平成20年12月6日(土)
10時 伏見・京橋町をスタートし、竹田街道を進む。
すぐ油掛通に入り、そして
油掛地蔵尊にお参りし、おひたきまんじゅうを頬張り、金札宮の本殿前の赤い実をつけたクロガネモチの大木を見上げたりしながら、伏見宿の中心を北上する。
下油掛町、中油掛町、伯耆町、
金札宮の前に大黒寺。
小さな寺だが、一時期、西郷隆盛が住んでおり、大久保利通と長州藩との関係について話し合ったといわれる。
薩摩藩の祈願所でもあり、幕末の寺田屋騒動で斃れた有馬新七ら薩藩九烈士の墓が並び、木曽川改修工事の責任を負って自刃した平田靱負の墓もある。
御駕籠町の伏見福祉事務所前に「南右京大津み(ち)」の道標。
ここを左に行き、濠川を渡ると東堺町で、松山酒造がある。寺田屋で襲撃され、川筋の材木小屋に隠れていた坂本竜馬を救い出した薩摩藩伏見邸があったところだ。
街道は道標どおり右に行き、すぐ左に折れて指物町、石屋町から両替町十一丁目に出て、十二、十三、十四、十五丁目と北へ延びる両替町通を進む。
国道を跨ぐと撞木町。
大石内蔵助が「長蝋燭の光を見、伽羅の油の匂を嗅ぎ、加賀節の三味線の音を聞いた」遊廓で有名だが、意外に小さな一画で、今はごく普通の住宅が建て込んでいる。
町の東に立つ「しゆもく町廓入口」の碑や、ヤシマ印刷前の「大石良雄遊興之地 よろつや」の小さな石碑が無ければ、通り過ぎてしまいそうだ。
京町通から延びた師団街道を進む。この道は墨染通ともいい、広くもないが行き来する車が多い。
又、府道35号ともいい、このあと街道のゴールまでの道筋は府道とほぼ重なっている。
近藤勇は二条城から伏見奉行所跡にあった新撰組屯所への帰途、墨染の路上で馬上を狙撃され肩を負傷した。従って近藤は翌年の鳥羽・伏見の戦いに参加していないのだ。
小野小町のもとへ九十九夜通った深草少将の邸宅跡といわれる欣浄寺があり、すぐの角を曲ると、本堂の扁額に「桜寺」と書かれた墨染寺がある。
京阪電車墨染駅近くの大衆食堂での昼食は、にしんそばと天丼。
薄汚い店だが、にしんそばが結構うまい。三条・南座の松葉にひけをとらない。
妻が食べた天丼は、浅草の大黒屋に比べるとすごく薄味だけど、京都らしく上品な味付けだった。
やっぱり安くてうまい店が良い。
北
しかし我々は、その道を行かず、三条大橋からの東海道と合流する山科の追分へ行こうとしている。
今歩いている街道の守口、枚方、淀、伏見の四宿を加えて、江戸・日本橋から大坂・高麗橋までを東海道五十七次と呼ぶことがある。従って今回は久しぶりの東海道を楽しんでいるわけだ。
右に左に階段状に北上してきた街道が、伏見の家並みを抜けると東に向きを変えて、山科へのアップダウンが始まる。
藤森神社がある。江戸期は参勤交代の西国大名が駕籠から降りて拝礼し、今は競馬関係者や競馬ファンが拍手を打つ。京都教育大前の坂を上り、JR藤森駅の手前を折れる。
さらにJRの線路を越えると、筆ケ坂の下り坂で、両側の家並みと相まって実に風情がある。
坂を下り切ると谷口町。山路に至る咽喉が地名の由来で、府道と分かれて小道が集落の中に延びている。府道に戻ると、名神高速道路に近づき、やがて寄り添いながら、緩やかに上っていく。
名神と別れると山科に入って勧修寺下ノ茶屋町。勧修寺の前へ折れる。
参道の両側に堂々たる築地塀を従えて、門跡寺院らしい風格を持つ。境内に入ると、紅葉は盛りを過ぎて観光客の姿は無い。
氷室池に、五穀豊穣を占う氷はまだ張っていない。
勧修寺橋を渡り、外環状線を跨ぐ。小野御霊町で右に折れて旧奈良街道に合流するのだが、近くの随心院に寄り道。
随心院は、もちろん小野小町ゆかりの門跡寺院。
「容貌秀絶にして、一度笑めば百媚生じた」という小町。彼女が朝夕化粧した井戸や、深草少将はじめ貴公子からの恋文を埋めた文塚を廻る。
街道に戻って、旧道の雰囲気が残る住宅地の中を北上する。道は滋賀県との県境の山々を越えていくのかと思うほど山に近づくが、やがて広い新奈良街道に合流すると、今度は北に転じて右手に山を見ながら進む。
名神をくぐった大宅甲ノ辻町に一里塚の西塚が残っていて、塚上の榎の大木が黄色に染まっている。
国道一号線と交わるためか狭い道幅に車がひっきりなしだ。
国道を渡った大塚
織田信長か豊臣秀吉の時代に、当地を通る信長あるいは秀吉のために住民たちが行燈を提供したところ大変よろこばれ、行燈町の町名を許されることになった・・・
ただし明治に入ると在地史料からも行燈町の名は消えてしまう。
(鎌田道隆解説「東海道分間延絵図第23巻解説編」より)
山科川を越えて音羽、小山。
そして名神の京都東インターをくぐるとまもなく山科追分で、「みきハ京ミち ひたりハふしミみち」の道しるべが待っていてくれた。
16時10分 山科追分 25108歩
三条大橋からの東海道と合流した追分の先を見ると、髭茶屋屋敷町、八軒屋敷町の家並みの中に街道が緩やかにくねって延びて、それは勿論江戸・日本橋に向っている。
改めて、東海道の持つ魅力を作家岡本かの子に語ってもらうと、
五十三次が出来た慶長頃から、つまり二百七十年ばかりの間に幾百万人の通った人間が、旅というもので嘗める寂しみや幾らかの気散じや、そういったものが街道の土にも松並木にも宿々の家にも浸み込んでいるものがある。その味が自分たちのような、情味に脆い性質の人間を痺らせるのだろうと思いますよ。
(岡本かの子著「東海道五十三次」より)
(了)