平成14年4月28日(日)

大黒屋は夕食を若女将が、朝食を84歳の女将が作る決まりらしい。
この静かな山里をこよなく愛している女将は、朝早くからの車の騒音に我慢がならない。
今日は、家の前を走る車がいつもより多い。
モーターランドで催しがあるのかしら。
爆音を響かせる車はこの街道に似合わないね。
7時30分 お達者で と挨拶して出発。
出ると愛宕・日吉神社があり、その脇に開元院への道がある。途中まで行くが道の両側に木々が不気味なほど生い茂っている。
街道に戻る。「細久手坂の穴観音」、津島神社の小祠を見て、左へ曲がる広い舗装道と分かれて直進する。人足の溜まり場だった「くじ場跡」。竹やぶが多い。大黒屋の夕食に漬物で出たイタドリをあちこちに見かける。
空がぽっかりと開いて「平岩の辻」に出る。
そのまま、左にカーブする道を上がり、すぐ左に入って「西の坂」の山道を上る。
右手上、三つに区切られた石窟に「秋葉三尊」がある。道中安全をお祈りする。
山道を下がって「鴨の巣道の馬頭観音文字碑」。雑木林の中に江戸期そのままの道が続く。「日吉辻」に旧鎌倉街道迄約一里余の道標がある。
あせびが多い雑木林を縫って行く。
下がって「切られケ洞」。上がる。尾根道を進む。落ち込む左右の木々で小鳥がにぎやかに囀る。
左右の塚に松が覆う「鴨ノ巣一里塚」。周りは木々が生い茂り、鈴鹿も伊吹も北アルプスも見えない。
石ころだらけの道に松葉が10センチほども積もっている。「くじあげ坂」を下っていく。石室の中の馬頭観音。
「藤あげ坂」を転がるように下る。
下に点在する家と田畑が見え、草道を下る。常夜燈を右折。
県道との交差点を左折し、「津橋薬師堂」でひと休み。汗ばんだのでシャツを一枚脱ぐ。
お堂の横は数十の馬頭観音が並び、前にはのどかな田園風景が展開する。
もう時期的には遅いな。この辺に竹林は多いが、市場に出さないで、自分のうちで食べたり近所に配るんだ。
こびとのおうちのような形をしたサイロがたくさんある。肥料を貯蔵しているようだ。きつい坂だ。檜や杉や竹が茂っている。うぐいすの鳴き声がしきり。
ゆるやかな坂を下って民家があるなと思うと、広い舗装路に出て「唄清水」がある。
馬子唄の響きに浪たつ清水かな 五歩
「謡坂」を下る。「一呑の清水(地元ではイッパイノシミズ)」、地蔵が立っている。
左に入ると、10本の松があった「十本木立場跡」、復元された「一里塚」。「洗い場」が残る。
唄を謡いながら下ったという「謡坂石畳」。
六甲おろしに颯爽と 蒼天翔ける日輪の
青春の覇気美しく 輝くわが名ぞ
阪神タイガース オウオウ オウ オウ
阪神タイガース フレフレ フレ フレ
まだ坂は続く。
闘志溌剌起つや今 熱血既に敵を衝く
獣王の意気高らかに 無敵の我等ぞ
阪神タイガース オウオウ オウ オウ
阪神タイガース フレフレ フレ フレ
三番もと思ったら、キリシタン遺跡があるというので右手に入る。このあたりで十字架やマリア像を刻んだ石が発見されたのだという。
「とどめき橋」を渡って舗装された車道を行くと「耳神社」。
お供えしてある錐を借りて耳にあて、全快するとその人の年の数だけ錐をお供えする。簾のように紐で編んだたくさんの錐が奉納されている。
右に入ると天領だったという西洞(さいと)集落。
和宮がトイレ休憩した竹林を過ぎて、草道、石ころだらけの道を下る。あまりの急坂に牛も鼻をこすりつけ傷つけるといわれる「牛の鼻欠け坂」のヘアーピンカーブをつんのめるように下る。
牛坊 牛坊 鼻欠けた 西洞の坂で欠(か)かいた
長い山中の道は終わった。田畑の中の道を進み、井尻集落をかすめて国道21号に出る。
和泉式部の墓と言われる碑がある。
ひとりさえ渡ればしずむうきはしに
あとなる人はしばしとどまれ
御嶽宿

車の行き来が激しい国道21号の左に、可児川が流れている。
民家があり、酒屋があり、クリーニング屋があり、クロネコヤマトの看板がある。
東海自然歩道が左折を表示している長岡信号では曲がらず、直進する。左に休耕田が広がり、右の小高い丘が近づいてくる。
左へ県道341号の表示がある細い道を入る。
曲がりくねった道からは、風をいっぱいにはらんだ鯉のぼりがいくつも見える。

ふれあいバスのみたけ公民館停留所を右折すると、道は右に左にゆるやかに曲がっている。
民家が続き、郵便局、呉服屋、薬局、書店、雑貨店、そして格子のある家が数軒あり、ここだけに宿場のなごりがある。
「吉野屋」、和宮の母観行院に茶碗を差し上げた返礼に、御所人形と盃を下賜された旅籠。
手前の路地を入るとイチョウの大木があるが、ここに宿場の郷蔵があったらしい。「本陣」は駐車場。
脇本陣、人馬継所の跡は中山道みたけ館という郷土館だ。
企画展「旅は道連れ世は情け 江戸時代の旅行展」を開催している。
現代語版旅行用心集があり、その中に道中でくたびれたときの対処法が書かれてある。さっそくやってみよう。
足が痛むとき 宿で風呂に入ったあと、足の裏に塩をたっぷりぬって火であぶると良い。
土踏まずが腫れて痛いとき ミミズを泥付きのまますりつぶして塗るとよい。
夏の道中で暑さを感じない方法 笠の下に桃の葉を入れるとよい。
平安期の創建と伝えられる「願興寺」を右に曲がると、突然新興住宅地の駅前通りのような明るい道になってびっくり。形の良い御嵩富士を左に見て、みたけ館裏の喫茶店に行き、すぐに出来るというので海老ピラフを注文。マスターがつぶやく。
亜炭を掘らなくなった数十年前に、この町は終わったよ。
若い人は可児市に行くので、ここは静かな町。お店もご覧の通り。

