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カネミ油症事件最高裁最終弁論での最終傍聴座席券。事件は和解での終息にむかう。



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(10月19日)感謝

 藤原朝子が今年度の厚生労働大臣賞を授与されることになった。栄養保健指導者としての労をねぎらうためだという。彼女が管理栄養士として一筋の道を歩むことが出来たことに感謝する。


(7月7日)再び軽率、粗雑な言動を排す
―反米マスコミと非国民との関係を問うー


 小泉首相はサミットの席上で、イラクでの多国籍軍参加をブッシュ大統領に約束した。憲法解釈にも関わることを国会の論議にもかけないで、独断で国際的に宣言するようなことは軽率である、と批判した報道機関(批判記事を書いたのは毎日新聞や朝日新聞などであった。)を、小泉首相は「反米マスコミ」と呼んで、大略つぎのように非難している。
「直前に国連での全会一致での多国籍軍設置に関する採択があった。イラクの大統領からも自衛隊の派遣が非常にイラクでは喜ばれている、と言われた。こうした状況の中で、どうして日本に帰ってから協議のうえで参加の是非を決めたいと思います、などといえるだろうか、参加する、と言ったのは国際社会の一員である日本の首相として当然のことなんです。批判されるのはおかしい。」
 小泉首相のこのような発言は以下の点で誤っている。

1 一国の首相といえども、あるいは首相であればこそ、民主的な法治国としての手続きを大切にせねばならない。現実に国民の半数以上が多国籍軍への自衛隊の参加に疑問を呈している。そのような国論を二分するような重要な課題を首相の一存で国際公約するような軽率な行為が民主国家において許されるはずがない。

2 国連の決議がどうあろうと、イラクの大統領がどういおうと、そのような状況があったから参加を約束せざるを得なかった、というのは余りにも見えすいた、いいわけそのものである。サミットの場にいたフランスの大統領やドイツの首相は、そして小泉首相以外のメンバーは多国籍軍への参加については何も発言しなかった。この種の問題については一国を代表する当事者として極めて慎重であったのである。

3 サミットの場では、小泉首相はブッシュ大統領に対して、イラク戦争にかかわる「アメリカの大義」を賞讃してみせたという。この戦争が国際的に、そしてアメリカの国内的な世論の中でも深刻な対立を招いており、論議を呼んでいるというのに、さらに日本国内でも批判的な意見が高まっていると言う中で、一国の首相の言動として余りにも適正さを欠いていたというべきである。

4 イラク戦争に反対し、自衛隊の派遣を認めないマスコミを反米と呼ぶのなら、イラク戦争に批判的な国民の約半数のアメリカ人は反米的なのであろうか。我が国の民主党をはじめとする野党はすべて反米的なのであろうか。
 イラク戦争に反対し、自衛隊の派遣に反対するのは,日本の国益のためであり、アメリカが世界から尊敬される民主国家としてあり続けることを願っているからでもある。親友であるからこそ苦言を呈する、そのような信頼関係こそが本物の友情を育むのである。簡単に「反米マスコミ」などと言う、その発言の軽さをまたしても目の当たりにして残念である。

5 政府のやり方に反対し、政権を批判するものに勝手なレッテルを張り付ける事例は、つい最近にもあった。拉致されたNGOやマスコミ関係者が無事帰還したときに、自民党の領袖の一人は、彼等がイラク戦争に反対であることをとらえて、「反日的分子だ」と言った。「政府に迷惑をかけた」、とも言った。拉致されたのは「自己責任だから救出費用や帰日の航空運賃を支払え」,などと言った。
 太平洋戦争当時、政府や軍部に対して批判的であることは許されなかった。今の若者たちには信じられないことであろうが、丸刈り頭にしなければ「非国民」というレッテルが貼られた。日本という国を愛すればこそ、肯定的、否定的な両論があるのである。

 一国の首相の言動は一国の命運を、ひいては国民の生命、財産を左右する。イラクで自衛隊が攻撃されるような事態が発生したときに、どのように対処するかは独自の憲法を持つ我が国として特別に重要な問題である。「非戦闘地域での、平和活動への参加」についての一方的な思い込みは、サマワの自衛隊の基地に数発のロケット砲弾が打ち込まれればたちまち雲散霧消する。国会で、そのような事態が発生した場合にどうするのかを問われても、小泉首相は「そのような事態がおこらないように全力をつくす」としか言わない。それでは自衛隊員に対しても余りにも無責任なのではないか。
 小泉首相を批判すれば、反米マスコミなどと言われる。そのような薄っぺらな国にはしたくない。政府に反対すれば反日的分子となり,非国民とされる、そのような社会にはしたくない。現行憲法は言論の自由が手厚く保護された民主的な国家であることを目指しているのである。(完)


(6月29日)選挙報道に求める


 最近、自民党のある領袖は「一部の民放は(民主党への)投票誘導を行っている」と述べたそうだ。(朝日新聞6月23日記事)
 公正な報道とは何か。この問題は重大であり、このHP上で安直に取り扱うことが出来るようなテーマであるとは思えない。したがってこのような自民党関係者の発言の当否についてはあえて問わないことにする。  しかし、一国の命運を決める上で、選挙報道は非常に重要な意味を持っている。それは実際上、世論の動向を左右して、国民の与野党選択へのキャスティングボートを握っているといっても差し支えないからである。したがって、この際。選挙報道について若干の私見を述べておくことにする。  今回の参議院選挙で、争点となりうる課題は、周知のとおり、以下のように山積している。
@ 年金
A 少子高齢化
B 多国籍軍参加
C 北朝鮮6カ国協議と拉致
D 安全保障
E 教育
F 福祉
G 憲法改正
H 構造改革のあり方
I 景気回復
J 政治姿勢
K 与野党の公約達成度の評価
L 与野党の政権担当能力の評価
M 小数政党の存在意義
N 投票率の低下傾向

 そして忘れてはならないのは、この選挙以後、向う3年間は目立った選挙がなくこの間、国政が多数党の支配下におかれるということである。今回の年金法の採決のように、いかなる事情であれ多数党による強行採決が可能になるということである。
国民は投票に当たってマスコミの報道を意思決定のための重要な拠り所にする。したがってマスコミには以上のような課題についての周到で公正な報道を行なうことが求められる。そのためには以下のようなありかたが要求されるだろう。

