広島フィールドワーク案内


呉【大和ミュージアム】

クリックすると公式HPへ

呉へのFWは軍事都市:呉の戦争遺跡や多くが自衛隊に受け継がれている海軍施設・造船施設、また海軍墓地や入船山記念館などを追悼・祈念施設を回ります。
呉FW準備会の写真が見つからないので、今回は2005年4月23日に開館したばかりの、大和ミュージアムのご紹介。  (-_-;)/(+_+;)\(-_-;) オイオイ

大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)の目的は

呉市海事歴史科学館(愛称:大和ミュージアム)は,明治以降の日本の近代化の歴史そのものである「呉の歴史」と,その近代化の礎となった造船,製鋼を始めとした各種の「科学技術」を,先人の努力や当時の生活・文化に触れながら紹介し,我が国の歴史と平和の大切さを認識していただくとともに,科学技術創造立国を目指す日本の将来を担う子ども達に科学技術のすばらしさを理解していただき,未来に夢と希望を抱いていただくことのできる「呉らしい博物館」とすることにより,地域の教育,文化及び観光等に大きく寄与することを目的とします。
                                                                  (公式HPより)

だそうです。

軍事技術をメインテーマにした博物館というのは全国でも珍しいでしょう。
扱い方によっては、軍国賛美になりかねませんね、、検証してみましょう。

GWの一日、ちょっと汗ばむほどの良い天気でした。
数々のTV番組に取り上げられただけあって、大勢の見学者がいらしていました。
場所も呉市中心部のデパートの裏手、中央桟橋の隣と最高です。

気持ちのいい芝生広場に、シートを広げて、」ピクニックされる方も。。
屋外展示の「しんかい」です。

なかがみたかったな〜
水中翼船「きんせい」

こういう船をみると【ぐれ@管理人】の幼児体験がよみがえり、
わくわくしてきます。

いや〜平和なお船っていいですね。。。。f(^_^) ぽりぽり
ミュージアムから呉港を望みます。【左右の写真でほぼ展望通りです。】
呉の造船業など物作りの力を感じさせる風景ですね。
右端に気になるもようが。。。実物大「大和」です。
大和の甲板のようすおよそ4分の1が桟橋沿いに再現されています。
丸い印は砲塔のの形。
大和の大きさを実感させられます。
艦橋もどきもあります。展望台になっています
【銘板内容】
戦艦「大和」は昭和16(1941)年12月16日、呉海軍工廠で竣工しました。当時最先端の技術を用いて建造され、現在でも世界の歴史上最大の戦艦です。昭和17(1942)年2月から1年間、連合艦隊旗艦となっていました。昭和20(1945)年4月、沖縄への海上特攻作戦に出撃し、九州南西沖でアメリカ軍の攻撃を受け沈没しました。ここでは戦艦「大和」前甲板の左半分を原寸大で表現しています。
入場するといきなり目玉展示のある「大和ひろば」です。
10分の1スケールの大和が人々の目を集めます。

たしかにでかい。。。迫力があります。きっと細部もすごいのでしょう
帝国海軍の「軍艦」とは艦首にこの菊の紋があるものだけだそうで、

それ以外の艦艇と区別されていたそうです。
艦尾からの一枚。

船好きにはたまらない??
続いて展示室「呉の歴史」

自分として気になったのは、
  • いわゆる「軍国美談」が目立つこと。
  • 日中戦争が軽視され、日清・日露戦争や太平洋戦争が拡大して描かれていること。
  • 「大和」の「技術」が戦後経済復興の原動力に、直結して描かれていること。
などです。
ほかにも「南京侵攻(南京虐殺)」の扱い。動員学徒・工場動員・女子挺身隊などよく検証していきたいと思っています。
展示室の展示項目
  • 呉浦の風景
  • 呉鎮守府の開庁
  • 呉海軍工廠の設立
  • 対戦景気と呉海軍工廠
  • 生産と管理の合理化
  • 広海軍工廠と第11海軍航空廠
  • 技術の決勝戦艦「大和」
    • 「大和」の建造計画
    • 「大和」の建造
    • 「大和」の技術
    • 「大和」の生産
    • 「大和」に乗っていた人々
    • 「大和」の現在
  • 呉と太平洋戦争
    • 開戦
    • 戦線の拡大
    • 戦局の転換
    • 戦線の後退・最終局面
    • 呉で建造された艦艇模型
    • 呉で建造された潜水艦模型
    • 戦時下の市民生活
    • 呉空襲
    • 呉と原爆
  • 平和産業港湾都市としての再生
  • 呉の現在
広瀬武夫と呉
日露戦争で旅順港の港口に古船を沈めて港口を封鎖する作戦に従事中行方不明となった杉の上等兵曹を捜しに、沈みつつある福井丸」に戻りましたが見つからずやむなくカッターで脱出中、戦死しました。この部下思いの勇敢な行為は日本人の模範と大変賞賛されされました。広瀬は日露戦争前は在ロシア駐在武官で、柔術を紹介したことや、ロシア女性との悲恋などのエピソードが残されていますまた呉を訪れた際はいつも、呉名物であった「おまさ饅頭」を両親のために買い求めていたと言われています。

