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時事評論の広場




<我が家に咲いたシンピジウム>

<我が家に咲いたアマリリス>


現時点において緊急に必要とされる油症関連対策について


藤原邦達


1968年に発生したカネミ油症事件は単一のPCBあるいはダイオキシンなどのによる被害としてではなく、ダイオキシンを含む熱媒体PCBとその関連化合物による複合的な人体被害事例として正しく位置づけられねばならない。
 事件が発生してから40年後の今日時点において必要とされる対策としては以下のような事項が指摘される。

1 油症事件に関する正確な記録の集成
油症はわが国で発生した人類史的に特筆すべき食品汚染事件であり、その発生以後の記録が確実に残されていなければならない。
特に以下に示すような、第一次、二次の刑事、民事の油症裁判における原告、被告および検察、弁護団などの主張や対応に関する記録が散逸されることは許されない。
(1) 被害者、原告支援諸団体の動静
(2) 原告団、弁護団の対応
(3) 被告企業の対応
(4) 地元や国民世論の動向
(5) 国、関連自治体の対応
(6) 油症研究班の研究と対応
(7) 人体被害の実態
(8) 汚染食用油の実態
(9) PCB関連研究者の対応
(10)マスコミの対応、記事、報道など
(11)地裁、高裁、最高裁での準備書面や弁論、証言、判決文などの裁判記録
(12)いわゆる和解にいたる経緯
(13)仮払い前渡金の返還問題の経緯
(14)被害者とその家族の生活動向
以上のような記録の集成のために責任を持つ公的な機関や委員会の設置を緊急に行うことが求められる。

2 PCB製造企業カネカの責任に関する再確認
油症はカネミ倉庫の杜撰な熱媒体PCBの使用によって直接的に発生したことは明らかであるが、地裁、高裁の裁判での証言などで筆者らが強調したように、裁判の争点になってきたカネミ倉庫での油脂製造配管の腐蝕孔からのPCB漏出説あるいは配管工事ミスによる穿孔からのPCB漏出説の如何に関わらず、当時の文献では すでに危険性あるいは少なくとも環境、生物汚染の問題性などが明らかになっていたPCBを熱媒体として、容易に汚染が起こりうる食品の製造過程に使用することを容認し、推奨していたアメリカのモンサント社やわが国の当時のカネカの責任が追及されねばならない。特に被害者の救済や賠償分野でカネカは応分の責務を果たさねばならない。 油症裁判のお過程においても、カネカの加害者責任を認める判決が出されたことにも注目するべきである。
カネカの製造者責任は油症の場合だけではない。1970年代以降われわれ研究者が明らかにしてきたように、わが国の水域、特に琵琶湖や相模湾のような閉鎖系の内水、内湾などの水、生物、ひいては人の体内に分布、蓄積されているPCBの製造者、販売者は誰だったのか、土壌、食品、生物などの汚染が大きな社会的課題となり、原状回復のために膨大な社会的コストが必要となっている現状において、その汚染の原因物質を製造、販売者して利潤を上げてきた製造販売企業であるモンサント社やカネカが無関心を装うことが許されるのであろうか。 工業化学物質の製造者企業の安全確保責任を明確にするためにも、PCBの製造販売者としてのカネカの責任が免罪されているかに見える現状には大いに問題があると考えられる。 今日では化学物質の製造者企業には刑事責任だけでなく、道義的、社会的な責任もあわせて厳しく問われていることに留意せねばならない。

3 国、自治体の行政責任の再確認
油症が発生しえた原因では、油症裁判において筆者が証言したように
、 (1) 安易にPCBの販売使用を容認し、
(2) 事前に養鶏場で見られたダーク油事件に注目せず、原因油脂が人用に販売されることを阻止しなかった予防責任の放棄を指摘せねばならない。
(3) また油症発生以後の行政側の対応も適切であったとはいいがたい。
前項で示したような広範なPCBの汚染をわが国にもたらした責任の一環は、予防、規制措置を怠った国、自治体にあることも現時点において再確認する必要があるだろう。
4 油症被害者の現状確認の必要性 水俣水銀汚染の場合と同様に、汚染物質による被害の後遺症、慢性疾患の発生などが経年的にフォローアップされねばならない。油症では当初のPCBに関する研究が進展する過程でPCBに起因する関連化合物、特にダイオキシンなどの影響が重視されるようになった。
しかし、ここで注意すべきことは油症の被害がPCBあるいはダイオキシン単独の影響によって発生したのではなく、高濃度の4塩kPCBと共存する変化生成物であるダイオキシンなどとの複合的な影響によって発生したという事実である。
そのような観点から油症被害者の現状は以下の事項について正確に把握されねばならない。

(1) 油症患者の健康状態
検診、病理、生化学的検査の実施、自覚症状の調査などを行って一定の健康被害類型の有無を明らかにする。
(2) 特に胎児期、幼少年期の被害者の健康状態の調査
(3) DNA領域での最近の研究に基づいて遺伝子損傷の有無を明らかにする。必要に応じて動物実験などで遺伝子損傷の可能性についての検討
(4) 発ガン性、慢性疾患などとの関連性の検討
(5) 治療方法の検討
高齢化の進行との関連などに配慮した上で治療法についての検討が行われねばならない。
既往の調査に関わる名簿、カルテなどの基礎情報が散逸しないように、国、自治体は特に配慮せねばならない。

5 既存の油症関連研究の総括
 事件の発生以来、油症研究班では精力的に研究が行われてきた。また研究班に所属しない研究者も貴重な研究成果をあげてきた。しかし油症という未曾有の人体被害に関して最近問題にされてきた次世代影響など、なお未解明、不完全な部分があることは否定できないだろう。その意味において現時点において、既存の研究成果を総括して、今後の研究への取り組みのあり方を模索することが求められる。
既存の研究成果の総括にもとづいて最新の診断基準を登場させることができる。

6 油症発生の真の原因の究明
油症発生の原因は現時点でも確定しているとはいえない。この事実は油症がこれほどの被害者を発生させた人類史上未曾有の特異な事態であっただけに重大の問題であるといわねばならない。
確かに一連の油症裁判では発生の原因追求が熱心に行われた。そして一審、二審の地裁、高裁の審理では熱媒体配管の自然腐蝕孔からのPCBの漏出が原因であるとされてきた。ところが裁判の最終段階になって配管工事ミスによる貫通孔からのPSBの漏出があったという被告側の主張が正しいとする判決が出されて、原告、弁護団は一挙に窮地に立たされることになった。このような人為的ミスを原因とする主張は製造物自体に関わる安全確保の責任を問われてきたカネカをとりわけ喜ばすような結果になった。
工事ミス説の登場を受けて原告、弁護団が巻き返しにかかったのは当然である。数次にわたる対策会議では被告側の主張に反論するための検討がなされていた。
しかし、そのあと、急転直下、原告、弁護団は最高裁の和解勧告を受けいれることになり、、結果的に油症の発生原因では二つの説が対立したままになってしまった。
このような事態は放置されてはなら名意。真実は一つでなければならない。

7 国民世論喚起の必要性
油症事件は食生活の保全、合成化学物質の安全性確保のための象徴的な反面教師となるべき事例である。したがって打つべき対策を怠って事態をいたづらに風化させるようなことがあってはならない。今こそ国民世論を喚起して、以上に述べたような対策を実施することが可能な状況を早急に作らねばならない。
この意味において、従来から地道な活動を続けてこられた市民団体や消費者団体などが今後とも大きな役割を果たすことが期待される。同時に油症問題に関わってきた研究者、有識者もこの際、これらの運動組織に全面的に協力して公正な国民世論の形成のために寄与せねばならなだろうい。
(2009年10月6日)

{註}筆者の油症関連の著作研究などは各サイトの「藤原邦達――検索」によって知ることが出来る。


(09年4月15日〕医学の道を選んだ孫3人に期待する


今回の記載は全くの私事であり、はなはだ恐縮ではあるが、私にとっては特別の感懐があるので、あえてこのHP欄に書かせていただくことにする。
さて、私には、長女の梅宮典子の娘のマキ、次女の森田佳子の娘の佳奈子、息子の元(はじめ)の 3人の孫がある。彼らは健やかに育ち、まじめに勉強してくれた。そして一昨年、佳奈子が京都府立医大に、昨年、元が京大医学部に、今春、マキが同じく京大医学部に相次いで合格させていただいた。
いまはじまったばかりの彼らの前途を祖父として心から祝福してやりたい。
できれば、彼らには私の後を継いで研究者の道を選んでほしいが、贅沢は言わない。研究医であれ、臨床医であれ、間接的、直接的に人の生命の安全、安心に関わる職業を選んだという自覚を持って生きてほしい。私達、祖父、祖母の年齢では、彼らが一人前の医師になる日まで見届けることさえ難しいのかもしれないが、精一杯長生きして、前途を見守ってやりたいと思う。
彼らの門出に際して、言いたいことが山ほどあるが、特に一つだけ上げておこう。それは、人生の、生活のあらゆる状況、局面の中で、いつでも自我をしっかりと持つこと、たとえば何時、何事であれ、佳奈子、元、マキなりの「プロトタイプ」(原型)を示すことが出来るものであってほしい。自説を持つ、自分流の工夫、方法を示せる、そのためには、裏づけとなる調査や工夫、そのための勉強や根気が求められることを忘れてはならない。
研究であれ、医療であれ、独自の主張を、意見を示せる自分であることを、何事であれそのための自分造りを忘れないことである、3人の孫たちが私の年齢に達するまでにはあと半世紀を必要とする。長い長い人生である。強く逞しく、しかもしなやかに、穏やかに生き抜いてほしい。
孫全員が医学部に合格した、京大医学部にいとこ同士が相次いで合格した、などという話はこれまで聞いたことがない。確かに異例の快挙であり、祖父として率直にうれしい。しかし、選ばれたものには相応の社会的な責任が生じていることを忘れてはならない。
(09年3月3日)ホームページ記入作業の再開について


長い間このHPへの記載をしないで来た。理由がある。実のところ輸入餃子事件をめぐる国の対応のしかたが不愉快であり、ペンをとる気がしなかった。もう一つの理由はこの問題の当事者である日生協の総会での処理のありかたがきわめて不適当で、あきれてものがいえなかった。事態を静観するほない、そう感じていた。私のこのHPでの1年近いの空白は歴史上初めて生協の商品で被害者を出したという事実への陳謝と反省のためにも必要であったのかもしれない。 私は今再びペンを執ろうとする。これ以上の沈黙は許されないと感じている。
(08年6月5日)輸入餃子食中毒事件に関する第三者検証委員会の最終報告書を読んで
ー生協運動の基本的価値と機能にもっと着目せねばならないー
藤原邦達


東大の吉川泰弘教授を委員長として、研究者3名、地域生協連合会役員2名、放送関係者、行政関係者、消費生活アドバイザー各一名からなる通称第三者検証委員会は、2月22日の第一回から5月29日の第9回まで、今回のCOOP輸入餃子食中毒事件に関して、精力的に検証作業を進められ、4月10日の中間報告に引き続き、5月30日には最終報告書を発表された。
本稿ではこの報告書についての評価を示すことにする。

1 委員会のご尽力に心から感謝申し上げる
第三者としての公正、中立的な立場にあって、各委員が短期間に精力的に取り組んでいただいたことに感謝申し上げる。最終報告書にまとめられた内容は日生協ならびに会員生協として大いに参考とされ、今後の施策に活用されるであろうことを確信するものである。

2 残された課題について
(1) 今回のような事態の発生を許してしまったことの原因に関わって、生協の政策執行の責任を持つ理事者、役員やひろく組合員、職員の商品の安全確保に関わる意識のありかたや取り組みのための熱意、対策への期待の程度などの現状を基本的に問題にせねばならない。
3−1項の、「この提言をまとめるにあたって」に、この委員会の生協や組合員についての基本的な認識のありようが示されている。
そこでは組合員、消費者は生協に「期待する」実体として取り扱われているが、実はその組合員が「期待する」事項、内容、あるいは期待の程度などに関して、生協の大規模化に起因する価値観の多様化、複雑化が急速に進行している現状に着目せねばならなかったはずである。
商品については、とくに90年代後半以降において、利便性、経済性を重視するような考え方が有力になってきた。安全性の確保を商品政策上の最優先事項として位置づけることを強く「期待する」職員や組合員の実数が減ってきたのではなかったか。教育、学習などへの取り組みに対する熱意の低下も疑われねばならない。こうした現実を踏まえた上で対策を検討することが必要であったと思われる。
生協では事業の推進に関わるあらゆる仕組みの整備は組合員の要求、期待の程度に即して行われる。この点が一般の企業とは本質的に相違している。安全性の確保のための対策を考える場合には、このような生協の生活協同体としての特徴を確認しておかねばならない。
第三者検証委員会が組合員を「期待する」存在としてのみ位置づけて、組合員のあり方に関してそれ以上の考察を加えなかったことには問題がある。

(2) 生協が事業体であるとともに運動体でもあるという視点が強調されねばならない。
委員会の報告書ではさまざまな提言や対策が示されているが、それらを実践するための、生協の紛れもない主人公である組合員の運動体としての実勢や機能が健全、堅実であるかどうか、またそれらをどのように育成しようとしているかを問題にせねばならない。
商品の安全性を確保するためには基本的に国や自治体の行政や法規、条例などが整備されていなければならない。輸入食品の安全性の確保のためには生協だけの取り組みでは限界がある。今回の報告書では生協の運動体としての機能のありかたについてもほとんど触れられていない。

(3) 生協固有の教育、学習機能の重要性が強調されねばならない。
上記の(1)の生協の組合員の安全性の確保に関わる意識を高揚するためにも、(2)の運動機能を活性化するためにも、生協固有の教育、学習機能が大きな役割をはたすことになる。今回の報告書では生協の組合員を、保護される、受身の主体としてのみ位置づけているが、いわゆる一般の企業や事業体での消費者と生協の組合員は同一ではないのである。
日生協と地域の生協との関係は、たとえばスーパーの本部と支部地域店との関係と全く異なっている。日生協は全国各地の生協の連絡協議の場であって、指揮権限を持つ存在ではない。日生協自体には組合員は存在しない。商品の安全性を確保するために最も重要な役割を果たす組合員や職員の教育、学習機能が地域の生協にのみ存在していることを忘れてはならない。
今回の検証委員会が日生協の事業活動のあり方だけを考察し提言するのであればこれでよいだろう。しかしひろく生協の課題として商品の安全確保の在り方について論じるのであれば、組合員、職員の安全確保意識の振興や運動の活性化について、そしてそのための教育、学習の必要性について全く触れないというのは間違っている。
この委員会の報告書で挙げられた多数の対策事項を推進するためのエネルギーはいったい何処から由来するのであろうか。それは組合員、職員の教育学習によってのみ生み出すことが出来るのである。
学習、教育活動によってこそ、政策を考え、発言し、時には批判することが出来るようになる、生協の基本的価値に関する学習、教育を重視することによって、安全、安心を最優先する生協らしい組合員を育てることができるのである。

(4) 日生協が生協のすべての商品を供給しているのではない。地域の生協では独自の取り組みを必要とする。
今日、各地の生協ではたしかに多種、大量の日生協のCOOP商品を導入して事業を行っている。今回の検証委員会の提言が日生協のCOOPブランドについての安全対策に関してだけ言うのであればこれでよいのかもしれない。しかし各地域の生協では、実際に多種多様な自主開発商品を取り扱っていることを忘れてはならない。
たとえばその規模が世界有数のものとされているコープこうべなどでは多種類の自主開発商品を保有しており、それらは近隣の生協は言うまでもなく、広く全国の生協に流通している。
筆者は定年後にコープこうべの技術顧問として15年間にわたって商品検査センターに在職したが、このセンターでは、当時、中小県の自治体の衛生研究所なみの約30名の 、日生協の商品検査センターに匹敵する多数の職員がいて、多様なコープこうべブランド商品の品質検査に当たっていた。
さらに生協の組合員は生協の商品以外の一般企業の商品も購入しており、生協が組合員の健康、安全を守るためには、相当規模の品質管理、商品検査体制を必要とすることになる。したがって輸入、国産に関わらず、生協の商品の安全対策について考察し提言するのでれば、以上のような膨大な負担を支えるために、広く全国の地域生協での品質管理活動を振興することが必要であり、したがってそのための組合員、職員の意識化、教育、学習の必要性を前提とした取り組みが肝要であることを強調せねばならなかったはずである。
今回の委員会の報告書での提言は、全国約500もの地域生協のすべての商品の安全、安心を確保するためのものではない。各地域の生協では、日生協とは別に、この際、独自に、商品の安全、安心のための対策を講じることが求められている。

3 各地域の生協の取り組みこそが重要である
検証委員会では有事に際しては、「会員生協が日本生協連を司令塔として受け入れること」をすすめているが、実務、権限、責任などに関わって、実際的にはさまざまな問題点が考えられ、この点は今後大いに論議する必要があるだろう。
前項で示したように、今回の検証委員会での提言、対策は日生協の、主として、いわゆるCOOP商品の品質管理体制について示されたものであり、いずれにしても、各地域の生協では独自に以下のような取り組みを行うことが求められている。

(1) 日生協に積極的に協力する。同時に日生協に安易に依存しない。生協間の連携に配慮する。
いうまでもなく生協では、何事であれ、全国的な連帯、協力を重視する。
今回の輸入餃子食中毒事件はその必要性を強く訴えるものであった。

(2) 各生協では独自に品質管理体制の強化をはかる。
自主開発商品を中心に品質管理を徹底する。検査室を整備し、検査員を補充し、品質管理マニュアルを更新する。

(3) 各生協では品質管理強化委員会を立ちあげる
各生協では組合員、理事、外部学識経験者を交えた委員会を立ち上げて管理体制、管理マニュアルなどの整備、更新を行う。

(4) 学習、教育体制の強化を図る
最近の事態を受けて、組合員、職員、理事、役員の、商品の安全、安心体制の強化のための意識化、そのための教育、学習体制の再構築に努める。

(5) 品質管理地域生協全国協議会を立ち上げる
日生協を中心に、各地域生協間の意思疎通を図るために、この際常設の全国規模での協議会を発足させる。食中毒事故の予防や事故発生時の連絡、通報、処理、組合員への情報伝達の迅速化など、緊急に必要とされる協議事項が多数存在している。

4 生協の運動機能を活性化する。国や地域社会との連携を密にする。
商品の安全、安心は生協の努力だけで確保できないことは明らかである。輸入に関わる現地での対応、検疫、流通などの複雑な経路を経て商品は生協直轄の管理責任圏に入ってくる。この過程における食品衛生法などに基づく国、自治体の監視体制や検査体制の強化がなければ、日生協や地域の生協の努力だけで組合員の安全を守ることが出来ないことは明らかである。したがって生協は組合員による要請、請願などの運動機能を活発化して対応する必要があることに留意せねばならない。検証委員会の報告書ではこの点での生協や組合員、職員の役割については全く触れられていない。
自治体の衛生研究所、保健所などとの関係を日常的に密接化するとともに、研究、検査の担当者や食品衛生監視員などとの交流を重視するべきである。さらに地域の大学や研究機関の学者、研究者から必要に応じて必要な情報が得られるようにしておくことも必要であろう。

5 結び
本稿では、通称第三者検証委員会の中間、最終報告書についての見解を示した。
その概要は以下のとおりである。

(1) 検証委員会が示された指摘や対策には今後大いに参考とするべきものが数多く見られる。委員長はじめ、各委員のご尽力に感謝申し上げる。

(2) 他方で、大多数の委員が生協の部外者であり、当然のこととして生協の基本的価値、地域の現場における生協の実態などについての理解が不十分であったためか、その日生協のCOOP商品を要求し、購買し、利用する実体である生協の組合員のあり方の重要性についての考察が不完全であることを指摘しておかねばならない。
   具体的には以下の事項に留意する必要がある。

1)  生協の組合員は一般企業のいわゆる消費者そのものではない。生協の組合員は、考え、主張し、行動する消費者でもある。
組合員はCOOP商品を含む生協の商品を期待し、受け取る存在であるだけではなく、要求し、作り出す存在でもある。生協の商品について論じる場合にも生協の組合員の本質に関わる視点を見失ってはならない。

2)生協の大規模化に伴う組合員意識の多様化、変質を問題にせねばならない。
 組合員はよりよいCOOP商品をつくるために学習し、教育し、実践する主体的な消費者である。日生協のCOOP商品に関する考察に際しては組合員の本質に関わる生協の学習、教育機能のありかたを無視することは出来ない。

3)現場で商品を実際に取り扱う地域の生協の役割を重視せねばならない。
 組合員はCOOP商品を含む生協の商品だけで生きているのではない。日生協の商品規制の体制がどのように精緻に作られても、これを受け入れる地域の生協のあり方に問題があれば安全性は確保されない。

4)生協は運動機能を有する消費者の組織である、という視点をもっと鮮明にするべきである。
 商品の安全性をめぐる社会システムを改変しなければ、COOP商品だけが安全、安心であるということはできない。生協が国や自治体に対して要求する、行動性をもった組合員によって支持されていることに留意せねばならない。

生協の主人公、主体者である組合員の意識的実態が生協の規模の拡大に伴って多様化し、変質し、たとえば非生協的な方向に傾斜して、経済性や利便性などを過剰に要求するようになれば、生協の商品の安全性確保に関わる取り組みが最優先されることはないであろう。
さらに商品の安全確保に関わる施策を強力に推進するためのエネルギーは、生協の主体者である全国の組合員の、安全確保に関わる期待にとどまらず、安全確保意識の高揚によって充足されることを強調したい。
そして、その意味では生協固有の機能である教育、学習活動の活性化が重要な意味を持つことは明らかである。
組合員の消費生活の安全、安心を確保するためには生協だけの対応には限界がある。国や自治体の法規、条例を改善し、食品衛生などの行政のありかたを変革することが必要である。そのために生協の運動機能が重要な意味を持つ。
今回の第三者検証委員会が示した多数の示唆に満ちた提言を生かし、施策を実践するためには、生協運動固有の基本的価値に着目することが肝要である。

筆者は80,90年代に日生協から3冊の食品の安全性に関する著書を刊行したが、その基調は本稿のものといささかも変わっていない。
生協の商品の安全性の確保に関わる論議は古くて新しい。この報告書をめぐる今後の論議に大いに期待するものである(完)、


(5月28日)品質保証体系の構築を支えるエネルギーは充足されているのか
―輸入餃子事件:対策はこれでよいのか―
藤原邦達


1 生協は何を「お侘びせねばならない」のか
本年4月に日生協は山下俊史会長名で、「「CO・OP手作り餃子」重大中毒事故のお詫びと今後の対応について」と題する文書を公開した。その冒頭にはつぎのように書かれている。
「「CO・OP手作り餃子」での重大な中毒事故により、皆様に多大なご心配とご迷惑をおかけしましたことをあらためて深くお詫び申しあげます。」
しかしこの序文は極めて不正確である。生協がお詫び申し上げねばならないのは、皆様に多大なご心配とご迷惑をおかけしたことではない。生協の責任者がお詫びせねばならないのは以下の点についてである。
(1) 初めて、CO・OP商品によって複数の組合員に食中毒被害を発生させたこと
(2) 結果的に、生協の本質に関わる、これまで大切に守り育ててきた、CO・OP商品の安全、安心に関わる信頼性を著しく傷つけたこと
 心配や迷惑をかけたこと以上に、生協の歴史始まって以来の重大な事態を引き起こしたことについてこそ陳謝せねばならないのである。

2 責任をとらねばならない
 以上のような事態が発生した原因はどこにあるのか。またその原因を作ってきた、あるいは欠陥状況を放置してきた責任はどこに、そして誰にあるのか。最近よくある一般企業での不祥事の場合のように、生協でも当事者、役員が頭を下げればそれでよい、のであろうか。
生協はロッチデールの精神を持ち出すまでもなく、倫理感、責任感の特別に厳しい特異な組織体であったはずである。今回の事態の処理の過程で、責任の取り方についても、生協がスーパーでもコンビニでもない、消費者の共同体である、ということが証明されねばならない。

3 原因は正確に究明されねばならない
何事であれ、原因究明に失敗すれば対策が正確であることは出来ない。今回の事態がなぜ発生したのか、については前回のHPで述べたとおりであるが、筆者が朝日TVのなかでも言及したように、最近における生協組織の大規模化という事実に最も着目せねばならない。組織、売上げ規模の拡大は結果的な状況であり、確かに生協の努力の成果であって、生協に対する社会的評価の現われであるということも出来よう。しかし生協の組合員2500万人、事業高3兆円という規模拡大に伴って、組合員意識の多様化、事業対応の複雑化という事態が必然的に発生してきたことに注目せねばならない。
生協の主人公である組合員の意識のなかに、商品のあり方に対する要求が多様化して、たとえば経済性、利便性、安全性などの位置づけをめぐる考え方の濃淡が必然的に出現してきた。輸入食品の場合でも、検疫などでの管理、規制や商品の基準、規格、表示などについての関心もさまざまに異なるようになってきた。商品のあり方に関しても一般企業の商品に対するのとさほど変わらない要求しか持ち合わせない組合員も見られるようになってきた。
ずいぶん以前のことではあるが、安全、安心に配慮した生協のすぐれた洗剤が種々ある中で、ある生協でライオン社のLAS 系の合成洗剤を店頭に置くことになったことが問題になった。その理由を聞いてみたところ、担当者の職員が、主人公である組合員が要求する商品を置くのは生協として当然です、と答えたことを思い出す。
組織規模の拡大、組合員意識の多様化に伴って、生協らしくない考え方や質の低い要求なども必然的に出現してくるだろう。問題はこの状況をどうするかである。特に安全、安心の確保に関わって、優れた政策を選択し、実施するためには、組合員の生協らしい要求を育て上げ、生協らしい意識の水準を高めることを、そしてそのための日常的な取り組みを怠ってはならないのである。
筆者は以前の論文で、教育、学習の重要性、必要性を強調しておいた。リスクマネージメントを本気でやろうとすれば、そのことが本当に必要であるとする生協の意識人口が圧倒的に多数でなければならない。
生協は今回の事態の原因究明にあたって、以上に示したような理事、役員、職員、組合員の意識的な構造、水準のありように関する考察を怠ってはならない。一言で言えば商品の安全、安心確保に関わる熱意の低下、モチベーションのゆるみの所在を広く深く究明すべきである。
今回のような異常な事態の発生を許した安全、安心システム上の欠陥は、より完璧な仕組みを構築しようとする理事、役員や広くその生協の組合員の意欲、意識の水準に問題があったからであることを認めねばならない。

4 女性役職員の現状には問題がある、
 日生協をはじめとして、各地の生協の常任執行機関での女性役員の割合が異常に小さいことによって、生活や商品に対するきめの細かい、そして同時に厳しい女性、主婦の感覚が政策に反映しがたいことも危惧される。これも意識構造問題の一環であり、この際配慮すべき課題のひとつであるということが出来る。
産み育てる母親の、家族の生活を預かる主婦の、安全、安心に関わる要求が生協の政策執行機関において、より強く生かされることが必要であろう。

5 意識改革を重視しない構造改革はありえない
 生協の今後の対応に関して、日生協は本年4月に「品質保証体型の再構築を通して、再び信頼される生協をめざします。」とするパンフレットを配布している。そこには周到な多数の対案が示されてはいるが、それらの対案を支持し推進するための理事、役員、職員、組合員の安全、安心に関わる意識改革については全く触れられていない。
日生協の内部強化委員会の検討事項の中にも、技術的、システム的な対策は仔細に示されていても、生協をあげての意識改革への取り組みにはノータッチである。さらに外部の有識者に委嘱して急遽立ち上げられた第三者検証委員会の中間報告でも、さまざまな技術的なリスク対策事項が指摘されてはいても意識改革問題には全く言及されていない。
今回の事故の原因究明や今後の対策に関する既往のあらゆる取り組みが、まるでこの事故がスーパーなどの一般企業で発生したのと同じ立場と視点でしか考察されていないことに注目せねばならない。重要なことは消費者の人間的な共同体である生協の視点で考察することである。時代の変化に相応する体制の変革、対策の実施、技術の推進を怠った、あるいは後れを取った、生協という組合員によって構成され、組合員によって支持され推進される組織の安全性最優先の意識形成での不完全性を究明し、指摘して、その是正を最優先するような考え方こそが重要なのである。

6 どのように意識改革を進めるのか
安全、安心の生協はそれ以前に教育、学習の生協であることによって支えられてきた。生協が今日のような大規模化に成功したのは、まさしく戦後の、とくに70、80,90年代を通しての、他のいかなる企業、事業体よりも徹底した教育、学習活動を進めてきたからである。生協のあらゆる安全対策は組合員のすぐれた安全性重視の意識の構造と意識の水準によって充足されてきたのである。
しかしながら、残念なことに、今日の生協では学習、教育活動が活発であるとは言い難い。したがって安全性に関する意識の水準が高められているとはいえない。たとえば輸入食品の激増というような客観情勢の変化に対するリスクマネージメントについて、生協の政策や組織対応での時代不適合性が露呈するのはまさしく必然であり、自明のことであったといえるだろう。
商品の安全、安心に関わる教育、学習に当たっては一般に以下のようなカリキュラムが考えられる。
(1) 生協運動の本質を学ぶ
(2) 安全、安心の意義に学ぶ
(3) 生協の安全、安心対応の歴史に学ぶ
(4) 最新のリスクアセスメントに関する考え方を知る
(5) 危害事例に学ぶ
(6) 今日的な表示、規格、基準、規制などの体系を学ぶ
(7) 世界的な食料、食品事情を知る
(8) 自給率の実態と輸入食品問題を理解する
(9) 品質管理、検査体制を考える
(10) 所属する生協の安全政策の実情を知る
(11)日生協のCO・OP商品の安全、安心確保の体制を知る

7 意識改革を怠れば事故の再発を許すことになる
今回の餃子事件に関わる日生協や各地域生協ならびに第三者検証委員会などの今後の対策に関わる文書には品質保証体系の再構築のためのさまざまな対案、提言が盛り込まれている。しかしそのような対案や提言を支持し推進するためのエネルギーが生協の現場の中に枯渇しておれば実効性を期待することはできないだろう。
今回のような事故を引き起こした生協の組織的、政策的な欠陥を是正するために、全生協をあげての、安全、安心に関わる意識の徹底的な向上、改革が組合員、特に理事、役員、執行関係者の最大課題として捉えられないのであれば、やがて必ず今回のような事故の再発を許すことになるだろう。
生協は「一人は万人のために、万人は一人のために」安全、安心な商品を供給するのである。大規模化した生協が大規模な偽装や食中毒を引き起こさないために、万人の生協組織、一人の組合員個人にとって、今やなすべきことが数多くあることを再確認しようではないか。(完)


(08年04月30日)生協の再生、強化のために
ーCOOP商品輸入ぎょうざ被害事件の再発をどう防ぐのかー
藤原邦達


 最初にぜひとも言っておかねばならないことがある。この事件の原因究明をめぐって日中両国の捜査当局の見解が対立し、結果的にわが国は捜査を中断することになったという。
しかしこれはおかしい。犯罪が日中のどちらで行われたにせよ、それが人為的であることがはっきりしている以上は、この事態を放置していると、再度同じ犯罪が繰り返されて、被害が発生する恐れがあるからである。これは単なる汚染レベルの問題ではないのである。これまでに検出された農薬の濃度レベルは発症量に近いことを忘れてはならない。また同じ農薬が使われるとは限らない。致死量に達するような農薬あるいは農薬以外の薬物が使用される可能性があるのである。
にもかかわらず、日中両国の政治的な配慮から捜査を中断するというのはまさしく国の行政側の不作為による犯罪行為ではないのか。消費者は危険にさらされている。黙っていてはならない。検察当局は原因究明を精力的に続行し、中国側にも捜査を要請し、最終的に犯人を明らかにすべきである。そして再犯が防がれて消費者の不安が除去されるべきである。
現政権は消費者行政に熱心であるというが、消費者のさしせまった安全を守れないようでは論外である。
消費者はもっと怒るべきである。

ー生協の仲間へー
先日来、中国輸入ぎょうざ食中毒事件の解明は進まず,事態はこう着状態に入った感がある。なぜ高濃度の農薬が包装内部のぎょうざに付着していたのか、人の被害が実際に発生したという事実があり、放置すれば再発の可能性もあるだけに、日中両国は面子を捨てて真相の解明のために取り組まねばならない。
ともあれ、この事件の関連で、筆者も各社からの取材を受けてきたが、そのなかでとくに注目したいのは、これまで最も安全であったはずの生協のCOOP食品で被害が発生したことを重視した朝日放送が「生協はこれでよいのか」とする視点で私の見解を聞いてきたことであった。
もとより今回の事件は生協関係者にとっては極めて衝撃的であったし、各地の生協、日生協などでは、これから特に総会に向けて徹底した論議が行われるであろう。
私は、研究所を定年退職した後、いくつかの大学や短大(註1)で講義をするかたわら、長年食品の安全確保の分野で日生協(註2)や各地の生協(註3)の技術的な顧問役をお引き受けして協力してきた。朝日放送はそのような私の立場に即して、研究者としての客観的な見解を聞きたかったのであろうが、短時間のテレビ画面の中では言い切れなかった部分が多々あった。
この小論は改めて現時点での私見をまとめたものである。
(註1:大阪大學、山形大学、立命館大学,光華女子短大 註2;日生協学者専門家懇談会幹事、食品添加物規制Zリスト委員会委員、 生協総研評議員 註3:安佐市民生協、栃木県民生協、大分県民生協、コープこうべ、おおさかパルコープ、ならコープの技術顧問、いずみ市民、ならコープコープしが各生協の食品添加物等自主規制委員)
生協はこれまで食生活のあり方について、とりわけ食品の安全分野に関する意識の水準が特別に高い消費者の組織であるとして社会的に認知されてきた。
その生協の現場において今回まぎれもないCOOPマークのついた商品で高濃度の農薬の混入が発覚し、これに起因すると考えられる被害者が出るというような未曽有の事態が発生した。たとえばならコープの現場では事件当時連日百本を越す苦情や問い合わせの電話が殺到して対応に追われるようになったという。 また2月10日の日刊ゲンダイ紙には「生協お粗末!今度は赤飯の製造年月日誤る」という記事が出た。生協がついに食品偽装にもかかわっていた、というのである。そして見過ごせないことに、最近では「企業もコープも結局同じなのね」というような会話が主婦たちの間で聞かれるようになっているという。このようなCOOP商品による被害およびCOOP商品に対する信頼の失墜という異常な事態を受けて、生協の組織としての責任の取り方および今後の対応のあり方が非常に注目されているのも当然のことであると思われる。
この際、組合員の目に見えるような周到な対処が行われることが必要であり、万一にも生協としての責任の取り方が不十分で、対処のあり方が不完全であるような状況が発生すれば、社会的にもこれまで先輩たちが営々として築き上げてきた生協の安全、安心のイメージと組織に対する信頼を大きく損なうことになるであろう。 現時点において、生協の既存の体質に関しての反省が十分に行われて、二度とこうした事態を発生させないために、組織、機能の変革が周到に実施されねばならない。 この5月、6月に開催される各地の生協、日生協の総代会に向けて、以上の課題についての論議が徹底して行われることが期待される。

1 責任の重視、体制の刷新を
生協の理事、役職員は今回の事態を発生させたことに関して、当然なんらかの形での責任を取るべきである.COOP食品による食中毒被害の発生、C00P商品に対する疑惑、ひいては生協の安全、安心政策への不信感のひろがりというような、生協始まって以来の事態を偶発的なものであるとして、役職員がなんら責任を取らないというような結果に終わらせてはならない。
今回の事件は現在日中の警察当局による捜査下にあり、我が国の警察では中国に於ける犯罪的行為によるものであるとしているが、いずれにしても単純な農薬による汚染問題ではないとされている。したがって我が国での、受け入れ側にあった関係する企業や生協などの責任を問うのは酷であるとする様な考えかたがあるかも知れないが、少なくとも、一般の企業以上に安全、安心を標榜してきた生協として、以下の点での責任を自覚することが必要であろう。
(1) 組合員にCOOP商品による健康上の被害を発生させた。
(2) 行政への事故の届出が遅れ。自前の検証が周到でなく、他生協への通報連絡も遅れて、風評被害をふくむ被害の続発、影響の拡大を許した。
(3) 輸入食品では安全、安心対策までも輸入関連企業に大きく依存して、生協独自の検証を行わず、安全、安心業務での、所謂「丸投げ」的な状況を認めてきた。
(4) 組合員に対する周知が不完全で、回収その他の対策が遅れた。
(5) 生協商品,COOPブランドへの信頼が傷ついた。
この際二度とこうした事態を発生させないために、同時に生協に対する社会的な信頼を回復するために、食の安全、安心確保の体制と品質保証関連人事の抜本的な刷新を行なうべきである。それは組合員に対する礼儀であり、組織の秩序に対するけじめであるというべきである。当事者は言い訳に終始せず、このような事態を招いたことについての責任を自覚して対処せねばならない。全国の2500万人の組合員が事態のなりゆきに注目していることを忘れてはならない。同時に広く社会的に生協のモラルの水準が問われようとしていることにも配慮すべきであろう。

2 組織規模の拡大よりも組織内容の充実を
全国規模で、3兆円にも達した生協全体の事業高をこれ以上増大させる必要があるのか、日生協という組織にとって規模の拡大の意味するものをこの際十分に検討せねばならない。
地域の生協の経営的な体質を健全化して、組合員のニーズに応えられるような組織を維持することは必要である。
生協は一般企業、株式会社並みの利潤追求体であることは許されない、そのような条件下に生協が安定的な経営を維持するためには、一般企業で言えば顧客に相当する組合員の実数を増やして、すなわちその地域における生協の組織率を拡大して、すぐれた商品の購買、普及によって、適正な収益をあげることが必要であるといえよう。そのためには生協への加入の動機となるような商品の安全、安心の確保に全力を尽くすことが求められ、同時に生協がそのために機能している事業体であることを地域的に周知することが求められる。
以上のような理由から組織部門という生協本来の基本的機能の強化が強く要請されることになる。
組合員の生協らしい要求に基づく生協らしい健全な事業の結果としてのみ生協の事業高は認められる。事業規模の大きさ自体は問題ではない。

3 組織機能の強化を
 前項に示した組織率の拡大のために働く組織部門の重要性はいまさら言うまでもない。生協が一般企業と本質的に異なるのは、消費者としての要求を生協自体に対してだけではなくて、生協外の社会に向かって提起して、そのために活動する、いわゆる要求、運動機能を保有しているという点にある。食生活の安全、安心を実現するためには、基本的に国や自治体による法的、行政的な規格や規制が必要であり、たとえば食品添加物の安全性は国の食品衛生法で定める表示や規格、基準の水準が高く、同時に行政の管理、監督が適正で、一般企業がこの規格、基準を遵守することが必要になる。組合員は生協の食品だけで生活しているのではない。
生協における組織規模の拡大は必然的に組合員の多様多数の、そして複雑多岐にわたる要求を生み出すことになる。したがってそれらの要求の質的水準や重要性、緊急性などについての組織内部での整理や評価、検討並びに決定の多無の取り組みが必要となり、そのための生協の組織ぐるみの日常的な学習、教育、情報の開示などが徹底して行われていなければならない。
しかしながら規模の大きい生協ほど組織ぐるみの取り組みは困難であり、とくに組織にとって最も重要な教育、学習の課程に一握りの理事や職員だけしか関与していないとすれば問題である。組合員の圧倒的な多数を占める女性、主婦などの、いわば家事や消費生活の専門家たちに教育、学習の機会を提供し、そのうえで組合員の意見を誠心誠意、徹底して聞かないで、たとえばほとんどが男性の理事で占められている常勤理事会などと呼ばれている組織が事実上生協での政策提起ならびに一般実務の執行機関としての役割を果たしているというような現行の構図には非常に問題があり、このさい再点検を必要とする。
組織部門の充実のために努力しないで組織規模を拡大するのは生協の非生協化を促進することになるであろう。それは極めて危険で致命的な状況であるといわねばならない。

  4 学習、教育機能の活性化を
質の高い消費者、組合員をふやす。質の低い要求を持ち出さない組合員をより多く育てる、そうすることによって組織の自浄、自活作用を活性化する。組織規模の拡大によって必然的に発生する要求の多様化、複雑化に即して、どのような政策を提起するかが問われてくるが、このような自浄、自活作用の活性化はより水準の高い政策を採用する上で貴重な役割をはたすことになるだろう。
生協の主人公は組合員である。だからといって組合員が要求するものはなんでも受け入れて、商品を供給するというのでは本当の意味での安全、安心を確保することはできない。学習教育の軽視は民主的な体制作りにとって大きなマイナスの要因となることは明らかである。
最近、学習会が持ちにくくなった理由として、組合員の少子高齢化、共働きによる昼間の主婦不在状況の一般化などがいわれるが、これらの悪条件とどのように取り組むかが問われている。
それにしても、80,90年代の生協は学習、教育に熱心だった。職員,組合員の学習会は真剣だった。特に食品の安全、安心を求めるエネルギーは強烈だった。
ならコープはその当時から学習熱心な生協として全国的によく知られていたが、現場の主役であるパート職員さんの学習会を数回に分けて実施した。講師を引き受けた筆者に対する質疑応答も盛り上がって素晴らしい学習会であった.
組合員だけでなく職員の学習会も重視された。私は全国各地での講師をお引き受けしたが、特に印象に残っているのは旭川のマイナス17度Cの夜に行われた学習会であった。1980,90年代の生協での活発な学習活動はその後の
生協発展の基盤を作ったのだと思う。特に安全、安心の生協の定評を社会化する上で大きな役割を果たしたのは確かだと思われる。
他方で、生協は国の食品衛生法の水準を越える自主的な食品などの安全基準を確立することに取り組んだ。
これは3年前の実例であるがいずみ市民生協では筆者らが協力してつくりあげた食品安全のための自主規格基準の組合員に対する周知をはかるために、約1年にわたって100回をこえる学習会を実施した。もちろん今時以前のように一つの会場に50名、100名単位での参加者が集まるはずがない。その実情は、2名でも3名でも聞く意志のある組合員がいる限り組織部門や品質保証部門の職員が各地域に出向いてする、いわば出前学習会とでもいうべきものであったという。
教育、学習のテーマを適切に選ぶことも肝要である。今回の中国ぎょうざ事件の根底には輸入食品に依存せねばならないわが国の農業の現状や自給率の極端な低さなどの諸問題がある。また国民の食生活のありかた、とくに輸入量とほぼ等しいといわれる残食量の多さや美食、飽食のような風潮が一般化していることについても学ばねばならない。食生活の安全、安心が日々の家庭での食材の購買、調理、食事のありかたに深く関わっていることを、さらに生協がその食生活のありかた、特に食品の安全、安心に深く関わってきたことなどを、きめの細かい学習、教育、情宣を通して組合員に伝えていかねばならない。
現状において、各地の生協や日生協での学習、教育の不足、不振が認められるとすれば、今回の事態との関連で大多数の組合員、役職員、理事者にとって大きな反省材料になると思われる。
学習、教育機能が不完全なままでの組織規模の拡大は最終的に非常に危険な状況を招くことに気づかねばならない。同様な事業体でもある生協と企業スーパーなどとを峻別するものは学習、教育活動の有無であることをこの際深く自覚する必要があるだろう。(註4)
(註4:藤原邦達著「生協運動に科学とロマンを」、「生協運動と食生活の安全性」いずれも日生協出版部刊)

5 品質保証、検査機能の充実を
 今回の事態を受けて、生協は現状の品質保証、検査部門のいっそうの充実をはからねばならない。特に地域の生協ではその一部に見られる日生協依存の体質を改善して、自前の堅実な品質保証、検査体制を構築せねばならない。もちろん地域規模での生協にできることには限界がある。規制対象となるすべての農薬の検査を個別の生協で実施することはたしかに困難である。その場合には信頼できる地元の検査研究機関に依頼して自前のデータを得るようにする。そのための予算を確実に用意する、そのような自主的な品質管理の体制を準備するべきである。日常的にどのような食品のいかなる項目での点検が必要なのか、そのスケジュール表さえも持ち合わせていない「安全、安心の生協」なるものの存在はナンセンスである、いや、それ以上にそれは偽善でさえあるというべきだろう。
 さらに肝要なのはこの際品質保証関連の専門的な職員を具体的に増員することである。安全、安心の生協などとはいいながら、食品関連学部の新卒1名の採用でさえも渋るというようなことではいけない。都道府県市の衛生研究所の定年退職者は豊富な検査技術を保有している。最近そのような専門家を嘱託などとして迎える生協が現れるようになったことにも注目せねばならない。
つぎに品質保証の水準を向上させるために、商品の製造加工や輸入を委託している企業との協力関係を強化する必要がある。今回のケースでは、生協が輸入食品の生産、加工や輸入での安全管理を企業に「丸投げ」していたなどと批判されているが、製造や輸入の現場にも積極的に関与して組合員の信頼に値するようなすぐれた効果を生み出さねばならない、そのためのいわば生協の輸入Gメン制度とでもいうべきものの新設、そのための要員の確保にも努める必要があるだろう。
安全管理のために不可欠なのは検査、調査の体制である。現在生協では全国的に検査室関連の職員を約400名保持しており、いかなる全国規模の巨大スーパーなどにも見られないような検証能力を発揮しているが、それでも各地域の生協単位では事務職員を含めて数名の規模で品質保証業務が行われており、このままでは供給商品の安全管理が十分であるとはいえない。
現在日生協などを中心に相互の連携を強化し、資質の向上を図るために全国規模での検査関係者の研究会などが持たれているが今後は日生協の商品検査センターを中心に新規な調査、研究活動にも積極的に取り組んで、我が国を代表する商品特に食品の権威ある品質検証機関となることが期待される。
 各生協の現場では、日生協や拠点生協への依存を改めて独自に品質管理、検査、調査にかかわる資質や能力の向上に努める必要がある。
ならコープの品質保証、検査部門では月一回輪番制での文献抄読会が持たれているが、品質管理、検査室などの職員が関連の情報を共有し、他方で文献の精読、発表能力を向上する上で大きな効果があると思われる。
 品質管理関連機器の購入もこのさい断行するべきである。ならコープでは一昨年PCR装置を導入したが、遺伝子解析が今後の微生物、ウイルス、生物分野での必須の検査手法となることが予想されており、時宜に適した妥当な措置であったといえよう。

6 学者、研究者の協力体制の構築と整備を
 日生協には総合研究所が付設されており、これまでに、生協運動関連の貴重な成果をあげてこられた。しかし、これは実質的に文科系の生協関連の学者、研究者の組織であるために、筆者は生協の独自のイメージであり、モットーでもある安全、安心の確保に関わる自然科学者を併せて結集するように主張した。しかし、この提案は結局受け入れられなかった。
筆者は、今回の事態を受けて、わが国の自給率の低下、輸入食品の激増、農業の再生などの深刻な課題や、あるいは食品の表示、品質保持、遺伝子組み換え食品、BSE問題などを生協、消費者の視点でどのように取り扱うべきか、などの諸課題との関連で生協総研に理科系の研究部会を設置することを改めて提案したい。
80年代から90年代の生協の発展期に、多数の自然科学系の研究者が、食品添加物、農薬関連の安全、安心確保のために協力したことはよく知られている。安全、安心の生協というような社会的な評価をかちえたことが生協の組織的、事業的な発展、拡大に大きく寄与したことを疑う人はない。当時の日生協や地域生協の役職員は学者、研究者の協力組織を作ることに非常に熱心であった。
生協は学者、研究者の協力を必要とする。今回の事態を受けて、せっかく評価されてきた安全、安心の生協のイメージを放棄するような結果に終わらせてはならない。
各地域の生協でも地元の大学や研究機関との関係を密接にするための努力が必要である。有事に際して助言指導を得ることが出来る体制は何よりも職員や組合員の間に信頼と自信をもたらすところとなるであろう。
このような困難な国際的、国内的な環境の中で、食品の安全、安心を組合員に保障するためには専門家の協力は不可欠である。生協はこの際組合員とともに積極的に支援を要請すべきである。

7 情報の伝達、流通機能の活性化を
今回の被害が発生した要因のひとつは最初の被害発生の時点で当該生協からの届け出、連絡が日生協や他の生協に早急に行われず、そのことがその後の各地での被害発生を防止することにつながらなかった点にある。
この際日生協に食品被害専用のサイトを設置して各生協からの関連情報をリアルタイムに知ることが出来るような全国の各生協、役職員、組合員に完全に公開された仕組みを作るべきである。このサイトにリンクしさえすれば、常時、危害、容疑の概要、特に容疑商品の名称、出所、数量、価格などを知ることが出来、専門家の助言も読み取ることが出来るようにする。
各生協の内部でも危害ないし容疑情報の周知のための類似の地域的なネットワークを構築することが望ましい。
電子技術の進歩によって、情報の伝達流通機能は画期的に向上している。問題はこれに相応した仕組みを準備するつもりがあるかどうかである。
保健所や行政側の保険衛生関連機関のほか、農水省などの規格基準関係機関、大学などの研究機関との日常的な連携についても配慮する必要がある。今回の事態から学ぶべきことは多くある。

8 各地域生協の主体性の確立を
今日、日生協全体での購買を主体とする事業高は3兆円を超える規模に達している。これはわが国のいかなるスーパーよりも大きく、驚異的であるなどといわれるようになっており、いわゆるCOOP食品の供給元である日生協の事業体としてのあり方が注目されている。日生協の直接の対象は組織としての個別会員生協であって、一般の生協での組合員と直接接触する機会はほとんどない。すなわち日生協は、残念なことに、その実は生協運動の紛れもない主人公であり、生活の専門家である組合員、主婦たちの苦情や要求をリアルタイムに、生々しく受け取ることの出来る場所にはいない。したがって日生協では商品、価格、経営すなわち経済、事業、収益優先の傾向が生じる危険性が付随していることにたえず留意していなければならない。
ここ数年の間に、筆者は近畿の3箇所の生協での食品関連の自主規格基準の制定のための委員会に専門家の一人として参加したが、選ばれて委員となった理事、組合員主婦たちの活発な意見に非常に感銘した。家庭を預かり、育児に取り組む生活者としての、特に女性、母親としての食の安全に対する要望が生協運動の実務的な推進にとって如何に重要であるかを思い知らされた。日生協は会員生協の理事や役職員だけでなく、直接一般組合員の声を聞く機会をもっと頻繁に持つべきである。今回の事件は日生協が提供したCOOP商品によって発生していることを関係者は銘記するべきである。日生協こそが被害者の前で直接頭を下げるべき事態であったのである。
 3兆円の売り上げは大規模事業体日生協の独力によって実現したのではなくて、コープこうべやこーぷ東京などを含む、地方の大中小規模の生協の現場、売り場での組合員の日常的な買い物によって実現したのである。それは購買者としての主婦たちの日常的な生活要求の経済的な集約であるといえるだろう。
生協が生活現場の現実から乖離しないためには地域の生協の主体性を重視することが必要である。生協の大規模化、事業体化の弊害を防ぐためには生協の基本的な路線である組合員による運動と事業を両輪とする組織の発展を目指す必要がある。商品、事業に根ざした連帯ではなくて組合員の生活に基づいた団結こそが問われている。質の高い組合員の要求に支えられた生協であるために学習や教育を重視する組織であることが求められている。そのような地域の草の根的な生協の発展にしっかりと支えられているかぎり、全国的な組合員数や事業高の総計がどのように大規模化しても問題はないのである。
生協を取り囲む資本主義的な経済環境の中で実際に生き延びるためには、確かに経営、事業を軽視することはできない。生協が赤字を出して破産状態になれば組合員にすぐれた商品を供給することはできない。社会的な運動を維持していくことも不可能である。そのときにどれほど安全、安心を唱えてみても無駄である。事業に失敗すれば生協は消滅する。その意味において生協にとって事業は確かに不可欠であり重要である。
しかし生協は利潤を追求する企業のような事業体ではない。組合員が支持する限り購買事業に失敗することはない。問題は組合員の支持のあり方、支持の水準にある。組合員の信頼が得られる限り経営優先志向は必ず克服できる。小さくても地域の生協が健闘しているかぎり生協運動は不滅なのである。

9 この際女性役職員の増員を
日生協をはじめとして各地の生協でも常勤の理事役職員の大部分は男性で占められている。女性が生協の実務的な管理、運営の責任者として登用されている事例はあまり多くない。周知のとおり組合員はすべて女性であるといってもよく、生協ではこのような実務的に管理、運営するものとされるものの性的な偏向が今日でも温存されている。生協の主人公は組合員であるが、結局、その主人公が実務的に管理される存在として位置づけられている。周知のとおり、生協では総代会が意思決定の機関であり、そこで組織の方向性が決められる。組合員の意思はこの場に反映する。しかし問題はその総代会の決定を実行するための実務の実際にある。例えば食品の安全、安心の徹底という方針が総会できまったとしても、そのことを実務的に推進するための取り組みに問題があれば、組合員の期待に反した結果となる。実務的な運営、管理の重要性はそこにある。
 筆者が定年後に家庭の中にいる時間が長くなって痛感したことは、衣食住の生活が大きく女性、主婦によって支えられていて、男性の自分がいかに消費生活の実際に関して無知、無力であるか、ということであった。たとえば、食だけに限っても食材の購入、調理、食器の出し入れ、廃棄物の処理、整理、整頓、清掃というような一連の基礎的、日常的な生活作業について、男性である自分がいかに現実から遊離した、どちらかといえば、わかったふりをしている生活音痴とでもいうべき存在であるか、ということを痛感させられた。
 日生協では07年11月に「コープ商品の品質確保の取り組み」という20ページ立てのパンフレットを発行している。その内容は理論的には、ほとんど完璧といっても良いような水準の高さであり,COOP商品の安全、安心はいかにも疑いのないものとして書かれている。しかし皮肉なことに、このパンフレットの発行直後に発生した輸入ぎょうざ事件ではCOOP商品そのものによる被害が発生して、[COOPの商品も企業の商品も結局同じことなのね]などといわれるようになった。そして生協は中国の生産企業に直接ほとんど関与せず、輸入企業に安全管理を「丸なげ」していたのではないか、とまで批判されるようになった。
なぜこのようなことがおこるのか、それは今後の反省課題であろうが、ひとつだけいえることは、所詮そのみごとなパンフレットは役職員男性の発想で書かれたものであって大多数の組合員女性の認識からは遊離していたのではないか、ということである。たとえば06ページに「海外輸入食品について」というコラムがあり、そこには「自分の目で確かめる」と書かれている。もしもそのとおりであれば今回のようなCOOP食品による被害は発生していなかったはずである。生活感覚が抽象的、観念的になりやすい男性の発想ではCOOPの輸入食品には問題がない(はずだった)のである。
しかし生活感覚が現実的、即物的で鋭敏な女性の発想では、はたして日生協の職員が外国の生産工場に行って実際にどのような監視活動をしているのか、中間の輸入企業の安全管理はほんとうに大丈夫なのか、あるいはこれらに企業に全面的に依存しているのではないか、などという素朴な疑問が容易に生じるはずであり、結局、日生協はこのパンフレットの作成に当たって、女性、組合員の認知、承認、ダメ押しが得られるような重要な過程をほとんど踏んでいなかったのではないか、といわざるをえないのである。
「生協は少数の男性役職員による大多数の女性組合員の支配のための組織である。」などと悪口を言う手合いがある。しかし、もしもそういわれるようになるような悪しき風潮が現実に少しでも見られるのであるならばこの際猛省を要するだろう。
重要なのは常勤役職員の少なくとも半数に女性を登用して、常勤理事会での、実務的な段階での基本的な論議が生活感覚から遊離していないような、緻密で生活実感に裏付けられた原案を提起することである。そのうえで、十分に論議し、決定し、実行する。そのような本来の生協らしい組織運営の推進を目指すべきである。
繰り返しになるが、生協の組合員である大部分の女性は、子を産み、育て、衣食住をあずかり、家計をやりくりして、生協の正式名である消費生活協同組合の「消費生活」のまぎれもない当事者であり専門家なのである。

10 国、自治体に対する要請行動の強化を
こうした状況を打破、改善するためにこそ生協では購買機能と並んで運動機能が重視されてきた。この点がスーパーの顧客と生協の組合員とでは本質的に異なっている。生協では運動や要請活動を可能にすることが出来るためにも購買事業活動の成功が必要である。生協とはそのような組織である。
80年代から90年代にかけての生協は事業と運動の両立のために精力的に取り組んだ。そして結果的に今日のような事業と組織の大規模化を実現させた。
しかし今日ではそのような大規模化に伴う問題点が噴出するようになっていることを自覚せねばならなくなった。紛れもない安全、安心のCOOP食品であったはずの輸入ぎょうざによる食中毒事件はそのような諸問題の象徴的な事例であった、ということができる。この事件は生協にとって今後のあるべき姿を真剣に検討することの必要性を示したものと受け取るべきである。
生協は「一人は万人のために、万人は一人のために」存在する生活者の組織である。自分ひとりだけがよければよいような組織ではない。この事件を頂門の一針として、新しい世紀の初頭にあって、役職員、組合員が一体となって食の安全、安心を目指した生協の変革と発展のために取り組まねばならないだろう。(完)


(08年02月07日) 生協はこれでよいのか
−中国産輸入ぎょうざ食中毒事件に関して−
藤原邦達


今回の中国輸入ぎょうざ食中毒事件では生協のCOOP商品でも被害が発生した。これまで安全、安心を標榜して大きく発展してきたこの組織に対する信頼が傷ついて、生協は今非常な困難な状況におかれている。
今日では主婦の間に「生協も普通の企業と同じなのね」というような会話が飛び交うようになっている。
なぜこのような事態が発生したのか、どうすれば生協はこのような状況を抜け出すことが出来るのか、ここに若干の考察を試みることにする。

この問題を考える上で、はじめにそもそも生協とはどのような組織なのか、ということを理解しておくことが必要になる。
 生協の歴史的な由来についてはここには触れないが、一般に「一人は万人のために、万人は一人のために」機能するための組織体であり、したがって特に商品の品質管理には古くから厳しい対応が行なわれてきた。

更に具体的にいうならば、生協とは次のような組織である。
(1) 生協は消費者、組合員の要求、たとえば安全、安心を追及するために活動する組織体である。同時に、そのような理想を実現するための、失敗することの許されない事業体でもあるといえよう。
(2) 生協には、自らの組織体としての実体を取り囲む資本主義社会の中で、さまざまな困難を乗り越えながら、事業体としても生き残るために試行錯誤を重ねながら存在することが求められている。
(3) 生協は企業ではない。組合員の出資金によって運用され、企業のような株主もいない。利潤追求は行わない。事業による収益は完全に組合員に還元される。
(4) 生協の方針、政策は消費者組合員の厳格な一人一票制のもとでの民主的な総意によって決められる。

今回の中国産ぎょうざによる食中毒事件では、以上のような本質を持っている生協が、その規模の拡大から生じた消費者の多様な要求にこたえるために輸入ぎょうざを導入したことによって被害を発生させることになった。
生協が従来の国産食品の育成、愛用の方針を堅持する中で、たとえば自給率40%といわれるような、わが国の異常な現実をふまえて、選別された一般企業の商品や輸入食品を組合員に供給する方針を採用せざるをえなかったことに注目せねばならない。
中国産ぎょうざによる被害や社会的混乱は深刻である。この際生協は被害を受けた組合員に陳謝せねばならない。同時にJTなどの関連企業とともにこうした事態を発生させたことについての責任を痛感すべきである。そして同時に二度とこうした事態を引き起こさないために、いったい現状のどこに問題があったのか、今後どのように対処することが正しいのか、ということについてこの際真剣に考えることが求められている。

以下、取材側(朝日放送)の質問事項に即して述べることにする。

Q1 生協はこれまでどのように安全安心を担保してきたか

A1 生協が戦後、安全、安心の旗幟を鮮明にして、消費者運動を先導し、あるは、下支えしてきたことについては、周知されているので改めて言うことはない。
戦後から一貫して問題になってきた食品添加物、農薬による食品の汚染を防ぐために、国や自治体に対する要請を強化し、自前の商品の供給に際しては行政の規格基準よりも厳格な自主規制を行い、研究者の協力を得て独自の総量規制の原則の下で、食品に対する化学物質の汚染を最小限にする運動を実施してきたことはよく知られている。輸入食品に対しても、国の検疫体制の強化を要請し、安全、安心な食品の確保のために尽力してきた。そのために、以下のような実践がなされてきた。
(1) 全国各地の生協では、食品の安全、安心確保のために、国や自治体の規制水準を上回る独自の規格基準を制定し、運用してきた。
(2) 供給商品の安全確保のために、品質保証体制を重視し、各都道府県の生協では独自の検査室や検査センターを設置して機能させてきた。全国の生協での検査担当者の総数は300名を越す規模に達しており、これらの検査機能の全国的な連帯による安全、安心の確保のための取り組みが行なわれている。
(3) 生協総研、学者懇談会,Zリスト(食品添加物規制)委員会などを設置して研究者の協力を得るための取り組みが行われている。
、 (4) 運動面では、各地の市民、消費者による消費者団体連絡組織の中核として生協は活動している。行政に対する要請を強化する中で、最近では国会での食品安全基本法の制定あるいは国の食品安全委員会の設置を実現するために貢献したことも周知されている。

Q2 組合員が増加していく中で、商品開発や商品検査の分野に変化が出てきたか。とくに一般企業の商品や輸入食品を導入するようになって安全管理面で変化がでてきたか。

A2 以下の面で大きな変化が認められるようになった。
(1) 加入する組合員が増え、500を越える購買生協が誕生し、生協の組織が大規模化することによって、多様で多数の組合員の要求に対応せねばならなくなった。今日我が国の生協の組合員総数は2500万人を越え、売上高も3兆円を上回るようになっている。
(2) 特に食品の分野では、国産食品の自給率が異常に低い中で、輸入食品や企業経由の一般食品の導入を必要とするような情勢が生まれてきた。すなわち多様な商品の安全性の確保が求められるようになっている。
(3) したがって安全、安心の確保のために商品の開発、流通、供給に当たっての品質への配慮や商品検査の必要性を重視せねばならなくなっている。、
(4) 生協の組織内での努力には限界があり、組合員が生協の商品だけで生活しているわけでもない。従ってグローバル化の進行に伴ってテ一般に、国の食品食料政策、特に検疫、検査、監視機能の充足を求めることが必要となり、そのための運動を強化せねばならなくなっている。

Q3 生協は以上のような環境情勢の大きな変化に今後どのように対処せねばならないのか

A3 今回の中国産ぎょうざ事件は生協が前項で示したような大きな環境情勢の変化に十分に対応できていなかったことのまぎれもない証左であった。現時点において、大きな反省を必要とすることは明らかである。
 その上で以下のような対策を緊急に実施せねばならない。
(1) いっそうの組合員の安全、安心についての意識向上につとめる。
安全、安心の確保のための、学習、教育体制の確立、強化が基本的に必要である。この際従来を上回るようなエネルギーの盛り上がりが期待される。
実際、生協の大発展期であった1980年代などに比べると、最近の生協での学習、教育活動は低調であることは否定できない。とくに若い世代の学習参加が困難な事情をどうするかが問われている。
 学習教育活動の進展によって、安全、安心意識の向上と食生活の質的向上がはかられ、食品の安全、安心に関る社会的体制確保のための運動が活性化されることになるだろう。
 組合員の意識が向上することによって、誤った大規模化至上主義やコスト優先主義、などが是正されるような、いわば内部的な自浄作用の増大が期待される。このことは安全、安心の生協の本来のイメージの回復につながるだろう。
 今回の事態をふまえて食料の自給率の回復、地産地消、国産食品の優先利用、などの従来の政策にさらに拍車がかかることが期待される。
 また組合員の食生活の見直しがすすみ、飽食、美食、残食などの誤ったあり方が是正され、いっそうの安全、安心指向が顕在化して、それぞれに政策に反映されることも望まれる。
(2) 品質管理体制の充実に努める
 今回の事態にかんがみて、品質保証に関わる部局の機能をいっそう活性化する必要があることがはっきりした。従来対応が不完全であった加工食品の安全管理体制を充実せねばならない。特に各地域の生協の現場で品質検査室を整備し、検査要員を増やして、水準の高い管理マニュアルを作成し、検証能力を充実して、組合員の目に見えるような具体的な対処がなされることが望まれる。
日生協への依存傾向を戒めて各地域の生協での品質保証機能の向上に努め、相互の連携を強化し、情報の流通を活性化して今回のような事態を未然に防止することを可能にせねばならない。
(3) 行政に対する要請を強化する
 たとえば輸入食品の安全、安心の確保のための企業や生協の取り組みには限界があり、国や自治体の法的、行政的な体制の整備を基本的に必要とする。その意味での消費者組合員の要請活動が強化されることが絶対に必要である。

 今回の中国産ぎょうざ事件には現在のところ犯罪的な色彩が濃厚であり、完全に予防することは非常に困難であったことは事実であろう。しかし、輸入、仕入れ相手方の選別、輸入後の外箱開封後、陳列直前の時点での商品の観察、点検によって外装の異常が発見された可能性もある。また組合員の購買時での異常の発見と届出を奨励し、クレームなどの緊急情報の全国的な周知のために日生協の果たすべき役割も強化されることが期待されるだろう。
 生協が消費者の食生活の安全、安心確保の要であるためには、なすべきことが非常に多い。今回の事件はその意味でも非常に多くのことを教えているといえよう。(完)


 
(07年10月23日)赤福は直近の不二家問題から何を学ぶべきであったのか


赤福事件の最新の報道では、赤福本社が、商品の再使用をやめたのは一月に不二家の偽装問題が発覚したことに危機感をもったからだとする主旨の説明をしているという。
そこで本当に不二家問題から何を学ぶべきであったかを以下に示しておこう。
なお以下に示す小論は「食べもの通信」誌の6月号に掲載されたものである。

不二家問題から学ぶものは

藤原邦達


今回の不二家の事件は単なる表示の偽装に止まらず、安全確保体制の杜撰さを示すものであり、特にこの企業が原料として卵やクリーム類を多用することを考えると、このままの状況を放置しておいた場合には、近々食中毒被害を発生させる可能性があったことは明らかだといわねばなりません。
こうした事態を発生させることになった理由としては、この企業の、特に経営責任者の、製品の安全性確保についての、
@ 認識の不足
A 社会的趨勢の軽視
B 消費者の期待への無関心
C 同業他社の規範や体制整備の事情などへの調査の不足
などが基本的に指摘され、
したがって、安全性に関わる、
@ 体制整備の不徹底
A 安全関連予算の支出不足
B 社員教育の低調
などの諸事情の発生があったと思われます。
特に不二家の場合には、幼児用食品の代表的なメーカー として、著名なマスコットネーム等に恥じないためにも、表示や安全性の確保には特別の自覚が必要とされていただけに、今回の事態が社会的に大きく注目されたのも当然のことでありました。
 2000年には雪印食品の低脂肪乳食中毒事件が発生し、2002年には同じ雪印食品の牛肉表示偽装事件が発覚して大きな社会的反響を呼びました1。不二家はそれらの教訓を全く学んでいなかったといえます。結果的にこのような事件を引き起こして、再起不能に近い経営的な危機を発生させ、全国のフランチャイズ関連各企業を含む多数の職員やパート従業員を路頭に迷わせかねないような事態を招いてしまったのも雪印の場合と全く同様でありました。
 この際、すべての食品関連企業では、このような事件が発生した理由を自らの社内事情にあてはめて厳しく考察、検討し、至急に体制的、組織的な欠陥を補正することが必要です。
@ 法令の遵守
A 社員教育の徹底
B 社訓、社是と営業マニュアルの確立と遵守
C 施設、備品の整備
D 安全関連予算の充足
などが優先的に実施されることが求められます。そして何よりも消費者の信頼を確保することの出来るコミュニケーション能力のレベルアップに全力をつくす必要があることはいうまでもありません。(完)

老舗赤福が不二家問題から学んだものは、本質的には何もなかった、といえる。かえって関連書類を破棄して、証拠の隠滅をはかるなど、悪質な立ち回りに終始したのではなかったか。赤福300年の歴史に照らして恥ずべきことである。


07年10月22日

「赤福」事件を受けて、食品表示偽装問題を考える

藤原邦達(食品衛生学・医博)


 2002年1月の雪印食品、同6月の日本食品、7月の日本ハム、04年のハンナン、07年になって1月の不二家、6月のミートホープ社、7月の丸亀三豊社、8月の石屋製菓(白い恋人)の表示偽装事件、9月の宮崎(うなぎ)その他の各地の企業での産地偽装事件などの後を受けて、10月12日には老舗「赤福」による製造年月日表示偽装事件が発覚した。その後の詳細は報道に示されているとおりであるが、ここでは、これらの多数の事例を通しての、率直な印象と総括的な問題点、対策などについて指摘しておくことにする。

1 赤福問題発覚時点での率直な印象
(1) 偽装事件の性懲りもないくりかえし、またかの感慨
(2) こうした杜撰なやり方で、よくぞ食中毒が発生しなかった。
(3) 名門、老舗企業のおごりなのか、社是「赤心慶福」の皮肉
(4) 食品業界のモラル低下の実感ここにきわまる。
(5) 事件関連企業の経営者には弁解とうそが多すぎる。
(6) 氷山の一角、他も押して知るべしなのか、という疑惑と懸念の発生
(7) 消費者の不信感と怒りは極限に達している。しかし馴らされるよりもましかもしれない。
(8) このままでは中国をはじめとする他国の食品事情を批判できない。現状はまさしく国家的な恥辱そのものである。

2 食品偽装事件の問題点
(1) 当該企業にみられる問題点
1) 経営者と役職員の姿勢
* 同族、老舗経営への安住
* 社内で提起された問題の放置と無視
* 内部告発に到るまでの無為、無策
* 社会的責任とコンプライアンス意識の希薄
* 食の安全についての時代的認識の欠如
* 今日的な消費者ニーズへの無知
* 最新の安全管理システムと社内学習体制構築への無関心
* 食品衛生管理者制度の軽視
* 調査、検査、監査体制整備への無関心
* 行政、保健所などとの日常的な連携の不足
* 他社の事例を他山の石としていない。
* 露見すれば経営危機を招くことへの認識の不在

2) 当該企業の職員と職員組合の姿勢
* 内部告発以前の社内論議と交流調整の不足
* 社内安全体制の構築に関する経営者への要請の弱さ
* 食の安全、安心問題に関する学習の不足
* 老舗、同族経営などの保守的社内風土への埋没

