下仁田道(和美峠まで)
平成14年9月21日(土)
8時50分 諏訪神社前の富岡交差点をスタート。国道254号沿いに商店が続く。江戸中期以降盛んになった上州の養蚕、生糸が、わが国の近代化を支え、その歩みの中で西上州の絹市場の中心地として富岡も大きな役割を担った。格子のある旧家があり、奥に蔵が覗く。
門に葵のご紋のある幕が張られた龍光寺を入ると、境内にある富岡幼稚園の先の小屋に板碑が大切に保存されている。食い違いの四つ角があり、左手の角の蕎麦屋の建物の壁に大きく「おさく茶屋」と表示されている。昔おさく婆さんが茶店をやっていたらしい。
街灯に付けた紫色の小旗が揺れる。小旗には「七日市藩 初代藩主前田利孝」の文字と「加賀梅鉢」の家紋が染め抜かれている。
七日市藩の初代藩主である前田利孝は、加賀百万石・前田利家の五男。正室まつは11人の子供を生んだが、利孝は、まつの子でなく側室お幸和の子である。利家の死後、まつは人質として江戸で生活するが、利孝も11才から人質となり、まつとともに暮らす。
商店が少しずつ減る。
右手のスーパー丸幸の前に俳優東野栄治郎生誕の地の碑が立っている。
東野栄治郎はTVの人気時代劇「水戸黄門」の初代の黄門様である。そのときの助さんが里見浩太朗で現在の黄門様。東野黄門が七日市藩に来たことはあるのだろうか。
すぐ左手奥に金剛院の赤い門が見える。
三叉路に藩の用人である横尾鬼角の屋敷があったらしい。
幕末、水戸藩の過激な尊王攘夷派である天狗党千余名が京に向かう際に、この下仁田道を通る。吉井宿で宿泊し、翌日七日市藩の境である一の木戸すなわちおさく茶屋に来たところで、横尾鬼角が七日市の町の通行を容赦して欲しいと嘆願し、間道を案内した話がある。
一ノ宮宿(群馬県富岡市一ノ宮)
鏑川の断崖の上の道が次第に細くなり、上信電鉄の線路を跨ぐと国道に出て、左折する。製麺所に入り込み、そば粉が出来る様子を見せてもらう。バイパスと交わる一ノ宮交差点手前、左の細い道に入る角に6〜7世紀に造られた太子堂塚古墳があり、少し高くなった塚にたくさんの彼岸花が咲いている。
バイパスを横切るとすぐ、また国道に出る。高い石積みの上に灯籠が立っている。左折して緩やかに上る。右手の竹屋旅館の手前を入るとつま先上がりの坂道である。「お女郎坂」あるいは「だるま坂」と呼ぶ。坂沿いに7、8軒の女郎屋があり、すぐ先の貫前神社の参詣客を相手にしていたそうだが、建て替えられていることもあり、しのぶよすがは無い。駒寄井戸からすぐに平らな道に出る。上町と言い、ここにも数軒の女郎屋があり、売店も並んでいたのだが、今はみんな普通の民家だ。

総門から参道の石段を百段ほど下りる低い位置に楼門、社殿があり、その社殿は桧皮葺の極彩色総漆塗の精巧華麗な造りで、あたりは荘厳な空気に包まれている。
貫前神社では毎年12月8日に珍しい「鹿占神事」が行われる。
この神事は鹿の肩甲骨に焼けた錐を刺し、骨の焼き具合で神領31ケ村の吉凶を占うもの。
神社の前を進む。やがて農道になり、左に下仁田葱の畑が広がる。右の広い蒟蒻畑では3人がかりで薬を散布しており、蒟蒻の葉が薬で真っ白になっている。崖沿いを下りて県道199号に出る。
宮崎宿(群馬県富岡市宮崎)
宮崎公園入口を入らずに県道を進む。田中貴金属工業の瀟洒な工場の向こうに妙義山が特徴ある姿を見せる。山の左部分は大仏の顔に見えると妻が言うのでよく眺めると、でこぼこの稜線が確かにそう見える。どんどん歩く。蒟蒻と下仁田葱と桑の畑が次から次と現れる。富岡ゴルフ倶楽部へは右の方向の表示がある。下丹生の集落らしい。・・・間違った! 道を間違えた!!
