広島市歴教協 主宰行事 関千枝子さん 講演会 2004年11月20日(土)午後1時30分〜4時 |
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被爆60周年を前にして 原爆で死んだ級友たちとともに、 いま考えたいこと |
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被爆60周年を前にして 原爆で死んだ級友とともに考えたいこと −過去・現在・未来− 関 千枝子 ◆◇◆◇いま語りだした(書きはじめた)被爆者たち◆◇◆◇ 戦争・武力肯定の考えへの危惧 核廃絶の思い 被爆者の高齢化 私は生存被爆者の平均年齢、“最年少の語り部” ◆◇◆◇被爆者が体験を語ることは単なる体験や思い出でなく歴史である。被爆者の自分史運動◆◇◆◇ ◆◇◆◇語り(自分史)から、歴史の再検証ヘ オーラルヒストリー◆◇◆◇ 原爆で死んだ動員学徒のこと 12、3歳の少年少女の死 たまたま生き残ったものとしてのこだわり、 疑問 あの作業は何であったか。市民の安全?道普請? 今年明らかになった新事実(辞表覚悟で動員をことわった教師がいた) なぜ今年明らかになったか。 被爆のことを語らなかった被爆者たち (生き残ったものの負い目すまないという思い、トラウマ) まだまだ検証すべきことがある=朝鮮人少年少女のこと ◆◇◆◇被爆のことを語れないまま、楽しかった戦後の学校◆◇◆◇ なぜ楽しかったか。 管理、規則が外れる喜び。結局こまごましい規則などいらなかった 自治、自由、自ら学ぶ楽しさ ◆◇◆◇戦後の学制改革のなかで高校3原則を厳正に 履行した広島の貴重な体験◆◇◆◇ 戦後民主教育の正しい実践 忘れられている 事実、この事実をきちんと残すことの大切さ 公的な記録では残らないこと 改めて事実を検証することの大切さ→公的な 歴史を問いなおす (オーラルヒストリーの見直し) そして、なぜ戦後民主教育は崩れたか? ◆◇◆◇歴史を正しく知ることの大切さ◆◇◆◇ そこから現在の問題点も未来も見える ◆◇◆◇ 質 疑 応 答 ◇◆◇◆ |
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| 参考資料 同時代の公式資料として広島市学校教育史(広島市教育センター刊)がある。 学徒動員に関する部分と(PDFファイル155Kb) 新制高等学校の発足に関する部分を(PDFファイル225Kb) 参照されるとよりわかりやすいと思います。 |
| 『戦争と平和の事典 渡辺賢二ほか(高文研1995)綿引光友』より 学徒動員・勤労動員 |
開 会 行 事 |
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| <<司会>> 今回この会のちらしをもって、被爆者団体に持っていったんです。私の父親も松本商業いまで言う瀬戸内高校の工場動員で舟入川口町で被爆をしているんです。するとその被爆者団体の事務所で隣のクラスのT君の息子か〜ということがありまして、なんかすごく、平和についての人と人とのつながりに感動したんです。私の父親の昔を知っている人がここにいる、被爆の当時のことを知っている人がいるって事に感動しました。 それと、感動と言うより驚きなんですが、今の瀬戸内高校が「松本商業」という名前の学校だったんですね。ところが動員学徒の方の資料を見ると「松本工業」と書いてあったんです。松本商業とずーっと思っていたんですが、ある人に聞いてみると、どうも戦争の時には「商業高校」は役に立たないから、工場代わりに高校に機械を入れて、ものをつくることもあって、名前が松本工業になった時期があるんじゃあないかっていわれて。(十分調べていませんが)数ヶ月前まで思いこんでいたことがちがったというだけで当時の時代が見えたんじゃあないかなって、おもいました。 まだまだ知らないことがいっぱいある。被爆って事は大変な事実なんでそのことだけですごくいろんな事を学んではいるんですが、それでもまだまだ掘り起こさないといけないんじゃあないか。小さな事実も僕にとっては驚きでした。 今回関さんから学ぶ、この会を準備することが僕にも勉強になっています。 この会の起こりというのは、動員学徒の所に関わりがあります。被爆の事実というのは確かにある。しかしまだまだ知らないことがいっぱいある。子どもたちが被爆の時どういう様子だったかということを、動員学徒とか子どもたちのようすに絞ってよく知っているかというとそうでもない。それから、学校が動員したことを考えると、総員学徒の被爆についての責任というのはいろいろと考えて行かなくてはいけないのではないか。もちろんアメリカが投下したことにも十分な責任があると思うんですけど、本来なら学校で勉強して、成長をして行かなければならない子どもたちを動員した学校の責任も考えなければならない。そう言うこともまだまだ十分ではない、動員学徒のことを考えていきたいと思ったところ、2年西組の本を読ませて貰って、これは是非話を聞きたい、そこからスタートしたいと思いました。 関さんは現在東京にお住まいなので、かなり無理をお願いして来ていただきました。 いまも全国婦人新聞にお勤めで、今も平和のこととか原爆のこととかにいろいろ発言されているという事なので、現在とつなげて聞いていきたい時代でもありますので、関さんに是非お願いしました。それでは関さん宜しくお願いします。 <<拍手>> |
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なぜ喋るのか〜いま語り出した被爆者たち |
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| こんにちは 関千枝子でございます。 話を引き受けてからこういうことを言うのも何ですが、私は本当に話がうまくないって思っています。だから、いままで原爆の体験を自分から売り込んで話すことはしませんでした。つまり語り部をしたことはないのです。 わたしは被爆当時、いまはありませんが、現在の広島女子大の中にありました広島第二県女の2年生でした。私のクラスは広島市役所の裏手の雑魚場町、いまの国泰寺町で全滅いたしました。もう一つのクラスも8月5日だったら、死ぬところだったのですが、8月6日は東練兵場、広島駅の方へ行って助かりました。私のクラスは全滅しました。この記憶を「広島第二県女二年西組―原爆で死んだ級友たち―」に書いて、出版したのが1985年です。この本はいまはハードカバーはなくなりましたが、文庫版はいまでも読めます。 本を出したからいいや、私が下手な話をしなくても良い、なるべく積極的には話すまいと思っていました。それに、私は宇品の北の方にいまして、家は焼けませんでしたし、家族はだれも死ななかったし、死ぬはずの私は助かってしまいました。ですから、広島にいると申し訳ないような、原爆を幸運に生き残った家族で申し訳ないような感じです。だから本当に原爆の恐ろしさを伝える話が、クラスメイトの話になってしまいます。原爆のひどくつらい体験をした方がいっぱいいるのに、私などがしゃべらなくても良いじゃないか。どんなにしゃべっても、一生懸命書いても、あの恐ろしさを表現できないから、なるべくそれはやるまいと思っていたのです。 しかし、今年になりましてから、あちこちでしゃべるしゃべると、しゃべりたいと言うようになりました。というのはどうしてかといいますと、あまりにも世の中がひどすぎる。平和を求める声も世界に広まっていますが、武力容認の風潮が非常に強い、特に日本で、ものすごく強くなっているのではないかと思います。日本の政治家に平気で核武装のことを考えなきゃあならないとか、核兵器のことも考えなくてはならないって方もいます。 それから風化なんて言われていますけども、あまりにも原爆のことが知られていない。この間もある広島の方が嘆いていらっしゃいました。平和資料館で、お子さん連れでいらしたお母さんがいて、こどもさんが「おかあさん、こんなにひどいことやられて、これ何発の爆弾でやられたの?」って聞くと「さあ 何発だったのでしょう?たぶん一発だったと思うけど、そうですよね?」って。きかれたその人は絶句しちゃったんだそうです。でもそのお母さんも資料館にいらっしゃんてるんだから、かなり熱心な、関心のある方じゃあないかと思うんですけど。そう言う世の中になっているんですよ。ほんと。 旧ユーゴ・ボスニアヘルツェゴビナやイラクで湾岸戦争以来、劣化ウラン弾というのをどんどん使って、白血病の患者が蔓延しているんです。私は劣化ウラン弾って言うのは核兵器だと思います。そんなことを考えると、私たち平和への運動が本当は力が足りなかったんじゃあないか、イラクの白血病の子どもを出してしまったあの責任は、私たちにもいくらか、何分の1かは責任があるような思いがあって。これは黙ってはいられない。 それからたまたま今年気がついたんですけども、生存被爆者の平均年齢が72歳ということで、私もちょうど72歳でございまして、私ぐらいがちょうど生存被爆者の平均年齢。。私も後10年生きられるかわかりませんが、死ぬまでにしゃべらなくちゃあいけない、本を書いてもそんなに読んでくれないんだったら、少しでも多くしゃべらなっくちゃあということで、喋る、喋るっていいだしたんです。 ところが驚いたことに、この本を出しました15年20年前には、断っても話をしてくれって話がたくさん来ました。お断りをした先はだいたい中学校・高校で、広島に修学旅行にいらっしゃる学校が、事前勉強で私を呼んでくださったところが多かったですね。ところが今年、喋るって言い出してから、さっぱり呼ばれないのです。気がついてみたら、私、東京の品川区にいまして、中学校が20ぐらいあるんです。けれども、いま広島修学旅行を残しているところが1校だけだそうです。広島修学旅行が減っているという話は聞いていましたし、それについて、広島は旅館設備が悪いからって、広島にもその非があるんじゃあないかっていう話も聞きました。 しかし修学旅行で広島に行こうってことがずっと薄れてしまっていることも確かです。ご存じとは思いますが、東京都が新自由主義って言うのか、戦前とみまごうような、ひどい強圧的な教育に切り替えていまして、それがものすごい。全国のトップを取ってやっていまして、この間なんかは都立の高校でボランティア・奉仕なんかも必修にするんだなんてね。いま日の丸君が代の強制で大変で、式のマニュアルを決めてしまって、それと少しでも違って、立たないだけで教員を全部処分とか、ものすごい状況です。だから、東京の先生からしたら平和教育どころじゃあないですね。修学旅行どころじゃあないと思うんですよ。普段をどうしようをどうしようかだけで。 で、気がついてみたら、語るべき・聞いていただくべきところが無くなっちゃって、人生の悲哀を感じています。けれども本当にひどい状況になっているんだなあと思います。 私は「最年少の語り部」って書きましたけれども、一学年年下の、1年生で被爆した人が自分のことを最年少の語り部っていっていました。6年生から3年生ぐらいの人はあのとき学童疎開にいって広島にいません。