街道に戻って原写真館を左折する。中公民館の先を右折する。この辺りは標識がない。中交差点で国道に合流して、左に進む。願興寺の市で悪事を重ねていた関の太郎の首を埋めた「鬼の首塚」。
7〜800メートル先を右斜めに入る。濃い緑、淡い緑、まるでセザンヌの絵のような小高い山が取り囲む。
又国道に戻る。可児川に接して国道が続く。御嵩重機建設の看板の右の段差のある道に入る。
比衣一里塚跡の碑がある。
道ばたに町指定の名木と書かれた、しかし平凡な木としか思えない柿の木がある。

地下に亜炭という低カロリーの石炭があり、戦争中は御嵩(明治初期に地名の表記が御嶽から御嵩に変更された。)のそこらじゅうで掘っていた。家の後ろにも縦坑があり、金ケ崎炭鉱といった。自分は掘っていたし、家内もウインチの巻き上げをやっていた。御嵩の人々の大半は亜炭鉱の仕事に関わっていたと思う。しかし昭和28年にプロパンガスが入ってきて亜炭は利用されなくなり掘られなくなった。今は掘ったところが空洞になって問題が起こっている。
比衣川の土橋を渡り、坂を上がり、共和中学の前から下って、国道を行く。
伏見宿
伏見警察駐在所の前から右手に入り、国道と平行して進む。昨年廃線になった名鉄八百津線の明智5号踏切がある。ここから右に伸びる赤さびた線路の上を行く。すぐに「大柳之跡」と刻まれた石碑が線路の横にある。近くの畦で除草作業中の中年の男性から聞いた話は盛り沢山だった。
近くの明智駅は明智光秀の出城があったところ。向こうに見える高根山の裏に兼山があり森蘭丸の居城があった。本能寺の変ののち、その居城は解体され、木曽川に流されて犬山城の建築に再利用されたと言われている。もっとも犬山側はこのことを否定している。
数十年前迄は、この辺の中山道にも松並木が続いていた。しかし戦時中に松を搾って松根油をとったために松が弱り、今はまったく残っていない。
踏切跡から細い道を上がって国道に戻る。
伏見公民館前に「本陣跡」の碑がある。しかし本陣は道路を隔てた向い側にあった。近年本陣岡田家の後裔が碑を建てた際に適当な場所がなく現在の位置にしたらしい。
兼山街道との分岐点に立つ道標には「右御嵩 左兼山八百津」とある。
たばこ屋の「三吉屋」は薬屋兼旅籠で建物は当時の面影を残している。感応丸という大きな看板を掲げていたが、伊勢湾台風で吹き飛ばされたまま行方不明だという。
文政7年(1824年)に幕府への献上品として江戸に向かう雄雌2頭の駱駝が、松屋という造酒屋に3日間滞在して大評判になったという話が残っている。3日も滞在したのは興行師一行の数人が病気になったためらしい。
上恵土交差点を右折して突き当たると、左前下に木曽川が滔滔と流れている。こんなところを流れていたのという感
じだ。川の左岸に「新村湊跡」があるらしいが判然としない。中山道で運ばれてきた年貢米や名産品など多くの物資が、この新村湊から舟で犬山や桑名に下ったのだ。
街道に戻る。広い国道を進む。愛知用水を越えて、右に分かれる。交差点をいくつも渡る。
左手から来る国道248号と合流し、富士浅間神社前で右に曲がる国道と分かれて直進する。今渡弘法大師を右折して下りると木曽川に臨む「今渡(いまわたり)の渡し場跡」に出る。「木曽の桟、太田の渡し、碓氷峠がなくばよい」と謡われた難所だ。
神社前で国道に戻り、太田橋を渡る。しかしこの橋には歩道が無い。路肩も無く危険このうえない。今も難所だ。
太田宿
太田橋をビクビクしながら渡ると、美濃加茂市に入る。木曽川の川岸に日本ライン下りの舟が見える。堤防上のライン街道と名づけた道を進み、右下に岐阜県可茂総合庁舎、美濃加茂文化会館を見て堤防を降りる。
上町の祐泉寺は当初の宿場の東端だったのでここが枡形になっている。
今、上町の道の両側には土産物屋、旧吉田屋住宅、内科、薬局、呉服屋、宅急便、本屋、美容室、印章屋、洋服屋、喫茶店、理髪店、釣具屋、中国語教室、文具店、御代桜醸造、公民館が並んでいる。
高貴な宿泊者の上に土を載せては失礼と、当初は板葺だったらしい。
板垣退助は明治15年4月4日に祐泉寺で演説の後、後援者だったこの林家で宿泊。翌日岐阜で暴漢に襲われて「板垣死すとも、自由は死せず」と叫んだ。
その先の「本陣」は、西正門だけが残っている。この門は皇女和宮が宿泊された時に建てられという。
下町では37世帯のうち7世帯がそうである。甚左後家、新七後家、宇左衛門後家、助七後家、万吉後家、兵作後家、甚右衛門後家。宿場全体でもほぼ同じ割合でいる。