@ 真実を知らせねばならない。
 たった一つしかない真実、実態を徹底的に突き止めて、ありのままに記事にせねばならない。放映するべきである。報道主体の政治姿勢の相違は認めねばならないが、国民の前に、その真実、実態がどの政党、勢力にとって有利であるか不利であるかを意識した意図的、作為的な記事を提供してはならない。また報道主体が事実の隠匿を図ったり、事実の周知徹底を自己規制するような態度をとることは許されない。報道機関は政党の機関紙ではない。
以上に示した各課題に関するマスコミ各社の報道は残念なことに、なお極めて不完全である。投票に際して、国民に正しい選択を可能にする水準のものとは思われない。
A 重要な課題の所在を見失ってはならない。
 ここでは、Nの投票率の低下の問題について示そう。
民主主義の根幹をつくる選挙制度では、投票行動が最も重要な意味を持つ。ところが最近、我が国では、中央、地方の選挙での投票率の低下が目立つようになってきた。投票率30%台の地域があるなかでの国政選挙の勝利者が政治を担うというような事態では、優れた国策の推進が期待できるとは限らない。投票率をどのようにしてあげるか。民主主義社会では民意をどのように選挙結果に反映させるかが最重要課題であるにもかかわらず、我が国では投票率の低下をどう食い止めるのか、というような課題は余り取り上げられる気配が見られない。
 たとえば世論調査によると、年金問題では7割から8割もの人々が今回国会で可決された法案に反対であると答えているが、その意志を投票行動によって示さない棄権者が多いなかで、現在の与党が勝利すれば、この法案は信任されたということになる。そして当然のこととして欠陥法が施行されることになる。それではやがて数年後には年金問題が行き詰まることは目に見えている。投票率が低いほど、戦前のナチズムのような狂信的な政治集団が権力を握りやすい状況が出現することに留意しておかねばならない。
私は、今日のマスコミが投票行動のあり方や投票率の向上に絞った報道について余り熱心でないことは問題であると思う。以上の各テーマの中での最重要課題として位置づけることが望ましい。
B 事実に関する解説は一方的であってはならない。
 真実はひとつであるとしても、その事実の持つ意義、経緯、将来展望などについての解説は自由に行われることが望ましい。しかし、自説とは別個の考え方があることを無視してはならない。
与野党にとっての有利、不利はあっても、真実はひとつ、言うべきことは言わねばならない。年金法案に無理があることを報道するのは野党への選挙誘導ではない。問題があることをあえて示さないことこそ選挙誘導である。成立した年金法の当面の存在理由を言うのは自由であるが、それを「百年安心法案」などというのはいかにも誇張である。
冒頭に示した自民党のある領袖のいう民放とはどこのことかは知らないが、それではNHKの報道については自民党は満足しているというのであろうか。国によって予算、決算を監督されているなかでのNHKの公共報道機関としての責務は非常に重い。誰かが「NHKは情報の収集には熱心だが、自前の論評には不熱心である」といったが、公共放送であるとしても、自己規制することによって真実を語ろうとしないのは国民に対する重大な背信行為であることを肝に銘じていてほしい。時の権力にひたすら順応して、国家の右傾化を容認し、ひいては大本営発表しか報道しなかった既往の過ちを二度と繰り返してほしくない。NHKの影響力は非常に大きい。厳正中立、不偏不党であるためには、時には権力との厳しい戦いを覚悟することも必要であろう。
報道機関自体の報道構成のあり方についての内部討論が不完全なまま、惰性的に選挙報道が行なわれることは許されない。
C 課題の重要性についての序列を誤ってはならない。
 現時点において、何が最重要課題であるかについては、毎日、毎時のニュース番組でもマスコミの内部で相当に論議されているものと思われる。どのようなニュースが優先的に知らされねばならないか。記事としての大きさや放送する時間の長さをどうするか、についても十分に配慮されていなければならない。
例えば、年金問題に関する意識調査の結果は各政党の利害と深く関係するというような判断があるとしても、何よりも優先的に取り上げられねばならない。多国籍軍への参加問題でも、小泉首相が国会での論議抜きで、参加を独断で表明したという、一国の命運に関わる重大な事実についても深くは触れようとしないような報道があったとすれば問題である。拉致問題でも、帰ってきた5人とその家族のその後については丹念に触れていても、未帰還の10人についての北朝鮮や政府の対応については余り触れようとはしない報道のあり方には問題があるだろう。
D 人格、モラルについての批判、攻撃をどうするか。
 最近、田中真紀子前外務大臣は小泉首相の人格像を手ひどく批判した。「私は前回の選挙では小泉さんを全面的に支持しましたが(事実、小泉首相が総裁、首相になれたのは田中真紀子議員の支援があったからだ、と言うのは定評である。)その後の彼のやり方を見ていると、これは間違っていた、と今では非常に後悔しています」そしてそのあとで、ここでは書きたくないような、手ひどい小泉首相に対する人格批評の言葉を口にした。このニュースは一部のマスコミでしか報道されなかったが、選挙期間においては特定の人物のモラルや人格に対する攻撃を正面にすえるような報道は自制するべきだと思う。ネガティブキャンペーンに左右されるような政治は本物ではない、個人攻撃の連鎖は政治の本質本題を棚上げしてしまうからである。。
勤務実体がなかったのに、国民年金の掛け金を支払ってもらっていたという若い時代の問題について、国会で問い詰められた小泉首相は「人生いろいろ、会社もいろいろ、社員のいろいろ」と言い切った。そしてその後も、あくまでも非難されるいわれがないと開き直っている。この事実を事実として報道するのはよいだろう。しかし、それ以上にマスコミとして踏み込む必要はない。首相の性格、人格についてどう受け取るかは国民の一人一人の判断に委ねたほうがよいのだと思う。
サミットの場で、唐突に多国籍軍への参加を言明した行為についても、その事実とこの問題の持つ意味を報道することは正しいが、首相の性格、人格批判にまでは踏み込まないほうがよいと思う。本論を抜きにした、ゴシップまみれの選挙戦など百害あって一利がない。国民年金加入、未加入問題で揺れて、本格的な論戦を怠った年金国会については与野党ともに責任を負わねばならない。
E 小政党を無視してはならない。
 2大政党がすべてではない。国会での論戦を充実したものにするために、2大政党以外の小政党が健闘することが必要である。最近の報道では,2大政党のいずれを選ぶか、に偏向した論調が多いように思われる。しかし、それ以外の小政党が主張している論点にも国家の将来的な命運に関わる重要な指摘が見られることに留意せねばならない。
たとえば、憲法問題を忘れてはならない。この問題が21世紀の我が国の命運に深く関わっていることを報道機関はもっと周知、強調する必要があるのではなかろうか。改憲、創憲、加憲で2大政党が憲法を変えることを主張している中で、護憲をいう政党の主張も正しく聞かねばならない。
F どのような国家像を選ぶのか
 冒頭に示した多数の課題は基本的に私たちが選択しようとしている社会の仕組みやあり方と深く関わっている。その意味では、アメリカ流の個人主義社会、北欧型の福祉優先社会のいずれでもない、我が国が目指そうとする21世紀における独自の国家像を国民合意の下に確立せねばならない。今回の選挙ではそうした基本的なテーマについても与野党間での論争が行なわれるように提言するべきである。
 E項目の教育問題に関して言えば、経済的な余力のある家庭の子女だけが進学塾に行けて、有名大学に合格し、やがて卒業して、有名企業に就職する。そしてやがて時代の金権力の分け前にあづかるようになる。そのような構図が教育分野に定着していないであろうか。国会議員の世襲化という我が国特有の現象を放置していても良いのであろうか。
G 世論調査をくり返し行え
 成熟、未成熟を問わず、民意の現実的な大勢を示すことが出来るのは世論調査である。昨夜発表されたテレビ朝日の調査では、年金法については約7割が反対、多国籍軍参加には約6割が反対で、いずれも賛成を圧倒的に上回っていたが、他方で自民党支持率は前回選挙告示前の調査よりも約10%も増加していた。民主党の支持率はあがっていなかった。これが世論の現実である。いざ投票となると、自民党しか信頼できない、自民の政策の誤りは与野党間で補正してほしい、日本の政治はやはり自民党に委ねたい、と言うのが現時点での民意の真情であるらしい。野党はこのような調査結果をどう見るか。選挙民の意識が遅れているのか、野党がだらしないのか。
 世論調査では設問のあり方が結果に大きく影響する。その点を勘案しながら、有力各マスコミの各地域、全国的な世論調査の結果を総合的に数理処理することができれば、各時点ごとの世論の趨勢がほぼ把握できるのではないか。水準の高い意識調査を実施して、科学的、客観的な世論の状況をひろく国民に周知することは今日的なマスコミに付託された使命であると思われる。 

 この際、マスコミ各社では、社内的な論議をとおして、与野党のいずれにくみするか、ではなくて、国家的見地に立って、どのような選挙報道を行うか、そこではいかなる課題を強調するか、などについての方針を明らかにするべきである。
 報道機関は警世の木鐸であるといわれてきた。このさい関係者は選挙報道に関わる責任が非常に重いことを自覚してほしい。(完)


