下仁田道
中山道の脇往還として本庄宿から藤岡、吉井、福島、富岡、一ノ宮、宮崎、下仁田、本宿、初鳥屋を経て和美峠に通じる街道である。峠の向こうは信州で、中山道の沓掛宿と追分宿の中間にある借宿に至るいわゆる女街道に繋がる。
中山道から南約10キロのところを、中山道に平行して西に向かう街道である。
伊能忠敬はこの街道を逆に和美峠から上州に入り、初鳥屋、宮崎、吉井の各宿に泊まっている。文化11年(1814)の新緑の頃で、忠敬70歳であった。
下仁田道(富岡まで)
平成14年9月15日(日)
藤岡宿(群馬県藤岡市)
JR高崎線の事故で予定よりも倉賀野駅着が遅れたので、駅前から藤岡市までタクシーを利用、2580円也。四丁目交差点の「里程標」は一週間前に歩いた川越・児玉往還の終点である。今回は往還の続きとして歩くので、本庄宿からの道筋をとらずに藤岡から歩く。
居酒屋が多い古桜町の通りが尽きるところに一行寺があり、入口に遠州秋葉大権現と刻まれた常夜燈がある。寺の前の細い道に入る。道祖神、若宮八幡大神。良信寺に如意輪観音の二十二夜塔が静かに立っている。

関孝和は和算の開祖である。藤岡生まれといわれ、ニュートンと同じ1642年に生まれたとの説もある。
現在日本数学会における最高の賞として関孝和賞がある。
緑町交差点の三叉路に、茂った芙蓉に覆われて道標が隠れている。花をかき分けてみると、「左平井 金井 日野道」とあり、もう一面に「右一
ノ宮五里半 妙義八里」と読めるが、その下は根っこが巻き付いて読めない。
三叉路を右に県道30号を進む。MAC−HOUSE、クオリティフードセンター、セブンイレブン、シャトレーゼ、マルエドラグ。
市光工業の正門のほぼ前から斜め右に入るのが旧道で、民家の間を、そしてしいたけを栽培している横を通り抜けて再び県道に戻る。上大塚交差点から国道254号に変わる。下仁田道はこの国道にほぼ重なっている。尤も拡幅されており、車が多い。イイズカ薬品、NISSAN Blue Stage 藤岡ボウル、パチンコLOTTY。
西中学校入口信号の手前の墓地に石造物がある。百堂巡礼供養塔、庚申塔、訓読般若塔。
上大塚の火の見やぐらの下を左に入る数十メートルに旧道が残っている。しばらく先のタイヤショップタサブローの前を斜め右に入りシオノケミカルの前から鮎川にぶつかる部分にも旧道が残っている。白石の交差点を過ぎ梨直売所の前で国道と分かれ左に折れる。農家と畑の間をゆったりと縫う昔の面影を残す道である。飯玉神社の一対の御神燈と鳥居が立っており、参道が右に延びる。花水木に小さな赤い実がなっている。
国道に合流する。
吉良家の領地が白石にありここに陣屋がおかれた。吉良若狭守の正室が伊香保温泉に湯治の帰途、上野介を生んだ。そのとき産湯に使ったのがこの井戸である。
井戸に水が溜まっている。陣屋はその先の雑木林にあった。もちろん当地で忠臣蔵は禁物である。
店の手前にあるかぶら幼稚園のかぶらは裏のほうを流れる鏑川から名前をとっているのよ。鏑川の向こうは馬庭。そうです、そうです。馬庭念流の。道場がありますよ。
その一言で馬庭へ寄り道。
馬庭駅入口信号を右折し、竹やぶに隠れる土合川に沿って下り、川幅の広い鏑川を入野橋で渡る。上信電鉄の踏切を越えるとまもなく「念流道場」がある。長屋門造の質実な道場である。樋口の表札が掛かっている。当主が25世だそうだ。道場の前にある群馬県教育委員会の説明の一部は次の通り。
門人は武士のほか農民など庶民にまで及び、数百年の星霜をこえて念流宗家と道場が現代に生き続けていることは全国でも例のない貴重なことである。
家のおばあさんに断って道場の中に入る。中は意外にも狭いが、たくさんの木刀や長刀が隅に束ねられている。数十名の名札が壁に掛かっていた。
多胡石で知られた石の町だそうだ。石材店が多く、道の両側に庭石が転がっている。稲田の先に家が連なり、背後に小高い丘が続く。