3) 関連業界団体のありかた
*  同地域、同業者の組合、団体、協会などでの加盟企業への食の安全体制構築のための指導、助言、学習活動などの不在
(たとえば地域の食品衛生協会や酪農組合などの対応のありかたが問われている。)

(2) 食品関連行政の問題点
 * 保健所、食品行政、農水関係職員の職務意識の不足
(内部告発者などへの対処のあいまいさ、知らないふりをしていて積極的に動こうとはしない。21日の朝日新聞によれば、赤福の場合、3年前に大阪市への偽装疑惑の調査依頼があったという。)
* 食品企業に対する日常的な調査、検査、監視、指導体制の不完全性の放置
* 食品衛生監視員、農水行政職員などの人員の決定的な不足
(監視回数が法定数を下回ることが常態化しており、農水省関係には厚労省の食品衛生監視員に相当する食品監視のための役職は存在しない。)
* 予防体制の不在、事後処理体制の温存
* 営業停止などの行政権限行使への逡巡
 続発する偽装事件が単なる経済事犯であるかにみなされて、国や自治体の政治や行政当局が抜本的な対策に乗り出す積極的な姿勢を見せていないことは問題である。食の安全、安心に関わる不信感の社会的な広がりは決して放置されてもよいことではない。

(3) 食品関連法規の問題点
1) 表示監査制度確立の必要性
2) 表示監視員制度新設の必要性
3) 原材料、中間製品、最終製品についての表示義務を整備、確立する必要性
4) 罰則強化の必要性
(現行の罰則は軽すぎて再犯防止のためにはほとんど役に立っていない。)
 企業の自由裁量に任されている現行の賞味、消費期限設定方式を改めて、食品表示全般に関する行政の認可、調査、監査、監督権限を抜本的に強化することが必要である。

(4) 消費者のあり方に関する問題点
 類似事態の再発、繰り返しを許さないために、
1) 食品の安全、安心を最優先する考え方を徹底する必要性
2) 消費者による自主的な表示監視の必要性
3) 問題企業に対する不買運動提起の必要性
 あきれて、驚いて、怒っているだけではいけない、結局は消費者が立ち上がって、当該企業に対する不買運動を展開するまで徹底してやらないと、この種の問題の再発は防げないのではないか。

3 対策
(1) 表示偽装商品の安全性の点検
 偽装を行うような、杜撰な商品管理を行っている問題企業では、当該製品に起因する食中毒の発生が危惧される。たとえば売れ残りの商品を再利用したような場合には細菌数が異常に増加していて、安全基準を越えるような場合がおこりうる。
(21日の報道によれば、赤福では、店頭の売れ残り商品を回収して、あんともちに分け、一部は冷凍しないで再利用していたという。20日の記事では製造年月日を翌日付にすることがあったとされている。)
1) 当該企業のすべての商品の食品衛生水準の緊急点検
2) 当該企業の食品衛生検査、調査、監査体制の緊急点検
(2) 上記2項で指摘された多数の問題点の克服、是正と対応の必要性の確認および当該企業、国、地方自治体の行政にとって必要な対策の実施>BR>
(3) 企業、行政と消費者のコミュニケーションの確立
(4) 第三者社外委員を加えた食品安全監査委員会を社内に新設する
。 (5) 同業他社の商品表示、安全管理体制に学ぶ
。 (6) 問題発生企業での従業員の生活を保全するために尽力する。

4 結語
類似事件の再発を防止するために、関係者は全力を傾注して対応せねばならない。とりわけ食品関連企業には社会的責任を痛感して社会的使命を遂行するために努力することが強く求められている。
表示偽装問題に見られる企業の経営姿勢の弛緩、欠陥は、本文に示したように、最終的に食中毒事件などによる消費者の被害に直結することにもなる。食の安全、安心を確保することは国家的、国民的な威信をかけた究極のテーマであり、特に政治、行政の今日的な重要な課題のひとつでもあることを忘れてはならないだろう。(完)


(07年6月27日6
ミートホープ社の食肉偽装事件を考える
藤原邦達


(東京新聞に一部掲載)

1 率直な印象をいえば
 昨今、ミートホープ社による、およそ食品にかかわる偽装、欺瞞などのあらゆる不正行為が次々に暴露されて報道されつつある。この企業が行った数々の不正の内容にはまったく呆然とさせられるばかりで、怒りさえ忘れてしまうほどである。特にこの企業の責任者である社長の行為や発言はわが国の食品衛生史上類例の無いほど低次元で悪質なものであるといえるだろう。
 今日、わが国では、中国での食品汚染や同国からの輸入食品の表示の偽装などを非難する論調がまかり通っているが、今回わが国でミートホープ社のような企業が長年にわたって存在し、一流のスーパーや生協の商品までもが偽装されていたとすれば、他国のことをあれこれといえないことも明らかになった。

2 行われていた事実の本質
表示、品質偽造はもちろん、それ以前に素材自体の偽造が行われていた。鶏、豚などの利用、着色、牛肉への偽装が巧妙に行われて、プロであるスーパーや生協でも見抜けなかった。ミートホープ社はまさしく食品業界のプロを欺く超プロのテクニシャンであったといえる。しかも偽装が問題化した場合の苦情処理のための保険までもかけていたということにはまったく驚かされる。この偽装保険とでも言うべきものはおそらくわが国での最初の食品犯罪事例であったといえるのではなかろうか。

3 7年前からの偽装行為
 ミートホープ社の偽装行為は7年前から行われていたという。(6月22日、北海道新聞)また、本日付(6月26日)の朝日新聞によれば実は24年前から日常的に不正を行っていたという。これは2000年、2001年当時に、同じ北海道で発生した雪印乳業の食中毒事件や雪印食品の牛肉偽装事件などの教訓や当時の厳しい世論をこの企業がまったく学んでいなかった、むしろ完全に無視していたとしかいいようがない。(参考、藤原邦達著「雪印の落日」緑風出版刊、2002年)最近の不二家の表示偽装事件の教訓もまったく生かされていなかった、ということである。

4 酪農地域である北海道でのくりかえされる偽装
 またしても北海道の酪農企業での偽装事件であったことに、ショックを感じる。これは酪農王国北海道の名誉にも関わることである。今後北海道の行政や業界、道民は信用回復のために相当に努力せねばならないだろう。

5 当事者企業の問題点
(1) 風通しの悪い社内風土
 社長の独断、鶴の一声ですべてが決まり、他方で内部告発者が存在し、補正、正常化機能が全く働かなかった事実に注目せねばならない。
(2)チェックシステムの不在
食品衛生法では食品企業には食品衛生管理者を置かねばならないことになっている。この企業では食品衛生管理者の権限が社長によって無視されていた。また社内的なチェックシステムが不在で、不正を予防し、不正を回復することができなかった。
 とくに今後、最高責任者としての社長や役員のありかたについての検証が必要となるであろう。
(3)倫理観の欠如
 ミートホープ社での、社長だけでなく、不正を日常的に実行していた関係従業員をふくめて食品企業としての倫理観が全く欠如していたことは疑いようも無い。その手口はあまりにもあくどいものであった。
(4) 法令の無視、コンプライアンスの不在
 JAS法や食品衛生法などの法令が無視されていたことは明らかである。社長の責任も明確である。企業でのコンプライアンスの尊重などという最近の世論の動向にも無関心であった。大手企業や生協などに原料製品を供給するミートホープ社のような基幹企業のありかたが非常に大きな影響を及ぼすことを思い知らされた。
(5) 同業、関連他社への背信
 関連する同業各社の商品の賞味、消費期限や品質表示などの正確性が疑われる事態は避けられない。今後当分は加ト吉や生協の商品の品質に関する信用は回復しないであろう。
(6) 消費者への欺瞞、裏切り
 この社長は自社の消費者への欺瞞行為を棚に上げて、「少しでも安い買い物をしようとする消費者にも問題がある」などと語っている、消費者の権利を尊重しようとする態度が全く見られない。

6 農林、食品衛生行政の問題点
(1) 農政の出先機関への通報の無視、あいまいな処理
 一年前、一説では7年前から、一部役員などによる内部告発が農政局の出先機関に対して行われていたが、行政側はとりあげなかったといわれている。雪印事件の教訓から企業の内部からの告発を重視すべきであるという世論が厳しくなっていた中で、今回の事態はまったく理解しがたいことである。今後詳しく行政側の不作為に関する事実調査が行われるべきである。
 告発がうやむやにされた、という説以外に、立ち入り調査を行ったという説もあるが、いずれにしても犯罪行為は見抜けなかった。また農水省が調査を依頼した文書を道庁側では受け取っていないといっているがこれも全く奇怪なことである。
(2) 食品衛生行政当局の機能の空転
本来は農政側が食品衛生当局と連携して、農林職員や食品衛生監視員などによる調査、検証を直ちに行うべき事態であったのに、それをしなかった。結果的に、蓄肉類での偽装処理であっただけに、このまま放置しておけば食中毒事件に発展する可能性もあったことに注目せねばならない。ここでも雪印事件などの教訓はまったく生かされていなかった。
(3) 監視、検査体制の不在
 7年間にもわたる長い期間にあって、さまざまなうわさが飛び交っていたといわれているなかで、この企業の商品の異常や不正を見抜けなかった行政の責任が問われる。日常的な行政側の監視、検査機能の不在、低調がこの事件でも指摘されねばならない。消費者はやはり保護されていなかった。

7 関連企業の問題点
関連企業は長い期間の間に、ミートホープ社の不正行為を本当に見抜けなかったのか、異常に気づかなかったのか疑問が残る。従業員からの情報も本当にキャッチすることができなかったのであろうか。
(1) 関連食品製造企業での不正行為の発覚
報道によれば北海道加ト吉の工場長が本来は廃棄すべき余剰コロッケをミート社に格安で販売していた。ミート社は安値で仕入れた上表示を書き換えて転売していた。道警は工場長が偽装牛ミンチと知りながら仕入れていた疑いがないかについても調べる方針だ、といわれている、(6月22日、北海道新聞記事)
(2) 食品販売企業、事業体での対応の不在
 全国の主要なスーパーや生協でもミートホープ社由来の製品を長期間にわたって販売していた。ここでもなぜ異常を見抜けなかったのか、疑問が残る。消費者は安全、安心を無視されていた。場合によっては食中毒の犠牲者にされていた可能性もある。全国的に商品を展開している企業は責任を感じないではおられないだろう。プロはプロらしく万全を期してもらいたい。

8 今後の対策のための提言
 現時点で最も重要なのは同種の事件を予防するための対策のありかたである。
(1) 原因と経過の正確な究明
 同種事件の再発を防ぐために、なぜこのような事態が発生したかが明らかにされねばならない。
(2) 行政の対応のありかた
 表示などの偽装を防ぐための関連行政の監視、検査体制が強化されねばならない。それ以前に農林と厚生行政当局の連携を強化する必要がある。具体的に予算や人員の増加が求められる。
(3) 同業協会、組合、業界の対応のありかた
 酪農関連の同業者、企業などの組合や食品衛生協会では、今回、傘下の企業での不正行為を業界として全く把握できなかった、したがって不正を予防できなかったことを反省せねばならない。今後、同種事態の再発を防ぐための具体的な対策が打ち出されねばならない。
(4) 検査、監視体制の実効性の確保
 国、自治体、企業、生協などでは従来食品添加物や農薬などの検査に重点がおかれていた。したがって今回のような事態を見抜くことができなかった。今後は素材自体の偽装、偽和を見出すためのDNA検査などを必須、義務的なものとして安全確保のためのマニュアルの中に取り入れねばならない。
農水省、厚生労働省はこの際酪農製品などの全国規模でのDNA検査を実施するべきである・
(5) 従業員の生活保障
 ミートホープ社では早速、26日付で全従業員を解雇したと報じられている。社長、役員の不正の犠牲者として路頭に迷わねばならない従業員があることを放置していてはならないであろう。
(6) 罰則の強化のための立法処置の必要性
 現行のJAS法、不正競争防止法、食品衛生法等の違反に対する罰則は軽すぎる。企業倫理の重視がいわれるなかで、同種の不正行為が一向に後を絶たない現状において、コンプライアンスの徹底を期するためには、罰則を強化するしかない。
(7) 消費者による監視の強化
 最終的に、食品を購入し摂食するのは消費者である。安全、安心を確保するために消費者は今回のような事態を決して容認することはできない。消費者の権利は擁護されねばならない。消費者の行政や企業に対する監視や発言を強化することが必要である。
 内部告発によって明らかになった今回のような事態はまさしく氷山の一角にすぎないのではないのか、とする、わが国の食の安全体制を基本的に揺るがすような不信感が定着することを防ぐために、この際消費者もまた改めて食の安全、安心確保のために真剣に取り組むことが求められている。(完)


(07年6月24日)食の健全性の確保と生産者、食品企業の役割

(アジェンダ誌07年6月号に掲載)
 藤原邦達


 食の安全確保のために生産者や食品企業が重大な責任を有していることはいうまでもない。しかし食の安全は食の健全性の一部分であり、食の安全を完全に守るためには、社会的、構造的に国民、消費者の食の健全性を確保することが重要であり、そのためには生産者や食品企業の努力だけでは足りないことも明らかである。従ってこの小論では。はじめに食の健全性に関わる基本的な課題と現状での問題点及び対策のありかたについて考察し、その上で食品の生産、加工、販売にあたる企業が食の安全性を守るためにどのような役割を果たすべきかを考えることにする。

T 食生活の意義と現状での問題点の確認
1 食生活の意義と安全性の位置付け
 食生活は、人の、@身体の素材を提供する、A活動のエネルギーを提供する、B人間関係の構築に寄与する、C文化、風土の形成に役立つ、という基本的な意義を有している。
人の食生活の健全性を確保するためには、@栄養、A衛生、B安全が総合的に確保されていなければならない。さらにC嗜好、D経済などの要因も重視されねばならない。このような人の存在や活動にとって重大な意義を有する食生活は基本的に安全であり、安心できるものでなければならない。
2 食生活の現状での問題点
(1)問題状況が存在している
 前項において示したような基本的な意義を有する食生活の今日的な状況の中に以下に示すような多数の問題点が色濃く認められるようになっている。これらを正しく認識して、適切に対処することが求められている。
1)食の供給者での誤食の状況
 1に示した食の健全性を逸脱する場合を誤食と呼ぶことにするが、今日、我が国では食の供給者である生産者、食品企業において以下のような誤食の状況がひろく認められるようになっている。
@ 法規、条例の軽視と違反、A表示の偽装、B食品添加物の多用、C農薬、重金属、問題化学物質による汚染、D細菌、ウイルスなどによる汚染、さらに最近では、E遺伝子組み換え食品やBSEなどでの容疑事例なども問題にされるようになっている。
2)食の消費者での誤食の状況
他方で国民、消費者の場合には以下のような事例が認められるようになっている。
?飽食、?美食、?残食 C偏食 D孤食、E欠食 
 一部の地域や民族、難民たちが食料の不足、飢餓的状況にあることを知りながら、あるいは道義的、倫理的な観点から明らかに望ましくないような飽食、美食、残食などの実態が一部に見られる。あるいは医学的、栄養学的に問題があるような偏食や欠食の形態が次第に広がっているような我が国の現実を直視せねばならない。他方で、人間関係の形成と深い関係にある食生活が孤食、個食の様式をとるような傾向が見られることにも注意せねばならない。朝食を食べないで登校する発育期の子供たちも相当の割合にのぼるといわれている。
(2)問題状況を放置するとどうなるか
 食生活は人の数ある営為の中で、最も日常的、長期的、反復的に続けられねばならない基礎的な必須の営みである。だからこそその食生活に社会的、経済的、あるいは家庭的、個人的に、前項に示したような誤食の状況を形成させることによって、必然的に、容易に、@心身の維持や発育の阻害、A活動力の低下、B知能の発育不全、C心理的不安定、D生活習慣病などの疾病への接近、E食中毒、食品被害などの否定的な状況が発現することになる、
  食品の生産、保存、輸出入、輸送から販売に関わる生産者、食品関連企業によって、食品の品質の劣悪化、表示の偽装、情報の捏造が行なわれた場合には、人の被害、危害の前提条件をつくることになる。
食品を単なる利潤追求のための媒体とみなすことは許されない。生産者、食品関連企業は基本的に以上に示したような誤食の状況を助長、拡散させるような役割を果たしてはならない。

U 誤食的状況が発生する原因と対策のありかた
 誤食的な状況、すなわち食生活の欠陥について対策を講じる場合、それらの欠陥を生じせしめる原因、理由を正確に把握しておかねばならない。
1 誤食的状況が発生する理由
(1) 国や自治体が本来の役割を果たしていない
 食品の生産、加工、販売、利用に関わる国や自治体の法規や条例が適正、周到でないことによって、あるいはそれらの法規を遵守、執行する責務を有する行政の対応に問題があることによって食品に起因する被害や異常が発生する。特に食の安全に関わる対処のありかたは科学の進歩や時代の要請に即して適切に定められていなければならない。国内に止まらず、国際的な輸出入を含めて、食をめぐる社会的、経済的な状況が数多くの問題を発生させ、その状況の変化に即応できないことによって問題はさらに深刻の度合いを加えることになる。
(2) 生産者、食品企業の対応が不当で不公正である
 農畜水産物の生産者や加工、製造、輸出入、販売に当たる食品企業が食品を利益追求の媒体と見なしたうえで、品質、表示の偽装を行い、消費者を欺瞞する、あるいは行政的な規制、規格、基準を無視、軽視することによって問題が発生する。たとえば農薬や食品添加物を違法に使用した食品や汚染物質を含む食品などの事例が多数見られてきた。
(3)マスコミの対応に問題がある
最近では商品情報面での一部のマスコミの対応に問題事例が散見されるようになっている。効果効能などの過剰な強調や時には捏造、操作によって、たとえば、通販、広告、映像などでのフードファディズム的なコマーシャル効果を狙うような場合が認められるようになってきた。テレビやインターネットの普及に伴う粗悪な情報の氾濫によって、正確な食品情報の選択がかえって困難になりつつあることにも留意せねばならない。
(4)家庭的、家族的状況が変質してきた
食生活の主要な現場である家庭自体や家族の状況も時代とともに大きく変化して、健全な食生活を維持するのが困難になってきたことも認めねばならない。たとえば。家族の食生活の質的水準をレベルダウンさせている要因として以下のような事情をあげる事が出来る。
@ 食意識の軽視、A食管理者の多忙、B調理技術の低下、C家族関係の希薄化、E食情報の氾濫、F外食の普及
質の高い食卓環境を形成する家庭、家族での責任者である父母、とくに主婦の共働きを含む社会参加が当然のこととなった事情も考慮せねばならなくなった。高齢化、核家族化が進行して、地域的な食文化や調理技術の伝承も困難、不完全となり、いわゆるおふくろの味も次第に失われる趨勢にある。またその功罪は別としても、氾濫する加工食品、調理済み、半調理食品の利用の普及が関連していることも事実であろう。
 食卓をかこむ条件の変化の中で,個食、孤食のような現象が現われたのは時代的な家族の人間関係の変化に起因していることは明らかである。放置しておけばそのような問題事例が増加していくことは避けられないだろう。
(5)食教育が目的を達成していない
 食生活の健全性を維持するための社会的な仕組みや取組みを正常化することを目指した教育的な状況が不完全であることが指摘できる。国民世論の形成はいうまでもないことだが、具体的には生産者、企業での規範意識を高めたり、科学的な対処を求めたり、家庭での食生活の重要性を定着させるための社会教育や学校での家庭科教育のありかたなどを再検討する必要がある。特に小中校での学校給食が健全な食生活のための教育的な現場としての役割を十分に果たしているとはいえないことを反省せねばならない。
2 現状での被害、影響、問題事例
 家族、個人では食中毒事件の犠牲者となることがあり、企業が食品化学物質の使用を偽り、あるいは誤り、結果的に食品汚染や化学公害事件を発生させた事例も多数ある。最近では遺伝子組み換え食品の利用をめぐる問題や環境ホルモン、PCB、ダイオキシンなどの汚染課題が多発し、他方でBSEの病原体として、DNAとは無関係に感染源となりうるプリオンのような高分子蛋白様物質の存在が指摘されるようになってきた。
 食品の品質を保証するための、産地、消費、賞味期限などの表示の偽装事件も続発し、今日的な課題となっている。
誤食的な状況の結果として、国民、消費者の場合にさまざまな被害、影響が生じていることも明らかであるが、とくに栄養学的な欠陥を主因とする生活習慣病の予備軍、あるいは患者が高い比率で存在していることも無視できない事実である。
3 対処のありかた
(1)食生活の健全性を守る世論と仕組みをつくる
健全な食生活を維持、確保するための社会的な対処のありかたは以下の3点に尽きる。@歴史的体験の重視、A健全な世論の形成、B食の健全性保持体制の確立
 一昨年には食の安全確保のために食品安全基本法が制定され、食品安全委員会が設置された。これに関連して、とくに、Bの安全性の確立については、1)リスクアセスメントシステムの実効性を高める、2)食品安全委員会のあるべきかたちを追求する、3)食品安全委員会の今後の取り組みのために(図1)の事項が重要である1。
昨年の国会では食育基本法が制定され、食育の重要性が再確認されたが、問題はこれらの法律の実践であり推進の実をあげることである。
(2)学校での食教育を充実する
生産者、企業の関係者や消費者、国民が健全な食の社会的な体系を形成し維持するためには、教育、学習に努めねばならない。学校において魅力ある家庭科教育を実践し、とりわけ学校給食の現場を活用することが望ましい。
(3) 家庭での食教育に重点を置く
 食育基本法では家庭教育の重要性を強調している。家庭は国民が健全な食生活を構築するための、プライマリーで基礎的な現場である。親子,兄弟、家族の最も緻密な人間関係の中で、健全な食意識が形成され、食習慣や食技能が定着する。また食品の品質に関心を持ち、安全に配慮する態度が定着する。そのためには親の責任が最も重く、家族の協力が必要であることは言うまでもない。乳幼児期にインプリントされた食感覚や食習慣は人の生涯を支配するといわれる。

V 食品の生産者と関連企業の対応のありかた
1 対応の基本的なありかた
生産者と食品関連企業には、国民、消費者と国、自治体とともにひろく食の健全性を維持するために貢献する社会的な責任がある。特に生産する食品での危害、偽装などに関しては、歴史的な体験を学習し、法令遵守の徹底はいうまでもないが、実務的には消費者、顧客の安全だけではなく、満足、安心を目指した技術、社是、営業マニュアル等の整備と社員への周知徹底が必要である。そのための社員教育と訓練を徹底するとともに、以上のような施策の実施に当たる予算の支出や社内機構、体制の整備に努めねばならない。先例に見られたような事故発生の代償が余りにも大きかったことを考えると、これらの予防的な対策を強化するのは当然のことであるといわねばならない。日常的な消費者とのコミュニケーションにも留意すべきである。叉地域の食品衛生行政との連携の強化も必要である。内外の安全関連情報の収集も欠かすことは出来ないだろう。
2 雪印乳業や不二家でみられた被害発生の例証
 おわりに、食品企業の安全確保にとって反面教師となりうる雪印乳業、雪印食品や最近の不二家の事例についてのべる。雪印の場合については拙著2に詳しく解説したが、最近になって発生した不二家の場合では、事件は単なる表示の偽装に止まらず、安全確保体制の杜撰さを示すものであった。特にこの企業が原料として卵やクリーム類を多用していることを考えると、そのままの状況を放置しておいた場合には、近々重大な食中毒被害を発生させる可能性があったことは明らかである。
こうした事態を発生させることになった理由としては、この企業の、特に同族経営に安住してきた責任者や役職員の、製品の安全性確保についての、@認識の不足、A社会的趨勢の軽視、B消費者の期待への無関心、C同業他社の規範や体制整備の事情などへの調査の不足などが基本的に指摘され、したがって、安全性に関わる、@体制整備の不徹底、A予算の支出不足、B社員教育の低調などの諸事情の発生があったと思われる。特に不二家の場合には、幼児用食品の代表的なメーカーとして、著名なマスコットネーム等に恥じないためにも、表示や安全性の確保には特別の自覚が必要とされていただけに、今回の事態が社会的に非常に注目されたのも当然なことであった。
なお企業にとって安全性の確保と関連するISOなどの国際標準規格の取得は望ましいことだが、不二家のISO取得工場で今回のような事態が発生したことは企業がISO取得などの格付けに安住して日常的な対策努力をおろそかにしてはならないことを教えている。
 2000年には雪印乳業の低脂肪乳食中毒事件が発生し、2002年には同じ雪印食品の牛肉表示偽装事件が発覚して大きな社会的反響を呼んでいた。不二家はそれらの教訓を全く学んでいなかったといえる。結果的にこのような事件を引き起こして、再起不能に近い経営的な危機を発生させ、全国のフランチャイズ関連各企業を含む多数の職員やパート従業員を路頭に迷わせかねないような事態を招いてしまったのも雪印の場合と全く同様であった。
 この際、すべての食品関連企業では、このような事件が発生した理由を自らの社内事情にあてはめて厳しく検討し、至急に構造的、組織的な欠陥を是正するために努力することが必要だろう。(完)


(07年2月28日)第3回 食の安全・安心を考えるシンポジウムでの基調講演の予告
―食の安全・安心を確保する社会システムの構築に向けて―
会場 滋賀大学彦根学舎  午後1時

基調講演概要
よりよい食生活をつくるために
講師 藤原邦達


1 食生活の意義を再確認する
(1) 身体の素材を提供する
(2) 活動のエネルギーを提供する
(3) 人間関係を構築する
(4) 文化、風土を形成する

2 食生活の5大要因に配慮する
(1) 栄養
(2) 衛生
(3) 安全
(4) 嗜好
(5) 経済

3 今日の食生活をどう見るか
 (1)誤食の拡散
  1)飽食
  2)美食
  3)残食
  4)偏食
  5)孤食
  6)欠食
 (2)放置するとどうなるか
  1)心身の発達阻害
  2)活動力の低下
  3)知能の発育不全
  4)心理的不安定
  5)生活習慣病への接近

4 なぜ欠陥が生まれるのか
 (1)社会的経済的状況
 (2)マスコミ的状況
   1)コマーシャリズムの弊害
   2)一点強調傾向の危うさ
 (3)家庭的状況
   1)食意識の希薄化、軽視、無関心傾向
   2)食管理者の多忙
   3)調理技術の低下
   4)家族関係の乖離
 (4)教育的状況
   1)家庭科教育の空白化
   2)学校給食の不活用

     5 現状には問題が山積している
(1) 生活習慣病
(2) 食中毒被害
(3) 安全課題
(4) 複合影響
(5) 食料危機

6 どう対処するかを考えよう
(1)歴史的体験を重視する
琵琶湖のPCB汚染 図1
(2)社会的な規制体制の充実
(3)食の安全保持体制の確立
 1)リスクアセスメントシステムの実効性を高める 図2
 2)食品安全委員会のあるべきかたちを追求する 図3
3)食品安全の今後の取り組みのために 図4

  (4)学校での食教育の振興
 1)魅力ある家庭科教育を
 2)学校給食を食育の場に
(5) (家庭での食教育の強調
  1)親の責任
  2)家族の協力
  3)早いほどよい
(6)生協、農協などの生産者、消費者のとりくみの重要性
 1)コープ滋賀の食品添加物自主規制
 2)JA滋賀の婦人部の生活改善活動

7 自分自身の食生活の欠陥を見つけて取り組もう
(1)最も身近にあるものの責任は最も重い。
  (2)若者と高齢者の食生活はこれでよいのか
  (3)取り組まなければ成果はあがらない
  (4)おいしく、楽しい食事づくりを
   1)調理技術の向上を
   2)食卓環境をよくする

8 食生活を正しく位置づけよう
(1)総合的な対応への自覚を
(2)睡眠、休養、運動も適正に
(3)人類社会の実情にも関心を
(4)環境、食料問題にも配慮を
(5)WHOの健康の定義をかみしめよう


(07年2月8日)不二家食品表示偽装事件その5

―食品企業は自社製品の品質格差を至急に点検せよ―

藤原邦達


品質管理に失敗して、世論、消費者の信頼を失った企業がどのような結果を招くかということについては、これまでに多数の事例があるが、特に食品関係企業が今回の不二家の事件から学んだ教訓は決して少なくはなかったと思われる。

1 不二家が再審査の結果、品質管理の是正を求められた事項とは
 不二家は経済産業省の指示に基づいて、自社の3工場が取得していた国際規格ISOの認証についての再審査を受けた。同社としてはこれに合格して製造再開、経営再建への足ががりにしたいという思惑があったと思われる。しかし次の7項目についての是正報告を求められ、認証は保留された。
(不二家の1月31日発表、朝日新聞2月1日記事による)
(1) 管理責任者の権限が不明確。従業員と意思疎通が図られていない。
(2) 不良品が適切に処理されていない。
(3) 品質マニュアルを含む文書管理、記録に不備がある。
(4) 従業員教育が不十分
(5) 取引先の選定基準があいまい
(6) 製造工程の検査態勢が不適切
(7) 内部監査が徹底されていない。

2 ISO國際認証の是正要求事項を重視する
 以上のように、ISOを取得していた不二家の工場が再審査の結果非常に重大な品質管理関連の事項で不合格、再検討を求められたという事実は、ISO取得企業であるからといって無条件に信頼することが出来ない、ということを意味している。結局はその企業の地道な自社管理の実態こそが問題なのであって、ISOのレッテルをまるで優良品質の証明のように使っている企業を信頼してはならないことを教えている。今回の事態は國際認証審査機関の側としても、各企業にISO取得後の定期的な再審査を義務付ける必要がある、ということを示している。
 今回の不二家の表示偽装が発覚していなければ、不二家はISO取得の優良格付け企業として、そして食中毒などの大事故をおこすまで平然とまかりとおっていたことであろう。恐るべきことである。

3 自社の実態についての再点検を急げ
 この際ISO取得の有無に関わらず食品関連の企業としては以上の7項目に関して至急に自社の実態を調査点検するべきである。他社との間に大きな品質格差を残したまま漫然と営業を続けておれば、いつか必ず以下の3つの場合において、製品に起因するトラブルが発生して大きな打撃をうけることになる。
(1) 内部からの告発による問題の浮上
(2) 外部からの摘発による問題の発覚
(3) 製品による食中毒などの事故の発生
 今日の社会では、社内情報といえども完全に隠しおおせるとは限らない。特に食品関連企業の場合には社内管理の欠陥がその商品に刻印されて社外に出る。このことは雪印事件や今回の不二家事件によって正確に証明されてきたことである。特に(3)の場合は深刻である。死者を発生させた場合には企業には致命的な責任を問われることになるであろう。不二家が表示偽装事件で済んだことは不幸中の幸いであったといえるのかもしれない。
 自社の実態に関する2の7項目に関する調査は急がねばならない、激しい経済環境の中で生き残るためには、他社との間に品質格差を残したままであることは許されない。

4 厳しい自主基準をつくろう
 我が国の消費者による生活協同組合である生協では商品の供給時点での安全性を確保するために、厳格な品質管理を行なっている。たとえば食品添加物の場合には、国の基準を上回るような厳しい自主基準を設定して対応している。
 今回の不二家の場合には、事件発生後の報道では、たとえば細菌汚染の場合に、国の食品衛生法で定める基準よりも緩い自社基準で運用が行なわれていたといわれている。ISO取得の工場でのこのような実態には改めて驚かされるが、この機会に各食品関連企業では以下の諸事項について、自社工場、製造現場の工程、製品の既存の管理方式や品質基準などを厳格に再点検すべきであろう。
(1) 自社製品の賞味、消費期限の妥当性
 既存の賞味、消費期限の設定時点が古く、設定頭時から設備、工程が変化しており、仕様も微妙に変えられているのに、その商品の賞味、消費期限の年月日がそのままになっていないだろうか。
 設定当時の安全性に関する証明に無理があることが判明しているのに再検討を行なっていない場合があるのではないか。関係専門家や保健所の食品衛生監視員などの意見を聞いて追試、再設定を行なうべきである。
(2) 製造工程の衛生学的な妥当性
 製造工程が原料、中間製品、最終製品に関して正当に管理されているか、再点検を実施するべきである。たとえば抜き取り検査を行なって,細菌数が一定値以下でなければ次の工程に移行してはならないようにする。
(4) 製品の品質管理方式の妥当性
 最終製品の品質管理は最も重要であり、たとえば酪農関連製品の場合、国の規制では検査が要求されていないエンテロトキシンなどの新規な項目での検査を自主的に行なえば製品による食中毒事故などは完全に防止することができる。雪印乳業では食中毒事故の発生後にエンテロトキシン検査を実施するようになった。
(5) 社内情報システムや社員の意見集約システムの妥当性
 社内での情報の流通がスムースであることが要請される。内部告発によって外部にマイナス情報が漏洩することによる混乱は極力回避するべきである。社員からの苦情、意見は社内的に正確に受け止めて真摯、早急に対処するべきである。そのための情報流通システムを構築することは急務である。
(6) 他社の管理方式、品質基準などとの対比
 同業他社の類似製品の管理方式や品質基準などは原則的に秘密非公開であると考えるべきである。それらは長年のノウハウを積み上げた一種の知的財産であると考えてもよい。しかし、幸運にも同業他社の好意によって、管理方式や品質基準に関する情報を入手することが出来る場合もあるだろう。また市販されている他社製品の検査、評価をとおして相当な情報を得ることができる。それらとの対比の上で、自社の方式、基準が優るとも劣ることのない水準にあることを確認するべきである。
(7) 学識経験者との連携
 日常的に、あるいは非常事態に際して、質問や相談に乗ってくれる学識経験者、専門家の協力を得る事が出来るようにしておくべきである。これらのスペシャリストとの連携は品質管理の効率を向上させることに役立ち、社員、従業員の業務遂行に関する自信を持たせることにも貢献する。
(8) 所管保健所などとの連携
 品質管理に直結する保健所の食品衛生監視員等との日常的な関係にも配慮せねばならない。食品衛生に関する情報の入手源としての保健所の価値を軽視してはならない。保健所は取締機関として、一概に敬遠されるべき存在ではない。食品関係企業に置くことが定められているは食品衛生管理者の任務を再確認するべきである。
(9)従業員教育体制の整備
 従業員教育の重視をとおして、表示や品質管理の重要性を社内に徹底することができる。コンプライアンスに関わる幹部、役員の教育、訓練はいっそう重要である。
(10)PR媒体の管理
 企業の社内的な品質管理に関する情報は社内、社外に知られることが必要である。機関誌、情報誌を発行して、企業の方針、実務の状況などが理解されるようにすべきである。
(11)消費者、顧客との関係のありかたの改善
 消費者対策は今日の企業の取り組みの最重要事項である。消費者の権利を尊重するために、特に安全管理に熱心であることは社外にも知らされねばならない。日常的に消費者の工場見学を受け入れて,PRに努める企業が多くなってきたのは好ましいことである。

以上の各事項についての再点検を行なった上で、他社製品よりも確実に優れた品質を確保した商品を製造するための、レベルの高い自主基準を作製することが望ましい。

5 むすび・品質格差を放置するな
 自社製品が過去に事件を発生させた多数の企業並みの品質しか持ち合わせていないのであるならば、とりわけ安全対策などが放置されているのであるならば、かっての雪印乳業や今回の不二家のような、企業の存立にも関わってくるような悲劇の発生は時間の問題であるといっても差し支えないだろう。
 國際規格ISOの取得企業であろうとなかろうと品質管理の実態を再点検してみれば、問題が出てくる可能性がある。今回の不二家の事件はそのことも併せて教えてくれた。これは重大で貴重な事実であった。要するにレッテルだけでは信用できないということである。

私たちはこれまでに食中毒や表示偽装などの多数の事件を経験してきた。それらはまさしく貴重な他山の石、反面教師であった。今こそ品質管理の仕組みについての再検討に熱心な企業であるかどうかが問われていることを忘れないでいたいものである。(完)


(07年2月4日)不二家食品表示偽装事件その4
―マスコミによるバッシング行き過ぎ論はおかしい―

藤原邦達


昨今の不二家事件に関するHPやブログなどの論説や発言の中に、最近の不二家に対するマスコミの報道が行過ぎている、とするものが散見されるようになっている。しかしこの行き過ぎ論は誤りである。私の知る限りのNHKや各民放、新聞各社の不二家事件に対する論調は妥当であり、決して不当なバッシングなどではない。  不二家事件の問題点についてはすでにこのHP上で3回にわたって私見をのべてきたが、改めてここではバッシング行き過ぎ論に的を絞ってのべることにする。

1 バッシング行き過ぎ論の概要
 バッシング行き過ぎ論では、要約すれば、つぎのようなことを問題にしている。
(1) 単に食品の表示を偽装しただけのことであって、雪印乳業のように食中毒を発生させたわけではない。
(2) 家庭では消費期限の一日、二日の無視は普通に行なわれている。
(3) 世論を刺激することによって、不二家の経営が困難となり、再建が困難になり、リストラせざるをえなくなり、結局従業員が路頭に迷うことにもなる。

2 バッシング行き過ぎ論に対する反論
(1) 不二家の食品表示偽装の意味するものを正確に理解しよう
 最初に不二家がどのような企業として存在してきたかを想起せねばならない。それはブランドイメージの鮮明な幼児、子供向け食品の代表的な企業であり続けてきた。そのような企業であるだけに、杜撰な品質管理の実態がより大きく注目され、報道されているのである。
 消費期限の定義では、食品衛生法において「消費期限とは、定められた方法により保存した場合において、腐敗、返杯その他の品質劣化に伴い、安全性を欠くことになるおそれがないと認められる期限を示す年月日をいう」とされている。
 すなわち、食品の消費期限を偽装することは、食品の「安全性を欠くことになるおそれ」を生じることになると言う事実に注目せねばならない。バッシング行き過ぎ論では、単なる日付の偽装であって、食中毒患者を発生させたわけではない、とのべているが、こうした偽装を許すような放漫な経営が続けられたとすれば、いつか必ず食中毒患者を発生させる可能性があったのである。今回の不二家事件はそのような不二家製品の愛用者である子供たちのなかに死者さえ発生させたかもしれない食中毒事件を未然に防ぐことができた、あるいは事故の直前に発覚した、と見るべきではなかろうか。
 不二家の品質管理には問題が多くあった。食品衛生法に違反するような社内規定に基づき、場合によってはそれすら無視して、相当に恣意的な解釈や従業員の勘による判断に基づいて製造、加工が行なわれてきたことがその後の調査によって判明してきている。
 食品衛生対策の基本は、食品被害の予防ということに尽きる。患者、死者が出ていないから問題がない、のではなくて、被害者を発生させる可能性があるからこそ問題であり、被害者を発生させないために、警告し、対策を講じる必要があるのである。「たかが表示の偽装程度のことで」という考え方はしないのである。農薬や食品添加物、ダイオキシンなどの残留が大きな問題にされてきたのも事故の未然防止、予防衛生の考え方に基づいている。規制や基準そして正確な表示はそのために必要であり、企業がそれらの規則を遵守することが厳しく求められてきたのである。

(2) 家庭と企業の違いは何か
 家庭では消費期限の無視、軽視は普通に行なわれているのに、不二家の場合を手ひどくバッシングするのは行き過ぎだ、とする考え方は一見道理であるかのように見える。
 しかし、企業は基本的に法令を遵守することが義務づけられた存在である。それは公定の基準、規則以上に、可能な限りの安全対策を実施して事故の発生を防止する社会的な責任を有する存在であり、その見返りとして、はじめて一定の利潤を得ることが許されているのである。
 家庭では、たとえば主婦の自己責任において食生活が営まれる。勿論消費期限を無視することは好ましいことではない。家庭内食中毒の原因をつくることは避けねばならない。しかし家庭と企業の性格は全く異なるのである。
 もうひとつ、何故企業の場合が問題であるかといえば、被害が発生した場合の規模が非常に大きいからである。マスコミがこうした問題を厳しく捉えるのは当然極まりないことなのである。決して騒ぎすぎなどではない。歴史的な食品被害事例を正確に理解せねばならない。企業の法規違反、安全性の軽視などの杜撰な運営によって、どれほど重大な事態が発生したかを想起するべきである。数千名あるいは1万名を越す被害者を出した過去の事例を忘れてはならない。

(3) 経営危機とリストラについて
 経営危機はマスコミの過剰な追求によって生じるのではなくて、会社自身の、もっと正確に言えば経営者、幹部の過失、怠慢、無責任の結果として発生するのである。
 経営責任は会社自身にある。食品の安全保持に関わる表示違反を行い、しかも公表を2ヶ月も怠り、マスコミの追求がなければこのままほおかぶりで済まそうとしたとしか思えない会社幹部の責任は重い。経営危機という社会的、経済的な結末は甘んじて受けねばならない。これだけのルール違反をしながら経営に何の支障もないような国家、社会こそ最も恐るべき存在である。
 不二家の経営危機は直近の雪印乳業の教訓を学ばなかったことによって生じている。むしろ自業自得であるとしか言いようがない。
経営危機は銀行,友好企業の支援や協力によって救済されることがある。しかし、そういうことにまで立ちいって、不二家の経営とは無関係な評論家や市民がマスコミのバッシングの行き過ぎ云々などを論じる必要はないだろう。
 ただ従業員に及ぶ影響には心がいたむ。リストラもあるかもしれない。経営危機を打開するために、経営者が自らの責任を棚上げして従業員、社員に犠牲を押し付けようとしないように監視せねばならない。報道機関もその意味での取組みを強化してほしい。国や自治体、そして関連企業も従業員の再雇用に配慮していただきたい、間違ってはならないのは、報道の行き過ぎがリストラを招いたのではないということである。

(4) マスコミの報道のありかたについて
 不二家事件に関するマスコミの報道のありかたがはたして興味本位であっただろうか、危機感の過剰誘導であったのだろうか。私は週刊誌、新聞の全部を読んだわけではないので,なんともいえないが、おおむね偽装の事実を指摘したうえで、細菌数の基準無視などの食品衛生法の違反、品質管理体制の欠陥等を丹念、正確に記事にしていたように思われる。利潤追求組織である企業のルール違反を暴くことは報道機関として当然の社会的な使命であり、場合によっては食中毒のような犠牲者を出す可能性があるような企業の行為を非難することは、資本主義社会における法令遵守、ルール尊重のための世論形成をはかるうえで当然のことであり、報道が「行き過ぎ」などと言われる理由はないのである。

3 むすび・すべては類似事件の再発を許さないために
 今最も重要な事は、表示偽装、法令違反のような国民、消費者の食生活の安全性を危うくすることになる危険な行為を企業が繰り返さないようにすることである。今回の不二家の事件は氷山の一角だ、などと言われるような実態が隠されたままであることが最も恐ろしい。行政側の食品表示問題に対する取り組みが極めてお粗末で、今回のような事件を引き起こしうる基本的な理由になっていることもこのHPの前回までの論説において示したとおりである。既存の食品衛生監視員制度と双璧となりうる食品表示監視員の制度を新設せよ、との私の意見ももっと知らせねばならたい。
 表示は消費者の知る権利の象徴である。表示違反を摘発するのはマスコミの本来的な当然の任務である。(完)


 
(1月31日)不二家表示偽装事件その3・信頼される食品表示制度を確立するために

−食品表示監視員制度の新設を提案する−

藤原邦達


1 現状を正しく認識する
 先年の雪印乳業、雪印食品に引き続いて発生した今回の不二家の食品表示偽装事件によって明らかになってきたのは以下の各事項である。
(1) 企業の食品表示に対する姿勢の甘さ
 特に不二家が幼児、子供向けの食品を主要商品にしていながら今回つぎつぎに判明してきたような杜撰な対応をしてきたことは雪印食品などの一連の教訓がほとんど学ばれていなかった事を示している。今回の事態は氷山の一角であって、表示の偽装以前に表示自体が法に定められたとおり科学的に公正に設定されているのか、制度、規定が社内的に正確に運用されているのか、食品企業一般に疑問がもたれるような状況が生じている。
(2) 内部告発でなければ違法、偽装が判明しない
 非常に不幸なことではあるが、現状では表示の違法、偽装は社内の当事者にしかわからない。部外者には知る手段がない。従って今回の不二家の場合のように、内部告発というような非常に不正常な手段によってしか発覚することはない。このような状況は対応の遅れを招き、製品の使用者一般に重大な被害をもたらす可能性があり、消費者にとっても企業にとっても一刻も早く是正されねばならない。
(3) 行政側の監視、指導機能がないに等しい
 食品表示の監視、指導については、厚生労働省と農林水産省が食品衛生法とJAS法に基づいて分担している。しかしその実効性については極めて疑わしく、業界側の食品衛生分野のまとめ役である日本食品衛生協会の玉木武氏は次のようにのべている。
「「農林物資の規格(JAS)は別として、「品質表示」に関しては――――科学的にチェックの方法がなく」、「監視などチェックを行なう人材も都道府県には配置されておらず、その運用効果は絵に描いた餅と一般的には危惧されており」,[JAS法に関する監視の取り締まりはほとんど行なわれていないといっても過言ではなく、品質表示は営業者の善意を期待しただけの法体系になっているとマスコミ等は指摘しています。](平成14年6月15日、HP、「食品表示に関する私見」)
 自治体の消費現場での監視、指導についてはたとえば名古屋市中央卸売市場での監視指導に関して次のように書かれているように、食品表示のための行政側の対応が非常に弱いことは明らかである。
「平成十四年11月1日から、当検査所食品衛生監視員が農林推参部の兼務職員として,JAS法による食品表示の確認作業を行ない、流通食品の安全、安心の確保に努めている。」  つまるところ、国も自治体も食品衛生監視に精一杯であって、食品表示は企業の善意を信頼して特別に監視、監査を行なうつもりはなく、必要な人員を増やして対応することができるような状況にないのが現状である。
農水省では全国に約1000人の消費者モニターを配置して表示などのチェックを行なっているが、行政的、法的な根拠に基づいた収去や指導などの権限を与えていない現状では、ほとんど実効性がないに等しい。
(4)消費者の食品表示に対する信頼感が揺らいでいる
 以上に述べたような食品表示をめぐる状況は食品表示制度が定められて以来ほとんど変っていない中で、雪印事件等牛肉関連の大規模な産地表示偽装事件が発生し、我が国を代表するような企業でさえもそうであるなら、その他は押して知るべしだ、などといわれてきた。そこに今回の幼児食品メーカーとして著名な不二家で、しかも安全性問題に直結する消費期限の偽装事件が発生して、わが国の消費者は全く唖然とさせられた。まさしくこれらの事件は氷山の一角であって、その他の企業の表示も怪しいのではないかといわれるようになった。即ち、食品表示制度自体の信頼性が大きく揺らぐような現状になっている。

2 現状を放置することはできない
食品表示を企業の善意、良心にのみ委ねて、行政側が監視指導をほとんど行なわない、結果的に消費者が表示を信頼しない、というような現状を放置することは許されない。その理由は以下のとおりである。
(1) 虚偽、偽装表示は社会的公正に反する
 営利のために商品の品質や特性を偽ることは商業道徳に反することはいうまでもない。企業の善意に依拠した現行の食品表示制度は制定以来の実情を見る限り、このままでは社会的公正に反するような実態にあると見なされるようになりつつある。
(2) 内部告発以外に偽装を発見する方法がない
 内部告発は本来営業者および組織の職員にとって好ましいことではない。現状を放置すれば、疑心暗鬼のような異常な状況が企業内で定常化するおそれがある。
(3) 虚偽、偽装表示は食品の安全性に対する脅威となる
消費期限表示の定義において、それが「腐敗、変敗その他の品質劣化に伴い、安全性を欠くこととなる恐れがあると認められる期限」を示す表示であるとされているように、消費期限に関する偽装が食中毒事故の発生につながる可能性が大きいことは明らかである。虚偽、偽装表示が蔓延するような状況を放置することは極めて危険である。
 BSE関連の輸入牛肉での産地偽装や月齢の偽装、検査証明の虚偽記載などが問題にされたことも記憶に新しいところである。これらはいずれも安全性問題と深く関連している。
(4) 虚偽、偽装表示は国際的な信義に反する
 食品の輸出入の国際化が常態化している今日、信頼性を欠く商品が排除されねばならないことはいうまでもない。我が国の食品表示が疑惑視されるような状況を放置してはならない。

3 食品表示の客観性、正当性の保持のための方策
(1) 企業側の良心、善意を信頼して、公正、良心的に表示が設定されるようにする。社内的なコンプライアンス体制の確立や教育体制の整備に努めるように指導する。
(2) 食品表示を届出制とする。届出内容を客観的に審査して許認可する。認可、証明のマークの添付を義務づける。
(3) 食品表示検定、検査センターを新設して、個別企業が設定した消費期限などの表示の科学的根拠を検証し、他方で随時定期的に抜き取り検査を実施して、その結果を公表する。そのほか国際的な表示制度の調査や偽装表示などの確認を行う。検定、検査関連業務は行政側だけでなく食品衛生協会や民間の検査センターなどにも委嘱する。
(4) 以上の業務を推進するために、次項に示す食品表示監視員制度を新設する。

4 食品表示監視員制度の新設
 食品表示に対する国民、消費者の深刻な不信感を払拭することは商業倫理や国民経済の立場から、食品企業側にとっても緊急を要することである。
 食品の安全性の保持に関してはすでに食品衛生監視員の制度があり、全国に約8000名規模の資格保有者が配置されていて必要な業務を行なっている。しかし、別の拙著などに示したように、輸入食品の激増、新規加工食品の氾濫、多様な食品関連営業施設の激増、遺伝子組換え食品などの新規食品の出現や学校、工場などの給食施設の増加などのさまざまな理由から、食品衛生監視員の業務は非常に過重となっており、法で定められた臨検、監視回数を達成することさえ困難な現状にあり、輸入検疫や自治体業務関連の増員要求も満足に認められていないことは周知のとおりである。
 こうした現状のなかで、食品表示に関する新規な業務を食品衛生監視員に兼務、委嘱させることは困難であり、このさい国は現状を放置しないために、以下の方策を講じるべきである。
(1) 食品表示監視員制度を新設する。必要な法的措置を行なう。食品の安全保持、品質管理は既存の食品衛生監視員制度と併せて食品表示監視員制度を新設することによって格段の成果を期待することが出来るようになるだろう。
(2) 前項の(3)に示したとおり、表示検定、検査センターを設置して食品表示監視員がその業務を担当する。昨今問題の多い牛肉などの輸入食品の表示も併せて検定、検査する。年間の抜き取り検査件数を予告し、検査結果を公表する。
(3) 食品表示監視員は表示設定や運用に関して必要な教育、研修を行い、消費者の食品表示に対する信頼感の回復、高揚をはかる。
(4) 表示の違反、偽装に関する罰則を強化する。

 今回の不二家の表示偽装事件が教えたものは非常に重大である。雪印食品や多数の有名企業に続いて不二家の事件が発生し、国民、消費者は現行の表示制度自体に不信感を抱くようになっている。今後ともこうした事件が続発することを防ぐために、この際、以上に示したような抜本的な対策が実施されるように強く要請するものである。(完)


 
(07年1月28日)地域生協での品質管理について

このHPの閲覧者の中には生活協同組合(生協)の関係者や安全性などに関心の高い消費者の組織である生協に関心を持っておられる方々が多いであろうと思われる。時あたかも不二家の品質偽装が問題になっている昨今、全国各地の生協では品質管理の厳格化を目指した作業が熱心に行われている。ここではこうした取り組みに80年代から協力してきた私の現時点での考え方を示しておくことにする。

藤原邦達


 私は1980年から90年代にかけて京都市衛生研究所の主幹、大阪大学の講師(非常勤)として研究に従事するかたわら、日本生活共同組合連合会(日生協)の食品添加物の安全性の確保にかかわる通称Zリスト委員会、食品添加物検討委員会の代表委員の一人としての職責をはたしてきた。また2000年代に入ってからは、大阪いずみ、ならコープ、コープしがの3つの近隣生活共同組合(生協)から委嘱されて食品添加物などの自主基準を制定する委員会の座長、委員などを勤めさせていただいた。
 以上のような体験をふまえて、ここでは今日の地域の各生協(単協)での規格、基準の制定や品質管理のあり方に関して必要とされる基本的な考え方について私見をのべることにする。

1 検討委員会に組合員理事たちが参加することの意義について
 自主基準の制定や品質管理にかかわる検討委員会では学識経験者とともに、組合員を代表する理事や一般組合員から選ばれた委員の参加を必要とする。その理由は次のとおりである。
(1)生協では組合員こそが主人公である
 組合員が生協の商品をつくり、育てる、という原則に忠実でなければならない。商品の価値、格付けなどを決定する場に組合員の代表は必ず立ち会っていなければならない。検討委員会では専門的な知識、経験を有する職員、学識経験者が主であって、組合員理事が従であるというような関係は正しくない。生協では組合員はスーパーなどでの顧客以上の存在である。
(2)生協では組合員こそが商品の最終的な購入者となる
 組合員の商品の品質に対する期待はもっとも尊重されねばならない。自主規制という規格、基準,仕様に関する約束事を決定する過程で、利用者の立場から自由に希望を述べて、専門家の論議に委ねることには大きな意義がある。
(3)組合員には論議と決定の過程を確認する権利と義務がある
 品質管理のあり方が経営者側の閉じられた密室の中で決められて、その結果が顧客に押し付けられるのではなくて、生協では組合員が合議過程のすべてを実際に見届けることによって、その商品の品質を確認し、その商品を身近に感じることの出来る関係が常に存在していることが必要である。
(4)組合員の利用者としての情報と経験が豊富にもたらされる
 組合員は衣食住の生活の専門家である。特に主婦組合員は豊富な生活体験を保有している。その商品を実際に購入して利用する立場の組合員の経験とそれに基づく組合員からの情報は極めて貴重である。たとえば市場にある一般企業の類似の商品との比較に関する情報が品質、価格、使い良さなどの諸点で豊富に供給される。
(5)組合員が最も忠実で効果的な伝達、宣伝媒体となる
 委員会の現場に立ち会った組合員代表の理事たちは、生き証人として、評価された商品を積極的に仲間に知らせる役割を担うであろう。その効果は絶大である。

2 商品の普及性を保証しながら、品質を確保するための現実的な取り組みについて
(1) 生協は特殊な少数者のための組織ではない
 たとえば、生協は、ごく少数の特権的な階層の人々のために、多数の使用人の手作業で害虫を取り除いた、極めて高価につく無農薬野菜を供給するための組織ではない。それは、普及性のある価格で、可及的、大多数の人々にとって、利用可能な商品でありながら、安全性を確保するための期待にこたえねばならない事業体なのである。組合員に供給される時点で、評価される商品であるためには、生産、輸入、加工、製造段階はもちろん、流通、販売、供給のすべてのプロセスにおいて、あらゆる関連要因をとおして、普及性のある価格と高い水準での品質をともに確保するための工夫が凝らされていなければならない。その意味ではおよそ最高水準の科学的、論理的な考察に基づいた最高レベルの手段が検討され、準備されるべきであり、とくに供給側と消費側の協力と合意形成が絶対的な必要条件となる。形状の大小や不そろい、曲直の混在、多少の虫食いがあったとしても、無農薬栽培のキュウリという商品が供給可能な状況がつくられるためには、供給側の企業や職員、購入、利用側の組合員に対する教育と学習、情宣というような、いわゆるリスクコミュニケーションにかかわる生協特自の取り組みが必須である
といわばならない。
(2) 極端に情緒的な安全性願望には妥協してはならない
 安全性願望はすべての消費者に固有の、極めて自然で人間的な心情であって極力尊重されねばならない。しかし他方で余りにも極端で情緒的な判断や行動が問題状況をつくる場合があることにも留意するべきである。その時点での最新の情報に基づいた安全性の知見を尊重して、客観的で冷静な判断とこれに基づいた理性的な行動がなされることが望ましい。
(3) 総合的な健康への寄与効率に配慮する。
 食品の最終的な価値は、その食品を摂取する時点で、どのように健康保持に寄与するかで決定される。したがって単に組成的に安全であるだけでなくて、どのように栄養学的に、衛生学的にすぐれているかもあわせて問われることになる。安全と衛生と栄養の3つの要因での総合的な商品価値を高めるための取り組みが求められる。品質管理はそのような商品の総合的な動態を把握して対応してこそ可能となる。
 生協の商品の仕入れから、保管、配送、供給のすべての課程を正しくコントロールすることが品質管理でなければならない。そのためのトータルなコストを可能な限り引き下げるための運営側の努力が組合員に高く評価されて、普及度の向上が期待されるような商品作りであることが求められる。生協では、その商品自体の安全性を確保するために無限大のコストを支払うような商品作りではなくて、栄養と衛生と安全の総合的な健康寄与度を高めることをめざした商品作りと商品の供給、利用と消費が総合的に行なわれねばならない。
(4) 事業体として、経営的な失敗は許されない
 生協は経済的、金銭的な利益、利潤を追求する事業体ではない。商品を販売して得られたあらゆる利益は、さまざまな形で、完全に組合員に還元される。組合員の生活に寄与するための永続的な利益が保証されるためには、今日的な資本主義時代での競合のさ中にあって、赤字を出して倒産に追い込まれるようなことは許されない。経営的に失敗するような商品供給は行なわない。
 普及性に配慮しながら、品質を確保するためのコストは一般の企業よりも高いであろうが、そのようにして供給される商品の基本的な価値に対する信頼,共感が普及度を高めて、最終的に経営的な安定性をもたらすことが期待される。生協の経営的な安定性は生協のもうひとつの使命である消費者の権利擁護のための運動機能を維持発展させるためにも重要である。商品の安全性は、一事業体である生協の能力だけで確保できるのではない。それは検証、監視、予防、規制などについての社会的な仕組みが適正に準備されていてこそ可能になるのであって、そのための生協の運動機能の維持、向上は不可欠のことであるといわねばならない。

3 品質管理のための総合的な取り組みの必要性について
(1) 品質の検証をどの時点で、どの項目について行なうか、について
 商品が事業体に入荷して、組合員に供給されるまでの、いくつかの時点で品質が検証されねばならない。より優れた商品を入荷させるために、契約に先立って、商品の栄養、衛生、安全についての検証を行なわねばならない。契約が成立して商品が入荷した時点での、さらに実際に店舗に保管された状態での、最終的に組合員に購入された時点および組合員に供給された以後の任意の条件下での品質の点検が行なわれる必要がある。
 生協の一部には独自の食品製造、加工分野を持っている事例があるが、最近の一部企業での高度な品質管理体制に学ぶことも必要である。
 たとえば、日本ミルクコミュニティーkkでの牛乳加工工程では、次のような品質検査体制をとっている。ちなみに同社は、雪印乳業が低脂肪乳食中毒事件をおこした後、全農と協同で設立した、元雪印乳業の職員が約7割を占める新会社である。
@ 受け入れ原料乳検査
 風味,色択、組織、乳濃度、乳脂肪分、無脂乳固形分、酸度、比重、抗生物質、総菌数、体細胞数、アルコール検査
(1) 調合工程
 風味、色択、組織、温度、乳脂肪分、全固形分(比重)
(2) 殺菌前
風味。色択、組織、温度
(3) 殺菌後
風味、色択、組織、温度、乳脂肪、脂肪球、全固形分(比重)
(4) 充填後
表示、容器包装外観、シール性、セジメント(除、牛乳)、量目
B 出荷前検査
(1)官能検査  風味、色択、組織
(2)成分検査  比重、酸度、乳脂肪分、全固形分
(3)微生物検査 細菌数、大腸菌群
(4)エンテロトキシン毒素検査 定期検査、トラブル時検査
 以上のような、国の規制にはないような、およそ乳製品製造メーカーとしては完璧な検査項目と、検査時点での品質管理が行なわれている。とくにエンテロトキシン検査は雪印食中毒事件の教訓を生かした取組みであると思われる。
 原料の入荷時点、製造の各時点、出荷時点だけでなく、出荷後の流通、消費課程にある各時点での品質管理が行なわれて、食中毒の発生を未然に防止するための企業の責任が全うされることが期待される。
 事業体としては、@検査基準、A表示基準、B回収規定、C危機管理規定などを独自に整備して、総合的な品質管理体制を確立することが期待される
。 大部分の地域単協のように、製造現場を持っていない事業体の場合でも、可及的に以上のような検査、管理の体制を整備することが求められる。
(2) 人的要因の重要性について
 品質管理のシステムがどのように完備していても、これに関与する職員の士気が低調で、システムを円滑に運用するための能力に欠陥があれば、商品の安全性は確保できない。組織としても業務完遂のために必要な要員を揃えて、必要な作業を実施できるようにせねばならない。同時に教育、学習体制を整備して、最新の知見を習得するための日常的な研鑽が必要になる。
(3) 事業体の責任者のあり方の重要性について
 品質管理計画を作成し、これを実行するための総合的な責任はその組織の管理者、役職員、幹部、理事者に帰属する。
 地域単協での品質管理は日生協の場合と異なり、店舗や共同購入のための供給、販売の現場において、組合員という商品の利用者と直結して行なわれる。日生協の場合には、品質管理は、たとえばその食品添加物の使用の可否を示すZリスト、管理食品添加物のリストを示すだけでよいであろうが、地域の生協では入荷、出荷、店頭、配送等の時点での品質管理が総合的に行われることが求められる。したがってその事業体の運用過程の全体を通して、どのような品質管理の体系を具体的に策定して、検査、調査、記録を行うかについての全体的、総合的な責任を担わねばならない。とくに品質管理にかかわる人事、予算などについて、誤りがないようにすることが必要である。
 生協が商品、特に食品の安全にかかわる事故、事件を発生させることは致命的な結果をもたらすであろう。

4 地域連帯での共通規制について
 たとえば近畿地区には6つの生協が各府県に置かれている。近年では個別の商品展開だけでなく、地区全体で連帯して商品の製造、販売などの事業化を行うことが必要になってきている。これに伴って商品の規格、基準の統一のための取り組みが行われており、その論議のあり方や成果が注目されている。

5 品質評価を周到に行うことについて
(1) 評価の項目についての緻密な設定
 食品、食品添加物、農薬、食品化学物質などの品質を評価する場合には、本来は以下のような項目について、ひろく検討する必要がある。
@有用性、A必要性、B安全性、C嗜好性、D倫理性、E文化伝統性、F経済性、G入手可能性、H経営寄与性
 たとえば、有用性に乏しく、必要性があるとは思われないものについて、安全性を仔細に検討する必要はない。また誰のために有用であり、必要であるのかという判断も重要である。科学技術の進歩という前提があって、新しい遺伝子組み換え食品が登場し、あるいはPCBのような新しい熱媒体が登場してきたが、それらの有用性や必要性が必ずしも消費者のためであるとはいえないまま、製品化されて広範に使用されてから、改めて安全性が問題になるような事例がこれまでに多数見られたが、新開発の時点で、有用性、必要性、安全性の検討がそれぞれ仔細に行なわれることが必要であった。
食品添加物の場合でも、有用性、必要性が疑われるものが相当にあると考えられる。たとえば、いわゆるダイエット用甘味料なるものは、大部分の糖尿病の患者や治療が必要な一部の肥満患者にとっては必要であろうが、一般の健康な消費者にとっては、必ずしも有用、必要であるということは出来ない。日常的な食生活や運動等に配慮すれば、ダイエットすることは十分に可能なのである。ダイエット甘味料入りのジュースを飲みながら、ケーキをひとつ余分に食べている漫画的な情景をあちこちに繰り広げながら、一部の企業がダイエット甘味料の砂糖と競合するような売上の増加を目指している、とすれば、食品添加物本来の意味さえ、疑わせるものであるといわねばならない。一部のダイエット甘味料は医薬部外品として位置づけるほうがよいという考え方もある。
 もちろん、以上のような評価項目は相互に、矛盾、対立する場合もある。たとえば伝統的な食材の中には、微量ではあっても有害な成分を含む場合がある。伝統的な食文化の場合では科学性とは一部相違する判断がなされることもある。また余りにも厳しい評価を行なえば、そもそも食品、食材そのものの入手が困難になるような状況を容易につくりだしてしまうような場合もある。ケース、バイ、ケースでの、慎重な判断が求められる。 (2) 優先的な評価順位の決定
 前項で示した多数の評価事項のうち、実際的にはどの項目を優先するか、の判断が必要である。試行錯誤を繰り返しながら、今日まで伝えられてきた伝統的な食材の多くは、有用であり、必要であり、安全であるとみなすことができるかもしれないが、食形態が変化した今日時点での既存添加物などの安全性を再評価することには意味がある。
 既に市場にある食品化学物質などの場合には、国際的、国内的な安全性についての評価が行なわれている場合が多いといえるであろうが、安全性以外の項目については、個別の企業、事業体、消費者が独自に評価して、一定の判断を下すことが望ましい。もちろん安全性の場合でも、表示などに配慮して微生物学的な危害発生の可能性を出来る限り排除する必要があることはいうまでもない。
(3) 許容量、基準、規制値の正確な設定
 毒物学的な研究にもとづいて決定される利用可能な食品化学物質の種類や許容限界を示すADI(一日摂取許容量)などは一応の安全性の目安となる。また規格、基準、規制値も尊重されねばならない。しかし、これらの数値はその限度内なら許容される、と理解せず、次項に示す総量規制の原則に基づいて、食品中の含有量を、可及的に最小化するために努力する必要があるものと理解するべきであろう。
(4) 総量規制の論理に関する正確な理解
 今日的な食品添加物や農薬の許容量、耐容量などの規制値は、その問題化学物質単品での動物実験によって算出した最大無作用量に、慣例に基づいた安全率(普通は100分の1)を乗じて、人の一日摂取許容量としたものである。しかし実際の人の食生活では多数の食品添加物や農薬、医薬品や環境汚染物質等が多種多様に摂取されており、それらの総合的な安全性の程度が問題になるのであるが、これらの諸物質の複合的な毒性を科学的に計測することは現状では不可能に近いことであるといわねばならない。したがって生協では、食品化学物質の利用に際しては、それらのADIの大きさにかかわらず、利用する種類、量、回数、摂取量を可及的に最小化する方向で努力する、いわゆる総量規制の論理が重視されている。
(5) 独自の品質評価組織を設定することの必要性
 相当規模の事業体では、取扱い商品の入荷、出荷に際して、独自の評価を行なう専門的な組織を設置することが望ましい。評価の尺度に相当する自主基準に即して、より優れた商品群を選別して組合員や顧客に供給するための積極的な姿勢が必要になってくる。
(6) 品質評価組織の常置性
 各地域の単協では数年おきに自主的な規格、基準を改定するための検討委員会が設置される場合が多く見られる。しかし突発的に食品添加物に関する事件が発生したり、安全性についての疑惑が発生する場合があり、他方で世界的な専門家の委員会であるJECFAやコーデックス委員会などで、ADIその他の安全性に関する評価に変更がみられる場合があるので、各単協では自主的な品質管理、自主的な規格、基準を再検討するための常設的な委員会組織を常置していることが望ましい。このような周到な対策は組合員の生協に対する信頼感や帰属意識を高めるのに大いに貢献することになるであろう。
(7) 検証、検査体制の維持
 品質管理のための取り決めが文書として如何に正確に行われていたとしても、その規格や基準が実際にどのように現実の商品において実現され、維持されているかが問題になる。そのためには適時抜き取り検査を行って品質の正当性を確認することが必要になる。
 日生協に加盟している全国の生協では規模の大小はあってもそれぞれ検査センター、検査室などが設置されており、全体で300名を超える検査担当者が活躍しており、常時情報交換などが行われているが、この事実はあまり知られていない。
(8) 学習、教育体制の確立
 組合員の意識水準が低ければ、その生協ではそれに相応した水準での安全政策が実施されることになる。食品の安全性を確保するためには、生協の真の支え手であり、主人公でもある組合員の食品の安全性に関する緊張感が絶えず維持、高揚されていることが必要になる。その意味において、生協が職員や組合員に対する学習、教育について熱心であるのは当然のことである。

 大阪いずみ生協、ならコープ、コープしがでの食品添加物自主基準検討委員会ではいずれも約半年以上にわたって論議が続けられた。委員会の構成では必ず組合員を代表する委員を相当数参加させた。委員会の結論は理事会に答申され、総会で了承された。これらの取り組みが今後とも大きな成果を発揮することが期待される。
以上

参考資料:コープしがの食品添加物自主基準検討委員会での講演レジュメ(食品添加物を正しく理解する、06年8月22日)


 
(1月26日)不二家食品表示偽装事件(2)
―食品の賞味、消費期限と安全性の関係について―

藤原邦達


この事件の発端時点では、当然のことながら、不二家の賞味、消費期限の偽装だけが問題とされて批判の対象となっていた。しかし私は、当時から取材各社に対して、たかが食品表示の偽装問題と考えるべきではない、それは結局、必然的に安全性問題に発展しうるものとして重要視すべきであることを強調してきた。
不幸なことに、そして私が予想していたように、その後の調査では不二家の安全管理体制にも非常に欠陥があることがつぎつぎに明らかにされるようになっている。
ここでは賞味、消費期限の管理と安全性の確保との関係について、ひいては、このままでは、不二家では食中毒事件を誘発する可能性があったことについてのべることにする。

1 賞味、消費期限の定義と安全性との関係について
 平成15年7月に従来厚生労働省所管の食品衛生法と農林水産省所管のJAS法で用語の文言に若干の相違があった点を改めて賞味、消費期限の定義は次のように統一された。
「消費期限とは、定められた方法により保存した場合において、腐敗、変敗その他の品質劣化に伴い、安全性を欠くこととなる恐れがないと認められる期限を示す年月日をいう。」
「賞味期限とは、定められた方法により保存した場合において、期待される全ての品質の保持が十分に可能であると認められる期限を示す年月日をいう。ただし、当該期限を超えた場合であっても、これらの品質が保持されていることがあるものとする。」
 即ち、賞味、消費期限を偽装することが「品質劣化に伴い、安全性を欠くこととなる恐れが」大きくなることは明らかである。
 実際、消費期限は製造日をふくめておおむね5日以内に品質が急速に劣化する食品で、食中毒が最も起こりやすい、弁当、惣菜、調理パン、生菓子類、食肉、生めん類などに表示されている。