(6月20日)言葉の軽さは国の命運を左右する


 ブッシュ政権がイラク戦争を始めた理由としてきた大義の第一はイラクが大量破壊兵器を所持している、ということであり、第二はアルカイダと手を握っているということであった。しかし開戦後1年以上もたった現在、アメリカ自身の調査団によってこの2点とも見事に否定されてしまった。そして結局、ブッシュのいう、イラク戦争についてのアメリカの大義なるものは全く存在しなかった、というのが今日的な世界の常識となっている。
 何のための戦争であったのか、と改めて問われれば、結局アメリカの利権のため、アメリカ・ネオコン流の政治形態の押し付けのため、としか言いようがないのが偽らざる現状なのである。
 国連の了承もないなかで一方的に始められたこの戦争によって、すでに1万名を超えるイラクの民間人が犠牲となり、800名を越えるアメリカの兵士が戦死したといわれている。テロ支援国家というレッテルを押し付けさえすれば、何でも出来るというブッシュ流のやり方にアメリカの国内でさえも批判が高まっているといわれている。
 もっと情けないことがある。このような状況にあるブッシュに対してサミットに出席したわが国の小泉首相は、それでもなお、「アメリカの大義を信頼する」と述べたという。一国の命運を担ったわが国の首相のこのような言葉の軽さが、サミットに出席した各国の首脳たちや世界の人々にはどのように聞こえたのであろうか、
 小泉首相は同じサミットの場で、ブッシュに対して、「日本は多国籍軍に参加する」と明言した。一国の基本路線にかかわるこのような重大な決定を国会での論議も経ないなかで、早々と、国際的な公式の場で、安易に口にするという軽率さは自民党の中でさえ批判を呼んでいるという。
 多国籍軍に入っても「わが国の自衛隊はUnified Command(国際的には「統一された指揮権」と訳されているが、政府は「統合された司令部」としている)のもとにはなく、日本独自の指揮権のもとで独自に行動する」ということの了解は、「口頭で」、「米英と」、「大使館の公使級の折衝で」おこなってきたという。(おそらく小泉首相の発言以後に、あわててそうしたのであろうが)
 野党側が厳しく批判しているように、わが国が国連の多国籍軍に参加するかどうか、ということは国会での与野党の賛成、反対の周到な論議を経た上で、かりに与党案が通ったとしても、なおかつ、たとえば「平和活動に専念する」、「Unified Commandのもとには立たない」という点についての国連、各国の首脳、政府との正式な約定文書の交換というような公開されたプロセスを必要とするはずである。民主主義はそのような正確周到な手続きの上に成り立っているというのは常識以前のことである。それなのに、米英両国とだけの、しかも口頭での、公使クラス級での折衝で、果たして確実に多国籍軍とは別の指揮系統を持つことが国際的に担保されたなどといえるのであろうか。口約束なんて、相手側から「聞いていなかった」といわれればそれっきり、ではないのか。
 たとえば、将来、多国籍軍の一員となった自衛隊の基地の周辺に、ドイツ、フランスの軍隊が駐留しているような場面があったとしよう。そしてある日、ドイツ、フランス軍が攻撃を受けて、戦闘が行われている最中に、わが国の自衛隊だけが、武力行使はしないということで、知らん顔をしている、そのうちに協力するどころか、独自に撤退を始めたとする。この場合に、ドイツ、フランス軍の関係者は、おそらく非常に憤慨して「自衛隊が多国籍軍の指揮下に入らない」などというような了解はしていない」、というであろう。だからといってわが国の自衛隊が戦闘行為に参加すれば明らかに憲法違反ということになってしまう。
 以上はまったく1例に過ぎないが、要するに、それほど多国籍軍への参加問題は微妙かつ重大なのであって、国内的、国際的な論議と合意の形成を待って慎重に取り扱われることを必要としているのである。
 軽率な言葉のやり取りのあげくの、いい加減な既成事実の積み上げの結果として、自衛隊の兵士たちに犠牲者が出る、国益を大きく損なう、他国に迷惑をかける、そのような事態が起こりかねないのである。
 与野党の間での、冷静で論理的な切磋琢磨の上に、国民の安全を守るための国策が決定される、そのような政治こそが国家の命運を安定的にすることが出来る。いつの場合でも軽率な言葉だけが先行して、つじつまあわせの非論理が横行する、そして、最後には数の力にものを言わせた党利党略がまかりとおる、そのような場当たり行為の積み重ねの上には、本当に信頼できるような国家の未来は決して生まれることはないであろう。
 私は何党のシンパでもない。私はただ、非論理の累積のあげくに、太平洋戦争に突入して、そして数百万人の犠牲のもとに、敗戦を招いたような、悲惨で多難な前車の轍を踏んではほしくないのである。(完)


(6月16日)生協の恥辱ここに極まる
―どう対処するべきか―


 04年6月15日のNHKのニュースで、コープこうべの職員と元職員が食肉会社の社長と共謀して詐欺を働いたことを知らされた。翌日の朝日新聞には、元職員(1人は退職、もう1人は3月に懲戒免職)ら3人が3億9千万円を生協から詐取して、うち1人が社長から1億9000万円を、もう1人が700万円を受け取っていた。コープでは詐欺と窃盗容疑で職員と食肉会社社長を告訴することを検討し、監督責任をとって小倉修悟組合長が副組合長に降格、浅田克巳専務理事を組合長に選任した、と書かれていた。
 私自身のことに触れるが、定年で研究所を辞めたあと、私は70歳になるまで、コープこうべの技術顧問として在職し、組合員の食の安全を確保するために、微力ながら専門家として協力してきた。そして、この間、この生協の内情にも深く触れることがあっただけに、今回の、一般の企業でもざらにはありえないような事件には大きなショックを感じないわけにはいかなかった。

1 コープこうべとはどのような生協なのか
 今回の事件の現場となったコープこうべという生協がどのような消費生活協同組合であるのかを正確に知っておかねばならない。
(1) コープこうべは我が国を代表する最大規模の生協であり、歴史的にも、名実ともにわが国の生協の組織、運営、運動面での模範とされてきた。世界的に見ても極めて評価の高い生協のひとつであるといわれてきた。
(2) 日本生活協同組合連合会の会長理事、常勤理事はコープこうべから出向することが多かった。
(3) コープこうべは大正、昭和初期のキリスト者賀川豊彦氏の博愛精神を組織運営理念の根幹においてきた。協同組合思想の原点であるロッチデール精神に則った、数ある日本の生協の中でも、モラルに厳しい生協のひとつであると言われてきた。
(4) コープこうべは神戸・淡路大地震に際して、全国の生協職員の献身的な支援のもとで、奇跡的と言われるような復興を成し遂げた。救援活動面でも地域的に高く評価されるような貢献をしてきた。
 私が、研究者として、いくつかの大学からの招請を断って、あえてこの生協の技術顧問の道を選んだのも、コープこうべが上記のような優れた生協運動の組織であることに心から共感していたからであった。
私がコープこうべに就任することが決まった昭和57年4月の現地の朝日新聞に、「藤原氏、生協のGメンへ」という見出しの、前代未聞の記事が出た。当時の消費者の最大の関心事が食生活の安全であっただけに、定年後の私の去就が社会的にも注目されていたのだと思う。
それからの15年間、私は私の専門分野で、コープこうべや日本生協連のために働いてきた。そして十分に生きがいを感じてきた。それだけに今回の事態は生協にとってだけでなく、その生協運動の発展にかけて来た私自身にとってもまことに許し難く、耐えがたいことであった。
 安全性の確保は商品供給者にとって当然、不可欠のモラルである。人の健康を保持するために供給者に課せられた至上の責務である。今回のコープこうべの職員の行為は生協が最も重要視してきた供給者のモラルを踏みにじるものであった。