という記述は、軍国美談の紹介でしょうね。
呉の町や造船とどのような関係があるのか、必要な説明であるのか。。疑問です。ほかにも「第6潜水艇」事件にもかなりの展示スペースを割いています。
「第6潜水艇」
明治43(1910)年4月15日岩国市新湊沖で潜行訓練中、通風筒から浸水し、16メートルの海底へ沈没、佐久間勉艇長をはじめとする乗組員14名の全員が殉職しました。
危機的状況に際して、佐久間艇長が記した「遺書」には、沈没状況、事故原因今後の潜水艦技術への提言、乗組員遺族への救済の依頼までは書き遺され、世界の人々に深い感銘を与えました。

呉の潜水艦基地としての位置づけをはっきりさせるための展示でしょうか?。。。?
呉工廠への徴用工員・女子挺身隊・学徒の動員
太平洋戦争末期には呉海軍工廠の熟練工にも召集がかかり、戦地へ出征していきました。その不足を補うため、国民総動員法(記録者注:国家総動員法?)のもと多くの人々が徴用工員として動員されました。
学生や生徒は学徒動員女性は女子挺身隊として呉工廠で働くこととなり、彼らは厳しい生活環境と職場環境の中で懸命に働きました。そのため、学生・生徒たちが勉学に費やされる時間はなくなりました。


という記述は、私たちの関心の焦点である、戦争と子どもたちという点を押さえた大切な記述です。
疑問点として、動員された人々とはどのような人だったのでしょうか。強制連行との関係はあるのでしょうか?
そして、学生から奪われたのは「勉学に費やされる時間」だけだったのでしょうか?

呉の空襲
呉に対する空襲は昭和20(1945)年3月19日から8月14日まで14回を記録しています。このうち大木は被害をもたらした6回の空襲をこのコーナーでとりあげました。
呉の空襲の特徴は、その回数が多いこと、また被害を受けたものが多岐に渡ることで、軍港内の艦船及び呉海軍航空隊の航空機、呉工廠・広工廠・11空廠などの軍事施設・市街地の一般市民の住宅などが目標となりました。
そのため、海軍の軍人・軍属。工廠の工員一般の市民多数が尊い命を落としました。
アメリカ軍も呉は日本海軍最大の軍港・工廠がある都市だと認識しており、パイロットは決死の覚悟で呉を攻撃したという報告が多く残されています。実際に多くのアメリカ軍の航空機が撃墜されました。
このように戦争では双方とも多くの尊い命が失われます。特にこのコーナーは戦争の悲惨さ、平和の大切さを後世に伝えていくために設けたものです。
展示内容を説明するための主要な展開はVTRによる説明で行われている。
その内容は、貴重な映像記録なのだが、それについている解説文には首を傾げてしまうことも多い。左はその一例であるが、日露戦争の原因やその結果について、適切な解説といえるでしょうか。

「ロシアが満州を支配することに対抗する」を前面に押し出した解説は
「満州は日本の生命線」という認識・前提に立っていないでしょうか。
(正確を期したつもりですが、VTRの音声を個人的に記録したものなので、誤記などありましたら、ご指摘の上、ご容赦ください。)
前略)【呉海軍工廠は】・・拡張を続け、最初に建造された艦で通報艦「宮古」が誕生します。一方兵器製造の拡充もすすみ、呉は兵器一貫生産が可能な唯一の拠点へと成長していきます。