2 不二家の賞味、消費期限の偽装について
 以上のような定義で定められた消費期限を不二家では原料、工程、製造物、商品において、担当者の一存で、あるいは上司の了解、あるいは場合によっては指示に基づいて恣意的に変更していたことが明らかになった。
 また泉佐野工場と埼玉工場の間で、消費期限をつけない取り決めを行なって、原料の融通を行なっていたと報じられている。
 このような事態が長年行なわれていながら雪印乳業のような大規模な食中毒事件が発生しなかったことは、幼児、子供向け食品の製造メーカーとして全く不幸中の幸いというべきであっただろう。
 ただし同社は1995年に小規模ながら食中毒事件を発生させていた事実があることも判明している。

3 社内基準のありかたについて
 賞味、消費期限の偽装を安易に行なっているような企業の社内基準である製造マニュアルあるいは自主基準が安全性確保の点で問題があることは容易に想定できる。
 1月25日に判明したところでは、不二家の社内マニュアルでは、大腸菌と黄色ブドウ球菌について、一応「陰性であること」と記載したうえで、別の項目に、大腸菌群の場合、「1グラムあたり1千個未満なら製造現場に注意、改善の指導をする」、「1千個超なら工場長に報告し、対応を検討」と規定し、1万個を超えた段階で「回収を要する」とされていた。黄色ブドウ球菌でも同様の規定が見られた。
 また洋生菓子では、食品衛生法で定められた一般細菌数の基準は「1グラムあたり10万個以下」だが、同社の社内基準では「1グラムあたり100万個超」で回収すると規定している、
 以上のような社内マニュアルは本社が作成し、洋菓子5工場、サブフランチャイズ2工場で使われていたということだが、安全性が重視される今日、各社が自主規制を厳格に行い、たとえば各地の生協のように、国の基準を上回るような自主的な食品の規格、基準、マニュアルを作成しているような時代に、不二家が以上のようなルーズな社内基準のもとで、しかも子供向けの食品を製造、販売していたことはまことに驚くべきことであるといわねばならない。

4 社内規定の運用、管理状況について
 安全性に関わる社内規定の運用、管理は厳格でなければならない。しかし不二家では基準の10ないし64倍もの細菌数が証明された商品を製造し販売していた。すなわち、ずさんで不完全な社内マニュアルですら無視するような場合があったということになる。
 製造管理の詳細がどうであったかは今後の調査で明らかになってくると思われるが、アルバイト職員に重要な判断を委ねていたなどと報じられていることが真実であるとすれば、チェック機能がほとんど正常に働かない、杜撰な管理システムが存在していたということになる。
 こうした状況が放置されておれば、いつかは大規模な食中毒事件を発生させる事態になるのは目に見えている。前項で示した黄色ブドウ球菌は雪印乳業食中毒事件での原因菌であり、場合によっては死者を出する場合もある。不二家が幼児向けの食品を製造する代表的な企業でありながら、雪印事件のあとでそこからなんら教訓を学んでいなかったことは驚くべきことである。犠牲者を出すような事態が発生する前に今回の偽装事件が発覚したことはむしろ非常に幸いなことであった。不二家は内部告発を行い、本件を社内の会議に持ち込んだとされる当事者を会社の救済者として表彰するべきであろう。

5 問題商品の公表と回収について
 不二家の回収基準は前記したように国の基準の10倍も緩い。そのような質の低いマニュアルに即して、今時回収などという外部から注目される「社会的な」行為が可能であると思っていたとすれば非常識極まりないことである。むしろ国の基準よりも厳しい線引きをするのが今日的な企業の姿勢でなければならない。
 不二家は95年の食中毒事件の際にも問題商品の回収はしなかった。そして今回も昨年11月の偽装発覚時点で回収を行なわなかった。勿論いずれの場合でも事件の公表を怠った。
 公表と回収が行なわれなかった場合には被害者が出ていても正確に把握できない場合がある。少なくとも対応が決定的に遅延し不完全になる。こうしたことは雪印食中毒事件の事例に待つまでもなく過去の多数の食中毒事件から知ることが出来たはずである。
 あるいは不二家にいわせれば、95年の場合は規模が小さく、今更公表も回収も必要がなかった、叉今回の場合もたかが表示の偽装であり、法に触れるものとは考えられなかった、のかもしれない。しかしそのような考えかたが非常に危険であることは以下に示す理由から明らかである。

6 被害発生の可能性の推測
 発生する被害や影響の大きさは、違反、偽装、管理不十分などの企業としての対応水準の低さAと回収、公表の有無と遅延の有無、あるいはその程度Bの積であるABによって決定される。今回不二家は幸いなことに食中毒被害こそ出さなかったが、食品企業としての信用の失墜、業績不振、株価の低落というような非常に甚大な影響、ダメージをうけとらねばならなかった。
 職員の規律、モラルなどは日常的な教育、訓練によって涵養される。教育体制の不完全さもこのような結果に終った原因のひとつに数えられよう。
 賞味、消費期限は冒頭に示した定義に従って各企業の責任で商品ごとに決められる。企業の姿勢が厳正でなければ、賞味、消費期限自体がその商品の品質や安全性に影響を与えるものとなる。
 また食品衛生法やJAS法に従って管理、監視する行政側の体制や人員も十分であるとはいえないから企業の責任はいっそう重くなる。

 外部社会が消費者の権利を尊重する方向に向けて大きな変貌を遂げていることを、あるいは食品の安全性を最重視する世論が支配的になっていることを社長や幹部職員十分に理解していたかどうかが改めて問われねばならない。
 今回の不二家での食品表示偽装事件は賞味、消費期限の設定と管理が企業にとって非常に重要な任務であること正しく教えているといわねばならない。(完)


(07年1月25日)不二家の食品表示偽装事件の問題点と対策について

藤原邦達


 本年1月早々に発覚して大きく報道されるようになった不二家の食品表示偽装事件に関して私のところにも早々と複数のマスコミ各社からの取材があった。
 私には、専門である食品衛生や安全分野での若干の著作があるが、特に、食品の表示や管理体制などの不備や対応の誤りが企業の命取りにもつながった雪印乳業や雪印食品事件の経過や顛末を解説した「雪印の落日」(緑風出版刊)が今回の事件とのかかわりで関係者に読まれるようになっているのだと思われる。

今回、不二家の食品表示偽装事件の問題点と今後の対策のありかたなどについて若干の考察を行なったので、以下に示すことにする。

1 不二家は過去の事件から多くを学んでいなかった。
不二家の食品表示偽装事件は過去の多数の食品被害事件は勿論、直近の雪印食品や雪印乳業などの各種の食品偽装事件を反面教師として正しく学んでいなかったことによって発生している。

2 不二家は内向きの経営に終始していた。
不二家の同族経営、社長世襲体制などが社内的な緊張関係を弛緩させる方向に走って、内向きの経営姿勢をとりがちであり、外部社会での大きな変動に対処することを困難にしていた。とくに顧客、消費者を巡る社会的な体制、法規等の変化についていけなかった。情報の正確な開示や安全性の関する厳しい対応を求める今日の消費者の意識について正しく理解していなかった。これらのことは社内的な管理体制や従業員に対する教育体制が極めて不完全であったことから明らかであるといわねばならない。

3 不二家の情報開示に対する姿勢は極めて不当であった。
 雪印乳業の場合は食中毒事件であった。したがって事態の確認や公表、回収が一刻を争う状況にあった。この点での会社側の対応が適切でなかったことが強く批判された。このような事例から得られた教訓を不二家は全く無視していた。
 すなわち、不二家の表示偽装は昨年11月には社内的にはすでに明確になっており、「このままでは雪印の二の舞になる」などという意見が社内の会議などで実際に飛び交っていたといわれる。こうした状況について社長を始めとする幹部役員なども周知していたはずであり、回収、公表などの措置がただちに取られるべきであった、しかし実際にはマスコミの追求をうけて、もはや隠しおおすことが出来なくなった本年1月まで公表されることがなかった。勿論回収することも不可能であった。おそらく社長や幹部役員の思惑では歳末、年始の売上の方が大切であり、隠しおおせることができればと期待していたのではなかったか。

4 表示偽装は食品の安全に対する脅威となりえた。
 消費期限の軽視、無視が食品中の細菌数の増加方向に働き、検査の時点で計測された食品衛生学的な一般細菌数、大腸菌群などの安全基準を超える可能性をつくることは明らかである。不二家では社内基準さえ無視するような場合があり、しかも従業員個人の判断でなくて、上司、幹部の指示や了解のもとに原料や商品の消費期限などが恣意的に決められていたのではないか、といわれている。これらの点は今後の調査において仔細が明らかにされるであろうが、いずれにしても原料、工程や商品の管理体制のルーズさが食品の安全性を危うくすることは雪印事件においてすでに十分に証明されてきたところである。
 このさい特記しておきたいのは、不二家の商品群が幼児、子供向けのものを中心として構成されているという点である。たかが賞味、消費期限の偽装であった、などというべきではない。むしろ今回の事件が発覚していなければ、いつか重大な人の命に関わるような食中毒事件を発生させていた可能性があるといわねばならない。
今回の事件についての今日までの調査過程では、食品衛生法で定められた細菌数の基準の10倍を超える商品が出荷されていた、などといわれており、結果的に幼児など消費者の被害に直結する可能性があったことは否定できない。
 社内的に、このような自社の商品の特質に関する正確な認識が極めて不足していたことは明らかである。
その後の新聞報道では、不二家は1995年に大阪府の泉佐野工場で製造されたカスタードクリーム入りの生洋菓子による、黄色ブドウ球菌に起因する食中毒事件を発生させており、府から2日間の営業停止処分を受けている。
ちなみにこの事件では不二家は在庫品を回収したが外部には事件を一切公表せず販売済みの製品の回収も行なわなかった。
こうしたことはこの社の体質をよく物語っているというべきであろう。
食品の安全に関するリスクの大きさは、管理のルーズさと対応の遅れの相乗効果によってきまってくるという私の持論が証明された事例であるといえよう。

5 管理者の責任が軽視されていた。
 今日の企業では法令遵守に止まらず、一般に既存の法規や条例よりも厳格な社内的な自主基準を定めて、これらを尊重するために努力することが常識とされるようになっている。社内的な風通しをよくするための情報流通体制を整備することにも配慮する必要があることもいうまでもない。
 雪印乳業の場合には、社長は食中毒に関する情報を知らされていなかった、とされて、そのために社長には予見可能性が成立せず、結果的に法的な責任が問われない、という奇妙なことさえおこった。しかし今回の不二家の場合には、社長は昨年11月時点で事態を把握、周知していながら必要な処置を行なっていなかった。すなわち事故の予見可能性があったことは明白であると言うべきであろう。
 管理者には社内の規律を保ち、教育を徹底する責任がある。幹部、役員が法令遵守を軽視するような姿勢では今回のような結果になることは明らかであり、会社の存立を危うくするような経営責任が問われようになるのも当然のことであろう。

6 社内的な教育体制が軽視されていた。
 今日の企業では教育体制を整備、確立して、企業に対して社会が何を要求しているか、について社員に徹底した認識を共有させるべきである。
 幼児向けの食品企業としての不二家では、職員が賞味、消費期限や安全性について今日の消費者がどのような意識や期待感を持っているかを正しく理解しておれば、今回のような異常な結果を招くことにはならなかったであろう。
 作業のマニュアルも再点検されねばならない。またマニュアルがあっても軽視、無視されていたとすれば、その理由を明確にせねばならない。重要な作業工程が非正規社員に任されており、商品の採否に関する判断までも一任されていたことやその作業の内容が上司によって正確に検証、管理されていなかったことも反省するべきであった。

7 行政の監督、指導責任を重視するべきである。
 賞味、消費期限が守られているかどうかは基本的には企業自身の責任において点検されるべきことがらである。賞味、消費期限を軽視するような企業は食中毒事件をおこしやすいことは前述したとおりであるが、その意味では農林水産,厚生労働行政の指導、監督責任も極めて重要な意味を持っている。
 現状では、市場で賞味、消費期限が正しく守られているのかどうかを点検することについての自治体や国の対応が極めて不完全であることは否定できない。事実、今回の不二家での期限偽装は内部告発によって初めて発覚したと言われており、行政側が自主的に摘発することができたわけではなかった。
 保健所での食品衛生監視員の本来の業務はすでに非常に過重になっている。他方で国や自治体の農林水産関連の食品期限問題担当の職員の実数も極めて少なく、実際に行政側が違反摘発の実効性をあげることは非常に困難なのが実情である。このさい調査、監視、摘発関連の法的根拠や権限、制度などを再検討、再整備した上で、最終的に国や自治体での担当係員を増員する等の具体的な措置をとるのでなければ消費者の不信感を払拭することは困難であろう。
 前述した大阪府泉佐野市での食中毒事件では、担当保健所は不二家の公表,回収責任の無視に対して何ら警告を行なわなかった。しかし、現地の保健所はいかなる小規模の事件であっても、原因食品の回収や情報公開を迫るべきではなかったか。

8 今後の対策はいかにあるべきか。
 不二家はおそらく今後非常に危機的な経営状況におかれるであろう。そのことは雪印乳業や雪印食品の場合から容易に想像されるところである。残念ながら、こうした状況は自らの所業の結果として甘んじて受けねばならないだろう。
 しかし、ひとつだけ重要なことがある。それは不二家が幼児や子供たちのマスコット的なブランドイメージを持っており、再生、再建を希望する消費者も非常に多いということである。
 したがって、不二家は全力をあげて,難局を乗り越え、本来の信用を回復せねばならない。そのために以下の事項を早急に実施せねばならない。 

(1)今回の事態に対する反省と謝罪の徹底
 何よりも今回の事態が我が国の食品企業の信用を大きく損なう結果になったことに対して、社としての反省と謝罪を徹底的に行なうべきである。それが全ての出発点になることを忘れてはならない。

(2)社内人事の刷新
既存の事態に関する責任を明らかにしたうえで、消費者の期待に即応できるような体制にふさわしい社内人事を実現せねばならない。外部の有識者を加えた監査、調査体制を設置して、風通しのよい人事を構築するのはいうまでもないことである。
この際、閉鎖的になりがちな同族、世襲的な管理、責任体制をどうするかについても内部論議を十分に行なう必要があるだろう。

(3)教育体制の確立
法令遵守の必要性や消費者の権利を優先する考えかたを徹底するための社内的な教育体制の確立は最も重要である。もしも不二家が雪印乳業のような食中毒事件を発生させて、不幸なことに子供たちに犠牲者を出すような事態になれば、そのブランドが決定的な打撃を受けることは明白であり、今回はそのような結果にならなかったことはまさしく不幸中の幸いであったというべきであろう。

(4)検査、研究体制の整備
 幼児、子供のための食品を中心に商品群が構成されているのであれば、社内的な自主基準は極めて厳格でなければならない。国の基準を上回るような規格、検査マニュアルを用意するとともに、検査施設を刷新、整備し、検査要員を増員して、外部に対して不二家の安全重視の姿勢がいかにも肯定されるような状態を実現せねばならない。同時に商品の研究開発のための体制整備を行って、この際、不二家再生のシンボルとなれるような、外部からもよく見えるすぐれた検査、研究センターを確立するべきである。

(5)情報流通体制の整備
 職員一人一人の意見が把握できるような社内体制の確立を目指さねばならない。内部告発というかたちでの事態の展開以前に職員や企業自らの責任でなすべき事をせねばならない。

(6)消費者対策の徹底
 この際消費者対策の窓口を整備せねばならない。消費者の意見を受け入れやすくする工夫を行なうとともに、企業の見解を明らかにするための機能を整備、確立せねばならない。前述したような不二家の貴重なブランドイメージを活かすために種々の方策が講じられるべきである。

(7)行政側との連携の強化
 現地の保健所や農水関連の行政機関との連携を日常的に強化して、相互に今回のような齟齬が生じないように努めねばならない。

(8)業績の回復と発展
 以上の7つの項目を社内一丸となって実行すれば、おのずから信用を回復して再生の軌道に乗ることができるようになるだろう。救済のために立ち上がる企業や金融機関なども名乗りをあげるようになるだろう。
 問題はいかなる再建計画をつくるかである。私たちは時代の要請にふさわしい、消費者に愛される清新な企業として不二家が逞しく再生する事を願っている。

 今回の事件が教えたものは非常に大きかった。特に食品関連の企業が二度と同様な失敗を犯さないように、今後の経過を含めて、この事件から多くを学ぶことが求められている。

参考図書

藤原邦達著:「雪印の落日」(緑風出版 2002年刊)
同上   :「食品被害を防ぐ事典」(農文協 2001年刊)

                            以上


(07年1月1日)07年新年のご挨拶
藤原邦達


旧年中は何かとお世話になりました。心から感謝申し上げます。
 私も今年で傘寿を迎えます。宇井純君をはじめとして、食、環境安全研究分野での先輩、後輩がつぎつぎに他界する中で、生き残っている私にとって何をすることが必要なのかを自問しているこのごろです。少なくとも戦前、戦中、戦後を生きてきた一人の学徒として、この間の体験を踏まえながら、未来に向かって何が求められているかを証言することが大切なのではないかと思っています。
BSE問題も輸入の再開で予想通りマスコミもなりをひそめることになり、今ではまるで何もなかったかのような状況になっています。
 新年にあたってひとつだけ言っておきたいのは、わが国では何事につけ、重要な問題をうやむやにしてしまう傾向があるということです。ダイオキシン問題然り、遺伝子組み換え問題然り、そして今回のBSE問題然りです。私がもっとも深く関係してきた油症,PCB問題もそうでした。まだわからないことが山ほどある。科学的な実証がすんでいない課題が山積していても、そのことに目をつむって現実をどんどん先行させていく。
 BSEの病原体はプリオンという蛋白様の高分子物質だという。感染はするが、細菌でもウイルスでもない、当然DNAとは無関係な存在であるとされていますが、実際には感染性がある、正常プリオンがつぎつぎに異常化していくという。このことは20世紀末になって提起された科学的な課題として最大のものだといえるのですが、そのメカニズムはどうなっているのか、類似の事態が他の感染性疾患でもありうるのかが問われています。遺伝子DNAとは無関係な感染、増殖、発症などということがありうるとすれば、これは安全上の大問題です。だがプリオンの感染性のメカニズムはいまだに実証されていない。最近では病原体プリオン説を疑問視するような見解まで発表されるようになっています。
 わが国に対する牛肉輸入の再開に成功したアメリカ政府は、さらに30ヶ月齢以下の牛の牛肉の輸入解禁を求めています。もしもこれが実現すれば、事実上わが国の既存の規制体制が空文化することになるのですが、現実面ではなし崩しにまさにそのような方向にむかって進んでいるように思えます。
 さらに一言つけくわえるならば、科学的な証明がすんでいない事態の複合的な影響、いわばシグマ・セイフティー・ファジーの現れ方がどうなのか、これこそが21世紀の安全分野での最大課題といえるのではないか。しからばどう対応すればよいのか。
私にとって新年に当たって取り組むべきテーマは以上のように明確です。
 よいお年をお過ごしください。何よりもお体を大切にしてください。
以上

(06年7月28日)BSE問題・アメリカ産牛肉の輸入の再再開に際して
藤原邦達


7月26日、政府は自民党の了承を得たうえで、アメリカ産牛肉の輸入の再々開を決定した。報道によれば来月上旬にも輸入ものが店頭に並べられるということである。
 私は特定危険部位の混入が発見されたために、本年1月20日に輸入の再開が停止されて以来、約半年の間、情勢の成り行きを慎重に見守ってきたが、再再開がきまった現時点において、とりあえず以下のような見解を表明する。

1 政府の輸入の再再開をめぐる今回の一連の対応には賛同しかねる
 平成3年の国会で成立した食品安全基本法では政府の食の安全にかかわる政策の決定に当たっては、あらかじめ、必ず食品安全委員会の意見を聞かねばならないことになっている。今回はリスク管理機関である政府の農水省や厚生労働省の食の安全に関する施策の決定に当たっては、リスク評価機関である食品安全委員会の意見を聞かねばならない、とする法治国家の原則が守られたとは言えなかった。政府は前回の輸入再開に引き続いて、今回の輸入の再再開に当たっても、アメリカでの調査団の調査結果を食品安全委員会に報告したうえで、客観的、科学的な専門家による調査結果の解析やリスクの評価を受ける手続きを全く無視して、まさしくアメリカ政府との間で政治的な決着を図ったとしか言いようが無い。
 輸入停止期間中でのリスクコミュニケーションの場であった意見交換会やパブリックコメントなどでも輸入の再再開については国民、消費者からの懐疑的、否定的な見解が多く見られたのであるが、これらも全く無視された。
 要するに、食品安全基本法の規定に反し、食品安全委員会の存在を無視するような対応によって、今回の米国産牛肉の輸入の再再開が決まったことを厳しく指摘しておかねばならない。
 このような、無法、ルール違反がまかり通った以上は、輸入牛肉の安全性が確保されたとは言いかねる。前回の輸入の再開から1ヵ月しかたたないうちに、いち早く特定危険部位の混入が明らかになって、輸入をストップせざるを得なかったように、今回の輸入の再再開の場合にも同様の事態が発生する可能性ある。このままでは、リスク評価を無視したつけが突きつけられないはずが無いのである。

2 政府は情報開示を怠っている
 政府は前回のアメリカ現地での調査に関する報告書を正確に公表しなかった。民主党の議員があるテレビ番組の中で、ほとんどの部分が黒インクで抹消された政府調査団の報告書を示しながら、これでは真相が不明で対応の仕様が無い、と憤慨していたのが印象的であった。今回のアメリカ現地での35箇所の食肉処理施設についての査察に関しても、野党はもちろん、消費者、国民にも、その調査結果に関する情報が全く開示されない中で、与党と政府だけの判断で輸入の再再開が決定されたのである。これらの措置は戦前の「知らしめず依らしむべし」の政策を思わせるものであり極めて納得しがたいところである。
 消費者だけではない。この問題に特別な関心を持っている農林畜産関係の業者、食品企業、そして研究者に対しても調査の結果を全く公表、開示しないでいて一方的に輸入の再開を決定し、政府のすることには従え、といわんばかりの独善的な対応を行ったことはまことに許しがたい。情報開示の無い、このままの状況では、消費者をはじめとする関係者には、今回の輸入の再再開について実のところ賛成、反対の意思表示のしようがない、という事実を特記しておかねばならない。

3 アメリカ政府のBSE対策は信用できるのか
 米国産牛肉の輸入再再開問題が大きな日米間の政治的な争点となっていて、とりわけ日本側のアメリカ産牛肉の安全性に対する疑問が高まっているさなかに、アメリカ政府ではBSEの検査頭数を従来の10分の1の規模にまで縮小することを発表した。アメリカ政府はかねてからわが国のBSEの全頭検査方式が非科学的である、などとのべてきたが、今回もまたアメリカでの検査体制の強化を求めるわが国の世論を揶揄、嘲笑するかのような措置がとられたといわざるを得ない。
 ここでは検査とサーベイランスの相違について詳述することはしない。しかし、BSE対策では異常プリオンによる汚染状況を傾向的、広域的に把握するだけでなく、摂食されることになる感染牛を個別的、具体的に発見して、たとえ1頭単位であってもそのような汚染牛肉が少量でも摂食されることを回避せねばならない、と考えるべきである。その理由は,要するにBSE,vCjD〈変異型クロイツフェルトヤコブ病〉の病原体で、細菌でもウイルスでもない高分子蛋白様の物質である異常プリオンの病理や感染のメカニズムなどがいまだに科学的に明確であるとは言いがたい状況にあるからである。最小発症量についても学説的に確定しているとは言いがたい現状であるために、たとえばイギリス渡航経験者では献血さえもが禁止されている。そのような現状では、病原体である変異型プリオンの輸入による持込や拡散を極力回避するための予防医学的な措置をとる必要があると考えるべきである。
 検査率を下げれば当然BSE牛の発見率も下がる、そのことがアメリカ政府の狙いであるといわれても仕方が無い。もしもアメリカがわが国並みの検査体制を持っていたならばおそらく200頭程度のBSE牛が検出されていただろうといわれている。特別に巨額の検査費用がかかるわけでもないのに、この局面で検査率を極端に下げるのは、輸出トラブルを避けたいというアメリカ政府の意図によるものだといわざるを得ない。  アメリカ側の姿勢とわが国の姿勢の乖離が大きいなかで、現実に輸出入が行われている以上は、その結果が破綻含みとなることは覚悟しておかねばならないだろう。

4 輸入の再再開以後に特定危険部位が再び検出された場合にどのように対処するのか
 わが国の政府がこの点に関して明確に答えていない理由は明らかである。日米間での政治的決着によって輸入の再再開を行った以上は、政治的決着で対処せざるを得ないと思っているのであろう。アメリカでのBSE牛の発見によって最初の輸入禁止が行われ、輸入の再開以後1ヶ月で特定危険部位の混入という事態によって、再び輸入の停止が行われたのであるが、今後はどのような理由によって予想されるトラブルに対処しようとしているのか明らかにされていない。
 朝日新聞の世論調査(7月24,25日)では、アメリカ産牛肉の輸入再再開に52%もの人々が反対し賛成は37%にとどまった、といわれる。またNHKの世論調査でも約70%の人々が輸入に反対しているとのことである。したがって今後に発生してくる事態では政府の対応が非常に困難になることを覚悟しておかねばならない。アメリカ政府に気兼ねをしながら、わが国の消費者の心情にも配慮しながらトラブルを処理するということは至難のわざである。

5 目視検査での検疫では危険を完全に予防することはできない
 政府はすくなくとも当分は輸入されてくる牛肉を全箱検査する、としている。しかしわが国の検疫所ではすでに増大する輸入食料の検疫を処理しかねるような実情にあることは周知されている。添加物や農薬などの検疫にあたる食品衛生監視員の実数が極端に不足している。政府はかねてから消費者からの要望が強い検疫所の職員の増員を行おうとしていない。食の安全はBSEだけの問題ではない。
 特定危険部位は背骨だけではない。背骨でも骨断片になればもはや目視での判別は困難である。まして組織切片や飛散血液のような場合には判別は無理である。それなのに政府ではあたかも「全箱検査」を行えば完全に危険を回避できるかのような印象を与えようとしている。
 所詮、アメリカでの対日輸出プログラムの遵守の程度にすべてがかかっている。

6 前回の輸入禁止時の保管牛肉はアメリカ側に持ち帰らせよ
本年1月時点に特定危険部位が発見された際にすでに輸入されていて現在まで税関の倉庫に保管されている牛肉について、政府はあらためて全箱を開封、検査して、問題が無ければ国内での流通を認めようとしている。
 この処置の中でまたしても特定危険部位が見つかったらどうするのか。目視で正確に判別しにくい微細骨片や組織断片なども混入しているのではないか。対日輸出プログラムが十分に守られず、背骨の一部を混入させていた食肉処理場の製品には問題が多いことははっきりしているはずである。にもかかわらずなぜ政府はこのようなことをするのか。
少なくとも、すでに骨片が見つかったその処理場の牛肉の流通は認めるべきではない。今回の輸入の再再開はアメリカに派遣されたわが国の調査団が対日輸出プログラムが遵守されていることをあらためて確認できたから認められたということになっている。それならば、同プログラムが正確に履行されていなかったことが明らかな1月20日時点までの輸入牛肉は一切受け入れてはならないはずである。
 現在倉庫に保管されている輸入牛肉は即時廃棄するべきである。わが国が光熱水費を負担して大切そうに保管していること自体がおかしい。少なくともただちにアメリカ政府に引き取らせるべきであった。わが国がこのうえ全箱開封したうえで、安全性に懸念を抱きながら食用に供するというのでは余りにも屈辱的、自虐的であるとしか言いようが無い。そもそも安全を犠牲にしてまでアメリカ産牛肉を受け入れねばならない理由はない。わが国の消費者はそれほど餓えてはいないのである。

7 アメリカ産輸入牛肉は果たして本当に売れるのか
 今回の輸入解禁によって輸入されてくる牛肉は当初は以前の10分の1程度にとどまり、価格もやや高めになるだろうといわれる。また、いまだにBSE牛が1例も発見されていないオーストラリア産牛肉によって市場が独占されてしまっているような現状のなかで、いわくつきで不安がらみのアメリカ産牛肉がどの程度市場を回復することが出来るのか、注目に値する。

8 アメリカ政府の今後の対応を見守ろう
 アメリカ政府はわが国のBSE対策が非科学的であると考えており、現行の自治体などでの全頭検査などの規制を緩和すべきであるとしてより強い圧力をかけてくるようになるだろう。現状では輸入は20ヶ月齢以下の牛の牛肉に限られているが、すでに30ヶ月齢以下の牛の牛肉の輸入を認めるように申し入れているといわれる。アメリカ人がなんら不安を感じずに食べている牛肉を日本人が拒否するのはおかしい、とする類の情報攻勢はすでに始まっている。そしてわが国の消費者の一部にもアメリカ側の見解を受け入れるような風潮がすでに現れている。なし崩しのBSE対策の緩和がひそかに進行するような風潮を作ってはならない。

9 検査体制の強化、確立につとめよう
 前述したように、BSE、vJCDなどの病原体とされる異常プリオンの正体が未だにはっきりしていない現状では,BSEの流行、発生の概略を知るための統計学的なサーベイランスをしていればよい、というわけにはいかない。全頭検査体制をいっそう質的にも充実して、食用に供される各1頭1頭にいたるまで異常プリオン、BSEフリーであることを証明出来るような安価で精密な検査体制を確立するように志向するべきである。
 その意味では、アメリカ政府の関係者がいうように、現行の検査法はまだ不完全であり、検査法の確立のための研究が今後一層促進されねばならない。生前、採血、採尿による微量高感度検査法を国が主導して開発し、その成果を適用して全頭検査体制を整備、確立せねばならない。間違っても検査体制を縮小するというような過ちを犯してはならない。

10 消費者はどのように対処するべきか
(1) 選択の自由には責任が伴うことを自覚しよう
 アメリカ産牛肉を食べたいのならそれでよい。しかし不安がらみの輸入牛肉を無造作に、際限なく受け入れることによって、わが国の異常プリオン汚染濃度を上昇させる可能性があることを銘記するべきである。今回の輸入の再再開が食品安全委員会のリスク評価なしに政府の独断で行われたという事実に注目せねばならない。科学的な評価と社会的な良識に基づいた判断によってこそ消費者の選択の自由は保証されるべきである。
(2) 政府に対して食品安全基本法の遵守を申し入れるべきである
 食の安全を確保するためのわが国の機構は食品安全基本法によって守られている。リスク評価抜きのリスク管理では食品安全基本法以前の体制となんら変らない。一昨年末の輸入の再開直前の政府の食品安全委員会に対する諮問では、アメリカの対日輸出プログラムが遵守された場合、という仮定付で、わが国の牛肉と安全性について比較することが求められていた。そしてこのような非現実的な仮定が守られるはずも無く、予想されたとおり、輸入再開後1ヶ月で特定危険部位の混入が見つかって輸入は頓挫した。リスク管理機関の責任と権限の逸脱がもたらす事態は深刻である。
 前国会での参考人陳述や拙著「食の安全は守られるか」〈平成4年、緑風出版刊〉において示したように、現行の食品安全基本法にはなお問題点が多く、もっと、国民、消費者本意に改正されるべきである。今回のアメリカ産牛肉の輸入問題では、この法律の欠陥部分の存在に起因するさまざまな不都合が表面化することになったと思われる。
(3) 食品安全委員会の充実を求めるべきである
 現行の食品安全基本法によって設置されている食品安全委員会は今回のアメリカ産牛肉の輸入問題に関与したこの3年間に予想されたようなさまざまな欠陥を露呈してきた。国民、消費者の安全に直結する、国民、消費者の注目に最も強くさらされてきた輸入の再開、再再開問題に際しても、ほとんどその機能を発揮することはなかった。そして世論調査で明らかなように、懐疑的、批判的なムードが充満している中で、そのアメリカ産輸入牛肉を店頭で見ねばならないような事態になってしまった。
 食の安全、安心のための消費者本位の体制を確立するために、消費者は食品安全委員会を再構築することに関心を持たねばならない。
(4) 表示を義務付けて選択、購買の自由を保障させるべきである
 国産牛肉並みに輸入牛肉でも産地、処理場名、製造年月日、賞味期限等の表示を義務付けるべきであることは言うまでもない。さらに、レトルト製品などの半調理、牛丼などの調理済み食品の場合でも、牛肉の産地表示などが判読できるように要請すべきである。
(5) 政府にBSE対策のいっそうの推進を要請するべきである
 アメリカ政府をはじめとする際獣疫事務局やWTOなどでの世界的なBSE対策緩和の趨勢を阻止するべきである。未知部分の多い異常プリオン関連の研究を促進して、その成果を検査体制に反映させるなど、わが国が果たすべき役割が大きいことに注目せねばならない。一部にある全頭検査体制の緩和でなくて充実の方向を推進することによって、世界的なBSE、異常プリオン対策に貢献することを求めねばならない。
 少なくとも、なし崩しにアメリカ側の情報、宣伝に屈するようなことをしてはならない
 いずれにしてもここ当分の情勢は非常に注目に値する。真剣に立ち向かおうではないか。
(完)


(4月5日)専門調査会委員の辞任の意味


3月31日付けでプリオン専門調査会の委員12名中、半数の6名が辞任した、という事実の持つ意味は非常に重い。これまでのこの専門調査会の論議が「はじめに結論ありきであった」、「政府よりであった」などということが辞任の理由であるとされているが、それならばこれまでのこの調査会の報告書の信憑性自体をどう考えればよいのか。国民、消費者はそのことを重視せねばならない。


(4月3日)近況報告


1月末以来、体調すぐれず、2月から3月にかけて建築後40年の我家のリホームを余儀なくされ、最近は風邪までひいて家に閉じこもる始末で、したがってこのHPへの持論のアップロードも休止するのやむなきにいたった。いよいよ老醜、無為の毎日が始まったかに思われる。申し訳なく心からお詫びを申し上げる。
 必ずや近日復帰するつもりである。以上、近況報告までにとどめる。


(1月24日)BSE問題・アメリカ産牛肉の輸入再開が頓挫した
―政府はわずか一ヶ月で再び禁輸に踏み切った―
藤原邦達


 1月20日、わが国の検疫所でアメリカ産輸入牛肉に危険部位である脊柱骨片が含まれていることが見つかって、政府は急遽、再び禁輸措置に踏み切った。
 この事態に関して、この機会に当面つぎの諸点を指摘しておかねばならない。

1 アメリカ政府の対日輸出プログラムの信憑性が疑われる
 わが国が輸入再開に踏み切ったのはアメリカ政府が対日輸入プログラムを定めてこれに従った輸出業務を確実に、誠実に実施することを約束していたからである。今回の事態は予想されていたとおり、対日輸出プログラムなるものがまったくのカラ証文に過ぎなかったことを白日の下に晒したということが出来る。
 それにしても脊柱骨片が見つかったとは驚くべきことである。私たちが心配していたのは危険部位そのものというよりも危険部位による牛肉の異常プリオン汚染という、目に見えないものの輸入による持ち込みであった、というのに、今回は危険部位そのものが目視で発見されたのである、まさしく堂々たる違反であり、アメリカでは対日輸出プログラムがまったく機能していないことがあからさまに立証されたということができるだろう。

2 政府の責任が問われる
 このような事態を招いた責任の一半は、アメリカ政府からの圧力に屈して輸入再開を急いだわが国政府にもある。
(1) 食品安全委員会に対する諮問のあり方に問題があった。
 リスク評価機関である食品安全委員会に対しては、無前提にリスクの所在や程度を問うものでなければならない。そのことは、現実に存在する輸入に関わる諸要因が関連して、最終的に国民、消費者に被害が発生する恐れがあるからである。然るに政府は今回、アメリカで対日輸出プログラムが確実に遵守される、というような非現実的な仮定の下で、食品安全委員会に対して輸入牛肉のリスク評価を求めた。行政によるリスク管理は原則的にリスク評価の結果によって決められねばならない、というのに、今回は日米政府でのリスク管理が適正に行われるという前提でリスク評価を求めたのである。
 このようなリスクアナリシス方式の常道に反するやり方がまともに機能するはずがないことは私がこれまで、このHP上で繰り返し強調してきたところである。今回、輸入再開からたった1ヶ月で政府の目論見が破綻したのはまことに当然のことであったといわねばならない。

(2) 国民、消費者に対するリスクコミュニケーションを怠った。
食品安全委員会の答申を受けたあと、政府は国民、消費者に対する説明を十分行わないうちに、さらにパブリックコメントの期間が完了していない時点でアメリカ政府に対して輸入の再開を通告し、これを受けて直ちに輸入牛肉が送られてきた。国民、消費者はいきなり市場に現れたアメリカ産牛肉に戸惑うことになった。このような政府のやり方に国民、消費者からの批判が集中しているさなかに今回の事態が発生したのである。

(3) この1ヶ月間に消費されたアメリカ産の輸入牛肉は安全であったといえるのか。
 危険部位である脊柱が見つかったこの1月20日以前に輸入されて市場に出た牛肉ははたして安全であったのだろうか。政府はこの問いに答えねばならない。おそらく答えることが出来ないだろうが、このような結果を招いたのは政府が無責任きわまる態度を取ってきたからである。一部の消費者はすでに危険部位を含んだアメリカ産牛肉を確実に食べてしまっているだろう。この責任を政府はどう取るのか。
 すでに市場に出てしまっている輸入牛肉は廃棄されることになるであろうが、そのことによって関係業界がこうむった経済的損失を政府は果たしてどうするつもりなのか。

  (4) 日米関係を悪化させた。
 ゼーリック国務副長官が認めたように、基本的に今回の事態がアメリカ側のルール違反に起因していることは確かである。しかし対日輸出プログラムという到底守れそうにもないアメリカ側の約束を信じて、しかもこのプログラムがどのように機能するかを確かめもせずに、さらに国民、消費者の批判をまったくものともしないで、早々と輸入の解禁を実施したわが国の政府のやり方にも重大な責任があることを強調しておかねばならない。このような結果になることはわかっていたのであって、強引に輸入再開にこぎつけたかった政府の軽率さに問題があったことは否定できない。
 今回の事態が発生したことによって日米関係は再び冷え込むことになるだろう。アメリカ議会筋の不満が再び噴出することは確実である。すでに日本側の規制が厳しすぎるからこのような結果になるのだ、とする一部の議員たちの声が聞こえるようになっている。政府は責任を持って情勢を打開する必要がある。国民、消費者の声を無視したことのつけが非常に大きかったことに改めて気づかねばならないであろう。

3 食品安全委員会の責任も重大である。
 食品安全委員会は科学的な評価を行う組織である。科学的ということは現実そのものに厳しく立脚して論理を形成、展開して一定の結論を得ることを意味している。実行不能に近いような内容の対日輸出プログラムと知りながら、またそれがまだ実行もされていない時点において、わが国の国民、消費者の輸入牛肉についての安全や健康にかかわるようなリスクに関する結論を導くことは科学者の組織として決してあってはならないことであった。
 アメリカ側の規制、監視が確実に行われるという前提でリスク評価を求めた政府の誤った諮問に対して、「現時点では評価は困難である、アメリカ側の準備状況を慎重に見守る必要がある、それまではしばらく評価を待つべきである」と率直に答えなかったことによって今回の事態は発生したのである。そして今後、再び三度、今回のような安易な答申を行うごとに、何回でもこのような事態が続発して、輸入の再開、禁輸が繰り返されることになるであろう。
 食品安全委員会は科学者の組織として、毅然たる態度をとるべきである。ことが異常プリオンという疑問点の多い病原体に基本的にかかわっていることを再確認せねばならない。  今回の事態を受けて、輸入の再解禁を行うことについて、はたして政府が再び食品安全委員会の見解を問うことになるのかどうか今のところ不明であるが、(私は問うべきであると思うが)今回のような過ちは繰り返してはならないだろう。国民、消費者の信頼を失うような結果になることを恐れねばならない。

4 危険部位の判定をどうするのか。
今回はわが国の検疫機関において、アメリカ産輸入牛肉の中に脊柱片が混入していることが検疫担当者の目視によって発見された。しかしこのような杜撰なアメリカ側の対応が行われている限り、目に見えない危険部位による異常プリオン汚染の存在を疑われても仕方がない。背割りなどの処理過程での血液の飛散、危険部位との接触などが適切に抑止されているかどうかは残念ながら目視では見分けることは出来ない。20ヶ月齢以上の牛由来の牛肉の混入も100%確実に見分けることは困難である。
今回のような目視によって見分けられる「@隠しおおせない違反」はまだしも、特定危険部位の細小片を含む、あるいは特定危険部位によって汚染された、目視が効かない「A隠しおおせる違反」の処理は非常に困難である。対日輸出プログラムの実施に当たって日米政府がどのように対処するかが問われる。アメリカ政府は今回の事態の後を受けて、@の違反を防止する対策を講じることになるであろうが、問題はどのようにしてAの違反がないと言い切れるかである。
将来的に肉片自体で異常プリオンを定性、定量する方法の実用化が可能になった場合には、Aを含むあらゆる汚染を見分けることが出来るようになるだろう。その時点では日米ともに生前検査を全頭規模で実施することが可能となって、輸出輸入はスムーズに行えるようになるものと思われる。検査技術の進歩が待たれる。

5 政府はどのように対応すべきか。
(1) 今回の失態の責任を認めて国民、消費者に対して率直に陳謝せねばならない。
政府は、2度とこのような事態を引き起こさないことを約束するべきである。特にリスクコミュニケーションを怠って、国民、消費者の見解、期待、要請を軽視してきたことについて深刻に反省せねばならない。

(2) 今回のような世界的にも異例の事態を発生させた原因を究明するべきである。
それはアメリカ政府との関係についてのわが国政府のあり方の反省を含むものでなければならない。ある民放のニュースキャスターが今回の違法牛肉の発覚に関して「わが国はアメリカになめられている」などと発言していたが、このような心情が一般化することは好ましいことではない。

(3) 輸入の再、再開の是非に関して、食品安全委員会の意見を聞くべきである。
再諮問の中身では、今回のような失態を避けるために、「アメリカ政府の対日輸出プログラムが正常に機能した場合」などとする仮定を設けないことが肝要である。アメリカの規制状況を現実的に把握した上で輸入の再、再開が妥当であるかどうかを問うものでなければならない。
 聞くところによれば、政府は輸入の再、再開に関して食品安全委員会に諮問を行わず、農水省、厚生労働省の責任で行政的に対処しようとしているといわれるが、これは誤りである。あくまでも食品安全基本法に即して、国民、消費者の食の安全にかかわる課題の処理に関しては、すべからく食品安全委員会の意見を聞かねばならない、と規定されている大原則を遵守するものでなければならない。
行政部内での密室的な処理で局面が打開されるとは思えない。それではおそらく失敗を繰り返すだろう。その場合には、もはや逃れがたい責任を追及されることになるだろう。

(4) リスクコミュニケーションを徹底すべきである。
 前回の輸入再開に当たって政府がリスクコミュニケーションを軽視したことは明らかである。再びその轍を踏むべきではない。今回の失態は国民、消費者の慎重論を無視ないし軽視したことによって発生した。国民、消費者を衆愚的であるとするような考え方を極力否定せねばならない。
輸入再開問題の主体者は常に牛肉を食べる消費者であることを再確認せねばならない。政府は国民、消費者の信頼を失うべきではない。

(5) 表示を正確に行うべきである。
 牛肉の生産地、その他の表示を輸入牛肉にも国産牛肉並みに義務付けるべきである。加工、調理食品の場合でも何らかの方法で表示を行って消費者の選択の自由を確保せねばならない。

(6) アメリカ政府に対しては言うべきことを言わねばならない。
検査、監視の厳正な実施はもちろんのこと、アメリカの輸出関連の中小畜産業者の一部がアメリカ農務省に申請している自主的な、わが国並みの全頭検査の実施を認めるように申し入れるべきである。要は、最終的に、アメリカでもわが国並みの安全、安心を可能な限り担保することのできる体制を確立させるように努力することである。
アメリカ産輸入牛肉を食べるのはまさしく日本人である。アメリカ政府がそのわが国の消費者からの要求を軽視することが出来ないのは当然のことである。

(7) わが国での検疫体制を強化する。
食品安全委員会の協力を得て、現行の0,5%程度でしかないわが国の検疫所での牛肉の検査率を統計学的に妥当な比率にまで増大させる。目視でしかない検査であっても違反の摘出率は向上する。検疫所の検査要員の増員、検査技術の向上に努めることはいうまでもない

(8) 食品安全基本法を改正する。特に食品安全委員会の機能を強化する。
  この機会に、筆者が前国会の参考人陳述で述べたような、またこれまでのHPの中で強調してきたような食品安全委員会の機能強化に取り組むべきである。食品安全基本法の成立以来の諸経験を踏まえて、同法の改正、特に食品安全委員会の機能強化を図ることが必要である。
 現在開会中の国会での与野党協議にも期待するところが大きい。今が絶好の機会である。鉄は熱いうちに打たねばならない。

 今回の事態は日米両国にとって、まことに屈辱的な体験であった。私たちは偏狭な禁輸主義者ではない。輸出入のスムーズな国際関係を確立するために、特に食の分野では安全、安心、安定が確保される方向での輸出国、輸入国間での連帯、協力が重要であると考える。
アメリカ産輸入牛肉に対する信頼が確保されるために関係者が全力を傾倒されるように強く要請するものである。(完)


 
(06年1月15日)BSE問題・米国産牛肉の輸入再開が認められた
―食品安全委員会の決定を受け入れることは出来ない―
藤原邦達


注記(1月22日):
 この論文は1月17日に、筆者が技術指導を行っている生活協同組合ならコープ品質管理室での文献抄読会において発表されたものである。
その直後の1月20日には、アメリカ産輸入牛肉の中に危険部位である脊柱部分の混入が見つかって再度輸入の禁止という事態が発生している。

はじめに
 前回のプリオン専門調査会の報告書についてのパブリックコメントの場合には国民、消費者からの意見の約7割が調査会の決定に反対する内容であったといわれるが、今回食品安全委員会ではこのような国民、消費者側の意向をまったく無視して、米国産牛肉の輸入再開を認める内容の最終報告書を作成した。
 以下に現時点で言えることを要約しておくことにする。

1 今回のリスク評価のありかたの誤りは明白である
 食品安全委員会が容認した専門調査会の答申はまったく論理的な整合性を欠いている。リスクアナリシスの手法ではリスク評価の結果に従ってリスク管理が行われ、リスクコミュニケーションが実施されることを大原則としているが、今回の場合には、日米、特にアメリカでのリスク管理である対日輸出プログラムが正確に実施され、わが国の監視によってその事実が確認できることを前提としてリスク評価が行われている。いわば現時点ではまったく架空の重大な仮定をふまえた非現実的なリスク評価になっている。リスク評価は厳格に現実を踏まえた作業でなければまったく意味はない。
(1)専門調査会の報告書ははたして科学的評価に値するのか
 現状では、アメリカ側の事情がほとんど不明である中で、基本的に輸入再開に関する科学的評価を行なうことは困難であるとしながら、結局食品安全委員会としての輸入再開を認める結論を出しているが、果たしてこれが科学的な評価に値するのであろうか。こうしたありようは明らかに食品安全委員会の目的を逸脱している
 リスク評価に当たっては、一般にはじめにその評価の目的を達成するために行う推論のための論理、方法論を正確に構築したうえで、そのために必要な数値処理を精緻に行うことが求められる。しかし今回のリスク評価にあたっては前段の推論のための論理、方法論がきわめて杜撰であって、輸入を実施してみなければわからないような仮定や前提を数多く設定した上で、しかもアメリカ全土とその26分の1とされているわが国をさまざまな事項で一概に平均的に対比するような数値計算を行い、最終的に我国とアメリカのリスクがほぼ等しいから輸入が認められる、とするような結論を導いている。そして、設定した前提や仮定が将来的に否定されるような事態が発生した場合には、今回の結論が否定されるというような極めて異様なコメントを行なっている。

  (2)輸入をしばらく待てといえなかったのはなぜなのか
 誰が考えても、アメリカでの規制状況を見た上で、食品安全委員会としての輸入牛肉の安全性に関する評価を行うというのがもっとも論理的、現実的なありようである。政府に対してアメリカでの実態が明らかになるまで当面は輸入をしばらく待て、となぜ言えなかったのであろうか。これでは食品安全委員会としての主体性をまったく欠いているといわざるを得ない。
 政治的な思惑とは完全に独立して、安全性に関する厳格公正で科学的な評価主体としての役割を果たすというのが食品安全委員会の本務であったはずである。アメリカからの政治的な圧力はリスク管理機関である政府が受け止めればよかった。結局は食品安全委員会の各委員の国民、消費者に対する責任についての自覚に問題があったとしか言いようがない。これでは、「アメリカでの規制に関する客観情勢が明らかになるまで、輸入をしばらく待て」といえなかった今回の事態は政府からの各委員に対する有形無形の圧力に抗し切れなかったために発生した、といわれても仕方がないだろう。

  (3)異常プリオンの場合には平均的な論理が適用可能であるとはいえない
 異常プリオンによる人への被害ははたしてアメリカ全土を対象とする平均的な発症確率などを指標として論じてもよいのか。アメリカ全土で何頭とするようなBSE牛の発生数を持ち出して平均値的な汚染度を論議の対象にすることにどれほどの意味があるのだろうか。それよりも実際には、点在する各地の牧場の20ヶ月齢以下の牛群がたまたま何らかの理由で濃厚に汚染されていて、それらの牛が検査監視を十分に受けない状況で、不幸にも輸入ルートに乗って我国の市場に到達するような場合を警戒せねばならないのではないか。さまざまな問題因子が関与して、散在する汚染団塊牛群からの異常プリオンが我国に上陸してくる個別の確率こそが統計学的に問題にされるべきではないのか。アメリカ全土ではなくて、むしろいくつかの畜産州単位での個別の考察が必要なのではないか。
 アメリカでは肉骨粉を牛以外の動物の飼育用に使用している。さらに我国のような周到な検査体制を持っていない。月齢判定を目視で行っている。トレーサビリティーが不完全である、以上のような我国とは非常に異なる状況が存在する。従って現状でアメリカと我国の場合を単純に比較するのは非常に困難であると言うべきである。政府の諮問にはそもそも無理があったといわざるを得ない。学問的に不明な点が多い異常プリオン汚染について現実的に日米を比較対比することが非常に困難であることは周知されていたはずである。

(4)国民、消費者に対する無責任は許されない
  基本的に「政府の監視が徹底すれば」というような架空の前提をおいた評価が信頼できるのであろうか
 専門調査会の座長が報告書を提出した後に、「あとは消費者が自由に選択すればよい」と語ったと伝えられているが、はたしてそのようなことでよかったのであろうか。消費者は安全性について適切に判断する情報を十分に持ち合わせているわけでない。だからこそ今回も牛肉の輸入に関して食品安全委員会の見解を求めているのである。にも拘らず、報告書を出したあとで、後は消費者が自由に判断して選択すればよい、というのは無責任である。
 専門調査会の座長としては、「輸入牛肉の安全性は国産牛肉と同等であり、不安がる必要はない。」と自信を持って断言するべきである。そのように言い切れるために評価をするのが各委員の使命であり責任であったはずである。

(5)リスクコミュニケーションとは何か
 リスクアナリシスの方式では、リスク被害の当事者となる国民、消費者とリスク評価、リスク管理の当事者とのリスクコミュニケーションが重要視されている。しかし現状では我国の政府、食品安全委員会のリスクコミュニケーションが意味するものは国民、消費者に対するリスク評価、管理者側の見解の「説得、啓蒙、周知」を意味するものになってはいないであろうか。全国各地で開催されている意見交換会なるものでは、たとえば専門調査会のBSE問題についての見解に対する反対の、ないし批判的な見解が大半を占めている。しかし食品安全委員会、行政側はそのような国民、消費者の意見を尊重して何らかの対応を行なったような形跡は全くない。このままでは意見交換会は行政側の消費者に対する説得の場にすぎないとの印象を否定することは出来ない。
 はたして国民、消費者は衆愚の団塊なのであろうか。誤解を避けるために言っておくが、ここで言う政府や食品安全委員会側と対置される国民、消費者側なるものには多数の専門家、研究者、有識者を含んでいる。食品安全委員会に所属する小数の委員の見解だけが全てではない。現実にその牛肉を食する当事者が不安であるとする理由を解明し、不信感を除去するために必要な「科学者、専門家としてのとりくみ」を一切無視するなどということは許されないはずである。  政府がリスクコミュニケーションの場であると位置づけてきた意見交換会のありかたを変えねばならない。

(6)パブリックコメントとは何か
 牛肉輸入問題に関して、たとえパブリックコメント総数の80%が反対意見であったとしても政府や食品安全委員会はこれを無視するつもりであった。その証拠に、意見交換会が各地で開催されている最中に、しかも他方でパブリックコメントの集約がまだ終っていない段階で、政府は早々と牛肉の輸入再開を決定し、すでに早々と輸入牛肉の第一陣が市場の店頭に出現しているのである。政府や食品安全委員会はパブリックコメントの場を政策推進のための通過儀礼の場であるとしか考えていないのではないか。これでは政府には広く国民から寄せられた貴重な意見に耳を傾けるつもりが全くないのだ、としか言いようがない。
 現状ではパブリックコメントの詳細は公開される事がない。おそらく毎回の数千通に及ぶ膨大なコメント資料が生かされることなくお蔵入りになっていることであろう。ここでもリスクコミュニケーションの形骸化が認められる。

(7)予防原則に忠実であれ
 今すぐ目に見える被害がない限り、規制や対策に取り組む意思がない、未知、未確認の問題点があるということだけでは対策を実施しようとはしない、それがいわゆる予防原則の適用を嫌う、わが国の行政の姿勢であり続けてきた。そしてそのことに起因した失敗が数多く繰り返されてきた。
 BSE問題の核心はBSE罹患牛が何頭か出現した、ということではなく,BSEの原因物質である異常プリオンのどの程度の汚染が人の健康にどのような影響を及ぼすのかと言うことである。その意味ではその異常プリオンの物理化学的な性質や感染体としての病理学的な実態に今日でもなお不明確な部分が多多存在しているという事実を軽視してはならない。BSE、異常プリオン問題こそは予防原則を適用すべき格好の対象である事を認めねばならない。
 私はかって70,80年代にPCB問題に深く関わって、カネミ油症事件裁判の証言台に何回か立ってきた。そこでは、油症被害者とPCB汚染という既存の被害を生み出したのは、当時の国や自治体が予防衛生学的な対応を怠ったためであり、当時すでに存在したPCBに関する問題点に対して真摯に向き合う事をせず、対策をほとんど実施しなかったために被害が発生し拡大した事を証言した。そして行政や立法がこのような被害を防止するための社会的な公的な仕組みをつくることに熱心でない限り、私たちは「予定加害者や予定被害者」であり続けるだろうとのべてきた。
 私は異常プリオン問題を甘く見てはならないと思う。予防原則に忠実でなければならないと考える。今日時点でも解決されていないPCB汚染問題だけでなく、たとえば最近になって被害の片鱗を見せ始めたアスベスト汚染の問題でも行政側の予防措置のありかたに基本的に重大な欠陥があったことが明らかになっている。私たちはBSE問題の場合でも異常プリオンによる汚染防止の観点での周到な対策を怠らないようにせねばならない。

2 消費者の権利を再確認する必要がある
 正直なところ、このような食品安全委員会の結論では米国産輸入牛肉に対してどのように対処すればよいのかわからないというのが今日的なわが国の消費者の偽らぬ心情である。
 今日までのBSE問題での一連の経過の中で、消費者の選択する権利、知る権利、安全である権利、要求する権利が守られてきたか、ということについての総括だけはこのさいきちんとしておかねばならない。
(1) 安全である権利の保証について
 最終的に食品安全委員会が行なったアメリカ産牛肉の安全性に関する評価は不完全であり、信頼することは出来ない。したがってこのままでは消費者として、安全である権利が保証された状況にあるとはいえない。

(2) 知る権利と選ぶ権利の保証について
 輸入されてくるアメリカ産牛肉が本当に確実に20ヶ月齢以下の牛のものであるかどうかは現状では不確実である。それは今後に実施されるであろうアメリカ政府の対日輸出プログラムの実施状況を見なければわからない。にも拘らず日本の消費者は今日すでにそのような米国産輸入牛肉を店頭で購買する事を余儀なくされている。

(3) 要求する権利の行使について
 リスクコミュニケ=ションについての政府側のこれまでの対応は意見交換会、パブリックコメント制度を通しての国民、消費者側の要求する権利の無視であり軽視であって容認することはできない。
 食品安全委員会や政府が以上のような消費者の権利を軽視したうえで輸入の再開を急いだとすれば、事態がこのまま正常に推移するとは思えない。

  3 当面の対応をどうするのか
(1)アメリカ側の対応を監視する
 1)今回のリスク評価の前提となった、アメリカ政府の対日プログラムが正確に実施されているかどうかを確認せねばならない。それは当面の政府の最大の責務でなければならない。アメリカ各地での確認周知のありかたを厳しく監視することが求められている。
 2)輸入牛肉についての表示を徹底させよう。産地表示は外食店での調理食品についても適用するように要求せねばならない。

(2)全頭検査体制を復活させるように要求する 
 従来の検査法ではなくて、生前、採血によって行なう最新の検査法の適用によって、すでに、より効率的に、より経済的に全頭検査を実用化することが可能になっているといわれている。この方法を適用することによって、いわゆるサーベイランスと個別検査の双方を可能にすることができる。ゆくゆくは輸入時点での確認検査も不可能ではないだろう。

(3)消費者の権利の確立を求める
  パブリックコメント、意見交換会などをとおして消費者側の要求を食品安全委員会の審議や政府の政策に正確に反映させる仕組みの確立を求める。選択する権利の行使については不買運動もまた消費者の正当な権利行使の対象となりうる事を認めねばならない。輸入牛肉はアメリカ産だけではない。

(4)食品安全基本法の改正を求める
 最近までの一連の経過の中で、現行の食品安全基本法の制定の時点で予想されていたとおりの問題点が見えてきた。その要点を示すと以下のとおりである。
 1)食品安全委員会を政府から独立した第三者機関とする。
   公取と同様にする。大臣の所管をはずす。政府の管轄外の第三者的な組織とする。
 2)消費者側の推薦する研究者を委員として参加させる。
   臨時委員、参考人としての参加も考慮する。
 3)委員の定員を増やす。
   必要な分野の委員を増員する。
 4)議決は全員一致とする。
 5)専門調査会の論議には関連学会の見解を反映させる仕組みをつくる。
 6)消費者側の意見を聴取したうえであらためて論議する仕組みを作る。
   意見交換会やパブリックコメントを有名無実にしない。
 7)政府の政策決定に先立って国会での論議を行う。

 輸入牛肉の解禁にいたる一連のBSE問題はわが国の食品の安全をめぐる歴史の上で特記すべき課題のひとつであると考えられる。今後の輸入再開後の状況にもさらに注目しておく必要があるだろう。(完)


(06年1月1日)新年のご挨拶
藤原邦達


 あけましておめでとうございます
。  昨年末には、消費者の不安をよそにアメリカ産牛肉の輸入再開が本決まりになりました。私達はこの過程でたくさんのことを学んできました。今年はその教訓を大切にして、新しい課題に取り組んでいきたいと思っています。
 今を流行の、リスクアナリシスという方式に関しても、日米政府のリスクマネージメントとしての行政側の規制や監視がうまくいくことを前提としてリスクアセスメントを行い、輸入再開についての結論を出した今回の食品安全委員会のやり方が誤っていることは歴然としています。リスクアナリシスの方式はあくまでもリスクアセスメントの結果に基づいてリスクマネージメントを実施するという一方通行の原則を重視するものでなければなりません。
 アメリカ政府の対日輸出プログラムがまだ実際に動き出してもいない現時点において、すでに輸入牛肉の第一陣が荷揚げされて、市場に出回っているというような現状を極めて心外に思っています。こうした事態に追い込んでいった政府のやり方に第一義的に問題があることはいうまでもありませんが、国民の期待を背負って発足した食品安全委員会が政府の対応を唯々諾々として是認してきた今回のあり方についても失望を禁じえないところです。
 政府主催の意見交換会などでも、以前から今日に至るまで一貫して輸入再開に批判的な消費者側の意見が大半を占めているというのに、いわゆるリスクコミュニケーションの現場が所詮は政府側の決定を押し通すための説得の場であって、消費者の意見に耳を傾けて慎重に政策を決定し、あるいは再検討するような位置づけにはなっていないことがはっきりしてきました。
 要するにこの1年を通して、リスクアナリシスの方式というものが機能不全に陥っていることがはっきりして、消費者の信頼をつなぐことが出来なくなったといえるのではないでしょうか。
 新年にあたって、私たちは国民、消費者が常に衆愚的であるとみなされるような状況を放置しないために、もっともっと勉強せねばならないと思います。せねばならないことがたくさんあることに気づいています。

 私はかって若かりし時代に、「深更に、独り一剣を研ぐ」というような厳しい生活態度にあこがれていました。勿論実際には到底そのようにはなり得なかったことに自らの非力を思い知らされてきましたが。しかし今はやがて80歳に手が届こうとするこの年になって、体力、気力自体の減退と取り組む必要が生じてきています。とくに70台になってからの年月は、もはや攻めの時代ではなくて守りの時代に入ったことを痛感させられています。もう無理は出来ない。そこからの出発をどうするかが問われるようになっています。
 私なりの新しい課題を与えられた新年です。皆様とともにがんばりたいと思います。
 以上、ささやかな新年のご挨拶と致します。(完)


(05年10月31日)BSE問題・今日、おそらく最終の専門調査会の審議が行われる
―アメリカ産牛肉の輸入再開がついに決着しようとしている―
藤原邦達


  本日、最終答申のための、食品安全委員会のプリオン専門調査会の、おそらく最後の会合が行われるとのことである。
委員の各位には、本日の会合以前にこの私のHPが見られることはないであろうが、今の時点で、私は以下のことだけは是非とも言っておきたい。

1 答申の最終目的を認識する
 政府に対する答申ではあるが、それは実質的に国民、消費者に対する食品安全委員会の態度の総決算になるということを強調しておかねばならない。政府や企業の政治的、経済的な要求にどこかで妥協していたり、不確実な仮定の上に論理を組み立てていたり、その牛肉を食べる消費者が最も知りたいことには本当に触れようとしていない、などということは国家、国民に対する許しがたい背信行為であることを忘れてはならない。

2 論理的整合性を明白にする
 最終の目的は、現実に輸入されてくる牛肉が安全であるといえるかどうかである。今回の政府の諮問にあるような、アメリカ政府の対日輸出プログラムが遵守されると仮定した場合の安全性などということが現実を完全に遊離した概念であることは誰の目にも明らかである。そのような仮定の上に組み立てられたリスク評価なるものがいかなる意味でも、真実を直裁に解明するための科学的な論理的整合性を欠落した極めて空疎なものであることは否定できないだろう。
私がこれまで繰り返して強調してきたように、問題は、現実に、以下の課題を正確にクリヤーすることである
(1) アメリカ産牛肉の異常プリオン汚染度を丹念に評価する
 アメリカ全土の3500万頭にも達する各地の牧場の牛と処理場の、濃淡のある汚染度を平均的な論理で一概に処理することは許されない。「アメリカでの汚染度は日本の何倍程度」などというような表現がどの程度輸入牛肉そのものの汚染問題に影響してくるのかということ自体のリスク評価が必要である。たとえばテキサス州の、7万頭を飼育しているある牧場でのプリオンの汚染度が異常に大きかったとすれば、このこと一つだけでも輸入に際して問題になる場合があるのである。
 汚染牛肉が輸入されてくる可能性を否定し、あるいは肯定することは決して単純な作業ではない。
(2) アメリカ政府の対日輸出プログラムの妥当性を検討する
 このHPで何回となく述べてきたような、以下の課題をクリヤーせねばならない。
1) 月齢判定の問題点
2) 特定危険部位の除去の問題点
3) 飼料の規制に関する問題点
4) 監視能力の不足に関する問題点
(3) 対日輸出プログラムが遵守されるかどうかを問題にする
1) 遵守された場合のリスク評価
このことが政府の諮問の場合のリスク評価にあたる。
2) 遵守されなかった場合のリスク評価
この場合のリスク評価こそがもっとも注目に値する。遵守されるかどうかを日本政府が監視すればよい、とするのは安易な態度である。

3 不確定要因、否定的情報にも慎重に配慮するべきである
 BSE、vCJD、異常プリオン問題では今日時点でもなお未確認事項が非常に多いという事実を再確認せねばならない。このことはすでにこのHPで何度か指摘してきたとおりである。その意味では、牛や人での被害をBSEやvCJDに罹患するかどうか、たとえば「わが国では、何頭の患畜が、何人の患者が出るのか」、というような単純なリスク評価をするのではなくて、その意味で日米のリスクには大差がない、などというのではなくて、異常プリオンの汚染度がどのくらいになるのか、というようなリスクの対比が必要になるだろう。しかし、そのようなリスクの算出は事実上非常に困難であるといわねばならない。

 アメリカ産牛肉の安全性に関する否定的な情報は肝心のアメリカ国内からこれまでに相当量が発信されていることも無視してはならない。
 結果的に、最終答申では、以下の点が放置されないように要望したい。
(1) 不確実、不確定、不明事項が存在することについてはそれらを明記する。
(2) 残された問題点を正確に示す。
(3) 政府に、今後の対策、対応のあり方を注文する。

4 責任が明らかにされねばならない
 各マスコミの、この10月時点での世論調査によれば、消費者の約70%がアメリカ産牛肉の輸入に反対であり、食べたくないと答えている。とくに主婦層の反対意識は鮮明である。こうした事態のなかで、今回の答申が行われることが極めて注目される。輸入の実現を強く期待している政府や一部の企業は、おそらく、国民、消費者は愚かしい、というかもしれない。あとはリスクコミュニケーションで精力的に啓蒙をはかるしかない、などというであろう。
 しかし、このままでは仮に輸入再開が実現されたとしても、アメリカ産輸入牛肉の消費がそう簡単にうまく行くとは思えない。市場価格の低迷が国産牛肉の消費にどう影響するかも未知数である。問題はこれからである。
 最後に、この歴史的な最終の専門調査会において、どの委員がどのような議論を展開したかが明らかになる。各委員の研究者としての論理的整合性が個別に評価されることは当然のことであろう。
 本日の委員会の結論を冷静に待とう。専門調査会を直接傍聴できないことが残念である。(完)


(05年10月18日)BSE問題・アメリカ産牛肉の輸入再開が本決まりになろうとしている
―食品衛生学の立場から批判する―
藤原邦達


 最近のマスコミ各社の報道によれば、この10月中には食品安全委員会の報告書がまとまって、アメリカ産牛肉の輸入再開への道が開かれようとしているという。これにさきだって、最終的な専門調査会の報告書が出されるであろうが、とりあえず、現段階で言えることは次のとおりである。

1 食品安全基本法の定めに反する措置は許されない
 基本法の第2章(施策の策定に係る基本的な方針)の第11条(食品健康影響評価の実施)には次のように示されている。
「食品の安全性の確保に関する施策の策定に当たっては食品健康影響評価が施策ごとに行われなければならない。」また3項には「食品健康影響評価はその時点において到達されている水準の科学的知見に基づいて、客観的、かつ中立公正に行われなければならない。」さらに第12条では「食品の安全性の確保に関する施策の策定にあたっては、――――食品健康影響評価が行われたときは、その結果に基づいて、これが行われなければならない。」
 農水省、厚生労働省はこのたび、アメリカ側の対日牛肉輸出条件が守られるという前提で諮問を行ったが、このような行政側の恣意的で一方的な前提条件がある限り、食品安全委員会が、これを受けて「客観的、かつ中立公正に」食品健康影響評価を行うことは不可能であるといわねばならない。
また第12条の関連では、あらゆる食品の安全性の確保にかかわる施策の策定、すなわち、ここでは輸入牛肉の安全性の確保に関する施策の策定は健康影響評価の「結果に基づいて」行われねばならないとしている。したがって、農水省、厚生労働省がこのたび食品安全委員会の審議にさきだって、アメリカ側の対日輸出条件が妥当なものであると独自に判断し、しかもこれが正確に守られるという前提をつけた上で、輸入牛肉の安全性についての諮問を行ったことが妥当であったとは思われない。安全性に関する諮問は無前提に行われねばならない。

2 リスク評価はあらゆる場合を想定して行われねばならない
周知のとおり、BSE、vCJD、異常プリオン問題には未知、未検証の課題が数多く残されている。たとえば、人のvCJDに関して最も重要な病原体であるとされている異常プリオンの人での最小発症量に関する知見さえも確実に得られているとはいえない。またBSEに罹患した牛の牛肉をどれくらい、どの期間、どのように摂取すれば発病するのかもわからない。要するに人の被害に関する因果関係がまだ明確であるとはいえない。このような場合には、あらゆる場合(最悪をふくむ)を想定したうえで、可能な限り、より丁寧に、神経質に評価をおこなったうえで対策を講じておくことが必要になる。いわゆる予防原則にしたがった考察をおこなって、周到に対策を講じることが求められているのである。

3 政府の諮問のあり方には基本的に問題がある
 アメリカ政府の対日輸出条件が守られた場合を既成事実としたアメリカ産牛肉の安全性の評価は現実的にナンセンスである。 リスクアナリシスの一般的な考え方ではリスク評価の結果に基づいてリスク管理が行われる。しかし今回の場合では、リスク管理機関である政府がアメリカの対日輸出条件が守られることを一方的に保証した上で食安委にリスク評価を要請している。
このような政府の諮問のありかたに反論せず、これを受け入れて審議を行った食安委のあり方にも問題があるといわねばならない。

4 リスクアナリシスの原則に反する審議が行われている
 リスク管理機関の位置づけが誤ってはならない。
  リスク評価(A)とリスク管理(B)は相補的な関係にあるのではない。それは厳格にA→Bの関係でなければならない。BがAの評価作業に介入することは出来ない。リスクを管理する機関が恣意的な一定の条件を設けて、その条件のもとでのリスク評価機関の判断を導こうとするのは誤りである。その条件が守られるという保証はないからである。
 今回、アメリカ政府の対日輸出対策が正しく実行された場合のリスク評価(X1)は行われたが、仮に、これを認めるとしても、正しく実行されなかった場合のリスク評価(X2)が行われていない。日本の消費者にはX1だけでなく、X2についても知る権利がある。X2の評価は食安委でしかするところはない。米国産輸入牛肉の安全性の実体はX1とX2の間にあるというべきである。
 専門調査会はアメリカ政府のリスク管理が完全に行われることを前提とした、あるいは仮定した場合のリスク評価X1だけを行えばよいのではない。リスク評価X1だけでは真に合理的、科学的なリスク評価が行われたとは言えない。日本の消費者はX1だけでは満足することは出来ない。  たとえば、アメリカ側の管理が不十分であったために、20ヶ月齢以上の、BSE牛のy頭が20ヶ月齢以下の群に紛れ込んだ場合に、輸入牛肉のリスクがどの程度増大するかを示すべきである。
アメリカ側には対日輸出条件を守る責任がある。しかしその責任が完全にまもられるという保証はない。日本政府はあらゆる場合を想定してリスク評価を行い、必要な対策を講じる責任がある。そのためにも日本の消費者に対して、X1とあわせてX2についての情報を提供することが必要になる。

