甲州道中(裏街道)
台が原宿から韮崎宿までの甲州道中は、釜無川の流域を南下しているので河路(かわじ)と呼ばれるが、しばしば洪水に見舞われ通行不能となった。そのときに利用された街道が原路(はらじ)と呼ばれる七里岩の上を通る山道。JR中央本線に近いところを辿っている。
この原路も裏街道と言えなくも無い。
平成14年11月30日(土)
4週連続で土曜日の朝、東京駅で幕の内弁当を買い、JR新宿駅7時発のスーパーあずさ1号に乗り込んで信州・甲州に向かった今回の街道歩きも、今日の韮崎から甲府までで終わりである。
9時20分 韮崎市本町交差点をスタート。
晴れたら真正面に見えるはずの富士山は、薄曇の空模様のためまったく姿をみせない。
千野眼科医院の前に平成5年のふるさと創生資金で立てた「本陣跡」の石碑がある。しかし、その先の山梨中央銀行韮崎支店にあるはずの一橋陣屋跡の石碑は、広い駐車場をいくら探しても見つからない。陣屋は巨摩郡一橋領を治めるために置かれていた。(後日、このHPをご覧になった千野先生から、一橋陣屋跡の碑は、場所を移して、医院の裏手の旧市役所跡に立っていることを教えて戴いた。ありがとうございました。)
仏具の喜田屋の手前の五味家の前に置かれた石は「馬つなぎ石」。
下宿交差点の右脇の鰍沢横丁から入る細い道が駿信往還で、駿州往還、富士川舟運を経て東海道につながっていた。
横丁を進むと、国道20号を跨ぐ船山越陸橋にぶつかる。船山橋の下を釜無川が流れて、国道沿いの少し小高くなったところに大きな自然石の「船山河岸」の碑がある。駿河に江戸城納めの年貢米や雑穀を「下げ米」し、食塩干し魚などを「上げ塩」した富士川(釜無川)舟運の終点である。
宝塚歌劇を創った小林一三翁は明治25年12月に故郷を後にする。
この富士川の時間船は、甲州から東京行き最短の旅程で、時間表によれば、11時半に岩淵に着く。駅前の旅館に着くと、直ちに昼飯が運ばれて、1時頃の汽車に乗ると、その日に新橋に着、汽車賃は1円1銭、1哩1銭として101哩と覚えている。昼飯は15銭、名物として甲州人の待ちこがれていた鮪のさしみが食べられるので嬉しかった。
(小林一三著「逸翁自叙伝」より)
因みに中央線が甲府まで開通したのは明治36年(1903)である。
塩川橋西詰で国道を越えて塩川の堤防を歩く。昔架かっていた橋跡が残っている。右上の地蔵ケ岳の頂きは先週よりも白い。その左に文字通りの形をした櫛形山が低く横たわる。小山の木々の葉も河原の草も枯れて、周りの景色はすっかり茶色くなった。
戻って国道が通る塩川橋を渡る。しばらくして国道と分かれて左上に上がっていく。宇津谷の金剛地の集落である。ここは鍛冶職人が多かったらしい。何人もの人に尋ねて、ようやくJRの線路脇に「金山神社」を見つける。神社とは見えない小屋の戸を開けると、ご神体のフイゴらしきものがあり、その下に男根と女陰を模した石が転がっている。子授けの神としても知られているようだ。
集落には大きな家もあり、朽ちた家もあり、空き地になったところもある。
青年団が置いた道標がある、「向左滝沢駒沢ニ通ス」。
六反川を渡る。すこし横に入ると芭蕉の句碑があるが、句は読めない。かつて立場があった名残りか商店が多い。セブンイレブン、出光石油SS、総合衣料やました、フラワーショップモア、ヘアサロンミヤタ。途中で地名は塩崎町から上志田に変わる。第39回山梨県一周駅伝の立て看板が電柱に括られている。
この辺にあったらしい一里塚はまったく痕跡が無い。双葉町立双葉西小学校の校門に白い双葉が掲げられている。たぶん校章だろう。
なまこ壁に覆われた蔵と屋敷が連なる、重厚で広大な屋敷が現れる。明治期に建てたものらしいが、民家でこれだけの規模はそれほどあるまい。庄屋だった「網蔵家」だ。110町歩を所有していた大地主である。
道の反対側に三界万霊塔と刻まれた大きな石碑が立っている。立場があった下今井に移ると、山交タウンコーチ塩崎駅入口。細い防沢川を渡ると大きな「泣き石」がある。新府城落城の際、落ちのびる武田勝頼一行が炎上する城を見て落涙したところで、岩から水が流れ出したそうだ。