それより下で被爆した人ももちろんいるんですが、幼くて、きちっと思い出せるのは私たちが最年少ではありませんかってことを聞きました。生きてる間に原爆のこと、本当のすさまじさ、それともう一つ放射能の被害、これは人類最悪の凶器で、こんな兵器ををもう一度使われると人類の破滅につながりかねないですから、なんとしても・・・と思っております。 それからここに広島の秋葉市長の今年の平和宣言がありますけども、非常にに感銘を受けました。2005年の核不拡散条約の見直し、再検討会議など非常に大切な時期だと思うので、それまでに大いに核を許さないと言う運動、核廃絶の運動をもっとひろめなきゃあいけない。そのために喋りたい、私の小さな力でもやりたいとと思ってやっているようなわけです。 なかなか話すチャンスが少なくなっていますし、戦争を知らない中学生や高校生に話すのは大変だという方もいますが、意外と中学生というのはよく聞いてくださいます。よく聞いてくださるのは高校生よりもむしろ中学生の方が、入り方が良いんです。それはどうしてかというと、修学旅行にくるのは中学2年生なんですね。「あなた達と同じ歳だったのよ。私たちのクラスは全員死んでしまったのよ・・・」と言うとしーんとしてね、見ていますと中学生2年生といっても、いまの子どもですから体も大きくて、私たちの時とは比べものにならない。資料館に被爆した服を着ているお人形さんがあって、あの写真を見せてお話しするとみんなキャーッていって、あの洋服を見て、「水で縮んだんですかっ?」ていう人がいるんです。「そうじゃなくてあのころの子どもはちっちゃかったのよ」っていうと、みんなびっくりするんです。いまの子どもは体は大きいけれども、やっぱり話していると、中学校2年生なんて幼いですよねぇ。こんな時にあたしたちの同級生死んじゃったのかって。。特に広島の場合、疎開地の後かたづけ作業があって、中学校の1年が一番多かったですね。それから2年生がたくさん死んだ。意外に知られていないんですけども、そう言う死に方は、長崎ではなかった。長崎ではそう言う事をしていなかった。何で子どもが犠牲になってしまったのか、私の非常にこだわっている所なんです |
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被爆者が体験を語ることは単なる体験や思い出でなく歴史である。 |
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被爆者の方に自分の体験を語ってもらいたいって往々いっていたんです。すると、今年になって、初めて原爆のことを書いたとか、体験を書いたあるいは話したって方がすごく多いんですね。8月に広島に来たときも、そういう会に参加して聞きました。その会は本当に始めて話しだした方ばかりの会だそうで、感動して聞いていました。それから私と同じ学校の個人的知り合いでで、初めて話したって方が3人もいまして、これはすごいって思っています。結局なんて言いますか、高年齢になってきて死ぬまでには何とかしておかなきゃあならない、どうしても喋っておかなきゃあならないいって思うようになる方が多いって事があると思います。 広島ではそうでもないかと思いますが、若いときは、特に女の場合そうなんですけども、自分が被爆者であるって言えないんですね。東京とかでは、被爆者である事を喋ったために、子どもの結婚に差し支えては困るとかいうことが多いんです。被爆30年の時に、私の同窓会でも被爆体験記を書いて貰おうと思ったんですが、本当に簡単な体験記しか書かなかった方もあり、集まり方も思ったより良くなかったんです。ところが50周年の時にもう一度やってみたら、結構たくさん集まりました。それに30年の時に簡単に書いた方から、ものすごく長いのを書いていただきました。この人は東京で大変幸せな、けちのつけようのない幸せな暮らしをしておられます。彼女は顔のケロイドはほぼ治って全然わかりません。ただ体のケロイドは残っているんですね。このケロイドのことは子どもにも言えないって、原爆だって言えないって、、。「どうして?」って私なんかいってしまったぐらいなんですが、「言えないって」。 その方が50年周年に書いた手記がまたすごくて、お母さんと別のところで被爆されていて、似島で一緒になって、最後は一緒に廿日市に送られて、お母さんが「戦争がなかったら・・戦争がなかったら・・」っていって死んで行かれるって言うのを詳しく書いておられるんですね。彼女は子どもが大きくなって結婚して、でもそれでも不安なんです、まだいえない。孫が生まれて、孫が成長して無事で、そのときにようやく言えるところが。。何というかそう言う感じがありますね。男性も大変気にして、パイプカットしている場合も知っていますが。特に女の子がつらいんじゃあないか。もしも何かあった場合は、女の子が言われることが多いですね。「あの人が被爆したために・・・」って。 そう言う心のトラウマがずっと続いている。心のトラウマって言うのが、地震等の災害でも殺人事件でも最近はよく言われます。しかし、被爆者はずっとそのままで、私たちは何のケアもしてもらえなくって過ごしてきました。そう言うトラウマが語り出すことによって癒されるとすれば、すごく良いことですね。やっぱり語り出すために50年かかったのかなぁって思っています。その50年でもなお語れない人が、去年今年と語り出したのはやっぱり世の中が怖すぎるからですね。本当にもう一度核兵器が使われるんじゃないかって言う心配、戦争がもっともっと大きくなるんじゃあないかって言う心配、核兵器を使わなくっても、対立が広がって、新しい兵器がどんどん出てくるんじゃあないかって言う心配、それでいま喋らなくちゃあいけないと。 それで被爆者の方に自分史を語りなさいっていう運動をしておられる方が、東京にいらっしゃるんですが、とても良いことだと思います。自分史で書くことは単に自分の思いを書くことや日記にちょっと書いておくことではなくて、自分史って言う歴史なんですね。いま自分史って言うのが流行って、私も自分史の講師をしたことがあります。けれども、できあがったものを図書館や公民館に寄贈しようとすると、「こんな個人のプライバシーのことを」て断られることもある。「そうじゃぁないですよ、日記の公開じゃあないんですよ。自分史って言うものはヒストリーなんですよ。読者はひとりかもしれない。でも、とにかく読者がいるものなんだ。だから自分史なんですよ。」ってよく言うんです。 原爆の体験は、歴史の体験・歴史の現象を自分の一コマで書くのであって、これは本当に歴史である。だから、子孫に残して欲しいと私は言っているんです。オーラルな歴史、口承の歴史、口でいう歴史ですね、これの大事さが非常にいわれております。書いたとしても、民衆による口で語り継ぐ歴史、それこそが本当の歴史なんではないか。えらい人が書いた歴史というものとちょっと違うんではないか、えらい人の書いた歴史というのは、掘り起こしていくべきものを掘り起こしてないんじゃあないか、それを補うのが民衆による口承の、オーラルヒストリーではないか、そういったことも今日お話ししたいと思います。 |
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原爆で死んだ級友たち |
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広島市学校教育史より 学徒動員 ![]() |
私がこだわっている問題が、私が女学校2年生の13歳で被爆した。広島で中学校女学校の12年生、たくさんの少年少女が死んだって事ですね、それにこだわりがあるわけです。私たちは繁華街や中心街で疎開の後かたづけ作業があるからいくようにいわれて、何の疑いもなくいきました。4月から5月にかけて道をつくった大きな作業もありましたし、ごく当たり前のことと思って、8月の炎天下に、、、。今でも忘れませんけども8月5日から始めたんです。けれども8月5日って日曜日なんですね。6日が月曜日。そういう話を中学生に言ってもぽかーんとして聞いています。「考えてみてよ。8月ってどういう時?」って言うと「ああ夏休み。」って言うんですよね。「5日、日曜日。日曜日から行ったのよ。あのときは戦争の末期で日曜も夏休みもなかったのよ」っていうと、えーっってびっくりしていますけどもね。それで疎開地の後かたづけ作業を手伝うっていっても、機械ひとつあるわけじゃあなく、家からクワとかシャベル担いでいったっていうと、もっとびっくりしていますけども。 で、あれは何だったのかって言う事ですよね。私たちは日本の家屋は詰まっていて、道が狭くって、すぐにとなりに燃え移るので、東京大空襲でも、どこどこの空襲でも、火が燃え移ってひどい目にあった。道を大きくして、安全地帯をつくって、被害を少なくするんだっていわれて、本当にそうなんだ、お国のためだって思って、行ったわけです。 戦争の末期ですから、配給も減って、ご飯・食べるものも減っていて、体の調子の悪い人も多かったんです。そんなことはものともせずに行ったんですね。 私はその前夜の空襲の時に、お腹が冷えたのか、下痢をして、母に休めっていわれて、無理矢理みたいに休まされちゃったんです。もっと体の悪かった人もお国のためだからって言うことで、止めるお父さんお母さんを振りきって出ていった話を後から聞きました。本当に自分が生きているのは何だろうかと思って、本当に後ろめたい思いがします。 広島の人たちみんながよく「済まない」って言うことばをよく言います。本当に紙一重で生き残ったか、死んだかってことが多くて、「すまない」ってことばを使う訳なんです。 多くの人が、あの作業のことを疑いもなしに、、。あんな幼少の子どもたちがそういう激しい作業に、、あれは何だったかとか、そんなこと考えたこともなかった、 あれはなんだったかというと、広島ではこのごろ研究も進められているようです。この間、頂いた「慟哭の悲劇はなぜ起こったのか−その明暗をわけたもの−建物疎開動員学徒の原爆被災を記録する会」という本にも、なぜ動員されたかってことが書いてあります。戦争中に「決戦非常時措置要項に基づく学徒動員要項(昭和十九年閣議決定)」が告知されて、それで法的に整えてやった訳なんですが、、、。 この頃のことは意外に知られていませんけども、その前の昭和16年かな、8年制って、小学校6年プラス国民学校高等課程12年生、女学校12年生までが、義務教育化されています。その義務教育の子どもを動員していることから、こうした法令も必要な訳なんですよね。今の中学校12年生も幼い子どもだと思いますけども、はるかに体格的には悪い、ほんとに小さかった。130センチ40センチって生徒が平気でいましたからね。とにかくそう言う法令などの準備作業がおこなわれて、12・3歳、、1・2年生の小さな子どもが動員されて、死んでしまった。 いろいろ調べてみると、いろんなことがあった事が解ってきます。あまりに幼い子どもたちに酷すぎることではないかって言って、動員を断った先生がいるって、わかってきています。高校3年生の時の同級生が、公民館でやっている自分史の会で、自分の被爆体験のことを書いて、冊子にされたんですね。