学徒動員・勤労動員
日中全面戦争に突入すると、戦時総員体制が強化される、まず、一九三八(昭相一三)年六月九日、文部省は「集団的勤労作業運動実施に関する件」の通牒を出した。これが、集団勤労作業を教育に取り入れた最初である。翌年には、木炭不足解決の手段として「木炭勤労報国運動」が行われ、次第に一食糧増産運動」などにも子どもだちか動員される
ようになった、.学校は、入間形成の機能を失い、「労働力」としての‘子どもの役割が、学校ぐるみで求められるようになっていく。
アジア太平洋戦争に入ると、その傾向はさらに強まる。とりわけ一九四三(昭和一八)年六月二五日に閣議で決定された「学徒戦時動員体制」は、学生・生徒を実際の「戦力」にするものであっだ。
こうした動員により犠牲者も出るようになっだ。清沢冽は『暗黒日記』の八月一七日付に、学生の死を美化し、戦意昂揚の方向に向けていこうとする新聞記事を引用しつつ、「各大学、専門学校生徒は、休暇奉還と称して、労苦に服す。その犠牲者続出。左はその一例なり」と批判している。
翌四四(昭和一九)年一月一八日、「緊急学徒勤勤動員方策綱」が発表され、「勤労即教育」の方向か打ち出された。そして二月二五日の閣議決定で「決戦非常措置要綱一が決定され、中等学校以上の学生・生徒は、常時、勤労動員されることとなった。また、学校の校舎も必要に応じて軍需工場や車用倉庫などに転用されることとなった。
さらにこの方針を強化するため、三月七日には「決戦非常措置要綱に基く学徒動員実施要綱」が発表される。これは三月二四日の「決戦非常措置要綱に基く中等学校教育内容に関する措置要綱の件」をはじめ、三月三一日の「決戦非常措置に基く学徒動員実施要綱に依る学校種別学徒動員基準に関する件」、四月一七日の「決戦非常措置に基く学徒勤労総員に関する件」四月二七日の「学徒勤労動員実施要領に関する件」、四月ニ八日の「決戦非常措置要綱に基く学校工場化実施に関する件」、同日の「学徒勤労動員に関する件」、五月三日の「工場事業場等学徒勤労勅員受人側要綱に関する件」と、矢つぎばやに具体化されていった。
その結果、、中等学校以下の授業は停止、通年動員の体制となった。国民学校の「学校工場化」も促進され、学校そのものが解体された。
渡辺賢二ほか『戦争と平和の事典(高文研1995)綿引光友』より