宮崎公園の矢印に沿って左折するとすぐ、丘の斜面に整備された一帯があり、その中に「茂木家」が保存されている。大永7年(1527)の建築で板葺石置屋根の民家ではわが国で一番古いそうだ。
急な斜面を下りて、右の方向に山裾を進む。左は田畑が広がる。道祖神、庚申塔が多く見られる。道祖神が紅いのは弁柄が塗られているためで、1月14日に子供たちは道祖神に弁柄を塗り、村の家々を廻り、餅やみかんを貰うそうだ。
車は殆ど通らない。下仁田道を歩きだして初めて出会う旧街道らしい静かな道だ。
宇芸神社の創建は白鳳期に遡るらしい。双体道祖神、庚申塔。フセギ。柿が色づき始めている。
墓地を過ぎて左折し小橋を渡る。左に小さな蚊沼川が流れ、右は黄金色に変わろうとする稲が波打つ。葱畑が混じる。畦に彼岸花が朱色を散らしている。中央自動車道をくぐる。カルガモがひなを育てる川と表示された中沢川を中里橋で渡る。農家の間を進む。
上信電鉄 南蛇井(なんじゃい)駅に行く手前にある吉田公民館を右折する。もっこりした自然石の道祖神。街道らしく右に左にくねくね曲がる。
南蛇井は麻の生産で有名だったらしいが、刈り取りの時期が過ぎているため、周りの畑を見ても今の栽培状況が分からない。
左手に上信電鉄の線路が走る。右手に最興寺の圧倒的な大きさの楼門が見える。
その隣に南西(なんさい)神社の鳥居と石段。
上信電鉄の踏切を越える。
双体道祖神。その後ろに蒟蒻畑。小さな万福寺川を久保田橋で渡る。庚申塔。大きな旧家がある千平の集落。緩やかに上る。
千平駅前を通り過ぎて、右に踏切を越える。道祖神。梅沢川。下仁田への標識に沿って小高い丘に上がっていく。なお小坂峠を越える旧街道は新道が出来て消滅している。幅2メートルほどの舗装された新道が山の中に入っていく。その山道を一歩一歩上がっていく。人も車も通らない。そしてやがて山を下る。
下仁田宿(群馬県甘楽郡下仁田町)
山を下って国道254号に出る直前、右の伊勢山の斜面にたくさんの庚申塔が並ぶ、文字通り「百庚申」がある。
国道との交差点は食い違いになっている。国道を渡って仲町から駅前あたりを徘徊する。
下仁田は蒟蒻と下仁田葱の産地として有名である。
この二つの作物について下仁田町誌に次のような内容の記述がある。
蒟蒻は永正2年(1505)お伊勢参りに行った人が紀州から持ち帰ったという記録がある。下仁田の風土にぴったり合い、明治期以降大いに栽培されるようになった。
下仁田葱は、これから歩く予定の本宿近くの農家の前栽畑にその原種がある。しかも下仁田以外ではうまく育たない。
江戸期には信州・佐久の米が売買される市場があり、また絹、麻、紙も取引された。
下仁田から南西の方向にある南牧村砥沢で切り出された幕府御用達の砥石「御蔵砥」の輸送経路でもあった。
幕末には、信州路に抜けようとする水戸の天狗党と、これを阻止しようとする高崎藩が争う、いわゆる下仁田戦争がここで行われた。
たくさんの旅人が、商人が、武士が行き来したところであるが、今はひっそりとした町で、わずかに旧家が残るものの往時の繁栄を偲ぶのは難しい。
街道は鏑川の右を、国道254号にまつわりつくように延びている。その道は廃道になっているところもあるらしい。
そこでひたすら国道を歩くことにした。
国道を絶え間なく車が疾走している。
それでも道端に庚申塔や馬頭観音が並んでおり、道標もある。フセギがある。
畑には下仁田葱や蒟蒻に加え、小豆も植えられている。
どこかで刈ったススキを抱えて奥さんが家に走り込む。
雲が厚く空を覆っており、残念ながら仲秋の名月は望めそうもない。
夕闇が漂い、鏑川の川音が冷たい。
右手の石垣の上に「西牧関所跡」の説明板がある。関所は文禄2年に設置され、その跡は前方の川沿いの畑の中にあるらしいが、よく見えない。