これを貰ってびっくりしたんです。彼は当時の広島一中に行ってまして、二年生だったんです。二年生は広島第二県女では、まだ工場動員には行っていないんですけども、一中と第一県女は行っているんです。いい学校から先に、輪切りの上の学校から先に行かしたんじゃあないかって思うんです。一中は二つに分けられて、地域によって分けたらしいんですけど、彼は高須にある広島航空という工場に行かされました。そこは三年生が50人ぐらい既に働いていて、二年生は160人ぐらいで行ったけれども、つくる素材がないから、あんまり仕事がなかった。そこで、8月6日から疎開作業で土橋に行けっていわれたらしいんです。ところが2年生を引率していらした先生が、「今みんなくたびれていて大変だ。体がとっても悪い。そんな作業はさせられない。(160人の2年生に)明日は自宅待機。」って言ったんだそうです。つまり休みのことです。それで3年生の先生と大げんかになるんだそうです。この非常時に何を言うかってことで。 2年生の先生は、2年生160人ひとりで受け持ってたんです。はじめ3人ぐらい先生がいたんですが、徴兵とかで兵隊にとられたり、応集されたりで、当時ひとりしかいらっしゃらなかったらしいです。とにかくその先生はやれないって頑張ちゃって、3年生の先生と大げんかになっても、明日辞表書きますって言って、生徒は自宅待機になってしまいました。それで彼は自宅待機で休んじゃうんですが、家で寝てたところに原爆で、危ういところを助かっちゃう。3年生の50人は土橋ですから、全滅ですよね。 私はその冊子を貰って読んでびっくりしたんです。それで、「原爆被害を記録する会」の先生にこの話をしましたら、その話を取り上げられているんです。こういう先生もいたって。この先生は辞表を書いての反抗ですよね、そのために160人の命が助かっちゃったんですから。戦争中そんながいたのかってびっくりして記録をされたんです。 私別のことにもびっくりしたんです。というのが、私とこれを書いた彼とは割合親しいし、ずっと交流があるんです。高校3年で、学校が再編成になって、新しい高校をつくるんだって言うことで、たまたま同じクラスになって、それから、校友会・自治会をつくんなくちゃあいけない、生徒たちの手でつくんなくちゃあいけない。準備会もずっと一緒で、それから新聞部で、彼が部長で、私が副部長だった。それでずっと一緒で、なんか同志的仲間なんですよね。卒業してからは音信不通のこともありましたが、私が本を出したりしてからまた、「覚えてるかい?」て再会して。彼は今兵庫県にいるんですけど、東京に来たときにお会いしたこともありますし、年賀状ぐらい毎年やりとりしている仲なんですね。ところが高校3年の時から親しくしていたにもかかわらず、それ以来の交流にもかかわらず、こういった話、初めて聞いたんです。それで命を救われたほかの人が何人も同級生にいたわけですが、聞いたことがない。考えてみたら私たち、高校生の頃原爆の話をあまりしたことがなくって、おまえどうしてた?、どうして助かったなんて話はしたことがない。無関心じゃあないんですが、とにかく原爆の話は詳しくしたことがないんですね。お互いみんなわかっていることで。詳しく言えば心の痛むことばっかりで、あんまりつらい話はしたくない。結局原爆被爆者の方には言いたくもないと言う気持ちがあるんじゃあないかと思います。私の友達で死んだ友達のお母さんにずっとお会いしてた方でも、どんな風に原爆の時に・・どうだったのって聞いたことがある?っていっても「それは絶対聞けない。聞こうと思わなかったし、向こうも仰らなかったし、」って。とにかく聞かないで、そっとしておくことがその方のためになるって思って、なるべく話をしなかった。みんな私たち同じ思いをしているんだから、聞かなくっていいっていうんで、何にも喋らなかった。それからもつきあいがありますけども、彼もこういう風に助かったって言う話をしたことがない。原爆の後、軍隊につれられて死体の収容をして歩いて、大変だったなんて話はちょっと聞いた覚えはありますけども。どうして助かったかって話を聞いたことがない。同じ所にいた人たちの事も、だれがいた彼がいたって、その人たちにも聞いたことがない。これはどういう事だろうかと思うんです。なかなかそういうことが言えなかった。原爆のことは語れなかった。結局これは生き残ったものの負い目、生き残ったことが本当に幸福だったバンザーイって言うんじゃあなくって、死んだものにすまないって、私なんかもずっといまだに引きずっていると思いますね。 これまで言われていなかったけれども、原爆の被害のひとつに、長く続く心の痛みが、あるって事を言いたいと思います。素直に助かって良かったって、喜べないんですね、本当に済まないって。私が原爆を落としたんじゃあないって言うんですけどね、何ですまながるのかって思うんだけれども、理屈じゃあない思いがあって、語れない。 彼もずーっと語らなかった。大企業に就職して、一生懸命働いている間ずーっとしゃべらなかった。けど私と同じようにいましゃべんなきゃあと思ったのでしょうね。それで体験記・自分史を書いたらすごいことが出てきた。それで編集の先生たちも、いろんな議論してても、こんな事全然知らなかったからびっくりして、これ<慟哭>に掲載されているんです。まだまだこんな話がいっぱいあるんじゃあないかと思うんです。だけど全部継承されていない。まだまだ継承すべき事があるし、そういうすばらしい教師がいた。あの状況の中で、辞表覚悟で、生徒たちのことを考えたら忍びない。この先生、もう亡くなっているんですが、亡くなる前に本になさったらしいですね。本を書く前にいろいろ調べて聞いたりもされた、先生が応召で取られちゃって3人の先生がひとりになっちゃった。生徒が160人でしょ。何かあったら俺ひとりで160の生徒を守れるかって仰ったらしい。でもそんなこと戦争中に言えませんでしたよねえ。でも言った人があるんだということですよね。そうなんだなぁって。小さな子どもたちが死んだ建物疎開・動員学徒の昔のことだけどもまだまだ顕彰しなくてはならないし、長崎ではない特殊な、広島のできごとですからね、まだまだ特に先生方にやっていただきたいなあって、もっともっと調べていただきたいなあ、検証していただきたいなあってことです。 |
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| ◇語りから、歴史の再検証ヘ 朝鮮人生徒のこと | |||
私がもう一つ気にしていますことは、動員学徒の数と死亡者数の差なんです。 今年平和祈念資料館で学徒の建物疎開動員の企画展示をやっていまし。当時建物疎開に出動した学校は、ここに書いてあって、数字が新しくなってます。(広島平和祈念資料館2004年ダイジェスト)。しかし私たちが数字の話をするときに使いますのが、広島市がつくった「広島原爆戦災史」でして、これでも実は不思議なことがあります。1980年頃に発見して、変だな、変だなって思っていたことがあるんです。数字がどうもおかしいんです。たとえば当日、建物疎開は県庁付近に出ていた。土橋付近に出でていた。市役所付近が多かった。 鶴見橋の辺が多かった。それから八丁堀の方にちょこちょこ行ってます。それで鶴見橋、爆心から1.5キロぐらい離れていますので、すごいやけどを負ったけども、死ななかった方が多いところです。戦後、原爆乙女なんて言われて、酷いケロイド被害を受けたのは、この付近で作業されていた方が多かったんです。ここは死なない方が多かったから、たとえば、500人行ったけど死んだのは260人だったとか、これはわかる訳なんです。 しかし、たとえば市役所付近で、第3国民学校(今の翠町中学校)が、209人行って、143人死亡って書いてある。私の学校もそうですけども、市役所付近(当時雑魚場町)では50人に1人か、それぐらいで、本当に奇跡的に助かっている。私のクラスも一人助かっている。手をつないだ隣の方が、大やけどでも、彼女はあまりやけどをしない。何でかわかりませんが、奇跡が起こっております。それにしても第三国民学校が209人行ったのに143人しか死ななかったのは、どういう事だろう、ちょっと数え方がおかしいんじゃあないかって思いました。 土橋付近で三篠国民学校、これは三篠国民学校の高等科ですね。これはよく間違われるのですが、第三国民学校みたいに高等科だけの学校と三篠国民学校のように初等科と高等科のある学校があって、小学生が動員されたって言われるのですが、小学生といっても高等科なんですね。三篠国民学校は土橋に140人行っていて、42人死んだことになっている。土橋でこんなことあり得ないでしょう。市役所付近(雑魚場)で県立広島商業のかたが、485人行ってて、46人死んでる。調べてみたら、学校で集まっていくはずだったのが、集合、出発が遅れたために、命が助かった。別働隊として先に行った46名ぐらいの1クラスが死んでしまったって書いてあって、これは分かるんですよね。 第三国民学校はどうなんだろう?三篠国民学校は?ってどうにもわからない。私の姉が広島の慰霊碑の写真を撮った本に、姉と二人で説明を書いたんですけど、不思議でした。私もよく知らないで、数字が合わないことが国民学校で多く起こっていますから、国民学校だから、中学校・女学校と違って調べ方が悪いのか、調査が悪いと書いてしまったりしたんです。これがあっ!って思ったのが、初めて韓国の被爆者が、韓国人被爆者の補償問題でいらして、お話を聞いていた時です。その一人の女性が、私は竹屋小学校の高等科に行って、鶴見橋にいたのよって話になって、あ〜っと思ったんです。竹屋国民学校の話は何も書いてないので分からないんですが、おそらく鶴見橋に動員されて行ったけども誰も死ななかったんでしょうね。資料に出てこないけど動員された学校もずいぶんあるんじゃあないかと思うんです。 動員数と死亡者の差、この欠落は朝鮮人の生徒だったんじゃあないか。これはどういう事かと言うと、最初死んだ学徒たちの名前とか、何人死んだかって調べだしたのが、死んだ学徒たちの補償を、国に対して恩給をよこせっていう運動がきっかけです。昭和30年代のはじめ、軍人恩給復活の年から運動が始まります。それで38年には準軍属として恩給が出ました。ドームの左側に動員学徒の慰霊碑っていうのがありまして、あれをつくった会の方たちが運動をされて、いろんな学校へ照会されて、死んだ学徒たちの名前も調べらました。そうしないと恩給が出ませんから、調べられたんです。けどもそのときに、(石原)慎太郎さんの言う「第三国人」ですね、旧植民地の方はもう外国人になっているから関係ないって、全部切り離しております。そのときに韓国籍・朝鮮籍の方は関係ない事になったのではないか。それがこの数ではないかと、はっと思い当たったんです。これはなんの裏付けもありません。けども、たとえば三篠国民学校には、韓国、当時朝鮮の方が多かったんではないか。だから142人動員されていて42人死んだって言うのは、42人の日本人が死んだ。そういう数ではないのかなって私思っているんです。 でも、こういう調査がされたことがほとんど無いんですね。