』には間に合わなかった。
けれど…『昨日』という名の『今日』を追いかけるかのように。
わたしの全部の力で。
ありったけの力を振り絞って。
大切な人の元へ。
大好きな人の待つ…想い出の場所へ…。
喜びも…哀しみも…全て刻み込んだ…あの場所へ…。

大好きだった…大嫌いだった…
全てが始まって…全てが終わった…大切なあの場所へ…。

  (お母さん…わたし…走れるよ…)

  (前に進めるよ…)

  (ごめんねお母さん…)

  (でも…わたしきっと…幸せになるから…)

  (祐一とふたり…幸せになるから…)


雪の街を駆け抜ける。
幸せの待つ場所へ向かって。



ふと…お母さんの声が聞こえたような気がした。
遠い空の向こうから…。

  『幸せにね…名雪』

だから…。

  「…頑張るよ」

  「…わたし頑張るよ…お母さん」


涙を拭う。
私の身体には…
まだ…涙は残っていたんだ。

でも哀しみの涙は…
いつか…喜びの涙へと変わっていた。
けれどそれももう…今は…流れてはいない。

本当の幸せを手に入れる瞬間が…
もうすぐそこで、わたしを待っているのだから。
だから…今はまだ、涙は大切にとっておこう。
その時まで…。



  「ふぁいとっ、だよ!」



…わたし…笑えたよ。

ねぇ…お母さん…。

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