浜街道
和製シルクロード「絹の道」ともいえる道が、幕末から近代にかけて活況を呈した。嘉永6年(1853)のペリー来航以来、欧米諸国との本格的な貿易が始まったが、開港したての横浜から積み出される主要な輸出品として、生糸がかなりの部分を占めることになった。南多摩郡鑓水村(現東京都八王子市)の生糸商人は・・・・馬の背に生糸を積んで横浜までを「浜道」と呼ばれていた道を通って運搬し、仲介の商人や外国商人たちを相手に大商いをした。(新井勝紘他編「街道の日本史 多摩と甲州道中」より)
今回は生糸の輸送路として利用された八王子から横「浜」への道を歩いた。
平成15年6月15日(日)
かつて桑都といわれた八王子には、駅前大通りに全国でも珍しい桑の並木がある。一部は葉の形が似たマロニエに植え替えられているが、今も数十本が並び、「桑並木通り」と呼ばれている。
この並木の近くに八日町交差点がある。今回の街道の起点で、甲州道中八王子十五宿の横山宿と八日市宿の境にあたり、東西南北に道が通じる重要な拠点だった。今もここから南に国道16号線が延び、浜街道はこの国道をほぼ辿ることになる。標識は横浜までの距離が42キロであることを示している。
南町、万町。富士見通り、みさき通りを越える。JR中央線相模街道踏切で特急かいじ号が通り過ぎるのを待つ。
寺町。南大通り、子安公園通りを横切る。
黄金橋を過ぎると道は緩やかに上がる。国道と別れてアイビー化粧品の左脇を進むところにわずかではあるが旧道が残っている。八王子医療刑務所の高い塀が現れて、国道に戻ると子安町交差点。塀が尽きるところから下り始める。
京王高尾線の片倉駅を右に見て、切通しの道がガードをくぐる。片倉町交差点で北野街道を横切る。清酒桑乃都の看板がある。
湯殿川を住吉橋で越え、源平寿司の先で国道から分かれて左に入る。由井市民センターの前を右折して住宅の間を進む。JR横浜線川久保ガードをくぐる。
石塀に沿って門前に出ると、「富士家登」の屋号の表札が掛かっている。家登(やと)は小さな谷を表す谷戸のことで、富士山がよく見える谷の意味と思われる。残念ながら今にも降り出しそうな曇り空では、富士山はもちろん近くの山も見えない。
そのまま進むと突き当たる民家の右脇に慈眼寺への道がある。赤い山門の上に、生糸取引に活躍した商人の名が刻まれた鐘があるというが、山門は閉められており確認できない。
寺から出て左に区画整理された住宅街の間を上がっていく。白山神社の小さな祠とその脇に数体の石仏がある。右手高台に日本文化大の校舎。さらにその向こうには東京工科大の大きな、高い校舎がいくつも見える。昭和40年代〜50年代にかけて東京都心から市内へ21もの大学が移ってきて、八王子市は全国有数の学園都市となった。
おくやま音楽教室の先を左折。道際の栗林から特有の花の匂いがたち込める。浜街道はやがて開発された宅地の中に消えて、再び現れるのは少し先の鑓水峠である。片倉台小学校に出て、その右脇を上がっていくと、東急片倉台の住宅地だ。整然とした町並みの中を進んでいく。
晴れていると正面に奥多摩の山並みが並び、左手には高尾・陣場の稜線が連なり、右は奥武蔵の山々が見えるらしい。標高205メートル。
鬱蒼とした森の中の道を進むと大塚山公園に出る。曇り空に加えて木々の枝が覆いかぶさって周りは不気味なほど薄暗い。
公園には、明治初期に東京浅草・花川戸から移した道了堂という寺があったが、今お堂はなく礎石や地蔵や灯籠が残っているだけだ。公園へ上る石段のたもとに「絹の道の石碑」が立っている。台座に桑の葉・糸巻・繭のレリーフがある。
八王子市に住んで本屋を営みながら地方文化活動をしていた橋本義夫さんが、昭和26年ごろに絹の道と名付けた。この人はふだんから文章を書きましょうという活動、すなわち ふだん記運動をしていた人で、やまびこ学校や綴方教室で有名な無着成恭さんの先生にあたる。(14年3月シルク博物館に於ける国際貿易観光会館安藤専務理事の講演「横浜開港と横浜への絹の道」より)
公園前から道は緩やかに下っていく。椀状に窪んだ道に左右から木の枝がかぶさっている。ホーホケキョと鶯が鳴く。