しかし、翠町中学だけがされたことがある。それで数人の生徒の名前は分かったんです。私の知るところでは、翠町中学校では調査されたけれども、ほかの国民学校などでは、調査は全く無かった。これがすべて忘れられた数になってしまっている。私と同じ年で、同じところで働いていて、それで亡くなった人。それなのに切り捨てられ忘れられてしまった。日本人って言うのはそういう人だった、そういう事をしてしまったことで、私は耐え難い思いがします。 ただこれは私などにはもう調べようがないんですね。「二年西組」の本ができたのも、自分の学校であったために、どこに行ったらそういった資料が集められるか、どういう人がいて、どういう調べ方をしたら本人や遺族の住所も調べられるのか、なんかの手がかりがあってやっているうちに、分からなかった遺族まで調べられるようになった。なんの手がかりもない朝鮮人の少年少女のことを調べようもないです。けれども、私たち本当に忘れちゃあいけないし、いまは名前も何も分からないんですけれども、語り継いでいかないと、そのうち本当に忘れられてしまう。そういうふうにとにかく、原爆のことをずいぶんみんなが喋り、調べ尽くされているように思いますけども、まだまだ十分に語っていないんですね。 それから私は女性なので、女の場合特に酷かったことも語り継いでいきたい。何か問題があったら女のせいにされる。男の場合よりも、何かあった場合、「あの奥さんは広島からかわってきた」っていわれる。いまだにトラウマを抱えている方が多くて、いまだに隠している。そういったこともに語っていきたいとおもいます。 男の方でもそうですけども私が品川に引っ越したばかりの頃、被爆者の会がつぶれそうになって、再建の会をするので行ったんです。けども、会の最初に、「品川被爆者の会」という名前じゃあ困るってね、そういう名前で封筒が来たら、自分は受け取らないって。それだけ被爆者と見られるのがいやだって仰るんですよ。その方への封筒には「品川友の会」で出してますけれども、、本当にいまだにね、そういうことがある。でもねぇ、私は「もういいでしょう。もう70歳過ぎたんだから、書いたり喋ったりしましょうよ」って、言っているんですけれども、なかなか、、、。 まずは被爆の恐ろしい実相を知って貰うこと、その実相・恐ろしいことを知ることから、あの戦争はなんだったかを考えていきたい。加害のこともね。広島に子どもたちをつれてきて原爆のことを教えるのに非常に熱心なところもあります。なんだかんだといいながらもまず被害、それを知ることから本当に戦争の悲惨さが分かり、あの戦争のことがなんだったのか、加害のことも分かる、だから、もう遅いなんて思わないで、まだまだこれから語り出せば間に合う、いまだ語り出せない方もいるっておもって、おおいにそういうことをしていただきたい、聞いていただきたいって思うわけなんです。 |
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| 被爆のことを語れないまま、楽しかった戦後の学校 | |||
今日は、被爆後のこともお話ししたかったんです。「二年西組」には私が登校できるようになって、一番最初にしたことが書いてあるんです、学校が始まったのが10月の末だったんです。先生も死んでいるし、1学年2クラスしかいない小さな学校で、2年生西組が全部死んで、1年生は全員西練兵場で被爆して、ケロイドを負っていました。当時の広島女専の校舎を借りてやっている小さな学校で、校舎が一棟あるだけの。そのたったひとつの校舎に原爆の爆風が校庭まっすぐにダイレクトに入りまして、くの字になってしまったんです。で、その後、9月の枕崎台風、戦後何指に入るかっていう大きな台風で、広島がまたがたがたになっちゃうんです。あれだけ酷かったのは、戦争中松を切り倒して、ガソリンの代わりの松根油を取るんです、それで山が荒れて、台風でがたがたにやられちゃうんです。それはすごい被害で。その枕崎台風で完全に校舎はぺちゃんこに。それで、壊れたガラスが校庭中に散乱していますので、一番はじめの日は校庭のガラス取りをやりました。しかし、友達は死んでいる、先生も死んだ、家族の誰かが死んだ、家が焼けた、1年生はケロイドを負ってますし、だから全員が何かに耐えながら、本当に耐えているから互いのことをあんまり話さない、どうしたのっていうのをお互いつらいんだから話さない。そういうことを書いたんです。だから、本を出したときにあなた方は本当に暗い学校生活だったんですねって、大変だったんですねっていうお手紙をずいぶん頂いたんです。 それでいながらものすごく戦後の学校は楽しかったんですね。一日一日楽しかったんです。戦争中にしちゃあいけないこと、たとえばボールで遊ぶことは、戦争中に1回だけドッジボールをした覚えがあるんだけなんです、そうしたことは全部敵性スポーツでいけないっていわれていたんです。戦後は男の子は野球ですが、女の子はバレーボールなんです。戦争後初めてバレーボールをやった楽しさ。ボールが少ないですから、50人ぐらいが円陣を組んで、何分間にひとつ玉がくるか分からないような円陣パスなんですけれども、それでもたのしいんですよ。それからあのころ演劇をやろうって事がぱっっーっと広がって。これは聞くとね、広島だけじゃあなくて、東京の人に聞いても、名古屋の人に聞いてもどこの人に聞いてもみんな同じね。女の子の場合、演劇とバレーボール。男の人の場合は野球だと思いますけども。それがすごく楽しかった。 どういう事かっていいますと、戦争中はがんじがらめの規制ばかりでしょう。たとえば、贅沢な服装なんてできるはずも無い訳なんですけども、学校に行ったら髪型も決められていて、こういう風に分けて<手振り>、ここでこういう風に結んで、結び目から7センチとかが決まっているんです。分けてこううしなくちゃあいけないとかね、、。 学校以外の外出でも私服じゃあいけなくって、家から500メートル離れたら、制服じゃないといけないとか、手袋もいけない、電車に乗ってもいけない、もちろんオーバーも、セーラー服なのに、上着も着ちゃあいけない。とにかく規制規制で、規制ばっかりでした。 もともと私は広島に転校する前に東京で私立の学校にいたので、すこし緩やかだったのです。それで、すごく反発を持っていて、戦後10月末に学校に行くまでに、新聞などを読んだりして、こんなの全部かえなきゃあいけないって一生懸命思っていたんです。 けども、学校に来てみたらこっちがいうまでもなくって、どんどんそういった変な規制がとれていくんです。それで私が思ったのは、管理とか規制とか、いままであっても何の意味もなかったんだということですよね。くだらない。そのころね、学校に余裕がなかったのかもしれないですけども生徒会規則なんてものが覚えがないんですよね、そんなもの無くても何でもないんです。それで制度ももかわっていく、授業のやり方も変わっていく、学習指導要領も変わっていく。それだからどんどんどんどんかわっていって、はっきり言って先生たちも訳わからなくなって手探りだったんだと思うんですけども、なんかみんな必死で、どんな学校にしていきたいとか手探りでやっていった。そんな中で重い締め付けもなかったし、生徒たちがやりたいことはどんどんできたという、楽しさがある訳なんです。 |
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| 戦後学制改革の中で高校3原則を厳正に履行した広島の貴重な体験 | |||
| 広島の場合は、私が高校3年生の時に高校の制度が全面的に変わってしまいました。すごい改革をやってしまうのです。このことはみなさんにほとんど知られていません。戦争中の話をしに広島に来たときに、マスコミの方たちと話すときも記者のみなさんが知らないから困っちゃうんです。忘れられた歴史になってしまっているんです。 戦後、学制改革があったって事は、みなさん知ってらっしゃると思います。けども、うんと若い方はそれも知らない方があって、旧制高校ってなんですかっていわれて、びっくりします。 私は教育改革の中で一番すごかったのが、高校の再編ではないかって思っています。 小学校もかわったけども、6年制という形ははかわっていません。中身はいろいろとかわったことがあったとしても、そんなに激変ではないとおもいます。中学校3年制。これはもう建物がなくって、ものがなくって、大騒ぎだったらしいですけども、だけど形としてはそれほどの激変ではなかった。 新しい教育制度の眼目ていうのが高校ではなかったかと、私はおもっているんです。高校がどのように再編されたか、されなくてはならなかったかっていうと「高校3原則」ってのをつくったんです。「高校3原則」ってのは「地域制。総合制。男女共学 」です。これはどういう事かといいますと、地域制は中学校と同じように学区があって、自分の地域の学校へ行く。その学校は総合制で、普通科もあれば職業科もあり、商業工業と揃っている、なんでもあるのが総合制の学校。しかもそれが男女共学であると。これが高校3原則なんです。 本当にこれが貫かれたら、戦後教育がどうなっていっただろうと思うんですけどね。しかし実は全く徹底されなかったんです。全国でめちゃくちゃだったって事は、日本の教育史上初めてだと思うんです。私が高校2年の時に新制高校が出発するんですけども、がんじがらめの規則があまり無く、まあまあ、地域性もあり、どこもここも勝手にやってしまって、中学校や女学校がそのまま高校になってっていうかたちでやってしまったんですね。おそらくこれを指導した占領軍でも、日本の旧制の中学校や女学校が自分たちの歴史とか伝統にみんなが忠実って言うのか、誇りを持っているって思っていなくて、適当に、新制の中学になったり新制の高校になったりするんじゃあないかと思ったらしいんです。けども、旧制の中学校や女学校で、ちょっと名前のあるところはどこも自分たちが新制の中学校になんかなりたいと思わない、みんな高校になるってんで、みんな勝手になっちゃったんです。 それで、京都に非常に教育改革をがんがんやる占領軍の人がいました。京都では昭和23年に新制高校のスタートなんです。9月から再編しちゃうんですね。これは強引なんですけども、高校3原則の高校をやってしまうんです。9月からやるっていうのは困ったもんで、学年の半ばからです。京都がやったって言うんで大騒ぎになって、それで次年の昭和24年、私が高校3年の時に、西日本ではだいたい高校3原則に忠実に改革しました。東日本の方ではそのままで、いまだに男女別の高校が公立で残っているのが多いのはそのためなんです。西日本ではだいたい高校三原則の原則に忠実には再編が行われた。ところが実際に調べてみますと、再編成をしても、男女共学にしても、総合制にしたっていっても、普通の市ですと中学校ひとつ女学校ひとつぐらいですから、それを一緒にして、二つに分けたとか、ひとつにしちゃったとかで、たいしたことじゃあないっていうか、さほどびっくりしないんです。 けども、広島の場合、これを完璧にやったのがすごい。広島には当時県立の高校(中学校)が2つ、市立がひとつ、県立女学校が二つ市立がひとつ、6校あった、それと県立の商業、市の商業があった。