日光御成道
享保13年(1728)、八代将軍吉宗は四代家綱以来65年ぶりに日光社参を行った。
まず4月10日に水戸、11日に紀伊、尾張の御三家が日光に向かい、13日の午前零時に川越藩主が出発、吉宗は午前6時に出て、最後の行列が出たのが午前10時という長大かつ盛儀を極めた行列であった。人馬の数は人足228306人、馬が325900疋におよんだという。
平成14年12月28日(土)
鳩ヶ谷宿(埼玉県鳩ヶ谷市坂下町、本町)
8時40分 坂下町の須田医院前をスタートする。街道は県道105号に重なっている。明治期以降の商家の建物だが、どっしりとした屋根が目を惹く保坂家がある。昭和橋交差点からは宿場の中心らしく今も商店が続く。
すぐに吹上橋、下を見沼代用水路東縁(みぬまだいようすいろひがしべり)が流れる。
吉宗が見沼を干拓し新田としたため、見沼の水を利用していた下流の農民が困った。そこで利根川から水を引いたのが総延長84キロに及ぶ見沼の代わりの用水路である。
道はゆっくりと上がっていく。御成道が通っていたことを示す御成坂公園がある。
商工会館の隣にある郷土資料館を訪ねる。
明日から正月休みのあわただしい日にも拘わらず、鏡館長から懇切な説明を受ける。
本町通りの洋品店の藤屋と不動産屋の魚野商事にまたがって「本陣」があった。現在、その建物は移築されて市内里の真光寺にある。脇本陣はその前の駐車場。
本陣は船戸家。川を利用しての物資運搬に携わっていた人が多かったので、舟、船、舟篇にハムと書くふね、あるいは津の付く姓の家が多い。湊屋の屋号も多い。
館長の説明にあった家康が腰掛けた「切株」があったという鳩ヶ谷小学校に行く。校舎に「祝創立130周年 がんばれ鳩の子」の文字が掲げられている。切株があったところは、校庭の隅のプールになっている。氷が張っている。勿論、切株の跡は無い。
首都高速川口線をくぐる。東京外環自動車道をくぐると石神地区。「真乗院」に寄る。境内に高さ20メートルほどの高野槙、萱、スダジイの大木が仲良く寄り合ってそびえている。蝋梅が黄色い花をいっぱいつけている。地蔵に刻まれた道しるべ「江戸ほんごう道 あさくさ道 いわつき道」を確認しようとするが、置かれた場所が悪く読めない。
緑の多い地域からやがて家が多くなる。戸塚地区。県道を通る車は多い。交差点の一画が整備されて一里塚ポケットパークと名づけられている。江戸から6里の一里塚があったと思われるが、まったく説明がない。
大門宿(埼玉県さいたま市大門)
すぐ先、右に下る「貝殻坂」は日光御成道成立以前の道筋といわれる御成下道に通じている。
このあたりから大門宿が始まったらしい。
高台に街道が延びる。庭に臼を持ち出して一家総出で餅つきをしている。大掃除をしている家もある。うちもすることがたくさんある・・・と妻がぼやく。
国道463号と合流して右に大きく曲がると大門小学校入口。車の行き来が激しい真っ直ぐな道の両側に民家と商店が連なる。
右に入る参道を進むと「大門神社」。本殿の脇の小さな愛宕神社に掲げられた竜は左甚五郎作といわれているが、埃が覆っている有様ではにわかに信じられない。
「本陣」の表門は茅葺寄棟造りの大きな長屋門である。元禄7年(1694)建立。母屋は昭和35年に焼失したという。本陣を勤めていた会田家の土地を借りて表門の隣で営業しているのが馬車道モダンパスタ。昼食は新鮮あさりのボンゴレビアンコ。
本陣の斜め前に会田家の脇本陣表門が本陣の門と同じ規模で残っている。かつては赤く塗られていたので赤門と呼ばれたが、今その色は無い。クロスストアーの奥さんの話では、隣の勝山家に黒門というのもあったらしい。
この本陣、脇本陣の表門以外に宿場の痕跡は無い。
宿場のはずれに「大興寺」がある。大門の地名はこの寺の門が由来らしい。
大興寺の塀沿いの細い道を進み、浦和インターチェンジで自動車道を越える。さいたまスタジアム2002が右手に見える。今年日本中を湧かせたサッカーワールドカップの舞台のひとつで、6月2日にはイングランド対スウェーデン戦が行われ、翌日の日経新聞はベッカムの活躍を次のように伝えている。