5 アメリカでは違反事例が非常に多いという事実がある
  アメリカ政府の農務省は05年8月15日に、アメリカでは04年1月から05年5月の間に、特定危険部位の除去に際して、1036件もの違反事例があったことを公表している。このことは現実に日本向けの牛肉の処理でも安全性に関わる問題が生じる可能性があることを示している。前項で示したリスクX1だけでなく、リスクX2が明らかにされねばならないことは明らかである。農水省と厚生労働省は対日輸出牛肉に関しては違反事例が発生しないと断言することが出来るのであろうか。
 前項のリスクX2の算定は具体的に違反事実が判明した場合に即して必ず必要になってくるだろう。

6 リスク関連問題要因を明記せよ
 日本側としては、改めて輸入牛肉に関して危惧される問題要因を具体的にアメリカ政府に対して指摘したうえで、対策の強化を要請せねばならない。しかし、相手側、輸出国内でのリスク管理の厳格化を輸入国側が要求しても、実効性を検証することは非常に困難であり、事実上不可能であるといってもよいだろう。

  7 農水省、厚生労働省はどのように対処するのか
(1)監査証明書を作成することが出来るか
 アメリカ側の検証方式の開示と定期的な検証結果の報告を求めねばならない。日本側の査察のための政府係員の派遣が行われるかもしれないが、具体的にどのようにアメリカ現地での調査、監査を行うのか。はたして、その方法が示せるのか。日本政府はアメリカの対日輸出条件が守られていることを、あるいは守られていないことを消費者、国民に対して保証する責任がある。
(2)非常の場合についての対応のマニュアルを作成しておく
 リスク管理にあたる政府は輸入が再開されたあとで、発生しうるあらゆる事態に即して、対策を準備していなければならない。前述したリスクX2についての評価はそのためにもきわめて重要である。たとえばアメリカでBSE牛が検出された場合の処置をどうするのか、その対応のマニュアルを準備していなければならない。

8 内外の政治的、経済的な圧力に屈することは許されない
 政府がわが国の全頭検査方式を改めて、20ヶ月齢以下の牛の検査をやめたこと、アメリカでの月齢判定法の問題点などを指摘せず、対日輸出方式が完全に守られることを無条件に認めた上で、食安委に諮問を行ったこと、これらの一連の経緯は政府が明らかにアメリカや外食産業などの政治的、経済的な圧力に妥協してきたことを示している。残念なことである。このまま食品安全委員会での審議、答申を踏まえて、ついに輸入再開に踏み切ることになるとすれば、結果的にわが国の消費者の食生活の局面で不安や混乱を招くことは必定であるといわねばならない。

9 輸入再開問題に関する記録は正確に保存されねばならない
食品安全委員会、専門調査会などのすべての会合での論議の内容は正確に記録され、公開されねばならない。各委員の主張と最終的な報告書作成時点での、とくに議決、賛否(多数決)や合意形成に関わる発言の記録は各委員の責任を明らかにする上で特別に重要な意味を持つことになる。

10 わが国の消費者はどう対応するのか
 専門調査会の吉川座長は最終的には「消費者が判断すること」と語っているが(朝日新聞記事)、これはおかしい。消費者が判断できないからこそ、専門家である研究者に評価を委ねているのである。
 現状でわが国の国民、消費者は以下のように考えることが出来るだろう。
(1) 政府の輸入牛肉の安全性に関する諮問のあり方には問題があった。
(2) 問題のある政府の諮問をうけて審議をおこなった食安委のあり方は誤っていた。
(3) 4項で示したリスクX1が非常に小さいという食安委の評価の結果を受け入れるとしても、リスクX2が未評価であるという事実を確認する。
(4) アメリカの対日輸出条件が守られているかどうか、農水省、厚生労働省による今後の監視の実態に注目する。
(5) わが国で引き続き行われている自治体での20ヶ月齢以下の牛の全頭検査の成績に注目する。もしもこの群にBSE陽性事例が発見された場合には輸入を一時停止して対策に当たらねばならない。
(6) BSEの検査法の進歩に注目する。生前検査法だけでなく、輸入牛肉の汚染を知ることの出来る牛肉自体からの異常プリオンの検出法の進歩に期待する。
(7) BSE、異常プリオン関連の検査法の進歩に即して、早急に、日米ともに共通の生前、全頭検査が行われることを要請する。不完全な現行の検査法の枠内にとどまって対策を講じることはナンセンスであるというほかない。
(8) アメリカでのBSE検査体制の拡充を要請する。
(9) 日本の消費者は自己責任において牛肉の選択、購買、消費のあり方を決めることになる。残念ながら、決めざるを得ないことになるだろう。輸入牛肉はアメリカ以外の各国からも供給されている。消費者には食品を選択する固有の権利がある。
    消費者の選択の自由を保障するために、牛肉および外食産業の調理製品にいたるまで、生産地の表示が正確に行われるように要請する。
(10)食安委の最終報告のあとに意見交換会やパブリックコメントなどのリスクコミュニケーションが行われるであろうが、この機会に食安委や政府に対して、国民、消費者としての見解を正しく示しておくことが必要である。
                                                  以上


(05年10月1日)山紫水明の故郷を失いたくない
藤原邦達(医博、京都在住、久賀島出身)


 私の故郷は長崎県五島列島の久賀島という離島である。この島にはかっては3500人の居住者がいたが、過疎化が進行していて、今では約600人の人々しか住んでいない。しかもそのほとんどが高齢者であって、若者、子供たちの姿をほとんど見ることが出来なくなっている。小学校も廃校寸前の事態にまで立ち至っている。
このたび五島列島の北端にある上五島町に核廃棄物の処分場を誘致したいとする一部の人々の不穏な動きがあり、故郷ネットワーク誌から寄稿の要請があった。以下に、「山紫水明の故郷を失いたくない」と題する一文を示す。

 新上五島町には、すでに石油備蓄基地がある。今後、さらに、もしも、放射性廃棄物最終処分場の誘致が行われた場合には、以下のような危険な事態が出現する可能性がある。

1 異常な天災地変の発生
 建設時には予想もされなかったような規模の大地震に見舞われた場合には、危険物質の周辺環境へのリーク、拡散がおこりうる。さらに五島列島が台風銀座などと呼ばれている以上は、想像を絶するような規模の台風による事故もないとはいえない。

2 テロリストによる占拠
 国際情勢の如何によっては、航空機による自爆テロが行われないという保証はない。テロリストによる施設のハイジャックもありうる。これらを防ぐためには、新上五島町をわが国でもっとも警備体制の厳重な要塞地域にするしかない。

3 ミサイル攻撃の標的
 石油貯蔵タンクであれ、核廃棄物保蔵施設であれ、ミサイル攻撃をうけた場合には、近隣、周辺の地域は収拾不能の混乱に陥ることになる。少なくとも複雑な国際関係の中で、五島列島がそのような脅しが通用するような危険な地域となることは確かである。

4 石油、核物質輸送船の事故
 巨大な石油タンカーや各地の原発から運び出される核廃棄物を積んだ船舶が、万一にも衝突、座礁あるいは沈没するようなことがあれば、周辺海域が汚染されて、漁業は壊滅的な打撃を受ける。漁獲物は風評被害もふくめて消費者の敬遠するところとなり、やがて五島列島の地域経済は完全に成り立たなくなる。

以上のような、高度なリスクの存在を知りながら、核廃棄物処分場の受け入れをあえて推進する理由は何なのか。この問題が五島列島全域や長崎県、九州全体の安全にも深く関わっていることも忘れてはならない。望郷の思いを同じくする全国の五島出身者も無関心ではおられない。しかし何よりも被爆県民でもある新上五島町民の良識を信じたい。(完)


(05年9月27日)BSE問題・専門調査会は、誰のために、何について審議しているのか
―研究者の資質と責任にかかわる―
藤原邦達


 9月26日に開かれた食品安全委員会の専門調査会では、アメリカ産牛肉の輸入再開問題に関する大詰めの審議が行われた。朝日新聞の本件記事の見出しでは「米国産牛肉評価に異論続出」とある。
特に注目したいのは、「日本向けには危険部位の除去などの輸入条件がすべて守られているとの前提で安全性を評価する座長案に対して、北本哲之委員(東北大教授)が(それでは)『結論ありきになってしまう』と批判。評価手法に問題があるとし、米国のBSE対策が十分かどうかを分析すべきだと提案した。」とされていることである。(朝日新聞9月27日)

1 座長案は予期したとおりのものであった
 このHPで、これまでに何回も指摘してきたとおり、政府の諮問案自体が「日本向けには危険部位の除去などの輸入条件がすべて守られているとの前提で」、牛肉の安全性についての日米の比較を問う、というものであったから、今回の座長案はこの諮問を忠実に受け止めたうえでのものであった、といえるだろう。

  2 審議の前提と出発点を誤ってはならない
 日本向けの「輸入条件がすべて守られている」とする前提で審議を行っても無意味である。日本の消費者はそのような前提に立った審議の結論を決して受け入れようとはしないだろう。日本の消費者はアメリカ側の、危険部位の除去、月齢の判定、検査体制、認証の仕組み、輸送中の過失、事故など、輸入牛肉についての現実的な安全確保の仕組みのあり方を、端的にいえば輸入牛肉の異常プリオン汚染自体を問題にしているのである。
 食品安全委員会の専門調査会は、あるいはその代表者である座長は、本来なら、このような前提に立った政府の諮問案自体の受け入れを拒否するべきであった。その上で、改めて、無前提にアメリカ産輸入牛肉の安全性についての検討を行うことを要請する内容での諮問を受け入れるべきであった。

3 「異論続出」は当然である
 政府の諮問を忠実に受け止めた座長案に対する異論が続出したのは当然である。食品安全委員会は科学者の組織である。各委員は科学的な論理を尊重せねばならない。とりわけ座長の責任は重大である。「輸入条件がすべて守られている」とする前提での審議が行われて一定の結論が得られても、国民、消費者はこれを受け入れないであろう。そればかりか、食品安全委員会、専門調査会に対する信頼が失われることにもなるだろう。26日の専門調査会で「異論続出」したのは当然のことであり、この委員会がまだしも健全であることが証明されたといえるのではないだろうか。

4 研究者としての面目が問われる
 リスクアセスメントを担当する研究者が国民、消費者の安全、安心にかかわる課題について取り組むときに、「輸入条件がすべて守られている」という政府側の前提を認めて審議を進める座長案を受け入れるような委員があるとすれば、彼は研究者の名に値しない、というべきである。北本委員がいうように、はじめから「結論ありきになってしまう」のでは審議はまったく無意味である。研究者は論理を尊重する。諮問案の非論理性を無視することは許されない。

5 どのような審議のありかたが望ましいか
 このHPでは、アメリカ産輸入牛肉問題に関する審議のありかたについてくりかえし述べてきたのでここに改めて私見を再録することはしない。要するに以下に示すような諸点が重要なのである。
(1) アメリカ側の対日輸出条件の妥当性に関して仔細に検討を行う。
(2) 対日輸出条件が守られた場合だけでなく、守られない場合についても論議する。
(3) 20ヶ月齢以下の牛であるとする判定がどの程度正確に行われているかを評価する。
(4) 特定危険部位の除去がどの程度正確に行われているかを評価する。
(5) 飼料管理の有効性について評価する。
(6) 日米の検査、監視体制の相違が最終的にどのように安全確保に影響するかを評価する。
(7) 必要であればアメリカ現地での調査を実施する。USDAのあり方に批判的な現地の関係者の意見を聞く。

   たとえば、月齢判定でのミスによって、BSE検査を受けていない20ヶ月齢以上のBSE罹患牛の牛肉が輸入されてくる確率の大きさが問われている。わが国の場合には、全頭検査が義務付けられているので、20ヶ月齢以上の牛はすべてBSE検査の対象となる。月齢の認定も正確に行われているのでアメリカのような問題はない。
アメリカ産牛肉の輸入によってわが国のvCJD患者の発症数がどの程度増加するか、でなくて、学問的にも不明の点が多い異常プリオン自体の持込がどの程度増えることになるのかが明らかにされねばならない。
アメリカ産牛肉の輸入再開問題はわが国のBSE対策の総決算にも相当する重大事であることを再認識しよう。輸入が再開されたとしても、消費者が敬遠するようなアメリカ産牛肉であってはならない。当面は食品安全委員会、専門調査会の審議を慎重に見守りたい。(完)


 
(05年9月1日)BSE問題・アメリカ産牛肉の輸入再開が間近に迫っている。
―食品安全委員会と政府の対応に注目しよう―
藤原邦達

 この9月中にアメリカ産牛肉の輸入再開に関する政府側の結論が出るだろう。いよいよBSE問題は画期的な山場にさしかったことになる。
 残念ながら、もう、ここまで来れば、おそらく当面は「輸入再開は行わない」というような結論は出ないだろう。それならば食品安全委員会の予定されている報告書の「輸入再開を行う」ための根拠部分に注目して、消費者の安全、安心を担保しうるほどの論理が透徹されているかどうかを確かめねばならない。

1 アメリカ産牛肉の輸入のためのステップごとに評価する
(1) 対日輸出プログラムの実行のためのアメリカ側の対策
1) と殺処理でのSRMの除去
 危険部位の除去時に非危険部位への血液、リンパ液などの飛沫汚染が起こりうる。一般に非危険部位であるとされている牛肉からも極微量ながら異常プリオンの存在が証明されている。したがってこの場合にはアメリカ全土での基本的な異常プリオン汚染度の大小が問われてくる。汚染度が大きければ輸入牛肉によってわが国に持ち込まれる異常プリオンの総量が多くなる。全頭検査を行わず、わずかに1〜2%程度の牛についてのBSE検査しか行っていないアメリカの基本的な異常プリオン汚染度をどのように判定するかが問われることになる。この点での食品安全委員会の評価のあり方に注目せねばならない。
2) 20ヶ月齢以下の牛肉であることの判定
アメリカ全土で予定されている目視での月齢確認の場合に、ある割合での判定ミスが必然的におこりうる。20ヶ月齢以上の牛の牛肉が混入してくる可能性がある。わが国では21,23ヶ月齢の牛でのBSEの罹患が証明されている。判定ミスによって20ヶ月齢以上の、BSE罹患牛の牛肉が混入して、日本の消費者がこれらを摂食する確率はどの程度になるのか。ただし、実際のところ、牛肉に含まれる異常プリオンの摂取量、摂取期間などとvCJDなどの人の被害との関係は不明であり、要するに異常プリオンの摂取総量を可能な限り小さくするための予防措置こそが重要であるということになる。
3) 検疫と選別と集荷
 対日輸出プログラムのための検疫システムを特別に構築、運用することは非常に煩雑であり、検査、検疫を厳格に実施するためには相当数の検査員、監督者を準備せねばならない。BSE検査を受けていない20ヶ月齢以下の牛の牛肉が選別され、一定地点に集荷されるが、対日輸出用の分別ルートを維持することは相当に困難であって、USDAはわが国に対していっそうの規制緩和を求めてくるだろう。この場合,OIEの基準が世界共通の検査、検疫、輸出用のスタンダードとされて、わが国の規制が問い直されることになる。
4) 該当牛肉の輸出港への輸送
 対日輸出用の輸出証明書を特別に作成せねばならない。アメリカ全土の対日輸出のための各集荷地点から輸出港への輸送が行われるが、これは相当に煩雑で困難な取り組みとなるであろう。

(2) 輸入受け入れのための日本側の対策
 アメリカ政府の輸出証明書がついた牛肉は無条件に受け入れられることになる。日本側には現在のところ輸入牛肉の安全性を独自に検証する方法がない。しかし、近い将来には、輸入牛肉での異常プリオンの存在を検出することが可能な検査法が開発されることになるであろう。
 アメリカ産牛肉の日本側での受け入れは下記のようなステップで実施される。
1) 輸出証明書の確認
2) 検疫所での検査と検疫
3) 出荷
4) 市場への配送と販売
 市場に供給されるようになったアメリカ産牛肉に関して、わが国の消費者は国産牛肉との比較を意識するようになる。輸入牛肉自体でも、オーストラリア、ニュウジーランド産牛肉などと比較されるようになるだろう。
 かりに食品安全委員会がアメリカ政府の対日プログラムに基づいた輸入牛肉の安全性を保証したとしても、上記の(1)に示したアメリカ側の対応に基本的な問題点が残されてある限り、日本の消費者はアメリカ産輸入牛肉を安心して購買するとは限らない。

<真夏の名も知らぬ花が咲いた>

2 アメリカ産牛肉の輸入のための条件整備
 アメリカ産牛肉の輸入をスムースに行うためには、日米当局が上記の問題点を克服することが出来るような方策を具体的に実施することが必要である。

  (1)日米での全頭検査体制の実施
 現行のエライザ法、ウエスタンブロット法、免疫組織化学法などでは、幼若牛での異常プリオンによる汚染を検出することが出来ない。20ヶ月齢以下の牛の検査を省略するという食品安全委員会の決定の最大の理由は異常プリオン、BSEの検査法が現状では不完全であるということにある。また検査試料の採取は現状ではと殺後に行われる。したがって既存のBSE感染牛のSRM除去時での、異常プリオンによる飛沫汚染を完全に予防することは出来ない。
 BSE、異常プリオンの検知法に関する最近の進歩に着目するべきである。関連学会や食品安全委員会では現行法よりも優れた異常プリオン,BSEの、生前、微量採血による検査法を厳密に検証したうえで、この方法を適用した全頭検査体制を実施することが可能か、否かを評価、判定するべきである。生前、微量採血検査法の採用が可能になれば、現行の月齢判定や飛沫汚染のような面倒な課題を一挙に解決することが出来るだろう。
 最終的には、OIE,WTOなどでも生前、微量採血検査法を世界的な基準として採用することを目指すべきである。

(2)輸出入に伴うすべてのリスク要因の洗い出し
 日本側ではアメリカ産輸入牛肉のアメリカ国内での取り扱いについて独自に検証することが出来ない。現状ではアメリカ政府の安全性に関する保証を無条件に信頼するしかない。したがって輸入再開に先立って、輸入牛肉にかかわるあらゆるリスク要因を洗い出し、最悪の場合を想定したリスク評価を行ってその結果を公表することが必要である。

(3) 日本の消費者の不安感の解消
 リスク要因の洗い出しが不完全で、リスク評価が適正に行われていない場合には、輸入牛肉に関する消費者の不安感が高められる結果になるだろう。アメリカ産牛肉が国内産牛肉と比較して遜色のない輸入商品として登場するためには、日米の当局が、前記したあらゆるステップにおいて周到な点検を行って、安全だけでなく安心を確保することの出来るような状況を作り出さねばならない。

(4) 異常プリオンに関する研究の促進
 国産であれ、輸入であれ牛でのBSE、人でのvCJDに関する不安感が解消されない最大の理由はこれらの疾患の原因となる異常プリオンに関して未知、不確定な問題点が山積しているからである。したがって予防原則的な措置を採用せねばならないような事態が放置されている。正常なプリオンが異常化するメカニズムや反応条件などについて不明の点が多く、BSEやvCJDが発症するための最小発症量についても動物実験から人への外挿(Extrapolation)が困難であることも周知されているとおりである。
 輸入再開のためのリスク評価でも、未知、不確定な問題点をいったん棚上げして、一定の条件下に、いくつかの仮定を設けたうえで実施せざるを得なかった。消費者の中にある漠然とした、しかし強固な不安感を解消するためには、最終的に異常プリオンに関する研究を促進することが必要である。

(5)情報公開の徹底
 輸入牛肉を生産するアメリカ現地でのBSE関連情報が完全に公開されることが必要である。食品安全委員会では随時これらの情報を解析して、対策を講じねばならない。この意味では、輸入再開後の情報の入手とそれらを解明のための体制の構築等が求められる。

(6)政治的、経済的な圧力を排除する
 安全が保証され、安心が担保されるならば輸入牛肉が拒否される理由はない。食品安全委員会の判断が出る以前に政治的、経済的な圧力が加えられるような事態は避けねばならない。本当のことを言うならば、国産牛といえども完全に安心できるとは限らない。したがって、当面、輸入牛肉が国産牛肉と同程度の安全性を持つことが立証されるなら輸入を受け入れねばならない。そのうえで、日米が協力して牛肉自体のBSE汚染、異常プリオン汚染を防止するための学理的、実務的な取り組みを強化することが必要になるだろう

 20ヶ月齢以下の牛の牛肉の輸入が再開された後、アメリカ政府はOIEの基準を盾にとって、30ヶ月齢以下の牛の牛肉の輸入再開を求めてくるであろう。この場合には、すでに21,23ヶ月齢のBSE牛を検出しているわが国は非常に困難な立場におかれることになるだろう。当面の食品安全委員会の対応に注目しよう。(完)


(05年8月20日)BSE問題・アメリカのBSE管理体制には欠陥が多すぎる
―1036件の違反が公表された―
藤原邦達

<我が家に咲いた夏の花>

 8月17日の各紙には、8月15日の米農務省(USDA)の発表として、「特定危険部位の除去巡り、米BSE対策違反1036件」という見出しの記事が掲載されていた。
 調査された期間は04年1月から05年5月で、調査の対象は、アメリカ政府が従来、日米交渉などでBSE対策の核心部分と位置づけてきた特定危険部位(SRM)の除去手続きについてである。
 たとえば「違反事例の中には、牛の年齢を区別しないで処理したり、除去に使った道具や装置の洗滌が不十分だったりする例があったという」などと書かれている。(朝日新聞、8月17日)

1 予想されていたとおりのことが明らかになった
   私はこのHPの数多くの論文のなかで、アメリカ側のBSE対策の不完全性について警鐘を鳴らしてきた。しかし、USDA、食肉輸出連合会(USMEF)などは、ことごとに日本での全頭検査体制は非科学的であり、SRM除去の徹底こそが重要である、との見解を示してきた。先日の、USMEFが行った新聞全面広告でも、インタービューを受けた小沢博士(OIEの顧問)はSRMの除去を正確に行うことがもっとも効果的である事を強調されたが、これを受けて、USMEFは、そのSRMをきちんと処理しているからアメリカ産牛肉は安全であるという「ホントのこと」を、日本の消費者に知ってもらいたいとアピールしていた。
 他方で、相当以前から、アメリカの食肉企業の労組や消費者団体の関係者や研究者の一部からは、USDAのBSE対策が不完全である、とする見解がマスコミを通して伝えられるようになっており、日本の消費者はいったいどちらを信じればよいのか、迷うような状況がみられるようになっている。

2 調査は本当に完全なのか
 それにしても、約1年半の間に、1036件もの違反がみつかったとは驚きである。わが国にはアメリカの飼育牛の約10分の1が輸出されていたのであるが、このままでは年間にどれくらいの異常プリオン汚染牛肉が輸入されてくるのか見当もつかない。わが国の消費者が今回判明した事態に慄然たるものを感じているのは当然のことであろう。
 今回のUSDAの発表については、現時点で報道された内容を信じるしかないのであるが、検査、監視がどのような形で行われたのか、検査員と監視員の人数は、監視のマニュアルの内容は、容疑牛についての届出の実際は、使用されている機器設備などの現状は、そして、はたして地域、企業別での調査の偏りがみられないのか、1036件もの違反でさえも氷山の一角に過ぎないのではないか、などと知りたいことが数多くある。この機会に、現在審議が行われている食品安全委員会では、USDAに対して、より詳細な資料の提供を求めるべきである。たとえばSRMの除去方法別、あるいは月齢別、地域、企業別の違反事例に関する統計学的な解析のために役立つ資料がほしい。とくに輸入牛肉関連では、20ヶ月齢以下の牛の処理の実態がどうなのかを詳細に明らかにするべきである。

  3 政府の責任は重い
 今回のアメリカ政府の発表の直後の8月19日に行われたUSDAのジョハンズ長官との日米会談において、新任農水相の岩永氏は、BSE対策の徹底を改めて要請されたことであろう。さらに、昨日の新聞報道では、アメリカ政府がわが国からの牛肉の輸入再開に踏み切ったという。わが国としては今回の違反事例についてのアメリカ側の説明を慎重に聞かねばならない。おそらく今後、アメリカ側では輸入再開の早期実現を強く求めてくるであろう。
 それにしても、今回の、この時期でのUSDAの発表は私たちにはまったく意外なことであった。同時に、それ以上に、この大詰めの時点でさえも、日本政府がこれほどの「ホントのこと」についての情報をほとんど持ち合わせていなかったことは驚きである。
 食品安全委員会では、現在、アメリカ産牛肉の輸入再開に関して審議を行っているが、従前のリスク評価にかかわる討議のデザインを抜本的に変更されたほうが無難であると思われる。  今回のアメリカでのSRM除去に関する情報を受けて、現時点において、至急に以下の事項についての検討が必要である
。 (1) 国産牛肉と輸入牛肉が摂食された場合の人のvCJDの発症リスクの比較
(2) 国産牛肉と輸入牛肉の異常プリオン汚染度の比較
(3) アメリカで全頭検査を実施した場合、しない場合のBSE発症率の比較
(4) アメリカでのSRM除去方式の現状についての現地調査

  4 最終的には国民、消費者が判断する
 国産品であれ、輸入物であれ、最終的にそれらを購入し、消費するのは国民、消費者である。食材の選択にあたっては安全だけでなく、安心であるかどうかが問われる。かりにアメリカ産牛肉が安全であることが証明されたとしても、リスク評価に当たって使用されたデータや仮定の質的、量的な妥当性が問題にされる。日本側としては、アメリカ現地での実態調査を実施したとしても、結局は、USDAが提供した情報に依存するしかないことになる。この状況下では、消費者の安心感を満足させることにはならないだろう。
 このHPのなかで、繰り返して提言してきたように、生前、微量血液の採取によって異常プリオンの存在を証明できるとされている最新の検査法を適用して、日米ともに全頭検査体制を確立し、国産品、輸入ものにかかわらず、消費者が満足し、安心できるような状況を確保するべきである。政府や食品安全委員会がそのための取り組みを早急に開始することが期待されている。
 食品は消費者によって選ばれる。選択の属性は多様である。文化性、経済性、嗜好性そしてもっとも重要なのは安全性であることはいうまでもない。アメリカ産牛肉の輸入が再開されたとしても安全性についての容疑が少しでも残されているような場合には、消費者は決して振り向こうとはしないであろう。(完)


(05年8月15日)BSE問題・郵政民営化とアメリカ産牛肉輸入再開問題の関連性
―性急な割り切り方ではいけない―
藤原邦達

<我が家の菜園でとれた野菜>

 小泉首相は平成17年8月8日、参議院での郵政民営化法案の否決直後に、突然衆議院の解散に踏み切った。そして8月30日に総選挙を告示、9月11日に投票が行われることになった。小泉首相は「これは郵政改革に賛成するか、反対するかを決める選挙である。」とのべている。
 しかし、そもそも衆議院の国会議員を選ぶ選挙を一法案の是非を問うものとして決め付けるのは間違いである。いかに首相といえども越権の極みである。それは、本来、国家として、国民としての最重要課題をどうするか、を問うための選挙であるというべきであり、郵政民営化問題はその一部分として位置づけるべきものである。
 郵政民営化に限っても、性急にこれに賛成か、反対か、を問うのではなく、仮に賛成だとしても、どの時点で、どの形で、どのような条件で民営化するのか、ということで多数の意見が分かれる。自民党内でも、今回反対された議員たちのなかには、十分に論議がつくされていない現時点での、あるいは内容的に完全とはいえないような法案の成立には賛成できない、という方々が相当数おられたはずである。与党内での論議を尽くして合意形成を図る努力の不足を棚に上げておいて、法案が成立しなかったから、自党内の反対派を一挙に抹消しようとするような昨今の首相の仕方はいかにも大人気ないやり方であるといわねばならない。まして小泉首相は、この選挙を改革に賛成するか反対するかを明らかにするためだ、などとしているが、決め付けや短絡もいいところである。そもそも構造改革に反対する人なんているはずがないのである。
 アメリカ産牛肉の輸入再開問題でも同じことが言える。かたくなに輸入品を締め出したいというような厳しい意見の持ち主はさすがに今時いるはずがない。輸入牛肉問題でも、どの時点で、どの形で、どのような条件で輸入するのかが問われている。今のアメリカでの規制の妥当性についての意見がさまざまに分かれているからこそ、現時点での輸入についての賛否が生じるのである。
 わが国の牛肉のBSE対策が万全であるというつもりはさらさらない。しかし、たとえばUSDAがいまだに全頭検査体制を否定しているようなアメリカ産の輸入牛肉を、わが国並みの安全度があるものとみなせるのか、という点ではさまざまな見方があるのである。あるいは現状では日本並みの安全性が保証されているかどうか、を評価すること自体が困難であるとする意見もあるだろう。異常プリオンが関係する牛肉の安全性には学問的にまだ解明できていない部分が多いだけに、性急なリスク評価をすることには問題があるというような基本的な考え方も十分に理解できる。だからもう少し事態がはっきりするまで待て、慎重を期すべきだ、という意見ももっともなことだと思う。
 郵政民営化の基本的な思想は「官から民へ」ということだという。しかしこれもどの程度、官の分野が必要か、民の分野があってよいのか、という点についてはさまざまな意見が分かれる。それなのに、現時点で、法案の採決に反対した人々がすべて、「官から民へ」の反対論者であるというレッテルを貼り付けて、彼らを追放しようとする。これはまさしく権力をかさに着たファッショそのものである。
 国民は、今何を求めているか。年金、社会保障が第1位、景気回復が第2位、郵政民営化は第6位くらいにくるという。郵政民営化論議は緊急の課題であるとはいえない。まだまだ時間をかけて取り組んでもよいのである。
 アメリカ産牛肉の輸入にも慎重でありたい。わが国からの要求をきちんと行って、それが満たされるまで、もう少し時間をかけて考えてみてはどうなのか、少なくとも私にはそう思える。
 総選挙は9月11日にきまった。当面の政界のごたごたに隠れて、ある日突然アメリカ産牛肉輸入再開の決定が行われる可能性もある。結果的に、政府が、アメリカに言われるままに、アメリカには何の要求も出来ないまま、何のカードも切れない形で、ひたすら内向きに、受身の形で問題を終息させてしまうことを恐れる。
 私は原爆記念日を迎えるたびに考える。明らかな国際条約違反の、数十万人の一般市民の大量虐殺行為が、広島、長崎で2度までも、アメリカという国家の政策として、オフィシャルに計画的に繰り返されていながら、そのような加害者に対してなんらのアピールもしないできたわが国のこれまでのあり方は正しくない。不正を黙認するということもまた、まさしく国家的な平和に対する罪悪だ、というべきではないのか。
「過ちは二度と繰り返しません。」という誓いは崇高である。だが原爆を落として、人類始まって以来の阿鼻叫喚の地獄図を描きだした当事者のアメリカには何らの反省も求めようとはしていない。
 言うべきことははっきりといわねばならない。牛肉を輸入するとしても無条件ではいけない。BSEの脅威をなくすために、わが国であれ、アメリカであれ、共通に目指すべき目標があり、なすべきことがある。それをこの機会にはっきりとさせる。たとえば、最新の生前、微量採血BSE検査法を導入する形での全頭検査体制を日米ともに実施する、そのような画期的な明瞭な提唱をこの機会に行うべきである。これこそが目に見えるカードを切るということなのである。
 わが国には、国際的に、まともに外交カードが切れないお国柄である、というようなレッテルが貼られているに違いない。事毎にそう思う。たとえば中国の反日デモによって日本国の象徴であるとされている領事館などが破損されたが、中国政府は「謝罪しない」の一点張りで押し通している。この事態に際しての日本政府の姿勢はいかにも弱腰である。国際法を盾にとって、なぜ徹底的に違法行為を追求しないのか。、国際法に基づいて、中国政府に対して「謝罪を求める」という強力、当然なカードを突きつけて、このカードを活用して外交を推進するような見せ場をなぜ造れないのだろうか。徹底した平和志向の国だからこそ、そうしたカードを切らねばならないのである。
 牛肉輸入問題にもいよいよ決着がつこうとしている。国民、消費者はうやむやなピリオドを打つべきではないだろう。(完)


 
(05年8月5日)BSE問題・科学者は正確、慎重に発言せねばならない
―OIE名誉顧問小沢博士の対談記事を批判する―
藤原、邦達

<我が家に咲いたヒオウギの花>

   OIE(国際獣疫事務局)の名誉顧問であられる小沢義博氏は世界的な獣医学とくにBSE問題の権威者として知られている。同氏は7月19日、アメリカ産牛肉の輸入再開を求めている米国食肉輸出連合会(USMEF)が行った新聞全面広告において、インタービューに答える形で、「BSEの「ホント」を知ることが大切です。」と題する、牛肉の安全性を強調する内容の対談を行っておられる。
 なお、USMEFでは7月25日にもアメリカ産牛肉の輸入再開を求める新聞全面広告を行っている。
 以下に、読後の所感を示すことにする。

1 科学者は一方的な見解だけを示してはならない
 この時期にアメリカ産牛肉を売り込もうとするUSMEFの新聞広告に登場されたのだから、小沢氏はOIEの基準の重要性を述べただけだということにはならない。結局はアメリカ産牛肉の輸入再開を容認する、という立場に立ってのことだと思う。
 ところで、そのOIEとは全く別に、わが国の食品安全委員会がBSE問題についての取り組みを行って独自の報告書を公表しており、特に、この時点において、アメリカ産牛肉の輸入再開の是非やありかたについての検討を行っており、学問的な協議が続けられているという事実がある。OIEの権威を前提として、OIEの基準を守ってさえおれば問題がないといわれるのは自由であろうが、そのOIEとは別に、この問題に関するわが国の食品安全委員会という権威ある科学者の組織で現に論議が行われている、という事実を、小沢氏は国民、消費者に向かって、客観的に、かつ正確に知らせたうえで私見を述べられるべきではなかったか。全面広告のタイトルには「BSEの「ホント」を知ることが大切です」とあるが、消費者に知らせるべき「ホント」とは以上に示したような紛れもない今日的な事実や事情であったと思われる。
 私は、OIEの権威を疑うものではない。しかし、各国には各国の事情がある。わが国の科学者間には、当然、賛否両論の見解があり、同時に、わが国の特殊な事情に即した行政的な対応が行われている。たとえば、全頭検査体制はわが国独自のシステムであり、OIEの基準である30ヶ月齢以上の牛に限った検査体制とは異なる。わが国ではようやく最近になって、20ヶ月以下の牛の検査を行わない、という食品安全委員会の見解が示されたが、自治体レベルでの全頭検査は今後とも続けられる。もちろん21ヶ月齢以上の牛では依然として全頭検査が義務付けられている。
 他方で、アメリカでは日本の全頭検査どころか、EUやOIEの基準を大きく下回るような検査体制しか実施されていなかった。この点は肝心のアメリカの一部の消費者団体からも批判されているほどである。
 アメリカがわが国と同じレベルのBSE汚染国であるとされている中で、もしも、わが国と同程度の検査体制をとっておれば、今までの公表されている2頭をはるかに超える数のBSE牛が発見されていても不思議ではないだろう。
アメリカ政府が不完全きわまるトレーサビリティーシステムのなかで、対日輸出のために実施しようとしている20ヶ月以下の牛の月齢の判定を全国規模で行った場合の誤差の大きさもまだはっきりしていない。
 そのアメリカから、その日本に向けて牛肉の輸出が行われようとしているところに基本的な懸念があるのだが、小沢氏は一人の研究者として、このようなアメリカ側の問題点についても注意を喚起されるべきではなかったか。
OIEの基準は尊重されねばならない。しかし、各国が科学的な根拠に基づいて、OIE以上に厳しい基準を設定することが禁止されているわけではない。
 もしもわが国がOIE並みの検査体制を施行しておれば、21ヶ月齢、23ヶ月齢のBSE牛は発見できていなかった。小沢氏は日本の研究者であられるが、この2例はOIEではBSEとして認められていない、という見解をお持ちになっているようである。
OIEの基準はWTO交渉での輸出入にかかわる基準にもなりうるというが、WTO協定の一部分であるSPS(sanitary and phytosanitary)協定において各国の科学的な判断や特殊な事情を尊重する規定が設けられていることを忘れてはならない。
科学者が安全性に関して何かを言わねばならないときには、以上のような事実そのものを公平に日本の国民、消費者に正しく知らせる責任があるのだと思う。
 小沢氏は危険部位(SRM)の除去こそが最重要と述べておられる。理論的にはまさしくそのとおりである。しかしアメリカ現地の関係者の証言によれば、輸出業務に関わる実際的な除去操作が完全に行われているとは到底思えない。現状のままで安心できるという保証はない。
輸入の再開という事態を受け入れるためには、その知見の不完全部分に関する懸念を打ち消すための、学問的、政策的な担保が必要になる。特にアメリカの検査体制、認証体制がこのままでよいとは到底思えない。だから、わが国の国民、消費者は慎重なのである。アメリカ側には、せめてわが国並みの、全頭検査体制、SRMの除去、飼料規制、トレーサビリティーの実施による総合防除体制の確立と遵守を求めてきたのである。

2 未解明な部分が存在することを無視、軽視してはならない
 わが国の食品安全委員会のBSEに関する報告書には、BSEの病理、人体影響等に関して約40箇所の不明、未確認事項があることが書かれている。とくにどの程度の量で、どのような条件下で異常プリオンを摂取した場合に、人の健康に影響が生じるのか、という最も肝心なところがはっきりしていない。動物実験から人への外挿にあたってどのような大きさの安全率を乗ずればよいかがわかっていない。異常プリオンの摂取量が「微量なら心配がない」といわれることが多いが、それは正確に言えば「微量なら心配がないだろう」という程度の憶測に過ぎない。
これらの未解明な部分の存在が将来的に国民、消費者の安全、健康に影響し、被害を与える可能性がないことを科学者として正確に証明することが出来ない限り、既知の事実と並んで未知部分が存在するという事実、すなわち、全面広告で言う「ホントのこと」を無視することは許されない。国民、消費者の安全に対して責任のある科学者は未解明な部分に対して慎重でなければならない。
 おそらく、わが国では、OIEの基準を守っておれば、それだけで安全が保証されると断言できる科学者は少ないのではないか、私にはそう思える。
 BSE問題にはわからないことがあまりにも多すぎる。だからこそ、わが国では、イギリスに1日でも滞在暦のあった人からの献血は禁止する、というような予防原則的な行政措置がとられているのである。
 USMEFの全面広告では、その冒頭に「「日本でも、米国でも、ヨーロッパでも、牛肉は同じように安全です。」と書いている。OIEの基準を守ってさえおれば、大丈夫。もう問題は解決済みだといわんばかりである。しかし、今日、消費者に知らせるべき[BSEの「ホント」のこと]とは、そのような楽観的な考え方とは別に,BSE問題にはまだまだ未知、未解明な問題点が数多く残されている、したがって慎重を期するにこしたことはない、という事実があるということなのである。したがってこの時点で専門家が本当に言うべきことは、OIEの基準であれ、何であれ、それらを絶対視するのではなく、関連分野の研究を極力推進して未知の部分を克服し、規制をいっそう強化して安全性を確保するためにいっそう努力せねばならない、ということである。

  3 専門家の発言は影響するところが大きい
 専門家の発言は慎重でなければならない。
自分のことで恐縮だが、私が始めてPCBによる食品、生物、人体の汚染問題に取り組んだ1970年代当初の頃は汚染の事実は確認されていても、生物やとくに人体に対する影響の部分には相当の未解明部分があった。そのような状態のなかで、一人の専門家としての発言を求められたときに、私には「汚染は微量だから心配ない」などとは言えなかった。そして一研究者としてなすべきことは、ただひとつ、深刻な汚染の事実を解明し、そしてその成果を極力公表し、食品、環境規制の強化を求める世論を喚起して、結果的に汚染の進行を食い止めることであると信じていた。したがって業界の側に加担し、あるいは行政の側に妥協して、安易に発言することは出来なかった。

(註)1973年に、遅ればせながらわが国で施行されることになったPCBの環境、食品規制措置の内容は当時世界的にもっとも厳しい水準のものであった。それは当時の各地の研究者と国民、消費者の連帯の中で盛り上がった世論の成果であったと確信する。たとえば遠洋、近海魚では規制値が設定され、これを超える魚は廃棄されることになった。現在、同様に汚染の著しいダイオキシンの場合には特別に問題の多い内海、内湾、内水魚の場合でさえも、いまだに規制値は設定されていない。

 昨今、わが国で大きな騒ぎになっているアスベスト問題でも同様なことが言える。先進国中で最も規制が遅れた責任の大半が行政側にあるのはいうまでもないことだが、関連した専門分野にあった科学者がこれまで、どのような社会的な発言や行動をしてきたかをあらためて問いただすことが必要である。いまどきになって、にわか作りの厚生労働省のアスベスト対策審議会の座長に指名された著名な専門家が長年にわたって石綿協会の顧問をしていて、新聞の全面広告ならぬ業界の宣伝ビデオに出演していたなどということが問題になっているが、非常に残念なことである。たとえ何万人に一人であろうとも、被害者の生命が奪われるような事態に対して専門家の責任が特別に重いことを忘れてはならない。
 アメリカ産牛肉の輸入問題が大詰めを迎えようとしているこの時期に、小沢氏のような権威者がアメリカ産牛肉の輸出再開を極力推進している米国業界の宣伝広告の一翼を担って発言されたことの影響は大きい。OIEの路線とは別に、わが国独自の路線を模索して鋭意努力しておられる食品安全委員会の研究者たちにとっても、おそらく今回の、この時期での小沢氏の意見表明は全く意外なものであっただろう。
 異常プリオンというDNAとは無関係な、たんぱく質様の高分子物質が人畜共通の感染体になりうるという事実が持つ意義は重大である。その異常プリオンに起因するBSE、vCJDにかかわる未解明な部分を切り捨てて、OIEの基準さえ満たしておればよいと言わんばかりの、今回の小沢氏の記述を多数の国民、消費者が信じるようになるだろう。そして残念ながら、規制緩和の方向を指向することに大きく寄与することになるだろう。この大切な時期に、小沢氏が資金豊富なUSMEFの支援のもとに全紙面新聞広告という形で自説を表明することが出来たことをうらやましく思うのは私だけではないだろう。

4 科学者には前向きの提言こそが待たれている。
 現状で、未知、未確認部分が残されている以上は、予防原則的な総合防除体制を確立することが必要である。この問題については私の既存のHPの論文において繰り返し述べておいたからここでは再録することはしない。
 私たちは輸入牛肉だけが問題で、国産牛肉には問題がないといっているのではない。今日的な異常プリオン汚染の可能性が否定しきれない牛肉に関しては輸入であれ、国産であれ、予防原則的な対策を強化することが必要である。したがって現時点において、専門家が規制の緩和方向での見解を表明することには問題があることだけは確かである。
 わが国であれ、アメリカであれ,EUであれ、全世界の各国では、たとえば、開発がほぼ終わったといわれている、微量採血による生前での診断、判定が可能な最新のBSE検査法の実用化を目指すべきである。その上で、同法を適用する全頭検査体制を採用して、徹底した予防対策の確立に向けた取り組みを行うべきである。そして、OIEこそがその方向でのイニシアチブをとるべきである。もちろん、SRMの除去その他の基本的な対策にも今以上に力を注ぐべきである。
 今こそ、専門家によって、そのような前向きの対策のための提言が果敢に行われるべき時であると思う。(完)


(05年7月21日)BSE問題・今こそ検査法と検査システムを再構築せよ
―全頭検査体制こそ最終の政策的目標としてふさわしい―
藤原邦達


<わが家の庭の花ミズキ>

 私には、衛生研究所での在職当時に、フェニ―ルケトン尿(PKU)症の検査を担当していた経験がある。PKU症は約5万人に1人の割合で、新生児に見られる先天的な代謝異常である。しかし、出生直後の早期に発見して治療食を与えれば、痴呆などの進行を食い止めることが出来る。我国では、今日、ほぼ100%の出生児に検査が行なわれており、PKU症が発見された場合には、保健所の指導下に、きめ細かく食事指導などが行なわれて、被害が予防されることになっている。今日、PKU検査は公衆衛生学的な対策として大きな役割をはたしている。
 このようなPKU検査を維持するためには勿論相応のコストがかかっている。あるいはリスク・コストパフォーマンス、費用効果論者の一部には、そのようなコストをかけることが無駄であり、その費用をもっと緊急性のある分野への対策に振り向けるべきであると言う意見があるにちがいない。しかし,PKU検査のシステムは妊娠、出産に関わって国民的な、安全、安心を担保するものとして、いわゆる金銭的なコスト勘定では表現しがたい大きな効果と役割をはたしている事を認めねばならないだろう。
 BSE対策に関連して、我国の専門家のなかには、全頭検査体制が不完全である事を強調し、リスク論的にも不必要であるとするような見解がある。アメリカ政府の関係者にいたっては全頭検査体制が非科学的であり、わずかに1%程度のサンプリングによるサーベイランスで十分であるなどとする見解を示している。
 しかし、私はそうは思わない。人への被害を防止するうえで、BSEの全頭検査体制の維持をはかることが無駄であるとするような考え方は誤っている。以下に、今後、現行の検査法をさらに改善することによって、いっそう全頭検査体制の必要性と効果が明らかになることを示しておきたい。

1 BSE、vCJD、異常プリオンに関わるリスクは小さい、という見解について
   始めに、全頭検査対策を「無駄である」とする根拠として、異常プリオン関連の諸疾患の人に対する「リスクが非常に小さい」と判断されることがあげられているが、はたしてこれは正しいといえるのだろうか。
 結論は、現状でリスクが小さいと断定するのはなお早計である、ということである。その理由についてはこのHPのなかで何回かのべてきたとおりであるが、要は、現状では異常プリオンによるBSE、vCJDの牛や人に対するリスクを発症数というインディケーターだけで計測してもよい、といえるような根拠が未確立である、という科学的な事実が厳然として存在しているからである。また、我国でのvCJDの発症数が1人以下であると予測したリスク評価の方法論には相当な無理があり、不完全であることが否定できないからでもある。

2 現行の検査法が不完全である、という見解について
 わが国の全頭検査方式のために用いられている現行の検査法が不完全であり、一般に20ヶ月齢以下の牛のBSEを検出できないことは認めねばならないだろう。幼若,低月齢牛では、異常プリオンのいわゆる危険部位といわれる脳、脊髄等への蓄積が不十分であって、現行検査法にはかかってこない。しかし、EUやアメリカなどで行なわれている検査ではほとんど発見できなかった20ヶ月齢代の2頭の牛のBSEを我国の全頭検査体制の下では検出することが出来たという事実がある。
 現行の全頭検査体制は確かに不完全ではあっても、少なくとも非全頭検査体制よりはBSE牛の発見確率がより高い、「よりよい検査の体系」であることは認めねばならない。
 リスク管理に当たっては、リスク評価で明らかにされた「安全」を確保せねばならないが、リスク評価に際して未確認部分が残されているような場合には、「安心」の確保に関わる措置もまた具体的に必要とする。全頭検査体制には、そのようなリスク管理上の意義も認められるというべきである。検査体制の維持に要する費用の大きさも、公衆衛生対策としては恕限度以内であると考えられる。

3 検査法の改良についての見解
 全頭検査を採用しないひとつの理由として上げられている現行検査法の不完全性を克服する必要があることは認めねばならない。今日的な検査法はエライザ法、免疫組織化学法、ウエスタンブロット法を組み合わせたものであるが、所詮は、牛のと殺後の脳などの生体組織を用いる方法であって、勿論、異常プリオン自体を検出することもできない。
 しかし現行法が実施されてからの3年間に世界的に検査法の改良がすすみ、と殺後の処理が簡単、効率的になっただけでなく、最近では、と殺前に採取した血液などの生体資料を用いることが可能な方法も発表されている。以下に、その数例を示すことにする。

(1) 東大、東北大学、伊藤ハムの診断チップ
 このチームでは異常プリオンを見分ける抗体を独自に開発した。検査に必要な脳の量も微量ですむ。検査時間は従来の約6分の1、検査コストも10分の1程度に削減が可能。縦7センチ、横3センチのガラス板に彫った幅0,1ミリの溝の中に、脳をすりつぶした液を注入し、抗原抗体反応を利用して異常プリオンを検出することが出来る。
(以上は05年3月5日付け、日経、朝日新聞などの報道記事からの要約)

(2) カリフォルニア大學のプルシナー教授門下が開発したCDI法
 と殺後の資料を用いて、従来法よりも高感度、短時間、低コストで実施可能な検査法である。
(民主党の04年8月のアメリカBSE調査団の報告書で紹介)

(3) VACCI−TEST社のVacci―テストBD
 Vacci―テストBDは家畜から採取した一滴の血液を用いて30分以内にBSEを診断することができる。したがって放牧中の牛の集団検診に使用が可能である。畜産業界での利用が期待される。まもなく家畜生産者は彼らの牛がBSEのような脳症に罹患していないかどうかを見分けることができるようになるだろう。いかなる国境を越えた輸出でも可能になるにちがいない。「世界で最初の、簡易で、信頼できる、経済的な生牛用の診断用のテストである」としている。
(同社の05年7月9日の同社のカタログの一部から要約)

(4) Adlyfe社の診断キット
 Adlyfe社の最初のキットであるBSE−pronucleonは迅速、簡易な血液のスクリーン処理法によって生牛でのBSEを診断することができる。このキットは臨床前、症候が見られない牛や感染期の牛について、わずか30分以内に、変異型のプリオンを正確に検出可能にするだろう。この分析の高感度は血清アルブミン、ゼラチン、中枢神経組織のような牛の副産物への応用も可能であろう、としている。
 第二のキットであるTSE−pronucleonは人のvCJDの診断に使用が可能である。
(同社の05年7月現在の製品カタログの一部から要約)

 以上のような改良法、とくに生前の微量の血液採取によってBSEだけでなく異常プリオン汚染を検知できる方法を適用することが可能になれば、個別の、あらゆる牛の健康を確認する方法としての全頭検査体制の採用は、将来的に、必ず、当然のこととされるようになるだろう。
 全頭検査体制は今や無意味どころか、全国、全世界的な適用が可能となることが期待される。それは科学技術の進歩が可能にした、時代の必然であるということが出来るだろう。

4 検査体制の整備に関する見解
 公衆衛生学の立場から、多数の検査事例に接してきた体験から、私は、BSE、vCJD問題に関わる検査体制では以下の点に留意することが必要であると考える。
(1) 検査目的の明確化
 人や生物、環境における、化学物質や細菌、ウイルスそしてBSEでの異常プリオンなどによる汚染の、あるいは症候の地域的、集落、群体的な広がりの傾向を把握するための、いわゆるサーベイランスを目的とする検査がある。この場合には、ある割合でのサンプリングに基づく検査を実施して統計学的、疫学的な異常事態が発生し、存在していることを証明することになる。
 しかし、サーベイランスにあたっては、地域的、集落、群体的な検査対象の分布状況が一様ではないような場合が多く、母集団に対するサンプル数の割合がその検査の目的に相応しているかどうかが問題になる。たとえばアメリカ農務省では、アメリカ全土での例年約3500万頭にも及ぶと殺牛のうちわずかに1%程度の、しかも異常が認められる牛についての検査を行っているが、これではサーベイランスの目的を達成することが出来るかどうか疑問であるといわねばならない。
 検査方式の選択は、その課題によって影響、被害をこうむる当事者である消費者、市民の要求や期待に即して決定されねばならない。リスク管理に際しては、リスク評価によって満たされる安全だけでなく安心の確保に関しても対策が講じられることが望ましい。  わが国の全頭検査の方式はその意味においてリスク管理上、きわめて合理的であり、消費者の安全、安心を担保するものとして、生産、消費の経済的な安定にも大きく寄与するものとして有意義であるということが出来るだろう。
(2) 検査技術の向上
 検査目的を確保することのできる検査法であるかどうかが問題になる。わが国の全頭検査の目的を達成する上で、従来、幼若牛や感染当初の牛でのBSEに関する症候や異常プリオンが存在することの証明が困難であったことは事実である。
 現行のBSE検査法の欠陥を直視せねばならない。わが国ではこれまで約3年にわたって当初の検査方法が固守されてきた。この間の世界的な検査技術の進歩は著しく、時流に即した統一検査法の改正が必要であると思われる。
 検体の採取方法のほか、検査法の感度、精度、所要時間、検査コスト、設備、施設、人員など関連して検討を要する要因は数多くある。この際、国が主導権を行使して、早急に、公定法を制定するために努力することが望ましい。
 たとえば前述したVACCI社のVacci−テストBDやAdlyfe社の診断キットなどを導入すれば、生前の牛からの微量の採血によって、30分以内に異常プリオン感染の有無を知ることが出来るようになるだろう。
 もちろん、新しい検査法の採用に当たっては、検査可能な月齢や検査条件にかかわる誤差などの諸種の制約について事前に十分な検討を加えて置くことが必要であるのはいうまでもない。
 新しい検査方法の採用、導入によって全頭検査体制の確立が可能となることが期待される。検査を30ヶ月齢以上に限定するとか、20ヶ月齢以下を除外するとか、検査のための月齢の判定対策が必要になる、などというような煩瑣な現状から一挙に脱却することが可能になるかもしれない。
(3) 検査コストの低減
 現行のBSEの全頭検査体制の維持に必要とされる国庫の負担は約40億円であるといわれているが、前述したような新しい検査法の適用によって、いっそうの検査コストの低減が可能になれば、将来的には、国庫負担をやめて、検査費用を消費価格に上乗せすることが可能になるかもしれない。
(4) 検査体制の整備
 わが国の現行の全頭検査の体系は世界的に見ても特徴的なものであるとされているが、新しい検査法の導入によって、生産、流通、消費の各段階での安全、安心の確保がいっそう確実なものとなり、わが国が全頭検査体制を世界的な規範にするための先鞭となることができるかもしれない。

   以上のように、BSE検査法の革新に伴って、これに即した全頭検査体制の維持、確立が可能な時期に来ていることは明らかである。食品安全委員会では、難渋で批判の多い「月齢の以上、以下の牛のBSEに関するリスク評価」などに振り回されることをやめて、この際,BSE検査法の革新と全頭検査体制の再確立を目指した取り組みを始めるべきである。おそらくそうすることは、国民、消費者はもちろん生産者の期待にかなうところでもあって、行政的、政治的にも高く評価されるような成果を約束するものであることは確かであると思われる。(完)


 我が家に咲いたアマリリス 

(05年7月13日)BSE問題・リスクアナリシス方式を誤用してはならない
―国民、消費者は慎重でなければならない―
藤原邦達


1 そのリスク評価の方法論に注目しよう
 権威あるリスク評価の専門家の某氏は、「日本人がvCJDに感染する確率は200兆分の1」であると主張しておられるそうである。また彼が所属している食品安全委員会の専門調査会で行われたリスク評価でも、我国でのvCJD患者の発生数は0,1〜0,9人と予測されており、人に対するリスクは非常に小さい、とされている。そのようなリスク評価の結果を前提にすれば、アメリカ産牛肉の輸入再開は当然で問題がないことになるだろうし、そのための全頭検査体制は修正どころか廃止しても差し支えがないことになるだろうし、消費者が輸入牛肉などに不安を感じるのもナンセンス極まりないということにもなるだろう。したがって行政側では、いわゆるリスクコミュニケーションを盛んに行なって消費者の無知蒙昧を解消するために努力する必要がある、ということになるのかもしれない。
 しかし、BSEの原因物質である異常プリオンの人に対する被害や影響をvCJDによる発症者、死者の数という尺度だけで計測するということがはたして科学的に正しいといえるのだろうか。また、BSEの畜産分野での広がり、異常プリオンによる汚染の拡大を単にBSEによる牛の発症数、発症率という尺度で見るということが科学的に肯定できる、といえるのであろうか。
 リスク評価は「事実」に基づいて行なわれねばならない。しかしBSE、vCJD問題に関する限り、単に牛や人の死亡数、発症率だけが「事実」なのではなく、被害の発生に関わる多数の「容疑」が存在するということもまた隠しようもない科学的な「事実」なのである。しかも、このような容疑事実の存在は専門分野の研究者が認知せねばならない程に十分に明確なのであって、そのような容疑事実の存在を放置したままで、死亡数、発症率だけを唯一の尺度にしてリスク評価を行なってもよい、とするような理論的、実際的な根拠を提示できないままで、たとえば「BSEやvCJDの発症リスクが非常に小さい」などという評価の結果に基づいて対策を講じることには基本的に疑問がある、といわねばならない。
vCJD患者であることの証明は現状では非常に困難である。生前の確定診断がしにくい、死後の開頭検査が必要だ、というような「事実」が存在することを無視することは出来ない。我国の専門調査会でのvCJD患者の発生数の予測はイギリスでの死者数150人から比例計算して算出されたものであるが、このイギリスでの死者数の統計が確実であるという証拠はない。現に最近になって、盲腸の検査結果による推計では3800人のイギリス人がvCJDに感染していた疑いがある、とする説が浮上してきている。
 リスク評価に際しては、根拠資料として利用される「事実」についての認証を厳格に行なわねばならない。同時に、現状において、その事実だけで評価することができるかどうかの論理的な判断を怠ってはならない。異常プリオンが関与するBSE、vCJD問題については、現状では、未解明、未知、不確実な部分が多くあると言う「事実」を無視、ないし軽視して行なわれたリスク評価の結果を無条件に信用することは危険であると思われる。
 異常プリオン汚染の問題点はBSEやvCJDの発症だけにとどまらない。異常プリオンの侵入によって引き起こされる生体影響にはなお多くの未解明な部分がある、と言う「事実」に無関心であることは許されない。我国でのBSEの発生予測数が50頭以下、vCJD患者の発症予測数が1人以下であるとしたリスク評価の結果なるものが一人歩きして、全頭検査体制を撤廃するために、あるいは輸入牛肉の解禁を促進するために、ひいては無知な消費者の不安を解消するために、ということで各地で熱心に発言しておられるような専門家がいるとすれば、その彼の論理の「科学性」を疑わねばならない。
未知、未確認部分が認められるかぎり、対策はすべからく予防医学的であり、公衆衛生学的でなければならない。周到であり、慎重であり、総合的であり、予防原則的でなけれ
ばならない。そうすることが安全を確保することに寄与するだけでなく、消費者に対する安心を担保することにもつながるのである。
今時、「危険部位を除去しないで感染牛一頭が食用になったときの、vCJDの発症確率は2000億分の1である」などと、いかにも断定的で、大胆極まりないリスク評価の結果を消費者の前に示して、既存のBSE対策の緩和を積極的に促進するための役割をはたす、などということは全く信じ難い。これではまるで全頭検査の否定だけでなく、危険部位の除去さえも要らないといっているようなものである。もしもリスク評価の手法や条件や仮定の一部を変えれば、そのリスク評価の確率はたちまち一桁や二桁は変動してしまうのである。

 ところで、全頭検査によって得られた個別、点源のデータにもとすくリスク評価の精度は確実に高くなる。だから、私は全頭検査体制は今日の専門家そして行政側が目指すべき最善、最終的な安全確保のシステムである、と思っている。
 最近になって、現行のエライザ法、免疫組織学法、ウエスタンブロット法よりもはるかに感度、精度に優れていて、しかも簡易、低コストであるような検査法が急速に登場してきている。しかも現状での死後の脳などの検体組織片を必要とせず、生前の牛から採取された血液一滴で,30分以内に、しかも従来法よりも低コストで診断が可能な検査キットが開発されて発売されようとしている。もはやアメリカ政府が言うような、わずかに1%以下の検査しか行なわないサーベイランス・システムを固執するような時代ではなくなった。国産、輸入にかかわらず、全ての牛の生前、全頭検査システムの運用が可能になろうとしている。20ヶ月齢以上とか以下の検査などということで大騒ぎをしていて、リスク計算のために右往左往する時代ではないのである。これが今日的なBSE対策のための安全確保手段の方向性である。専門家と名の付く科学者が今時全頭検査を廃止することを勧めるような主張をするなどということは全く信じ難いことである。
 わずかに年間35億円の国庫負担によって、我国の防疫体制の中で、これまで何の無理もなく実施されてきた牛のBSE全頭検査システムを他国の圧力によって一方的に修正せねばならない理由はなかった。20ヶ月齢以下の牛の検査を除外してもかまわないとするリスク評価のために大げさに取り組む必要もなかったのである。輸入再開が本当に必要であるならば、BSE問題の専門家とされているような科学者は内容的に格段に進歩した検査法を採用した上で、全頭検査体制の推進を我国の政府だけでなく輸出国側にも強く要請するのが筋であったはずである。
リスク評価は必要である。しかしこのHPで何度も強調してきたように、リスク評価の前提となる条件や仮定が存在することを軽視、無視して一方的、機械的にリスク計算を行なうのは誤りである。不完全なリスク評価の結果に基づく対策は誰かによって悪用されることさえあるだろう。
消費者は「リスク評価が行なわれた」ことよりも「どのようなリスク評価が行なわれたか」に注目せねばならない。
真に必要なリスク評価は、時代的、研究的、技術的な方向性を見誤らないで、最も先進的、実証的な手法を取り入れて、結果として得られた、現状で最も精度の高いデータに基づいて行なわれたものでなければならない。

2 リスク管理は総合防除体制で
 未知、未確認事項が多い課題でのリスク管理では、単純にリスク評価の結果にしたがって対策を講ずればよい、というわけにはいかない。リスク評価のために利用された統計や資料の確実性に問題が残されている場合がある。たとえばイギリスやEUでの既存のBSEやvCJDの発症に関する統計には混乱期のものが含まれているし、検査法などが未完成で症候、診断にも確実性を欠くものがあると見るべきであろう。とくにイギリスでのvCJD患者の発生数を巡って、公式に発表されている数字が正しいかどうかについての論争は未だに続いている。こうしたことはすべて異常プリオンの病理に関して不確実性が残されていることに起因しているためだと思われる。
 既存のCJDとvCJDの区別は患者の死後の開頭剖検によらなければならないが、そのための患者の家族の了承がいつでも得られた、あるいは得られるとは限らない。イギリスだけでなくEU諸国でのvCJDに関する既存の統計が確実なものであるかどうかにも問題があると考えるべきである。
食品安全委員会の専門調査会では我国でのvCJD患者の発生予測を行なって、0,1〜0,9人という数字を算出している。しかし、この結果を導く過程で使われたイギリスでのBSEの発生頭数やvCJD患者の発生数を絶対視することには問題がある。また原理的にイギリスと我国を比例関係で対比してよいのかという問題もある。異常プリオンの感染経路のひとつに輸血があるがこの問題をどのように取り扱えばよいのか、という難問も棚上げされている。感受性に関する遺伝子型の問題も非常に大雑把に取り扱われている。
現状ではBSE、vCJD、異常プリオン問題には未知、未解明な問題点が多く、リスク評価が非常に困難であることを認識して、研究者自身が慎重な態度で臨まねばならない。「我国でのvCJD患者の発症数は1人以下で、BSEのリスクは非常に小さい」とする見解が一人歩きして、世論の中に定着してしまったように思われるが、第一にBSEのリスク、vCJDのリスクと異常プリオンのリスクの関係があいまいであり、第二に牛、牛肉、ヒトでの被害、影響の関連性が十分に明らかにされていないし、第三に、人での最小発症量、潜伏期間、発症条件なども完全にわかっているとはいえない。
以上に示したように、リスク評価が困難で、その結果には問題があると客観的に認められるような場合のリスク管理はすべからく予防原則的でなければならない。対策は総合防除的である事を必要とする。この意味で、行政側では今回、従来の全頭検査体制を修正するべきではなかったと考えられる。

3 リスクコミュニケーションの場を重視しよう
 BSE問題以降に、一躍、消費者参加の定番となった感のあるリスクコミュニケーションの場での行政、食品安全委員会、国民、消費者の意見交換のありかたについては別の機会に十分に論じる必要があるが、ここではリスクアナリシスとの関連で、以下の点についてだけ触れておくことにする。
(1) 国民、消費者を説得する場にしてはならない
 リスク管理にあたる政府と食品安全委員会の立場は基本的に異なっている。リスクコミュニケーションの段階では、リスク評価を行なった食品安全委員会と国民、消費者が意見を交換するのである。そして、そのコミュニケーションの結果に基づいて政府がリスク管理を行なうのである。政府、食品安全委員会が一体となって消費者を説得しようとする、などというような過ちを犯してはならない。とくに農水省や厚生労働省はその立場を自覚せねばならない。行政側はリスク管理を実施する段階になって初めて国民、消費者と対等に向かい合うことができるのである。
 食品安全委員会では、意見交換の結果次第では、既存のリスク評価のありかたや評価の結論について再検討を必要とする場合がある事を謙虚に認めねばならない。意見交換会とあいまって行われるパブリックコメントでも同様である。
 現状では、意見交換会やパブリックコメントの場が本当の意味でのリスクコミュニケーションのために役立っているとは思えない。
(2) リスク評価の結果を一人歩きさせてはならない
 国民、消費者は、リスク評価が行なわれたから、その結果を尊重するのではない。科学的、論理的に首肯できるようなリスク評価であると認められるからこそ、その結論を重視するのである。
 使われた資料、統計に不完全な部分があったとしても、あるいは未解明な事実との関連性を差し置いて、幾つかの仮定に基づいた推論を行なった上で、あえて一定の結論を導くことが求められる場合があるかもしれない。しかし、そのような場合には、リスク評価を行なった当事者には残された問題点について慎重にコメントしておく責任がある。
 専門家はあいまいなリスク評価の結果を一人歩きさせるための積極的な役割を担ってはならない。
 国民、消費者は提示されているリスク評価の結果が導かれた過程について注意する必要がある。私はかねてから官製のリスク評価やリスク管理のありかたを検証するための、消費者、市民側のチェック体制を整備する必要がある事を主張してきた。
(3) リスク管理は総合防除的でなければならない
 一般にリスク評価の結果に基づいてリスク管理が行なわれる、などといわれるが、リスク管理を行なう行政側では、提示されたリスク評価の結果に基づくだけでなく、さらに国民、消費者の要請や心情に配慮した政策を主体的、総合的に実施する責任がある。たとえば、食品安全委員会のリスク評価の結果では、20ヶ月齢以下の牛の検査を除外してもよい、ということであっても、我国の行政側では、各自治体において、事実上全頭検査が継続的に実施されるような措置を講じることにした。これはリスク管理としては妥当なものであった。さらに、たった1日でも英国滞在歴のあった人からの献血の禁止も予防原則的に評価されるリスク管理のありかたであったといえるだろう。
 総合防除的なリスク管理とは、あらゆる可能性に配慮した被害防除のための対策を講じることである。BSE問題に関連していうならば、学理的に確立されていない事象についても配慮を怠らない、飼料の管理、危険部位の除去、監視、届出、検査法の開発、検査体制の拡充、トレーサビリティー、生活歴の把握等の総合的な対策を実施することである。

   国民、消費者は、BSE,vCJD、異常プリオン問題に関するリスクコミュニケーションの場において、既存のリスク評価の結果にこだわらず、最終的に消費者の安全だけでなく、安心にも寄与する形でのリスク管理が行われるように、堂々と主張するべきであろう。(完)


 宇治植物園のスイレン 

(05年7月4日)BSE問題・アメリカは本当にBSE清浄国なのか
―アメリカは異常プリオン対策を強化せよ―
藤原邦達


 従来アメリカ政府は自国をBSE清浄国であるとしてきた。その前提で約1年にわたったアメリカ産牛肉の輸入再開に関する日米交渉では、我国に対して強硬な要求を突きつけできた。しかし、その後、食品安全委員会において、輸入牛肉と国産牛肉のBSEに関するリスクが同等であるかどうか、という政府からの諮問について審議が行なわれている最中に、アメリカで2例目の、しかもカナダ産でなくて自国産の牛でのBSEが検出された。したがってアメリカが清浄国である、といえるかどうかが疑わしくなってしまった。
食品安全委員会がアメリカ産牛肉の「BSEに関するリスク」について検証するためには、基本的にアメリカ現地でのBSE汚染の実情が明らかにされることが必要となる。しかしこれは非常に困難な作業であり、相当慎重な取組みを行なうことが求められている。
本来、輸出国は輸入国に対して自国の輸出品の安全性を確保する責任がある。その意味ではアメリカ産牛肉の安全性に関する実態を精査して、信頼できる情報を我国に対して提供することはアメリカ政府の責任である。現状ではこの責務が正しく果たされていないことは明らかである。

1 アメリカでのBSEに関する実態は正しく把握されているとは思えない。
 はじめにBSE牛の検出数に関する各国の実情を示しておこう。まず我国では全頭検査体制が運用されていて、これまでに累計約300万頭の検査が行なわれてきた。そして結果的に20頭のBSE牛が検出されている。そのうち歩行困難や神経症状があった牛は11頭、無症状の牛は9頭、20ヶ月齢代のものが2頭であった。
他方、アメリカでは年間約3600万頭のと畜牛のうち、主として何らかの症状のある牛に重点を置いて、これまでに全体の1%程度の約40万頭について検査が行なわれてきた。そして現在までに2頭のBSE牛が検出されている。うち1頭はカナダ産であり、他の1頭は自国産であった。
カナダでの実情はアメリカほど明らかではないが、アメリカの約10分の1とも言われる飼育牛のうち、3頭のBSE牛が発見されている。カナダからアメリカには昨年5月まで年間約50から170万頭の牛が輸出されていたという。