欧米列強による分割競争が進む中、外国人排斥運動が高まった清国では義和団事件が発生。これを機に大軍を送り込んだロシアは満州を事実上占領するに至りました。
日本海軍はロシア艦隊に対抗すべく、艦隊の増強を計りました。

そのころ呉市が誕生。市制施行の翌年には広島と呉を結ぶ鉄道が開通。町中では広島県内で初めての市街電車が走り始めました。こうした中で、造船と兵器製造の事業が統合された呉海軍工廠が誕生。純国産による艦艇建造が進み、帝国海軍第一の製造所の地位を担うことになりました。

(砲声)そしてついに日露戦争が勃発します。

(軍艦マーチ)日本海戦で日本がバルチック艦隊を撃破。ロシアに勝利したことは、欧米列強に圧迫されていたアジアや東欧の国々の覚醒を促すことともなりました。
しかし、一方で、アジアの脅威と見られるようになっていたのも事実でした。

呉鎮守府開庁当時850人に過ぎなかった工員数は、日露戦争の影響もあり、3万人を越えるまでに増員、最高の技術者たちが呉に集結し、すべて国産技術で作られた初の主力艦「筑波」などの艦艇をを次々と建造しました。日露戦争後の帝国国防方針により、仮想敵国にロシアに次いでアメリカがあげられました。この方針によって、太平洋防衛に必要な新鋭戦艦8隻、巡洋戦艦8隻を中心とする八八艦隊構想が生まれたのです。
日露戦争と呉工廠
満州(中国東北部)をめぐるロシアとの交渉が難航するなか、日本はイギリスと同盟して満州と韓国での権益を守るため、明治35(1902)年、日英同盟を結びました。明治37(1904)年には日露両国の交渉が決裂し、日露戦争がはじまりました。呉工廠では開戦前年から民間の船を艦艇として利用できるように改装、修理しました。また日本海海戦を前に「三笠」をはじめ連合艦隊名艦(管理人注:各艦?)の整備及び補給を行いました。
という記述は、日露戦争の説明として適切でしょうか?
「満州と韓国での権益を守るため」という表現は「朝鮮への支配を強め、満州での権益を広げようとした日本と南下政策のロシアが対立」とした方が適切ではないでしょうか。

(正確を期したつもりですが、VTRの音声を個人的に記録したものなので、誤記などありましたら、ご指摘の上、ご容赦ください。)


世界大恐慌の波は日本にも及びました。不況と軍備の縮小により職を失った工員の中には、鳥取県のなわ村に移住し、農業を始める人もいました。欧米列強が自国経済を最優先するブロック経済体制を敷く中、日本はさらに中国市場に進出していきました。

柳条湖事件をきっかけに中国進出を進める日本は、やがて満州国を建国し、清朝最後の皇帝溥儀が国家元首として迎えられました。国内では政府や軍首脳部への不満を背景としたクーデターが起こり、それを利用した軍部の独走は次第に、歯止めのかからないものになっていきます。
<松岡洋右・・国際連盟脱退演説>
国際連盟を脱退し、軍縮条約を離脱した日本は孤立を深めていったのでした。
廬溝橋事件をきっかけとする日中戦争は、全面戦争へと拡大します。日本はほぼ中国全土に戦火を広げていきました。

こうした中、呉では国防と産業大博覧会が開催され、大勢の人々で賑わいました。戦局の拡大とともに呉海軍工廠は拡大され、全国から職を求める人が呉に集まりました。この時期、造船から兵器製造、潜水艦の技術開発に至る呉海軍工廠の技術は頂点を極めていました。日本海軍・呉工廠で培われた技術の粋を集めた結晶が、戦艦「大和」だったのです。