2 この時点で問題になることは何か
(1) なぜこの職員の同僚は、あるいは上司は4億円にも達しようとする金額の詐取の事実に気がつかなかったのか。知っていて黙って見ていたのであろうか。生協の監察、監査体制はどうなっていたのか。類似の事態が発生しうるような各種の仕組みの欠陥が放置されているのではないか。
(2) コープこうべでは3月時点に容疑者に対して懲戒解雇処分を行っている、したがって、この事件はすでに本年の初め頃には明らかになっていたと思われる。にもかかわらず今日まで半年以上も発表を遅らせてきた。クレーム隠しならぬ汚職隠しではないか。理事会では、なぜそのような姑息な態度をとってきたのか。全く生協らしくない、といわれても仕方がないだろう。
(3) 職員組合は何をしていたのか。理事会は、とくに常勤理事会、役員会は何をしていたのか。協同、互助の組織的な機能は空白化していたのか。
(4) 職員、組合員に対する生協理念、原則等についての日常的な学習、教育体制はどうなっていたのか。生協では最近、学習、教育についての手抜きが甚だしいという批判にどう答えるのか。3人もの容疑者職員がいたということは組織、体制自体に欠陥があったと思わざるをえない。
(5) 組合員総代会は監査、チェックの機能を持っていないのか。役職員の言いなりに動くのか。今回の事態に対しては臨時総代会を開いて、対策を協議するべきではないのか。組合員の動揺を軽視してはならない。組合員を直接代表する総代会の役割りは特別に重要である。常勤理事会に依存するような総代会であってはならない。
(6) 小倉理事長の副理事長降格では手ぬるい。理事長を始めとする全理事の辞任、交代が至当である。今回の事態に関して直接責任を問われる位置にある浅田専務理事の組合長昇格など許せることではない。責任のとり方は生協らしいものにするべきである。
(7) 誰よりも生協を信頼してきた組合員に対して心から謝罪するべきである。
(8) コープこうべは全国の地域生協、とくに日本生協連に対して、生協運動の信用を著しく傷つけてしまったことに対して謝罪するべきである。
(9) 今回のようなモラルの荒廃が組織運営の随所に見られるとすれば、食の安全という生協運動の根幹に関わる分野でも、本当に信頼できるような運用が行われているのであろうか。
(10)今後の対策をどうするのか。綱紀をどのように立て直すのか。コープこうべだけのことではない。日本生協連としてどのように対応するのかが問われている。

 私は今回の事件を単なる職員の個人的な汚職行為であると見なしていない。冒記した我が国を代表する生協の現場において発生した事件であるだけに、生協一般の組織の根幹に関わる事態だと思っている。
事態を決してうやむやにしてはならない。三菱自動車の欠陥隠しが結局どのような結末を迎えようとしているかは自明である。コープこうべがいい加減な対策でお茶を濁すようなことをすれば、コープこうべだけでなく、我が国の生協全体に対する信頼を失うことにもなりかねない。一部によく言われるようになった、「コープもスーパーも結局同じなのね」という言葉がますます信憑性を持つようにならないために、コープこうべだけでなく、すべての全国の生協が今何をなすべきかが問われているのだと思う。
兵庫県の現地では従来コープこうべと取引できる企業の信用度は高い、と言われてきた。先輩たちが営々と努力して築き上げてきた信頼性をなげうつような愚を犯すべきではない。(完)


(6月1日の1)言葉はその人をあらわす


ここでは与野党間の政治的な確執に立ち入るつもりは全くない。しかし私はこのところの一連の経過での1国の盟主であられる小泉首相の言葉の重みについて触れておきたいと思う。
 マスコミの報道や国会での、小泉首相の年金未加入問題に関する質疑の中で、小泉首相が大学を出て、ある不動産会社に籍を置いておられた時期があった。この会社では小泉氏の国民年金保険料を支払っていたという話が出た。
首相は、「私にはサラリーマンとしての経験はない。」、「会社には全く顔を出さないでいた。」,「社長さんは私の仕事は次の選挙に当選することだ、と励ましてくれた。太っ腹のいい社長さんでしたよ。私は首相を辞めたら、この方のお墓参りをしようと思っています。」とのべている。
 野党側が、普通に言うような勤務実態がないのに保険料が支払われるのは違法ではないのか。」と攻め立てても、首相は一向に動じない。「いろんな勤務の形があるんです。」という。
 その後、その不動産会社の社長が健在であられることがわかったが、このことを告げられた時の首相の言葉は、「あ、そうですか。いい人は長生きされるものですね。」というものであった。
一国の首相がお墓参りをしてお礼を言いたいとまで国会で発言した、それほどに恩義のあるはずの人の生死さえ、実のところ、彼はさだかには知らなかったのである。しかも彼は、そのことを全く恥じ入ることもなく、そして即座に「いい人は長生きされるものですね」と笑って済ませてしまったのである。
すらすらと口をついて出た、この人のこれらの言葉の軽さに私は唖然とした。
イラク特措法には、自衛隊は非戦闘地域でなければ派遣できない、とされているが、この点に関して民主党が、現在のイラクのどこが戦闘地域であり、どこが非戦闘地域なのか、と質問したときに、自衛隊派遣の総責任者であるはずの小泉首相は、平然として「私にわかるはずがないでしょう」と答えた。
 大量破壊兵器が見つからない、と言うイラク派兵の大義に関わる問題点をつかれても、小泉首相は「フセインが見つからないから、フセインがいないということにはならないだろう。」などと言い返した。
 最近の事例をもうひとつ示そう。北朝鮮にいるジェンキンスさん(拉致家族、曽我さんの夫)に日本への帰国を勧めた時に、小泉首相は「I guarantee(私は保証する)」と書いた紙切れを示したという。アメリカが依然として彼を脱走兵として扱う態度を変えていないというのに、この軽率な対応は今後に後を引くだろうといわれている。
普通の常識からは考えられないような、軽すぎてどうしようもない首相の言葉に質問者はしばし唖然とする。煙に巻かれてしまう。そして唖然としている間に、与党の多数に支えられた権力者側の開き直りが何事もなく、まかり通ってしまうのである。
 次の世代を担う子供たちが見ている前で、普通の論理、当然の常識に反した軽すぎる言葉が一国の政治を仕切っていく、これはほんとうに恐ろしいことである。(完)


