「ほんま、気持ちええなぁ」  手庇で仰ぐ薄蒼の空。  ぽかぽか――そんな言葉が似つかわしい五月の陽気は、身体を芯から温めてくれる。  ふわり。  乾いた草の匂いを運ぶ風に、僅かに髪が流される。  鳥が、はるか高みを、泳ぐように滑っていった。 「風流やー」  靡く髪もそのままに、半身でこちらを振り返り、 「これぞ、にっぽんの、正月やなー」 「――んなわけないでしょう」  思わず突っ込む。  そう、この人はいつもこんな風だった。  子供のように、けれども決して品を失わずに、大きく開いた口で、大きく笑う。  透き通るような――世界の何処までだって届きそうな歌声のように思えた。 「あはは。ひっさしぶりやー。元気しとったか?」  俺の記憶の中でのその人は、いつだって綺麗で、笑っていた。  上品そうに見える雰囲気とは裏腹に、周囲を和ませるその気風が誰からも好かれていた。  そして今も、とても綺麗で。  ――俺の、初恋の人だった。  「それにしても、お忙しいところ、お願いしてしまってすみません」 「かまへん、かまへん。うちもな、めっちゃ楽しかったし」  喫茶店の窓際で、ティースプーンを弄ぶ姿が、この歳にしてはお茶目に見えて、 「こんな感覚、最近なかったわー」  それでいて、とてもこの人らしかった。  大人の妖艶さと、子供のような魅力を兼ね備えた人。 「それにうちも、いい目見さしてもろたしな」 「そう言っていただけると助かります。母も喜びますし」 「まぁ、うちやって出迎えに来てもろてだし、逆に申し訳ないくらいやわ」  五月の第二日曜日を目前にした、土曜日の午後。  陽射しの角度も変わって、ガラス越しにやわらなか熱が降り注いでいた。 「でも、ほんまによかったん? うちまで買うてもろて」 「もちろん。まぁ、公演の成功と久しぶりの再会の記念も込めて」 「なら、ありがたく頂戴しとくな」  本当に、嬉しそうに微笑む。 「今、つけてみてもかまへんか?」  俺が頷くと、鼻歌交じりで包みを紐解く。  鼻歌が演歌なのが、なんともこの人らしかった。 「どや、似あうか? ぐぐっと美人さんになったやろ?」  この人だったら、本当はもっと高価で上品なアクセサリーが相応しいと思う。  人前に出ることが多い彼女にとっては、贈ったこちらの方が赤面しそうなくらいだ。  なのに、子供が宝物を見つけた時のように、瞳を輝かせて喜んでくれる。  それがこの人の魅力なんだと、改めて実感できた。  この人の、一番ご機嫌な時のナンバー。  ――演歌の鼻歌が、無限ループに突入していた。 「なぁ、耕くん。うちはな、こうして帰ってこれる場所があるから――頑張っていられる」  何度も何度も聞かされた言葉。 「大切な……場所なんよ」 「年に何度も来れんでも、何日も居られんでも、な」  そう言って見つめ返す瞳は、もっと遠くの何かを映している様だった。 「しっかしほんま、今の耕くんは、お父はんに良く似てるわー」 「あの頃の、うちが初めて出逢うた頃のあん人にそっくりやな」  思い出し、少し照れたようにはにかんで、 「うちは、年甲斐もなくどっきどきやー」  目が細まる。  この人が恋人以外に見せてくれる中での、おそらく、最高の笑顔。 「耕くんも、もうそんな歳になったんやねぇ」  その日初めて、俺はこの人の本当の想いを知った。  薄々感じていたこと、それでもこの人の口から、初めて形として聞かされたこと。 「うちはな、耕くんのお父はんのこと、好っきやったー」  でも、父さんは母さんを好きだったこと。  それを知っていて、父さんを応援したこと。  同時に、母さんの姉妹のように、親友のように、母さんのことが好きだったこと。  その母さんも、父さんのことをずっと好きだったこと。  そのこともまた知っていて、母さんのことを応援したこと。  自分には、何にも変えられない、追い続けたい夢があったこと。  そして今もそれを、追い続けていること。  父さんと母さんにそれを応援してもらえて、嬉しかったこと。  少しだけ、寂しかったこと、泣いてしまったこと。  ――そうして、この人の歌声が、世界の果てまでも響いている今があること。 「お母はんは、ずっとお父はんのことを思い続けて……」  宝物を慈しむような微笑。 「愛し、愛されとるなーって思たんよ」 「うちのはな、まだまだ恋だったんやねぇ。敵わんわぁ」  こんなにも穏やかな空気のなかで、時間だけが流れていた。 「そろそろ行かんと、いい加減に気ぃもんでるかも知れへんねぇ」 「そうですね」  颯爽と立ち上がると、細くしなやかな指が、オーダー表を攫っていく。 「ここは、うちのおごりや」  それに反論しようとする俺を制して、 「久しぶりのデート、楽しかったで。お礼にうちにおごらせて、な?」  悪戯っぽく笑う。  一本だけ立てた指、その仕草が可愛らしい。  この指が、この声が、あれほどまでの感動を呼ぶ。  でもその本質は、きっと、この人のこんな心から生まれてくるのだろう。 「ありがとうございます。母の日のプレゼントまで見立ててもらって、すみませんでした」 「そんなことあらへんてー」  本当ならば、世界的に、超人的に忙しいはずのこの人。  その年に何度もない、僅かな余暇の一日。 「お忙しいでしょうに、付き合わせてしまって」 「そうやな、うちは忙しいから、たまの休みは有意義に使わなあかんのや」  そこで腰に手を当てて偉そうに、 「だから、大好きな人の、大切な用事のために取ってあるんよ」 「ほな、行こかーっ」  喫茶店のドアをくぐって、もう一度陽射しの下に。  さっきと同じように空を仰いで、そして振り返って、あまりにも唐突な告白。 「うちな、今でも耕くんのお父はんに、恋してるんやでーっ」  さらっと、とんでもない笑顔で、とんでもないことを言ってのけた。 「まだまだうちも、現役の乙女なんや」  ――素直に、敵わないと思った。  それがきっと、この人の歌が世界中で愛される秘密なのかもしれない。  そして人差指を立てて唇に当てる。 「うちと耕くんだけの、秘密にしといてな?」 「ほな、帰ろっか。うちらの家へ――」  ――そして、歌姫・椎名ゆうひの明るく弾んだ声が、エントランスに木霊する。  その声だけは、世界中の誰かではなく、特別な人たちのためだけに届けられるもの。 「愛さん、耕介くん、ただいまやーっ」