ドイツのポーランド侵攻をきっかけに、ヨーロッパで第2次世界大戦が勃発。日本はドイツ・イタリアと三国同盟を締結します。
イギリス・アメリカの中国支援ルートを断つため、日本軍は南部インドシナに進駐します。このことがイギリスアメリカとの対立を決定的なものにしました。アメリカは日本に対する石油や屑鉄輸出を禁止するとともに、日本のアメリカにおける資産を凍結するという厳しい経済制裁をとります。またイギリス・中国・オランダという東アジアに権益を持つ国々も、日本に対して貿易制限を行いました。経済封鎖を受けた日本は、国力の差を省みず、アメリカとの戦端をひらかざるを得ないところまで追い込まれていました。
<ラジオ音声 大本営陸海軍部発表・・12月8日6時、帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋において、米英軍と・・>
日本海軍はハワイ真珠湾のアメリカ軍を攻撃。太平洋戦争が勃発します。欧米諸国からの開放を名目とした日本軍は、短期間のうちに、東南アジア各地を占領しました。しかしミッドウエイ海戦で大きな損害を被り、アメリカ軍の圧倒的な兵力の前に、その後次々と艦船を失っていくこととなります。
日本軍はガダルカナル島を巡るソロモン航空戦で必死の抵抗を見せますが、空軍力で勝るアメリカ軍に大きな損害を与えることはできず、次第に後退せざるを得ませんでした。マリアナ沖海戦で大敗した日本は、続いてレイテ沖海戦にも敗れ、アメリカ軍にフィリピンを奪還されてしまいました。<爆音>
<同期の桜>追いつめられた日本軍は神風特別攻撃隊を編成し、爆弾を積んで、機体ごと敵艦にぶつかるという、捨て身の作戦に出ます。一方、呉と広の海軍工廠には、徴用工員・学生・生徒・女子挺身隊をはじめ、多くの人々が動員されました。
切迫した状況の中、呉工廠では特攻兵器として、人間魚雷「回天」が開発されていました。
アメリカ軍が沖縄に上陸すると、沖縄本島では戦闘員だけではなく、多くの民間人の命が奪われました。鹿児島の鹿屋や知覧の航空基地から、毎日のように特攻機が飛び立ち、多くの若い命が戦場に散っていきました。
<海ゆかば>
一億総特攻の魁(さきがけ)として、沖縄救援のため、戦艦「大和」をはじめとする第2艦隊が出撃しますが、アメリカ海軍の空母部隊の猛攻撃を受け、史上最大最強と謳われた戦艦「大和」は沈没しました。
呉では戦死者の海軍合同葬儀が行われました。また”いわさか”国民学校の児童など、3年生から6年生までのおよそ5000人の子どもたちが疎開生活を強いられました。
連合軍による本土攻撃が本格化すると、日本海軍最大の軍港・工廠の町として重要視されていた呉は幾度となく激しい空襲に晒されました。これにより2000名にも及ぶ一般市民と日米両軍の多くの尊い命が奪われました。
呉初空襲の際には、アメリカ海軍空母機に対して、松山の紫電改部隊の迎撃や艦艇からの対空砲火による反撃で、アメリカ軍は日本本土攻撃の中でももっとも大きな被害を出しました。広や呉の海軍工廠を目標とした空襲により、兵器生産施設はほぼ壊滅的な打撃を受けました。7月1日夜半から2日未明にかけ、呉市街地をおそった無差別な焼夷弾攻撃は、およそ1800名にも上る市民の尊い命を奪いました。7月24日及び28日の空襲は、燃料もなく、呉周辺に停泊していた艦船を目標に行われました。乗組員の必死の反撃で、多数の航空機を撃墜しましたが、連合国の空母機などによる大規模な空襲は、艦船のほとんどを使用不能の状態に陥(おとしい)れました。これにより海軍の水上部隊は事実上壊滅してしまいました。そして、世界で初めて広島に原子爆弾が落とされたのです。
<玉音放送>終戦に伴い半世紀以上にわたって繁栄してきた軍港呉の歴史にもついに終止符が打たれました。





核心部分といえるアジア太平洋戦争の描写です。VTRは10分に及びます。



「欧米列強が自国経済を最優先するブロック経済を敷く中・・」など対比にならないものを対比して相対化し正当化を図っていませんでしょうか。






「軍部の独走」とはよく聞くフレーズですが、それを支持したひとびと・国民や経済界の動きに目を閉じていませんでしょうか。

「柳条湖事件をきっかけ」「廬溝橋事件をきっかけ・・」という説明は、説明になっていますでしょうか。それぞれ、事件を起こした意図があることを説明すべきではないでしょうか。























「東アジアに権益を持つ国」に中国を含めて良いのでしょうか。
ABCD包囲陣を意図した記述でしょうが、無理が感じられます。



「国力の差を省みず、戦端をひらかざるを得ない」・・とほかの途がなかったように描いて良いのでしょうか。



(正確を期したつもりですが、VTRの音声を個人的に記録したものなので、誤記などありましたら、ご指摘の上、ご容赦ください。)