の屋敷が残っている。
1メートルほどの道標が民家の塀に倒れかかった姿で立っている。「右 市川駿・ 左 甲州江・」と下の部分が埋まっている。ここで左へ折れ、緩やかに上がりながら右へ左へと曲がる。
ここは双葉町と竜王町の境界。やがて道は「赤坂」となり下っていく。数十本の松並木があり人馬の休息場だったというが、今、松は一本も無い。真正面の薄曇の空に眼をこらすと、雪に覆われた富士山がうっすらと見つかる。下は甲府の町だ。
坂の途中、諏訪神社と稲荷が一つ屋根の下に祀られている。民家の庭に大きな「赤坂供養塔」、長旅に疲れた旅人の行き倒れが多かったらしい。
大根を短冊に切って、塩と化学調味料で揉んで5分置いておくだけでよい。そして鰹節と醤油をかけて食べる。奥さんでも出来るよ。
店を出てすぐ右に曲がり、「慈照寺」の境内に入る。美しく響くというので戦時中の供出を免れた鐘があり、町の名の由来となった竜王水が湧いていた。
さらに、釜無川からの水が勢いよく流れる用水路に沿って「信玄堤」へ行く。昔は竜王御川除と呼んだらしい。川の流れは静か。前には鳳凰三山や櫛形山の山容がぼんやりと霞んでいる。堤を散歩する人が三々五々。穏やかな日和である。
街道に戻る。街道特有の曲線を描く道を、スピードを上げた車が激しく行き交う。道祖大神と刻んだ自然石。傍らに小さな丸石を祀る道祖神。昔の村人の寄り合い場の目印に大きな丸石の道祖神が置かれている。JR中央線第一信州往還踏切。
竜王新町交差点角の埃を被ったバイクが並ぶ曽根川サイクルは、かつての「馬方茶屋」だ。
国道52号となるが、旧道と同じ屈曲を残しており、穏やかに右に左に曲がる。富竹新田に入ると家も増え、事業所が増え、周りの山々もその建物の間からしか見えない。
中央自動車道をくぐると、甲府市貢川(くがわ)で、やがて県立美術館の森が見える。入館してミレーの種まく人を鑑賞。ボストン美術館の同名の絵もこんなに暗かったかしらと妻が呟く。
寿町、相生と甲府市の中心街へ向かう。丸の内郵便局東交差点に昭和56年に復元した「西 志んしうみち 南みのぶみち」の道標。左手にJR甲府駅が見える。相生歩道橋に上がって、そのまま直進。
甲府柳町宿(山梨県甲府市)
桜町南信号を左折してアーケードのある商店街を進み、うなぎの若荒井の前を右折する。薄暮にネオンがきらめく。連雀問屋街入口を左折する。
NTT甲府支店西交差点の手前あたりが旧柳町2丁目で本陣、脇本陣があったと思われるが場所がはっきりしない。この通りは交差点角から南へ次の商店と事業所が並んでいる。
COOL&PEACE(衣料品店)、HOT SHOT(輸入レコード店)、井上文具店、パブニュールマン、パークジャパン中央第4(駐車場)、建設業労働災害防止協会山梨県支部、食器のデパート山田屋、柳正堂本店(本屋)、中村金物店、JOKEMAN(バー)、株式会社盛進商会、どてやき、ファミリーマート甲府中央4丁目店。
古くから営業しているらしい井上文具店のご主人に尋ねると、山田屋のおじいさんがいろいろ調べていたらしいとの話。そこで食器のデパート山田屋に飛び込むと、ご主人がおられ、おじいさん(三野誠司氏、90才)がこの周辺のことを調べて纏めた小冊子を取り出し説明してくれた。
柳町の名であるが、信虎、信玄時代、古府中城下町の躑躅ケ崎古城に通じる東寄りの通りが柳小路と言われ、この柳をとって柳町と言った。
(三野誠司著「甲府街史 柳町篇」「柳町今昔物語り」より抜粋)
したがって、「本陣」はCOOL&PEACE、HOT SHOTのあたり、「脇本陣」はナカムラ金物店の場所にあったことが判った。
折角の市井の人のこれらの記録が埋もれることのないよう祈りたい。また突然お邪魔したにも拘わらず親切にご応接戴いた山田屋のご主人に感謝したい。
4時30分 「札の辻」の中央交差点をゴールとした。34159歩。
交差点角にある印傳屋に妻はいそいそと入っていった。 (了)