帝釈枝道
今回歩く帝釈枝道は、立石道から分かれて柴又の帝釈天へ参詣する道のひとつ。
平成21年1月6日(火)
10時10分 京成立石駅前の立石道を東に進む。
立石道は
駅前から京成電車の線路に沿った道を歩いているが、本来の旧道は線路が敷かれているところだったらしい。
諏訪神社にお参りし、西円寺の前を過ぎると中川の堤に突き当たる。
寄り道して右に折れる。すぐの本奥戸橋のたもとに、子育地蔵、馬頭観音や道標がある
地蔵尊保存会の説明によると、ここには永井荷風も来たようで「断腸亭日乗」に「・・・橋際に地蔵尊とみちしるべの石があり、右江戸みち 左おくと渡し場道と刻したり・・・」と記されているそうだ。
孫の成長を祈ってロウソクを上げる。
もとに戻って堤沿いの立石道を東進する。
道端に仲町子育地蔵がある。地蔵の後ろに、かんすけ児童遊園。かんすけ?
勘助って誰だろう?
ガードレールの陰に黒ずんだ「帝釈天王」の石標がある。
文政3年(1820)に建てられたもの。
ここは帝釈道が立石道と分かれて北上する分岐点。帝釈道は帝釈天へ参詣するもうひとつの道で、中川を渡り、新中川を越えたところで帝釈枝道と合流する。
すぐ先でまた寄り道。
堤を降りてマンションと民家の間の細い道に入ると小さな児童遊園があり、遊園内にこのあたりの地名でもあり、旧道の名前にもなっている立石がある。
「古墳の石材の一部であるか、巨岩信仰の一種なのか確かな用途はまだわかっていません。」と
南蔵院を過ぎると、葉を落とした大木の下に小さな祠があり、安永3年(1706)に建立された棘抜地蔵が安置されている。中川の堤を500メートルほど歩いただけだが、もう三つ目の地蔵である。このあたり水はけが悪くて水害が多かったことと関連があるのだろうか?
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この地蔵堂があるところで、立石道から分かれて帝釈枝道が始まる。
道は北上して、中川と一旦別れる。
左手に熊野神社がある。
社伝によると、陰陽道の安倍清明が勧請したといわれる。
境内は五行説にならい五角形で、住宅地図でその形を確認できる。
江戸期は家光や吉宗が鷹狩りをしたときに立寄ったという。
民家の密集した地域のなかをくねっていく。
やがて中川と再会してコンクリート護岸沿いの道となる。
左から帝釈道が現れ、ここに中川を渡る諏訪野の渡しがあったのだが、偲ぶよすがは全く無い。
堤の下に福森稲荷神社があり、鳥居の前に 安政3年(1856)建立の「帝釈天王通」と刻んだ自然石の道標が立っている。
左手、建て込む家々の屋根の上に京成電車の青戸駅が覗く。
青砥橋をくぐる。
斜張橋の高砂橋を渡り、高砂小橋の交差点付近で枝道は帝釈道と合流し、大光明寺の前から住宅地の中の細い道に入る。
天祖神社を過ぎると商店が現れ、高砂駅前に出る。
駅脇の踏切で京成電車の線路を越え、線路沿いからエビス通り商店街に入り、商店街を抜けると成田街道に出る。百メートルほど歩くと成田街道は直進して京成金町線の踏切を渡っていくが、枝道は踏切の手前で左折し、金町線の西を右に左に折れて民家の間を縫っていく。
その細い道が線路を渡って金町線の東に出ると商店が現れ、賑やかな声が飛び交うと柴又駅前で、その先に柴又帝釈天への参道が見えた。
大正時代になると、(徒歩に代わって)開通したばかりの京成電車で参拝する人も増えてきます。
また当時はモダンな乗り物だった自転車で来る人も大勢いました。庚申の日はいくつか臨時駐輪場が設けられ、柴又の青年会がお金をとって管理していました。
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12時 題経寺(柴又帝釈天) 9161歩
三が日を過ぎているとはいえ寺の境内は参詣客であふれている。
「寅さんシリーズ」の山田洋次監督は、この映画の舞台を浦安にするか、柴又にするかを考えたらしい。
もし浦安になっていたら・・・・。柴又は監督に足を向けられない。
お参りもそこそこに川甚に行き、鰻を食べる。
明治から大正にかけて、旧制高校の学生によるボートの練習がしばしば江戸川で行われていたようです。練習のあと川千屋や川甚などで遊んでいくのが、当時の学生たちの贅沢な流行であったようです。川千屋は慶応義塾の学生が、川甚は旧制一高の学生がきまって使っており、それぞれの店でもこうした学生をとても大事にしていました。
(「同上調査報告書」より)
寺に戻って引いたおみくじは、私が大吉で妻が凶だった。さてどんな一年になるのだろうか?
(了)