先ほど松本商業の話が出ましたが、広島市商も戦争中は全く名前を変えて造船中学になってました。平和公園内に造船工業学校慰霊碑がありますけども、あれは広島市商の慰霊碑なんです。それがまた広島市商に戻っておりまして、そんなのを全部に一緒して、それを完全に地区制に分けた。広島の場合、そこまで徹底してやらざるを得なかったってのは、男女の不均衡が理由のひとつです。県立と市立の中学校はみんな6クラスあって大きな学校だったんですけど、女学校の方は県立第一と市女は割合大きな学校だけども、第二県女は二クラスしかなかったし、男子校は県立の商業も市立の商業もあったけども女子校はひとつもない。工業の学校も全部男の学校だった。どうも妙なしくみなんですけども。だからそういうことをせざるを得なかったのだろうって気もするんです。とにかく在校生を全部一緒にしちゃって、徹底的に地域制にしちゃった。ですから、私は国泰寺高校へ行ったんですが、国泰寺高校に行きますと、県立市立併せて六校の生徒がいるんです。皆実高校や観音高校、どこへ行っても六校分の生徒がいる。それプラスに、皆実には工業があったし、基町と観音には商業があった。で、在校生から完全な三原則やっちゃったんです。東京の学校は旧制の中学はそのままにしておいて、新制中学の卒業生から男女共学にした、東京の人はそれが当たり前で、全国そのようになっているって思っているのですけれども。冗談ではない、広島ではそういうことをやっちゃった。京都のことはよく知られているんですけども、広島のことはあまり知られていないんですね、京都ではケイズっていう強引なる占領軍の将校がいたために有名で、京都はやったやったっていうんです。けども、私が調べてみましたら広島ほどショッキングじゃあ無いですね。京都は戦争中に地域制をひいていたから広島ほどごった煮ではないんです。広島は私が高校三年の時に、六校の生徒が全部の学校にいるんです。全く新しい高校を始めていくんですけども、それは実に楽しかったですねぇ。民主的な教育っていうのが、新しいくて楽しい。自分たちで一生懸命新しい学校をつくったっていう充実感。それがなかったらいまの私はなかったって思うくらいすばらしい体験をしたんですね。 この再編成が行われるときに、地域制・総合制・共学制の中で、保護者や教育関係者、えらい人が一番心配したのが共学制だった。要するに女の子が劣っているから、絶対に学力が落ちる、男の学力が落ちるとかね。年頃の男女を一緒にしたら何事が起こるか分からんとかね、というのがいっぱいで一番心配した。保護者のアンケートをみてもそれが一番心配されている。ところがどうなりましたかというと、この高校三原則は見る間に崩れていきます。広島の場合も、まず商業高校が県商の独立とかで職業科が離れていって、総合制がまず崩れます。これはやっぱり昔の学校の力とか、ボスの力とか、やっぱり職業科は別にした方がいいとか、それから職業科への応援とかもあったし、まず総合制が崩れていきます。 それから地域制が崩れます。同じレベルの同じ内容の学校になったはずなのに、やっぱり名前だけ、国泰寺高校がいいって人が多くて、国泰寺高校にモグリをする人が増えたんです。特別に良いはずは無いんですよ。先生たちも同じにお互い入れ替わったんですし、自分の学校をいうのもおかしいですが、。建物からいうとあそこが一番ボロだった。戦争中全部焼けて古校舎でつくってね、廊下なんて穴がぼこぼこ開いていてね、私なんかいくら掃除してもきれいにならないので腹が立つから、掃除の時ごみを全部穴の中につっこんでね(笑)、、、。天井なんかも紙がはがれていてね、一番悪かった。良いはずがなかったのに、国泰寺高校を受ける人が多かったんですって。それで結局、総合選抜制になって、、。 それで残ったのが男女共学制。一番最初にわいわい言われたのに、残ってしまったんですね、年頃の男女を一緒にしたら何事が起こるか分からないじゃあないかって言われても、別に何事も起こらなかったんですね。女の子がいたら学力が落ちるっていわれたんですけども、落ちなくて、女子も優秀な人がいっぱいいることが分かりましたし。でも、広島がこんなに徹底的にやったことが全国的に知られなかったし、肝心の広島市の人がその意義をわからなかった。いまでも国泰寺ですっていうと、ああ一中ですかっていわれるし、観音ですっていうと二中ですかっていわれますよね。皆実だったら県女ですかって。「ちがうんだ」ってわたしなんかは言うんですが、「新しい高校をつくったんだ」というんですが、だれもそんなこといわなくって、すっかり忘れられている。 このことを本に書きたいと思いましたのが、高校三原則の学校がきちっとできて、それが根付いたら、これこそが本当の民主教育だって思ったからなんです。 崩れたって言うのは、大学の受験をそのまま残したからだって思いますね。戦後、国立大学を各県につくろうという動きがあって、そのとき占領軍はアメリカの州立大学のように、どこの州立大学も同じだと思って、それぞれ特色のある良いのをつくるだろうと思ったのかもしれません。しかし、日本の場合残念ながらやっぱり、東大を筆頭とする序列化が全部できてしまっていた。大学受験を残したために、高校改革がだめだったんですよね。本当に教育ってむつかしいて思います。みなさん、民主的な教育で、なんでも学べるのが良いって言うとみんなそうだって仰います。けども、自分の子どもだけは良いところに行かせて、できることならばいい大学にやりたいって言う方が多いんですね。良いところに行かせたはずの方が結局潰れたりするんですけども。大抵の方はもしかしたら自分の子どもは自分よりうんとできて、秀才で生き残るかもしれないと思ってらっしゃる。本当に教育の問題って言うのは良くならないんです。ですから高校三原則もすっかり崩れてしまったんですけども。 私はこの高校三原則とあのときの高校に愛着を持っております。私たち本当に民主的な教育をつくろうと思い、自分たちが実践しようと思い、それで、本当に生徒の自主性が生きた学校作りでした。考えたら先生の方も忙しいんですよね、新しい高校になって、やることばっかりでしょう?いらないことをする暇はないんですよ。 やることがいろいろありますから、六校の生徒が集まっていますけども、制服を作ろうなんてまずだれも思わない。どこの学校か分からないからバッジだけ作ろうなんていって、記章は作ったんですけどね、制服なんてだれも作ろうと思わない。ものがない時期でしたから、男は軍服みたいなのを着てくるのがいっぱいいましたし、みんな勝手なものを着ていたんです。まあだいたい昔の制服に似たようなものを着ていたりとか、そんな酷い格好をする人もいなくて、作らなくてもなんて事もなかった。その中で生徒の自主的な活動が増えた。自治会から校友会の規則まで全部生徒の手でつくって、教師たちが口を挟むこともなかった。やりたいことをどんどんやっていって、みんなやる気・熱気に燃えていた。 そのときの楽しさって言うのは本当に忘れられない。あれこそが学校なんだって思うんです。いま戦後教育が悪かったと言われる訳なんですけども、私に言わせれば、戦後教育はあの数年でとっくに潰れている。つまり私たちの3級下の新制中学卒業生がみんな国泰寺に来たって事は根付いてないって事ですから、もうつぶれてますし、そこからどんどん変わってきてますし、。益々受験競争が激しくなってきてるわけです。もう一つは昭和31(1956)年です。あのときが節目だって思う。いろんなことが起こっています。昭和31年に高校の家庭科が女子の必修と言われた年です。そのときに教育委員会法が改悪されて、国会で大騒ぎになったんです。公選の委員会が上から決められる委員会に変わった。あのときすでに変わってしまったと私は思っています。そのあと続々と変わってしまった。その中で、特に歴史などはおおいにいじめられたと思うんですけども、長年に渡って少しずつ少しずつ戦後教育ではなくって、戦後教育がいじめられる歴史があって、いまに至っていると、そう思います。いまの教育に起こっている大変な問題を直そうとして、全く逆なことがおこっているわけなんです。それは高校3年の間に、一人ひとりが選別されるのではなく、地域の同じ高校に行く、その中で学問をする人もいれば、不得手の人もいるでしょうけども、どこの学校に行ってもそういう人がいて、エリート教育じゃあない高校教育を受けられるはずだった。しかし、いまやすっかり受験や競争と選抜中心になり、だめなものを落としてしまえと言う強者の論理の高校にになってしまっている。教育基本法の改悪が国会で今年(2004)の秋から来年にかけて大変だと思うし、これは国会だけで通ってしまうので、本当に危ういことだと思うんです。私は教育基本法の改悪の方向は、強者の論理・だめなものを落としてしまえ、いいものだけ取っていこうという教育だと思うんですね。広島もなかなか大変らしいですけども、私は東京に住んでいますし、東京が全面切ってやってますし、東京がやるとすぐにまねをする人がいましてね、不安で不安でしょうがない。 東京の高校の再編成って、日比谷高校とかのエリート校の復活です。それから。中高一貫校を作るんです。これは名門校なんていったらみんな殺到するんじゃあないかと思うんです。そうしたところで教育委員会が公選制になりました、これは久しぶりに。強力な都知事によりまして、強力な委員会ができまして、上からどんどん押しつけようと、、、。すごのばっかりなっていますから、、。「つくる会」の教科書を入れたり、、。「つくる会」のために中高一貫制を作ったのではないかと言われるほどで、白鴎高校って昔の府立第一高女、これも名門校ですけども、あそこの中学生は来年4月から「つくる会」の教科書で教えられることになってしまうのです。それから性教育に対するバッシングとか。ジェンダーフリーはいけないとか、卒業式のやりかたマニュアルをきちっと決めましてね、その通りしなくてはいけないとか、立ち上がらなかった教師は処罰され、、、。つい数日前の新聞では奉仕活動を必修にするとか。ボランティアって良いことですけども、必修でやることかいって思うんですよね、これを思うと動員学徒のことを思い出すんです。私たちも奉仕でやらされて、お国のためだって思って、信じてやっていたんですけども、何のためだったのか。 その中で私は、戦後教育って本当は何だったのか、自分の体験を通じてこの本「若葉出づる頃―新制高校の誕生―(西田書房)」を書いたんです。国泰寺高校の1期生のことを書いたんです。これを調べるときにびっくりしたんですけども、あまりにも忘れられてる事実が多いんですよね。広島県教育史のような公的な資料を調べたときに、どうも私の記憶と違うんですよね、たとえば私たちの広島第二県女って学校は、新制高校への切り替えの時にちっちゃい学校は潰すといわれました。潰されるって時に大運動をして、残したんですけどもね、潰すってことは書いてあるんですけども残ったことは書いて無くて、あれを読むと私の行った広島県立広南(こうなん)高校てどうなっているんだろうって思う(※記録者注)。それも消えちゃっていて、県の教育史でこんなんでいいのかって思っていたんです。昭和24年度の大改革を見ますと、どうも私たちと違うなぁ、私の感覚と違うなぁって思うんです。