 ところで、我国の検査法と検査体制のもとで検出されたBSE牛のうち無症状の牛が約半数見られたことは注目に値する。また比較的若齢の牛が約1割もいたことにも注意しなければならない。
より高感度、高性能の検査法を採用し、より網の目を細かくして検査を行なえばBSE牛の発見率が高まることは明らかである。しかしアメリカ政府は、アメリカの中小肉牛関係企業の組合などが対日輸出用に我国と同様な全頭検査を採用したいとする申請を却下した事例に見られるように、従来BSE検査対策には熱心であったとは言い難い。これは非常に理解し難いことである。
イギリスの80年代後半から90年代にかけて、BSEの発症数が18万頭に及んだことは周知されているが、そのイギリスからアメリカは我国の約10倍の生牛を輸入していた。したがって普通に考えれば、異常プリオンの定着圧力とでもいうべきもの、あるいは現状でのBSEの発生リスクが日本より低いはずがないと思われる。
EUの食品安全庁の2004年のBSEリスク評価では、アメリカは日本と同じレベル3(可能性あり、未確認、又は低レベルで確認、38カ国)に分類されており、侵入リスクが1980年から1990年は中程度、1991年から1995年は非常に高い、1996年〜2003年は極めて高い、と評価している。牛の輸入では、イギリスから323頭、イギリスのほかその他のリスク国から相当量のMBMの輸入があったと記載されているし、2003年に到る暴露リスク対策でも「極めて不安定」であったとされている。
アメリカがもしも我国と同様な検査法と検査体制を採用していたならば、おそらく2頭程度の検出ではすまなかったのではないか、と考えるのは決して不自然なことではないだろう。すくなくとも、この程度の検査システムで、アメリカ政府が自国をBSE清浄国などと呼ぶのは正しくないというべきである。
検査体制を非力なものにしておくのは危険なことである。なぜならBSEの病原体である異常プリオンは感染性を持ったたん白質様の高分子物質であって、長期間の経過のもとで、動物、人の体内で増殖することが知られている。BSEであることの発見を免れた牛と同じ汚染飼料を摂取した牛もまたいつかは発症する可能性がある。しかも検査体制が不完全な場合にはこれらの容疑コホートの大群も同時に見逃されてしまうのである。
20ヶ月齢以下の牛の牛肉の輸入を行なう場合でも、未検査の20ヶ月齢以上の牛の牛肉が混入する可能性がある。またそもそも、検査法の感度を上げた場合に、20ヶ月齢以下の牛にBSEが発見されないという保証もありえない。
いずれにしても、アメリカ側が正確な情報を提供しないのであれば、アメリカ産牛肉の輸入の可否を審議するためには、食品安全委員会は、独自に、リスクを評価するための最も基本的なバックグラウンドとして、アメリカでのBSE汚染の実態を把握するために全力をつくさねばならない。

2 答申に際しては、アメリカ政府に勧告を行なうべきである
 食品安全委員会は、今回の答申に当たって、アメリカでのBSE汚染の実態の把握が困難であった事を明記するべきである。あえて「BSEに関するリスク」を評価しえた場合でも、どのような仮定を置いたかを明示することが必要である。
 そして今後とも円滑な輸入を実現するためには現行のアメリカでのBSEに関するリスクを少しでも減殺するために、以下のような体制整備につとめるように勧告せねばならない。
(1) トレーサビリティーシステムの整備
 我国並みのトレーサビリティーシステムを一刻も早く実現して、月齢の判定ミスによる、20ヶ月齢以上の牛の牛肉の混入を防止することが出来るようにせねばならない。
(2) 牛のMBM(肉骨粉)の鶏、豚の飼料への利用の禁止
 我国並に牛の飼料への異常プリオンの交差汚染を防止するための規制措置を厳格に実施せねばならない。第2例目のBSE牛の飼料には異常プリオンの汚染があったことが疑われている。交差汚染の可能性を放置しているかぎり不測の事故の発生を防止することは出来ない。
(3) 検査法の改良
 第2例目のBSE牛は我国と同様なウエスタンブロット法を採用したことによってはじめて発見されたのであるが、現行の検査法の改善が必要である。カリフォルニア大學のプルシナー教室が開発した高感度のCDI法は我国でも採用を急ぐべきであると思われるが、アメリカでも実用化を検討するべきである。
 検査法の開発では生前、微量の体液、血液による異常プリオン自体の迅速、簡易、廉価、高感度検出の方向での研究を促進するべきである。このような検査法の開発によって、生前、全頭検査体制がおのずから実現することになるであろう。
 アメリカはプリオン研究のメッカでもある。BSEの検出以前に異常プリオンの定性、定量検査法の開発と実用化のための世界的なパイオニアになることを目指すべきである。
(4) 検査システムの改善
 検査法の改良と合わせて、1億頭を超えるといわれるアメリカ全土の牛の健康管理が可能になるような検査体制を整備せねばならない。いうまでもなく、その場合の最終目標は全頭、生前検査のチェックシステムである。神経症状などを示すダウナー(へたり牛)に偏った現行の検査システムでは信頼性に欠ける。しかもアメリカでは現在全国に7箇所のBSE検査センターが設置されているが,ここでは年間38万頭分の検査しか行なわれていない。検査数の増加が至上の命題であることはいうまでもない。もっと正確に、丹念に隠された異常プリオンの所在を突き止めて、汚染の拡大を食い止めるためのシステムを構築せねばならない。
 アメリカの著名な消費者団体であるコンシュウマーズ・ユニオンが生後20ヶ月齢以上の牛についての全頭検査を農務省に要求していることや一部の業界から対日輸出分についての自主的な全頭検査を実施したいと要請している事実を評価するべきである。
(5) SRMの除去の徹底
 異常プリオンは厳密にいえば神経節にも分布しており、肉質、内臓からも検出されている。しかし大部分はSRM(特定危険部位)に集まるために、SRMの除去が徹底されることは非常に重要である。もちろん、この点はアメリカだけのことではない。
(6) 規制、監視、認証体制の強化
 アメリカでは議会、消費者団体の一部からBSE対策の強化を求める要請が行なわれるようになっているが、政府の規制、監視、認証のための人的、財政的な整備を行なわねばならない。とくに対日輸出プログラムを推進する場合には相応の体制強化が必要になると考えられる。
 山内一也東大名誉教授の資料によれば、我国では年間のとさつ数が120万頭で、そのためのと畜検査員(獣医師、地方公務員)が2152名いるが、アメリカでは年間のとさつ数が3600万頭と膨大であるにもかかわらず、規制、監視、認証にあたると畜検査員は8000名しかいないという。と畜検査員1人あたりの担当頭数は我が国が約550頭に対してアメリカでは約4500頭であり、このままでは今後の対日輸出のためのプログラムを円滑に推進できるのかどうかにも疑問が残る。
(7) 有識者の意見の尊重
 アメリカにはBSE問題をめぐって多様な意見を持った有識者たちがいる。アメリカを清浄国であるとする研究者に対して、他方で懐疑的な見解を述べる研究者がある。アメリカ政府はこの際、異常プリオン問題に関してこれらの有識者の意見を十分に聞いて、その結果をBSE、vCJD対策の強化のために役立てるべきである。(完)



はじめて見たパイナップルリリーの花をいける

(05年7月2日)BSE問題・輸入再開関連の諮問をどう受け止めるか
―食品安全委員会の審議のありかたに注目する―
藤原邦達


アメリカ、カナダ産牛肉の輸入再開に関する政府の食品安全委員会に対する諮問をどのように受け取るかは現在進行中の審議ときたるべき答申の内容を大きく左右するものとなるだろう。諮問が問うているものを誤って受け取るような事をすると国民、消費者の期待に反した結果を招くことになる。したがって、この際諮問の受けとりかたについて慎重に考察してみることにする。

 今回の農水省、厚生労働省の食品安全委員会に対する諮問では次のように書かれている。
 「現在の米国の国内規制及び日本向け輸出プログラム(別添)により管理された米国から輸入される牛肉及び牛の内臓を食品として摂取する場合と我国でとさつ解体している牛肉及び牛の内臓を食品として摂取する場合の牛海綿状脳症(BSE)に関するリスクの同等性」
 カナダ産の牛肉とその内臓の場合もほぼ同様な諮問の内容となっている。

1 審議の対象となる事象の正確な把握について
 以上の諮問で審議の対象となるのは、
(1) 米国での、国内規制及び日本向け輸出プログラム自体の妥当性――― A1
(2) 米国での、国内規制及び日本向け輸出プログラムによる管理の実効性――――A2
(3) 我国での、とさつ解体している牛の牛肉と内臓に関する規制自体の妥当性―――――B1
(4) 我国での、とさつ解体している牛の牛肉と内臓に関する規制に基づく管理の実効性――――B2
(5) 事象A1,A2のもとで輸入された米国産の牛肉と内臓を食品として摂取する場合のBSEに関するリスク――――A3
(6) 事象B1,B2のもとで供給されている我国の牛肉と内臓を食品として摂取する場合のBSEに関するリスク――――B3
(7) 最終的に,A3=B3であるかどうかの検証

 以上の我国のB1,B2についてはいまさら審議する必要がないかもしれないが、この諮問が最終的に日米の牛肉、内臓のリスクの同等性を問うものである以上は、この際アメリカのA1,A2との対比を正確に行って、その相違点、優劣などを明らかにすることは無意味であるとは思わない。
 しかし、なんといっても米国からの輸入牛肉、内蔵についてのA3を明らかにするためには、A1とA2についての調査、解析、点検を徹底して行なう必要がある。とくにA1という規制自体の優劣に関わらず、実際にA1によって管理、処理された結果としてのアメリカでの規制の実効性A2が明らかにされることが必要である。規制やプログラム自体がどんなに優れていても、実際にアメリカ全土で行なわれる処理と管理の過程で問題が多いのであればA3のリスクの水準は問題含みなものとなるだろう。
 我国の与党や政府の一部には、今回の諮問では,A2を問わないで、A1が守られた場合のA3と我国のB3を対比すればよい、などという意見があるようだが、A2を正しく問題にしなければA3を正しく知ることは出来ないことは明らかである。

  2 克服せねばならない課題
(1) 規制体制A1の検討に際して
アメリカでのBSE対策に関わる検査法、検査体制、検査数、飼料規制、SRM(特定危険部位)の除去、トレーサビリティーなどに関わる問題点を示すことが必要である。検査法ではウエスタンブロット法の不適用、さらに全頭検査体制の不在、検査数の極端な不足、飼料での交差汚染の容疑などの多数の欠陥を指摘せねばならない。
対日輸出プログラムでは肉質,成育度による月齢判定のミスによる20ヶ月齢以上の牛の牛肉の誤混入比率の大きさを考慮することも必要である。
(2) 実効性A2の検討に際して
 アメリカ全土で規制とプログラムA1が実施された場合に、生産者や検査、監視担当者の怠慢等によるA1の不遵守、無関心や過失等による事故、監視、監督の不完全性によるミスの発生などの所在を想定せねばならない。この場合の危険率をどの大きさにするのかが問題になる。たとえば月齢の判定ミスはアメリカ農務省の約3000例規模のモデル実験では約2%とされているが、このような月齢判定システムをアメリカ全土の約3000万頭の規模まで拡大して適用した場合の誤判定の割合をどの程度に見積もるかが検討されねばならない。
 さらに、日本に輸出される20ヶ月齢以下の牛の牛肉の中に、それ以上の月齢の牛の牛肉が混入する確率について考える場合,A3との関連では、基本的にアメリカでのBSE牛の発生比率や発生数の大きさを見積もらねばならない。しかし、これは極めて難かしい。アメリカ農務省がこれまでに提供してきたアメリカ全土でのBSE発生の予測資料では、我国のような全頭検査による実証的な規制体制が実施されていない中で、理論的な推定が行なわれているので、その結果を無条件、全面的に肯定することがためらわれる。もしもアメリカで我国のようなトレーサビリティーシステムや全頭検査体制が施行されていたならば、全国的なBSE牛の発見事例は現在の2頭よりもはるかに多かったであろう。ちなみに我国では約300万頭を検査して20頭のBSE牛を検出している。
BSEの検出作業が重要である理由は,もしもBSE牛が摘発されなかった場合には、このBSE牛と同一の牧場、近隣の厩舎などにいて、同じ汚染飼料を摂取した容疑牛の大群が放置されてしまうからである。
いずれにしても輸出されて我国の市場で供給される牛肉、内臓などのなかにBSE由来のものが現われる確率を推定することは非常に困難な作業となるであろう。恐らく幾つかの仮定を置いて、論理を展開することが必要になるであろう。
 A2を決定するためには、現地調査は勿論、アメリカ側の証人、参考人の意見も十分に聴取したうえで審議を行なう必要があることはいうまでもない。
(3) 食品として摂取する場合の「BSEに関するリスク」A3の算定について
この諮問で言う「BSEに関するリスク」とは何を意味するのかが問題になる。すなわち、もしもA3が日本の消費者がアメリカ産のBSE牛由来の牛肉や内臓を摂取する量を意味するとすれば,A2を可能な限り明らかにした上で、輸入量、最大摂取量、平均摂取量などのA3を求めて、その上で推定される国産牛でのBSE由来の摂食量B3と対比することが必要である。
「BSEに関するリスク」の解釈は容易ではない。それがBSE牛の検出の予測数でなくて、たとえばBSEに由来する輸入牛肉を摂食して、人がvCJD(クロイツフェルトヤコブ病)に罹患する確率などを意味するものだとすれば、従来の食品安全委員会の持論である「日本でのvCJD患者の発生は1人以下であって、リスクはほとんどない」とする考えかたが適用されて、アメリカ産牛肉の輸入による「日本人のvCJDの発生に関する寄与はほとんど無視できる」という形で,A3≒B3とするような結論が下されることになるのかもしれない。しかし話をvCJDの発症リスクに持ってくるのなら、多少のことがあっても、いつでも「BSEの人に対するリスクはほとんどない」という論法で逃れることが出来るだろう。
ただし、この場合には、異常プリオンの摂食による人の被害がはたしてvCJDの発症だけであるといえるのか、という点についても専門家として言及することが必要である。問題は、問われているリスクの正体は、BSE関連牛肉が持ち込まれることによって生じる異常プリオンの荷重圧力とでもいうべきものなのである。
(4) リスクの同等性の証明について
 原則的に,A1,A2とB1,B2が全く異なる中で,A3とB3が同等であるなどということは信じがたいことである。しかし今回の諮問ではA3とB3のリスクの同等性を証明することが求められている。厳格に言うならば、日本人は国産牛に起因するB3に輸入牛由来のA3を加算された市場の売り場から牛肉を購入することになる。この状況は常識的には従来のB3だけの市場よりも、より問題含みのものになるはずであるが、恐らく食品安全委員会では、A3,B3ともにリスクが小さいから、たとえ日本の市場で、日米のBSE汚染に由来した牛肉が合算されて販売されたとしても、ほとんどリスクはない、と見なしても差し支えないという論理を展開することになるのではないか。そして、この場合には、最終的に、リスクコミュニカーションの場面で、私たち日本の消費者がこの論理を認めるかどうかが問われることになるだろう。
リスクの同等性の証明をどのような考え方で行なうかが注目される。食品安全委員会、とりわけ専門調査会では極めて慎重に取り組んでほしい。諮問に答えるための方法論や論理形成を誤らないでほしい。

   正直に言って、異常プリオンによる牛肉の汚染とその影響に関して、これだけ原理的にも、実際的にも未知、未解明な問題点が山積している中で、輸入品と国産品、あるいは輸入再開前と輸入再開後のリスクが同等であると言うような結論が本当に下せるのかどうか、国民、消費者が納得できるような結論を本当に導くことが出来るのかどうか、ここ当分は専門調査会、食品安全委員会のお手並み拝見ということになるだろう。(完)



我が家に咲いた花のいろいろ

(05年6月30日)BSE問題・アメリカでの2例目のBSE牛の検出が示すもの
―牛肉輸入の再開問題に関連して―
藤原邦達


   6月24日、アメリカ農務省のジョハンズ長官は記者会見で2例目のBSE牛が見つかったことを明らかにした。1例目とは異なり、今回は自国産の飼育牛である可能性が大であるという。
この事実から以下のことが言えるだろう。

1 アメリカ政府はもはや自国をBSE清浄国であると言うことができなくなった。
アメリカ政府は従来、第1例のBSE牛はカナダ産の輸入牛であり、アメリカ自体はBSE清浄国であることを強調してきた。しかし今回の第2例目の牛がアメリカ産であるとすれば、この牛が摂取した飼料が異常プリオンに汚染されていた可能性が大である。何らかの経路でBSE牛由来のMBM(肉骨粉)が飼料に混入していたとすれば、このBSE牛と同じ牧場、厩舎で飼育されていた多数の牛が異常プリオンで汚染されていたことを疑わねばならない。しかもアメリカのように検査数が異常に少ない中では、未発見のBSE牛とその周辺の容疑牛が相当数存在しえた可能性を否定することは困難であろう。
汚染飼料が供給されてきたという事実が確認された場合には、幼弱、成年、老年牛の如何に関わらず、アメリカ産牛肉全般が異常プリオンフリーの状態におかれていないことは明らかであって、この事実は対日輸出問題以前に、何よりもアメリカの消費者自身が改めて注目せねばならないことである。

2 アメリカ産牛肉の異常プリオン汚染の程度は不明である
 アメリカはBSE非清浄国であるだけでなく、その非清浄の程度が明らかにされていない国家でもある。アメリカでは、以下のような理由から異常プリオンによる汚染の状態を正しく知ることはできない。
(1) BSE検査法の不完全性
 アメリカでは従来、簡易検査のほか免疫組織化学法での確定試験しか実施されていなかったが、今回、アメリカの消費者団体や農務省内部の監査官の要請によって、日本やEUで採用されているウエスタンブロット法による検査が行なわれた。そしてその結果として第2例目のBSE牛を確定することができた。
 検査法が不完全では問題事例を正しくキャッチすることはできない。すなわち、これまでに実施された約1%にすぎない飼育牛の検査結果でさえも信頼することができないということである。
(2) 飼料汚染の可能性
 アメリカでは1997年にMBMの使用を禁止している。しかし今回のような事例が発生したということは、
@ 禁止時点以後でもMBMが一部で使用され、
A あるいは混入が禁止されなかった鶏、豚用などの飼料が一部で牛用に転用され、
B または飼料製造過程での牛の飼料への交差汚染が起こりえた可能性があるということを意味している。
汚染飼料に関する調査資料が不完全である以上はアメリカ産牛肉の汚染状況を正しく知ることはできない。
(3) 検査体制の不完全性
 アメリカではわが国のような全頭検査体制をとっておらず、わずかに3500万頭とも言われる飼育牛の約1%以下のBSE検査しか実施していない。しかもこの検査の対象はたとえば歩行困難な病弱牛を主体とするものであり、食用に供されている若齢の牛の検査などはほとんど行なわれていない。我国への輸入が予定されている20ヶ月齢以下の牛の場合でも同様である。したがって飼料が汚染されている場合には、たとえSRMを除去していても、微量ながら異常プリオンを含む肉質等の可食部分が検査を免れて市場に出回る可能性があるということになる。
 検査法だけでなく、検査体制もまた不完全である以上は、異常プリオン汚染の実態は把握できない。もしもアメリカが我国のような検査体制を採用していたならば、現状よりもはるかに多数のBSE牛が発見されて、これらの牛と同一群であった容疑牛を処分、排除することができたものと思われる。ジョハンズ長官は今後は日本と同様な検査法を採用すると述べているが、アメリカでは新しい検査法の採用と検査数の増加に伴って、いままで隠されていたBSE汚染の実態が次第に明らかにされてくるものと思われる。
いずれにしても、今回の事態によって、従来からのアメリカ農務省のBSE清浄国に関する主張が崩れたことは明らかである。

3 このままではアメリカ産牛肉の輸入には問題がある
 国民、消費者が知りたいのは、我国に輸入されてくるアメリカ産牛肉がどの程度異常プリオンに汚染されているかである。しかし、このままではアメリカでの検査法、検査システムの不完全性に起因する摘発漏れのBSE牛の存在が疑われるために、汚染牛肉が輸入されて消費者の口に入る可能性があることは否定できないだろう。
 たとえば、以前のHPで示したように、アメリカ政府の、牛の月齢の判定体制が信頼できないとすれば、20ヶ月齢以上の、検査を受けていないBSE牛由来の牛肉の混入も起こりうることになる。
 現在食品安全委員会ではアメリカ産牛肉の安全性について審議を行なっているが、安全性を評価するために必要とされるアメリカ現地での規制の実効性に関する基礎資料をそろえることは恐らく不可能に近いのではなかろうか。

4 食品安全委員会での審議は慎重でありたい
 正直に言って、検査法や検査体制、飼料の規制などが不適切である以上は、基本的にアメリカ全土での牛の異常プリオン汚染の実態を把握することは困難である。もちろん我国の場合と比較することも出来ない。このままでは今回の食品安全委員会に対する政府側の諮問でいう「BSEに関するリスクの同等性」の判定などできるわけがない。日米共通の尺度があって初めて評価が可能になるのである。
原則全頭検査体制の我が国と1%以下しか検査していないアメリカのいずれが「BSEに関するリスク」を効率的に評価できるかはおのずから明らかであろう。
今回のアメリカでの第2例のBSE牛の発見は輸入牛肉の安全性を審議している食品安全委員会にとっても無視できない事態であったということができるだろう。
 農水省や厚生労働省では、アメリカ国内での規制などの実情は行政側として判断するという前提で、食品安全委員会に安全性についての審議を依頼しているといわれるが、今回の事態はそのような諮問のありようでは日本の消費者が満足できるような結果を得ることはできないことを教えている。
ブラックボックスから無造作に取り出したような牛肉では決して安心して売ることは出来ない。安心して買うことも出来ないのである。
 今回の諮問を受けたあとの食品安全委員会での対応が科学的であり、論理的であると言えるかどうかが注目されている。審議が可能であるといえるような条件設定が妥当であるといえるのか、安全性での「同等性」の判定というような前例のない諮問にどのように対処することが出来るのかが問われている。異常プリオンによる汚染度に寄与しうるファクターが多数個あるときに、たとえば検査法という尺度自体が日米で全く異なっているなかで、BSEやvCJDの発生頻度についての比較が可能であるといえるのか。もしも個別のファクターで可能であったとしても、多数のファクターを包括した総合的なリスクの評価をどのように行なうのか、まさかファクターごとに求められたリスク値の算術平均というわけにもいかないだろう。今回はリスク評価論の立場からも相当に高度な設問がなされていると見なければならない。恐らくこのような場合には、日米でのリスクの絶対同等性というようなことはありえない。そもそも同等である、ということをどのように定義するのかも問題になってくる。いずれにしても諮問を受けた今後の審議には相当な難関が待ち構えているといえるだろう。

 私の個人的な希望をいうならば、食品安全委員会は審議に先立って以下の3点についての見解を公表するべきである。
@ アメリカ政府が検査法、検査体制を改善し、飼料の規制を強化し、トレーサビリティーの改善に努めるように強く要請する。
A アメリカでのBSE対策の強化が少なくとも我が国なみに行なわれない限り、科学的に正確といえるような「リスクの同等性」に関する諮問にこたえることはできない。
B アメリカの事情を無視した形での農水省、厚生労働省の今回の諮問では公正な審議を行うことはできない。消費者が求めている答申はあくまでもアメリカでの異常プリオンによる汚染の実情を踏まえたうえで、輸入されてくる牛肉の安全性を明らかにすることでなければならない。

 不完全な諮問、審議、答申の結果として、たとえ輸入の再開が可能になったとしても、そのような輸入牛肉が本当に消費者に歓迎されるものとなることはできないだろう。
 BSE、vCJD、異常プリオン問題は我が国の食の安全に関わる歴史的な1ページを飾るのにふさわしい重要な課題であることを忘れてはならない。政府、食品安全委員会にはとりわけ慎重な対処を求めるものである。(完)


     

はじめて開いたバイモの花

(6月7日)BSE問題・牛肉の輸入再開に関する諮問のありかたの不当性について
―このままでは消費者が納得できるような答申は不可能である―
藤原邦達


 平成17年5月24日、厚生労働大臣 尾辻秀久、農林水産大臣 島村宜伸名で、政府は食品安全委員会の委員長 寺田雅明昭宛に、「食品安全基本法(平成15年法律第48号)第24第3項の規定に基づき、下記事項に係る同法第11条第1項に規定する食品健康影響評価について、貴委員会の意見を求めます。」とする諮問を行なった。
 その内容は次のとおりになっている。
「現在の米国の国内規制及び日本向け輸出プログラム(別添)により管理された米国から輸入される牛肉及び牛の内臓を食品として摂取する場合と我国でとさつ解体している牛肉及び牛の内臓を食品として摂取する場合の牛海綿状脳症(BSE)に関するリスクの同等性」
 なお全く同文のカナダ産の牛肉とその内臓についての諮問も別に行なわれている。

1 この諮問の問題点について
(1) 同等性の証明とはどういうことなのか
 比較する要因が複数個あるとき、A要因ではすぐれていても、B要因では劣っていると言う場合があるのが通例である。しかもBSE問題では各要因を共通の尺度で比較できるとは限らない。たとえば日米では検査、調査、監視、トレーサビリティーの方式が非常に異なっている。基本的な牛の異常プリオン汚染の程度自体さえ対比することが出来ない。各要因は質的に全く異なるものであり、各要因について評価した成績を、たとえば平均して総合的な評点を出すなどということは許されない。リスクと言う漠然とした概念を掲げておいて、同等性を問うことには最初から無理がある。そもそも、リスク評価論では雷に打たれて人が死ぬ確率が100万人に1人である、これより低ければよい、とするような考え方をする。これでは複数要因によって構成される多変量函数である健康影響のようなリスクを評価する場合には基本的に無理があるとするべきである。
 しかも問われているのは「BSEに関するリスクの同等性」である。
 BSEに関するリスクとはBSE牛の予想発生数をいうのか。それとも牛の異常プリオン汚染度を言うのか、あるいはBSE汚染牛肉の摂取による人のvCJD発症のリスクを言うのか不明である。もしも単純にBSE牛の予想発生数を言うのなら、検査体制が我国より不完全なアメリカでは尺度が異なるのだから、我国と比較すること自体が不可能であると言うことになる。
 つぎに、同等性という場合、日米のリスクが絶対的に同一であるなどということはありえない。たとえば、評価の結果は、ある幅を持っているが「ほとんど同様である」、ということになる。この場合の日米でのリスクの間差の本態についての質的、量的な評価を重視しなければならないが、これはそう簡単なことではない。
(2) 評価要因の確定について
 前回のHP(6月4日)の論文で示したリスクYを評価するための要因、x1、x2、x3------等の設定が正しく行われているかどうかが問題になる。たとえば,BSEの発生に関与する飼料での交差汚染はアメリカでは問題にされていないが評価すべき要因であることは確かである。検査体制でも日米では大きく相違する。共通の評価要因について検討すること自体が不可能なのである。
 問われている「BSEに関するリスク」を評価するための評価要因の種類や数だけでなく、それらの重要度、総合的なリスクへの寄与度も問題になる。そもそもBSEに関するリスクを評価するための要因が現状で十分に把握されているかどうかにも疑問が残る。実のところ、日米ともに発生源、感染源、感染ルートが捉え切れていない。正常プリオンが異常化する理由さえもわかっていない。一体これほど未知要因が多い中で、健康影響を総合的に判定するなどということが可能なのか、という疑いがいつまでもつきまとってくることを忘れてはならない。
(3) リスク回避の実効性について
 アメリカ、カナダ政府が用意している日本向け輸出プログラム、日本向け輸出基準のプログラム、基準自体としての完璧度についての評価が必要であることは言うまでもないが、問題はそれらに基づいて実際に、アメリカ、カナダの現地で実施されるさまざまな措置の実効性の評価である。たとえばアメリカでの20ヶ月齢の判定法では3300頭規模での実験で約2%程度の誤差が生じると報告されている。しかし、アメリカの3500万頭の飼育牛を実際に全土の各地の処理場で選別する際に、2%程度の誤差で済むのかどうかが問題になる。SRM(危険部位)の除去の場合でも同様である。アメリカの食肉検査官、食肉工場従業員、研究者たちや政府の会計検査院などがアメリカのBSE対策の不完全性について証言していることも気になる。
 問題は評価条件に基づいたリスク回避の実効性である。対日輸出の港湾に運び込まれた牛の枝肉が実際にどの程度汚染されているのかである。しかも今度の場合には、日本側には一切汚染度や誤判定について検証する手段がないのである。
 実効性を問題にする場合には、その検査プログラムをその現場で何人の職員で実施するか、何人の検査員が関与するか、行政的な監視、検証を何人の公務員が担当するのか、が問われてくる。無理のある実施プランであればミスの確率は増大する。何時から、何処で、どれくらいの予算をかけてやるのかも問題になる。しかし今回の諮問書の付属文書であるアメリカ、カナダの実施プログラムや実施基準にはそのような実施条件に関しては具体的に全く示されていない。これでは食品安全委員会がリスク回避の実効性について評価することは不可能である。政府の諮問で言う「BSEに関するリスクの同等性」とは、いいかえると、「BSEの発生を阻止するための対策の実効性についての同等性」ということである。我国の国民、消費者は、まるで「絵に書いた餅」のような、アメリカ政府のプログラムやカナダ政府の実施基準自体を知りたいのではない。輸入牛肉が「食べられる牛肉」であるための各国の実施プログラムや実施基準の実効性が評価されることをこそ切望しているのである。
 このままでは、食品安全委員会では、今回の諮問に対して、「審議、答申が不能である」という結論を出すしかないのかもしれない。
(4) 諮問した政府の姿勢について
 今回の政府の諮問のありかたについては種々の批判が行なわれている。なかでも、「政府、与党では当初、牛肉の安全性を示す具体的な数値を諮問に盛り込む意見があったが、そのためのデータをそろえるのが難しいのに加え、『数値論争に踏み込むと食品安全委での議論が長期化しかねない』(政府幹部)と言う懸念もあって」(朝日新聞、5月13日)、このような諮問になったと言われていることに注目したい。
 政府は、とにかく結論を急いでいる。あえて実効性を問わない、問えない、ということの問題点は知り尽くした上で、食品安全委員会が、もともとリスクが小さいなかで、「同等性」という漠然とした概念に基づく言い方で結論を出してくる事を期待している。そして「アメリカ、カナダのBSE対策の現状については食品安全委員会ではなく両省の責任で判断する」(朝日新聞、6月6日記事)、食品安全委員会が輸出国側の実情に立ち入る必要はない、としているらしい。
 アメリカ、カナダの実施計画が「完全に守られた場合」での安全性の評価などというものはナンセンスである、というほかない。政府は今、国民、消費者が本当に知りたい事を知らせなくても良いとしているのである。
 専門調査会の吉川泰弘座長が政府の諮問のありかたを不満とする見解を示した、とも報じられている。さらに食安委のどなたの意見かは知らないが「こうした諮問では消費者の信頼を失う」との反撥も出ているという。同紙の同じ記事には、「評価不能という結論が出る可能性も出ている。」とまで書かれている。
 私が最も懸念するのは、このような諮問が食安委の関係者と政府、与党間での事前の非公式な打ち合わせのもとで、ひそかに行なわれたのではないか、ということである。
 昨年の日米牛肉輸入再開交渉では、事前に食安委の意見を聞くことなく、政府レベルで10月23日に早々と輸入の再開について合意した。もはや後戻りの出来ないような形での路線を敷いた上で、今回は、全く形式的な諮問を行って、リスクの程度は同等だとするような答申が出るに違いないと踏んでいる。そこには国民、消費者の懸念に対する配慮や慎重さを求める要請などを優先するような姿勢は見られない。政府側の、牛肉輸入の再開に関する一連の対応では、政治的、外交的、経済的な思惑が優先していることが歴然と認められる。

2 この諮問にどう対応するのか
(1)食品安全委員会としてどう対応するか
 食品安全基本法の第11条に定める食品健康影響評価についての諮問はまさしく、その食品を摂食することによって生じる健康影響そのものを問うているのである。設定する規制の条件自体の妥当性だけを問うているのではない。輸出国の現地での牛肉の汚染度に対する調査や検討を求めない今回の政府の諮問は食品安全基本法の主旨に則した妥当なものであると言うことは出来ない。
 また前項に示したように、日米加の牛肉の安全性に関する同等性なるものを評価して結論を出すことは実際上極めて困難である。
 したがって食品安全委員会としては、このような諮問のありかたの問題点について、条理をつくして説明し、政府がこのような諮問を撤回した上で、改めて、アメリカ、カナダからの輸入牛肉の安全性について、食品安全委員会が自由に、慎重に審議した上で答申するための諮問を行なうように求めるべきである。勿論、これを受けて政府は食品安全委員会としての独自の現地調査やアメリカ、カナダからの証人、たとえばカリフォルニア大学のプルシナー教授や食肉企業の従業員、農務省の検査官などの参考人の喚問、月齢の発育度による判定法に関する我国独自の実験研究など、相当の期間をかけて、輸入された時点でのアメリカ産、カナダ産の牛肉に全く疑惑を残さないための健康影響評価を自由に存分に実施する事を保証するべきである。
 このような重大な課題についての健康影響評価に関する諮問である以上は、政府は自公与党側の意向だけを事前に受け取るのではなく、民主党を始めとする野党側の見解も踏まえた形での取組みを行なうべきである。
このままでは食品安全委員会の存在意義が宙に浮いてしまう。もしも食品安全委員会がこのような不適法で不条理な諮問のありかたを放置して、不完全で不合理な審議を行なって答申に及ぶようなことがあるならば、自らの存在意義を自ら抹消することになる。それでは消費者の信頼を失うことは確実である。その事を肝に銘じておくべきであろう。
(2)消費者としてどう対応するのか
 政府側、食品安全委員会では、輸入牛肉問題をめぐって各地で意見交換会を開催している。また東京では、5月26日に食品安全委員会の委員7名、事務局職員8名と全国消団連、食のグループ7名との恒例の意見交換会(第5回)が開かれた。この席上では輸入牛肉のリスク評価についても話し合われたといわれるが、私がこの論文で指摘しているような今回の諮問のありかたについての論議が行なわれたとは聞いていない。
 消費者団体の関係者は、単にやみ雲に、今はやりの「リスク評価が行なわれている」ということに満足するのではなく、そのリスク評価が論理的に、科学的に正確な方法論に即して実施されているかどうかを問題にせねばならない。常に消費者が本当に知りたいことに答えようとしているかどうか、を確認するべきである。
 いい加減な諮問と答申をそのままにしたことの責任はみすみす政府の目論見にはまった消費者団体の関係者にも問われることになる。輸入牛肉を容認するにせよ、しないにせよ消費者側としての筋を通さねばならない。
 ここ当面は、消費者団体の対応のありかたにも注目しておこう。(完)


 

宇治植物園のハスの花

(6月4日)BSE問題・輸入牛肉関連の諮問のありかたには重大な疑義がある
―リスク評価の可能性と予防原則の必要性―
藤原邦達


1 リスク評価の可能性と予防原則の適用
 リスク評価が可能になるのは、過去に存在した、あるいは現在存在する事象に関して、すでに実証された事実、数量、確率等に基づく推論を行なうことが出来る場合に限られる。これに対して、過去、現在において存在したことが完全に実証されたとはいえないような事象の発生が懸念されているような場合には、その事象に関するリスクの評価を確実に行なうことが出来ない。地球温暖化問題や異常プリオン汚染の問題などはその典型的な場合にあたる、ということができる。
ひとつの事象が複数の関連要因によって発生することが明らかではあるが、それらの関連要因の、その事象に対する寄与の割合や要因相互間での複合的な影響の現われ方などが不明であるような場合にもリスク評価を確実に行うことは出来ない。
人の変異型クロイツフェルトヤコブ病(vCJD)の発生に関連する要因としては,BSEによって汚染された牛肉の個人的な生活パターンに関わる摂取実態、遺伝的素質と法的、行政的な検査、監視、輸血などに関わる規制の体制、施策のほか企業の姿勢と対応の特異性等が考えられるが、それらの主要因、サブ要因の位置付けや要因間の相互関係が不明である場合には説得性のあるリスク評価を行なうことが困難である。問題牛肉製品の摂取による異常プリオンの移行は確かであるかもしれないが、摂取量、摂取の期間、回数、そして最小発症量などについての不確かな情報しか得られていないような現状では、我が国でのvCJDの発生予測に関するリスク評価を行うことにはもともと非常に無理があると言わねばならない。
信頼性のあるリスク評価をすることが困難である場合には予防原則に基づく対策を採用するべきである。懸念される事象が発生した時点では、もはや対策を実施することが極めて困難であり、原状回復が不可能に近いということが容易に推察されるような場合には、現状で可能な予防的な対策を可能な限り実施することが必要である。地球温暖化防止条約は、地球の気温上昇がもたらすであろうさまざまな被害が発生した時点では、もはや被害の修復が極めて困難であるとする見地から締結されたのである。
異常プリオンに由来するvCJDの場合でも、究極的には予防原則に基づいた措置を実施することが望ましい。厚生労働省がvCJD対策の一環として、昭和55年から平成8年の間に、滞在期間の長短を問わず、イギリスへの渡航歴のある国民からの献血を一様に禁止したのもまさしく予防原則を尊重したものとして理解できる。
vCJD患者の推定発症数が1人以下であるとするような予測が行われている中で、厚生労働省、農水省が年間相当数の死者を出している食中毒よりもはるかに多額の対策費用を支出している理由も異常プリオン問題には学問的に未知、未確認部分が多く、被害の広がりが懸念されるからであり、これも予防原則に基づくものであると言うことが出来よう。
たとえば、人のvCJDに関連して、異常プリオンの最小発症量に関する知見が極めて不足している。また人への移行経路や増殖過程についても定説がない。実験動物からヒトへの外挿(Extrapolation)が容易ではない。発症に関わる年齢、性別、遺伝的な素因、健康状態との関連性についても不明の点が多い。したがって、BSEの検査法、検査体制、SRMの除去、肉骨粉による交差汚染の防止、生活履歴の明示などのあらゆる関連要因での規制対策が予防原則に従う措置であることが必要である。
未知、不確定、未解明な問題点が多分に残されている段階で、仮定に仮定を重ねた上で行なわれたリスク評価の結果を参考データの一種として客観的に取り扱うのは当然の節度であるというべきであろう。

2 リスク評価では科学の論理を尊重せねばならない
 食品安全委員会の専門部会では、中間報告などで、BSE、vCJDの発症予測に関するリスク評価を実施している。
我が国のBSE患畜の発生数、vCLD患者の発症数などを予測する場合に、現状ではそれらの疾患に共通の病原体である異常プリオンの感染、移行、増殖、蓄積の次元で論理を確実に展開することは困難である。たとえば専門調査会では、vCJDの場合には、イギリスと我が国との素因感受性比率の対比、人口比、BSE牛の発生数、vCJD患者の発生数などを算術的に比較して、我国での発症者数を0,1〜0,9人であると予測した。そして、この場合,我が国での第1号のvCJD患者がイギリス渡航者であったにも拘らず、かってEUやイギリスなどの異常プリオン汚染地域に渡航した日本人の存在や彼等の牛肉の摂取量、摂取期間や回数などの実態に関する調査データなどは一切無視された。その他の異常プリオン汚染に関わる生活要因についてもほとんど不明であるなかで、はたしてイギリスだけと対比することによって信頼性のある我が国での予測数が得られるかどうか甚だ疑問であるといわねばならない。
もしも対比する地域をイギリス以外に代えたうえで、さらに渡航歴や輸血歴の関与などの要因を加味すればこの予測値が大きく変動する可能性があることについてはすでに他の箇所でくり返し述べてきた。我が国での最初のvCJD患者の場合には、イギリスへの約1ヶ月間の滞在歴があった、といわれている。この1ヶ月の期間での食生活がどのようなものであったかは明らかにされていないし、今では調べようもない。しかし、たまたま渡航した日本人がイギリス人と全く同様な牛肉摂食パターンであったとは信じられない。イギリスでの滞在が原因であったのかどうかも本当の所はわからない。事態はほとんど謎に包まれていると言うほかない。
BSEやvCJDの発生予測をどのような科学的、合理的な方法論で行なうかについては極めて慎重でなければならない。専門調査会のvCJD患者の発生予測の上限である0,9人が確かな数値であるとすれば、すでに1人の発症者が出たのだから、今後、我が国ではvCJD患者は出ない、などと言い切れるのであろうか。
 最近では、一躍、リスクアセスメントの手法が注目されるようになったが、関連要因の位置付けがあいまいな状況下でのリスク評価の結果を絶対視するようなことがあってはならない。むしろ、予防原則を適用して、慎重に不測の事態の発生に備えねばならない場合があることに配慮しておくべきである。
厚生労働省が最近になって決定した既往のイギリス渡航者の献血禁止措置によって、献血者数、献血量の不足が危惧されている現状の中で、今後、さらに約3%の献血量の不足が生じるだろう、と言われている。現状では輸血によるvCJDの感染に関する詳細が不明である中で、いちはやく、このような予防的な措置がとられたことには注目するべきである。

3 リスク評価の前提条件の検証を厳格に行なう
 ある事象に関するリスク評価を実施する場合には、はじめに、その事象の発生、移行、拡大、縮小などの変動に関与する要因x1、x2、x3--------を確定せねばならない。
その事象のt時間後の結果的な状態Yは,

   Y=ft(x1、x2、x3--------)――-――――(1)

のような多変量函数の関係で示すことが出来る。実際には、要因x1、x2、x3-------自体もそれぞれ計時的に変動しうる函数なのである。異常プリオンによって最終的に人の被害がどのように発現するかを推測するためには、x1、x2、x3--------にあたるものとして、多数の個別の要因を指定した上で、それらの要因相互の関係や要因の組み合わせによって生じる複合効果の有無などについても検討せねばならない。したがって一定時間後の最終的な事象Yの形質について推定するのは決して簡単なことではない。

4 リスクの同等性の証明などということが可能なのか
 5月24日に、厚生労働省と農水省は、食品安全委員会に対して、アメリカ産、カナダ産牛肉の輸入再開に関して、輸入牛肉と国産牛肉の安全性が同等であると見なすことが出来るかどうか、について諮問した。
しかし、これは上記の(1)式での輸入牛肉の安全性Y1と国産牛肉の安全性Y2の同等性を証明せよ、と言うことであって、アメリカ、カナダ国内での、関連要因であるx1、x2、x3--------に関するデータがほとんど不明であるような現状では、証明が不可能と言ってもよいような難問であると言うべきである。アメリカ、カナダではBSEの検査自体がほとんど実施されていないから、異常プリオンによる生体牛や牛肉の汚染状況を我が国の場合と比較して把握することすら困難な状況のなかで、専門調査会のリスク評価の専門家たちがどのような方法論でY1,Y2の同等性の証明のために取り組むのかに注目せねばならない。
 アメリカ、カナダでの過去の牛の異常プリオン汚染の経緯は我が国の場合と同一ではないだろう。基本的に異常プリオン汚染の程度や広がりがどのような状況なのかは、我が国と同様な検査、監視の体制が運用され、SRMの除去が実施され、飼料の規制が遵守され、牛の生活履歴の証明が可能な制度が維持された場合でなければならない。しかし実際にはアメリカ、カナダと我が国の現在までの状況は全く相違している。そのような,輸入牛肉と国産牛肉の、安全性に関する事象Yの関連要因xでの非同一性が歴然としている中で、輸入牛肉と国産牛肉の安全性に相当するY1とY2の同等性を証明することには、始めから理論的に相当な無理があると言わねばならない。
 ただし、もしもアメリカで、@20ヶ月齢の判定が正確に行われて、21ヶ月齢以上の牛の牛肉が混入することが絶対にないとすれば、Aそのための監視、認証が確実に行なわれるとすれば、BさらにSRMの除去が正確に行なわれて、牛肉の異常プリオン汚染がないとすれば、C飼料の規制が確実に行なわれて、交差汚染のような事態がないとすれば、そしてアメリカ農務省が保証するように、DアメリカでのBSE検査体制が適正であり、E過去の異常プリオン汚染の経緯にも全く問題がなかった、などと仮定すれば、話は別である。我が国の政府の今回の諮問では、以上の@からEのような、勿論ありえないような多数の仮定を設けて、それらの仮定の中身はアメリカ、カナダの政府任せで、我国では不問とした上で、輸入された牛肉の安全性が国産牛肉と同等であるかどうかを問うているのである。我が国の消費者の懸念は明らかに、それらの仮定自体の正当性が疑われている、ということにあるのである。今回、政府は国民、消費者の最大の関心事をあえて無視するような形での、極めて政治的な形での諮問をあえて行なったというべきである。
 専門調査会の吉川泰弘座長が、諮問を受けたあとの、5月31日の最初の審議会において、「結果的には両国のBSEの汚染度や対策全般について審議しないと評価は難しい」との見解を示した(朝日新聞6月1日記事)といわれるがもっともなことである。
 リスク評価については、これまでにも何回か論じてきたが、リスクの大きさを評価するための方式や計算の方法よりも、リスク評価に関わる論理的根拠、とくに、条件や仮定の設定の方法論のほうがはるかに重要であることを重ねて強調しておきたい。
 食品安全委員会、専門調査会が政府の輸入牛肉の安全性に関する諮問に対して、国民、消費者の懸念を払拭することが出来るようなすぐれた答申を行なうことが出来るように期待するものである。(完)



我が家に咲いたアマリリス

(5月27日)BSE問題・米国産牛肉の輸入再開に関する諮問への対応は
―すぐれた答申を期待する―
藤原邦達


 5月24日、政府は食品安全委員会に対して、アメリカ産牛肉の輸入再開に関する諮問を行なった。
 ところで、諮問のありかたに問題があれば、結果的に審議が不完全となり、答申の内容が国民の期待するところとは大きく乖離したものになる恐れがある。
 報道によれば、政府、与党では審議、答申までの時間を短縮するために、諮問のありかたにに工夫を加えたといわれる。5月13日付けの朝日新聞にはつぎのように書かれている。
「政府・与党には当初、米国内での対策でBSEの発生率がどの程度に低下するのかなど、牛肉の安全性を示す具体的な数値を諮問に盛り込まなければ、科学的な判断は出来ないという意見があった。しかし、数値を算出するのに必要なデータをそろえるのが難しいのに加え、「数値論争に踏み込むと食品安全委での議論が長期化しかねない」(政府幹部)という懸念もあって、具体的な数値の提示は見送られた。」
 諮問は客観的、公正に行なわれねばならない。輸入牛肉のリスク評価のための科学的な審議を回避して、輸出国側に要求する輸入再開の条件だけを諮問して、答申を求めることは誤りである。国民は、設定された条件が遵守されることによって、輸入される牛肉について少なくとも国産牛肉と同程度、あるいはそれ以上の安全性が保証されていなければ、輸入再開に合意することはできないのである。
政府の諮問を受けて、食品安全委員会が輸入の可否を決めるためには、拙速を避けながら、以下の事項についての評価を粛々として行なうことが必要である。

1 アメリカ産牛肉のBSE汚染状況の概要の把握
はじめに、輸入の対象となるアメリカ、カナダ産牛肉の安全性の概要を把握していなければならない
年間35万頭、飼育牛全体の約1%の牛のBSE検査しか行なっていないアメリカ産牛肉の異常プリオンによる汚染の実態はどの程度明らかにされているのか。全頭検査を行なって個別点検を行なっている我が国と対比してどうなのか。食品安全委員会は、審議のはじめにあたって、我が国の国民、消費者の中にある、このような一般的、基本的な疑問に答えねばならない。
 もしも、1%程度の検査で安全性が確保できているとするアメリカ側の考え方を認めるのであれば、我が国での全頭検査体制の有用性、必要性を否定せねばならないことになる。全頭、点源検査体制こそが最善であるとする我が国のこれまでの主張を裏付けるためにも、アメリカでの検査体制のありかた自体についての科学的な評価が必要になるだろう。具体的にはBSEの検出能力、発見効率に関する日米の比較を行なわねばならない。専門調査会は全頭検査方式と20ヶ月齢以下の牛の無検査方式との比較を行なったが、同様に我が国とアメリカの検査方式の有効性に関する比較を「科学的に」実施しなければならない。
 EUのGBR(地政学的BSEリスク評価)では、アメリカは我が国同様のレベル3のBSE汚染国とされているだけに、これまでにアメリカで1頭、カナダで3頭しかBSE牛が発見されていないというのはおかしいと思う。問題はBSEの検出体制の相違にあるのではないか、とする率直な疑問に対して食品安全委員会としての基本的な見解が示されねばならない。
 それにしてもアメリカと密接な関係にあるカナダでのBSE関連情報が著しく不足しているように思われる。

2 異常プリオンによる牛の汚染状況の把握方法の妥当性の検証
 我が国の全頭検査方式とアメリカの検査方式の優劣に関する評価が必要である。最新の検査法を適用して、たとえば将来的に、可能であれば、生前に体液、血液、組織を用いたBSE、異常プリオン汚染の確認を全頭規模で実施するための取組みを目指すことをアメリカ側にも要請し続けることが必要である。アメリカ産牛肉の輸入が再開されるとすれば、我が国からの要求事項の中に、現状よりも、より水準の高いBSEの調査、検査法を採用するように求めるべきである。現状のような貧弱な検査体制がいつまでも放置されているのでは、我が国の消費者の中にある輸入牛肉の安全性についての不安感を解消することはできないだろう。
 食品安全委員会の委員が我が国の全頭検査体制に自信を持っていないなどということは許されない。日米交渉に関わる、やむをえない事情によって、20ヶ月齢以下の牛の検査をしないことをとりきめたが、全頭検査体制こそがBSEの予防対策上最善の方策であることを再確認するものでありたい。

3 SRM(特定危険部位)除去の確実性に関する検討
 輸入される牛肉の処理過程で、我が国と同程度、あるいはそれ以上のSRMの除去効率が確認されていなければならない。アメリカ全土に散在する大中小規模の処理施設において実施されているSRMの除去方法や除去体制、その監視、点検体制の実際がどの程度信頼出来るか、について、食品安全委員会の専門家としての答を出さねばならない。
 実のところ、当のアメリカの牛肉処理企業の従業員やアメリカ政府の食品検査官らの証言のなかには、現場では相当にずさんな処理が行なわれており、監視も不十分であるとするものがあって、アメリカ農務省関係者の公式的なSRM除去に関する言明を文字通り信じることが難しいのが現状である。
 SRM以外の部分には異常プリオンが完全にフリーであると言うわけではないことが明らかにされている。末梢神経部位には微量の異常プリオンが含まれていて、したがって筋肉部位、内臓部位でも完全に安心だとはいえないような現状では,SRMの除去を絶対視することには問題がある。個人レベルでの最小発症量に関する知見も不完全な現状にあることにも配慮しなければならない。
 SRMの除去方法自体の有用性とアメリカ全土の除去現場での除去効率の実態が問われている。問題は、牛肉、可食部での異常プリオンによる汚染の有無、程度である。現地調査を省略したり、アメリカ政府の言い分だけを信頼するようなことは許されない。

4 月齢の判定が正確に行われているかの検証
 輸入されるアメリカ産牛肉は20ヶ月齢以下のものでなければならないことになる。したがってアメリカでの輸出時点での月齢判定の確度が問題となる。アメリカ農務省の月齢判定に関する研究調査資料についての批判はすでにこのHPの別の箇所(05年2月12日、アメリカ農務省の牛の月齢判定法を批判する)で詳細に示したので省略するが、要するに次の2点を問題にせねばならない。
@ 肉質等による肉眼的な月齢判定法自体の判定エラーの確率
A 実際的なアメリカ全土での月齢判定作業での判定エラーの確率
我が国に輸入されてくる時点で、20ヶ月齢以下の牛に由来しない牛肉がどの程度出現するか、が明らかにされねばならない。アメリカでは、21ヶ月齢以上の牛の大部分はBSE検査を受けていないと考えられるから、以上のAに関する評価は特別に重要になる。我が国の消費者はそのような判定エラーの確率の大きさに注目していることを忘れてはならない。
 我が国では牛の飼育履歴の確認と表示に関する制度が確立されている。法的には20ヶ月齢以下は検査しなくてもよいことになるが、自治体レベルでの全頭検査体制は今後も継続して実施される。したがって月齢判定ミスのようなことは絶対に起こりえない。
 食品安全委員会は、はじめに、Aの判定エラーの算定をどのような方法で行なうかについて論議するべきである。方法が決まれば現地調査を実施せねばならない。以前のHPでのべた様に、内外無差別の輸入方針を貫く上で、法的に定められた月齢の判定に対する信頼性が揺らぐような結果になることは許されない。

5 飼料の管理が確実に行なわれていることの保証
 アメリカでの牛の飼料の取り扱い、組成等が我が国と較べて、同程度、あるいはそれ以上の安全性を確保するものであるかどうかを確認せねばならない。代用乳、肉骨粉などの投与、交差汚染についての配慮も適正でなければならない。
 我が国では牛の肉骨粉は牛以外の家畜を含めて飼料として使用することが完全に禁止されている。しかしアメリカでは豚や鶏の飼料には使ってもよいことになっている。現に、アメリカの会計検査院でさえも牛の飼料に混入しうる交差汚染の危険性について警告している。輸入牛肉について我が国と同等の安全性の確保が保証されるためには、アメリカでもペット飼料などへの牛の肉骨粉の使用を禁止する法的措置の施行を要求することが必要である。

6 生牛の輸出入管理が正確に行なわれていることの検証
 EU、カナダなどのBSE汚染地域からアメリカ向けの生牛の輸出に当たって、安全管理が徹底して行なわれていることが必要である。現にアメリカでの第1号のBSE牛はカナダから輸入されたものであった。

7 表示制度の整備が促進されていることの確認
 アメリカでの牛肉関連の履歴表示制度が我が国に較べて非常に遅れていることは明らかである。輸入牛肉についての履歴表示、生産地、生産者、飼育者、処理場所、処理月齢などに関する情報が国産牛肉と同程度に把握可能であるようにするべきである。生肉だけでなく、肉製品、外食産業などの調理食品の場合でも輸入牛肉であることを示す表示が義務づけられるようにせねばならない。
 20ヶ月齢以下であることの判定は、肉質、発育度の目視による検査と生産履歴等によるとされているのであるが、不確実な履歴記録等によって判定結果が信頼されないような事態が発生することは許されない。

8 監視、認証制度の信頼性の検証
 以上に示した各事項について、アメリカ政府の責任で行なわれる検査、調査、監視、認証制度の水準が高いものであることが必要である。たとえば20ヶ月齢以下の牛であることの判定に関して、アメリカ農務省は責任を持たねばならない。輸入牛肉に関しては監視、認証結果に関する公的な証明書の添付が義務づけられねばならない。抜き取り、抜き打ち検査や追跡調査を実施してそれらの成績を公開する、あるいは輸出関連企業の責任において、可能な限りの輸出牛肉に関する情報を提供する制度を設けることを求めるべきである。
 輸入後の食肉の安全性検査が技術的に不可能であると言う現状に即して、輸出国側に課せられる責任は重大である。

9 緊急時の対策を取り決めること
 アメリカで、対日輸出牛肉の安全性に関して問題が発生した場合の通報義務等の取り決めが正確に行なわれていることが必要である。
 BSE牛の発見などの、牛肉の異常プリオン汚染に関わる情報が緊急に通報されることは言うまでもないが、監視、認証に関する問題点が判明した場合や違約関連事態が発生した場合の措置も取り決めておくべきであろう。

  10 諮問と審議のありかたを慎重にせねばならない
国民の期待に答えるために、食品安全委員会において、徹底した審議が行なわれることが求められる。科学的なデータの収集、解析、討論を行うために、現地調査、内外の参考人の喚問なども周到に行なわれるべきである。消費者からの意見が一概に非科学的であるとするような偏狭な態度をとるべきではない。既出の私のHPの論文に示したように、BSE、vCJD、異常プリオン汚染問題が、予防原則の適用を必要とするような未知、不確定な課題を多多含んでいることに配慮するならば、国民の約7割にも達する消費者が、輸入牛肉の安全性に疑問を感じているという事実にも配慮して、たとえば、リスク要因の数を増やす、安全率の適用を厳重に行なう、論理の飛躍を抑制する、未知領域に踏み込まない、などの、科学的なルールに沿った慎重な論理が採用されるべきであると考える。
諮問の要点は、輸入牛肉の安全性が国産牛肉と同等であると見なすことが出来るか、ということに尽きる。そのためには、どのような輸入条件を設定することが必要であるか、だけでなく、設定された輸入の条件が実際に守られるか、守られているか、が問題にされなければならない。条件の設定だけを求めても無意味である。輸出国という遠隔地での生産、流通過程で行なわれる規制措置を信頼するしかない,というのではなくて、我が国が積極的に、監視、検証作業に協力して、安全性確保の水準がより高められることを目指すべきである。(完)


 

我が家に咲いた君子ラン

(5月11日)BSE問題・意見交換会、パブリックコメント制度は信頼できるのか
―食品安全委員会は消費者の拠り所になっているか―
藤原邦達


 NHKなどの世論調査によれば、消費者の約7割が全頭検査の緩和に反対しているなかで、食品安全委員会は5月6日、専門調査会の報告を了承して、20ヶ月齢以下の牛の検査をやめるという答申を行なった。これに先立って行なわれたパブリックコメントにおいても、1250通にのぼった意見書の約7割が全頭検査の改変に反対であったといわれるが、6日の食品安全委員会ではこれを無視する形での決定を下した。

1 リスクコミュニケーションを欠いたリスク評価、リスク管理は成り立たない
 安全性の確保を目的とするリスクアナリシスの手法では、基本的、常識的に、リスク評価、リスク管理、リスクコミュニケーションの3つの要因が重視される。このなかで問題のリスクコミュニケーションはリスク評価の結果やリスク管理の内容を周知、理解させるために、研究者や行政が市民一般に対して一方的に働きかける、説得することを意味するものではない。むしろリスクコミュニケーションを通じて、研究者と行政と市民が情報を交換し、意見を交流することによって、より精度の高い、より科学的なリスク評価やリスク管理が可能になることが期待されている。
 もしも、「科学的な知見」の応募だけのことだというのなら、その旨を断ったうえで、BSE分野の専門家や関係する学会に対して意見を求めればよかったのである。それを今回のパブリックコメントの応募では1ヶ月もの期間を設けて広く国民一般からの意見を応募しておきながら、集まった1250通もの意見書のほとんどが「科学的知見」とは無縁であったとされて、すなわち非科学的で論議する必要がないものとして、門前払い同様に取り扱われてしまったのである。食品安全委員会はリスクコミュニケーションの意味を正しく理解していないと言うべきである。
 リスク評価に当たっては評価条件の設定が慎重に行なわれねばならない。どのような仮定を設けるか、その仮定のレベルをどの大きさにするか、たとえば未知部分に関する対応をどうするか、複合する可能性がある関連因子をどう位置づけるか、などについては、社会的、文化的、経済的、さらに生活現場からの生活的なさまざまな意見や要求などを参考にせねばならない。
 たとえば、専門調査会が行った、我が国でのvCJD患者の発生予測では、BSEの発生国であるイギリスを我が国の対照としていたが、厳しい予防対策を求める国民一般の希望を容れて、流行国であるオランダやイタリヤ,EU全域等を対照にした上で計算を行なえば、患者の発生予測値は約10倍にもなりえたのである。また専門調査会とは異なった要因や条件を加味した場合には、国内で10人ものvCJD患者が発生する可能性があるとするような科学的な推論(福岡伸一、文芸春秋、05年4月号)が成り立つことにもなる。
 政府はリスクコミュニケーションの本来の意義を再認識するべきである。食品添加物や農薬問題などとは全く異なる未知、未確定なリスク要因を抱えたBSE、vCJD問題のような場合では、消費者の不安感の大きさや要求の激しさなどに配慮して、リスク評価はより厳格な場合を想定して実施されるべきである。そもそも、20ヶ月齢以下の牛の検査をやめた場合のリスクを評価する、という場合の、「20ヶ月」という数字自体の設定は多分に科学的な根拠に基づくものであるとはいえない。先行した日米交渉での牛肉の輸入再開を意識したものであったことは否定できない。
 消費者の要請を無視する形で行われたリスク評価の結果に基づいて実施されようとしているリスク管理でも行政に対する消費者側の不満が鬱積することになる。BSE問題の場合には、政府は消費者の不信感をそらすために、検査を緩和する法的な決定とは別に、全国の自治体で独自に全頭検査を実施することを認めて、そのための予算的な支援を行なうことにした。このような、事実上のダブルスタンダードを設定しようとするのは決して好ましいことではない。

2 意見交換会から何が得られるのか
  5月13日に沖縄と広島で開かれた意見交換会では国側が輸入再開の前提となる、国内の全頭検査の緩和方針を示した後、参加者からつぎのような発言が行なわれた。(朝日新聞、5月15日記事)
 批判的な意見ではつぎのようなものがあったという。
「米国の圧力に屈するのか」
「安全のためには全頭検査を求めるべきでは」
「国内のBSEの原因が分かっていないのに大丈夫か」
「今、一般のレベルで困っていることがあるのか」
「(検査していない牛肉を食べている)米国の人体実験に日本が加わる感じ」
 他方で、外食産業の関係者からは早期輸入再開を求める声も出たという。
 意見交換会は食品安全委員会でのリスク評価作業や政府側の行政的な決定に当たって消費者側の意見を反映させることを目的としているはずである。しかし、現状ではその意見交換会のなかで、全頭検査に反対する消費者の意見が大勢を占めていても、行政や食品安全委員会では単に「聞き置く」だけのことであって、当初のリスク評価の結果を変更するつもりが全く見られない。リスク評価を消費者の意見や要求とは全く無縁の、「科学的な作業」であると見なしている役人や専門家たちにとって、意見交換会の内実がどうであろうと無関係であり、それは所詮、行政側の見解を周知、徹底するための現場であると見なされているのではなかろうか。
 コミュニケーションという以上は、一方通行でなくて双方向性を持つ情報の交流を意味するものでなければならない。行政の見解や専門家の意見が消費者に伝達されることも重要であり、そのことによって問題に対する正しい認識が定着することは望ましい。しかし、行政や専門家は消費者からの、その逆方向の情報を受け取ることが必要なのである。
 リスク評価のための方法論の選択や評価条件の設定に当たって、その問題をめぐる客観情勢の把握が甘くあることは許されない。リスク評価の結果についての解釈も妥当なものでなければならない。答申によってもたらされる行政のありかたや現実の生活への影響が消費者の心情と余りにも乖離したものとなることがあってはならない。
 13日の意見交換会の現場では、多数の発言者が意見を開陳した。20日までに全国の9会場で開催される意見交換会でも、消費者側の厳しい発言が予定されているだろう。
 言いっぱなし、聞きっぱなしでは、所詮それは消費者の中に鬱積している不満のガス抜きの場にすぎない。意見が交流されることによって食品安全委員会や行政の見解が修正され、行政の姿勢にも変更が見られるようにならなければ、意見交換会もパブリックコメント制度と同様に単なる通過儀礼のひとつでしかないことになるだろう。

3 消費者側にも責任がある
 消費者の意見が必ずしも科学的、専門的であるとは限らないのはわかりきったことである。それでも、消費者の意見を聞こうとするのは、BSE問題のような不確定要因が多いテーマでは消費者の「そうあってほしくない」、「そうあってほしい」という心情の部分を理解して、未知の部分に配慮した予防原則的な対策が必要になるからではないか。真に科学的であるといえるためには、科学的知見の限界に対する認知を怠らず、その限界を安易に超えないために留意することが必要である。
 現状では、行政側が諮問事項の提示に際して、政治的、行政的、経済的な思惑を多分に隠蔽していることにこそ問題がある。消費者はそのことを見抜かねばならない。
 行政側は、何を基準としてリスクの程度を評価するのか、ということがあいまいなまま、「リスクが小さい、だから規制を緩和する」ということが科学的な結論である、と言おうとしているのである。このことを強く指摘せねばならない。科学を利用させてはならないのである。
 消費者の意見や要望は所詮、非科学的な範疇に置き去られて、専門家の所論や見解だけが科学的で信頼できるというような先入観がある限り、パブリックコメント制度や意見交換会の制度は有名無実なものでしかないことになるだろう。
 食生活の安全は消費者のためにある。輸入牛肉を食べるのは消費者である。消費者が食べたくないものは市場に出てはならないのである。消費者主権を侵してはならない。これは科学、非科学以前のことである。消費者の要望を無視してはならない。消費者は無視されてはならない。消費者の主権は消費者自らが守らねばならない。消費者の意見が無視されるような事態を許してはならない。それは消費者の責任でもある。
 私は、80年代に、アメリカの圧力によって食品添加物の規制が一挙に緩和された当時の状況に、ひとりの専門家として立ち会うことが出来た。多数の消費者団体はたちまち連帯して戦列を組み立てた。日比谷公会堂では大きな反対集会が開かれた。消費者運動は安全性問題には特別に敏感だった。日本の生協の発展もこの当時の安全性重視の路線の上に成り立ったのだと思う。そのことを決して忘れることが出来ない。(完)


 

我が家の庭に桜花咲く

(1月16日の1)アスレチック レコード シミュレーター(略称ARS)の製作と普及に間する提案


 陸上、水泳競技は、所詮、記録との戦いである。競技者は既存の記録を単なる時間的な数字の概念で意識しながら練習を行なっているのが現状であるが、ARSでは、具体的にトラックでの走者またはプールでの泳者の記録と同様なスピードで走行する標識によって、選手がこれを目標として練習を行なうことができる。

1 水泳の場合を示すと、水路の一つのコースにロープを張り、このロープに沿って例えばオリンピック記録の場合と同様な一定のスピードで標識を移動させる。

2 標識の移動に当たっては、ARSが10メートルごとの走行スピードに即した走行パターンでコントロールを行なう。
たとえば100メートル50秒と言う記録は毎秒2メートルでコンスタントに泳いだ記録ではない。飛び込みの直後と以後のスピード、中間、ターン、フィニッシュの速度は泳者によって微妙に異なる。ARSはこの記録のパターンを相当程度までシミュレートできるものでなければならない。

3 選手はこの移動する標識を目標として、その隣りのコースで、この標識に追い付き、この標識を追い越すための練習を行なう。泳法を改善しスタミナを身につける。

4 ARSでは電子的なコントローラーによって任意の速度と走行パターンで標識を移動させるように、事前に設定を行なうことが可能でなければならない。

5 陸上のトラック競技でも水泳の場合と同様に練習者のコースに隣接するコースに、ロープを張ってこれに沿って一定の速度で標識を移動、走行させる。

 わが国が国際的な陸上、水泳のスピード競技で優位に立つために、日本オリンピック委員会、陸連、水連関係団体は早急にARS装置の開発と普及をはかるべきである。とくに運動器具、機器メーカーの協力に期待する。(完)


(1月14日)プロジェクトXというNHKの番組について


 昨晩、NHKのプロジェクトXというテレビ番組を見た。それは新潟から東京への高圧送電線づくりに取組んだ勇敢な工事人たちの感動的なストーリーであった。
 この番組にはいつも励まされる。人間の可能性を信じさせられる。失敗を繰返しながら,新入の若者たちが次第に一人前の送電線工事夫として育っていく。そしてついに標高2000メートルの山頂での送電線工事の、しかも最難関個所での役割をみごとにやりとげた。その彼の懐には、恋人から送られてきた、「がんばって」と書かれた1枚の紙切れの入ったお守り袋があった。はにかみながらそのお守り袋を見せる彼の表情を私は本当に美しいと思った。
 この番組の直ぐ前には、1月12日の各地の成人式での若者たちの馬鹿騒ぎの情景が映し出されていた。成人式の式場で一升瓶を一気飲みしながら、酔っ払った彼等が演壇に駆け上がって、垂れ幕を引きちぎっていた。その情景は、日本人の、そして日本という国の行く末を思わせて、悲しかった。それだけに、プロジェクトXでの同じ若者たちの情景は実にすがすがしかった。
 プロジェクトXは確かにいい番組である。しかし私には言っておきたいことがある。
 プロジェクトXは成功物語である。失敗で終わる事がない。最後には見事に難関を克服する。だから視聴者は安心して見ていられる。いわば「水戸黄門」ばりの基調なのである。「よかったなあ」、「すごかったなあ」、「よくやったなあ」という視聴者のセンチメンタルな視聴後感までもが計算され尽くして脚本が作られている。それは、現実をそのまま投げ出して見せるドキュメンタリ―ではない。「悲しみ」とか「苦しみ」、「やるせなさ」、「絶望感」と言うような、どちらかと言えば、この現実の社会での人々の中にある普遍的な心情とは程遠い「達成感」を示して、いつでもハッピーエンドで締めくくる。だから人気があるのは当然のことなのである。
 私の本職との関連でいうならば、実際の研究や技術の世界では成功と言えるのは100に一つ、その99%は失敗なのである。事業の世界でもおそらくそうなのではないか。そして99%の失敗があるからこそ、1%の成功がすばらしいのではないか。本来、基調として存在する失敗というものの体験や教訓に学んでこそ、ごく僅かな成功がある。それならばプロジェクトX以上に、逆境の中で、それぞれの目的をめざして悪銭苦闘している人々の姿を描いた「プロジェクトZ」こそが必要なのではないか.。
 もっと「彫りの深い」、「人間的な」、ドキュメンタルなタッチの、しかしそれだけに成功を夢見る人々の、情念の色濃いストーリーを展開する映像にこそ、より深い人間的な共感を得る事ができるのではないか。「頑張ったから成功した」物語よりも「頑張っても成功しなかった」、だから一層奮い立つ、そのような人々を描き出した映像のほうが価値があるのではないだろうか。
 まず現実をありのままに示さねばならない。成功物語ではすまない。その病気が治癒するかどうかはわからない。不安と希望が入り混じる。しかし、患者たちは病気と向き合って闘っている。その病気を克服するために頑張っている。それが唯一の真実なのである。その真実を描かねばならない。そしてその闘いのために、協力を惜しまない家族や医師たちの真情をリアルに描きたい。
 私はかって、ガンであると宣告された。切除手術をした.。集中治療室で生死の境をさまよった。沢山の患者たちを見た。そして沢山の仲間が死んで、私は生き残った。これは断じて成功物語ではない。人間ドラマなのである。
 一昨年、ある放送局のディレクターがやって来て、先生の話をプロジェクトXにしてみたいのだが、と言う相談を受けた。私のPCB琵琶湖汚染問題との関わりを取り上げたい、ということであった。もちろん私はお断りした。とんでもないことであった。私のPCB問題との取組みは結果がどうであれ、成功物語どころではなかった。本来,地方の一研究所の一研究者として、データの一つを公表することでさえ、息絶え絶えに悪銭苦闘することになった。沢山の敵を作ることになった。今でもまだ誰にも言えないような、おそらくは墓場まで持っていかねばならないような話がいっぱいある。琵琶湖のPCB汚染を明らかにしたという結果は私がたまたまリーダーであった1研究チームの成果として確かに注目すべきものではあろうが、それは決してドラマチックな成功物語ではなかったのである。
 今の日本には、失敗物語りの主人公が充満している。真面目に生きて、働いて、それでも成功した、などとは言えない人々がいっぱいいる。しかし大切なのは成功した、失敗したと言う結果よりも、問題に立ち向かって、真剣に取組んでいる、と云うその事実そのものなのではないか。努力すれば成功する、というほど現実は甘くはない。運が悪かったということもある。プロジェクトXを見る人々が多いというのは、それが稀有とでもいうべき成功の物語であるからなのだ。(完)