本宿の標識を見て国道に分かれて右に入る。
本宿の家並みには宿場の雰囲気が濃厚に残っている。
街灯に「姫街道 本宿」の文字と「市女笠と杖」の図柄の標識が付いている。
町並みのほとんどはずれに近い家の前に婦人が立っている。今日泊まる坂口屋旅館の女将さんで我々を心配して待っていてくれたのだ。
平成14年9月22日(日)
本宿(もとじゅく)は、その名のとおり峠の麓にある宿場である。
鏑川に沿ってひっそりと肩を寄せ合っている集落で、古い家と蔵が残り、家々に屋号が残っている。勅使河原家はエビス屋、食堂のさかえ家、神戸家は大二、衣料店のいかり屋、深沢家の江戸屋、和菓子は古月堂、白壁の店と蔵の並木商店は山太。
旧道の標識に沿って進む。緩やかに上る。左に鏑川が流れ、右に山が迫り、その間に家が続く。富士橋の手前から川沿いに進み・・・・と道案内にあるが、歩けそうにない。道なりに進む。
小出屋橋のたもとで県道43号に出る。そのまま川に沿って進む。
右手上の山の斜面に庚申塔らしきものがある。街道はその辺りにあったのだろう。
とはいえ街道の殆どの部分はこの県道と同じところを上がって行ったらしい。
畑で働いていた奥さんに聞く。
猿が多くて、家の中まで入ってきます。女には掛かってきますよ。猪も畑を荒らしまわるし、熊もいます。
妻は熊除けの鈴を取り出す。リーンリーン。
県道を走る車は少ない。
滑岩橋の手前を県道から分かれて右に入る。
滑岩集落のはずれ、鏑川の対岸にたくさんの庚申塔が並んでいる。「清水沢の百庚申」である。
県道に出る。川が右手になり、大きな岩の上に二つに岩が載っている。夫婦岩という。
山と山との間が開けたところに稲田が広がり、稲刈りの真っ最中である。
かえでが色づき始めている。
新屋集落に大きな馬頭観音が立ち、庚申塔や二十三夜塔も並んでいる。
芝の沢集落を過ぎ、両側に山が迫る道を進む。
「山田屋」の奥さんから家に寄ってお茶でも飲んでいったらと招き入れられる。
問屋、亀屋、玉木屋、新つた屋、したで屋。昔も今もお互いを屋号で呼んでいます。
この集落の家は、昔はみんな宿屋をしていたんですよ。
ここからは軽井沢の方が近いかな。下仁田の町までは車で20分。
私は町の一人住まいの老人に食事を作ってあげるボランティアをしているの。
もう一杯お茶どう。かぼちゃのおやきも食べて。
9時55分 県道に戻る。くねくね曲がりながら上っていく。雨がぱらつく。
けたたましく鳥が鳴く。道端に咲く赤紫の小さな花の名はなんだろう。
明治6年(1873) お雇い外国人の法律家であった仏人ブスケは、この街道を歩いて浅間山をめざした。
真ん中に壮大な火山が聳えている高原へと我々を導いてゆくはずのワギ・トゲ(和美峠)の隘路に向かっていた。(中略)あるときは坂であり、あるときは階段であり、二人の者が行き違うには立止まらねばならず、絶えず八〇センチメートルの幅の橋を渡って行くのだ。我々のキャラバンは木の茂った丘の中腹を蛇行して、苦労しながらこの道をたどった。
(ブスケ著「日本見聞記」より)
かなりの難所であったことが偲ばれる。
今は上信越自動車道の大きな橋脚が聳え、その下の舗装路を上っていく。
群馬、長野ナンバーの車に混じって関東各地のナンバーを付けた車が坂を上り下りする。熊谷、大宮、所沢、春日部、多摩、習志野、練馬、八王子、横浜、野田。
上り続ける。
右に通行止めの松井田・妙義山からの細い道がある。あの連合赤軍が逃げて来た道ではないかと思ったりする。
平坦な道になり、ヤマタネの南軽井沢和美別荘地に入る。
11時45分 群馬県と長野県の県境である和美峠に着いた。18687歩。
下仁田道にあるのは蒟蒻と下仁田葱だけではなかった。江戸期、いやもっと古い時代から交易の道として、また信仰や文化の交流する庶民の道として大いに利用された街道だった。(了)