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渡部 朋子 さん 略歴
「アジアの友と手をつなぐ広島市民の会」(ANT-Hiroshima)代表。
1976年広島修道大学商学部卒業。
弁護士である夫の法律事務所を事務局長として切り盛りしながら、まちづくりや国際交流、平和構築などの市民活動に携わる。国内外での平和構築、国際協力活動に基づく平和教育を生涯学習・学校教育現場などで実践している。
広島市教育委員会委員、アンナプルナ脳神経センター医療協力会副会長、
(財)広島平和文化センター評議員、(財)ひろしまドナーバンク評議員、
比治山大学非常勤講師。広島市安佐南区在住。
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中国新聞 2005年1月17日(月曜日)) 広島世界平和ミッション 第5陣の横顔A 渡部 朋子さん(51) 海外活動 経験生かす 幾つもの顔を持つ。広島市教育委員、骨髄バンクの支援ボランティア、大学の非常勤講師・・・。会議、イベント、英語レッスン、家事と一日中駆け回る。「またお昼を食べれんかった」。チョコレートを口にして、こう続けた。「ただ優先順位のトップは命にかかわる活動なんよ」 中でも代表を務める「アジアの友と手をつなぐ広島市民の会」に多くの時間とエネルギーを割く。一九八九年に設立以来、留学生の支援や海外の個人、平和団体とのつながりを深める。英語名を略した会の通称はアリを意味する「ANT」。仲間と「大地をはい回る活動がしたい」との願いがこもる。二〇〇二年末、パキスタン北西部にあるアフガン難民キャンプを訪れたのも、その延長にあった。 「見捨てられた地じゃった」と振り返る。医師かいないため、女性は自力で出産する。「へその緒を切るかみそりか欲しい」と言われた。男性は職がなく、兵士になるしか道がない。「広島は世界から見捨てられなかったから、こんにちがあると思う。その恩返しをしたい」と支援を決めた。 昨年三月に再訪。医療面のニーズを知るための調査をした。今は病気や妊娠初期の診察ができる小さな医療施設の建設準備を進める。 平和ミッションではインドも訪ねる。南アジアで最も影響力のある大国である。「インドの人たちには核戦争の恐ろしさを伝えるとともに、平和のために一緒に何かできるかを考えたい」 広島市中区生まれ。看護学生だった母は、広島赤十字病院(現広島赤十字`・原爆病院)で被爆。幼いころ、毎年八月六日が近づくと母の同僚が集い、結婚差別を受けた女性の経験などをそぱで聞いた。 二十歳のとき、被爆者の祖父が逝った。命のつながりを考えるほど、原爆への関心が高まった。多くの被爆者から体験を聞いた。大学の卒論もヒロシマをテーマにした。 三人の子育てなどに追われながら、個人でできる平和活動をしてきた。グループをつくっての本格的な取り組みを始めて十五年余がたつ。 「大河の一滴でもいいから、これからも平和に近づくためにやれることを精いっぱいやる。広島の人々は、いままでもそうしてきたんじゃろうと思う」。今回の旅も「アリンコ魂」で臨む。 |
| インタビュー | 出典:渡部朋子さんから頂いた資料より:掲載紙不明 |
| 出会い、想像力、共感 | |
| 「アジアの友と手をつなぐ広島市民の会」 代表 渡部朋子 さん 中国新聞社記者 増田 泉子 |
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| プロローグ | |
| 「こんにちは」。一重まぶたの目元がふっと緩んで、□元がきゅっと上がります。日本だと広島なまり。外国だとそのお国の言葉で。場所がどこであろうと、相手が誰であろうと、朋子さんの第一声はいつも同じです。肩に力が入ったり、逆に妙にへりくだったりもしません。 初めて会った人でも、「OOちゃん」と呼ぶ朋子さんのペースにいつのまにかはまっています。 「アジアの友と手をつなぐ広島市民の会」。英語では「AsianNetwork of Trust in Hiroshima」と訳しています。頭文字を取って、「ANT」とも呼びます。 ANT=アリのように小さな力を集め、大きな平和をつくろう−との願いを込めています。 今最も力を入れているのは、アフガニスタン国境に近いパキスタンのシャムシャトウ難民キャンプに小規模な医療施設をつくる計画です。朋子さんは、2002年と04年の2度、現地を訪ねました。難民の置かれている立場を広く知ってもらい、協力してくれる人を増やすため、向こうで見聞さしたことを話す機会を大事にしています。多い月には6〜7回になります。 |
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| 「アフガニスタンの人と自分を重ね合わせて 身近に受け止めてくれるようになるんよ」 |