教育史を見てみますと、いろいろ校長先生とか、偉い先生方の話ばかりが残っているんですね。寄せ集めでぎくしゃくして苦労したとか、あるいは総合制の学校で職業科の生徒がいじめられて困っただとか、そういうのばっかりがありましてね、私が見たり聞いたり、実際の体験と違うと思うんです。国泰寺高校できちっと出してる冊子(昭和34・5年)があるんですけども、それ見て驚いたんですけども、学校のオフィシャルな歴史なのに、書いてあるのが全部男の目で書いた記述ばっかりで、バンカラな男の子に女の子がびっくりしたとか、そんなことばっかり書いてあります。その後に手記って言うのがありますよね、何年度卒業生のって。それを見ましたらね、オフィシャルなものにかかわらず、女性の手記がひとつもないんですね。びっくりしました。それで私が思い当たりましたのが、さっき言った民衆の歴史ですけども、女性の歴史というのは、だんだん消えやすいんですね。 戦後の女性の労働運動のことも調べたことがあるんですけども、組合の中でも女性がやった運動のことは、記録もよく残らないとか、資料がどこかに行ってしまって、何にもないってことがよくあるんですね。戦後すぐ国鉄の大闘争があって、国鉄があまりに強くっていろいろと問題になって、潰しがかかるんです。三鷹事件とか下山事件とかいろいろあって。あれだって一番最初は女性から始まるんですね。戦争中男がいなくなって、大勢の女性がいまでもきついとされる仕事、線路を直したりする仕事までやった。戦争中女が頑張って、国鉄を守っているんです。戦後になって、復員がばぁってきて、それから満鉄が帰ってくる、その中で女はやめろやめろとやめろとってことになってしまった。それに対して女たちが反対闘争したのが始まりなんです。そんなことは国鉄の労働運動史を見ても一行ぐらいしか書いていなくって、女の歴史は消されちゃうらしいんです。 国泰寺高校は、元の一中で男の学校ですから手記を集めるときに、男ばっかり考えちゃうんでしょう。女性も卒業式には半分以上いるのに、女の手記を取ろうと思わないんですね。オフィシャルな、公の歴史ってのは偏っている、何かが消されちゃっている、おかしいぞって思うことが私は多かった。歴史を問い直し、検証し直すこととは、忘れてしまったことを思い出すことではないかと、これはおかしいってことをきちっとやることじゃあないか、そしてこれを公にしていくことが必要だと思うんです。 それで、戦後民主教育ってのは何だったのかと問い直すことは非常に大事なんじゃあないか。広島は原爆ではもちろん有名ですけども、その後の教育の面で思い切った大したことをしているんだと。だけどそれを広島の人自身が知りもしないという歴史ですよね。これこそ問い直し、オフィシャルな教育史の不備なところを、補うって言うよりも、いままでと違う民衆の目で書き直すことが必要ではないかって思うんです。その中で、いま生きている人たちの時代でもありますから、書いたものを含むオーラルヒストリーが、大事じゃあないかと思います。歴史を正しく知ることがないと将来が見えてこない。歴史はいろいろな方がいろいろ書きます。「つくる会」の人たちが自虐史観だと言って、南京虐殺もなかった、慰安婦もなかったといって、だれが見てもそんなことはあり得ないことなんだけれども、それで押し通して固定してしまったら、本当に分からなくなってしまう。それがないと未来も見えてこないってことです。 |
広島市学校教育史より 「新制高等学校の発足」 【記録者注】 広島県広南高等学校(旧広島県立広島第二高等女学校)は 広島県広島工業高等学校 広島市工業高等学校 広島県有朋高等学校(旧広島県立広島第一高等女学校) とともに総合制の皆実高等学校に編成されている。 http://www.minami-h.hiroshima-c.ed.jp/ http://www.minami-h.hiroshima-c.ed.jp/yukyu/minami-k1.html |
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| 歴史を正しく知ることの大切さ | |||
これから本当に広島が声を上げている歴史、核の問題、核兵器ってものを容認しないって、これを絶対に廃絶させるのだって言うね、歴史を検証していく、そして時代を知る、そしてそれがどう変わったのか、そうして事実がどうしておかしくなっちゃったのかを知ることによって未来が見えてくるのではないか、ここをいい加減にしていますと未来が見えない、 そして私たちがやった過去、私たちが知らないであの戦争を聖戦と思い、お国のためと思って、やったこと、道普請ですね、学徒動員だって何だったのかが見えてくると、、。私には道普請としか思えないんですけどね、私たちがやった疎開地の後片づけって言うのは、県庁とか市役所とか大事なもののそばで、広場を作る、それから平和大通りですよね、あの大きな、それからたくさんの大きな通りを私は作っています。道普請としか思えなくって、国土決戦に備えての軍用道路ではないかって思うこともありますけどもそれを作らされていたんじゃあないかって思って、あれは民衆のためなんかじゃあなかったんじゃないかと私は思っていますけども。 それからもう一つ、こういうこともあったんだよってことで、あまり知られていないことなんですけど、似島とかにたくさんの被爆者が連れて行かれた、それが戦争末期に廿日市と対岸のほうに分けて送られた。最後は廿日市とその周辺らしいんですけども。それで廿日市に例の大久野島ですね、毒ガスの、あそこに動員されていた忠海高女の方が動員されていたんですね。忠海高女の3年生だったんですがね、忠海から帰ってきて、あの方々自分たちが毒ガス作っていたと思わなかったんですよね、毒ガスの缶を頃がして、炎天下に素手で毒ガスのドラム缶をごろごろ押して、隣の島まで持っていってたりするんです。いま考えたら怖いことなんですが。それで家に帰ってきて、ヤレヤレと思ったら、広島に出てこいって、今度は戦後動員されているんですね。18日ごろに動員されて、廿日市にいらっしてね看護なさっているんですね。どういうところから 命令が来たのかと思うんですが、そういうこともあるんですよ。広島がめちゃくちゃになっていますから広島の学徒は動員できないから、忠海とかの女学生を連れてきて看護させた。そのことはあまり知られていませんでしょう。まだまだ調べるって言うか、はっきりさせなきゃあならないことがいっぱいある。原爆のことはずいぶん語られてきているんですけども、まだまだ分かっていないこと、みなさんが言わないことが、あんまりつらすぎて言えなかったことが、多いんですよね、まだまだ、、、。これをちゃんとはっきりさせて検証していくことが、歴史をきちんと語ることであり、未来へつながっていくことだと思う。歴史をきちんとすることが、未来に向かって過ちを起こさないことだと思うんです。本当にいまの情勢は厳しく、予断を許さない状況になっていますが、戦争は嫌だ、おこしたくない、戦争は絶対に嫌だという思い、本当に平和で良かったというあの思い、これは絶対に忘れちゃあいけないと思います。戦争なんて何一つ良いこと無いわけですから。本当にこれは言いたいと思います。それだからこそ広島の人たちがいま語り残すこと、語り継ぐこと、まだまだ検証すること、そして未来にそれをつなぐことが本当に大切なことだと思います。 |
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| 質疑応答 | |||
【司会】 ありがとうございました。 いろいろ分からないこと、原爆の時の実際のようすを含めて、しっかりと分かろうと思ったら、さっきの本は筑摩文庫になっていますので、是非読んで貰ったらと思います。 さっき先生が道普請と言いましたが、建物疎開で道路を広げて、火災が広がらないようにするって言うのが一般なんですけども、どうも戦前からある都市計画に沿って軍事道路を造ったリするがねらいで、疎開で人がいないものだから、子どもを使って働かせようって言うのが先にあったのではないかって言う説が、都市計画の研究の方から出されてきています。みんなの命を守るための、火災を防ぐものではなかったんだって説も実際ありますよね。、そのように見えてないこともあると思います。 今回のお話のテーマは子どもたちだったんですけども、みんな自分が子どもの時のことって忘れるんですよね。忘れるって言うか、大人になってしまうと今の関心の方に行ってしまいます。 高校の入試制度がどんどん変わっていく時期がありまして、広島の高校も結構がたがたになっているんですけども、そのときの保護者の方とは結構話ができるんですよね、いろいろ交渉に行ったりとか。しかし卒業してしまうと、子どもの時期の話って言うのは、親は忘れてしまうし、子どもも忘れていってしまうんですよね、自分の子どもの頃や高校時代と今の子どものようすを比べて考えることってすごく少なくって、忘れがちになってしまいます。 たとえば、資料の中に入っていますけども、今年似島で原爆被害者の遺骨を掘って、たくさんの人の遺骨を掘り出したことがありました。あの中で学校で動員するとどこで亡くなられたか分からなくなる状態がおきたりします。今年、たぶんこの人だろうって人が何人か見つかっています。そういうのを見ると、ああこれは忘れてはいけない、原爆のことに関わって、、子どもたちのことをちゃんと見ておけよって言うのがあるのかなって感じました。市女ですかね、舟入高校になる、戦争が終わって3年後ぐらいに100メートル道路の工事をしていたところで、白骨化した4人の骨が出てきて、それがちょうど市女の建物疎開の動員作業をしていたところで、そのまま死んだんだろうって、やっぱり何年間か埋もれているんですよね。100メートル道路の工事をやってる途中に掘り出されて、現在そこに碑が建っているんですけども。すると当時、実際に掘り出した人もいるだろうし、新聞を見て、まだ子どもたちの原爆の被害というのを忘れちゃあいけないって声があるんだなってことをたぶん感じたのではないかなって思っています。 子どもたちも戦後の姿とか、高校でこういう教育が行われたとか、相当気をつけておかないとたぶん忘れてしまうよなって、今日お話しを伺って改めて思いました。 関先生に質問とか、感想とかありましたら是非お願いします。 |