(5月16日)年金未納問題と政治家の自己責任について
藤原邦達


 小泉首相をはじめとする与党の国会議員たちはイラクでの拉致被害者たちに対して自己責任なるものを厳しく求める発言をくり返した。私はそもそも拉致される原因をつくった責任が、国論が真っ二つに割れる中で、アメリカに同調して自衛隊の派遣に踏みきった与党側にある以上は,そうした当時者たちが、拉致されて生死の淵をさまよってきた3人の被害者たちを一方的に責め立てる、などというのは間違っているといってきた。
 ところがイラク拉致問題の直後におこった年金未納問題では、政治家たちのいう「自己責任」なるものの正体があからさまに見えてきた。
 年金法案を国会に提出する側の与党の関係者は、国民に対して年金加入を義務付けて、最低25年にわたって掛け金を支払うことを求める立場にいるのである。したがって年金加入の問題がクローズアップされてきた時点での当事者たちの自己責任とは、国民に対して自ら過去の年金加入の実績を開示し、もしも未加入の事実があればその事実について陳謝し、その理由を丁寧に説明することである。しかもこうした「開示責任」や[説明責任]は、可能な限り的確、迅速にはたされねばならない。
 私たちは、攻める側の野党の代表の管氏が年金未納問題で失脚した当時の、与党関係者たちの数々の発言をはっきりと憶えている。しかも年金法案が衆院を通過したあとになってから、彼らがそれまでは自分たちのひたかくしにしていた年金未加入、保険料未払いの事実を、おもむろに、つぎつぎに公表し始めたことを決して忘れはしない。
 自己責任を言いながら、自己責任をはたさない人々に贈られる最適、至当な表現は「厚顔無恥」ということである。管代表が辞めるのは当然だ、などといいたてた当人たちには、自らの年金未納が発覚しても党の要職を辞する気配が全く見られない。
 内容的にすでに破綻しているといわれるような年金法案を、しかも3党合意で、年金制度の一本化がうたわれているというのに、与党は、まだ、ごり押しで参院を通そうとしている。なんとも醜悪、異常とも言うべき政治ドラマが国民の前で堂々と演じられている。
 政治家の自己責任は国民に対して果されねばならない。イラクでの拉致被害者たちに対して「国に迷惑をかけた」、「救出費用の一部を負担させる」などと、言い切った政治家たちは、今、国民の前で、はたして責任ある行動をしているといえるのであろうか。
 マスコミの紙面に、「ジャンケンでいえばあとだし」、「ずるい」、「せこい」、「アンフェアー」などと書きたてられていることを、与党の領袖たちや小泉首相は、どう思っているのであろうか。私は何よりもこのような国を代表する人々の軽軽しい言動が次代を担う子供たちの前で堂々と演じられていることを悲しく思う。
 「自己責任」は重い。だからこそ、それを他人に強要できるほど人は完全ではありえない。キリストは不義を働いた女に石を投げつけていたパリサイ人たちに向かって、「汝らのうち罪なきものまず石をなげうて」と叫んだという。
 もっとフランクになろう。政治家の年金未加入事実は早期にオープンにするべきである。責任政党などと呼ばれている一党だけが公表を拒否している。6人の閣僚たちも辞めようとはしない。それでは参院選挙が戦えないだろう。自民党の幹事長は「マスコミが興味本位に、年金未加入問題を取り上げている」などと述べているが、この問題ははたして興味本位次元のものなのであろうか。民主党の菅氏は興味本位のマスコミによって代表からひきずりおろされたのであろうか。そのような感覚で年金法案を国民に問うことがはたして政治家の責任ある態度なのであろうか。
 各社の世論調査では、国民の支持を失った、すでに「死に体」であるなどといわれるような法案を再び参院で数の力で押しきって見せようというのであろうか。今後の年金審議のありようを静かに見守りたいと思う。(完)


 
(5月10日)論文予告について


現在、「新洗剤運動宣言ーPRTR法指定化学物質をふくむ洗剤を排除、自粛すべきである」と「PRTR法の改正を求める」の2つの小論を準備中です。乞うご期待。


(4月27日)イラク拉致被害者のためにー「自己責任」ということについて


 もしも小泉政権が、国論が真っ二つにわれるなかで、国連決議のない中での自衛隊のイラク派遣を決定していなかったならば、今回のような3人の拉致拘束事件は起こっていなかったであろう。イラクの人たちはとりわけ日本人には親近感を抱いているという。3人の民間人は今回の政府の自衛隊派遣の決定が直接の原因となって、一時は死をも覚悟せねばならなかったような拉致被害者にされたのである。
 退避勧告が出ているさなかの、彼らの行動は確かに慎重さを欠いていた。それはそれで責められねばならぬ。しかし彼らは観光客であったわけではないのである。日本人としての、かけがえのない、イラクの孤児たちのための人道支援に取り組んでいたNGOの二人の若者とわが国にとって貴重なイラクの情報を取材するために危険を犯して努力していたジャーナリストたちが、今、与党や政府の関係者によって、「自己責任」などということで、一方的に責めたてられるような立場におかれているのはまことに心外なことである。
 いかなる国家であれ、その理由が何であれ、政府には国民を保護し、救済する責任がある。これこそが国家の第一級の基本的な自己責任である。まして、国論が2分するなかで決定された自衛隊派遣によって発生した今回の事態であるというのに、政府、与党の関係者が3人の被害者に向かって、「迷惑をかけた」、「救済費用の一部をかえせ」などとよくもいえたものである。これこそは政府の自己責任無視の最たるものでなくて何であろうか。
 政府はたとえば、アメリカの多数の民間人がそうしているように、イラクで自衛隊のために働いている民間人たちが拉致された場合でも、今回の3人と同じように責め立てて、「迷惑をかけた」などというのであろうか。
 私は自衛隊のイラク派遣の是非を言っているのではない。国家を代表する政府の決定は尊重せねばならない。しかし国家はその理由が何であれ、自衛隊とは違った意味で、イラクの子供たちの幸せのために、イラク人を支援するために、まさしく小泉首相の好んで口にする「人道支援のために」働いていた人々に対して今回のような態度に出るのは明らかに誤りだと思う。
 解放された直後に、彼女はイラク人たちの前で、「(こんなにひどいめにあったが)それでもイラク人が嫌いになれない。これからも、ここにとどまって働きたい」と涙ぐみながら語った。このことに関して、フランスのマスコミでは、日本にも新しい優れた若者達が育っていると賞賛したが、小泉首相はいかにも不愉快そうに「どれほど迷惑をかけたか、考えないんでしょうかね」と記者団に語っていた。
 政府、与党関係者の、いわゆる自己責任論なるものはいかにも品格がない。人間性を疑わせる。
 年金改革などという法案をすすめる当の内閣の大臣たちが保険料の未払い者であったことが判明したあとで、「忘れていました」などと自己責任ボケした閣僚たちが、イラクで拉致されたNGOの若者たちには厳しい自己責任論を説く。情けないことである。政府は閣僚たちの一挙手一投足が全世界の注目のもとにあることを忘れないでいてほしい。
 この国では、この戦争に大義があったのかどうかさえ、さほどの問題にはならない。国会で質問を受けて「非戦闘地域がどこなのかわかるはずがない」などと笑って答弁した首相が憲法違反が疑われている特措法のもとで、堂々とイラクに自衛隊を派遣した。欧米ですら大きな政治課題になっている「大量破壊兵器がみつからない」という問題でさえも、「そのうちに見つかるだろう」で済ませてしまう。ひたすら質問をそらして、恬然として恥じるところがない。一国の命運をあずかる首相としての自己責任など知ったことではない、それでもこの国では、国民の50%を超える支持率を誇示することが出来るのである。
 サムライたちは自己責任を腹切りという形で明らかにした。理非曲直を重視する、折り目正しい政治家たちの時代はもはや帰ってこないのであろうか。