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| 中学校での講演はこんな感じです。 現地から持って帰った帽子やアクセサリー、絵などをありったけ持って行きます。まずは何人かの生徒に身に着けたり、触れたりしてもらうのです。 たとえばブルカ。頭からすっぽり全身を覆うマントで、目だけ開いています。イスラム教徒の女性が外へ出るときに着ます。「目が見えん」「臭い」…。ブレスレットをしてみます。「細い。やせとってんじゃねえ」。ストールに触ると、「柔らかいねえ」。生徒は五感を総動員して、想像を始めます。現地で撮影したビデオも上映します。 「頭だけじゃなくて体全体でわかろうとすることで、アフガニスタンの人と自分を重ね合わせて、身近に受け止めてくれるようになるんよ」。 生徒から質問が出始めました。「平均寿命はいくつですか」「寿命を左右するのは乳児死亡率。赤ちゃんや小さい子どもはたくさん亡くなるんよ。でも私は難民の人たちの寿命を知りません。行政機関が壊れたら、そういうデータはなかなかつかめんのよ」「何かうれしかったですか」「キャンプに一度来る人は多いけど、二度来る人は珍しいって、『見捨てないでくれた』ってハグハグして、心からウエルカムしてくれたことです」…。 |
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| 「きょうアフガニスタンの人の話を聞いて、 それは間違いだとわかりました」 |
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| 異質なものの中に共通項を見つけて、共感してもらう−。朋子さんのやり方は、話す相手の年齢が高くなっても変わりません。 瀬戸内海のある島で、年配の女性たちに請われて話した時のことです。講演の後、一人のおばあさんが駆け寄ってきました。「私はこれまで芋ばっかり食べて苦労して生きてきて、自分ほど不幸な人間はおらんと思いよりました。きょうアフガンの人の話を聞いて、それは間違いだとわかりました。明日から新しい気持ちで生きさしてもらいます」。そう言って、手を合わせて深くお辞儀をされました。 朋子さんは思いました。おばあさんは、自分はアフガンの女性よりは幸せだと言いたいわけじゃない。世界が広がったことで、ご自身の生き方を再構築されたのだ−。「おばあさんの言葉を問いて、晴れ晴れとして心の底からうれしかったけえ、こっちが『ありがとうございました』とお辞儀を返したんよ」 |
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| 「ヒロシマを学ぶことから 『自分さがし』が始まったんよね」 |
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| 世界中の人たちに心を寄せるようになったのは、生まれ育ちが影響していると朋子さんは思っています。 朋子さんのお母さんは、今の広島赤十字・原爆病院(広島市中区)で看護婦をしている時に原爆に遭いました。机の下にもぐり込んで生き延ぴたと聞いています。結婚してからは勤めを辞めましたが、原爆が落とされた8月6日には毎年、同僚だった大勢の友達が朋子さんの実家に集まりました。亡くなった仲間を悼む場は、日々の暮らしのつらさや悲しみを打ち明け、励ましあう同窓会のような場に少しずつ変わっていきました。政治には距離を置いた「普通の」女性たち。表立って声高に被爆体験を語るわけではありません。朋子さんは年に一度、お母さんたちの話を聞くとはなしに聞きながら育ちました。 はたちの夏、祖父が目の前で脳出血で倒れて亡くなりました。やはり被爆者でした。近しい人の初めての死をどう受け止めたらいいのか。朋子さんは戸惑ったと言います。そもそも私は何者だろう。どうやって命がつながれてきたのだろう。それまで意識していなかった原爆のことが気にかかり始めました。1945年8月6日に広島で何か起きたのか。手当たり次第人に会いに行って「ヒロシマ」を学ぶことから、今でいう「自分さがし」が始まりました。 |
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| 「広島は世界中の人たちにお世話に なったおかげで今があるんよ」 |
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| 朋子さんの実家は商売を営んでいました。同じ屋根の下には、両親、兄弟姉妹とおじやおばに加え、血のつながらない人も常に誰かいました。世話好きの父を頼って来るのです。近くには、朋子さんが「育ての母」と呼ぶ女性もいました。両親の親友で、実家の精神的支柱のような存在でした。何だかわからないけれど周りにいろんな人がいて、助けたり、助けられたりして生きてきたそうです。 人間の思いを踏みにじるものへの怒り。血縁を超えた、人との絆。朋子さんの活動の根っこには、この2つの思いが流れているのです。 だから、かかわっているありとあらゆる活動は、底のところで全部つながっていると朋子さんは言います。ANTは89年、韓国人作家の絵を広島で展示しようと奔走したのが始まりでした。骨髄バンクや、ネパールの脳外科を支援する活動も10年以上続けています。地域のまちづくりにもかかわっています。 広島の若者が受け入れた米国空軍士官学校の学生に話をしたこともあります。「広島は世界中の人たちにお世話になったおかげで今があるんよ」と言ったら、驚かれました。自分たちは原爆を落とした国の人間なので、広島の人から怒られると思っていたそうです。朋子さんは2つお願いしました。「あなたらの飛行機の下に生きている人間がいることを想像してね」と、「白か黒かでなく、『その中間』っていう解決方法もあることを知って」ということです。 最近は西鉄高速バス乗っ取り事件の被害者の講演会も開きました。講師の女性の宿泊場所は渡部家です。ホテルを利用するほど資金に余裕がないので、朋子さんの活動の関係者は渡部家によく泊まります。夫や3人の子どもは、面倒見のよさにあきれながらも協力してくれます。「子どものころは静かな家庭にあこがれとったんじゃけど、父と同じことしとるよねえj。朋子さんはけらけらと笑います。 |