浜街道のかつての景観をもっともよくとどめているところらしい。
カアーカアーとカラスのうるさい声が無ければ深山の趣だ。
意外に下り坂が長い。道端のドクダミが白い花をつけ、オオバコが穂を立てている。
資料館の隣の大塚家は活躍した商人・惣兵ヱの子孫だろう。かつて横浜との行き来で沸き立った集落は、前方に見える多摩ニュータウンの造成工事も知らぬげに、ひっそりとたたずんでいる。
道際の榎があるところが一里塚の跡。さらに下ると、大栗川に架かる御殿橋に出る。橋の欄干に絹の道の文字と道了堂のかつての賑わいを写した銅版の複製がはめ込まれている。
橋のたもとに道標が立っている。正面に「八王子道」、側面に「此方 はら町田 神奈川 ふぢさわ」「此方 はしもと 津久井 大山」と刻まれている。
橋を渡らずに大栗川を下って、嫁入橋に出て、そのまま直進して柚木街道に進む。右に小泉家の清寂な茅葺の屋敷がある。この家は商人でなく農家である。
旧戦車道を横切って、遠くから見えていた鑓水小山給水場の脇を下っていく。この下り坂が田端坂か。もうここは町田市である。
坂を下って町田街道に出る50メートルほど手前を左折する。住宅の中の細い道が浜街道である。広い多摩ニュータウン通りを渡って、京王相模原線の多摩境第4架道橋をくぐる。古い屋敷と新しい家が混在している。小山保育園で、これまで右手を並行していた町田街道に合流する。
小山センターに葉をたっぷりと垂らした枝垂桜の大木。小山駐在所の脇を入ると萩原家の重厚な長屋門があり、前に萌黄色の桑畑が広がる。
神奈川中央バス常盤停留所前から右斜めに入ると、旧道らしく右に左に緩やかに曲がる。しばらくして中常盤バス停の手前で町田街道に出る。すぐ左に、小さく回りこむように浜街道が残っている。電柱に加藤塾の案内があるところを右に入ってフレンドマートで町田街道に戻る。
左右に桜美林学園の建物が並ぶ。
大きなゆったりとした屋敷が多い。蔵もある。アジサイが鮮やかなコバルトブルーの花を咲かせ、ホタルブクロが紫色の花を膨らませている。
秋葉神社の祠の脇に欅が聳える。
神社の奥に大きな甍が見えるのは福昌寺。家康の遺骸を久能山から日光に移した際に休憩所となった寺である。
旧道のたたずまいを感じる道をさらに進むと、奥州古道と交差する。先ほどの家康の遺骸はこの古道を通った。
四辻を右に少し入ると木曽一里塚の西塚が残り、桜の大木が載っかっている。東塚跡は税理士事務所。
覚円坊、地蔵堂。メガネパリーミキで町田街道に合流する。
小田急線の踏切を渡ると、町田駅前に絹乃道の石碑があるが、気に留める人はいない。町田中央通りは人、人、人で溢れかえっている。
明治30年代創業の乾物の柾屋の御主人に伺った。
右手のフタバヤ靴店と SEPIA CAFEの間を入ったところに川田酒造があって、この小道を川田横丁と呼んだ。左手の元禄寿司の脇を入る細い道は塩屋横丁。これらの横丁あたりから、この先ダイソーがあるところの間で、原町田の市が開かれていたと聞いている。
金森4丁目バス停で町田街道と分かれ右に入る。都営住宅、サザンゴルフガーデン。
小川交差点で町田街道に戻る。小川原、小鶴橋。
17時30分 東急田園都市線 南町田駅 43809歩
7時5分 小鶴橋をスタートし町田街道を進む。
すぐに長津田辻で、かつての矢倉往還である国道246号と交差する。朝早くから車が殺到している。
この交差点を直進すると、裏道になって車が減る。
東名高速道路の横浜町田インターチェンジの自動車道に挟まれた細い道を進む。東名に架かる第一跨道橋の下は、もちろんたくさんの車が疾走している。道なりに進むうちに国道16号に出る。
これから浜街道は国道16号の左右に蛇行を繰り返しながら進む。
ホテルが続く。ファッション、ラル、アラン・ド、イン、デザートイン。旭区上川井第3陸橋で国道を越える。サンサーン、みやび。
道は切通しを一気に下っていくが、もともとは左手の亀甲山が右の方向にも続いていたらしい。