(4月25日)軍人という名の反面教師がいた

 明治以来、私たちはこの国を支えてきたすぐれた軍人像を数多く見てきた。
しかし、同時に、私たちは、その反面、太平洋戦争当時に、この国を破滅に追いやった旧軍人たちもまた多数見せつけられてきた。
彼らは直情径行、短絡感動、批判を受けて深慮遠謀することのない人々であった。今の若者には信じられないことだろうが、私たちの旧制中学、高校時代には「チャンコロ(中国人)を50人斬ってきた。これがその日本刀である」と豪語していた配属将校がいた。忠君愛国の名のもとに、殺人が讃美されるような軍国精神なるものがあたりまえのように鼓舞されていた。天皇を神格化した「戦陣訓」を暗誦させられるような教育のもとで、捕虜の人権などが全く無視されるような時代であった。
その一方で、「国をまもる」、「愛する人びとをまもる」ために命を捨てる、そういって「きけわだつみのこえ」の学徒たちは出陣していった。彼らは陸士,海兵出身のエリート将校たちの楯にされたのだ、という人がある。悲しい話である。
 ソ連軍が満州に侵攻してきたときに、関東軍の参謀たちはもうわずかしか残されていなかった貴重な陸軍の航空機で、いちはやくその家族たちを内地に送り返したのだといわれている。残された旧満州居留民の同胞たちが、その後どのような運命に見舞われたかは周知のとおりである。もっと悪いうわさがある。関東軍の中枢にいた将校たちの大部分はソ連軍の抑留を免れて、日本に逃げ帰ったのだ、という。放置された将兵たちがその後シベリアに連行されてどのような辛酸を舐めたか、何万人が死んだか、知るひとぞ知る。
 まだまだひどい話がある。終戦の詔勅が下ったそのあと,旧軍隊の解散に伴う混乱に乗じて膨大な軍の隠退蔵物資が一部の旧軍人幹部によって横流しされた。
 私たちが叩き込まれた「殉忠愛国」の美名のもとで国家の品格を貶めるような行為をあえてした旧軍人たちが多数いた。「上官の命令は天皇の命令であって、絶対である。」などとする不文律のもとで、兵舎の内外では日常的な暴力がまかり通っていた。神格化された天皇の名において、一部の軍人たちはことさらに権勢を振るった。どう考えても勝算のなかったはずのアメリカとの戦争を始めた軍国主義者たちの精神構造は情緒的な神風期待であり、慎重な論理や研ぎ澄まされた知性などを軽視するものであった。
 すぐに激情する。涙をこぼす。それはいい。問題はそのあとに暴言を吐き、暴力をふるうことである。日本刀を振り回し、ピストルを構えることである。批判を慎重に受けて立ち、自己の言動を制御して、軽々につぎの行動を起こしてはならない。逡巡するから卑怯なのではない。触発するから、熟慮,自制しようとしないから卑怯なのである。
 私たちは聖人君子ではない。多くの過ちを犯して生きている。いちがいに旧軍人たちの過ちを責める資格があるとは思わない。しかし過ちを犯してはならないと思う。旧軍国主義の時代を再現してはならない、軍国教育は許されないと思う。短絡的、感情的な行動をしてはならないと思う。
 私は人は不思議な生き物だと思う。アウシュビッツのガス室のすぐ隣りでは毎夜のようにドイツの将校たちがベートーベンやモーツアルトのコンサートを楽しんでいたという。
 イラク戦争で1万人以上のイラク人が死んだといわれる。アメリカの9・11のテロでは数千人が犠牲になったという。パレスチナでは殺人の応酬がやむことはない。テロを撲滅するための行動が新しいテロを誘発する、この現実が、高邁な民主主義や神の御名においてではなくて、その実は力によるユニラテラリズムや石油利権という非常に功利的で、情緒的な動機によって支えられていることを見抜かねばならない。これ以上の死者を出してはならない。全世界、全人類の良識を結集して、テロの連鎖を食い止めねばならない。
「テロをなくす」事は正しい。しかし感情的になってはいけない。テロをなくすために何をするかを慎重に考えて行動せねばならない。いまや国家の名において殺人をあえてするような時代になった。
 知性を軽んじた旧軍人たちの過ちを繰り返してはならない。戦争中の一部の軍人たちの人間像を反面教師として正しく学ばねばならない。


(3月13日)老いについて考える


 本日の朝のニュースでは。あのお元気な長島茂雄氏、68歳が脳卒中でダウンされたという。
 彼はセキュリティーのセコムや血圧降下用のサプリメントであるアミールのコマーシャルに登場して、まさしく高齢期の安全,健康のシンボルのような存在であり、今なおスポーツ界の大御所として活躍しておられる人物であるだけに、今回の事態は私たち高齢者にもいろんなことを考えさせてくれる。
 もうひとり、あの日野原重明氏は92歳で、大ベストセラー「生き方上手」を書かれた。そして現在も分刻みのスケジュールをみごとにこなしておられる。「これからテニスの練習を始めたい」などと言われているとのこと。
 しかし,―よーく考えよう―どんな機械にも耐用年数というものがある。磨耗,疲労は避けられない。人には寿命と言うものがある。だから「年よりの冷や水」と言うのは真理であると思う。無理をしてはいけない。年相応の行き方があるのである。
 確かに脳細胞には20代の後半から一定比率での減数がある。これはやむを得ない。しかし高齢者では、長年の間に無数のシナプスの連接回路が新しく組み立てられて、脳神経のオペレーションシステムがバランスよく動作するようになっている。同じ刺激に対しても若者とは異なったレスポンスができる。情報が知識となり,知識の集積が貴重な知恵となって定着している。結果的に、神経細胞の減数によるデメリットを補えるような頭脳の働きが期待出来る。肉体の衰えはまぎれもない事実ではあっても、新しい生きがいや可能性を持つことが出来るのである。
 年寄りには,若者にはない、資産の蓄積がある.それは長年の経験である。そこから得られる総合力,判断力である。簡単にパニックにはならない.状況をトータルに受け止めて、事態を円滑にまとめあげる力量がある。老年の象徴である円熟、老練、円満、枯淡の境地とはまさしくこれをいうのではなかろうか。
 高齢者にありがちな「うつ」症状は各種の喪失体験に基づくものであると言う。地位の喪失,権威の喪失、健康の喪失,期待感の喪失,仕事や任務の喪失,責任の喪失,それらから「うつ」が始まり、やがて痴呆の症状が出てくるのだといわれる。しかし喪失体験に埋没してはならない。高齢者には.若者には見られない獲得体験が豊富にある。そのことにもっと自信を持つべきである。しかも、まだまだしておきたい事もある、学んでおきたい事もある、伝えねばならない事もある。楽しみたい事もあるのである。そして、それらの可能性をつくるための時間が与えられていることにも感謝するべきなのである。
 人はいつかは老いて死ぬ。しかし、それまでの時間の中身を,質的な内容をこそ存分に充実させることが出来る。
 同窓の諸兄よ、残りの人生を意義あらしめようではないか。
 終りに当たって、若き日に、諸兄とともに口ずさんだ先人の言葉を贈る。
 "Das leben muss wir nicht geniessen, sondern fruchtbar bringend gestalten wollen"

(注記)
 上記の短文は60年前の高校(旧制}時代の友人たちの文集用にしたためたものである。
 「ああ青春の3春秋ーーー」などと寮歌を口ずさんだ時代は遠くに過ぎ去った。しかし今が厳然としてここにある。(完)