(1月15日)車言語(Automatic language)を開発せよ


 走行、停車中の車の運転者が他の車の運転者に、当方の意向を伝達したい時がある。現状ではパッシングライトを点滅したり、クラクションを鳴らしたり、閉じられた車内で、身振り手振りをするのが精一杯の事なのであるが、私は車の運転者が互に理解できる「車言語」とでも言うべきものを開発することを提案したい。その概要は以下のとおりである。

1 車言語は万国共通のものとする。
 車言語は国際的に使用可能なものとする。
2 車言語はシンプル、少数でなければならない。
 覚え切れないような多数の車言語では事実上意味がない。
3 車言語は必要、最小限の公共性の強いものに限定する。
 私語、雑談的な車言語にはかえって弊害のほうが多いだろう。
4 車言語はアルファベット文字の2文字ないし3文字程度の組み合わせや○×などで表現する。
5 車言語は免許取得時に教習する。
 車言語が社会生活に必要であり、有用であることを学習する。
 交通秩序の向上や事故の防止、環境保全に役立つように設定する。
6 車言語は、誠実な使用が必要であることを前提とする。
 不誠実、虚偽の使用に対しては罰則を課する。車言語表示の点滅が運転上の危険を招くようなものであってはならない。
7 車言語を表示するための車の構造上の工夫を行なう。
 自動車メーカーの協力を期待する。フロント、バック。車屋上の表示装置のとりつけ位置、昼夜の光度や標識などにも工夫が必要である。
8 国は車言語設定のための調査検討委員会を設置して有識者による検討を行なう。衆知を集めて取組む。反対意見も充分に聞く。法的、行政的な位置付けを行なう。
9 車言語では運転者同士の会話や雑談を行なう事を目的としない。
 車言語は警告的、周知的、予防的な瞬時理解が可能なサイン的な表示に限定する。
10 車言語を21世紀社会での車と人との意志交流のシンボルとして位置付ける。

 車言語表示の実例:
1 前方に事故車あり:AA
2 前方で検問中:AB
3 前方で工事中:AC
4 前方で渋滞中:AD
5 ヘッドライトを下方灯にせよ:LD
6 スピードをおとせ:CA×
7 車間距離をとれ:CB×
8 有難う:TT
9 OK、了解:OK
10 ヘルプ、救助要請中;:HE

 車言語を適切な音声で示すことも検討課題となる。
 車言語委員会の設置のための世論を盛り上げよう。とげとげしい無言、盲目、聾唖の中にある車社会の現実を変えよう。最小限の意志疎通が可能な車社会をつくろう。(完)


(2月4日)食生活問題はなぜ政治課題にならないのか


 昨年の今ごろは、BSE問題、その後に引き続いて発生した牛肉偽装事件などで大変な騒ぎであった。 BSE問題調査検討委員会でも白熱した討議が続けられていた。新聞などでも大きなスペースを割いて、食品の安全や品質偽装問題を取り上げていた。おかげで、年商1000億の雪印食品が解体の憂き目に遭った。
 しかし、私はその時期でさえ、たいへんに不満であった。なぜなら、大方のマスコミでは、つい先ごろまで盛んに書き立てていた環境ホルモン問題、ダイオキシン問題、そして遺伝子組み換え食品問題などを全く忘れてしまったようになっていた。散々、住民,消費者の食不安、食不信、食不満を掻き立てていながら、結局、肝心なフォロー・アップができていなかった。住民、消費者には、曖昧な,漠然とした不安とその不安への、いっそう危険な慣れが生じたままになっていた。そして、このような、我が国特有と思われる社会的な健忘状態は今に始まった事ではなかったのである。
 私たち、研究者が何冊か本を書いて少々警告したぐらいのことでは何も変わらない。内海,内湾、内水系の沿岸魚のダイオキシン汚染がひどくて、即刻規制が必要であるというような、非常にさしせまった問題でさえも、食品安全行政や政治のテーマになることもない。実態的には、BSE、vCJD以上であると思われる環境ホルモン問題でさえも、あれほど騒がれた挙句に、結局は忘却の彼方に置き去られたままになっていく。だから政府の役人たちは安心し切っている。その場、その場の一時を、なんとか、凌ぎさえ、繕いさえすれば良い、嵐は必ず過ぎて行く、彼らはきっとそう思って多寡をくくっているに違いない。
 そして、今年はどうなのか。食品衛生法の改正案,食品安全基本法案が今国会に上程される、そして、それは昨年中のさまざまな出来事の、総決算のひとつのあり方として、本来、非常に注目されねばならないというのに、そして、全国2000万人の請願署名運動の成果であるというべきなのに、そうした重い課題でさえも世論のトップテーマになることはない、のである。全く予想されたとおりなのである。
 ある社での最近の意識調査では、主婦の81%が「食品に不安を感じる」と回答したという。しかし、このような、食不安というような、生活の基本に関わる身近な課題でさえも、真っ先にとりあげられることはないのである。
 所詮は、たかが食い物の問題なのである。その程度のことなのである。我が国では、健康とか安全とかいうことは、結局、政治や行政の第一課題にはならないのである。だから戦後一貫して,食の安全を守る社会的な仕組みが欠陥だらけのままで推移してきたのである。だからこそ、国民、消費者の食の安全に関わる疑念がいつまでも払拭できないでいるのである。
 現時点での本当の問題は,個々の課題をどうするかよりも、以上に上げたような国民,消費者の食不安,食不信,食不満というような不幸で暗い生活感覚が行き場を失ってしまっていて、食生活の安全、安心、安定が世論、政治の最大課題にまで具体的に持ち上げられていないというような、慢性的で危機的な状況をどうするかということだと思う。
 この点については、衣食住の真の生活課題については全く無知蒙昧としかいいようがない霞ヶ関の政治家や官僚たちに期待することはもうやめたほうがよい。それよりも、地域の現場で、住民、消費者自身が生産者、地元の自治体、議員たちと協力して、小さくても新しい、そして活きている秩序をつくって行くほかない。市町村の、自治体独自の条例を創りだし、必要な予算を絞りだし、検査,監視、指導、予防の任務に当たる要員を取り揃えるために、協力しあう草の根の生活自治協同体を育てるしかないのではないか。
 今回、国会に上程される食品衛生法の改正案や食品安全基本法が、こうした住民、消費者の草の根からの取組みの、その積み上げの集大成として登場していない事を悲しむ。評価が低く,反響が鈍いのも当然のことなのである。(完)


   

(1月21日)BSE牛6頭目の発見について


 予想されたことであって、もう、まったく誰も驚かない。
 それよりも以下のことを考える。
1 BSE牛の最初の発見以来もう2年近くになるというのに,未だに汚染ルーとの解明が進まない。ほとんど迷宮入りに近いありさまである。農水行政の非力さをあらためて思い知らされる。

2 この種の事態を引き起こしたばあいには、原因解明が不可能に近い。いかにトレーサビリティーが重要であるかを再確認させられる。

3 全頭検査体制をとっているから,市販されている牛肉は安全である、というが、病原体プリオンをふくむ飼料を与えられた月齢の低い子牛で、検査結果が陽性には出にくい場合、あるいは2次検査のスポンジ様の脳組織が証明し難い場合もある。だからプリオン完全フリーの牛肉ばかりが出回っているわけではない。プリオンに特別に感受性の高い人があるのかどうかもわからない。BSE問題の専門家がどう言うか知らないが、私には不気味に思える。とにかく、早く汚染源を見つけて,プリオン自体を根源から消滅させねばならない。

4 一刻も早く,生前検査法を開発してほしい。BSE牛と同一厩舎に飼育されていた多数の牛をやみくもに処分しなくてもよいようにしてほしい。老廃牛が体内に高濃度のプリオンを蓄えたまま、まだ各地の厩舎に出荷されないで温存されていることを忘れてはならない。垂直、水平感染の危険性もまだ完全に否定されたとはいえないのではないか。

5 BSE問題調査検討委員会の報告書が出たあと、はたして肝心の農水省,厚生労働省の体質は変えられたのか。今国会に上程中の食品安全基本法案や食品衛生法の改正案がどんなにすばらしい中身であったとしても、これらを執行,実施するのは官僚,役人たちである。はたしてこれらの法案が国会で可決された後、監視率、検査率10%などという現状を変えることができるのであろうか。

6 本来,BSE牛の発現はそのたびごとに、既往の農水省や厚生労働省の責任をかみしめる機会であってほしいと思う。(完)


遺伝子組み換え食品の開発研究者は次の問いに答えねばならない


 開発関連の企業や研究者には、遺伝子組み換え作物を開放的に栽培し、市場に大規模に送り出す前に、それらを実際に、いやでも食べねばならない消費者一般にもよくわかるように、最低限度、以下の事項について、問題がないことをわかりやすく説明する責任がある。

1 種の壁を越えた遺伝子の移行、組換えによって、受け入れ側の生物には全く問題は生じないのか。遺伝子組み換えは厳密に育種の延長であるといえるか。

2 別の生物からとってきた遺伝子を導入しても、遺伝子間の既存のネットワークに 影響を与えることはないのか。

3 生命工学的な多様な操作が眠っている遺伝子部分などとといわれているイントロ ン部位になんらかの影響を与えることはないのか。イントロンには全く配慮する必要はないのか。

4 新規遺伝子を挿入しても既存の遺伝子間の情報伝達経路に影響を与えないのか。   ベクターが標的遺伝子以外の遺伝子を運び込む危険はないのか。

5 導入した遺伝子によって細胞内に拒絶反応的な状況が生じないか。

6 複数遺伝子が組み合わさって一定の機能を発揮している場合に、別個の遺伝子を導入すれば、機能そのものに影響を与えるのではないか。遺伝子の組み合わせによる機能の発現についての知見は未だ不完全ではないのか。

7 遺伝子組み換え作物の多種多様な開放的な栽培が行われた場合でも、風媒、虫媒などによって、生態系に影響がないといいきれるか。

8 マーカーとして使われ抗生物質耐性遺伝子などが環境中に拡散しても問題がないか。

9 安全性が確認されていない開発、試作段階での遺伝子組み換え生物が環境中にリークしないという保証があるのか。

10 安全性のほかに有用性、必要性の検討が充分に行なわれていると思うか。

11 研究者が興味本位に、あるいは好奇心に駆られて、遺伝子組み換え技術を応用 して、問題のある新生物を作り出す恐れはないのか。倫理学的な拘束は本当に守 られるのか。


消費者団体は会員、組合員に誤った知識を与えるな


 私の家には消費者団体の機関紙や講演会のレジュメ等が数多く届けられる。もちろん感心させられるものが大部分なのであるが、その中には時折、どう考えても編集者のミスプリントであるとしか思えない文章に出くわすことがある
。  一例を紹介すると、某消費者団体が頒布した「健全な食生活のための提言」(2000年6月15日)のプリントのなかに次のような文章がある。(文献14)
「食生活の基本を栄養学の立場から図1にまとめてみました。人類は、炭水化物、タンパク質、資質という基本栄養素だけで生きていくことができます。―――つまり図1のピラミッドの底辺のレベル1(炭水化物、タンパク質、資質)だけで生命としては十分です。しかし1年、2年さらに数十年と、生命を維持するためには、レベル1を出来るだけうまく利用し続けなければなりません。そのためには、その利用を助けるレベル2のビタミン、ミネラルなどの微量栄養素がどうしても必要になります。」
 さてこの文章の問題点は何処にあるか、いまさら説明する必要もないであろうが、あえて言うと、「基本栄養素だけで生きていくことができます」、「1年、2年さらに数十年と生命を維持するためには―微量栄養素が必要」という表現には間違いがある。
 生物は基本栄養素だけでは一瞬たりとも生きていくことは出来ない。基本栄養素だけで「生命としては十分です」などと言い切ることは誤りである。「生きるため」のエネルギーの生産や身体成分の構成のためには微量栄養素が酵素、触媒成分などとして常時作用することが絶対に必要なのである。もしも動物実験で、微量栄養素を完全に与えずに、基本栄養素だけでネズミを飼育したとすれば、実験開始時点で体内に残存していた微量栄養素が使える期間だけしかネズミは生きられない。ビタミン、ミネラルは生きるための必須成分であり、基本栄養素と同時に必要になる、これは栄養学の常識である。
 消費者団体、とくに生協などの学習会の事務局担当者が、会員、組合員に正しい理解を普及するためには、演者の校閲を確実に受けた上で、万一にもミスプリントがないような、しっかりした教育、学習資料を作ってほしい。私はこのごろつくづくそのように思う。
 ちなみに、この誤りだらけの文章は某国立大学の栄養学の教授の講演の記録によるものであるという。どう考えても、記録側のミスによるものとしか思えない。
 こういう事例は遺伝子組み換え食品問題などにもよくあることである。消費者、組合員に誤解を与えるのは組織の責任でもあることを忘れてはならないだろう。


遺伝子組換え米の登場が近い


 わが国の農産物の本命とも言うべき米が今急速に遺伝子組み換え関連の技術開発の対象となっている。
 TIME誌の2001年2月12日号に、GRAINS OF HOPEという表題の特集が行われている。その中に、「HOW TO MAKE GOLDENN RICE」とした部分があり、ベータ・カロチンを生産するように遺伝子組み換えされた米の開発が完了したことや貧しい途上国での子供たちのビタミンA不足による栄養失調や死亡がこれで救えるだろう、などと書かれている。
 さて問題はこの米をどのように評価するかである。わが国の農林水産省でも米の遺伝子組み換えについてだけはアメリカに遅れをとらないために、懸命に技術開発につとめており、たとえば遺伝子組み換え技術を応用して、栄養学的に不足が指摘されているリジンを生産する遺伝子を組込んだ米やイモチ病に強い品種の開発がすすめられている。そしてまもなくこれらの有用性、安全性、必要性をどのように考えるかが問われる時期を迎えようとしている。わが国の農民、農協としてもこれまでのように遺伝子組み換え作物問題について沈黙を守っていることが許されなくなりつつあることに気づかねばならない。
 食生活の安全性について考える場合には、すでに明確にされている有害性についてだけでなく、容疑事実が完全に否定されていない場合についても慎重に配慮して検討する態度が必要になっている。少なくとも検証作業が完了していない間は、予防原則を適用して、製造、使用、消費、廃棄の過程などに安易に移行しないようにせねばならない。この点はとくに認可、承認、指導、規制の立場にある行政側として留意しておくべきことである。21世紀には20世紀以上の科学技術の急速な進歩が予想されているだけに、新規な人工化学物質や遺伝子操作食材などを氾濫させて、私たちの食生活を収拾のつかないような状況に追い込むことがないようにしなければならない。特に生命科学分野での開発研究の進展が目覚しいだけに、その成果が安易に実用化されないように配慮せねばならないだろう。



油症事件の被害者たちは悲しんでいる


 油症の被害者、原告は最高裁での和解以後、これまでの高裁判決で一旦かちとった賠償金を国に対して返済せねばならなくなった。苦しい家計の足しにその金を使い果たした挙句に返済を求められて、原告たちは以後、10年近くも四苦八苦しながら、一昨年やっとその支払いを終えたという。何の罪とがもない人々が被害者になり、肉体的、精神的、経済的に塗炭の苦しみを味わってきたあげくに、このような事態があったことはあまり知られていない。
 たとえ法律的には和解に終わって、国や自治体の責任が認められなかったとしても、ダーク油事件の経過ひとつをとってみても行政側の手落ち、失態は疑うべくもないはずである。普通の常識に従えば、国や自治体には広義の責任があったというべきである。にもかかわらず最高裁の和解以後に、国はいったん支払った賠償金を被害者、原告から容赦なく取りたてた。まさしくそれは恐るべき「和解」であり、被害者をもう一度追い詰めるようなあくどい仕打ちであった。もしもアメリカのような陪審制であったなら、まさかこのような結末にはなっていかったであろう。
 以上の事実は関係者以外にはあまり知られていない。マスコミでも余りとりあげられてたこなかった。この点については私や油症弁護団、支援組織の側にも責任があると思う。 油症の原告、被害者たちは決して和解を喜んで受け入れたのではない。このことは歴史にしっかりと刻み込んでおかねばならない。


油症事件の総括はまだ終わっていない


 油症事件の総括は次の点で、まだ終わってはいない。
(ア) 裁判記録が正確に整理、公刊されていない。
(イ) 全国的な支援、運動団体の記録も散逸したままになっている。
(ウ) 事件発生の真の原因が明らかにされていない。
(エ) 油症の医学的研究が完結していない。
(オ) 患者の後遺症の調査が行われていない。
(カ) 国、企業の行政的、道義的、社会的責任が明確にされていない。
 かっての原告、被告を問わず、患者、企業の弁護団、支援者、国、自治体の行政そして多数の研究者など、油症に関係したすべての人々は、この人類史的な科学公害事件の総括が未了であることを銘記しておく必要がある。


「14年目の訪問」の意義を忘れない


 森永ドライミルク事件の被害児たちが健康を回復したとして、いったん森永事件が早々と幕引きされてから14年後になって、当時の阪大医学部公衆衛生学教室の丸山博教授が中心となり、その後被害児たちがさまざまな形の後遺症に苦しんでいる事実が明らかにされた。これは「14年目の訪問」として大変有名な話になっている。
 この事件は食品被害の影響が長期間続くものであり、安易に終結宣言を出してはならないことを教えてくれた。しかしそれ以上に、こうした事実の発掘が行政側によってではなく、大学の研究者と保健所の保健婦たちの、現場に根ざした、粘り強い自主的な活動のなかから可能になったということを高く評価せねばならない。
 ところで、はたしてカネミ油症の患者たちへの「14年目の訪問」は行なわれたのであろうか。ダイオキシン問題がクローズアップされる昨今、典型的なPCB、ダイオキシン被害であるとされている油症の患者たちの約25%しか検診、医療の対象になっていないといわれている。一体国の責任はどうなっているのであろうか。和解というのは、裁判上のことにすぎなかったはずである。


EUの予防原則に学ぼう(12月4日記載)


 EU委員会は2001年2月2日、食品に対する予防的措置の適用に関する原則を明確に示したガイドラインを公表した。このガイドラインは食品の安全性に関する科学的根拠が不充分、不明確またはまだ結論が得られているとはいえない場合には、その結果を待たずに予防的な措置を講じることができるとする原則、すなわち予防原則(PRECAUTIONARY PRINCIPLE)をはっきりと示した上で、これに基づく統一的な基準を示したものである。
 このガイドラインの特徴は人や動植物の衛生、安全だけでなく、環境保護の分野を含めて統一的な対策をどのように実施するかについての指針を明らかにしていることにある
 EUでは従来から予防原則に基づいた対策が食品の安全性の分野で行われてきた。その例証としては成長ホルモンを投与した牛肉の輸入の禁止、乳牛でのこのホルモン剤の使用の禁止のほか、遺伝子組み換え食品に関する新規な認定の凍結などがある。言うまでもなく、このようなEUの姿勢は、危険性が証明されない限り、原則的に輸入を認めるべきであるとするアメリカの姿勢と対立するものであり、今後の成り行きが注目されている。
 容疑食品についてのわが国政府の姿勢が不明確であるのに対して、EUがこのような明確な態度をとっていることをうらやましく思う。私は20世紀に経験した多数の食品被害の体験に基づく限り、このようなEUの姿勢は極めて妥当であると考える。


協力なしではやってゆけない。(11月30日記載)


 雪印乳業の食中毒事件が発覚したあと、保健所の食品衛生監視員の日常的な監視の際に、無届の配管や違法なタンクがなぜ発見できなかったのか、とマスコミなどから非難されたことがある。
 しかし専門家は、今日の先進企業の製造工程は非常に複雑化,高度化、専門化していて、食品衛生監視員といえども、工程全体を完全に把握することは無理であり、細部の違反を発見できなかったのも仕方がないだろう、と語った。
 食品衛生法が制定された当時と今とでは大きく企業の様相が変化ている。化学工業の一環としての食品関連企業の工程も随所に見られる。
 したがって今日では食品衛生監視員と食品衛生管理者と食品衛生責任者との協力が絶対に必要となっているのであって、改めて食品衛生監視員の監視、臨検にあたっては必ず企業の総括管理、責任者が同行して全面的に協力する旨を法令に明文化することが望ましい。


食品衛生監視員はなぜ黙っているのか(11月28日記載)


 私はここ6年間ほど山形大学の農学部で公衆衛生学の講義を担当してきた。農学部の学生は将来食品衛生監視員になるためには、公衆衛生学の単位をとっておくことが必要であるとされている。
 食品衛生監視員は消費者、国民の食生活を守るために、消費者、企業と行政の接点にあって働く重要な職種である。言い換えると食品衛生監視員が手抜きをすると間違いなく消費者、国民の食生活の衛生、安全面に影響が出ることになる。その食品衛生監視員の監視回数が法律で定められた基準の5%にも満たない自治体があり、国全体の平均回数でも15%にも達しないということを肝心の監視員自身がどう考えているのか、どう見ているのかを問いただしたい。
 私は講義のなかで、学生たちにこのような食品監視員の活動の実態を伝えることをためらってきた。
 確かに厚生労働省は、法定監視回数は単なる目標回数にすぎないことが、ある地裁のある判決の中で認められたことを、いかにも公認のお墨付きをもらったかのように言う。しかしこの規定が実際に食品衛生法の施行令のなかで、しっかりと記載された基準(p   参照)であるにもかかわらず、ほぼ半世紀もの間、全く無視されてきたという事実を、国の中央官僚はともかく、監視員自身が黙認しているのはおかしいと思う。専門職として増員要求を出すなり、それが通らなければ、遵法闘争を組むなりして本気で戦うのが本筋なのではなかろうか。基準を満たすために取り組まないでいて、監視員自身が妥協して、現状にみあった監視回数基準を見直すようにとか、あるいは基準を法的な義務規定としないように、などと怠慢極まりない厚生労働省に同調するような態度を示すのは全く論外のことではないか。
 民間企業などが法律、規則、通達などで定められた約束事を守らない場合には当然厳重に警告、注意されて改善を命じられることになる、それは法治国家では法秩序を守ることが必要であるからである。それを行政側が勝手に訓示規定であるなどと決め付けて、監視回数についてのとりきめを無視するなどと言うのはもってのほかのことである。
食の安全、安心に最大の関心を持っている消費者も、雪印乳業食中毒事件を実際に体験するなかで、自分たちは守られていないとの思いを強くした。
輸入食品の検疫であれ、国内市場での監視であれ、食品衛生監視員の役割は重要である。指導、監視の極端な不徹底というような現状を放置しておれば、必ず第2、第3の大規模食中毒事件の発生を許すことになるだろう。


 藤原九十郎賞が泣いている(11月19日記載)


 大阪市には保健衛生の功労者に贈られる藤原九十郎賞という表彰制度がある。藤原九十郎は京都大学医学部衛生学教室を出て、戦前、京都市、大阪市の衛生研究所長、衛生局長を歴任し、この間にドイツ留学から帰った彼は、次の4つのわが国で初めての公衆衛生行政上の業績を残している。第一は、霊園制度の導入である。日本の従来の暗いイメージの墓場をヨーロッパのセメタリ−に習って霊園、公園として、明るい環境、安らぎの場所に変えることに努力し、はじめて東住吉区に瓜破霊園をつくった。第二は降下煤塵の測定であり、当時の煙の都大阪での公害研究を創始した。第三はドイツに学んだ保健所制度の導入であった。第四は生活科学としての住居学、衣服学の研究を行った。彼の大正15年9月5日に出版した「衣食住の衛生」と言う本は拙宅の書棚にある最古の学術出版物である。その第2編の表題には「飲食物の衛生」と記されている。
 彼の創始した大阪市の保健所が一昨年、一時の22箇所から1箇所にまで減らされてしまったことを残念に思う。これも時代の変化なのであろうか。黄泉にある彼もさぞや嘆いていることであろう。長らく続いてきた藤原九十郎賞もやがて自然消滅することになるのであろうか。ちなみに九十郎は私の伯父にあたる。


食の安全を監視する規定が撤廃されようとしている(11月27日記載)


 厚生労働省は今年の11月に、食品衛生行政の見なおしについての方針を公表している。その中で注目する必要があるのは、大改正が予定されている食品衛生法のなかで、現行法に定められてある食品衛生監視回数規定を撤廃しようとしている事である。厚生労働省は、国の法的義務を地方自治体に押し付けて,監視業務を知事,市長などの自由な裁量に委ねようとしているのである。
 私が予想したとおり、食の安全を願う消費者の願いに逆行して、国の公的責任を企業や自治体に「丸投げ」する行為が堂々とまかり通ろうとしている。
 私は前著「食品被害を防ぐ事典」(農文協刊、平成13年12月)の中でつぎのように書いている。

 厚生労働省は平成12年12月18日に「監視指導の見直しに関する意見交換会」を開催して、17自治体の食品衛生担当者と厚生労働省の食品保健、乳肉衛生、食品化学などの担当者7名による討議を行った。
 そのなかで主要な意見を示すと次のとおりであった。
 監視業務については、
@ 監視内容については質から量への方向転換を。
A 業者の自主管理が重要に。
B 業者を取り締まりの対象から協力者に移行させて行こう。
C 業者自らが自主管理を行う体制を。
D 業者に自主管理を行わせるためのインセンティブを。
E 食品衛生管理者、推進員が役割を十分に果たしていないのでは。

 監視内容については
@ 施行規則の重点監視項目は現状にあっておらず、実際の監視業務ではほとんど利用していない。
A 業種別監視体制では効果的な監視が困難。
B ハード面での監視からソフト面での監視へ。
C HACCPを推進して業者の自主管理を。
D HACCPの承認の事前、事後の監視指導の位置づけを明確に。

 法定監視回数については
@ 監視回数は努力目標としている。回数にこだわっていては実質的監視は困難。回数が定められているとかえって回数をこなすことが目的化する。
A 優良施設には許可更新時の監視だけでも十分だ。
B 全国一律の監視回数では地域の現状と乖離する。
C 回数をなくす場合には指標をつくれ。
D 監視回数は現状を乖離している。

 今後については
「監視回数を廃止した場合に監視回数等について各自治体で条例として定めるのは難しい。また、その場合には目標回数を厚生労働省からの通知等で示してほしい。」

 そもそもこのような意見交換会が今時開かれるのはなぜか。おそらく厚生労働省では、法定監視回数が無視されている食品衛生行政の実態が雪印乳業食中毒事件を契機に、次第に大きくクローズアップされてきたことに危機感を持つようになり、何らかの対処を迫られるようになったからだと思われる。
 以上の意見交換のなかに、色濃くみられるのは、監視回数についての法的制約を取り払って、たとえば目標回数、努力目標などとしてはっきりと位置づけて、地方自治体の自主的判断と方策にゆだねる方針に転換しようとする行政側の意図である。そのための美辞麗句は「地方分権、地域特性の尊重、業者による自主規制の励行」など、さまざまにあげられるであろうが、肝心の食品衛生監視員の増員、監視回数の法定水準への向上努力などへの言及が全く見受けられない。極度に低い監視率の現状に対する危機感がすでに行政内部で全く失われているのは極めて遺憾なことである。
 消費者団体では食品衛生法の抜本的な改正を要求しているが、その改定が法定監視回数の撤廃のような改悪につながる事態にならないように厳しく監視することが求められている。
 以上に示したような、食品の安全確保に関わる危険な状況を放置しておくことは許されない。21世紀の食生活の安全を確保する上で、食品衛生監視能力の減退を防止するための施策が必要である事は明白である。
 たとえば都道府県の自治体の衛生部局に食品衛生審議会を設置して、食品衛生監視機能に関する第3者的な評価、監査を行わせる。その結果を公開させる、などの方策を講じることが望まれる。この審議会組織には学識経験者はもちろん、市民、消費者団体の代表も参加して透明性を高める。別記したHACCPの監査(AUDIT)などもこの審議会で担当させることが望ましい。


 猿真似は怪我のもと(11月26日記載)


 アメリカのHACCPの形骸だけをなぞったことの過ちが今回の雪印乳業の食中毒事件ではっきりした。その国のシステムには、その国の歴史と伝統と環境と条件が刻まれているのである。
 アメリカのHACCPシステムには宇宙戦争に遅れまいとする悲願が込められていた。またそれ以前にアメリカではすでにGLP,GMP制度が実施されていた。さらに当時のO・157事件の続発を食い止めたいと言うFDA・食品衛生行政側の執念もあっただろう。ところが、わが国の場合には、そのような機運も熱意もなかった。ただ国際的な潮流になってきたHACCP方式を取り入れなければ輸出に差し支えるということと、むしろ規制緩和の要請にこたえることや小さい政府への要請に応じると言うような形で、従来からの伝統的な食品規制方式の長所までも放棄して、日本版HACCPを船出させたのである。
 私はHACCP方式を取り入れた平成7年の法改正時点において、拙著のなかで食品衛生管理者の必置義務を免除した緩和規定に対して警告をしておいたが、その懸念が最も悪い形で的中してしまったことを残念に思う。実際、定評のあるQC王国の日本でこのような初歩的な食品事故が、しかもトップメーカーの工場で発生したことは、国際的に見ても全く不思議でさえあっただろう。
 ISO何がしを取得しようとか、HACCPの承認を得ようとか、とにかくやたらに、半官製、または官製の公式なお墨付きをいただこうとするのはやめた方がよい。雪印乳業事件というすぐれた反面教師がそう教えてくれている。消費者はそんなことよりも、その企業が本当に消費者の方を向いてくれているのかどうか、その一点だけに関心がある。ISOもHACCPも消費者の9割方が知ってはいないのである。
 一事が万事である。無論国際化も大切だが、わが国の伝統、長所、条件まで無視してはいけない。規制を緩和するような場合にはとくにそうである。事は国民、消費者の生命、安全にかかっている。
 つぎの食品衛生法の抜本的改正時点での国側の対応に期待しよう。


食品被害の防止のための公的秩序の必要性(11月26日記載)


たとえば交差点で、加害者となりうる車と被害者となりうる人が共存して安全に移動、通行することができるような社会環境をつくるためには、つぎの3点が特別に重要である。
(1)交通法規の水準が高い
交通法規が整備され、規則に従って通行が可能であることが必要である。車や人の恣意的な行動が制約、禁止されていなければならない。罰則が厳しく違法な行為が許されないという社会的な通念が普遍化されていることが求められる。
(2)交通インフラが整備されている
信号灯が規則正しく点滅し、標識が完備され、場合によっては交通警官やパトカーが出動できる体制が準備されていなければならない。
(3)運転者や歩行者が交通道徳を守り、交通規則に従う
移動の当事者である車や人が安全で自由な交通秩序を守ることに全面的に協力せねばならない。
食品被害を防止するためには、車に相当する企業、事業体の提供する商品が人に相当する消費者に供給される場合に、上記の1項にあたる食品衛生、食品安全関連の法律規則と2項にあたる国、自治体の行政がいずれも高い水準に置かれていなければならない。その上で車すなわち企業、事業体や人すなわち消費者が3項に相当するようなしっかりしたモラルを守って行動することが求められる。
輸出入に関わる、検査、検証に関わる、指導、監視に関わる、規格、基準に関わる、そして規制、制裁に関わる法規を整備して、そのうえで行政施策を確実に展開することができるような公的な仕組みが確立されていなければ、そしてその機能が力強く推進されていなければ、企業だけのいかなる努力であっても、消費者だけのいかなる取り組みであっても、食生活の安全性を守ることはできないだろう。

 ダンボール箱2杯分の資料が送られてくる(11月19日記載)


 1985年当時、11品目の食品添加物が一括して規制緩和されたことがあった。厚生労働大臣の諮問のあと、食品衛生調査会で実質数時間の審議が行なわれてOPPやTBZなどのポストハーベスト関連の食品添加物が一括して認可、指定された。当時のマスコミはこの問題を熱心にフォロウしたが、そのひとつの記事に、ある調査会の委員のもとに、厚生労働省から委員会開会の数日前になって、ダンボール箱2杯分の検討資料がとどけられて驚いた、というものがあった。
 大学や研究機関に本職を持ちながら委員を引き受けている人たちが、必ずしも日本語ばかりで書かれていない、自分の専門領域のものばかりでもない学術文献を、数日間のうちに多数読みこなして、評価、検討を行い、一定の結論を見出すなどというような離れ業が出来るのだろうか。日生協のZリスと委員会で同様な作業を行なってきた私には到底そのようなまさしく天才的な離れ業は出来そうにもない。
 悪くすると、調査会の審議に使われるドラフトペーパー(下書き原稿)はすでに厚生労働省の役人の手元で出来ていて、これにしたがって既定の路線どおりの結論が得られるようになっているのではないか、当時はそのような不安さえも感じさせられたことを覚えている。


 調査会委員長と面会する(11月12日記載)


 食品添加物の規制緩和問題で世情が騒然としていた1986年のことであった。私は当時の日生協組織部のX君を伴って、食品衛生調査会の委員長、元国立大学の学長をお勤めになったY氏の事務所をお訪ねした。もちろん予約を取っていたことでもあり、私のことをあらかじめ知っておられた同氏は快く面会に応じてくださった。
 私とX君が委員長とお会いした目的は、当時の日生協の学者専門家懇談会やZリスト委員会で行なっていた論議や食品添加物の評価資料を国の調査会に反映するように申し入れることであったが、この点についても好意的な反応が得られたように思われた。帰りには調査会で審議中の資料までいただいた。これは画期的なことであった、官民の情報交流は食生活の安全確保の上で大きな意義がある、私たちは期待に満たされて帰途についた。
 しかし、その期待は裏切られた。なぜか、2回目以降の会談は成立しなかった。残念なことに、もう二度とアポイントメントをとることは出来なかった。その裏にどのような事情があったのかは定かではない。いったい何があったのか、私は知らない。憶測は慎もう。しかしそれが十数年前のわが国の偽らざる実情であった。
 さて、今はどうなのか。国の調査会や審議会などの委員と民間の研究者との自由な学問的な見解の交流などという当たり前のことが本当に可能になっているであろうか。


    討論番組のすすめ(11月10日記載)


 1998年 月 日、NHK教育テレビでは、「遺伝子組み換え食品を考える」45分の番組を放映した。これはわが国で、始めて遺伝子組み換え食品について、有識者を集めて行なわれた討論形式での番組であった。
 出演者を3組に分けて、@開発側の研究者2名と企業の代表者、A慎重派の研究者2名、B消費者の代表1名とした。これに司会者が入ってコーディネートが行なわれた。@には東大と筑波大の教授、モンサント社の日本代表、Aには私と埼玉大の市川教授、Bにはある婦人団体の役員女史がいた。相当に時間をかけたこの討論番組では、それぞれの論点がはっきりと見えて、開発派、慎重派ともに教えられるところが多く、消費者側の問題意識も確認できたように思う。放映の結果はなかなかに好評であったと聞いている。
 開発派は安全性の確保やガイドライン制、表示しない点についてはすべて現状のままでよいと述べたが、私と市川教授はこれに反論した。開発派が強調した食糧問題関連の有用性についての主張にも私たちは疑問を呈した。研究開発の意義は認めても、検証体制の確立なしに商品が市場に出ることは許されないことを私たちは強調した。
 あれから4年になるが、わが国では、国民、消費者の関心がこれほど高い遺伝子組み換え食品についての、本格的な討論、報道番組は、そのあと、今日まで、たったの一度も行なわれたことはなかった。おそらく目に見える被害者でも出ない限り、このままマスコミも動こうとはしないのであろうか。


 コーデックス委員会を過信しないでおこう。(11月7日記載)


 国際化時代ということで、コーデックス委員会での取り決めや勧告が重視されるようになっている。確かにこの委員会の権威は認めねばならない。しかし、この委員会の委員は各国が推薦したベストメンバーであるとは限らない。したがって専門領域などに照らして、委員としての適格性が疑われる場合があることに留意しておく必要がある。また実際にはこの委員会では満場一致で決定が行われているわけでもない。議決権はないとしても、オブザーバーとして参加している先進諸国の多国籍企業などの影響力が強い。ロビー活動も熾烈であろう。概して開発途上国の委員が少なく、輸入国よりも輸出国の、さらに先進国の、とくにアメリカの圧力が大きいと言われている。各国の国内的な情勢も参考にせねばならず、輸入検疫などで大幅な規制緩和になるような場合には、コーデックス委員会の決定を無条件に受け入れることが出来ない場合もおこりうる。WTO協定のSPS条約では、科学的な根拠がしっかりしているかぎり、この委員会の許容量や規制値よりも厳しい対応を行うことが出来ることが認められている。
 ときおり、コーデックス信仰のようなことをいう人があるが、気をつけたほうがよい。
 ちなみに、我が国のBSE問題に関する調査検討委員会の報告書(02年4月2日)では、リスク分析手法の導入がコーデックス委員会の勧告であり、いまや「グローバルスタンダードになっている}と書かれている。BSE問題の総括を行なう委員会で我が国でもリスク分析手法を導入せよ、と言うような、唐突な主張が行なわれた事に、実は非常に驚ろかされている。実はEUでのBSE対策では、リスク分析手法の出番は全くなかったのである。


消費者に救いがあるのか(中日新聞、西日本新聞に掲載)

−食品不祥事をどう防ぐのか−


   今回の食品企業に関連した一連の不祥事で、一流の企業であっても、見えさえしなければ、日常茶飯事のように、消費者の知る権利、選ぶ権利の侵害をやってのける、ということがよくわかった。違法とは知りながら、露見するまで、30年近くもその添加物を製造、販売していたメーカーがあり、輸入食品に違法添加物が見つかっても、在庫分がなくなるまでは、しっかりと売り続けていたという業者もあった。
 表示の偽装、欺瞞が当たり前になっているような社会では、もはや良い食材の選びようがない。中身が、日付が、製造場所が信頼できないというのは消費者にとって最大の悲劇である。
 企業幹部のモラルの低下がひどい、つぎつぎに起こる社長、役員の交代劇、しかし、責任をとって辞めた、と言うのはかたちだけ、実のところは後進に道を譲る時期が来ていたにすぎない、という人もある。
 しかも、ほとんどすべての事件は密告か内部告発によって露見した。一流企業ですらこうだから、その他はおしてしるべし、という、暗黙の諦めが消費者の今日的な心情を支配するようになっている。
 消費者の食生活を守るはずの農林、厚生労働行政では、BSE事件ではっきりしたように、自らの無責任と怠慢こそが消費者の間に、食不安、食不信、食不満を発生させた基本的な理由であったにも関わらず、たとえば牛肉の偽装表示を行なった企業に対しては、いかにも平然と、モラルの厳正化を申し渡す。しかも、やおら「公権力の介入ではないが」などと付け加えることは忘れずに、会長、社長の辞任をそれとなく迫っている。そして、そのあとで、通達ばかりは連発していても、肝心の保健所や検疫所で、消費者を守る実務に当たる、食品衛生監視員や検査要員、農林現場の指導、監視職員の増員などはさらさらする気がない。昔にくらべて激増している店舗や事業所の指導や監視のほかに、多様、複雑になった表示のチェックや遺伝子組換え食品の市場調査も必要だ、検査、調査対象品目も非常に増えている、しかし、そうした現状にふさわしい組織や体制を全く用意しようとしない。だからこそ、食品製造、販売現場での行政側の監視率や輸入食品の検査率がいずれも10%台という、惨めな現状になっている。しかも、行政側は以上のような問題点をこれまで幾たびとなく厳しく指摘されても、そ知らぬ顔をしてきたのである。
 農水省は牛肉買い上げ制度の対象となる保管牛肉の全箱検査を、雪印食品事件の発覚直後の2月時点に、早急に実施すると言いながら、今回の日本ハム事件が発覚した8月時点までほとんど未了のままに放置してきた。そのようなルーズさでさえも、許されるとふんできた行政の体質がさまざまな不祥事発生の誘因となってきたのである。企業内部からの告発によらなければ、もはや、独自には違法、不正を摘発できない、しかもそのことに馴れてしまった今日の行政の非力さには、消費者の安全を決して本気で考えているとはいえない今日の政治の姿勢が色濃く反映しているように思われる。
 結果的に発生してきた、国民,消費者の、食の安全確保についての、根深くて大きな不安、不満,不信感を払拭するためには、消費者保護のために必要な原則や理念を正しく設定し、必要な法体系を整備し、そして何よりも重要なのは、食品に関連したリスクの評価だけでなく、現場でのリスクの点検や管理を正確に行なうための行政の仕組みを確立することである。
 この場合、とくに留意したいのは、既往の食品被害,食品汚染体験の教訓を活かすことであり、事故を予防するために全力を尽くすことであり、企業のモラルを確立し、消費者の権利を優先する考え方を「農場から食卓まで」一貫して徹底することである。
 たかが食い物、食生活、などといわないことである。食生活は日常的、反復的、長期的であるという最大の特徴を持っている。したがって食生活の素材に問題があるかぎり、その結果は栄養面、衛生面、安全面で、何時か必ず心身の不調として顕在化することになる。その因果関係は非常に明瞭であり、生物である人にとって逃れようもない厳粛な事実である。健やかに生きることは人権の基盤であることを忘れてはならないだろう。
 消費者に救いがあるのか、その答えは、結局、消費者自身がきめるのである。私たちは、このような未曾有の食生活受難の時代を克服するために、なんとしてでも、消費者の主権の確立を目指して全力をつくさねばならない。(完)
                 藤原邦達(元大阪大学講師・食品衛生学・医学博士)


 国は国民の食生活を守る法的な義務を負わないのか(11月6日記載


 油症裁判や農薬裁判などで、あるいは1995年の食品衛生法の改定に際して、国側は「国としては国民に対し食中毒その他の危害のある食品が供給されることを防止すべき直接の義務を法律上負うものでもないし、国が食品の品質を国民に対し保証しているものでもない」とのべている。これこそが現行の食品衛生法や食品衛生行政の根幹にある有名な反射的利益論の考え方である。
 すなわち反射的利益論では「飲食関係業者の取り締まり、指導、監督によって」反射的、間接的に、国民、消費者での危害の発生を防止する、ということであり、国民、消費者は国の施策の直接的な対象ではないということになっている。
 当時の国会の記録を読むと、木暮山人議員は「厚生労働省が反射的利益論を繰り返される限り、国民の食に対する不安はなくならないし、食品保健行政は信頼を回復できない。」とのべている。
 私は1970年代初頭の油症裁判の傍聴席で、国側の代理人がこのような反射的利益論の考え方を堂々と読み上げたのを聞いた時に正直非常に驚いた。そしてこのような偏った理念に基いた現行の食品衛生法は、もっと国民本位のものに、もっと国の責任を厳しく規定したものに改めねばならない、と思った。
 しかも、その後の食品公害や、食品汚染、食中毒事件などを見ていると、国が飲食関係業者の取り締まり、指導、監督でさえも適正に行っているとは思えない、すなわち消費者は「反射的利益」そのものさえも守られてはいない、といわざるをえないことがよくわかる。国民、消費者の中にある食不安が戦後、今日まで一貫して大きな底流となって存在しているのも当然のことである。
 反射的利益論の克服は食品衛生法改正運動の重要な標的でなければならない。


食の安全、今こそ正念場です(11月5日記載)


 今回の一連の不祥事で、見えなければ、消費者の知る権利、選ぶ権利の侵害を、一流の企業であっても、日常茶飯事のようにやってのける、ということがよくわかりました。違法とは知りながら、内部告発があって露見するまで、30年近くもその添加物が使われていた、輸入食品に違法添加物が見つかっても、在庫分がなくなるまでは、しっかりと使い続けていたという企業がありました。
 表示の偽装、欺瞞が当たり前になっているような社会では、もはや良い食材の選びようがありません。中身が、日付が、製造場所が信頼できないというのは消費者にとって最大の悲劇です。
 企業幹部のモラルの低下がひどい、つぎつぎに起こる社長、役員の交代劇、連日の新聞にはそのような記事が大々的に出ています。責任をとって辞めた、と言うのはかたちだけ、実のところは後進に道を譲る時期が来ていたにすぎない、という人もあるほどです。
 しかも、はじめにあげた ほとんどすべての事件は密告か内部告発によって露顕したのです。一流企業ですらこうだから、その他はおしてしるべし、と言う、暗黙の諦めが支配する消費者の今日的な心情をどう思いますか。
 消費者の食生活の安全を守るはずの農林、厚生労働行政では、自らの無責任と怠慢こそが消費者の間に、食不安、食不信、食不満を発生させた基本的な理由であったにも関わらず、たとえば牛肉の表示偽装を行なった企業に対しては、いかにも平然と、お役人らしく、モラルの厳正化を申し渡して.しかも、やおら「公権力の介入ではないが」などと付け加える事は忘れずに、会長、社長の辞任をそれとなく迫ります。そして、そのあと、通達ばかり連発していても、肝心の保健所や検疫所で、消費者を守る実務に当たる、食品衛生監視員や検査要員、農林現場の指導、監視職員の増員などはさらさらする気がない。昔にくらべて激増している店舗や事業所の指導や監視のほかに、多様、複雑になった表示のチェックもせねばならない、遺伝子組替え食品の市場調査も必要だ、検査、調査対象品目も非常に増えている、そうした現状にふさわしい組織や体制を全く用意しようとしないから、私が再々指摘してきたように、食品製造、販売現場での行政側の監視率や輸入食品の検査率がいずれも10%台という、惨めな現状になっているのです。しかも、行政側は以上のような問題点を私たちが幾たびとなく厳しく指摘しても、そ知らぬ顔をしてきたのです。
 農水省は牛肉買い上げ制度の対象となる保管牛肉の全箱検査を、雪印食品事件の発覚直後の2月時点に、早急に実施すると言いながら、今回の日本ハム事件が発覚した8月時点までほとんど未了のままに放置してきました。そのようなルーズさでさえも、許されるとふんできた行政の体質がさまざまな不祥事発生の誘因となってきたのです。企業内部からの告発によらなければ、もはや、独自には違法、不正を摘発できない、しかもそのことに馴れてしまった今日の行政の非力さには、消費者の安全を決して本気で考えているとはいえない今日の政治の姿勢が色濃く反映しているのではないでしょうか。
 結果的に発生してきた、国民,消費者の、食の安全確保についての、根深くて大きな不安、不満,不信感を払拭するためには、各種の対策を組みあわせて、慎重に取組むことが必要であると思います。
 もしも、そのための取組みを怠れば、あるいは誤れば、結果的に、かえって、混乱を、より大きくすることになるかもしれません。
 現状を変革するために必要な、対策の全体像はつぎの表1に示すとおりです。
1 基本的な原則や理念の設定
2 基本的な法体系の確立
3 役割分担と協力体制の構築
4 基本的な行政体制の整備
(1) リスク・アセスメント(評価)体制の整備
(2) リスク・モニタリング(点検)体制の整備
(3) リスク・マネージング(管理)体制の整備
(4) リスク・コミュニケーション(連携)体制の整備
 この場合、とくに重要なのは、表2に示すような基本的な原則や理念の設定を絶対に間違ってはならないということです。
1 既往の食品被害,食品汚染体験の教訓を活かす。
2 農場から食卓まで」の一貫性を重視する。
3 リスク分析手法を重視する。
4 予防原則を重視する。
5 現行の食品衛生法と食品行政の基本原則である反射的利益論を放棄   する。
6 企業のモラルを確立する。
7 消費者の権利を優先する。
 嘆くのは止めましょう。怒りを鎮めましょう。とにかく、冷静になって、これから真剣に考えねばならない問題が、3つあります。
(1) なぜ、このようなひどいことになってしまったのか。
(2) このまま放置すればどういうことになるのか。
(3) どうすれば、安全が確保されるようになるのか。
 物事を、厳格に、精密に処理して、問題の根源に迫るような真剣な対応をする、以上の3つの難問との取組みでは、是非ともそうありたいものです.
 消費者に救いがあるのか、その答えは国民、消費者自身がきめるのです。私たちはこの食生活受難の時代を克服するために、なんとしてでも、消費者主権の時代を実現せねばならないのです。(完)


これだけは法改正の条文に書き込もう(11月4日記載)


 抽象的なことばや概念が盛り込まれただけでは法改正の実効性は期待できない。ぜひ次の3点だけは改正される条文のなかに、はっきりを書き込まれるように要求しよう。
1 通報義務の明文化
 食中毒または食中毒の疑いがあるときの保健所への通報義務を現行の医師以外に、関係企業、営業者、消費者個人にまで拡大して適用しよう。そうすることによって食中毒事故対策は格段に向上する。
2 監視回数の厳守、検査率の明文化
 食品衛生監視員の監視回数の遵守、検疫所出の検査率の規定の厳守を法的に義務付ける事が必要である。
3 協力義務の明文化
 行政の食品衛生監視員と企業の食品衛生管理者、食品衛生責任者が協力することを義務付けて明文化する。最近の高度化した製造、加工、輸送、販売システムの前に、従前の食品衛生監視員だけの監視能力には限界があることがはっきりしている。雪印大阪工場の複雑な配管群の違法性は監視員には絶対に見破る事はできなかった。
4 表示義務の明文化
 商品の品質についての表示を正確に行なうことを義務付ける。栄養、衛生、安全の3点にわたって可能な限りの表示を行い、表示の内容には法的な責任を伴うことを明示する。かって遺伝子組み換え食品でさえも表示なしで済まそうとする考え方が横行したが、そのようなことを許さないための条文が必要になっている。この際、トレーサビリティーを確立せねばならない。


 スローガンだけではやっていけない(11月2日記載)


 なまじっか安全、安心などという、ことさら人目につく、仰々しい旗幟を掲げていながら、その実は、掛け声ばかりであって、いつまでたっても品質管理機能が弱体で、職員、組合員の教育にも熱意がなく、その内実を知られては困る、などというようなお寒い実態が放置されているような事業体は、食品被害を発生させて、大恥をかく前に早々と解散するほうがよい。
 たとえば職員に病欠者が出ただけで、たちまち品質管理機能が停止同然になるような事業体を顧客や組合員の安全、安心に責任を持つ存在として認めることは出来ない。
 品質管理の実態をとおして、その組織の本質は正確に見抜かれることになるだろう。スローガンだけでは、そして安全、安心の思い込みだけでは、何時までもやっていけるはずがないのである。
 たしか、品質管理の雪印乳業というロゴがテレビのコマーシャルに大きく出ていたのではなかったか。


 新雪印乳業にエールを送る(10月31日記載)


 人命に関わるような大事故をおこした企業では、社長や幹部の首をすげ替えて、 賠償金を支払い、ひたすら頭を下げて謝り続ければそれですむ、人のうわさも75日、と言うわけには行かない。
 潔く責任をとって、雪印乳業は事実上潰れたと思うがよい。再生と言う言葉はもう使わないでおこう。
 汚辱にまみれてしまった古い伝統とは決別して、その上で全く別の新会社として、「新雪」印乳業として立ち上がるしかない。新社長を始めとして全社員が新会社に採用された新社員として新たな決意のもとに新出発する、それくらいの気構えを求めたい。安全性の確保と品質の向上を目指して、どのライバル企業にも負けない消費者本位の取り組みを断固としてやりぬく企業になってほしい。私は衆議院の参考人質疑で同席した西紘平新社長の、ひたすらに平身低頭して、縷縷として訴え続けながら、真出発を誓っておられた陳述を聞いていて、つくづくとそう思った。
 もう雪印乳業ではない。「寝雪」印乳業でもない。「新雪」印乳業なのである。新雪印乳業の前途をみんなが注目している。社屋に輝くそのロゴが新雪印である限り、消費者からも、きっと暖かいまなざしで見守られることになるであろう。


 結論・BSE委員会でのリスク分析手法の位置付け(10月31日記載)


 今回のBSE検討委員会において、どの程度の時間をかけて、どのような専門家の意見を聞いて、リスク分析手法の問題点や困難性について論議されたのかは明らかではないが、第V部では、余りにも唐突に、そして教条的に、概念的に、コーデックス委員会などの勧告に迎合した形で、リスク評価機関、リスク管理機関の分離、創設論などが登場しているように感じられてならない。BSE問題だけでなく、既往の食の安全問題に関する、わが国の消費者の不満、不信、不安の真の理由についての解析をもっと徹底して行なうことが必要であったと思われる。おそらく審議時間の不足がこのような結果を招いた最大の理由であったと思われる。
 重ねて言うが、著者はリスク分析手法の重要性を否定するものではない。しかし、EUでさえもリスク評価、リスク管理、リスクコミュニケーションを適切に実施できるような環境が整っていない現状では、はるかに条件整備のおくれたわが国で、性急にリスク評価機関とリスク管理機関を分離してみても、ほとんど実効性を期待することができないにちがいない。
 理論的、実際的なリスク評価の困難性を考えると、食品被害を予防するために、あるいは対策を実施するためには、当面、リスク評価機能よりも、リスク管理機能の充実に重点をおいて、そのための理念的、実務的、すなわち人的、物的、組織的な、食品の安全性保持の体制整備につとめるほうが、消費者の既往の不満、不信、不安を解消するうえで、より有効であると考える。
 現行の食品衛生法はもはや時代の変化に即しないものになってはいるが、この法律の第1条には、「この法律は、飲食に起因する衛生上の危害の発生を防止し、」と書かれている。またその第4条には、「人の健康を害う虞があるもの」を排除するという規定がある。すなわち、危害を予防数という目的規定を明記しているのである。
 将来的に、国際的な情勢を見ながら、条件整備が行なわれるようになった時点で、あらためてリスク評価手法の導入を考慮した法的、行政的な体制の整備を慎重に行なうのが望ましいのではなかろうか。


 BSE報告書のリスク分析手法の導入についての提案の問題点(10月30日記載)


 以上にのべたような報告書の提案、即ちリスク分析手法の導入で、はたして既往の幾多の食品被害事件やBSE問題などを予防することができたか、牛肉表示偽装事件のような事例をなくすことができたか、そのような設問をあえてすることによって、この報告書の提案の妥当性を検証してみることにする。
(1) 過去の食品被害事件やBSE問題などでは、行政や企業の「消費 者優先姿勢の不在」「企業倫理の欠落」、とくに行政や企業の「当事者責任の不在」による「予見可能性の無視」、「農水、厚生労働行政間の連携不足」、「危機管理体制の欠陥」などによって被害発生の予防に失敗し、被害事態の拡大を許したことが明らかになっている。すなわち、リスク評価体制に欠陥があったことは否定しないにしても、むしろそれよりも、実際的なリスク管理体制自体のあり方にこそ、より重大な問題があったと考えるのが妥当である。
(2)リスク評価機関とリスク管理機関が分離されずに同一省庁の中にあったために、リスクの評価が甘くなり、リスクの管理が不徹底になったとする報告書の主張は一応評価することができる。しかしこれは「分離されていなかったこと」に問題があるとする以前に、例えば農水省内のリスク評価とリスク管理作業がそれぞれ、「厳正に行なわれていなかったこと」自体に問題があったと考えるべきである。
(3)わが国の消費者、国民のこれまでの食不満、食不信、食不安は、食品行政側の「リスク評価体制の欠陥」よりも「リスク管理体制の欠陥」に基づくものであったということができる。
 たとえば輸入食品検疫機能が不完全で、検査率が10%台にとどまっており、農薬やダイオキシン等の高度検査がほとんどなされず、検査、監視担当者の実数が異常に少ない、というようなリスク管理の不徹底が指摘されながら、今日まで一向に改善されないできた。また国内の市場の消費現場での指導、監視、収去、検査、などを行なう食品衛生監視員の実数が極度に不足しており、所謂、法定監視回数に対する実監視回数の比率である監視率が全国平均で約15%、県によっては5%を下回っていて、消費者の安全性が守られていないことが明らかであった。牛肉表示偽装の場合でも、表示体制を保全する監視要員の実数が極度に少ないことや罰則が非常に甘いことが問題にされてきた。
これらはいずれもリスク評価の欠陥ではなくて、リスク管理の欠陥であることは明らかである。
 かりに報告書の提案どおり、リスク評価体制とリスク管理体制を分離したとしても、後者の内容を充実させない限り、消費者、国民の食不満、食不信、食不安が払拭されることはないであろう。
 実際に、目に見える、食品の安全を保全するための、指導、監視、検査や規制、規格、基準の設定などの「リスク管理のための体制」自体を確立することこそが最も重要なのであるが、報告書の提案にはこの点についての記載がほとんどみうけられない。人員、予算、施設の充実のようなハード面での地道な体制整備こそがもっとも必要なのであって、必ずしもリスク分析手法の導入のような、ソフト面での充実が第一義的に必要であったというわけではない。
 国民、消費者はリスク評価体制の不完全性に不満を感じていたのではない。むしろわが国では、アメリカやEUでは多数の食品について認められている照射性食品をジャガイモ以外には認めていないし、抗生物質の食品への使用の認可でも先進国中もっともおそかった。ポストハーベスト農薬や11品目の食品添加物の認証も全て、リスク分析手法を推奨するコーデックス委員会の路線の導入によって、消費者側の反対を押し切って行なわれてきたのである。
 報告書で提示しているリスク分析手法の導入は、先進諸国のグローバリゼーションを代表する考え方である。NGO諸団体や消費者団体のなかには、コーデックス委員会では、先進国の考えかたが主流となり、多国籍企業の影響力が強く、開発途上諸国の実態が軽視されているのではないか、などという批判的な見解を示すものもある。たしかに各国には食文化、食伝統、食環境などに、それぞれ特殊な事情がある。たとえば、わが国では、将来、リスク評価の結果であるとして、照射食品やポストハーベスト農薬や遺伝子組み換え食品や人工甘味料などを、たとえコーデックス委員会の勧告がどうであろうと、むやみに認可、導入する必要はない。代替手法や代替品を検討するなどの方法はいくらでもある。いわゆるリスク評価の結果だけに忠実である必要はないのである。
 未知、問題要因が余りにも多い場合にはリスク評価は困難であり、むしろ予防原則の導入によって、モラトリアム路線で対処することのほうがが国民、消費者に歓迎されるであろうと思われる。
 報告書では、リスク評価機関を新設することに重点をおいている。しかし客観的なリスク評価の結果であるとして、アメリカやEUにならって、農薬や食品添加物などの認可事例が激増してくるような場合には、国民、消費者の間に、これまで以上に大きな反発と混乱を生じることになるだろう。
 BSE委員会では、果たして、消費者の既存の不満、不信、不安の真の原因を明らかにするために論議をつくしたのであろうか。リスク分析手法を採用して、リスク評価機関とリスク管理機関を設置し、リスクコミュニケーションを行えば、消費者の不満は解消するというのは、わが国の実情に即して言えば、まさしく的外れであり、非常に抽象的で観念的な主張であり提案であるといわねばならない。
 端的にいうならば、わが国の消費者は、この報告書で強調しているリスク分析手法の導入などのソフトサイドのありかたよりも、リスク管理対策の徹底などのハードサイドの、現行の行政体制での欠陥をこそ、長年にわたって、大きく問題にしてきたのである。ソフトサイドの充足も必要であろう。しかしそれ以前に、実際に消費者を守るための、ハードサイドの欠陥を許さないような、法的、行政的なシステムの改正、変革こそが必要であると主張してきたのである。
 食品衛生法の改正運動では、長年にわたって放置されてきたリスク管理機能の欠陥を許さないような厳格な理念と条文を具体的に盛り込むことを要求してきたのである。 (4)報告書では、EU、独仏にならって、リスク分析手法を導入することが望ましい、としているが、EUの「食品の安全性に関する白書」では次のように述べられている。
 「リスクアセスメントは、正確な、最新の、科学的データに基づく。これには例えば、疫学的情報、り患率の数字および暴露データが含まれるかもしれない。このような情報を提供するための支援メカニズムは、ほとんど存在しておらず、設ける必要がある。」
 EUでさえもこのような状況にある。システム的な支援体制に欠陥のある、さらにリスク評価を担当する科学者の組織も十分に準備されていない中で、リスク評価を不完全に実施せざるをえないような、当然コーデックス委員会の勧告の後追いに終始するようなリスク評価機関はかえって有害であることを承知しておく必要がある。
 EUでさえも、なお実験的な段階にある、と云う慎重な認識が必要である。アメリカをふくむ世界の各国は英独仏などでの状況を見守っているのである。
(5)リスク評価の困難性をどう克服するのかが示されていない。
 EUなどでさえ、リスク分析手法の導入やリスク評価体制とリスク管理体制の分離と連携がどのような実効性を持つのかという点がまだ明らかにはなっていない。アメリカでも現状のFDAやUSDAの機能を分割、整理するような論議はこれからのことであると思われる。現時点でわが国だけが性急にリスク分析手法を導入せねばならない理由はない。
 リスク評価の手法自体にも、次のような、理論的、実際的な問題点が残されている。
@リスク評価と毒性の指標事項について
 確率論的な処理によってリスクの大小を判断するといっても、リスクを発生させる事象の多様性と特異性が問題にされねばならない。例えば慢性毒性が問題になる場合と急性毒性が問題になる場合のリスクをどのように対比して評価するか、またリスクの内容に関する毒性と症候の種類が多種多様である場合に、その中の、どの毒性、症候をリスク評価の直接的な対象にするか、を問題にせねばならない。例えば、カネミ油症事件の原因物質となったPCBは同時に食品汚染物質としても問題にされてきたが、その毒性は発がん性、催奇形性、ホルモン代謝異常性、皮膚障害、肝機能障害などの長短期で広範囲にわたるものになっている。リスク評価に際しては、それらの、どの指標事項に注目するかの判断に苦慮せねばならない。まして、PCBと同じ有機塩素化学物質である農薬やダイオキシンなどの、環境、生物を介した食品汚染物質のリスク評価は非常に困難であり、リスクの確率論的な数字の大小などは選択した毒性指標の種類や食物連鎖の評価、計算の方法などによって大きく変化することは明らかである。
 もしも確率として算出された数字に基づいて、リスクが微少であるから、という理由だけで、たとえば一律に無造作に照射食品、ポストハーベスト農薬などにも許容量を定めて認可するというような政策がとられるならば、従来それらの複合毒性などを問題にしてきたわが国の消費者は決して満足することはないであろう。
Aリスク評価とリスクの性質・種類について
 食品安全の分野にはリスクを生じる事例が多種多様にある。例えば、異常プリオンによって発生するBSEと飼料に由来する農薬汚染のリスクは全く性質・種類を異にする。ウイルス、細菌に起因する疾患と化学物質に起因する疾患のリスクの大小を比較することも容易ではない。病因物質、暴露量(摂取量)や摂取経路などの疫学的な問題要因が全く違う事例についてのリスク評価を客観的に行って、一定の結論を得たとしても、はたしてそれらのリスクの相対評価をする事が妥当だといえるのであろうか。それに疫学的な資料が完備している事例などあまり多くはない野が実態である。あるいは対策面では全く異なった手法をとることが要求される事例のリスクを確率論的に比較することが可能なのであろうか、などという厄介な問題を解決せねばならない。リスクには環境因子、人的因子、経済、社会的要因などが複雑に関連しており、リスク評価の原則的な考え方で一律に割り切ることは非常に困難であるといわねばならない。
Bリスク評価をめぐる学問的な検討課題について
 著者はリスク評価の理論的な研究の詳細について論議できるような立場にはいない。しかし、著者のこれまでの、多数の有害物質と取組んできた経験によれば、以上に述べたように、リスクの軽重を確率論的に決定して食品衛生行政上の対策を実施するのは非常に困難なことであると思われる。  
 この報告書でのリスク分析導入論は理論的には正しいかもしれないが、実際的には適用が非常に困難であることに留意しておく必要がある。リスク分析手法を行政の根幹に据えることの困難性は食品被害の実際に直面してきた著者にはが十分理解できる。
 リスクとは「食品中のハザードが存在する結果として生じる健康への悪影響の確率とその程度の関数である」と述べられているが、たとえば、A、B各事象の「健康への悪影響の確率とその程度の関数」を対比して,AよりBの行政対策を優先する、というような方法論がBSEのような場合に適用できたというのであろうか。イギリスでは約18万頭のBSE牛に対して、約100人のvCJD患者が発生した。BSE牛一頭に対してvCJDの発生確率は0,06%である。わが国の場合にはBSE牛はたった5頭しか発症していない。だからわが国のvCJDの発生確率はゼロにひとしい。したがってリスク分析の結果によるかぎり、BSE、vCJD対策など講じる必要はない、といえば、これは暴論であり、許し難い論理だということになる。こうしたリスク分析の数字的な確率や関数などに消費者が満足すると考えるのは誤りである。むしろBSE問題の処理は全世界的に、リスク分析とは全く無関係に、データがほとんど欠落している中で、予防原則に従って行なわれてきたというべきなのである。
 将来的に一元的な食品の安全確保を目的とする、リスク分析を行なう省庁が出来たとしても、行政側の基本的な原則、理念が不適切であれば必ず誤った施策が実施される危険性がある。リスク分析論による限り、従来問題があるとされてきた農薬、添加物、抗生物質、ダイオキシン、遺伝子組み換え作物などは、たとえば、自然界に存在する発がん物質などと「確率論的に」対比されて、いずれも「微量なら心配ない」とする論理のもとで、大手を振って登場してくることになりかねない。
 リスク評価が個別に行われても、実際にはトータルでの人の健康に対するリスク総量の大きさこそが問題になる。A,Bという農薬のリスク量が別個に計測されたとしても、実際にはA,B両農薬のトータルで人は健康影響を受け取るのであるから、A,Bのリスクがはたして相加、相殺、相乗的にあらわれるのか、その点についてのデータが不明確であるような場合をどうすればよいのか。すなわち複合影響などという概念をリスク評価手法ではどのように取り扱えばよいのか、この分野には、なお検討課題が山積しているように思われる。
 しかも現状では、先行しているEUでさえもリスク評価に必要な個別のデータの供給体制がまだ十分に準備されているわけではない、という。
C EUの「食品の安全性に関する白書」では、リスク分析手法の導入だけが重要であるとはされていない。「適切な場合には、予防原則をリスクマネジメントにおいて適用する予定である。」と明記している。実際にはリスク評価が困難な、未知、不明な側面の多い事例がほとんどであるという事実を無視してはならない。例えば遺伝子組み換え作物や環境ホルモン様化学物質などのリスクを正当に評価することは、現状では不可能に近い、ということを認識していなければならない。
 BSE委員会の報告書では、第T、U部での既往のBSE問題についての行政の対応を批判した後、第V部において、今後の安全性の確保に関する基本原則の柱として、リスク分析手法の導入を挙げているが,リスク分析の手法を導入しておれば、BSEの予防や対策に成功していた、という保証は全く存在していない。この報告書の第V部のリスク管理、リスクコミュニケーションの必要性は認めるとしても、リスク分析手法の導入やリスク評価機能の分離論はBSE問題とはほとんど無関係な主張である、といってもよいのではなかろうか。
(6)リスクコミュニケーションを重視する姿勢は妥当である。リスク評価であれ、リスク管理であれ、リスクコミュニケーション機能を最大限に活用する必要があることは言うまでもない。
 しかし、報告書ではリスクコミュニケーションを主管する機関を設けた上で、これをリスク評価部門におくことを提案しているが、リスクコミュニケーション部門を独立するか、むしろリスク管理部門におくほうがよいかは、なお論議を要する問題であると思われる。リスク管理の実際的な局面では、企業や消費者との意思疎通が必要であり、その意味ではリスクコミュニケーション機能をリスク管理部門に置いたほうがよい、と云う考え方もあるだろう。


4BSE報告書の新しい食品安全確保システムについての提案(10月29日記載)


(1) 報告書に見られるリスク分析の考え方
 報告書の第V部、1の(2)のリスク分析手法の導入の項にはつぎのように示されている。 @ 「食品の安全性は「シロ」カ「クロ」か、で論ずることが不可能となって来ている。食品の安全には「絶対」はなく、リスクは「食品中のハザードが存在する結果として生ずる健康への悪影響の確率とその程度の関数である」とされるようになっている。」
A 「コーデックス委員会は、こうした今日の食品の安全性をめぐる考え方に基づき、リスク分析の手法を各国が採用するべきだとしている。」
B 「リスク分析とは、消費者の健康の保護を目的として、国民やある集団が危害にさらされる可能性がある場合、事故の後始末ではなく、可能な範囲で事故を未然に防ぎ、リスクを最小限にするためのシステムである。」
C 「すでにEU及び加盟諸国においては、消費者の健康の保護を最優先し、食品安全の確保のためのシステムとしてリスク分析を法に位置づけて導入している。」
D 「リスク分析は「リスク評価」「リスク管理」「リスクコミュニケーション」の3つの要素からなっている。」
E 「リスク分析の3つの構成要素を具体的に制度化する必要がある。また全過程において透明性が確保されるという視点が重要である。」
F 「リスク評価は利害関係から独立して客観的に行われる必要がある。リスク評価は専門の科学者によって行われる。」
G 「リスク管理は、消費者をはじめとしたすべての関係者と協議しながら、消費者の健康保護を第一の要素とし、その他、有用性、社会的な影響等の要素を総合的に考慮して、適切な政策、措置を決定・実施する過程として位置づけられねばならない。リスク管理は透明性をもつと同時に、採用された政策の結果は常にモニタリングされ、再評価されねばならない。」
H 「リスクコミュニケーションは、リスク分析の重要な要素として位置付けられなければならない。リスクコミュニケーションはリスク評価、リスク管理の普及、広報としてのみ行なわれるのではなく、リスク評価・リスク管理の課程にも求められる。」