24分、ベッカムの左CKがイングランドの先制点を生んだ。DFキャンベルのヘディングシュート。大げさな言い方をすれば、味方に合わせるという範疇を越えている。最後方から勢いをつけて走り込んだキャンベルの頭に、ベッカムが鋭いCKをヒットさせたかのような。38分にも左CKを鋭く曲げて、一番遠いサイドのファーディナンドの頭にぶつけている。
美園地区。工場、店舗、駐車場の間に苗木畑がわずかに残る。江戸期に見沼を干拓して造った新田はここから左の方向である。
辻の信号を左に入り、苗木畑の間を十数分歩くと国昌寺。「開かずの門」がある。門の欄間に竜の彫刻がある。
昔、見沼に竜が棲んでいて、畑の作物を荒らすので、日光からの帰途の左甚五郎に竜を彫ってもらい、これを欄間に釘付けしたところ、おさまった。ところが葬列がこの門を通ると棺が急に軽くなる。竜が棺の中身を食べるらしいとの話が拡がった。それ以来この門は扉を閉めたままとなった。
街道に戻る。民家、商店、事業所。浦和学院高入口、浦和東高入口。天久保坂を下る。
将軍が鷺を見物した「野田の鷺山」は、環境の変化で昭和47年以降、鷺を見ることはできず、さぎ山記念公園となっている。
浦和競馬野田トレーニングセンター。地図を見ると見沼代用水路東縁が左側を並行して流れている。苗木畑。将軍が休息した「光徳寺」。
膝子の「一里塚」、江戸から8里、岩槻へ1里、火の見櫓の下に東側だけが、しかも削られて残っている。
御成そば。大宮東高入口。
七里中学校前で県道105号と別れて東宮下地区に入り県道は64号となる。人形の宝玉、人形の東玉の看板が岩槻の近いことを知らせている。
七里第2団地。太邦建設の先を、左に走る県道2号に行かず真っ直ぐ進む。正徳3年(1713)銘の石の道標。古簀子橋で深作川を渡る。
新簀子橋の脇で国道16号を渡って、すぐ県道2号に出て右に曲がって大橋を渡る。十二代将軍家慶は膝子の光徳寺からこの橋まで歩いた。従ってこの大橋を「御成橋」とも呼んだらしい。
人形の秀月の前を左折する。街道は北に向かい、ここから奇妙にも馬蹄型に曲がっていく。すなわち東武野田線の踏切を越えて東にカーブしながら「馬坂」を上がる。サイトウミート、美容室髪美人、クリーニングハマウラ、あすか薬局、寿司浅、中華そば新月、岩槻ファミリー歯科と小粒な商店が続くところが馬蹄形の曲がる部分。今度は南に下がって東北自動車道をくぐる。自動車道に並行する陸橋を歩いて再び東武野田線を跨ぐ。民家の間を通って角にわらべ人形像が立つところで国道122号に出る。
岩附宿(埼玉県岩槻市本町)
岩槻は城下町であり、城と城下町を囲む大構(おおがまえー土塁と掘)が長さ8キロに渡って続いていたという。その名残りの土塁があるというので、東武野田線岩槻駅から左にSATYの前を進んで愛宕神社に行く。7時。その小さな神社がのっかているのは、土塁というよりコンクリートで固められた塚のように見えた。
い 岩槻の畑にならぶねぎぼうず・・・・江戸期、木綿と牛蒡と葱が特産品だった。
ま 町並に白壁映える蔵造り ・・・・わずかにそんな建物が残っている。
に 日光へお成りおなりと続く道
ほ ぼんぼりのあかりに浮かぶひな人形
岩槻は人形の町として有名なだけあって、町の至る所に人形店があり、そこかしこに紅い幟が立っている。
岩槻人形の起源は諸説あるが、江戸期に人形製作の記録は無く、本格的に作られるようになったのは幕末から明治期らしい。
街道に面した銭湯の名が「雛の湯」というのもうれしい。
この住宅街の中の道を右に行くと、岩槻公民館の前に藩校「遷喬館」が茅葺の往時のままの建物で見られる。解体修理の準備をしており、残念ながら見学は出来なかった。
裏小路を左に行くと「時の鐘」がある。寛文11年(1671)以来の響きは、今も午前・午後6時に時を告げているという。聞いてみたいものだ。
ていた。
街道はここからゴール地点の日光道中との合流点まで県道65号に重なっている。
栗原米穀店になぜか日光御成街道の看板が立て掛けられている。