矢田の交差点の手前からの旧道はすし処だるま、すなっくちんとんしゃん、ヘアーサロン姫があり、進めない。交差点を右に入りすぐに左折するところに旧道が残っている。ところがすぐに矢田川がある。細い流れだが橋がなく行き止まり。参った。
川の対岸から旧道が上がっている。その道端に念仏塔と三猿がくっきりと浮かぶ庚申塔。道祖神。国道を横切ると、庚申塔と巳待塔。その脇の細い道を抜けて国道に合流する。
家数百三十二軒 男三百七十七名 女三百二十四名 計七百一名
旅籠屋四軒 茶屋七軒 飯盛女等一切無之何れも平旅人宿に御座候
(書上帳より)
問屋は名主の秋山家が勤めたという。
富岡高校吉井分校跡に、産業文化会館、体育館や、再現された吉井藩陣屋の表門がある。
郷土資料館もあり、かっては吉井の特産物であった「火打ちがね」の説明がある。
昭和40年代までは石材需要が多く活気があった町並みも、今は車ばかりが通る道となり、朽ちたような蔵を多く目にする。
その先、旧道は左に入り、又国道に戻る。すぐ左の山沿いを鎌倉街道が走っていたそうだ。
吉井町長根に立っている町営バス停留所に「宿」とある。戦国時代から長根宿があったらしい。国道沿いに養蚕農家らしい大きい屋根と蔵のある家が続く。
天引(あまびき)川を渡ると金井の集落で、「姥子堂」というお堂がある。
奪衣婆(だつえば)という姥が祀られている。この姥は三途の川のたもとにいて、死者が川を渡るときに衣服を脱がせ、その重さで罪の軽重を計り、閻魔大王に送る役目をしている。善人は衣服を取られずに極楽に案内されるという。
そしてそのお堂の横の小さな川の名がなんと三途川である。誰かが今日は暑いから薄着だったので良かったと言っていたが、そういう問題ではない。

福島宿(群馬県甘楽郡甘楽町福島)
問屋を当初は根岸家が、のちに上原家が勤めた。宿場の北を流れる鏑川に河岸があり、水運も行われたという。今は宿場であったことを忘れたかのような民家と商店と作業場が混在した町並みである。
道路案内は左の方向2.5キロに「小幡」の町があることを示している。中世の豪族小幡氏に始まり、信長の次男信雄から織田家が八代、その後は松平氏の城下町として栄えた。江戸期の面影が色濃く残っているところと聞く。行きたいが、又の機会にして、先を急ぐ。
町外れに馬頭観音と庚申塔と多胡石で作った遠州秋葉山の常夜燈が集められている。
富岡宿(群馬県富岡市)
往時は鏑川を渡る富岡大橋のたもとから右に下り、上新電鉄の鉄橋が架かっているあたりを舟で渡ったらしい。しかし痕跡は無い。
渡る富岡大橋の道を姫街道通りと呼ぶ。今歩いている街道を通称「信州姫街道」とか「女街道」と言う。中山道を表街道、男街道として言い出されたものであろうが、女街道と呼ばれるようになったのは江戸末期から明治中期のことで、信州姫街道の名称を使うのはごく最近だろう。
曾木の交差点に軽井沢40km 下仁田15kmの表示が架かっている。国道から新道が分かれる二又のすぐ手前の細い道を入る。道祖神。公民館の左脇の廃道になった細い細い筋を進む。右手の小さな塚は古墳。旧道に執拗に拘る我々に自身あきれながら新道に出てくる。ゼネラル石油SSの横に馬頭観音。大きな庚申塔、百庚申塔、馬頭尊。小船神社。
富岡市街を進む。警察署前から左折し、すぐ右折する。商店が多い。
江原時計店の上に昭和期の始めに建てた消防分団の望楼が突き出て
いる。
更に直進して片倉工業の正門に突き当たる。旧官営富岡製糸場の木骨煉瓦造の薄チョコレート色の堂々たる建物が、明治期の人々の殖産興業に対する意気込みを示している。土日は休みで入れない。残念。
講堂の一角の床板をはずし、そこから潜って小さな通路をズッと入って行ったら、ワインセラーがあった。フランス人技師が夜、ワインを飲みながら食事をしている風景を村人が見て、「娘の生き血を吸っている」と噂されたというエピソードも伝わっている。
(増田彰久著「近代化遺産を歩く」より)
江原時計店に戻り、商店が多い町並みに些か驚きながら、国道254号の富岡交差点に出る。
17時15分 上信電鉄上州富岡駅 40788歩