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| 【関千枝子さんより補足】 | 中学生や高校生が広島に行くので、案内してくれってことがあってります。今の中高生ですから、ちょっと歩いたらへとへとになってしまいます。、私たちは夏の暑いときに歩いたんだって言っても、今の子はフラフラになっちゃう。公園の中だけでも、学校の碑がすごくおおいので、みんなすごくびっくりするんですよね、名前が書いてある碑がありますよね、二中なんて名前がずっと書いてある。見せますとやっぱりね、びっくりするんですけど、広島全部でこれだけですかって、「冗談じゃあない、ひとつの学校だけでこんなに死んでいるのよ」っていうと「えーっ」っていうんですよね、「学年6クラスぐらいあって全部死んじゃったのよ」って言うと本当にびっくりするですけども。公園の中だけでも今の中学生は体力的ににふーふー言い出すんですけども、見せるだけでも大部違って、これだけの人が死んだんですかって、とおもいますね。 戦後教育のことを言うと、今の若い方に言わせると戦後はすごく暗かったって思っている。戦後教育のイメージって言うのは、墨で塗りつぶした教科書と青空教室で、教室がなくってね。それくらいのイメージで、実はあのときすごく楽しかった。本当に学校から帰りたくないって言うぐらい楽しかった。これもしたい、これもできた、あれもできたってことで、、、その話をすると、みなさんびっくりするんですよね。ですから何でああいう暗いイメージで伝わってしまったんだろう。戦後の民主主義を知った、そうなんだこれなんだって喜びが伝わらないのかって思うんです。多くの方が、飢えと暗いイメージを持っているんです。戦後の改革について、占領軍がごり押しして、乗り込んでやった。それで伝統文化を潰したってことばっかりなのです。私たちは、広島の改革は、本当に公平だし、良いって思ったんですよ。前年は小さい学校を潰すって言われて、大反対運動やってね、大騒ぎしたんです。翌年はこれはみんな公平じゃあないのって、正反対だったんですけども、。そうしたことで大変楽しかったんですけど、そういう雰囲気が忘れられてしまっている。暗くって、ごり押しに押しつけられて、だから戦後教育は悪かったという風にね。だから今の教育がある、始まったことになっているんですけども、私はこれは反対で、戦後教育が続いていたら、もっと違った教育になったはずだって思っています。この思いの違いがあったものですから、今日はその話をだいぶしてしまいました。考えてみたら、そんな前の話じゃあないのに、すっかり忘れられてしまって、歴史は怖いんだなって、私は生きているのに、歴史になっちゃっているんですけども、忘れられちゃっているのは怖いなぁと思います。 |
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| 【参加者】 今日はありがとうございます。 今日の資料の中で、おかっぱ頭の女の子たちが、2年西組の子の写真があります。 東京から広島に転入されてこられて、嫌でたまらなかったって話がありましたが、当時、こういう髪型と服装が当たり前というのが、無批判にというか、受け入れることが当たり前だって言う感覚でいたんだろうなって思いましたが、細かく決まりがあることも今日始めて聞きましたが、 |
この写真は1年生の時の写真なんですね、6月のはじめ、わたしが転入してすぐなんです。私は下の方の写真の、横顔で髪を分けて結んでいる、これは東京の時のままで、1年生の時って言うのは小学校から来たばかりですから、このままで良いんです、みんなおかっぱ頭でしょう。2年生になるまでにみんなしっかり髪の毛を伸ばしておいて、2年生になるとこういう風に分けて、髪を真ん中で(手振り)こうして、きゅっと、こういう風にするんですね、そういうふうに、当時お下げって言うと三つ編みかと思いましたら、三つ編みは禁止なんですね。こういう風に結んでその先が7センチって。みんなびっくりしちゃうんですけども。決まっているんです、きちっと。転校してくると無理無理にこんな事してね、結んだりします。短い髪をね、こうして。そうしないといけないと、、。写真は小学校のままで、みんなおかっぱですよね、1年生はこの髪型で良いんです。だんだんのばして、2年生になったらこういう風にするってそこまで決まっているんです。 洋服は、小学校の時のセーラー服で、国民服って言うのでも良いし、戦争中ですから、下のもんぺもちゃんともんぺでなくちゃあいけないんで、私は転入して最初の日に、知らないものだからスラックスって言うかズボンで言ったらすごい怒られて、しかられて、非国民だって言われてね、もんぺでね、きゅってしてなくちゃあいけない。すごく厳しくって、東京では私立だったものですから嫌でしょうがなかった。 この頃の学校に行きますともっとすごいのがありますね。ある私立の学校に行ったんですけども、壁の所に線がずーっとついてて、それよりもスカートの丈が長くても短くてもいけなくて、切ってしまうとかね、そういう学校もあって、、、、今の方がすごいと思うこともあります。私たちは本当に変な規範って言いますか、そんなものはなくなっても良い、何の差し障りもないんだって事を体験したのが戦後だったんですよね。 それからもう一つ、私たちが高校3年の時って言うのは、先生の方が忙しいですからね、新しいところに行って、始めてのことをするんですから大変ですよ、先生もね。それが学校が落ち着いてきて、それからだんだん豊かになってきて、そうすると先生たちもやることが無くなってくるのか、だんだん、だんだん規則ができ出すんですね。規則ができると今度はそれを破ろうとするやつが出てきて、、、野球の規則がそうですね。はじめはなんか5つか6つしかなかったのが、だんだん大きくなって、あのすごい野球のルールができあがったって言うのがよく言われますけども(笑)。 何かくだらないって思うんですけども、豊かになるといろいろ考え出すようで。私は本当に生徒規則なんか無い学校にいて、なんともなかった。 またそれを言いますとね、あなた方の頃は、高校生の質がいいからって言われるんです。今のように、変な言い方ですけど変な、質の悪い生徒まで高校に来るような時代と違いますって。確かに底辺校っていわれる学校に来た先生に聞くと、それまでにいじめ尽くされていますから、自分たちでべた〜って座り込んでいて、ただふてくされているだけのような生徒がいて、大変だって思うんです。だから、女学校の生徒はとっても良いところの子ばっかりですからそうなるんですよって。そんなこともなかったんじゃあないか。私たちの第二県女って所は、上級学校に行くって言っても広島女専しかなくって、良い学校にいこうなんてだれも思っていない学校でした。戦争だからいい子だけが中学校・女学校に行き、悪い子は行かなかったと考え方の人がいらっしゃるんですが、そうでもないですね、たとえば都市から大変離れている農村なんかでは、お金の問題もあって、女学校や中学校に行けるって事は大変なことで、よほどお金があって、良い家で、それでよくできる子が中学に来たらしいですけども、、、。そういう家でも長男は家を継ぐって事で学校はいらないって言われた方が多くって、質がいいけどいけなかった人が多いようですね。そういう中で、だめな悪いやつだって親に金があればとりあえずどこか学校へやってね、とりあえず中学校だけはやれとかね、そういうのもあって、、。今の人のイメージのように、今はだれでも彼でもいける、そのころは質のいい子だけがいけるって、、そうでもないんですけどもね。だから私がこういう話をしても頭から受け付けない先生方もいますね。今の学校は当時みたいにはとてもできないと、そのころ質のいい子どもだからできたんでしょうって、仰る方もいるんですけども、必ずしもそうだとも言えないと思うんですけどもね。 子どもの頃からより分けられてね、だめだだめだって事で、高校に来るまでに相当みんな嫌になっちゃっているんじゃあないかと、、、でもいっとけって言われるからとりあえずはいっとくけども、何のために勉強するか分かんないやって言う気持ちにそのままなっていたとしてもね、もうどうしようもないんじゃあないかって思うこともあるんですが、、。 それから、第二県女のことを思い出すと、みんな制服があっても良いって考えは全然無いんです。しかしその当時ですから制服が当たり前だった。そのときはすこし世の中が落ち着いてきたせいもあるけども、みんながもうセーラー服は嫌で、高校生らしい大人びた格好のいい制服が欲しいって言うのがみんなの意見だったんです。それで裁縫の先生が二人で制服を作ったんです。そのときみんながいった条件のひとつが、自分で作れることだった。そのころお金もないしね、当時の女学生はそれくらい作れる人が多かった。私は不器用だったから作れませんでしたけれども。自分で制服を作った人が大部分だったんです。まだまだ貧しい時代、昭和23年ぐらいって、貧しいていうか、ものがない。だから、この子は真っ黒な生地で上下の制服を作って、隣の子はおばあさんのセルの着物をほどいてグレーっぽいので作ってるし、一人は紫っぽいの作ってるし、みんな違うんですよ。その先生のデザインはブラウスは真っ白で、そしてここにピンタックで何かをつけるって言うのでした。今の高1とか高2とかぐらいの子ですから、上手にできないから、太いピンタックも細いのもあって、みんなむちゃくちゃになってしまったんです。それでも別にどうってこと無いですね、灰色だろうがグレーだろうがクロだろうが、何となくそれらしいものを作っているわけで、そんなことで何でもない。これで高校3年生になってしまうと、6校分ですからね、制服なんてだれも言うものはいない、みんなそれらしいものを適当に着ているだけですけども、格段どういう事もなかったと。 そんな風に、私なんか規範がとれた時代ですから、今を見ると、当時よりも酷いみたいで。そんな昔話をしても通じないのよね、自分たちで制服作ってみんなバラバラでだなんて。自分たちで制服作ったなんて言ったら今のお母さんたちはえーってみんなのけぞっちゃいます。そんなことできるんですかってね、考えもしませんものね、今は雑巾だって売ってる時代ですからね、本当に考えもしない。けど、私は、あの激動の時代を知っているもんですから、規則はなるべくない方が良いって言う思いがあります。今の締め付けというか、全部マニュアル化してしまって戦争中より酷いようで、どうしてこれで平気なのっていいたくなっちゃいます。どうしてみんなおかしいって言わないのって、思っちゃうことばかりです。本当に今それどころじゃあない、東京の研修なんて事も大変なことで、日の丸君が代で座っただけで無理矢理の研修で、大変なんですけども。いくら抗議して、いくら酷いっていっても聞き入れてくれないような教育委員会で、ホントどうしていいのって思うことばっかりです。本当に怖いですねえ、本当に自由がなくって、強制と管理、それが当たり前だって言う時代。怖いです。 それから弱者切り捨てが進んでいきますよね、アメリカのことをそんなに詳しく知っている訳じゃあないんですが、アメリカの本当のスラムで、地方都市のスラムですけども、貧困者を助けるためのプログラムを長くやっていた方が、私の新聞にそのときの話を書いてらっしゃいます。そういったスラムではほとんどが黒人で、<黒人も今のライス長官のようなエリートも人もいらっしゃいますけどもね>、本当に切り捨てられた人が多くって、生活保護生活もね、むっちゃくっちゃなんですよ。ちょっとした字も読めない人が大部分で、朝起きたらぼやーっと家の前に座って、ポップコーンなんか食べながら、お金の来るのを待ている。働く気はあるって言うんだけども、就職先に面接に行っても、時計がないのかもしれませんが、時間に遅れていって、面接官はがんがん怒っているんだけど、何で怒られているかさっぱり分からない。その人たちを日本につれてきて研修させるんですが、その人たちが山を見てびっくりしたって言うんですよね、それまでに山を見たことがなかった。