地図を見ると、横浜市に入って道は八王子街道と名を変える。江戸期、この浜街道を横浜側では八王子道あるいは八王子往還と呼んでいた。
若葉台団地入口。左手の団地の方向に、谷を横断する水道局の導水路が見える。長さ300メートルの鉄製水路橋で全国的にも珍しいものだろう。上川井町。左手に小高い丘が続き、その裾に家が連なる。長源寺。宮の下交差点の神明社の脇の細い道を左に上がり、神社の裏手から、住宅街の中を進む。くねくね曲がる道は丘の中腹に延びる。
駕籠塚への矢印に誘われて坂を上がると、浄水場の脇に畠山重忠古戦場跡と記した遺跡駕籠塚がある。このあたりから右手一帯は鎌倉期に畠山重忠が北条勢に謀られ討たれた鶴ケ峰合戦があったところ。塚の周りを掃除している子供達の邪魔をしないように塚の由来を読む。それによると合戦の報に接して駆けつけた重忠の内室が、重忠戦死の悲報を聞いて自害し、この場所に駕籠ごと埋葬されたとのこと。
薬王寺に重忠はじめ一族郎党134騎を埋めた塚があることを、帰宅後知った。いつか鎌倉街道を歩いたときにお参りしよう。
此処山ミち人馬の往来なんき(難儀)のゆへ此処その所の田地を買求め往来やすからしむ者也(碑文の一部)
この碑があるところから国道に並行する形で上がっていく細い坂道は、当時の苦労を偲ばせる急勾配だ。坂を上がると右下にJR横浜線の線路が見え、右前方遠くに桜木町のランドマークタワーが霞んでいる。崖上の細い道がやがて下って、おそらく猪子山であろう小山の右裾を進むと市営バス西谷停留所で国道に出る。
上星川神明通隧道を抜けて市沢入口で国道に出る。上星川町から釜台町へと進む。釜台歩道橋の脇に和田村道橋改修碑がある。かつての難路も今は広い国道で車の行き来が激しい。しかし和田町交差点から国道を外れて左斜めの細い道に入ると車は殆ど通らない。旧道らしい曲線と穏やかな雰囲気は国道に合流する和田町商店街入口まで続く。
国道沿いの そば処喬月 で冷しきつねそばを食べる。
横浜新道の保土ケ谷陸橋下から左斜めに進む。静かな住宅街の通りと思ったのもつかの間、神中生コンの音が騒がしい。この道は保土ケ谷公園入口で国道を横切ってロイヤルハイツ星川の左脇を入り、右に大きく膨らむ。右手に近づいた川は帷子川だ。タマちゃんですっかり有名になったあのカタビラ川だが、上流なのでタマちゃんが泳げるほどの深さはない。
ホームセンターコーナンの半円形の敷地に沿った道が、また国道を横切る。峰岡商店街の名にしては商店が寂しく点在する通りを進む。小さな峰岡公園の前に「からおけすなっく うまや」という小さなお店がある。祖先の生業が牛馬関連なのだろうか。 峰岡小学校の校庭横を過ぎ、SATY天王町店で国道に戻る。車が殺到する宮田2丁目交差点で左折する。延命地蔵尊。宮田町2丁目、1丁目。そして西区浅間町4丁目。
13時20分 芝生(しぼう)の追分に着く。
東海道との分岐点で、このあたりに東海道保土ケ谷宿の江戸方見附があった。
右の方向が京で、すぐ先に見える松原商店街は、松並木があったのでその名がある。
左の方向は江戸。浜街道はこの追分で終わる。
しかし八王子から運ばれた生糸は、このあと東海道、横浜道を経て横浜港まで運ばれたので、引き続きその道筋を辿る。
東海道を江戸に向って進む。浅間3丁目、2丁目。1丁目に浅間神社。八百清で新横浜通りに出る。
旧道にこだわって進むとその先は、浅間下歩道橋で広い通りを渡り、浅間町リモコンパークの脇の狭い道に入って環状1号に出て、右手の浅間町交差点を渡って、左手の 生そば角家 の左を入って、瀬野金物店で新横浜通りに合流する。
前にそびえるランドマークタワーに向って歩く。横浜駅西口。陸橋の右脇下を進み、JR、東急の線路を踏切で越える。
平沼商店街、敷島橋、戸部通り、野毛坂を下りて左に折れる。人が溢れる野毛町。都橋、吉田町、関内。
馬車道、横浜正金銀行本店、生糸検査所。海岸通、日本郵船横浜支店。
15時5分 ゴールである SILK CENTER に着く。 40852歩
SILK CENTERの前の、横浜開港のころに植えられ樹齢140年ほどの桑の大木が我々を迎えてくれた。