東武野田線の高架をくぐる。ここに木戸口があったことを窺わせる朝日バス「出口」停留所。
右手に入ってどんどん行くと岩槻の総鎮守という「久伊豆神社」、遅ればせながら初詣出をする。
馬頭観音、石橋供養塔。
元荒川に架かる慈恩寺橋。赤坂、地名どおり上がる。
石の道標「是より右慈恩寺道」。県道を通る車は多い。
朝日バスの停留所名が表慈恩寺、裏慈恩寺、上野、そして観音入口となる。交差点に「坂東十二番 慈恩寺観音 ココ右折1.2KM先」の看板がある。
雲ひとつ無く陽射しは暖かい。茶色がかった冬枯れの景色のなかに畑の水菜の青さが際立っている。大根が根を突き上げている。
20分ほど歩くと「慈恩寺」に着く。
大きな甍の観音堂だけがどーんと立っており、余分なものは何も無い。参拝者がぱらぱらと続く。
街道に戻る。ワコー産業の塀のくぼんだ一画の表示が、ここに「一里塚」があったことを示している。
その先すぐに「杉並木」の名残りの20本足らずの杉がけなげに残っている。
「宝国寺」の門外、ここからの富士の眺望が素晴らしかったので、将軍社参の際には仮の御茶屋が設けられて休んだという。今その場所は笹と大木が覆っており、今日は霞んでいるので富士は見えない。
将軍が休息したという、楓が数十本植わっていた「紅葉大門」は、岡泉交差点のENEOSとマグドナルドドライブスルーのあたりだろう。
隼人堀川に架かる往還橋。小さな川に架かる何の変哲もない橋だが次の言い伝えがある。
日光社参の折、村人は岩槻との境に架かる橋まで行って行列を出迎え、その足で裏道を通ってこの橋まで来て一行を見送ったのだという。このように義理を立てたので地元では「義理橋」と呼ぶ。
久喜警察署下野田駐在所。昼食を摂った食堂の壁に貼ってあった「広報 御成街道」が気になっていたので駐在所を訪ねると、そこにいたお巡りさんが広報を製作している戸倉巡査部長だった。
タイトルは駐在所の前を通る道の名からとりました。
毎月200部以上を作って、駐在所管内の自治会、小学校などを通して回覧しています。
1月10日は110番の日なので1月号は110番を中心に編集しました。
イラスト入りで子供にもわかりやすい内容の広報である。地域に愛されているおまわりさんに違いない。お気をつけての声もさわやかである。
車の往来が多い道だが、今は昼休みなのかめっきり少なくなった。梨畑が多い。埼玉梨の主産地だそうだ。田が広がる。大根と葱と白菜。
白岡町上野田から宮代町西粂原に入る。備前堀川を斜めに国納橋が架かる。馬頭観音。
東武伊勢崎線の踏切を越える。家も車も多い。
備前堀川に架かる小和戸橋と大落古利根川に架かる和戸橋がひとつの橋につながっている。橋のたもとに大きな治水碑が立っている。このあたりは少しの雨でも湖沼化し、田舟による稲刈りが風物詩だったそうだ。和戸橋を渡って杉戸町に入り街道は古利根川の自然堤防上を延びる。
「一里塚」、江戸から12里、東塚だけ残る。下野広場の前の2本の松が松並木の面影を残す。八幡神社、境内の小さな石柱に宝暦5亥が刻まれているのを確認したり、道標を兼ねた庚申塔をなぞったりしながら休憩。
幸手市に入り道は広くなる。左に騎西領道が分かれる辻に「右 日光 左 いわつき 道」「く記 志ようぶ かず 道」と刻んだ馬頭観音がある。観音の前が「琵琶溜井」。現在整備中だが、用水路を冷たそうな水が漲るように流れている。江戸期に作られたもので、利根川から取水した用水を貯水したところ。ここまでを葛西用水と呼び、ここからを大落古利根川と呼んでいる。
日光道中との合流点(埼玉県幸手市南2−6)
そろそろ日光道中と合流する地点にある石井酒造があるはずだが見当たらない。堂々たる五街道のひとつが合流する「茶屋」と呼ばれていた場所らしきところがない。行ったり来たりしてようやく、右から合流する見栄えのしない道が日光道中であることを知る。合流地点はベルク南幸手店の前だった。
天保11年(1840)創業の石井酒造はその広い敷地の一画をベルクに貸しており、自身のお店はその隣の現代風の酒屋に変身していた。日光御成道完歩記念に飲む清酒「豊明」を買った。辛口の切れ味の良いお酒だった。