(2)報告書に見られるリスク評価の考え方
 報告書では以上のようにリスク分析について説明した後。2の(2)のリスク分析をベースにした組織体制の整備の基本方針となるリスク評価について以下のように示している。
@ 「リスク評価はコーデックス委員会の定義に基づき、4段階(危害(ハザード)確認、危害特性付け、暴露評価、リスク特性付け)においておこなわれる。」
A 「評価を行うのは、客観的な科学的評価を行い得る独立した専門家、科学者である。」
B 「専門家の編成や人数については、欧米の体制等を参考に、今日の食品安全に係る広範な分野をカバーし得る十分なものとしなければならない。」
C 「リスク評価の実施は、一貫性、独立性の観点から関係省庁から独立した行政機関で行うべきである。専門家、科学者の人選は公平、中立な立場から客観的な科学的評価を行い得る視点から、広く行われなければならない。その意味で海外からの応募も含めた公募制も採用されるべきである。」
D 「リスク評価を行う専門家・科学者(毒性学、獣医疫学、暴露評価等)の絶対数が不足している。今後は欧米の研究機関等への派遣研修、行政と研究の連携強化等により、こうした人材を早急に育成確保し、ノウハウ・技術・経験の蓄積を図るべきである。」
E 「現在の日本の食品安全行政においては、リスク評価とリスク管理の両方の機能が区別されず渾然一体となっており、その問題はBSEの国内発生の経過の検証からも明らかである。」
F 「こうした日本の現状を抜本的に改革することが必要である。EU及び仏独などの国の、この間の食品安全行政組織の改革の共通点は、独立したリスク評価機関を設置したということである。特に産業振興の役割を担う組織からの分離・独立が不可欠である。」
G 「リスク評価を行う行政機関はその独立性が保証されるべきである。―――総合科学技術会議のように常勤メンバーのなかに科学者のいる機関とすることが望ましいと考えられる。」
H 「リスク評価を実施する行政機関とリスク管理を行う行政機関とは、相互に必要な情報交換を行いうるようにし、そのための通常及び緊急の際の適切な協議を制度化すべきである。」
 報告書に示されたリスク評価とリスク評価を行う行政機関の性格は以上の記述から明らかである。

(3)リスク管理体制のあり方
 リスク評価に基づくリスク管理体制についてはつぎのように述べている。
@ 「たとえば農水省は産業振興の役割を分担しており、その役割分担から農薬や飼料を所掌することには合理的な根拠があり、「食品安全行政の一元化」との一律の考え方によって、その所掌事務を他の組織に移しかえることには無理がある。」 A 「したがって、リスク分析の原則に則り、独立したリスク評価機関の設置によってリスク管理を行なう行政との機能分担をはかることが合理的であると考えられる。」
 即ち、リスク評価機関とリスク管理機関は明確に分離され、リスク管理は危機管理もあわせて各省庁が分担して、その体制を整備することになる、としている。
 ここでは、従来一般に言われてきた、安全行政の一元化を否定している点が注目される。厚労省、農水省、環境庁などの従来の機能からリスク評価機能だけを取り出して、個別にリスク管理機能だけを残すという考え方を示している。

(4)リスクコミュニケーションの確立
 「リスク分析手法において、リスクコミュニケーションは重要な役割を果たす」、としたうえで、つぎのように述べている。
@ 「リスクコミュニケーションは一方通行ではなく対話であり、キャッチボールである。その観点から、リスクコミュニケーションを総合的に推進する専門の機能・組織を確立する必要がある。」
A 「リスクコミュニケーションを総合的に分担する組織は、リスク評価を実施する行政機関に置くことが適切である。」
B 「情報に関する専門部署と専門家がいなければならない。日本においては遅れている分野である。特に広報担当コミュニケ―ターの育成が急がれる課題である。」


3 報告書の残された問題点


全体として報告書が出色、異例の出来ばえであったことは、以上に示したとおりである。しかし、当初8回の会合と1回の予備日が予定されていたところ、農水、厚労省側のレクチャーの時間が毎回相当部分を占めたために、論議自体が十分行なわれず、3月18日の最終回までに報告書を仕上げることが出来なかった。そこで3月22,25日と追加して委員会を開いたが、それでも論議を十分つくすことが出来ないまま、4月の第1週に報告書が公表される運びとなった。そのためか、素案にあった表現部分の変更を含めて、十分に論議がつくされたかどうか、疑問が残った。委員の一人は「もっと議論をしたかった」と話したと報じられている。
しかし課題が、わが国の食の安全問題の根幹に触れる、歴史的な懸案や、農水、厚労両省の体質や機構の問題点に深く関わっていただけに、むしろ以上のような短期間に、各委員がすぐれた成果をあげられたことを高く評価すべきであろう。
ただし、今後の論議に備えるために、残された問題点については以下の通り指摘しておくことにする。
(1) BSE問題を調査検討する場合には、学識経験者のほか、消費者だけではなく、生産農家、畜産業がどのような影響、被害を蒙ったかを明らかにするとともに、その理由を明確に示さねばならない。
この委員会に課せられた検討課題が「@BSEに関するこれまでの行政対応上の問題の検証、A今後の畜産、食品衛生行政のあり方について」とされている以上、農水行政の失態と関わって、生産面でどのような経過があり、施策が行なわれて、生産農家にどのような被害があったかを無視することは出来なかったはずである。この報告書が食の安全確保の体制を構築するための検討を至急に行なうように要請しているのであるならば、同時に、食糧、食品の安定供給に関わる畜産分野での自給率の維持向上の問題などにも触れて、将来的な酪農、畜産行政対策を安定的に確立するように求めるべきであった。BSE問題との関連で牛肉不安が牛肉不信に発展して、畜産農家や牛肉関連業者が大きな打撃を受けたが、所謂、風評被害の由来やその解消の方法などについても委員会としての提言を行なうべきであった。
(2) 消費者に対する科学的な事実の周知や情報公開のありかたに問題があった。消費者、国民は真実を知らされないできた。この10年という期間に、国際的なBSE問題に対する動きがわが国の消費者運動に影響を与えることがなかった。この点についての反省を込めて、食品の安全問題に関する、わが国の社会的なコンセンサス形成システムの欠陥を強く指摘するべきであった。関連したマスコミや研究者、専門家の関与のありかたについても論及される必要があったことは言うまでもない。
(3) 一貫性のある法制や他の省庁から独立した行政機関の設置が必要であるとされているが、この問題は従来から農水省、厚労省の間で検討が行われている。生産から消費までの広域的な行政の施策を独自に推進するという課題については、どのような機構であれば法的、行政的な責任がまっとうできるかどうかの検討が必要である。これは相当な難問であり、今日まで関係者が考えあぐんできた課題であった。
農水省には、リストラ対象とされているといわれる従来の食糧庁を食品安全庁の母体にしたいという思惑があるが、この点に関して厚労省は農水省は本来産業振興のためにあるのだから安全問題には介入してほしくないという意向であると思われる。したがって今後、行政的な綱引きは非常に注目を要する問題であるといえよう。食品安全庁の設立については、さらに踏み込んだ論議をするべきであった。設立構想をフリーハンドで行政側に委ねたことに危惧を感じるのは私だけではないだろう。
 放置すれば、今後農水族という巨大な政治集団からの圧力が農場から食卓までの食品の安全性を確保する行政組織の設定に当たって、混乱を招く要因になりかねない。農水族、厚生族などと呼ばれている圧力集団の角逐がどのような結果を招くかも、おおいに懸念される。
(4) 報告書では「重大な失政」であったことを指摘したが、さらに踏み込んでこの失政が、機構上の欠陥によるものか、機能上の問題によるものか、あるいは職員の倫理観、使命感の欠如によるものであるかを具体的に示すべきであった。失政という抽象的な断定でなく、行政の指導、監視、検査、そして士気、体質の問題点に由来した不作為の具体的な事実の指摘がなされるべきだった。はたして必要な措置、規制、対策はなんであったのかを報告書は明示するべきであった。農水省と厚労省間の連絡不十分、相互不干渉という事実をもたらしたものが、単なる行政側の体質であり、慣例であった、として片づけることは出来ないだろう。
(5) 毎日新聞の社説の見出しには「提言はいいが検証不十分」となっていた。その理由に当たる部分を引用すると、「――報告の文章も委員自身が執筆するなど、これまでになく透明性の高い報告になった。そうした評価すべき点も多い。しかし具体的に誰がいつ、何故、どのように判断を誤って,BSEの上陸を許したのかという疑問には答えていない。」WHOが勧告した時点で各国は使用禁止に動いたが、「農水省は使用禁止を行政指導しただけだった。これがBSEの上陸を許す失政となったが、「行政対応上問題があった」としか書かれていない。責任者の名と具体的な行動や言動が検証されていない。」となっている。
 この種の報告書が個人名まで調査して、記載することが可能であるかについては論議があるだろうが、討議時間の制約があったためか、全般的に問題点の指摘がやや観念的に流れた嫌いがあったことが惜しまれる。
(6) BSE問題を発生させた基本的な理由に、本来草食動物であった牛にMBMという哺乳動物の共食い的な肉食を強制してきたことがあげられる。これに象徴される、飼育技術の有用性偏重、安全性軽視のあり方についての指摘が不十分であった。搾乳動物、肥育動物として目先の利益を追求することに専念してきた既往の畜産技術の動向や関与してきた研究者のありかたについても厳しく批判されねばならない。あるいは予防や危機管理のための研究や検査技術の向上の必要性についても提言を行なうべきであった。
この報告書は概して行政対応の不完全性を指摘するトーンになっているが、畜産行政が畜産技術によって支えられてきたことを軽視してはならない。日常的にBSEの予防のための、死亡牛や廃用牛の検査が不完全であり、全国的な抽出検査の実施による疫学的なサーベイランスが非常に不完全であったことなど、わが国の安全行政の通弊についても強く指摘するべきであった。消費者のための食品の安全性を問題にする場合には行政側の指導、監視の極端に不足した回数や検査要員の絶対的な不足を必ず具体的に検証せねばならない。諸外国の実情との数字的な対比等も行なうべきであった。BSE関係の研究者が3名も委員として参加していただけに、畜産行政の検証技術のありかたについての反省がほとんど記載されていないことが惜しまれる。
(7) 研究者が専門的な情報を先取する。食品被害事件では、何時の場合でも、研究者の関与のあり方を問題にせねばならない。BSE問題に関しても、関係大学や研究機関の研究者がどのような役割を果たしてきたのか、農水行政や食品衛生行政とどのような連携をしてきたのかをもっと詳細に究明するべきであった。研究者がBSEやvCJDについての情報を行政に対してどのように提供してきたのか、行政側が研究者の提言を尊重しようとしてきたか、などについて、検証するべきであった。どの時点で、どのような情報提供があれば、あるいは助言、忠告があれば、事態の悪化を食い止めることが出来たのか、を具体的に示すべきであった。国民、消費者は研究者がBSE問題の予防にほとんど見るべき役割を果たしていなかったのか、官産学協同の、むしろ業界よりの研究に熱心であったのか、その真相を知りたいと思っている。たとえば乳牛に対するMBMの投与は搾乳量を飛躍的に増加させたが、研究者は誰一人、こうした飼育の方法には無理があることを行政側に進言しようとしなかったのであろうか、新技術に対しては慎重でなければならない、と云う教訓を敷衍するような報告書での記載がほしかった。
(8) 報告書の、食品の安全性の確保に関する基本原則の確立の部分では(1)消費者の健康保護の最優先、(2)リスク分析手法の導入の2点があげられている。しかし、(1)はともかく、(2)を基本原則にあげたことは妥当なのであろうか。リスク分析手法は基本原則の確立のための一つの手段に過ぎないはずである。
未知、不明の部分が多い課題の処理に当たっては、慎重な態度をとる、決して冒険はしない。たとえばEUではBSE体験の総決算から生まれたといわれる食品安全庁を設置するに当たって、予防原則(危険性が認められなければ実施する、と云う考え方ではなくて、安全性が実証されなければ実施しない、というモラトリアムの考え方)を重要な基本理念として採用したといわれるが、わが国の農水省、厚労省の場合には、このような予防原則を基本原則として認めるのか、どのように位置付けるのか、と云う重要な問題について検討を加える必要がある。BSE問題に関しては、80年代から既存の科学的な常識に照らして未知、不明の部分が多くあった。細菌でもウイルスでもない伝染性の病原体が種の壁を越えて牛から人に感染するなどということはリスク分析以前の状況にあったというべきであり、EUでは予防原則に基づいて慎重に対処するしかなかった。感染牛の処理はリスク分析にかけるまでもなく、焼殺するしかなかったのである。
わが国の食品衛生法では「健康を害う虞」のある場合を問題であるとする考えかたがとられている。しかし既往のわが国の食品被害事件の経験から言えることは、わが国の行政側は、こうした考え方を無視して、概して実際に危害が発生しない限り対応しようとはしなかった。
この報告書での基本原則の部分に、予防原則の尊重についての記載がないのは問題であると考える。なぜなら、実際的には、リスク分析が可能な課題は限られており、大部分が予防原則を適用して対処すべき場合であると思われるからである。現にBSE事件やvCJD事件では、リスク分析の結果として対策が講じられたのではなくて、実はそれ以前の予防原則によって対応するしかなかったのである。
この報告書でのリスク分析導入論は理論的には正しいが、実際的には適用が非常に困難であることに留意しておく必要がある。リスクとは「食品中のハザードが存在する結果として生じる健康への悪影響の確率とその程度の関数である」と述べられているが、たとえば、A、B各事象の「健康への悪影響の確率とその程度の関数」を対比して,AよりBを選ぶというような方法論がBSEのような場合に適用できたというのであろうか。イギリスでは約18万頭のBSE牛に対して、約100人のvCJD患者が発生した。BSE牛一頭に対してvCJDの発生確率は0,06%である。わが国の場合にはBSE牛はたった3頭しか発症していない。だからわが国のvCJDの発生確率はゼロにひとしい。したがってリスク分析の結果によるかぎり、BSE対策など講じる必要はない。これは暴論である。許し難い論理なのである。こうしたリスク分析などという数字的な確率や関数に消費者が満足すると考えるのは誤りである。むしろBSE問題の処理は全世界的に予防原則に従って行なわれてきたというべきなのである。
将来的に一元的な食品の安全確保を目的とする省庁が出来たとしても、行政側の基本的な原則、理念が不適切であれば必ず誤った施策を実施する危険性がある。リスク分析論による限り、従来問題があるとされてきた農薬、添加物、抗生物質、ダイオキシン、遺伝子組み換え作物などは自然界に存在する発がん物質などと「確率論的に」対比されて、いずれも大手を振って登場してくることになるであろう。リスク分析などと、いかにも新しい手法のように言われるが、実際には、たとえば複合影響といった実際的な諸問題に対してどのようにこの手法を適用すればよいのか、まだ十分にはわかっていないのである。 リスク分析手法の導入を基本原則の一つとして導入することについてはもっと慎重な議論を必要とするだろう。
(9) 報告書では、農水省、厚労省に対してその結語部分で、「6ヶ月以内に」、「包括的な食品安全法、リスク評価機能の確立、独立性・一貫性をもった食品安全行政機関」についての成案を退出するように要請している。
 もちろん、要請されている事項の重要性は認められる。しかしこれほど重要な法的、行政的なシステム構築をわずか6ヶ月以内に、しかも行政側に「成案」として呈出するように要請する、などというのは非常識である。しいて性急に、不完全な成案なるものが出来上がって、これに従った「改革」なるものが行なわれるとするならば、危険極まりないというべきである。
 委員会の各委員には、「包括的な食品安全法の制定、リスク評価機能の確立、独立性・一貫性をもった食品安全行政機関の設定」なるものがどれほどの意義と重みを持ったものであるか、が本当に理解されていたのであろうか、各委員は以下の諸点をどのように考えるのであろうか。
@ 食品衛生法の改正自体は、戦後の半世紀間の制度疲労を克服するための、国民、消費者にとっての宿願であり、請願、署名運動の対象とされてきた。そして、ようやく国会での採択までにこぎつけることができた。そして、今後、さらに多難な改定作業が予測されていたというのに、今突然に「包括的な食品安全法」の成案だけでなく、これに基づいた「食品安全行政機関設立」の構想がたった6ヶ月以内に出来上がる、などと、にわかに信じることができるのであろうか。
A 「リスク評価機能の確立」、「リスク評価を実施する機関とリスク管理を実施する機関」としての食品安全行政機関の設定等という構想は少なくともリスク評価に係る理念、原則、手法について理論的、実際的に検討し、さらに法的な基盤を正確に整備した上でなければ実現出来ないことは明らかである。これは行政側の能力をはるかに超える難問である。短期間に出来るはずがない。 B リスク評価だけのことではない。リスクコントロール、リスクコミュニケーション、リスクマネージメントなどについても相当な検討を必要とする、にもかかわらず、これらの業務を総合的に行なう「食品安全行政機関の設定」について、6ヶ月以内という短期間に性急に成案を得る、などということが果たして可能なのであろうか。
C ここで成案を求められている事項は、本来は国民、消費者が主体となって、それに生産者や研究者も参加して十分な論議をつくして、合意形成に成功した後でなければ軽々に決定されてはならないことである。にも関わらず、この報告書では、農水省、厚労省などの国の行政側の責任において、成案を提示するように求めている。これは問題の本質を理解していないとしかいいようがない。「消費者が参加して」、「国民的な総意をあげて」、「論議をつくして」などという但し書きが見られないのは不可解である。
D 成案の呈出を求められている農水省、厚労省の責任者は誰なのか。BSE問題の責任を追及されていながら、辞任に応じない武部農水大臣と野党の同氏への辞任要求と問責決議案に同調しようとしなかった坂口厚労大臣が、国民の信頼にこたえられるような「成案」を作成するのにふさわしい責任者である、といえるのであろうか。国民、消費者の大部分がこの点に非常な危機感を持たされていることが理解されているのであろうか。
E この委員会の意気込みはよく理解できる。事態が急を要することもその通りである。要請されている事項も正しい。しかし以上にのべたように、問題の本質を正しく理解していたならば、「6ヶ月以内の成案の要請」などということには無理があり、強行すれば危険でさえあることは明らかである。わが国の消費者運動の悲願といってもよいような食品衛生法の改正のための取り組みがどれほど、息の長い、多難な経過を踏まえたものであるかを思えば、このような要請がBSE問題を取り扱う一委員会の報告書のなかで、突然になされたことは全く意外であるとしかいいようがない。
昨今、以上のような問題点に触れているマスコミの論説はみられなかった。しかし、多年にわたって法改正、行政変革問題にかかわってきて、この問題の困難さと重要性を身にしみて感じてきた当事者の一人として、私はこの報告書の問題点のひとつとして、この時点で、あえて、拙速を強く戒めておきたいと思う。
法改正と行政変革が緊急を要する事態であることはいうまでもない。この場合、少なくともどのような対応が必要であるかの私見については、別の項(p   )に示したとおりである。
参考までに、時間的な予定について、あえて一案を示すと、少なくとも原則、理念形成とプログラムの作成に3ヶ月、次の3ヶ月はシステム形成について、さらに次の3ヶ月は調査、討論、合意形成、公聴会などの実務の検討のために必要であり、ようやく素案がつくられたあと、政治折衝、国会審議などにさらに3ヶ月を要するであろう。この課程のすべてにおいて消費者代表と研究者の参加が必要不可欠であることはいうまでもない。「6ヶ月以内」の実質的に「政官だけ」の成案作製など、有害以外の何者でもない。報告書が求めているような食品の安全確保というような課題に対しては極めて慎重でなければならない。
いうまでもなく事態は切迫している。小泉首相は本気で6ヶ月間に成案を出させようとしている。現時点で、どのように対応すればよいのか、とくに法曹、研究者、消費者団体関係者の注意を喚起するものである。つぎの8,9項なども参照してほしい。


 旭川での生協職員たちの学習会の情景(10月27日記載)


 私はこれまで、生協職員の学習会のための講師役を頼まれる機会が多かった。もう10年も前の旭川でのことであった。真冬の零下17℃の夜の学習会に、分厚い防寒服を着た職員たちが、数十センチの雪が積もって凍りついた暗い夜道を、チェーンを巻いた車に乗って会場に集まってきた。そして熱心に私の話を聞いてくれた。あの日の、あの夜の情景を忘れることが出来ない。私はこのようなすばらしい職員たちが支えている生協であるかぎり、決して食品被害などは起こらないだろうと思った。
 不況だから、職員や組合員たちのための教育、学習予算は大幅削減、それは大きな間違いである、不況に立ち向かうためにこそ自信の持てる商品を提供せねばならない。質の高い教育、学習を通してこそ、優れた組織内のシステムが整備され、士気が高まる。そして商品に対する信頼感がうまれる。そのような商品政策こそが組合員の信望をかち得ることができるのである。
 生協理念の結晶こそがコープ商品である。その商品を配送し、供給するのが生協の職員である。真冬の厳しい寒さがやってくると、私はあの旭川の吐く息が凍るかと思った夜の学習会の情景を思い出す。


 それは過失なのか、体質なのか(10月25日記載)


 M社では、場合によっては、人身事故にもなりかねない、車の構造上の欠陥についてのクレーム隠しが長期間にわたって社内的に当たり前のように通用してきた、と言う。それは全くの驚きであった。もはや過失、不注意でもなんでもない。それは体質、本性である、としかいいようがない。露見したあとで社長が交代した、で済む事ではない。わが国のトップ数社に入る企業での、このところの事故、クレーム隠しが次々に明るみに出ていることを国民、消費者はもっともっと重く受け止めねばならない。
 何かが変わってきている。ただ事ではない。規制緩和が規律緩和になっている。規制緩和が主流になろうとするような時代では、むしろ企業の責任が相対的に重くなるのである。そのことの自覚が足りなければこうした状態はもっとひどくなる。いずれにせよ消費者をいつまでもだましおおせることは出来ないだろう。


 報告書が評価される理由について(10月25日記載)


 この報告書が一般に高く評価されている最大の理由は、この委員会の委員が、自然科学者をふくむ学者、ジャーナリスト、消費者団体の代表者によってバランスよく構成されていたことやおそらくたたき台となったペーパーが委員の一人によって作られて、官僚の作文ではなかったこと、さらに存分に公開された討論が行なわれたことに起因していたと思われる。勿論,私見ではあるが、前記したように、今回のBSE問題で重大な被害を蒙った生産者農家の代表が委員として選出されておらず、彼等の真剣な見解が反映される余地がなかったことは唯一不満の残るところであった。
 私的であれ公的であれ、諮問、検討、調査、審議委員会の成果が、当初の委員選出のあり方によって大きく左右されることを学ばねばならないだろう。また委員会審議は毎回、構内テレビの中継放送で希望者に対して公開され、報告書の原案も事務方の官僚ではなく、委員自身が執筆した。このようなほぼ完全に近い透明性の高い委員会の設定が大きな社会的反響を生み出した、このような報告書を作成できた理由であるといえるだろう。

 以下に、この報告書の評価される理由について具体的に示すことにする。
(1) BSE問題の歴史的な経過を正確にたどって、国際的な動きと対応したわが国の行政側の対応の遅れを指摘した。
(2) わが国の農水行政の生産者偏向を批判し、消費者優先の姿勢が乏しかったために、結果的に大きな混乱を生み出したことを示した。
(3) わが国の農水省の対応がいわゆる「政、官癒着」というかたちで行なわれており、農水族と言われる国会議員の介入が生産者利益を代弁する巨大な圧力となっていたことを示した。
 ただし原案では、「政官癒着」とあった表現が報告書本文では「政と官の関係が十分にチェック機能を果せない原因となった」と変えられ、また原案では「自民党を中心とする農水族議員が政策に影響を及ぼした」となっていた表現が報告書本文では委員長の判断で抹消されるなどの不可解な経過もあった。
(4) 農水省、厚労省の縦割り行政、相互不干渉の問題点が示された。食の安全性に関しては生産現場から消費現場までを一貫して問題にせねばならない、このことはすでに既往の食品被害体験から自明のことであったにもかかわらず、また人のvCJDとBSE問題が深く関係していたにも関わらず、BSE問題でも両省間にほとんど連携が見られなかった点が指摘された。
(5) EUの調査報告書の受け入れを拒否して、最も重要な情報を活用せず、国民にも知らせなかった。またWHOからの勧告を軽視したこともその後の混乱を招いた理由となったことが示された。
(6) 農水省は異常プリオンの運び屋となったMBMの使用を96年に禁止したが、法的な禁止ではなく、行政的な禁止通達にとどめたために、問題の汚染されたMBMが国内に流通するという決定的な過ちを許してしまった。
(7) リスクの評価、分析、管理、コミュニケーションなどの新しい概念を行政の実際に導入することの必要性が強調された。リスク評価機能の確立についての成案が要求されたのは画期的なことである。
(8) 今後の食品安全行政のあり方について触れて、6ヶ月以内という、期限付きで、包括的な食品安全法、リスク評価機能の確立、独立性・一貫性をもった食品安全行政機関の設置に関する成案を示すように具体的に要請した。消費者団体がかねてから要求してきた食品衛生法の改正、食品行政の変革に関する要請が私的とはいえ、諮問委員会において国に対して正式かつ具体的に行なわれたことには意義がある。
 ただし、私はこの「6ヶ月以内」という期限の限定には異議がある。(別の項、P  参照)ともあれ、この報告書が食品安全行政に対して具体的な体制変革に関わる本格的な注文を出した点は最も高く評価されてもよいだろう。
 勿論、包括的な食品安全法、リスク評価機能、食品安全行政機関というような余りにも重大な機構やシステムをどのようにつくるのかという難問を一挙に行政側に突きつけたということには問題がある。性急に、いいかげんに、お手盛りでこのような重要なテーマが処理されてよいわけがない。消費者として今後の成り行きを大いに警戒することが必要である。

 BSE事件という、戦後の食品被害の一つの典型がわが国の現行の食品安全行政の問題点を如実に、象徴的に映し出した。その意味でこの報告書が各方面から注目されているのも当然のことであろう。


 仮定の問題には答えなくてもよいのか。(10月24日記載)


 雪印乳業低脂肪乳事件が発覚した当初は、大阪工場の無届の回収タンクのバルブやストレージタンク部分で黄色ブドウ球菌が増殖したとされていた。細菌が混入したのは返品、在庫品を入れる再生乳タンクまたは成分調整をする溶解機であると見られていた。しかし実際には大阪工場では黄色ブドウ球菌の汚染も増殖も行われず、成分調整をする際に、原料の北海道大樹工場製の脱脂粉乳中にすでにエンテロトキシンが含まれていたのであった。不思議なことに、原因究明の最初の時点では原料の脱脂粉乳には全く容疑がかからなかった。
 もしも北海道大樹工場の職員が出張で大阪工場にやってきて、その際に工場内を汚染していた黄色ブドウ球菌を大量に持ち込んできたとすれば、どういうことが起こったであろうか。大樹工場由来のエンテロトキシンと大阪工場由来のエンテロトキシンとの複合汚染と言う不幸な状況を、あのような大阪工場の杜撰な品質管理体制で本当に防ぐことができたのであろうか。
 それでなくても黄色ブドウ球菌は何処にでもいる菌である。問題はその製造工程に増殖できる条件をつくるかどうかである。雪印乳業大阪工場の関係者はこのような仮定の問題にも真剣にこたえる責任があると思う。


 第V部の概要と評価(10月24日記載)


(1)第V部での検討事項
 第V部での検討事項はつぎの3点である。
@ 食品の安全性の確保に関する基本原則の確立
A 食品の安全性の確保に係る組織体制の基本的考え方
B 新しい消費者の保護を基本とした包括的な食品の安全を確保するための法律の制定ならびに新しい行政組織の構築
 第V部について、報告書ではつぎのように記している。
 「第T部、第U部で指摘した点の反省の下に、BSE問題に限定せず広く今後の食品安全行政のあり方について検討し、提言としてまとめたものである。
ここでは、@従来の発想を変え、消費者の健康保持を最優先するという基本原則を理念として確立すること、Aそのためには、すでにグローバル・スタンダードとなっているリスク分析の手法を導入すべきこと、その上で、Bリスク分析を構成する「リスク評価」「リスク管理」「リスクコミュニケーション」のあり方について詳しく論じている。そして最後に、C政府は6ヶ月を目途に新しい"消費者の保護を基本とした包括的な食品の安全を確保するための法律"の構築に関する成案を得て、必要な措置を講ずるべきであると提言している。」
 高橋委員長は、この報告書の概要を説明したあとで、つぎのように結んでいる。
「これは、国民から大きな付託を受けながら、われわれ委員会が長時間をかけて討議してきた結論でもあり,BSEという試練を乗り越えて、新たな消費者優先の行政への変革を求める意思伝達でもある。畜産農家をはじめ農業生産者も、また、食肉業界をはじめとする食品産業界も、この消費者優先の理念に徹することによってはじめて永続的な経営が可能であることを考えれば、政策担当者としては、ここでの提唱が、すそ野の広い改革を志向するものと理解してほしいものと思う。」
(2)第V部に対する評価
 1)妥当な提案事項
第V部での提案事項はいずれも妥当であり、評価することができる。しかし以下の事項についても配慮しておくことが必要である。
 2)リスク分析手法の評価について
 第V部についての冒頭の要約の部分には、「すでにグローバル・スタンダードとなっているリスク分析の手法を導入すべきこと」とある。また第V部の第1項の部分には
、「コーデックス委員会は―――リスク分析の手法を各国が採用するべきだとしている」と書かれている。
 しかし、リスク分析手法の基礎となるリスク評価を実施するために必要な疫学的情報、り患率、暴露量などのデータを収集する体制自体は未確立であることを、EUの「食品の安全性に関する白書」では認めている。先行しているEUでさえも、英独仏以外の各国はリスク評価機関の設置を検討中であり、他方でアメリカをはじめとする先進国や発展途上諸国でも、リスク手法の導入のあり方を模索しているのが現状である。この時点で、わが国が「リスク分析の手法を導入」してリスク評価機関、リスク管理機関を具体的に設置するためには、さらに慎重に論議を重ねる必要がある、とするべきではなかったか。拙速を戒めるべきではなかったか。
 「すでにグローバル・スタンダードとなっている」などと書かれているが、世界的な規模での消費者運動では、食品の安全性問題に関しても、一部の先進国に有利なグローバリズムに関する主張に対して、批判的な意見があることも知っておく必要がある。それに、現状で、本当に「すでにグローバル・スタンダードとなっている」といえるのであろうか。またリスク分析手法の導入がコーデックス委員会のお墨付きであるかのような表現があるが、先進国中心のこの委員会の運営に対しても途上諸国や消費者団体のなかには相当な批判があることを承知しておかねばならないだろう。
 リスクの評価、管理、コミュニケーションを成功させるのは、それほど簡単なことではない。著者には、BSE委員会の報告書に、リスク分析手法の導入が無造作に提示される、などということは、予想もできなかった。実のところ、食品の安全を守る指導や監視体制などのハード面を充実しないかぎり、リスク分析手法を導入しただけでは食品被害が消滅するという保証は全くない。リスク分析手法を導入すればBSE事件の予防や対策が可能であったとする根拠も一向に見当たらない。むしろ、コーデックス委員会のお墨付き、リスク評価の結果であるなどとして、添加物や農薬などの新規認可の事例が激増することにもなりかねない。それでは消費者の既存の食不信、食不安、食不満を解消することにはならないのである。
 3)予防原則の位置づけについて
 EUの場合には、リスク分析手法の導入に際して、リスク管理面で、予防原則の導入も考慮する、という姿勢が示されている。確かに、実際にはリスク分析手法だけでは対応できない事例が多いことを考慮すると、予防原則に基づくモラトリアムの決定が必要な場合があることは事実であろう。
 この報告書では、予防原則の導入問題が全く触れられていない。リスク分析手法だけですべての問題が処理できるとは限らないことは明らかである。BSE問題はその典型的な事例のひとつではなかったのか。
報告書の、食品の安全性の確保に関する基本原則の確立の部分では(1)消費者の健康保護の最優先、(2)リスク分析手法の導入の2点があげられている。しかし、(1)はともかく、(2)を基本原則にあげたことは妥当なのであろうか。リスク分析手法は基本原則の確立のための一つの手段に過ぎなかったはずである。
 未知、不明の部分が多い課題の処理に当たっては、極力、慎重な態度をとる、決して冒険はしない。たとえばEUではBSE体験の総決算から生まれたといわれる食品安全庁を設置するに当たって、予防原則(危険性が認められなければ実施する、と云う考え方ではなくて、安全性が実証されなければ実施しない、というモラトリアムの考え方)を重要な基本理念のひとつとして採用しているが、わが国の農水省、厚労省の場合には、このような予防原則を基本原則として認めるのか、どのように位置付けるのか、と云う重要な問題についても検討を加える必要がある。BSE問題に関しては、80年代から既存の科学的な常識に照らして未知、不明の部分が多くあった。細菌でもウイルスでもない伝染性の病原体が種の壁を越えて牛から人に感染するなどということはリスク分析以前の状況にあったというべきであり、EUでは予防原則に基づいて慎重に対処するしかなかった。感染牛の処理はリスク分析にかけるまでもなく、焼殺するしかなかったのである。
 わが国の食品衛生法では「健康を害う虞」のある場合を問題であるとする考えかたがとられている。しかし既往のわが国の食品被害事件の経験から言えることは、わが国の行政側は、こうした考え方を無視して、実際に危害が発生しない限り対応しようとはしなかったのではなかろうか。BSE問題はその顕著な事例の典型であったといえるのではなかろうか。
 この報告書での基本原則の部分に、予防原則の尊重についての記載がないのは問題であると考える。なぜなら、実際的には、リスク分析が可能な課題は限られており、大部分が予防原則を適用して対処すべき場合であると思われるからである。重ねて言うが、現にBSE事件やvCJD事件では、リスク分析の結果として対策が講じられたのではなかったのである。
 4)食品の安全確保のありかたについて  EUの「食品の安全に関する白書」では、食品の安全確保のための基本的な理念を詳細に提示している。その中で、既往の食品安全問題の経験を踏まえて、今後の食品安全行政は「From Farm to Table」(農場から食卓まで)という考え方でなければならない、としている。BSE委員会の報告書では、法的、行政的な抜本的改革のための基本的な理念についてもっと詳細な論議を行ない、「消費者優先」だけでなく、「生産と消費の一貫性」や既往の食品被害から学んだ教訓を尊重する必要があることなどを明記すべきであった。
 5)新しい行政機関の設置について
 一貫性のある法制や他の省庁から独立した行政機関の設置が必要であるとされているが、この問題については従来から農水省、厚労省の間で検討が行われている。生産から消費までの広域的な行政の施策を独自に推進するという課題については、どのような機構であれば法的、行政的な責任がまっとうできるか、の検討が必要である。これは相当な難問であり、今日まで関係者が考えあぐんできた課題でもあった。
農水省には、リストラ対象とされているといわれる従来の食糧庁を食品安全組織の母体にしたいという思惑があるが、この点に関して厚労省は農水省は本来産業振興のためにあるのだから、安全問題には介入してほしくないという意向であるといわれている。したがって今後、両省間の行政的な綱引きは非常に注目を要する問題であるといえよう。食品安全組織の設立については、さらに踏み込んだ論議をするべきである。新規な行政機関の設立構想をフリーハンドで行政側に委ねたことに危惧を感じるのは私だけではないだろう。
 放置すれば、今後農水族という巨大な政治集団からの圧力が農場から食卓までの食品の安全性を確保する行政組織の設定に当たって、混乱を招く要因になりかねない。今後、農水族、厚生族などと呼ばれている圧力集団の角逐がどのような結果を招くのか、懸念されるところである。
 6)「重大な失政」の具体的な由来について
 報告書では「重大な失政」であったことを指摘しているが、さらに踏み込んで、この失政が、機構上の欠陥によるものか、機能上の問題によるものか、あるいは職員の倫理観、使命感の欠如によるものであるかを具体的に示すべきであった。失政という抽象的な断定でなく、行政の指導、監視、検査、そして士気、体質の問題点に由来した不作為の具体的な事実の指摘がなされるべきだった。必要な措置、規制、対策はなんであったのかを報告書は明示するべきであった。農水省と厚労省間の連絡不十分、相互不干渉という事実をもたらしたものが、単なる行政側の体質であり、慣例であった、として片づけることは出来ないだろう。
 7)具体性のある事実の検証の必要性について
 毎日新聞の社説の見出しには「提言はいいが検証不十分」となっていた。その理由に当たる部分を引用すると、「――報告の文章も委員自身が執筆するなど、これまでになく透明性の高い報告になった。そうした評価すべき点も多い。しかし具体的に誰がいつ、何故、どのように判断を誤って,BSEの上陸を許したのかという疑問には答えていない。」WHOが勧告した時点で各国は(MBMの)使用禁止に動いたが、「農水省は使用禁止を行政指導しただけだった。これがBSEの上陸を許す失政となったが、「行政対応上問題があった」としか書かれていない。責任者の名と具体的な行動や言動が検証されていない。」となっている。
 この種の報告書が個人名まで調査して、記載することが可能であるかについては論議があるだろうが、討議時間の制約があったためか、全般的に問題点の指摘がやや観念的に流れた嫌いがあったことが惜しまれる。
 8)畜産技術の有用性追求の偏重について
 BSE問題を発生させた基本的な理由に、本来草食動物であった牛にMBMという哺乳動物の共食い的な肉食を強制してきたことがあげられる。これに象徴される、飼育技術の有用性偏重、安全性軽視のあり方についての指摘が不十分であった。搾乳動物、肥育動物として目先の利益を追求することに専念してきた既往の畜産技術の動向や関与してきた研究者や技術者のありかたについても厳しく批判されねばならない。あるいは予防や危機管理のための研究や検査技術の向上の必要性についても提言を行なうべきであった。
この報告書は概して行政対応の不完全性を指摘するトーンになっているが、畜産行政が畜産技術によって支えられてきたことを軽視してはならない。日常的にBSEの予防のための、死亡牛や廃用牛の検査が不完全であり、全国的な抽出検査の実施による疫学的なサーベイランスが欠陥に満ちていたことなど、わが国の安全行政の通弊についても強く指摘するべきであった。消費者のための食品の安全性を問題にする場合には行政側の指導、監視、検査要員の絶対的な不足を必ず具体的に検証せねばならない。諸外国の実情との数字的な対比等も行なうべきであった。BSE関係の研究者が3名も委員として参加していただけに、畜産行政の検証技術のありかたについての反省がほとんど記載されていないことが惜しまれる。
 9)研究者、技術者のありかたについて
 研究者が専門的な情報を先取する。食品被害事件では、何時の場合でも、研究者の関与のあり方を問題にせねばならない。BSE問題に関しても、関係大学や研究機関の研究者がどのような役割を果たしてきたのか、農水行政や食品衛生行政とどのような連携をしてきたのかをもっと詳細に究明するべきであった。研究者がBSEやvCJDについての情報を行政に対してどのように提供してきたのか、行政側が研究者の提言を尊重しようとしてきたか、などについて、詳しく検証すべきであった。どの時点で、どのような情報提供があれば、あるいは助言、忠告があれば、事態の悪化を食い止めることが出来たのか、を具体的に示すべきであった。国民、消費者は研究者がBSE問題の予防にほとんど見るべき役割を果たしていなかったのか、官産学協同の、むしろ業界よりの研究に熱心であったのか、その実態を知りたいと思っている。たとえば乳牛に対するMBMの投与は搾乳量を飛躍的に増加させたが、研究者は誰一人、こうした飼育の方法には無理があることを行政側に進言しようとしなかったのであろうか、新技術に対しては慎重でなければならない、と云う教訓を敷衍するような報告書での記載がほしかった。
 10)政府側の「成案」の提出について
 委員会は報告書の最後の部分で「政府は6ヶ月を目途に、"新しい消費者の保護を基本とした包括的な食品の安全を確保するための法律"の制定と、独立性、一貫性をもったリスク評価を中心とした"新しい行政組織"の構築に関する成案を得て、必要な措置を講ずるべきである」と提言している。
 この部分に対する批判はつぎの  項(P  )で行なうが、BSE問題に関して「重大な失政」をおかして来た現在の行政側に、しかも責任を問われて解任決議案を突きつけられた大臣のもとで、そのような法律の制定や行政の変革に関する重大な「成案」を、しかも6ヶ月という短期間に作成するように求めるなどということは、安易であるとしかいいようがない。
 もっと幅広い全国民的な論議を要請して、生産者の協力も得ながら、消費者主体の、法改正、行政変革のための取り組みが行なわれて、全国民的なコンセンサスが得られるような「成案」が「早急に」つくられるように、慎重に要請するべきではなかっただろうか。はたして6ヶ月という数字はどのような根拠にもとづいて提示されることになったのであろうか。
 政府、与党の主導のもとで、性急に提示された成案に基づいてつくられた路線で、はたして消費者、国民が満足するかどうか、甚だ疑問であるといわねばならない。
著者は、現状をこのまま放置しておくのは危険であることを、第 項で(P   )特に消費者側に強く警告しておいた。
 11)委員会の日程と論議の内容について
 別記したような短期間の日程で、このようなすぐれた報告書が作られたことは高く評価すべきである。しかし、報告書の第V部に相当する「今後の畜産・食品衛生行政のあり方について」に関する重要な討議がフリーディスカッションというかたちで、第8回以後、合計4回、8時間しか行なわれなかったことには不満がある。はたしてリスク分析手法の問題点やリスク評価とリスク管理の実効性や関連性などについて十分に論議されたのかどうか、日生協、消費者団体や著者等がこれまでに提案してきた法的、行政的な体制の変革についての方法論などとの比較の下で、リスク分析手法を導入する路線が検討されたのかどうかも疑わしい。わが国独自の食品の安全確保の方式として、リスク手法の導入が最善である、とする理論的な証明が乏しいままに、新しい路線が設定されるのは問題であるといわねばならない。
 この報告書では、リスク分析手法の導入を「グローバル・スタンダードである」ときめつけて、「コーデックス委員会の勧告」に従うべきものとして位置づけているが、この点についてはもっと討議の時間が必要であったのではないか。実際には、現状では、むしろ分析手法がグローバル・スタンダードになりうるかどうか、についての検討が必要であり、それが、わが国の実情に即したものに直ちになりうるかどうかの評価も慎重に行なうべきであり、現時点では、コーデックス委員会の勧告に従う、というより、勧告を尊重する、と云う姿勢が重要なのではなかろうか。また21世紀の食品の安全体制を確立するのであるならば、消費者団体の意見や食品の安全に関する研究者やリスク分析の専門家の意見を聴くなどの方策を講じるように提言するべきではなかったか。
 諮問された検討事項の重大性に照らして、与えられて討議時間は余りにも不足していた。諮問事項の@の「これまでの行政対応上の問題の検証」はともかくとして、Aの「今後の畜産・食品衛生行政のあり方」についてまで十分に論議することは不可能であった、と断せざるをえない。少なくともA項については、あらためてこの問題に絞って別個の諮問委員会を立ち上げて十分に論議する必要があったものと思われる。


 第U部の概要と評価(10月22日記載)


(1)第U部での検討事項
 第T部での、事実経過に基づいた検証をうけて,BSE問題にかかわる行政対応の問題点が総括されている。ここで取り上げられた事項は以下の7点である。
@ 危機意識の欠如と危機管理体制の欠落
A 生産者優先・消費者保護軽視の行政
B 政策決定過程の不透明な行政機構
C 農水省と厚労省の連携不足
D 専門家の意見を適切に反映しない行政
E 情報公開の不徹底と消費者の理解不足
F 法律と制度の問題点及び改革の必要性
 報告書では「ここではかなり厳しい評価が随所に下されているが、これらは委員合意のものであり、行政当局におかれては、厳しく受け止めて頂きたい点である。」と記している。
(2)第U部に対する評価
1) 妥当な問題点の指摘
(1)で指摘された問題点は極めて妥当である。しかし以下の事項についても言及するべきであった。  武部農水大臣は「牛肉の安全性と汚染源の追及は別である」と述べて消費者や生産農家の批判を受けた。汚染源の追及が安全性問題と深い関係にあることは拙著「雪印の落日」(緑風出版、02年3月25日刊)に示したとおりであるから、ここでは再述しないが、行政の最高責任者の誤った考え方が問題の解決を妨げたことは明らかである。汚染源の追求の重要性はもっと強調されるべきであった。肉骨粉(MBM)や老廃牛などの汚染源を放置している限り、異常プリオンの隠された増殖源を容認することになる。行政の最高責任者である大臣のありかたを含めて、行政側の認識の誤りは、忌憚なく、正確に指摘せねばならなかった。
3) 全頭検査体制の評価について  第U部の全頭検査体制の確立の項で、「この危険部位の排除の措置によりEUと同等の安全対策がこの時点で実施されたことになる。」としている。しかし、こうした楽観的な表現を戒めて、他方で汚染源、汚染ルートの解明が進まず、死亡牛、高齢牛のと殺処理がほとんど見送られている事態が放置されていて、かってわが国に侵入してきた異常プリオンの汚染が温存されている可能性があり、こうした問題状況が行政対策の不作為によって維持されていることを厳しく指摘しておく必要があったのではないか。イギリスのレーシー教授が全頭検査体制であっても、まだ安心はできない、とのべているように、現行の行政側の施策を余りにも楽観的に肯定することには問題がある。第U部では、もっと強力に汚染源の解明などの施策が実行されるように厳しく指摘すべきであっただろう。
4) リスク管理体制の欠落の指摘について
 第U部の冒頭の1項には、確かに「危機意識の欠如と危機管理体制の欠落」について述べられている。しかし、わが国の行政の、非常時での危機管理体制だけでなく、それ以前の、日常的な安全管理体制の欠陥についての指摘をもっと徹底して行なうべきであった。食品の安全保持に関わる指導、監視、検査、規制、処分などを行って、食品の安全を守る行政側の人員、施設、予算等のみじめな実態は、たとえば輸入検査率が異常に低い、という形で典型的に示されている。また食品衛生監視員の実数が非常に少なく、国内の食品衛生監視でも、法定の指導、監視回数をはるかに下回るという事実が長年放置されたままになっている。(拙著、「食品被害を防ぐ事典」(農文協、01年12月刊)を参照)これは第U部で指摘されている危機管理体制の欠落以前の問題である。そればかりではない。わが国の食品衛生・農水行政側は既往の食品被害事件や食品汚染事件の教訓を一向に重視しようとはしてこなかった。しかも、これらの安全確保の仕組みの欠陥を指摘して、改善を求めてきた国民、消費者、研究者からの執拗な要求でさえも完全に無視してきた。このままでは、今後、リスク評価体制をどのように整備してみても、リスク管理の実効性を期待することはできない。BSE問題も以上のようなわが国の行政側の安全管理体制の根深い欠陥から由来しているという事実を明記しておかねばならなかった。そうでなければ、こうした重大で放置できない状況を変えるためには、第V部で提示されているような、安全確保のための法律の抜本的な改正や安全行政の根本的な変革以外に方法はない、ということが十分に理解できない恐れがあるだろう。
 第U部の第1項に示されているような、危機管理マニュアルの不在や危機意識の欠如以前の問題として、現行安全管理体制のハード面での牢固とした欠陥の所在をはっきりと示しておかねばならなかった。

 我が国では今、食の安全を確保するための法的行政的なシステムの改変のための壮大な取り組みが始まっている。この場合に引用される事の多いBSEに関する調査検討委員会の報告書を仔細に検討してみようと思う。当面、時事評論の主力をここに置く事にする。


(10月21日記載)

BSE問題に関する調査検討委員会の報告書 第T部の概要と評価


(1)第T部での検討事項
 検討された事項はつぎの7点であった。
@ 英国におけるBSE発生を踏まえた対応(1986〜95年)
A BSEの人への伝達の可能性に関する英国政府諮問機関の発表、EU委員会の決定及びWHO専門家会議の勧告を踏まえた対応(1996〜97年)
B EUのBSEステータス評価に関する対応 (1998〜2001年)
C 変異型CJD(以後vCJDと略称)感染防止のためにとられた一連の対策の評価(1996〜2001年)
D 英国以外のEU諸国でのBSE発生の急増以後、とくに2001年、わが国におけるBSE発生時の対応 (2000年〜)
E 厚労省と農水省の連携について
F わが国におけるプリオン病研究の蓄積と今回のBSE対策への貢献
 以上に示された各事項では、諸外国及び国内で発生した事態や情報に即して、わが国の行政がどのように対応したかが具体的に検証された。委員会の報告書では「それぞれの時期の行政対応を克明に検証した上、委員会としての評価を下している。」と記されている。
(2)第T部に対する評価
1) 歴史的な事実についての検証の正確さ
 検証された事実関係は正確であり、評価も正しい。ただし以下の事項についての検証と評価も追加するべきであった。
2)具体的な被害事実の認定について
 後世に残る資料とするためにも、行政側の政策判断の誤りから生み出された被害の実態を明記するべきであった。酪農、畜産関連の生産農家や関連産業に与えた損害は歴史上類を見ないほど非常に大きかった。また牛肉類の購買をためらわねばならなかった消費者の実情を具体的に記録しておく必要があった。行政の責任が重大であったことを明らかにする上で、被害実態の深刻さは明記しておかねばならない。そのうえで二度とこうした事態を招いてはならないことを行政側に確認させる必要があった。
3)生産者委員の不在について
 この委員会では「産業界、農業者、政府関係者を含まない第三者的な立場の委員」に限定したことを運営上の特徴としている。しかし、上記の2)項とも関連して、正確に被害者として位置付けられねばならない生産農家からの意見は十分に聞くべきではなかっただろうか。実際、倒産、失業にまで追い込まれるような事態が引き起こされていたということは、行政の失態、委員会がいう「重大な失政」の内容を明確に証明するものであり、消費者と並んで生産者側の見解を徴することは不可欠であったと思われる。少なくとも生産農家は利害関係者であるとして一方的に委員席から排除されるべき存在ではなかっただろう。
この委員会に課せられた検討課題が「@BSEに関するこれまでの行政対応上の問題の検証、A今後の畜産、食品衛生行政のあり方について」とされている以上、農水行政の失態と関わって、生産面でどのような経過があり、施策が行なわれて、生産農家にどのような被害があったかを無視することは出来なかったはずである。この報告書が食の安全確保の体制を構築するための検討を至急に行なうように要請しているのであるならば、同時に、食糧、食品の安定供給に関わる畜産分野での自給率の維持向上の問題などにも触れて、将来的な酪農、畜産行政対策を安定的に確立するように求めるべきであった。BSE問題との関連で牛肉不安が牛肉不信に発展して、畜産農家や牛肉関連業者が大きな打撃を受けたが、所謂、風評被害の由来やその解消の方策などについても委員会としての提言を行なうべきであった。その意味では、生産農家を代表する委員が全く選出されていなかったことを問題としなければならない。BSE問題では、生産農家こそ、行政の失態によって消費者と並んで重大な被害を蒙った当事者であったのである。
4)酪農、畜産業界の危機的状況について
 BSE問題がわが国に引き起こしたもっとも重要な事態のひとつは、長年にわたる行政側の誤った政策のもとで、わが国の酪農、畜産業を消滅に追いやるような危機的な状況が生まれた、ということである。今回の事件によって、酪農、畜産品の自給率がいっそう低下して、生産農家や関連企業が再起不能になりかねない状況に追い込まれた、という事実についても言及するべきであった。消費者優先の立場を強調する以上は、食糧安保の立場から、消費者にとっても重大な関心事である酪農、畜産品の自給率の低下についても十分に調査してその結果を明記する必要があっただろう。
5)消費者への情報公開のありかたについて
 消費者に対する科学的な事実の周知や情報公開のありかたにも問題があった。消費者、国民は真実を知らされないできた。この10年という期間に、BSE問題に対する国際的な動向がわが国の消費者運動に影響を与えることがなかった。この点についての反省を込めて、食品の安全問題に関する、わが国の食品の安全に関する、社会的なコンセンサス形成システムの欠陥を強く指摘するべきであった。行政だけでなく、情報の公開や流通に関連したマスコミや研究者、専門家のありかたについても論及される必要があったことは言うまでもない。
6)牛肉表示偽装事件について
 BSE問題が引き起こしたもう一つの事態であった牛肉表示偽装事件は消費者だけでなく生産農家に対しても大きな影響を及ぼした。行政側の政策判断の誤りと指導、監視、検査などの体制の不完全性からこうした事態が発生したことをもっと強調するべきであった。安全性の立場から見ても、表示の偽装は、いわゆるトレーサビリティー(出所遡及可能性)を恣意的に切断する行為であって、危機的状況下での食品被害の究明を困難にする。行政側の「重大な失政」の結果として、この時期、全国的に表示偽装事態が続発したという事実の重大性を指摘するべきであった。
 この報告書では牛肉表示偽装事件については触れられていない。しかし売上が年間1000億円にせまる企業であった雪印食品でさえも、事件発覚後、2ヶ月後には解散に追い込まれた、という事実はやはり特記するべきであった。しかも同社の消滅は、たしかに消費者の不買行動によるものではあるが、根源的にはBSE問題に係る行政側の失態によって引き起こされた事態であった。さらに内部告発がなければこうした事件が明るみに出ることがなかったという事実も、行政側の品質表示についての、現行の公的な検証体制がいかに欠陥に満ちたものであったかを如実に示している。
7)両省の連携不足について
 BSE問題で指摘された農水省、厚労省間の連携不足が過去の食品被害事件の全てにおいて認められた通弊であり、消費者、国民の側から繰り返し指摘され、改善を求められてきたことである、という事実をもっと強く指摘するべきであった。第T、U部で、両省間での相互不干渉、連携の不足などが指摘されているが、それ以前に、行政の怠慢、無責任、消費者の安全を重視していない官僚のモラルの欠如の問題であると、厳しく位置づけた上で、意識改革、機構変革、罰則の強化などのあらゆる手段を講じなければ、消費者の被害がなくならないことを強調するべきであった。


 いいかげんな対応は命取りになる(10月20日記載)


 「とにかく急いで医者に行って診てもらってください。その結果をお聞かせください。すぐお宅に伺います。」それが最も正しい答えである。本当の所は、病状について、素人の職員にわかることは限られている。勇み足であってもよいのである。
  コラム28 いいかげんな対応は命取りになる  「とにかく急いで医者に行って診てもらってください。その結果をお聞かせください。すぐお宅に伺います。」それが最も正しい答えである。本当の所は、病状について、素人の職員にわかることは限られている。勇み足であってもよいのである。 「アレルギーをお持ちなのではないですか。」、「前から体調が悪かったんではないですか」、「風邪でもそんな症状は出ますよ」私はそのようないいかげんな電話での対応を、その職員のすぐ横にいて実際に聞いたことがある。  電話をかけてきている顧客、組合員は必死なのである。RESPONSBIRITY(責任)とはRESPONSE(応答)することを意味している。確かな受け答えをせねばならない。 「アレルギーをお持ちなのではないですか。」、「前から体調が悪かったんではないですか」、「風邪でもそんな症状は出ますよ」私はそのようないいかげんな電話での対応を、その職員のすぐ横にいて実際に聞いたことがある。
 電話をかけてきている顧客、組合員は必死なのである。RESPONSBIRITY(責任)とはRESPONSE(応答)することを意味している。確かな受け答えをせねばならない。


   大事故が起こらなくでよかった(10月20日記載)


 雪印乳業の大阪工場では、消費期限間際の、一説には消費期限切れの回収ミルクを運び込んできた下請けトラックの運転手たちが戸外でカートンを開封して、常温下に置かれた回収タンクに流し込んでいたという。これでは、手指、衣服、咽頭、あるいは塵埃からの細菌汚染が何時起こっても不思議ではなかった。常温下のタンクは絶好の培養装置となって、各種の毒素を生産する可能性があった。この汚染ミルクが追加された低脂肪乳が殺菌されると、規格、基準に合格した立派な製品が出来あがってしまう。しかし加熱によって分解されなかった毒素が猛毒を発揮することになる。
 私は日本の酪農メーカーの信用のために、これがわが国を代表するトップブランドでの実態であったなどと信じたくはない。しかし聞くところによれば、回収乳の再利用は雪印乳業だけでなく、無届で、ほとんどのメーカーでふつうに行なわれていたのだという。しかも、厚生省はこれを黙認していたのだと伝えられている。
 いったいなにがHACCPなのだ、総合衛生管理製造工程とは聞いてあきれる。消費者が怒るのは当然である。


品質管理質ーお粗末にもほどがある。(10月18日記載)


 食品関係事業所の品質管理室で、品質管理、危機管理が何とかこなせるためには、担当職員が実務に見合った数だけ準備されていなければならない。誰かが休暇を取ればそれで機能が停止するなどと言うのはおかしい。それでは休養も出来ない。年休もとれない。病欠も出来ない。まさしく労働基準法違反を承知で仕事をさせているということになる。担当者、検査員には学習、研修の機会も与えなければならない。品質管理の本質がわかっていない事業体はまさしく消費者、組合員の信頼を裏切るものである。実際に事故が起こって品質管理の内情があからさまになったときに、お粗末にもほどがある、などといわれないようにしておこう。役員、理事者は心して現状を確認してほしい。


 すぐれた品質管理所の責任者を知っている(10月17日記載)


 ある生協の品質管理室の責任者のZ君は、その地域の食品衛生行政や保健所、とくに食品衛生監視員との人間関係をとても大切にしていた。それだけではない。日常的な商品検査で疑問が生じたときには県の衛生研究所の、日頃懇意にしている研究員に電話をかけて教示を仰いでいた。彼はその地域の品質管理研究会にもこまめに顔を出して、一時は事務局担当までも買って出て、企業や行政関係者との人間関係を良好に保つことに努力していた。この事業所では、近隣の大学の名誉教授にも非常勤の技術顧問をお願いしていて、随時電話で意見を聞いていた。
 いざと言うときにはこうしたヒューマン・リレーションが非常にものをいう。問題は組織のトップがこうした品質管理の重要性をどの程度認識しているかである。Z君も立派だが、この生協のトップはもっとえらかった。  しかし、外部とのお付き合いは余計なこと。顧問を置くための出費は無駄。そのくせそと向けには「安全、安心は命」のようなことをいう、彼のいる生協には、そういうおかしなトップがいなかったのである。


 故俣野景典先生の思い出


 故徳島文理大学薬学部名誉教授,俣野博士が国立予防研究所におられた1968年の8月に、油症事件が発生した。先生はこれに先立って数万羽の鶏が死んだダーク油事件の重要性を、すでに3月時点に当時の厚生省の行政担当者に申し出て、人への被害の発生について強く警告しておられた。私はこの事実を以前にご本人から聞いて知っていたので、弁護団と共に油症裁判の証人に立っていただくことをお願いすることにした。徳島の文理大の先生の研究室に伺って、当時のノート類をお見せいただいて驚いた。そこには極めて詳細に、その頃書きになった記録が残されていた。
 記憶をたどるだけでは証拠にはならない。実際に書かれていなければならない。古いインクのにじみが何よりの証拠になった。俣野博士の証言も有利に働いて、この裁判では被害者、原告側にとって有利な判決が得られたのであった。


 日本最大の食品異物のコレクション(10月16日記載)


 私が15年にわたって技術顧問をつとめたコープこうべの商品検査センタ−には、およそ日本最大であろうと思われる食品混入異物のコレクションがある。髪の毛、ガラス片、糸くず、そしてゴキブリ、寄生虫、皮膚の一部、金属片、プラスチックなどがケースに収められている。企業や行政の品質管理関係者はこのセンターを一度見学されることをお勧めする。およそ地方の衛生研究所程度の職員数をそろえて、複雑多岐にわたる検査、品質管理業務が推進されている。コープこうべは経営事情が非常に苦しい中で、なおかつ生協の安全・安心の理念を守るために、品質管理業務を重視する姿勢を貫いている。
 ちなみにわが国の生協関係の品質管理体制では、全国の各生協に分散した約300人の検査員をそろえて連携を保ちながら業務が推進されている。いかなる大スーパーといえども、こうした安全、安心のための品質管理の仕組みを持ってはいない。生協の組合員がこの十数年間に3倍増して、いまや2000万人にも達しようとしているのも故あることと思われる。全国の生協組合員の出資金総額が100億円を超えるような消費者の組織があるというのも世界的にも全く例のないことである。
 将来的に、もっと出資金を積み上げて、全国的な融通が出来るようにすれば、どんな不況にも負けない生協という消費者のための良品供給のチェーン組織が確立されることになる。これは実は大変なことなのである。


 大阪市には雪印乳業を責める資格がない(10月15日記載)


 食中毒の、新聞紙上への、社告勧告に対する雪印乳業の「原因が特定できない段階での掲載は納得できない」という言い分は本来企業側が言うべきことではない。それは遁辞として行政側が時折使って非難されてきたことばなのである。いずれにせよ消費者本位に問題を見ていない、危険な言い逃れに過ぎない。
 しかしその一方で、雪印乳業がどのような態度をとったにせよ、社告勧告を拒否された大阪市の保健当局は市民の健康と安全に責任を持つ食品行政機関として、独自に、迅速に、低脂肪乳が容疑食材であることを市民に対して公表せねばならなかった。勧告行為自体も食品衛生法規とは無関係な、不必要な行為であった。勧告が受け入れられなかった時点で、市独自の公表をしなかったことについての行政当局としての公的責任が問われねばならない。大阪市には雪印乳業を責める資格はない。行政の担当者に、はたしてトップブランド企業に対するある種のおもねりがなかったといいきれるのであろうか。


 概要決定資料と絶対確定資料の違い(10月15日記載)


 実態を公表する場合に、発表されるデータには質的に二つの種類があると思います。すなわち概要決定資料と絶対確定資料です。汚染がある、汚染がひどいという定性的資料とそれが確定的にどのような物質による何ppmの、何ppbの汚染であるという定量的資料の二種類であるともいえるでしょう。
 昭和43年(1968年)の2月に発生したダーク油事件の原因が、5月時点になってカネミ倉庫のダーク油にあることが判明しました。もちろん、それがどのような毒物によるものであるか、ということは全く不明でした。しかしそれは非常に重要な事実でありました。カネミ油は米ヌカから作られる。ダーク油がその中間工程からの副産物であり、これが汚染されている以上は、最終産物である米ヌカ油も危険ではないか、という推測は容易に成立します。この推測を含めての一切は概要決定資料であったといえるでしょう。
 もしもこのような概要決定資料が強調されていたならば、当然市販のカネミ油を警戒せねばならなかったし、回収せねばならなかったにちがいありません。そしてこのような概要決定資料は、まず研究者及びその周辺によって、果断に公開されるべきであったと思われます。もしも2〜5月の時点でカネミ油が回収されていたならば、おそらく被害者は最小限度におさえられていたことでしょう。――――
 絶対確定資料を出すまでは一切の資料の公開をしないというのは、公害問題に関する限り、明らかに誤りです。そのことをこれまでの広義、汚染の歴史が実証しています。―――――
 勿論概要決定資料に基いて発言し行動することは研究者自身にとって最も危険な立場に立つことでもあります。誤った事実を伝えたとすれば責任をとらねばならない。このことを自覚した上で私たちは研究活動に従事するのです。苦しい時代です。市民の間に無用の混乱を生み出してもいけない。私たちは極めて慎重でなければならない。細心な評価と判断にもとづいて絶対確定資料を予感し、推測し、その前提において、概要決定資料を市民に公開することが必要となります。勿論それは最も傷つきやすい行動であることを熟知していなければなりません。


 PCB製造企業の責任は残る(10月14日記載)


 PCBを独占的に製造し販売して、おそらく巨利を博したであろう製造企業は後日になって、PCBが有害であり、生態系、環境、食品、人体、母乳などが広く汚染されているという事実が明らかになったときに、全く何の責任も問われなくてもよいのであろうか。現在でもまだ使用されているPCB入りの電気製品や、廃棄しようにもPCBが使われているので回収されたまま保管されているトランスなどの膨大なストックに無関心を装っていることが許されるのであろうか。
 電気製品業界や政府、自治体は今日でもPCB製品の回収、処理をどうするかで頭をかかえている。消費者、国民も広範な汚染にたえず不安を感じている。PCBは環境ホルモンでもある事が判明した。
 ダイオキシンのようにその大部分が生活廃棄物などの焼却処理によって発生した場合には、消費者自身にも幾分か責任があるかもしれない。しかしPCBは違う。消費者には何の責任もない。PCBで汚染された母乳を飲まされる乳児たちは100%が被害者なのである。不幸なことに現在の法体系ではこのような場合に製造企業の責任を問うことは出来ない。しかし社会的、道義的な責任はいつまでもつきまとう。PCBの製造企業は今日的な汚染事態に対して責任を感じなければならない。21世紀企業として存立するためにはその責任を何らかの形ではたさねばならない。
 PPP(POLLUTERS PAY PRINNCIPLE:汚染者負担)の原則は世界的な通念である。ここであらためて企業トップの見解をただしたい。


IT時代はかえって危険である(10月13日記載)


 ITの時代だ、といわれる。食品被害を防止する上でもIT(情報管理技術)を必要とすることはいうまでもない。
しかし情報は所詮流れるものである。そして、その情報を補足して収集し、解析して問題点を抽出し、すぐれた対策を生み出すのは機械では出来ないことである。IT時代には、誤った、偏った、あるいはどうでもよいような情報が流れる頻度も高まってくる。現場、地域の条件に照らして、何が必要な情報であるかを見出すのは,人である。IT時代にこそ、人の素養、知識、理念の質が問われる。あるいは熱意と情熱と執念がものをいう。
 ITを神格化するのは誤りである。情報を人の知識に変え人の知恵に変え、人の行動に変えるのは人自身である。そのための教育、学習、努力がない限り、IT化時代はかえって危険でさえある。
 危機管理情報を山ほど、IT末端のパソコンに入力しておいたとしても、それだけでは食中毒は防げない。


  学校給食を止めてしまえという意見について(10月12日記載)


 学校給食は戦時中、戦後の欠食時代の名残だ.そろそろ止めたほうがよい、という意見が出ている。そしてお弁当をもたせればよい、お弁当こそ母親の愛情のしるしである、などという町長さんが現われたりしている。さらに堅苦しい給食でなくて、生徒が自由に食べられるレストランを学校内につくって、そこで社会性を養わせる、自分にあったメニュウーを選ばせよう、という考え方も一部にあるようだ。
 しかし母親のいない家庭もある。親たちが多忙でお弁当作りに振り向ける時間がない。親たちに栄養、衛生に配慮する余裕がない。お弁当だけが愛情の証しではない。お弁当を作ってもらえなかった子供たちはどうするのか。戦中、戦後に一人さびしくお昼休みに、校庭の片隅でうずくまっていた子供たちの記憶は悲しいではないか。お小遣いで近くのパン屋さんから買ってくるのは菓子パンと色つきジュース、そういう昼食が発育盛りの幼少年期に、数年間も続いていてもよいのだろうか。母親のお弁当は確かにすばらしい。しかしその理想や憧れをただちに現実の施策に生かすことには無理がある。給食廃止論者の町長さんは以上のような問題点をどのように解決されるつもりなのか。
 レストラン方式ではお小遣いに余裕のある子供がいいメニューを選べる。ただし好きなものしか食べない。偏食も自由放任。食べない子供も増えてくる。そこは業者の利潤追求の現場となる。栄養、衛生、安全に不安がある。教師や父兄の参加が困難になる。食事をとおしての協調、団欒、会話などの社会性はレストランでは身につかない。小、中学生時代からレストランで昼食を、などと大人が言うのはおかしい。


 学校給食の大切さとは(10月8日記載)


 どこかの市長さん、議員さんのような、学校給食を止めてしまえと言う意見の方は,ぜひとも以下に示す学校給食の意義について考えてみてほしい。そのうえで学校給食廃止論が結局、予算だとか、人事だとか、教育問題とは別の理由で言われていることに気づいてほしい。
1 かけがえのない学童期の栄養補給のために意義がある。
2 基本的な食生活教育を実施する現場として役立つ。
3 家庭での食生活マナーやしつけ教育を補完する。
4 食生活での差別感の除去は精神的発達に貢献する。
5 同じ屋根の下で同じ釜の飯を食べる教師と子供たちの人間関係づくりに役立つ。
6 食材、調理知識を実地に学習する場となる。
7 食糧問題や食生活をめぐる社会的な事情や地球的な課題を学べる
8 家族以外の仲間と食事を共にする社会性の実習の現場となる。
9 知る、選ぶ、安全である、要求する消費者の権利を学ぶ場となる。
10 衛生的な食材の準備、調理、配食、食卓作りの習得の場となる。
11 自立した食生活が出来る訓練の場となる。
12 父兄のお弁当つくりという家事労働を軽減する。
13 地域の農産物などを利用して地場産業の育成に役立つ。
 もちろん理想と現実は別である。以上のような学校給食の可能性を有効に引き出せていない現実的なネックがあることは認めよう。しかし、教育現場としては、そのネックをみんなで取り払うために協力し合う方が、お弁当昼食やレストラン昼食を実現するために汗を流すよりもはるかに価値あることだと思う。


 給食現場の調理員たちが熱い涙を流した(10月6日記載)


 堺市でのO・157食中毒事件の発生直後の記録を見ると、給食調理現場の調理員の皆さんが非常に責任を感じておられ、地域の人々や父兄から、犯人視されているのではないか、とまで思いつめておられた、そして、申し訳なさに、ひたすら夜も眠れずに涙を流しておられたことが綴られている。調理員の皆さんには何の責任もなかったのである。
 事態を観念的、抽象的に受け取ってはならない。O・157事件の関係者の生々しい苦しみや悲しみや怒りや涙の意味を身にしみて思わないでいて、食品衛生対策に取り組んでいてはならないと思う。
 私は当時の地獄のような混乱のさなかにいた堺市の食品衛生監視員たちの不眠不休の働きを聞かされた。救急病院の医師たちの悪戦苦闘も知らされた。現地生協の苦渋の商品対策も知ることが出来た。そのころ地元生協の商品の売れ行きが大幅に伸びたということにも驚かされた。
 アメリカのTIME誌での、何か屈辱感を持たされるような堺市O・157事件の特集記事も読んだ。
 20世紀の終末に、学校給食現場で引起された、このO・157事件の悲劇を決して没却のかなたに追いやってはならない。犠牲者たちが残してくれた教訓を絶対に風化させるわけにはいかない。


 熱い思いが消費者の運動を支える(10月7日記載)