 (3月12日)「馬鹿の壁」という極端志向
―話せばわかるというのはうそ」なのかー


 ベストセラーだという「馬鹿の壁」を読んだ.著者の養老氏は人の意識的な反応について,Y=aXという数式をあげておられる。これは同氏の「馬鹿の壁」論の基本にある考え方を端的に示しており、「話せばわかる」というのは間違いであると言う同氏の持論もこの数式から説明できる、としているらしい。
 すなわち,aという形質の、ある大きさの刺激が外部からあった場合に、この刺激を受け取る側のXのありかた次第でYが決まるというのである。
 確かにそのとおりである。そして実際には,完全な馬鹿でなければXがゼロということはありえない。人によって、X+1であったり,X+2であったりする。またそのXの大きさも正確に言えば,X=f(x,y,z,p------)というべき函数の因子であるxというその人固有の履歴、yという性格、zという環境、pという素質等の多くの因子との関連で最終的に決定されるのである。
 従って、「話せばわかるというのはうそである」と断定することは出来ない。話して得られる反応は、刺激aの形質と、その相手の受容度を意味するXという形質の大きさによって決定されるというべきである。その相手が完全な馬鹿でない限り、話すことによって、働きかけることによって大なり小なり反応があると考えるべきなのである。もう1度言うが、X=0ということはないのである。
 「話せばわかるというのはうそである」というのでは人間関係は成り立たない。大げさに言えば、話し合いに基づいた民主主義はありえない。社会的な、あるいは家族的なコミュニケーションも保てない。養老氏はY=aXという数式を余りにも単純に、極端に使っておられる。実際の人間関係の中では、「話せばわかる」のである。問題はいかに熱心に語りかけるかであり、相手がいかにその気になって話を聞いて、主体的に反応しようとするかである。語りかけるための媒体としての情報の質と量も問題になる。人類の歴史は、良かれ,悪しかれ、ひとつの思想、ひとりの意志に反応した人々の集団的な行動によって作られてきた。「話せばわかるというのはうそ」ではなかったのである。
 親子であれ、同僚であれ、隣人であれ、話しても無駄であるとは思わない。脳神経科学の専門家がどういわれるか知らないが、問題なのは、以上の数式でのY=aX=af(x,y,z,p…..)のありようについてである。すべての人には,f(x,y,z,p…..)としてあらわされるある種の形質のサイズとパターンを持っているのであって,これがゼロということはありえない。それは各種の刺激に反応する神経伝道効果として証明されるはずである。「馬鹿の壁」という固定された、ある高さの仕切りがあって、これが越えられない、と決めつけるよりも、一定の壁はあるが、その高さは刺激aによって伸縮自在に変えられるものであるとするほうがより科学的なのではないか。動物実験でもそのことは証明できるのではないか。完全に馬鹿で、無反応なモルモットはありえない、と思うのだがどうなのか。
 養老氏は出産に関するビデオに対する男子学生と女子学生の反応の違いについて述べておられるが、要するにこれは、一定の情報、刺激であるaに対するX=f(x,y,z,p…..)の質と量の相違を示しているのであって、男子学生が無関心であったというのではなくて、結果的な反応Yの形が違っているということである。男子学生は自分たちにはありえない妊娠によってひきおこされた結果として、自分が持っていない性器、生殖器での出産という情景についての独得の反応としてのY=aXを受け取っていたはずである。女子学生とは質的に異なった反応があったと考えるのは極めて当然のことであって、無関心などという漠然とした表現で語られてよいことではないのだと思う。
 養老氏はまた情報は事実として不変であり、これを受け取る自分が不変ではないのだ、と述べておられる。就寝前の自分と起床後の自分が違った存在であるのか、と言う問いには、正確に言えば、完全に違った存在であると言うのは誤りであって、部分的に異なった存在であると答えるのが正しいのではなかろうか。
 同じ問題に関する情報でも昨日と今日の中身は部分的に変化している。情報を変化しない、自分だけを変化する存在だ、と決め付けるのもどうかと思う。時間の流れの中で、状況は変化する。万物は流転する。その一瞬に見えたこと,書かれた事実を情報という。しかし一瞬のつぎの一瞬が現われる。情報の中身は確かに変化する。同時に情報の受けてである自分の中身も変化している。それらの2つの与える側と受ける側の変化の中で、自分が認識するのが反応というべきものではなかろうか。Yは時間の函数でもあるのだ。その人に受け取られた反応が定着した場合を知識と呼び、行動の動機、規範となるものを知恵という、私にはそう思える。
 越えられない「馬鹿の壁」はない。「話せばわかる」のが人の本性である。
Dose―Responseカーブは必ず掻ける。ただし、dy/dxが比例関係なのか対数関係なのか。それはcase by caseで決まる。絶対にゼロであると決め付ける必要はない。
 もしも、本当に「馬鹿の壁」が厳然として存在していて、「話してもわからない」という人々がこの地上に満ち溢れていたとすれば。人類の歴史はどうなっていたであろうか。人類の明日はどうなるのであろうか。
 養老氏の著書はベストセラーになったが、「話せばわかるのはうそだ」ということがうそだったからこそ、養老説が受け入れられて、この本がこれほど売れたのである。(完)


(2月15日)つくられた既成事実は悲劇を招く


 助言、示唆はもちろんのこと、警告や批判でさえも聞く耳を持たない。そして既存の体制の中で、ひたすら既成の事実を作っていく。やがて、その既成事実を無視してはやっていけないような状況を作る。そして、ついに、もはや介入することが出来ないような客観情勢を作ってしまう。
 権力者、体制側にとって問題なのは、助言、示唆、警告、批判する側の道理や論理ではなくて、彼らの影響力の大きさである。その声が無視できるかどうかしか関心事ではない。もしも無視できなければ、聞こえなくすることに全力をつくす。
歴史上の失敗の大半はこのような、一方的な、権力者や体制側による路線選択の失敗によるものであった。
 もちろん、外部からの助言、示唆、警告や批判の全てが正しいとは限らない。問題は「聞く耳を持たない」ということにある。つまり、今流行の言葉でいうならば、情報処理態度の誤りにある。相違する見解をどのように冷静に評価して対処するか、そのためにはまず謙虚に聞かねばならない。独断をいかに排除するか、そしてその当事者に、路線の変更を敢えてする勇気があるかどうかが問われているのである。
典型的な事例を若干あげてみよう。
 アメリカは、というよりも、ブッシュ政権はイスラエルの核開発、核保持については何も言わない。しかしその他のアラブ諸国や北朝鮮に対しては、極めて厳しい態度をとっている。ここに見られる、あからさまなダブルスタンダードについての世界的な批判には全く耳を貸そうとしない。国連の批判すら無視してしまう。
 地球温暖化に関する京都議定書についても同じ事が言える。ブッシュ大統領は採択を拒否する理由を「アメリカの経済をまもるためだ」と言ってのけた。
独仏露、中国の反対を押し切って、しかも国連の支持がなくても、アメリカは断固として イラクを武力攻撃した。そして戦後処理が困難になると、今度は国連に助けを求めている。大切なのは道理でも面子でもない、実利追求の自国中心主義である。
 我が国の場合でも、そうした事例は山ほどある。戦前に軍部が犯した最大の過ちは、独断専行、聞く耳を持たない中での既成事実の積み上げによって、国民の思想、行動を完全に統制したことにあった。体制を掌握した権力者にとっては警告、助言、示唆、批判を聞く耳を持つ必要がなかった。重要なのは、道理に耳を貸すことではなくて、ただただ、弾圧、強行することであった。
 現時点でも、同じことが言える。イラクへの自衛隊の「海外派兵」では、小泉首相は、しきりに「国際社会のために、国際社会から取り残されないために」などという。しかし、国連常任理事国の米英以外の各国はもちろん、EU、その他世界のほとんどの国はイラクへの武力行使に賛成していない。従って派兵もしていない。国際社会などを持ち出すいわれはありえない。だが自公両党は国論を2分するような、激しい批判にも耳を貸すことなく、断固として自衛隊の海外派遣という、既成事実を作ることに成功した。まさしく小泉首相は「聞く耳を持たない」なかで独自の路線を強行し、いまや「派遣される自衛隊員を励ます」ための国民世論作りのために懸命になっている。
 歴史は教える。聞く耳を持たない中での既成事実の構築という路線はかならず破綻している。情報処理のために、慎重、忠実でない政策は必ず行き詰まる。
 一昨日には、サマワ市内に迫撃砲弾がうち込まれた。無理を承知で作られたイラク特別措置法では、非戦闘地域でなければならない自衛隊の基地にも、数キロさきから迫撃砲弾が飛んでくる危険があるという。治安の悪化が言われているイラク情勢の中で、犠牲者を出さないための対策が未然に講じられねばならない。小泉首相が「聞く耳を持たなかった」ことによる破滅的な状況が、自衛隊の若者たちの死傷という事実によって証明されることを回避せねばならない。
 小泉首相は国会の質疑の中で、そうした「悲劇を避けるために全力をつくす」という。しかし、無理を承知で一方的につくり上げた既成事実を変えようとは決していわない。 国会は予想される同胞の死傷をどう考えるのか。テロリストたちの迫撃砲弾をどう防ぐのか。「悲劇を避けるために全力をつくす」というだけで、何もしなくてもよいのか。客観情勢を甘く見てはならない。