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| 「自己責任論 十把ひとからげに論じることはできんはず」 |
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| イラクでことし、ボランティア活動などに携わっていた3人の日本人がテロリストの人質になってしまいました。危険な地域での個人の活動について、日本では「自己責任」という言葉で3人への批判が巻き起こりました。 人道支援とか、復興支援といった活動は、民間にしかできない分野があると朋子さんは考えています。 NGO (非政府組織)やNPO(民間非営利団体)の歴史が長い欧米は、政府との役割分担、協力体制ができています。お互いが得意な分野を受け持つのです。逆に日本は相互に不信感を持っているのが残念だといいます。 それにも増して、「自己責任論」一色になったのが残念でした。「危険は必ずあるけど、常に条件が複雑に絡んでケース・バイ・ケースなんよ。十把ひとからげに論じることはできんはず。『イラクの人がほっとけんかったんよね。不幸にも恐ろしい思いをして、よう帰ってきたね』ってどうして言えんのんじゃろう。日本は何と度量の狭い国になっ てしまったことよねえ」と嘆きます。 聖書に「人はパンのみにて生くるものにあらず」という言葉があります。人間は物質的な満足だけを目的に生きるのではなく、精神的なよりどころも必要だという意味です。 アフガン難民のキャンプを訪ねて、朋子さんはそれを実感できたといいます。食べ物や洋服をいくら援助しても、未来に夢や希望がないと人は生きていけないと思うのです。食事もろくにとれない子どもが「英語の先生になりたい」なんて言ってくれると、頑張る力がわいてきます。希望が持てない人間がテロに走るのだと考えます。 朋子さんには、今の日本と乾いた大地アフガンが重なって見えます。最近の日本の子どもたちの救いようのない犯罪は、子どもたちの生きる世界に希望が見えないからだと思えて仕方がないのです。「日本の子は愛情やまなざし、かかわってくれる人が足りなくて乾いとる。絶望的な状況の中で希望が持てるかどうかは、人が信じられるかどうかでしょう。希望を見いだす意思を持てる人こそが、平和をつくる人なんよ。子どもは平和をつくる人じゃないといけんのんよ」 |
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| 「マザー・テレサがおっちやった町じゃ 思うたら、泣けてきてねぇ」 |
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| いつも走り回っている朋子さんですが、自信にあふれているわけではありません。無力さを思い知らされ、落ち込んではまた思い直しの繰り返しです。 ことし3月。1年ぶりにパキスタンのアフガン難民キャンプを訪ねた帰りの飛行機でのことです。乗客の睡眠のため、機内の照明が消えて真っ暗になりました。窓の外に目をやると、満天の星でした。「コルカタ(カルカッタ)上空」とアナウンスがありました。 「マザー・テレサがおっちゃった町じゃと思うたら泣けてきてねぇ。難民キャンプで現実を突きつけられて、『いったい私に何かできるん?』と不安で不安で仕方なくて、星を見ながら、泣けて、泣けて…。そのうちに「ま、いいか。やれるだけやろう』と思うたんよ」 飛行機はいつもコルカタの上を飛ぶし、星は何も朋子さんのために光っていたわけではありません。でも何でも自分のプラスに受け取ってしまうのです。そして、絶望的な状況でも「しゃあないやん。でも孫の代には万にひとつでも実現するかもしれん」という「スーパー楽観主義」(朋子さん)で、次の活動のエネルギーを生み出すのです。 |
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| 「昔から橋になりたいと思いよったんよ」 | |
| ANTの事務局は、広島市中区のビルの6階にあります。「昔から橋になりたいと思いよったんよ」。マザー・テレサの写真の下で朋子さんは言います。信頼の橋を造ったら、才能のある人がそこを歩いてくれる−と心から思っています。人の出会い、っながりがそこここに生まれ、張り巡らされると、国同士のいさかいは減り、一つの民族や国が滅びる最悪の事態は免れると信じているのです。 多くの人ともっとコミュニケーションを深めたいと、朋子さんは50歳になる今も英語を習いに行っています。 |
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