それまでに飛行機に乗るのも怖がって大変だったとか、信じられない話がいっぱい出てくるんです。そういう人たちは アメリカの選挙では登録しないからね。票のうちに入っていないんです。ああいう国民を作って良いんだろうかと私は思います、私下手したら今の日本の弱者切り捨てってこうなっていくと思います。竹中某さんって、アメリカを自由のお手本にしているみたいですから、私怖くなってしまいます。強者の論理って本当に怖いですよね。私のように戦後民主主義を最初から知っている世代として、絶対に戦後民主主義が悪いんじゃあなくって、悪いのは受験と競争の論理なんだということです。戦争中の規則なんてめちゃめちゃで。冬になったら冬服には替わるんですが、冬服の上にはコートも着てはいけない、セーターも羽織っちゃあいけない。下に着るのは良いって。小学校の頃のセーラー服ですから、下にセーター1枚着込んじゃったらもうばりばりになっちゃう。学校に行ったら全部裸足になれでしょう。手袋は、霜焼けのものだけはいいんですが、いちいち手を見せて手袋を使って良いというサインを貰って、その人だけ許可で、。電車も乗っちゃあいけないんですよ、己斐から来る人は遠いから乗っても良いんだけども、広島駅から宇品までの人はだめなんです。そういう話をすると東京の人なんか笑っちゃってね、東京なんかはみんな遠いから考えられなくて笑うんです。お腹がすいているときに歩いて学校まで何キロも歩いてくるって、かえって不経済じゃあないのって、合理的じゃあない。でも当時はそういうのが皇国精神だってやってますよね、めちゃめちゃなことが当たり前になるんですよね、本当にそういうことがエスカレートしてくるんです。めちゃくちゃなことが、これが皇国精神だ、愛国心だって。本当に怖いと思いますよね、考えてみたらお腹が減って、栄養が悪いときに電車も乗らないで歩くって、かえって本当に青少年の体位を悪くすることで、無茶だと思うんですけども、それが通らなくなっていくのは、本当に怖いことだと思いますよね。 |
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| 【参加者 】 8月6日朝の生徒さんや学生さんの状況なんですけども、お腹を壊していて作業に参加できなかったって言う証言をたくさん聞きます。もう一つ写真の中に、セーラー服の違ったお嬢さんが一人いて、転校してきた生徒さんが広島には多かったともお聞きするんです。関さんも転校してきたとお聞きしましたが、転校したばかりでお名前が二中の碑に漏れていた事が後で分かったとか、こういう事も証言の中にあるんですけども、特に広島で転校生が多かったようなことはあるんでしょうか |
転校してきた人も、転校していった人もいるんですよね、田舎の方に。それからあの頃なかなか入れてもらえなかったって話もあります。神戸の四中だったものだから、二中にも断られ、私学に断られ、一中に入れて貰ったとかね、私も、戦後県女に入ってきた人で、その人は神戸の何中だったか、神戸の方は地域制だったらしくてね、入れなくって、私立の学校にいけって言われてね、嫌だって言ったから助かった人もいましたし、転校も多かったけれどもなかなか転入もできなかったようです。 (写真を見て)あの人、まつしげさんは背が高いからもうちょっと上のクラスかなって思うんです。私の学年では小学校の服を着ていましたから、セーラーむちゃくちゃですよ。水色の襟の方もあれば紺色もあって、そんなこと言ってられなくてってことはありました。かなり転出入が激しかったことは確かです、 |
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| 広島だから特に多かったという事はないんですか?広島には転入が多かったとか? | それは私には分かりません。どこの地域も疎開してくる方は多かったので、、、。疎開していじめられたって言う話もよく聞きますけれども、当時田舎にいた方とつき合いがあるんですが、「田舎だって大変だったのよ。食べる物もみんな供出で取られてしまうし、こっちだって大変だったんだから」っていわれて、。それもそうだったんだよねっていいます。どこも大変だったんです。地域性はどうだったでしょうか。その方は、九州の南ので、沖縄からの疎開学童を受け入れたことはあるとおもいます。私の場合は父の仕事の、勤務の関係で転入しました。広島はどうかとか、ほかの学校は違ったとかそれは分かりません、しかし、呉なんかとはちょっと違ったと思いますね。ほかは分からないんですが。 セーラー服がめちゃめちゃだって言うのは、そういった為もあります。みんな小学校のままを着ていましたから、、 |
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| <参加者> 私は昭和30年代の中学校だったんですけども、学校にミシンがたくさんあったんです。あれは当時女子がそういう作業に当たっていたって事はないのでしょうか。 | それはそうじゃあなくて、広島第二県女の場合は昭和16年にできたちっちゃな学校で、機材のないところを無理矢理校舎を建てたので、一棟しかなくって、化学教室とか、音楽室とかは全部女専のを借りたんですけども、そこに家技室と裁縫室があって、ミシンはいくつかあって、女性の教育のためには大事なことだったんでしょうね。ミシンもちゃんとあったのを覚えています。まずそれが第一だったのではないでしょうかね。 | ||
<学校で軍服に関する作業をされたって事は?>![]() |
私の学校ではそんなことはありませんでしたが、そういうところもあったらしいです。工場などから遠いところの学校ではそんなこともあったらしいですね、学校で工場の作業をやったのは、広島の場合は、あんまり私は聞いていません。割合、工場が多かったって事じゃあないかと思います。学徒動員をずいぶん調べた方があって、1年生ぐらいから無理矢理に工場の恒常動員、常に行く動員ですね、それに遣られているところもあったそうです。それは愛知県で、豊川の動員ではすごく若い動員があって、ずいぶん全国で差があるんだなっています。その必要のないところもあって、東京神奈川の工場動員でも、神奈川だけでは足りなくって、東北からずいぶん呼び寄せている。広島は割合工場は多かったと思うんです。ただ戦争末期になりますと作る物が無くなって、私の1年上の3年生は陸軍の工場で、金輪島とかに陸軍の工場がありまして、行っていたんです。けども作る物が無くて、作らされたのが、白い凧だって泣いていたって話、解りますか。白い凧作らされた話。これをどうするんですかって訊いたら、敵機が来た時この凧を揚げるとね、敵機がこれを飛行機だって思って逃げるからねって(笑)、話聞いて泣いちゃったんですって。 「慟哭」に書いた人は、広島航空にいったけども仕事がなく、板金にまわされたけどほとんど仕事が無くて、だから疎開地の後片づけ作業に行けっていわれて、それを先生が断って助かったんです。戦争末期に行かされた人は工場に行かされたけども作る物がないって言う、、、。北海道の人に聞きますとね、工場も少なかったんでしょうけども、農村に行かされたんだそうです。畑作りに、。私たちの2年生の西組ってのが、雑魚場で、市役所前で死ぬんですけども、東組は5日だけ行って、6日は東練兵場にいたって言うのが、東練兵場で、畑作りさせられていたって。東練兵場はこの頃もう練兵場として使われていなくて、全部畑に開墾されていた。。。 戦争末期の工場動員なんて、材料がなくって酷い物でした。その当時の一人で乗っていく特攻の潜水艦、敵艦にぶつかっていく。自分も死んじゃう訳なんですけども、艦の外壁のうすいこと。その工場で働いていた人の話を聞いたことがありますけども、機銃掃射をやられたら、こっちの壁から反対の壁へすーっと抜けていったそうです。そんなので敵艦にぶつかっても軍艦の方はピンとこなかったんじゃあないかとおもいます。そういう人間の命を大事にしない、特攻機とか特攻潜水艇なんてこっちが必ず死ぬって、そういうことをした。小泉さんがあれ見て涙を流したって言うんですけども、何を思って泣いたのか。ああいうことで死なされて、国のためだと言うことで否応なしに死なされたけども、命を失うことでしかなかったというその哀しさを感じます。思うのですけども、同じ時代に生きて、私も、石原慎太郎さんが同じ歳なんです。昭和7年で。私は石原さんが「生殖機能のなくなった女は、生きているだけ無駄だ」って言ったのを怒って、訴訟を起こしている原告の一人なんで、今度その裁判で私の陳述読まなくてはならないんです。すごくそれにこだわって、陳述を書いたんです。同じ歳でも私のこの思いを受け取らない人がいるって事がずごく残念なんです。だから、彼らは歴史をちゃんと検証していない方だって思うんです、本当にそう思います。それから彼は、南京虐殺はなかったと言ってますけども、本当にお聞きになってらっしゃらないんだと思うし、広島への原爆と同じで、ああゆう虐殺とか慰安婦の方などは喋るのが嫌でしゃべれなかったのか、つらいのか。しゃべれませんよねぇ、ああゆうつらい事って言うのは。 昔のソ連の時代からのパルチザン闘争のことをずっと書いてた作家が、それを書き終えて後、自分の書いた物は本当の戦争の惨禍を書いた物ではなかった、もっと酷い目にあった人があるんだって、言っています。一番戦争の惨禍、酷い目にあったのは、戦争をした兵隊じゃあなくって、銃後で無抵抗で戦争の被災にあった者で、彼らが一番恐ろしさを知る。でもその人は決して喜んで語ることはないであろう。兵士たちは、死んでしまった人はもう語らない。生き残った兵士は、塹壕から出たとたんに戦争の思い出はロマンに変わってしまう。だけど本当に酷い目にあった、銃後で無抵抗であった人は決して忘れることはないであろう。しかしその人たちは決して喜んで語らないであろう。おそらく広島や長崎でいろんな被害にあった人は喜んで語ることはないであろうって。 この文章に非常に打たれました。この文章は1978年に朝日新聞の下村満子さんという有名な女性記者が、アメリカやソ連などあちこちで取材されて書いた記事の中にあって、いまだに切り取って持っています。一番酷い目にあった人は喜んで喋らない。だからそれが今頃出てくるんですよね、つらかったことが。老境70歳を過ぎて人生の最後に当たって、しかもこの情勢の中で、ようやっと語る人が出てきた。この中に今まで語られなかった事が一杯入っていると思います。それだから、辛かったことを語る人が多いですね。 私もこれから生きている間、たぶん話すよりも書く方が、聞いてくださる方が多いだろうから、できるだけ書いていきたいと思います。特に広島の方、特に若い方々で次に語り継いでくださる方を是非助けていきたい。書けないって方があったら、聞き書きを書くことを手伝うとか、そういうこともさせていただきたいと思います。さまざまな体験も継承していただきたいって思います。できましたら、私の書いた本もできましたら読んでください、 <<拍手>> |
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