VTR音声  「戦艦 長門」
(勇ましい音楽)
日本海海戦は欧米列強に戦艦を主力とした海戦の重要性を改めて突きつけ、30センチ砲を搭載したイギリスの戦艦ドレッドノートを皮切りに各国は大艦巨砲の建艦競争にしのぎを削ります。当時日本は経済的にゆとりがありませんでしたが、八八艦隊計画を推進。まず戦艦「長門」「陸奥」の建造を進めました。戦艦「長門」は八八艦隊の一番艦として、呉海軍工廠で建造されました。世界初の41センチ砲を搭載。大砲の大口径化に備え、側面防御ばかりではなく、水面下の防御にも装甲板を据え付けるなど、当時の造船技術の粋を結集しました。排煙対策で第一煙突を曲げた長門の姿は、広く国民にも親しまれ、関東大震災の時には救援活動にも参加しました。戦艦「長門」は「大和」が登場するまでの20年間、日本海軍のシンボルとして、常に連合艦隊の旗艦の役割を担います。その後煙突を1本にまとめるなど装備を一新した戦艦「長門」は、真珠湾攻撃、ミッドウエイ海戦に出撃するなど、常に日本海軍の命運を見守り続けました。
(飛行機の音)しかし太平洋戦争は航空機が中心であったため、前線に出る機会はあまりありませんでした。終戦を海の上で迎えた日本の戦艦は唯一「長門」だけだったのです。アメリカ海軍に没収された「長門」は、南太平洋のビキニ環礁で終末の時を迎えます。空中爆発実験ではほぼ無傷で往年の主力艦としての底力を見せました。しかし昭和21(1946)年7月25日に行われた水中爆発実験では、側壁に損傷を被り、4日後25年8ヶ月の生涯を終えたのです。ビキニ環礁の海底には今も戦艦「長門」が静かに眠っています。この世界に、核兵器の無い真の平和が訪れることを祈りながら。
大型資料展示室
展示の文言にかかわらず、実物には真実を伝える強い力がある、と感じざるを得ないのが大型資料展示室です。
多くの人が、ゼロ戦の姿に引きつけられているようですが。
特攻兵器2種が明るい午後の光の中、黙って座っています。
彼らが伝えているのは「日本海軍の栄光」でしょうか?私にはそうは思えませんでした。
特攻兵器「回天」十型(試作型)
    実戦配備はされなかったようですが、本土決戦用の「回天」。
    舵を動かす1本の鉄棒が無骨につきだしています。
    自分の命をこんな乗り物に託すなんて。。。
    そばに潜望鏡の実物があり、外の風景を見ることができます。
    歪んだ風景の中に何が見えていたのでしょうか。        
    重たいものを感じざるを得ない展示でした。

特殊潜航艇「海龍」後期量産型
「海龍」世界初の有翼潜水艇です。水中を飛行機のように自由に潜航・浮上することをめざして、開発されたもので、操縦装置も飛行機と同じものを使用していました。呉海軍工廠などでは潜航実験や研究。開発が行われ、横須賀海軍工廠と海軍工作学校を中心に建造されました。後期量産型では艇首に600キログラムの炸薬を装備し、両脇に抱えた魚雷発射後、目標の艦艇に突入する「水中特攻兵器」となっていました。
当館展示の「海龍」は昭和20(1945)年静岡県網代湾で艦尾部にアメリカ海軍航空機のロケット弾(不発弾)の直撃を受けて沈没し、昭和53(1978)年5月27日に引き揚げられたものです。
沈没して30年以上海底にあり、引き揚げられた艦体です。
艦尾には穴が開いています。攻撃され、沈没の原因になった穴でしょうか?
沈没時、乗員の方はどうなったのでしょうか。
それがこうして、多くの人の前で晒されている。
この展示から何を読みとればいいでしょうか。
零式艦上戦闘機六二型

このミュージアムの目玉のひとつ【ゼロ戦】ですね。
多くの人が足を止め、見入っていました。

船をつくる技術 子ども向け、体験的学習施設ですね。
良くできています。
多くの子どもたちが楽しそうに遊び、学んでいました。
波の実験装置などはかなりの本格派に見えました。
未来へ 展示の最後は未来への展望・・・・・
呉の先端技術産業の紹介がメインのはずですが。。。

なぜ、宇宙戦艦ヤマトなのか。。。理解に苦しみます。


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