 食品衛生法の抜本的な改正を求める全国的な消費者運動は必ず成功させなばならない。その意味で署名運動の趣意書の中に、食品被害者の苦しみや悲しみが刻み込まれた過去の教訓に深く学んで、二度とそのような悲惨を繰り返さないためにこそ法改正を求めるのだ、という覚悟が、しっかりと書き込まれていてほしかった。
 子供たちを二度と再び食品被害の犠牲者にしてはならない、という母親の熱い願いがあってこそ、食の安全を守る、公の仕組みをしっかりと作り直そうとする情熱が生まれる。制定以来もう半世紀にもなる、すでに制度疲労を起こしたことが明らかな、現行の食品衛生法を改正しようと言うことに反対する人はいない。誰でも請願署名には賛同する。しかし本当に消費者の要請にこたえるようなすぐれた法律を作りあげるためには、生活者の熱い祈りに支えられた大きなエネルギーが必要なのである。署名の数よりも署名の質こそが、消費者の思いや祈りこそが大切なのである。
 法改正、行政変革のためのエネルギーは消費者の一人一人の心の琴線に触れるような熱い願いがなければ決して生まれない。


その時、その電話にどう対応するのか(10月5日記載)


 顧客の一人であるCさん宅から、真夜中の11時に、店舗の宿直者に電話がかかった。一家中が嘔吐、下痢をして苦しんでいるという。Cさんは、原因はどうも夜食に食べた、A店舗で購入したB食品らしいと言う。まもなく本社の当直者にもDさん宅から電話が入ってB食品を食べた子供たちが発熱しているという。
さてこのような通報を受けた職員たちはどのように対処することになるのであろうか。
 非常時に備えた想定訓練を時折しておくことをすすめる。最寄の保健所の電話番号も知らない。食中毒の知識などさらさらない、危機管理についての教育を受けたこともない、そのような職員のいる組織が、もしかりに「安全、安心」の看板を掲げていたとすれば、それはまさしく詐欺商法だと言われても仕方がない。


 まず用語の定義を明確にせよ(10月5日記載


 たとえば食品衛生法での食品添加物の定義があいまいであれば、食品添加物が絡んだ事例に正しく対応することはできない。その意味では、わが国の食品添加物の定義はアメリカ、EUや、あるいは国際的な専門家のコーデックス委員会の定義などと比べて非常にあいまいで水準の低いものであることは否定できない。したがって至急に改正される必要があると思う。たとえば、わが国ではつい最近まで天然添加物は食品添加物として位置づけられておらず、まるで野放しの状況におかれていた。業界は天然即安全ということで、一時は天然添加物の使用が大流行していた。


油症事件のステンレスパイプ腐蝕孔説は覆ったのか(10月5日記載)


 油症裁判の高裁での審理課程で、事件の発生から十数年後になって、カネミの従業員が脱臭缶の修理ミスでステンレスパイプに孔をあけてしまった、という証言をしたことは驚きであった。それでは油症事件は完全にカネミの過失が原因と言うことになって、PCBの製造、販売者であったカネカや規制の責任が問われていた国には責任がなかったことになる。それに、当時、副生したダイオキシンが油症の原因物質であって、コプラナPCB以外のいわゆるPCBは油症とは関係がなかった、とする見解が新たに登場して、製造者であったカネカにはますます有利な情勢が展開した。そして高裁の判決は結局原告敗訴ということになった。
 このあと、最高裁に審理が移ったが、従来のステンレスパイプ腐蝕穿孔説と修理ミス説のどちらが正しいのか、あるいは折衷説がありえたのかどうかも十分に審議されないままに原告、被告は和解の席につくことになった。後になって、ステンレスパイプ腐蝕穿孔説が「覆った」などというダイオキシン分野では高名な研究者が現われたが、これは誤りである。真実は決着がつかないままになっているのである。
 私はPCBが真の原因物質ではないとした彼の所説は誤りであると考えている。油症患者の臨床症状を酵素学的実験や動物実験の結果によってすべて説明できると言う根拠はどこにもない。油症をダイオキシンだけのせいにすることは誤りである。ダイオキシンと高濃度のPCBの複合的な毒性を問題にするべきなのである。(拙著参照、「恒常性かく乱化学物質汚染」(合同出版 99年刊)
 私の書斎の机の片隅には、昭和61年10月7日付けの、最高裁判所での最後の審理の際の座席番号、いー8と刻印が押された1枚の傍聴券が置いてある。 苦い思い出を忘れないためである。


合法的に死傷させることが出来るのか(10月5日記載)


 人が人を殺傷することは、本来いかなる理由があっても許されることではない。しかし例外的に戦争と名のつく場面では、いかなる場合でも人が人を殺傷することが許される。
 ところでどれほど犠牲者が出ていても、「予見不能性」さえ証明すれば、企業は処罰されない。つまり、企業は明らかに殺傷に加担した加害者であっても罰されることがない、そして何の罪とがもない消費者だけが犠牲になって損をする場合があるのである。たとえば未知の部分があることを知りながら、有用性をうたって商品を売り出して、結果的に被害者が出ても,未知であったがゆえに予見不能であり、その当時のその行為は合法的であったのであり、したがって殺傷行為が免罪されてしまうのである。
 消費者が被害を免れるためには何をなすべきか。未知の部分を知りながら開発を急ぐ企業をあらゆる手段に訴えて牽制して、そのような製品が出現することを絶対に許さないことである。そして何時の日にか、EUなみの予防原則に基いた消費者本位の食品衛生法を確立して、有害性が未知であることを知りながら商品を売り出すような行為自体に、はっきりと非合法の刻印を押すことである。それは自由公正な企業活動が行なわれる社会をつくるためでもあるのである。

 註:予防原則とは、これまでの「危険性が証明されなければ認可する」という考え方に対して、「安全性が証明されなければ認可しない」という考え方であり、疑わしいものは採用しない、実施しない、モラトリアム(執行猶予)する、という慎重な考え方である。


 総括はまだすんでいない。(9月29日記載)


 雪印低脂肪乳食中毒事件の総括はまだすんでいない。行政側の幕引きはまだ早すぎる。厚生労働省と大阪市の合同調査委員会の最終報告書は確かに出た。しかしここでは食中毒の直接的な原因が示されているだけであって、そこには、この食中毒事件の意義、背景、真の原因、そして対策のあり方などについては全く触れられていない。事故を発生するにいたった企業、行政の体制的な欠陥が抉り出されているわけではない。現行のHACCP体制の欠陥にも触れていない。要するに北海道の大樹工場の停電事故が原因であったと言うだけのことしか書かれていない。したがって最終報告書はこの事件の総括文書にはなっていない。
 厚生労働省は何時の時点でこの事件のための真の総括をするつもりなのか。あるいは何もしないで、雪印乳業に戒告するだけで幕引きをしようと言うのであろうか。国民はそのことを注目している。TIME誌の記事で、「Watchdog(番犬、見張り役)は何処にいるのか」とまで言われていながら、世界が注目しているなかで、そのWatchdogは依然として寝そべったままでいようというのであろうか。
 行政側が総括しない、というのであれば、現状のままではではまぎれもなく「予定被害者」である住民、消費者が学識経験者の協力を得て、主体的に総括しなければならない。そうしなければ、これほどの大事件を経験しながら、結局、わが国の食の安全を守る仕組みは何も変わらなかった、ということになりかねない。

 我が国ではこんな事が繰り返されている。行政の怠慢が日常化している。ひところHACCPがもてはやされたと思ったら、今はリスク分析手法とやらが、突然、金科玉条のように持ち上げられている.なぜか、消費者団体までもが手放しでリスク分析手法を賛美している。どのような手法や方式が我が国にとって最適であるのか、ということについての慎重な対処がみられない。
 消費者の食不信、食不満、食不安はリスク分析手法を導入したからと言って決して解消しない.もっともっと肝心なものを置き忘れている限り。


 閑古鳥が鳴いていた学習会のために(9月28日記載)


 「お客様は神様だ」、などといわれことがある。しかしそれは業者が言うことであって、自分自身を神様だなどと思うような消費者がいるはずがない。消費者は生身の人間である。消費者運動にも問題はある。おかしな役員もいる。烏合の衆と思えてくる輩もいる。消費者団体も生協も普通の人間の集まりに過ぎないのである。
 せっかく張り切って計画されたはずの生協の学習会が、いざふたを開けてみるとあまりにも閑散としていて、はるばるやってきた講師があきれて帰ってしまった。何のことはない、実のところは、その組織では誰も本心からそのようなテーマで勉強する必要性など感じてはいなかったのである。そこでは、学習、教育はただの看板だけになっていたのである。興味本位のカルチャー教室なら会費を出してでも出席する。しかし面白くもない、聞いてもどうしようもないダイオキシンの話など出て行って聞くつもりもない、公害や汚染、安全や安心は誰かがやってくれたらいいのだ、役所が規制してくれたらそれでよいのだ、というのである。
 消費者自身が自らの弱さを自認して、だからこそ学ぶこと、協力することの必要性を自覚していなければ学習や運動は全く宙に浮いてしまう。消費者の権利要求などというのも実は名ばかりのことになってしまう。
 閑古鳥が鳴くような、惨めな学習会を二度と持たないでおこう。  消費者の権利は与えられるものではない。かちとるものである。情報を知識に変え、知識を知恵に変え、知恵を行動に移すためには、自らを受動者から能動者に変えることが必要である。




 食生活教育のカリキュラム・ミニマムを(9月23日記載)

 家庭教育、学校教育、社会教育の現場で必要な消費者の食生活教育のカリキュラム・ミニマムを具体的に作成するべきである。
 たとえば、正しい食生活知識は国民が健康で文化的な生活を送れるようにするための必須の知的財産となる。
 食生活問題では、食料、栄養、調理、衛生、安全の分野で、消費者として不可欠な学習事項を網羅して、消費者の権利に関わる諸問題についての理解を共有することが出来るようにする。
 それは将来的に必ず国家的なみごとな成果をもたらすことになるであろう。


 消費者団体は慎重論を重視せよ(9月21日記載)


 遺伝子組み換え食品の導入直後の1997年当時、私が参加していたシンポジウムなどの席上で、国の行政や研究機関の関係者や企業を代表する研究者たちは、一様に、いわゆる「実質的同等性」の論理を掲げて、遺伝子組み換え食品がいかにも安全であり、したがって、表示の必要性も全くないことを強調していた。これに対して多くの消費者団体や問題意識を持った研究者たちは慎重論の立場からそのような安易な考え方に反論を加えた。
 その後、「実質的同等性」の考え方の不完全性が明らかにされ、安全性や生態系保全の分野でも私たちが懸念していたような事実が認められるようになってきた。そしてアレルギー性の発現が疑われている遺伝子組み換えトウモロコシ「スターリンク」が飼料だけでなく食品分野にも混入していることが判明して、アメリカを始めわが国でも大きな問題になた。
 業界などの主張を無批判に受け入れることによって遺伝子組み換え食品を安易に導入したために、このような失態を演じている国の行政や関係企業のありかたを正すためには、生活者の要求が国政を動かすほどの巨大な力となるような消費者運動組織の拡充強化が絶対に必要になる。  当時はバイオ関連の研究者のなかにも実質的同等性の考え方を批判しないような人々がいた。遺伝子組み換え表示さえ不必要と言わんばかりの人もいた。
 かって実質的同等性論に賛同した人々は、今、何をか思う。


 食品衛生法改正運動の大前提とは(9月21日記載)


 食品衛生法の改正を求める運動が行なわれる場合には、私はその前提として、消費者団体が、つぎの5点について確認しておく必要があると思う。
@ 歴史的な食品被害体験の教訓に学んでいるか。
A 食生活の安全を願い、求める生活者のエネルギーによって支えられているか。
B 学識経験者の見解を広く、謙虚に聞こうとしているか。
C 消費者を取り巻く情勢や社会的な趨勢を正確に把握しているか。
D 消費者の連帯の輪をより大きく広げようとしているか。
 制定後半世紀にもなる現行法を改正することに反対する消費者はいないだろう。だから署名者自体はすぐに集まる。しかし本当に、実質的に消費者にとって内容的にすぐれた法改正が可能になるかどうかは、以上の5点が運動自体の中でどのよう重く位置付けられているかできまる。
 たとえば現行法では予防できなかった食品被害事件の教訓に深く学んで、二度と過ちを犯すことがないようにしようとする消費者の熱い思いに支えられていなければ、安全である権利を確立することは到底出来ないだろう。
その上で、改正運動を主導する団体では、改正案の中身を、もっと踏み込んで具体的に呈示する責任がある。そのために法曹関係者、自然科学者、社会科学者、企業関係者などの専門家による諮問委員会を設置して、新しい食品衛生法、食品安全法のたたき台をつくらせる、そのようなプログラムを着実に実行せねばならない。国会議員を何十人味方につけるよりも、これははるかに肝心なことである。
 観念的で実効性に乏しい法改正の前例があまりにも多すぎる。消費者の権利尊重が前文でどんなに謳われていても、消費者ということばがどれほど頻繁に使われるようになったとしても、実効性のある、拘束性のある確かな条文が見当たらない法改正では仕方がない。


 生協は組合員の要望を代弁しているか(9月21日記載)


 食品衛生法の改正を要求する場合には、消費者の権利と利益に関わる課題との関連性に最もこだわっていなければならない。たとえば、今すでに、いやでも食べさせられている遺伝子組み換え食品のような、予防原則維持の上での、重大で具体的な、そして消費者の大多数が関心を持っている、最も今日的で象徴的な生命操作の問題をどう見るかが厳しく問われている。それは触れないで済まされるような課題ではない。表示問題には取り組んでも、消費者が表示を必要とする最大の理由であり、最も根源的な課題であるる安全性の問題にはあえて言及を控える、などということは許されない。
 食生活の安全性を確保するために、現行の食品行政を強力に拘束することのできるような食品衛生法がつくられねばならない。森永事件、油症事件、O・157事件、雪印低脂肪乳事件の被害を予防できなかった、そして農薬、PCB汚染などの脅威を除去できなかった現行法をそのままにしておいてよいはずがない。21世紀の国際化社会の対応できない食品衛生法では仕方がない。
 生協は期待されている。COOPの店舗や共同購入の配送車はまさしくその組合員の期待が集まった正念場なのである。そしてコープ商品こそはその生協理念の結晶そのものでなければならない。そして、その現実はどうなのか。


 モンサント社研究所の熱気(9月20日記載)


 1998年、日弁連の遺伝子組み換え食品問題調査団に同行してアメリカ・モンサント社のバイオ関連研究所を見学する機会があった。一般にもマスコミにも公開したことのない研究所であったが、弁護士会の調査だから許可されたのだと言うことだった。あるいは私たちがわが国での唯一の見学者ではなかったか。
 遺伝子構造を人為的に変換して新生物がつくれるという人類史上、非常に画期的な生命工学の最先端をいく現場であったこの研究所はさすがに熱気にあふれていた。私のようなものでさえ、もう少し若かったらこのような陶酔的な研究者たちの雰囲気に巻き込まれていたかもしれないと思われた。新規な科学的成果を無心に追い求めている研究者たちの態度はさすがに真摯であり、崇高にさえ見えた。
 しかし、しっかりと立ち止まって考えよう。その研究の成果がたちまち新製品として利潤追求の道具となる課程で、安全性の検証が正確、丹念に行われているか、どうかを問題にしなければならない。そのことを人類は、これまで多数の犠牲者たちの証言によってはっきりと教えられてきた。私は研究者がえてして専門外の領域を正しく見据えることのできない、すなわちある意味で専門バカと言われても仕方がない一面を持っていることを自戒せねばならないと思っている。社会的、公的に、開発と検証が平衡性を保つように調整を行なうことのできる仕組みを用意しない限り、このような急速な生命科学の進歩の時代である21世紀では、研究者が非常に危険な事態を作り出すことに加担してしまうおそれがある。生命科学こそは生命に最も近いところでその成果が問われてくるからである。私はきびきびと忙しく立ち働く研究員たちを、そう思い直して見つめていた。
 半世紀前にあの画期的な商品PCBを開発したのはモンサント社であった。その同じ企業が今日、再び先端科学の先頭を切って、さまざまな遺伝子組み換え食品を送り出している。
 私は帰りの列車の車窓から沿線の雪景色を眺めながら一人の研究者として複雑な感慨にとらわれていた。


 科学者のあり方が問われている(9月20日記載)


 分子生物学者メイ・ワン・ホーはその著書の中で次のように述べている。 「現代の遺伝子組み換え技術の効率と威力は、控え目に見積もっても1970年代の10倍の水準に達し、潜在的な危険性ははるかに大きくなっている。それなのに「科学的知見が蓄積されてきた」ことを理由に、ガイドラインはどんどん緩和されている。1970年代に研究に用いられていた遺伝子組み換え生物は、研究室の外では生きられないように遺伝子操作を施され、環境に漏れ出さないように細心の注意を払われていたが、今日の遺伝子組み換え生物は、生態学的に強靭になるように設計されている上に、大規模に環境に放出されているのだ。」
「バイオテクノロジーは未曾有の規模で科学を商業化しようとしている。再びハバートの言葉を引用するなら。「科学者と巨大ビジネスとの関係は、ますます深くなっている。かっては中立的立場で進められていた研究が、今日では、目の前にずらりと並んだ給料支払い係りのご機嫌をとるために行われている。研究結果は、注意深く操作され、企業の利益にならないと判断されれば破棄されてしまう。科学者の中には将来にわたって契約を続けるために自己検閲に走るものさえあるという」(p・50)
 今日の生命科学の研究者は以下の設問に答えねばならない。
@ 生命が複雑系であって単純な遺伝子決定系でないことを認めるか
A 生命が有機的な主体であって、多数の環境要因によって支配されていることを認めるか
B 生命倫理と科学とのどちらを重く考えるか。
 いまどき、遺伝子の組み込みという簡単な操作によって、容易に制御できるような新生物を作り出すことが出来る、などと考える科学者があるとは思えない。生物の機能と生命現象に関与する、あらゆる因果関係は、多数の因子が関連する変量関数によって有機的に支配されていることを認めなければならない。遺伝子ひとつを組み込んだだけで突然バラ色の世界が開けるなどと考えてはならない。


マスコミは食品被害を厳しく捉えているか(9月19日記載)


 NHKは20世紀から21世紀に積み残した課題を総点検するために、2000年10月2日から、教育テレビで毎週一回日曜の夜、1時間の「日本の宿題」特別番組を組んで、連続的に放映した。私はその第一回の「食の安全」と言うテーマに出演した。その内容はやはり時節柄、雪印乳業の食中毒問題が中心になった。HACCP認定の業界トップの企業で、なぜこれほど大規模な食中毒事件が発生したのか、食の安全を守るわが国の公的な仕組みの欠陥は何処にあるのか、21世紀の安全体制はどうあるべきかが討論された。放映後に、ディレクターから反響が非常に大きかったと言う連絡を受けた。
 マスコミがこの種の番組をもっと積極的に取り上げることが望まれる。個別の事象の報道も必要である。しかし事件の全体像を捉えて、総括的に、問題点を抉り出して、これとどう対応するべきかについての討論を高いレベルに持ち上げることをしない限り、そしてそのことが世論にきちんと反映しない限り、優れた対策を生み出すことは出来ない。現に事件が発生してから2年後の現時点においてさえ、雪印乳業食中毒事件の総括は未だに正確に行われたとは思われない。
 放送であれ新聞であれ、マスコミは今日の消費者の最大関心事のひとつである食生活の安全に関わる総括番組にもっと力を入れてほしい。
 違った立場の学識経験者が討論することが必要な課題が山積している。たとえば食の分野では、バイオテクノロジー、生命倫理、遺伝子組み換え食品、食料安保、自給率の低下、国際化の功罪、輸入食品の安全性、そして食中毒、食品汚染、食品衛生問題などがそうである。この数年間にこの分野では無視できないような重要テーマがいっせいに登場してきた。
 雪印乳業食中毒事件の関連では民放のテレビにも出演する機会があったが、極めて短時間で、いいたいことがいえずに不満が残った。民放であっても、スポンサー企業の協力のもとに、国民、消費者の関心の的になるようなすぐれた番組の編成につとめてほしい。視聴率は演出者の力量にかかっている。たとえば、食中毒事件の場合なら、ますプロローグで被害者の救急搬送の情景を写し出す。第一部に加害者企業の杜撰な製造現場と品質管理の状況を示す。生々しい証言を入れる。そして原因細菌が、あるいは原因化学物質が汚染、混入した事実を写し出す。この課程ではアニメーション技術、あるいは特撮技術を駆使して、事実に即した状況を再現しても差し支えない。第2部には食品衛生行政側の監視、指導状況の欠陥を示す。検疫所の食品衛生監視員に輸入食品検査の激務にあえぐ現状を証言させる。法的監視回数をはるかに下回る監視状況を嘆いている保健所の職員たちを登場させる。そしてある日突然大食中毒事件の発生がある。エピローグに先立って、視聴者が今後どのような対応を必要とするかを考えあうように動機付けながら討論を行う。
 本来食中毒、食品公害事件は、いかなるホラー映画よりも、テレビドラマよりも悲惨でありショッキングなのである。その時代の抱える矛盾がその社会体制の盲点から一挙に噴出しているのである。その家族を含めた1万名を越す被害者集団の苦しみや悲しみや怒りを、その壮大重厚な人間ドラマを、最先端の視聴覚の音声、映像では描ききれないなどと言うことは決してありえない。
 食の安全問題に、もっともっとマスコミ、の関心が集中することを切望する。


敬老の日に思う(9月15日記載)


 今日は敬老の日である。急速に高齢化が進行するわが国では、すでに総人口の7,9%が75歳以上であるという。私も、先月、ついに、その仲間入りをすることになった。
 新聞には、健康で長生きを、という論調が溢れている。世界一の長寿国日本ではあるが、老人たちが本当に丈夫で長生きなのか、寝たきりで、薬漬けで、介護されての長生きなのか、私にはわからない。
 これほどの老人大国でありながら、老人たちの実態がそれほど明確になっていないのも不可解である。それでいて、「老人たちは金持ちである。もっと税金をとれ、医療費負担をあげろ」という掛け声だけは勇ましい。「誰が今日の日本をつくったのか、その功労にむくいよ」という声は絶えて聞かない。誰かの失政のつけだけは、黙っていて、おとなしい老人たちにきちんと払わせようというムードが色こく漂っている。
 ともあれ、今日は愚痴をいうまい。自分の体と心のことだけを言おう。
 自分自身とその仲間たちをじっくり観察していると、老いるということの意味がよくわかる。自分自身が何よりの実験台である。そこで見出された新事実の検証は周辺にいる仲間たちを観察することによって行われる。
 後学のために、思いつくままに私自身の老いについての感想を書いてみよう。

   始めはからだの問題についてのべる。
1 確かに身体的能力は低下する。動作が緩慢になる。したがって意識して動作を調整する必要が生じてくる。これはやはり少々つらい、面倒なことである。若者と一緒に行動するのはこたえる。もう、何年か前のこと、遺伝子組換え問題のアメリカ調査に同行したときに、若者たちといっしょに、真冬の街路を懸命に走った時のことを思い出す。あの時、つくづくと、自分の70歳という年齢を実感した。

2 悪い姿勢をするほうが楽だから、自然に前かがみになる。腰が曲がる。あごが上がる。脚が開く。出ていたところが出ていなくなり、出なくてもよいところが出てくるようになる。ついには、おじん、おばん丸出しということになる。しかも、自分より他人のそういうところが気になってしかたがない、ときている。久しぶりに会った仲間のことを、家に帰ってから、家内が「あの人たちいっぺんに老けたねえ」というが、むこうでもきっと同じことを言っているに違いない。

3 手足の筋肉が落ちる。皮膚がたるんでくる。老人性のしわ、しみが出だす。人前には出たくなくなるのもよくわかる。まして、何十、何百という目でじっと見つめられる講演会の講師役を早く卒業したいと思う。
 今から32年前に、当時の最大課題であったPCB汚染問題で、私を講演会に招いてくれたM女史とこの間久しぶりにお会いした。その当時の若若しくて魅力的な面影はすっかり消えていた。それは私を見つめるM女史の場合にも全く同様であったろう。しかし彼女の外見を変えてしまったその長い年月は、品格のある、含蓄深い彼女の落ちついた人柄を確かに作り出していた。
 少々のシワ,タルミはしかたがない。そのかわりにその外見の内側に得られるものを大切にしたい。

4 白髪が増える。毛が抜ける、髪が薄く、細くなる。毎日出勤するわけではないので、髭剃りが面倒で、不精ひげが年寄りくささをひきたてるようになる。写真を見ながら、家内から「昔は黒々とした髪をしていたのに」、などと言われる。こちらも言い返したいが、不思議に家内の髪の毛は豊富である。白髪もあまりない。管理栄養士だから、栄養が十分とれているせいだろう。

5 歩幅が狭くなる。スリッパやつっかけの方が楽である。革靴が重く感じられる。遠出が億劫になる。家内が歩数計を買ってくるが、時折、何時の間にか行方不明となる。1日1万歩なんて、老人にはとんでもない。私には一日、目標7000歩を歩いて歩いて、結局、坐骨神経痛に見まわれて、挫折したた苦い経験がある。
 程ほどに歩くことである。1日4000歩を目指したい。脚の筋肉が落ちて、寝たきりになるのだけは御免である。ちなみに私の毎朝の愛犬ムックを連れての散歩の歩数は1500で相当なものである.

6 足腰に、えたいのしれない関節痛や神経痛が現れるようになる。歩行が不自由になる。神経痛を患ってからの私の観察では、町を歩く高齢者の8割に、歩行困難が見られるようだ。これはどうも人間という、唯一の2足生物の宿命らしい。ついでながら最近実感したが、神経の痛みをコントロールできる医学はほとんど進歩していない。遺伝子治療も結構だが、最大多数者が悩んでいるペイン・クリニクをもっと進歩、充実させてもらいたい。転んで簡単に骨折して寝たきりになる以外に、神経の痛みで歩けなくなる高齢者の割合が相当に大きいように思える。高齢化最先進国の政府として、あるいは医学者として、この問題を早急に解決する必要があるだろう、これは敬老の日の最大テーマの一つでなければならない、

7 きりっとした服装をする事が面倒になる。ボタンをかけるのがわずらわしい。なるべく気取らないで着ていたくなる。したがって概してだらしなくなる。この夏の、家内との他愛のないもめごとは、たいてい私のステテコ姿の事についてであった。しかし、私は九州の最西端の五島列島の、しかも8月生まれであって、人一倍汗腺の数が多く、ものすごい汗っかきと来ている。だから、たいていは言い負けることはなかったのである。

8 「年寄りの冷や水」的な心情を心得て、無理をしなくなる、といいたいが、これは少々眉唾ものである。家内からは、まるでロボットと同じ位、同じ姿勢で無理を続ける人間である、と言う、見事なレッテルが貼られている。
 無理をする、しないはどうも、人それぞれであるらしい。

9 若いときよりも食欲が落ちる。酒量も下がる。少量で美食、美酒を望むようになる。子供がえりするといわれるが、確かに甘味を好むようになる。ただし、このジンクスは人によりけり、であるようだ。アンパンは私の好物であるが、みなが皆、好きであるとは限らない。
 油っこい欧米の料理よりも淡白な日本の料理を好むが、それでいて、時にはステーキも食べたくなることもある。カレーやすき焼き、それに肉じゃがなどは依然として定番であり続けている。この年になっても、つまみ食いには興味がある。いや、これも人によりけりかもしれない。

10 性欲も落ちる。しかし、完全になくなったわけではない。思い出したように、まだ若さがいくらか残っているな、と実感して、ほっとする。
 60代前半はまだ50代の力が残っていた。後半はもう70代への兆しが始まる。70代に入るとめっきり落ち込む。75歳になると、もう四捨五入すれば、80歳の声が聞こえる。しかし、それは、まだ完全に炭化したわけではない。この後、どうなることか、われながら興味がある。

11 確かに病気がちになる。健康診断での検査値が次第に異常化してくる。医者がよいが欠かせなくなる。これは避けがたい真実である。週のうち、相当部分の時間を医者通いに費やしている人々が増えてきている。
 先輩や友人たちが意外にガンで死ぬことが多く、ちょっとした体調不良をガンに結び付けて考えてしまう。

12 白内障、緑内障の声が聞こえて、視力が落ちる。概して目が細くなる。

13 顔つきや体型が亡き父母にどことなく似てきた、などといわれる。

 つぎに、こころのありようについて述べておこう。

1 気落ちすることが多くなる。先輩はあらかた死んでいなくなり、今度は自分の番だと思う。友人がぼつぼつあの世へ旅立つようになる。そうした体験をした日の夜はわびしい。翌朝の寝起きは気が重い。

2 子供たちは巣立っていった。することはし尽くした、と考えがちになる。家財産をゆずらねばならぬ。平均寿命と比較して、後何年のいのちかと思う。

3 残された唯一の財産は老妻との夫婦のくらしだけだ、と思う。残された時間は貴重である。人生の総決算の時間である。逃げていくように速く行き過ぎる時間を貴重だと思う。いとおしく思う。このくらしを何者にも邪魔されたくないと思う。

4 特別な病気でないかぎり、記憶力が落ちる、というのはうそである、と言いたい。度忘れ、物忘れなどというのは、年をとれば、考えること、関わることが多くなっただけ、覚え切れないことが、思い出せないことが増えるだけのことである、と信じたい。漢字を忘れがちになるのは、ワープロやパソコンのせいであって、若い人では、むしろ老人以上なのである。
 さがしものに追いまわされているときには、夫婦とも、不幸せだ、としみじみ思う。しかし、見つかればうれしくて、幸せだと思う。財布がない、めがねがない、カギがない、これは我家の3大さがしものである。さがしものにすべての時間と労力を奪われる人生を「さがしもの人生」という。
 しかし、たいがいの場合、年をとってから、さがしものをするようになったのではなくて、その人は若い時から、本当のところは少々、整理、整頓が苦手であった、というのが本当のところではないのか、こういう場合には、老年性の痴呆が始まったのではないから,かえって安心してよろしいのである。

5 推理力も理解力、判断力も落ちない。むしろ若いとき以上だと思う。その理由を私は次のように解釈している。
 確かに人の脳細胞の数自体は20歳後半から減少し始める。これは観察された事実であろう。しかし、もともと脳細胞にはスペヤーがあって、これらが十分に減少を補うことができるという。
 それに脳の働きをつかさどるのは脳細胞の数よりも、むしろ、機能する細胞集団をつなぐために必要な神経回路の質と数とそれらの制御に必要な内分泌物質のバランスである。ICチップを無数に集めることよりも、それらをどのような回路でつなぐかということの方が問題である。高齢者に見られる、いわゆる、円熟、老成などと言われる、非短絡、総合、調和、慎重、丁寧、寛容、忍耐などの熟語で表現されている、冷静で客観的な能力は長年の経験に裏付けられて形成された頭脳の神経回路の集積によってもたらされるものであり、未経験の若い時期には、まだ十分に作られなかった神経構造なのである。
老練な高齢者はコーディネーターとして最適である。彼は若い頭脳が作り出した、独創的で、すぐれた成果を評価し、配置して、適当に、総合的に機能させることができる存在である。
 定年後の60台そこそこの、自称「高齢者」たちが、早々と老け込んで、引退を考えたり、引きこもりがちになるなど、全く馬鹿げたことである。今日では、本当は名誉教授は教授よりも学問的に、あるいは社会的にも、より貴重な存在であるといわねばならない。
 もっとも、頑固おやじというのも確かにいる。これは回路が余りにも短絡的に作られてしまった不幸な事例である。本人の高齢期までの生きざまが深く関係する事も認めねばならない。

6 高齢者が独特の身体機能、精神機能を維持するためには、そのために必要とするエネルギーと素材を供給する食生活がすぐれたものであることを必要とする。高齢者が不自然に身体、精神機能を喪失していく場合の、おもな原因は食生活の欠陥にあると思われる。
 高齢者の食生活の質的な水準を高く維持するための社会的な運動が必要である。またそのためには若い時期から、食生活のあり方を正しく理解して実践するための教育、学習が不可欠である。
 骨密度は20歳までに決定されるという。高齢者が寝たきり老人になる原因として問題にされている骨粗しょう症にならないためにも、食生活が決定的な意味を持つことを再認識しておきたい。

7 勿論、老年性痴呆、アルツハイマー症などは、まさしく避けがたい病気そのものであって、この場合には自然の摂理に従わねばならない。いや、やがてこうした病気も治癒する時代が来ようとしている、という。その時まで、長生きをしたいものである。

8 高齢者がすぐれた精神能力を維持していても、社会がそれを認めてくれない、あるいは身体能力が減退していくために、その実力を発揮できないままに、年齢を重ねていくことはさびしいことである。その「さびしさ」は精神能力そのものを、文字通り、「さび付かせ」て、本格的な老いを感じさせることになる。この点は、社会が、家族が,高齢化社会が到来するなかで、とりわけ、心せねばならない点である。
 高齢者の身体、精神能力に応じた仕事を分担させて、彼等に生き甲斐を与え、同時に彼等の存在が社会的に大きく貢献することができるようなシステムをつくり上げなければ、世界最高齢社会のわが国の将来は決して安定的であるということはできないであろう。  高齢者を余計者扱いしたり、やたらに生活や仕事の場から排除しようとするような傾向は、まことに愚かしいことだ、といわねばならない。

 私と家内は、縁あって中学生の孫と同居している。彼の今の時間と私たちの60年前の時間を対照することのできる立場にいる。私たちには、彼が体験できなかった時間経過のなかでの、歴史的な、社会的な事実を、人間的な摂理を、哀歓を伝えることができる。戦前のこと、戦中のこと、戦後のこと、とりわけ、この夏は、彼と原爆のこと、「聞けわだつみの声」について話し合うことができた。私たちの精神回路は間違いなく彼にとって学ぶべきものとして機能していることを実感した。これがまことの老年期のよろこびであると思う。彼の未来にとって、私たちの存在が必ず貴重なものとして評価されるであろうことを確信する。
 嫁いでいった2人の娘たちからは、特別に、敬老の日おめでとう、という電話もかからなかった。しかしこれも例年のことで、気にはならない。彼女らはしっかりと生きてくれている。便りがないのがよい便り、ということもある。
 以上が、私の、今年の、敬老の日の、ささやかな感想である。(完)


 
どちらが、より罪深い行為なのか(9月15日記載)


 最近の日本ハム事件にいたる、一連の食品不祥事について、各社のやったことのうち、何が、消費者にとって、もっとも許し難い行為であったか、を考えて見よう。むろん法的な有罪性の有無については別の問題である。
 現場担当者の一時の迷いから、つい犯してしまったという不正行為がある。たとえば、雪印食品、日本食品、日本フードの営業所で、所長や現場の担当者が牛肉の在庫を減らすために、輸入牛肉を国産と偽って箱詰めして、工業組合などを介して、国に買取を申請した。「他社もやっている、やるだろう」という思いから、彼らがつい間違った事をしてしまった、中には上層部の、指示や了解があったのではないか、という疑いが持たれている場合もある。もちろんこれは詐欺に当たる行為であって、許されることではない。
 しかし、雪印食品と同時期に、現場の所長らが同じことをしてしまったことを知った日本フードの親会社である日本ハムの専務たちは、その事実を6ヶ月間も隠蔽し続けた。しかも、この間、世論の十字砲火を浴びていた同業の雪印食品を批判するような発言をした。そして雪印食品がついに解体した後、売上を急速に伸ばした。罪の自覚はあった。事件が発覚したあと、専務は「震えるほどこわかった」と告白したという。
 日本ハムでは、そのうえ、専務たちが一旦申請した偽装牛肉を、日本ハム・ソーセージ工業協同組合の倉庫から、取り戻して、一切をなかったことにしようとした。協同組合は農水省の意向を伺ったが、さすがに農水省は検査が済むまで返還してはならない、と指示した。にもかかわらず工業協同組合は独断で牛肉を返還した。理事会での正式な決定であったかどうかも疑わしいという。この経緯は今後、司直によっておおいに解明してほしい点である。農水省の意向に反して、この業界でこれだけのことをすると言うのはやはり相当に異常である。工業協同組合の理事長が日本ハムの会長であり、社長の父であった、と言う点も疑惑を持たれても仕方がない点である。
 そして日本ハムは、工業協同組合の指示であるとして、取り戻した牛肉を直ちに焼却した。これでは証拠隠滅の疑いがかかって当然である。
 さて、以上のことから、雪印食品と日本ハムは、どちらのほうがより悪質であり、より罪深いのであろうか。消費者の率直な感性は、この点をどのように判断するのであろうか。

 次ぎに、添加物の事例をあげよう。
 ダスキンは、この5月に、記者会見で、01年11月30日に取引業者から指摘を受けて12月2日に中国の現地工場に社員が出張して、違法添加物TBHQの混入を確認し、同6日までに肉マン製造工場の生産を中止して、TBHQを含む植物油を別の製品に代え、工場の在庫分はすべて処分したと説明していた。
 ところが、同社は混入を確認してからも国内での肉マンの販売は継続した。また中国工場の停止前に製造した中国での在庫分の輸入も止められていなかったことが大阪府警生活経済課の調べでわかった、という。
 つまり、ダスキンは違法添加物が含まれている事を知りながら、在庫分がなくなるまで不法に、その肉マンを売り続けたのである。
 単に、違法添加物を含む食品を製造し、輸入しただけでなく、違法と知りつつこれを売り続けたというのは許しがたいことである。日本ハムと同様に、その事実を隠匿した。そのうえ違法の食品を売り尽して利益を上げようとした。消費者の安全や、法の規制を無視した態度は非常に罪深い。しかも、これだけのことをするのは現場担当者の仕業ではなく、会社幹部の指示である疑いが非常に濃厚である。

 もう一例は協和香料化学の場合である。違法とは知りながら、なんと30年間もアセトアルデヒド系の無認可添加物を混入した香料を製造、販売してきたという。お蔭で露見した後で多数の食品会社の商品が大量に廃棄処分されねばならなかった。この30年という長い年月の間、法を無視し続けて、消費者に違法食品を食べさせ続けてきた、というこの会社の体質は、他にも危険な違法行為がなかったのかどうかを疑わせる。不法行為を犯した、ということ以上に、長期間、意図的にそのことを隠して、不法行為をし続けたということの罪は大きい。

 ことは密告によって、あるいは予想もしなかった内部告発によって露見することが多かった。天網恢恢疎にして洩らさず、である。
 企業は、消費者を全く意識しないでするような商売のやりかたを変えねばならない。商品を買ってくれるのは消費者なのである。商品を、その商品を作るシステムを、そしてそのシステムを運営する人々のありかたを再点検せねばならない。そしてなによりも重要なのは、その企業を運営する経営者、幹部のモラルと責任を確立することである。
 「印綬を帯びる」人々の選出を誤ってはならない。(完)


「死者の数を秤る」論理は正しいか(9月14日記載)


―9・11同時多発テロ1周年に思う―


 アルカイダというテロ集団が、何の罪もない人々約3000人を瞬時に殺戮した。彼らの言う「正義」のために、大量殺人が実行された。一般市民に死者が出てもやむをえない、とテロリストたちは言うであろう。「テロは必要悪である。それがわれわれの命をかけた論理である」と。
 彼等の誤りは明白である。彼らは市民社会に対して最大の罪を犯した。
 自らが名指しした悪人たちを懲らしめるためには、何の罪もない人々(Innocent People:清浄無垢の人々)を道連れにして、死に追いやってもやむをえない、とする考え方が、今、全世界に急速に広がっている。勿論この考え方は以前からあった。それは、いわば戦争の論理そのものであった。
 アメリカは広島、長崎に原爆を落とした。当時のアメリカ政府は、最後に残った悪の枢軸国、日本を無条件降伏に追い込むためには、数十万の一般市民を殺戮してもやむをえない、という決定を下した。事実、アメリカ人の中には、原爆を落としたことについて、「たしかに50万人もの一般市民の死者を出したが、もしも、日本が無条件降伏を拒否したために、アメリカが日本本土上陸作戦を行っておれば、日米双方に数百万人の死者を出したであろう。だから原爆投下もやむをえなかった」という人々がいる。
 あの広島、長崎の地獄,惨劇はアメリカのいう「正義のために」許されるべきことだった、という。そればかりではない。アメリカによる焼夷弾等による無差別絨毯爆撃は、戦時であっても、明らかに国際法違反ではあったが、日本軍閥を打倒するためには、それもやむをえないことだったという。そして原爆や無差別爆撃による死者の数は、おそらく本土決戦の死者の数よりも少なかったであろう。つまり、死者の数を天秤にかけて、殺す手段や殺す規模を選ぼうとする、それはやむをえない、恕限度以内である、などと考えるのは正しいことだとする。私は、そのような考え方を「死者の数を秤る」論理と呼びたい。
 勿論アメリカばかりではない。幸いなことに、わが国の軍閥は、結果的にアメリカの一般市民をほとんど殺戮することはなかったが、勝つためになら、あの「鬼畜米英」に対して、この論理を適用しなかったはずがない。
 アフガニスタンの現地では、アメリカ軍のアルカイダ空爆作戦によって、ニューヨークのツイン・タワーでの、自爆テロによる死者数に匹敵する一般市民の犠牲者が出ていると聞く。しかしそのことは、自称、正義の国アメリカではほとんど問題にされない。9・11の敬虔な人々の黙祷は、本来、アメリカだけでなく、アフガニスタンで亡くなった何の罪もない一般市民のためにも捧げられるべきであった。
 アルカイダを殲滅するためなら、多少の一般市民の犠牲があってもやむをえない、という考え方は、イラクのフセイン政権を打倒するためには、多少のイラク国民の犠牲も覚悟の上である、という考え方にも通じる。
 「死者の数を秤る」という論理に従えば、たとえば、バクダッドに小型の戦術的原爆を投下して、フセインとその政権を一挙に消滅させる、たとえそのために50万人程度の一般市民の犠牲者が出たとしても、アメリカ軍の侵攻作戦によって、国が焦土と化して、イラクとアメリカ双方に数百万人の死者が出るよりはましだ、とする、日本への原爆投下の場合と全く同じ言い訳が通用する。アメリカ兵の死傷者数を最小にするためにも、相手を一挙に再起不能にしてしまうためにも、過去の日本での体験からすれば、原爆投下が一番効率的である。核保有国との交戦では、核の使用は慎重にならねばならないが、核をもたない国に対しては、投下はたった一回きりですむ。だから、小型の効果的な戦術核の使用を考慮するべきだ、あるいは、イラクが核を持たないうちにやってしまう必要がある、などという人が現れるかもしれない。
 宣戦布告もしていない時点で、自己の主張、立場を貫くために、何かをするときに、「死者の数を秤る」、すなわち、こちらの方が死者が多い、少ない、を計算して、殺す人数の少ない手段を選ぶ、と云うのは人間的な考え方であろうか。パールハーバーよりも、より正当なやりかたなのであろうか。私は、アメリカがそのような愚かな過ちを犯すとは思えない。死者の数を秤って行動するとは思いたくない。
 ブッシュ大統領は、アルカイダに対しては凶行への「報復」のために戦ったが,イラクに対しては、凶行への「予防」のために戦おう、という。
 放置しておけば、やがて、アメリカだけでなく、全世界がイラク、イランや北朝鮮の、大量殺戮兵器の犠牲になる、だから許せない、という。予断にもとづく、証拠が明らかでない時点での、予防のための宣戦布告を国際法ではどのように位置づけるのか。ブッシュ大統領は、アルカイダというテロ集団を敵にしたのであるが、今度はイラクという、国連に議席を持った主権国家に対して一方的に攻め込もうとしている。かって悪の枢軸国の一つと呼ばれたドイツは、共産主義の浸透を「予防」するために、当時のソ連に侵攻したのではなかったか。
 アメリカは、世界最強の大量殺戮兵器を持っている。しかし、アメリカは自らは正義の国だからなんの心配もない、いかなる国にも文句を言わせない、という前提に立っている。そこには、ブッシュは常に正しく、フセインは常に正しくない、という伏線がある。だから正義の戦のために、たとえ、市民に多少の死者が出てもやむをえない,と云うことになるのであろうか。
 アラブ系の人々は、逆にブッシュ大統領を悪魔と呼んでいる。憎しみの連鎖が人々の耐えがたいくびきとなって、殺戮という手段が、相互に、日常茶飯事のように選ばれる。強者には何でもできる。そこでは、より鋭利な武器を持つ者が有利になる。
 「死者の数を秤る」という悪魔の論理がはびこる。相互に正義を言い立てる両者が殺し合う。そして、殺人の前に道連れになる犠牲者の数を計算しておく。報復が報復を呼ぶ。アメリカはアラブ人たちにアメリカを正義の国と呼ばせるまで制裁を続けようと言うのだろうか。そのような暴力連鎖の世界をつくることが人類にとって本当に望ましいことだ、といえるはずがない。
 キリスト教であれ、ユダヤ教であれ、イスラム教であれ、そして仏教であれ、「死者の数を秤る」という問題をどのように考えているのであろうか。(完)


何故、私は生協を支持するのか(9月12日記載)


 私がこのHPに生協のことを書いた場合に、生協関係者以外の一般の方々のなかには、私が、なにか生協を特別視しているのではないか、という疑問をお持ちになる方がおありかもしれない。もっともなことである。
 そこで、ここでは、なぜ私が生協にこれほど肩入れするのか、その理由を明らかにしておきたいと思う。

   私は、民主的な社会では、消費者のニーズが正しく提起されて、一定の世論が形成され、それが企業を動かし、行政を、法律を、社会を変えて行くのだと考えている。たとえば食の安全問題などの場合がそうである。食品安全法の制定、食品衛生法の改正などはそのようにして、長い時間がかかったあげくに、ついに目的を達しようとしているのである
。  それでは消費者のニーズはどのようにして集約され、社会的に提起されるのか。
 生活現場でのプロである主婦たちが、あるいは母親、父親たちが毎日の食生活の中で、何を不満に思い、なにを不安だと考えているか、あるいは、どうあってほしいと考えているか、という、生活の原点に立脚した消費者のニーズ像が次第にクリアーになって行く。その過程で、地域のコミュニティーを形成する住民、消費者のあらゆる組織が、そのニーズ像を社会化するための重要な役割をはたすことになるだろう、。
 生協はこの場合に、特別に重い責任を負わされた住民、消費者の組織のひとつである。それはわが国の今日の生協が次のような位置付けにあるからである。

1 全国的な消費者の組織として、公称2000万人(全国人口の数分の一の相当する)の組合員を擁している。合意形成された場合の影響力が大きい。
2 全国のすべての都道府県に生協の組織がある。草の根的な活動を行っている。
3 世界的な協同組合組織とつながっている。
4 安全、平和、福祉、環境などの運動の実績がある。
5 教育、学習、運動機能を持つ消費者の組織である。
6 意識の高い消費者、組合員によって支えられている。
7 組合員一人一票制による、生協法に定められた民主的な運営を行っている。
8 現実の市場環境の中で、理想を追求しながら、よりよい商品を開拓するための苦労を日常的に経験している。事業と運動の両立を目指している。
9 地域社会での行政、企業などとの連携にも力を入れている。
10 政治的な中立が守られている。
11 愛と協同の精神的な連帯を大切にしている。
12 各生協には、相応の品質管理、検査機能が維持されている。

 実のところ、ここまで書いてきて、私は少しばかり気恥ずかしくなっている。それは以上のような生協の位置づけに関して、現実の生協のありようが、どうも、やや心もとなく感じてきたからである。
 所詮、SEIN(ある姿)とSOLLEN(あるべき姿)は違うものであって、何時の場合でも、現実のSEINは理想のSOLLENを目指すひとつの課程の姿にすぎないのかもしれない。
 ともあれ、今の日本で、国民、消費者の生活ニーズを社会的に提起するための現実的な媒体として、以上に示したような要件を備えた組織は現実に生協以外には見当たらないのではないか。
 確かに、生協のお店の外見はスーパーと全く同様である。しかしそのお店の2階、3階には調理室があり、学習室があり、そこに集まる組合員の子供たちのための保育室がある。生協の理事長は経営者ではない。年一度の総代会において選挙で選ばれる。だからせいぜい公務員並の給料をもらっている。生協では事業は行っているが、決して利益を追求しない。利潤を株主に還元する必要もない。商品の売上は事業と運動を通して完全に組合員に還元される仕組みになっている。生協は純粋に消費者、組合員の組織なのである。
私が何故、生協を支援するか、その理由がおわかりいただけたと思う。
 ただし、一言いっておかねばならない。私は決して手放しで生協を賛美しているのではない。生協も人間の組織なのである。不思議なことに、これほどの組織を、意識してか、しないでか、ひたすらスーパーマーケットと同じような事業体そのものにしてしまおうとする人々もいる。
 数年前に、関東のある生協が、これまで他のどこの生協もしなかった政策転換をやってのけた。一般スーパーと全く同じ、LAS系の合成洗剤を売り場に並べることになったのである。LAS系の合成洗剤は、生分解性が劣っていて、環境河川での残留実在濃度がすでに水生生物にとって好ましくない水準に達していることは、私たちがこれまで警告してきたところであった。そして生協の全国的な連合体である日生協も私たちの学説をいれて、LAS系洗剤を排除する方針を取っていた。にもかかわらず、この生協は、これを無視して、花王やライオン製品のLAS系の合成洗剤を組合員に供給することに踏み切ったのである。
 この当時の、この生協の広報誌には、その理由について、「組合員の望む商品こそが生協にとってベストの商品である。」と書かれていた。環境科学的な問題点は全く触れられていなかった。これは明らかに生協の論理ではない。今日のスーパーマーケットの論理と大差がない考え方である。聞くところによれば、理事会で方針を決めて組合員の賛成を得てきまったのだという。
 この件に関しては、もっと驚いたことがあった。
 私は、それまで合成洗剤の問題性について数冊の本を書いていたので、この生協の方針の誤りを科学的に指摘する論文を、ある研究会の会誌に投稿した。ところが、当時私が技術顧問をしていたある生協の常務理事がやってきて「あまり他の生協のことを批判しないでほしい」と釘をさされる一幕があったのである。
生協のSEINがSOLLENと非常に異なっていることを痛感しているのは、長年研究者として、冷静に、客観的に現実の生協を、つぶさに見つめることができた私自身なのである。
 その私が、なおかつ生協に期待をつなぐ。それは生協に期待するしかないからである。生協を非生協化する人々が生協を牛耳ることがないように、組合員の民主的な運営が生協のベーシック・バリュー(基礎的価値)をより高めて、例えば、今、まさに危機的な状態にある食生活の分野でも、新しい秩序を回復するために、生協が大きな役割を果たすことができるように、心から願っているからなのである。(完)


組合員は、なぜ生協を見捨てないのか(9月9日記載)


 もしも、出資金を支払って、何のメリットもなければ、生協の組合員になることはない。  ところで、生協に加入するメリットとはなんなのか。あらためて思いつくままにあげてみよう。

メリット1:
@ 共同購入や個人宅配が便利である
A 値段がリーズナブルである
B 品物が新鮮である
C 商品の品質が信頼できる
D 農薬の汚染が少ない
E 添加物にも配慮している
F 職員の応対が気持ちよい
G 店舗が清潔である
 普通の場合は以上である。しかし、中には以下のようなメリットを、きちんと上げる人もある。これは本物である。

メリット2:
@ 大切な生活情報が提供される
A 教育と学習の機会が用意されている
B 組合員の意見が商品やサービスに反映される
C 組合員を主人公として、民主的な運営が行なわれる
D 組合員の総意を世論に反映するための運動を行なっている
E 全国にたくさんの仲間がいる
F 人間関係が明るく、楽しく、信頼できる
 しかし、はたして、これは現実の生協が組合員に約束しているメリットといえるのかどうか。

 ところで、80年代の事であった。カリフォルニア大のバークレイ校のある教授を訪ねたとき、丁度、町中に、取り壊し中の建物があった。その前にあったグロッサリーの主人に,聞いてみたところ、「あれは破産したバークレイ生協のお店だ」と言う答えが帰ってきた。意識の高い住民たちが住む大学町のバークレイ生協は我が国でも、戦後のひところはたいへん注目されていた。その生協が破産したいきさつは私も聞いてはいたが、目の前にブルド−ザーでこわされていく、かっての、栄光在りし日の、生協の建物を見せられた時には、やはり感無量であった。このグロッサリーには無農薬野菜が売られていたので、主人に「生協の店でもこのような無農薬、無添加の食材を置いていたのか」と聞いてみたが、意外にもその答えは「ノー」であった。
 バークレー生協の末期のことは、訳書になって読まれていたが、生協とは全く関係のない、練達のビジネスマンを専務理事に迎えて起死回生の采配をとらせたという。しかし、 まもなく見事に破産してしまったのであった。
 要するに、私が言いたいのは、上記のメリット2を大切にしない生協は、普通の、特徴のない一般商店と同じであって、メリット1と同様のことを実現しつつある最近の大型小売店、スーパーマーケットなどに、とうてい太刀打ちする事は出来ない、ということである。今は資本主義の時代であり、大資本の力で、そして全国チェーンのスケールメリットを活かして、たいていの事が出来るようになっているのである。
 いや、最近の中小企業もメリット1では非常に努力していて、生協との較差は次第になくなってきている。早々と店を閉める生協のお店よりは、一晩中明るいコンビニのほうが便利で人気があるのである。
 それでも、巨大スーパーの真横にある小さなコープのお店がつぶれずに健闘しているのは、なぜなのか。その理由は明らかである。それは組合員にとって、その生協のお店が離れ難い魅力を持っているからである。魅力こそがメリットなのである。それは上記のメリット2がメリット1を支えて、組合員を協同の輪でしっかりとつないでいるからである。  結論は明らかである。メリット2を軽視しているような生協はいつか、かっては世界的な名門であったバークレイ生協と同じ運命をたどるだろう。不況だから、赤字がこわいから、健全会計をまもるために、ということで、教育、学習予算は圧縮、運動経費は減額、検査室の人員や設備は体裁だけのもの、そのような生協が魅力的であるはずがない。長続きするはずがない。
 苦しい時だからこそ、力を振り絞って、メリット2に全力集中する。そのことがメリット1をいっそう特徴付けて、組合員の認めるところとなる.協同の輪がその魅力をつなぐ、そのような、「惹きつけるもの」を持った、「ハートのある」特徴ある経営こそが、自分たちの、かけがいのない生協の存続と発展を確かに約束するのではなかろうか。
 私がこれまで強調してきた、生協での食生活改善運動の取組みは、まさしく、メリット1で生協に追いついてきた、大手スーパーなどであっても、それらが全く太刀打ちできない、生協独自の、メリット2を生かした取組みの一つなのである。糖尿病や生活習慣病、肥満、高血圧、心臓病などが注目される、高齢化社会の中での食生活改善の取組みは、組合員のニーズを重視する生協の、メリット2がメリット1と一体化した特徴的な取組みとなるのである。それは事業と運動の両立を可能とする。生協の経営的な可能性を大きく開く、すぐれた取組みでもあるだろう。
 メリットが何もないと気づいた時に、組合員たちはやめていく。便利なだけなら、品質管理のゆきとどいた近所のコンビニで結構である。
 「生協もスーパーもおんなじことだ」というムードが漂い出したら、もうおしまいである。この評論をお読みいただいたあなたが、もしも生協の関係者であられたら、どうか、この文章をコピーして理事さんたちにお見せしてほしい。そして御一緒に考えて見てほしい。
 いのちと暮しを守る生協への期待を裏切ってはならない。(完)


内部告発時代への幕開けにどう備えるか(9月6日記載)


 このところ、食品業界だけでなく、わが国の大企業で多数発生している不祥事は、そのほとんどが内部告発によって、あるいは、社内事情を知る人々による密告によって露見している。内部告発や密告がわが国のあらゆる分野で、一般化していくことについて、企業は勿論の事、行政や検察、法曹などでも、しっかりした考察と対応を必要とする時代になったことは明らかである。

1 内部告発は奨励されるべきなのか
 社員がその組織の一員として、その事業に深く関与しているときに、上司や同僚と意見を異にする場合があるのは当然のことである。この場合、その社員が、その事業の責任者に対して、自己の見解を開陳して、方針の変更を迫るというルールに即した過程を通らないで、外部に対していきなり内部事情を暴露して告発をおこなったとすれば、その行為はフェヤーであるとはいえない。しかし、その事業が甚だしく社会通念に反し、あるいは違法な行為であった場合には、その社員の行為が本質的にアンフェヤーであり、上司や同僚に対する裏切りであったとしても、その内部告発行為の社会的な意義は重大であるとせねばならない。
 内部告発行為を認めるのは正しいが、推奨するのは誤りである。何故なら、会社幹部は告発に値するような不正事実が社内に存在する事を前提としてはならないからである。
 告発された内容も真実であるとは限らない。むしろ告発者のほうが異常であって、個人的な恨み、不満、ねたみなどが入り混じった、感情的な伏線があって、理非曲直が正しく判断されているとは限らない。誤解や過信と言う事もある。したがって告発を受けた側でも、慎重な対応を必要とする。まして匿名でなされた密告や内部告発の場合には、マスコミであれ、行政側であれ、軽軽に対処する事は許されない。場合によってはプライバシーの侵害というようないっそう不当な事態を引き起こす事がある。
 社内に目安箱的な、自由な意見を受理するためのボックスを作る、あるいは、社長あての、S(シークレット告発)便マークをつけた郵送システム(ただし、@記名のうえ、呼び出しに応じる、調査に協力する、A社の内外に対してプライバシーを保証する、以上の2点を約束した上で)、を用意するのも一つの方法であろう。

  2 自由な意見の交流が可能な環境作りを
 職場のなかに、自由に意見が言える人間関係があれば、内部告発は不必要になる。同時に、意見具申を受け入れることのできる窓口が用意されているかどうかが問われる。未だに家族主義的な人間関係を引きずっている社内環境に安住していて、上司が部下を管理するという序列主義がはびこっているようでは、外部への告発、密告が起こりやすくなるだろう。裏表のない、事実に即した、風通しの良い事業の推進が徹底していることが必要である。

3 社外秘をどう位置付けるか
 企業秘密という、他社との競合に打克つための政策や事業の計画などは暴露されてはならない。社員には守秘義務があることも認識していなければならない。どの会社にも社外秘という書類がある。組織人の一員として社外秘を守ることは当然である。ただし問題は、その書類に書かれている内容が、著しく反社会的であり、公序良俗に反するものであり、違法、不正であり、その事業の推進、展開を早急に阻止する必要があると判断される場合をどうするか、である。
 本来は前項同様な社内的な意見具申の方法があることが望ましいが、現実に方策が存在せず、内容と状況次第では内部告発が行われてもやむをえない場合があることを認めねばならない。内部告発者の告発までの苦悩を理解せねばならない。

4 企業経営者の責任が問われる
 内部告発が企業にとって望ましいはずがない。内部告発を阻止することはつぎの要件を遵守することによって可能である。

(1) 経営者が不法行為と判断されるような事業を行わない。
(2) 風通しのよい社内の人間関係を構築する。自由な意見の具申が可能なようにする。
(3) 情報公開が可能なような環境がつくられている。
(4) 上司が部内のあらゆる事業の詳細を承知している。
 最近の内部告発事例は、すべて、上記の要件に反した事によって、発生している。

5 他社の事態から学べ
 不祥事が内部告発によって露顕した後、社内に調査委員会、倫理委員会、内部告発受理システムなどを設置した企業は、最近、すでに10指に余るほどになっている。また不祥事は起こしていないが、この機会に、社内の綱紀を引き締めるために、あるいは非常事態を予防するために、社内的な新規な仕組みを構築あるいは検討している企業も数多くあることだろう。特に同業の他社が問題を起こして世論の非難の的になっているような場合には、ほとんどの企業が急遽、予防的な仕組みを構築するために懸命になっているものと思われる。今後この点についての行政や報道各社による調査が仔細に行なわれる事が望まれる。
 これからは内部告発が多発する。これに備えようとしない企業は危険である。社内に何らかの対策委員会を設置して、関連他社の情報を収集し、学識経験者の見解に学んで、悲劇的な事態が発生しないように準備せねばならない。

6 企業は不正行為を隠さなければやっていけないのか
 商売は、いかにうまく顧客から利益を吸い上げるか、で勝負がきまる、と言う人があるかもしれない。2%の利益を5%に上げるテクニクウが重要だと言う考え方もあるだろう。しかし、偽装、欺瞞の不公正なし方は、たとえ違法でなくても必ず馬脚を現して、長続きすることはない。たとえば、効果、効能の明らかでない医薬品や、健康食品を売りつける事は最大の不公正に相当する.そのような商品は間もなく消滅する。どんなに宣伝手段を講じても消費者をだましおおせることはできない。合法的に、適性な利潤幅を確保して、生産者として、あるいは販売者として、社会的に意義のある役務や商品を取り扱う事によってのみ、市場に公正に参加することができるのである。不正行為を隠さなければやっていけないような企業は存在を許されない。内部告発が必要でないような企業であるために、平素から何をする事が必要であるかを経営者は常々考えていなければならない。
 雪印食品、日本食品、日本ハムは2つの失敗をした。その一つは社内に歴然とした不正行為があった、と言うことであり、もうひとつはその不正行為を放置して、内部告発や密告の格好の対象にしてしまったことである。これは明らかに企業幹部の管理上のありかたに甘さがあったためである、というべきであろう。

7 企業倫理再点検委員会を早急に設置せよ
 この機会に、企業内に、企業倫理について再点検を行う委員会を設けるべきである。
 企業の経営者は自社のあらゆる事業について、その細部についてまで、内部告発や密告の対象となる部分がないかどうかを、再点検するべきである。このさい、違法行為だけでなく、企業倫理に反するもの。社会通念にあわないものなどをすべて洗い出さねばならない。この委員会の最高責任者は社長である。再点検委員会のあり方は社運を決定するほど重要である。
 再点検に引き続いて企業倫理再構築委員会を設けて対応に当たるべきである。
労働組合や株主代表もこの委員会の準備段階から重要なメンバーとして参加するべきである。

8 各種の調査、点検、再構築委員会の様式がある。
 関西電力では東京電力での原発事故かくしの教訓から、原子力発電所自主点検調査委員会を設置した。さらに第三者に同委員会の活動を評価してもらうために、学識経験者による「自主点検調査プロセス監査顧問会」を近く設けることになった。これは関電が東電の事故かくしが、たまたまGEから派遣されてきたアメリカ人技術者の内部告発によって露見して、大きな社会問題に発展した教訓を踏まえたものである。
 倫理、調査、点検、モラル再構築委員会の様式はさまざまに考えられるが、社内のトップの参加はもちろんのこと、社内の労組、女性職員の代表など、社外の株主、有識者や消費者代表、学識経験者の参加などが考慮されねばならない。関電のように、社内と社外を区分する様式もあれば、社の内外をガラス張りに一体化した様式もある。いずれにしても、ここで知りえた事実に関しては委員長の責任で公表される、といった守秘義務を設けるかどうか、という困難な問題にもとりくまねばならないだろう。

9 第三者による内部告発受理機関の設置
 行政が内部告発受理システムを設定して、自由に情報を収集する事も考えられる.たとえば最近、発足する事が予定されている食品安全庁に窓口を置くことも一案である。
 また第3者の組織として、各地の弁護士会などに、内部告発受機関を設置する事も望ましい。最近一部の地方でそのような動きがあるといわれるが、注目すべきことである。

10 内部告発者の保護について
 内部告発者を異端者扱いにすることには問題がある。政府も現在内部告発者の保護に関する法律を準備中であるといわれているが、各企業の内部においても、たとえば、差別的、懲罰的な処遇が行われないように、独自の社内規定を設けるべきである。内部告発があったことによって、安全確保の体制が整い、より大きな事故を防止することが可能になった、と考えることができる。事実、東電などの原発での、小規模な事故や配管の修理トラブル等が放置されていたならば、もはや収拾のつかないような大規模な事故をいずれ引き起こすことになったかもしれない。その意味では、今回の内部告発は東電にとって、まことに感謝すべきことであった、といえるだろう。食品関連の企業の場合にも同じことが言える。たとえば、食品製造現場の衛生管理上の欠陥が放置されていることについて内部告発した社員は、そのままでは、いずれ、より大きな食中毒事故が発生して、会社が壊滅的な打撃を受けることを、未然に防止することに寄与した、ということかも知れない。それは、むしろ表彰に値する行為であった、ということさえできるのである。

11 これからは内部告発者が続出する
 我が国特有の社内家族主義はすでに崩壊している。実績が振るわなければ経営者は手っ取り早く、リストラで対処しようとする。年功序列主義はすでに放棄されている。解雇された社員が会社に対して忠誠心を持ち続けているとは限らない。社内的な人事、給与上の不公平もある。創業者一族経営、縁故者優遇という不満もある。こうした場合に、社内的な不条理、不平、不満が内部告発や密告という形をとって噴出する可能性が大きくなっている。加えてマスコミが敏感に対応して、内部告発情報を収集しようとする。
 企業に対する指導、監督機能をもはや放棄したように見える今日の行政では、内部告発行為によって企業の問題点がクローズアップすることを期待しているかのように見える。行政は自らの非力、怠慢を棚に上げて、ひたすら、企業側に発生する内部告発待ちに徹しようとしているかに見える。情けないことだが、農水省や厚生労働省の最近のあり様はまさしく、各企業での内部告発に端を発して展開した不祥事態に即して対処しているとしかいいようがない。
 マスコミも敏感になっている。鋭敏にならざるを得ない世相なのである。いずれにしても、これからは内部告発や密告が当たり前の事になる。

 あなたの会社は大丈夫か。再点検は済んでいるか。準備は万全だろうか。(完)


有機表示の大豆などの3割に遺伝子組換え大豆を検出(9月4日記載)


 農水省と独立行政法人農林水産消費技術センターが行なった検査の結果では、「有機大豆100%使用」などと表示された豆腐と納豆などのうち計80品目を抽出して遺伝子検査を行なったところ、うち約3割に当たる25品目から遺伝子組換え(GMO)大豆が検出された。
 日本農林規格(JAS)では、有機農産物を「組換えDNA技術を使って生産されたものでないこと」と規定しているので、上記の製品は表示違反に当たる事になる。

   以下にこの事件の問題点を示す。
1 この問題も最近の表示違反、偽装表示問題の一種であると言える。

2 大豆がアメリカからの輸入に完全に依存している以上、このような結果になることは予想されたとおりであった。

3 関係業者は,有機100%などと表示する前に、実際に原料大豆が有機農産物であるかどうかの検査を受けておくべきであった。

4 今年の6月に岡山県の豆腐製造業者が有機でない大豆を使用しながら、有機表示をしていたことがきっかけで、この検査は行なわれたが、行政側が適時に定期的な市場調査を行なっておれば、ここまでひどい結果にはならなかったであろう。
 この調査の結果は行政側がGMO表示についての日常的、定期的な市場調査を行なっていなかった事の証明でもあるということができる。

5 大豆以外の作物を原料とする製品でもGMOの混入があるかどうかの調査が必要である。

6 GMOの表示に関する00年6月の局長通達では、製造者が意図しなくても、製造や流通の過程で,GMO原材料が全体の5%まで混入する事が認められているが、この事と表示は別問題である事が理解されていなかった可能性がある。

7 EUではGMOが1%以下である事が混入の限度であるとされているので、我が国でも、5%以下と言う混入限界を、今日の技術で検出可能といわれる〇,1%以下と改めるべきである。この措置は原料の選別を厳格、慎重にする事に役立つために、違法表示を防止する上でも、一定の好ましい影響を与えるものと思われる。

8 消費者は行政当局に対して、一連の偽装表示、違法表示の事態が大きな社会的な問題となっている今日、GMO関連でも今回のような事態が発生したことを重視して、再発防止のために、行政側が、安易な通達の連発によらず、実質的な体制整備、組織強化などの具体的な措置を講じる事によって、抜本的な対策を強化するように、強く要請しなければならない。

 私が日生協の職員と同行して、80年代に、ワシントンのUSDA(農務省)を訪問したときに、応対してくれた女性の係官は非常に神経質になっていた。それは当時アメリカ政府はGMOは通常の作物と全く同様であるから、オーガニック(有機農産物)の範疇に加えるべきであると言う見解を公表していた。そのために、アメリカ国内はもちろん世界各国の消費者団体などから、USDAは激しい批判をうけていた。来訪した私たちも、おそらく批判的な意見を持ち込むのではないか、とみていたのだと思う。
 そしてその翌年,USDAはついに、「GMOを有機農産物から除外する」という決定を下した。これは画期的な出来事であった。というのは、それまでの、GMOの、一般作物との「実質的同等性」という、アメリカ政府、そして日本政府が固執してきた考え方がこの決定によって無残に崩壊したからであった。
 私自身、その前後に、何冊かの、遺伝子組換え作物に関する著作を上梓していたが、そのなかで、当時のGMO関連企業や、これに近い開発側の研究者たちの「実質的同等性」理論を強く批判していた。それはGMO問題の核心に迫る部分であったからである。USDAの決定は、ついにこの問題に決着がついた、ということだった。私は当時、TVなどで私たちと向かい合って論争した政府の役人や開発側の研究者たちが、今、どのような感想をお持ちになっているのか、お聞きしたいと思っている。
 GMOの混入は好ましい事ではない。それは、一般作物とは「実質的に非同等」であるからである。単なる表示違反と言う以上に、そのようなGMO大豆が混入していることには問題があるからである。GMOの持つ「生物化学的、食品衛生学的、環境科学的」な問題性が未解決であって、「実質的に同等」と言う判断には達していないからである。その事をしっかりとわきまえて今回のGMOの混入、表示違反事件を、重大、深刻に捉えなければならない。(完)


生協の中にいる栄養士さんたちに呼びかける(9月3日記載)

−生協の食生活改善運動を活性化するために−


 これからの生協運動にとって、ダイエットや生活習慣病の克服などの、今日的な重要課題の一つである食生活改善運動の活性化が必要であることの理由、その他については、このHPの「時事評論の広場」の、7月28日、8月4日、8月11日、8月16日、8月17日、8月19日、8圧24日の各評論で明らかにしたところであるので、ここには再掲しない。
 この評論では、生協の組織内に、どの様に、具体的に食生活改善運動を実現するのか、その方法論の一端を示そうと思う。

1 各生協の職員で栄養士あるいは管理栄養士の資格を持った職員をリストアップする。中心となるキイパーソンを指名する。

2 各生協の役員、理事、委員および組合員の中心メンバーと組合員全体の中で栄養士、管理栄養士の資格保持者をリストアップする。

3 関連して、行政の食生活改善普及員の履歴を持つ組合員および調理師の有資格者をリストアップする。

4 関連して、組合員の料理研究会、栄養調理講習会などへの参加希望者をリストアップする。

5 上記のリストに基づき、各生協に食生活改善委員会を設置する。関東、関西などの各地区での食生活改善協議会を設置する。日生協に、食生活改善全国委員会を設置する。

6 上記の各委員会レベルで、食生活改善運動をどの