 イラク問題などにくらべれば、はるかに些細なことであるかもしれないが、消費者のよりどころとしている生協運動の路線問題でも理事会、役職員は大いに聞く耳を持ってほしい。食生活の安全、安心を守る。環境の保全を図ることは、基本的人権に関わることなのである。
 さいたまコープでは、昨年,LAS系洗剤の供給、販売を開始した。LASには生分解性や生物影響上で問題があった。私は以前から環境保全に熱心な取組みを行なってきた生協では、そのような商品を供給しないほうがよいと言って来た。そして国も一昨年、LASをPRTR法の対象となる問題化学物質として指定した。
 しかし、さいたまコープの理事会、役職員は,私や生協の内外からの一切の批判、助言、警告にも耳を貸さなかった。そして、いまや。さいたまコープでは、花王やライオンのLAS系洗剤を組合員たちが生協の店舗で購入する風景が当たり前のようになっている。すなわち、さいたまコープの理事会と役職員は「聞く耳を持たない中で」見事な「既成事実を作り上げた」のである。

 昔、日本人は恥を知る民族であると言われた。道理を大切にした。謙虚である事を美徳であるとした。批判に耳を貸さないで、既成事実を作ってしまうようなことは恥ずべきことであった。
 権利主張は重要である。だが、交通事故をおこしたら、たとえ自分に責任があることがわかっていても、相手が悪いと主張せよ、と言うような教育をする国の亜流になってはいけない。
 聞く耳を持ってよく考えよう。そして過ちを認めることにはばからず、路線を修正するための勇気を持とう。そうすることが、その実は、破綻を避けるための最も賢明な行き方でもあることを自覚しよう。(完)


(1月13日)日野原重明先生のこと


 昨年は、先生の著書「生きかた上手」を読ませて頂いてたいへん感銘を受けた。一昨日は「情熱大陸」という民放のテレビ番組で先生の近況を知った。
 私は、92歳の先生のご活躍にはたいへん興味を持っており、学びたいとも思っているが、マスコミが、先生のことをあたかも不死身の英雄でもあるかのように、事実を誇張して伝えていることには、かねてから疑問を感じている。
 昨日の番組でも、次のような信じられないことが映像として示されていた。
@ 階段は2段づつ登る。エレベーターは使わない。
A 院内の会議には出席して意見をのべる。
B 1日の面会人は100人をこえる。
C マスコミの取材、1日数件の雑誌社の執筆依頼に応じる。
D 病院では、1日に数名の患者の病室を訪ねて、時間をかけて面談する。
E 30分刻みのスケジュールをこなす。
F 出退勤の車中でも原稿に手を入れる。
G 講演のために各地に赴く。
H 311冊の著作を書いてきた。夜は早朝まで原稿を執筆する。
I 睡眠時間は1時間、朝は7時には気持ちよく起床する。
 これらが事実であるとすれば、この年齢にしてまことに超人的、奇跡的であるとしかいいようがない。
 人が生活してゆくうえで、不可欠な生理的な所作がある。たとえば、睡眠、運動、休息、食事、洗顔、着替え、排泄そして入浴などであり、その他、生物としての人では体調の好悪、疾病と言う事態を避けることはできない。そしてこれらの所作のためにはそれぞれに必要な時間的な制約がある。さらに、人は加齢現象を回避することができない。高齢期には、若年、壮年期とは異なった体調維持のための特別な工夫とそのための時間を必要とする。筋肉の柔軟性、弾力が減退していて、とても階段を2段飛びで駆け上がるなどという芸当が長続きするわけがない。
 たとえば、今76歳になった私についていえば、健康を維持するためには、以上に示した生理的に必要な所作に加えて,家庭のなかの一員としての会話や団欒、家族との協調のための一定の時間を必要とする。年寄りには他人に迷惑をかけないための心がけと取組みが求められている。飼い犬の散歩、食事作りへのささやかな手伝いなども大切な日課のうちになっている。パソコン入力に疲れたら、お茶の時間をつくらねばならない。読書や執筆のために用意できる時間枠は当然限られてくる。そしてようやく1日6ないし7時間の睡眠をとることができる。92歳の日野原先生の睡眠時間が1時間である、などというのは、マスコミがかってに作り出した幻想以外の何物でもないだろう。
 「年寄りの冷や水」というのは真理であると思う。年寄りには無理がきかない。それは肉体には避け難い寿命があり,体細胞には必然的な老化と言う宿命があるからだ。筋肉であれ、臓器であれ、頭脳であれ、長年月の経過の中で、いつかは磨耗し、硬化し、退縮する。器質と機能の低下が起こる。だからこそ、その時期を引き延ばすための無理のない健康法が大切だとされているのである。
 人にとって不可欠な、基本的な所作のために必要な時間的な制約を無視すれば、睡眠不足、運動不足、食事の不摂生などが発生して必ず健康を損なう。これは厳粛な事実である。日野原先生も自然科学者の一人として、このことは率直に認めざるをえないであろう。
 従って冒頭に示したような、先生の超人的なスケジュールに関する報道には多分に誇張があると思う。マスコミはそのような分刻みの先生の物理的な動きよりも、クリスチャンとしての先生の思いや生き方のすばらしさに重点をおいた報道を行なうべきである。
 世の中には、一切の移動は運転手が、仕事場でも何もかも秘書がしてくれて、家庭のなかでも雑用を全くしないで、ただ、食べて寝ればよい、結構な身分の人びとがいる。仕事ができるのは当たり前である。
 自己顕示と受け取られるような誤解をさけるために、日常生活のあれこれを慎み深く表現する人々がある。いかなる人であれ、「年寄りの冷や水」を戒める古来の格言を無視してはならない、と思う。(完)


(03年12月26日)この1年をふりかえる。


 この年、娘、婿、孫たちが集まって、私の喜寿、家内の古稀の祝いをしてくれた。孫たちが奏でるチェロとピアノとヴァイオリンの調べはうれしかった。
 8月30日の誕生日に、私は満76歳になった。この半世紀間を食生活の安全、衛生畑一筋に働いてきた。満54歳で研究所を定年退職せねばならなかったことには、いまだにとりわけて悔いが残るが、その後も多数の食品被害事件に出会って勉強させてもらったことには感謝している。
 PCB問題の渦中にあった私の研究室を再々訪ねてこられた有吉佐和子さんの「複合汚染」が発表されたのは1975年であったが、それ以後の30年の間に、人類はついに生命を操作する遺伝子工学というパンドラの箱を開けてしまった。細菌、ウイルスという生命体、半生命体以外の、ただのたん白質であるプリオンが病原体、感染源になるなどという、感染症の研究者たちにも予想できなかったような、狂牛病という名の疾患による未曾有のパニックも経験してきた。内分泌かく乱化学物質という、生物のホルモン、免疫系に作用する新しい有害物質による生態系、生命に対する脅威も現実のものとなった。  今や私たちは本当の意味での「複合汚染」による複合影響を考慮せねばならない時に来ているのだと思う。この2003年に、もしも有吉さんが生きておられたら、どのような感想をもらされたであろうか。

 以下思いつくままに、本年、2003年での個人的な出来事の総まとめをしておこう。
1 年初以来、食品の安全、衛生、遺伝子組み換え関連の講演に招かれて持説を述べる機会があった。
2 5月に、参議院内閣委員会での、食品安全基本法案関連の審議に参考人として招請された。しかし私の主張は、予想通り制定された法案の条文には、ほとんど反映されることがなかった。
3 6月に、東京弁護士会主催の食品安全基本法関連のシンポジウムで基調講演を行なった。
4 7月、政府の食品安全委員会が発足した。消費者団体側の市民食品安全監視委員会も創設された。複数の方から後者への参加を勧められたが、その前に、しておきたいことがあるので、しばらくの猶予をお願いした。
5 昨年来,NHKの某ディレクターから、テレビ番組「プロジェクトX」への出演についての打診があった。私は公害問題はこの番組にはなじまないし、私には出演するつもりもない、と申し上げてお断りした。この1月にこの話は打ち切りになった。
6 8月に、私が特別に嘱望していた滋賀県立琵琶湖研究所のK君から、突然、退職して研究者であることを止める、同時に彼が主宰していた「化学物質問題を考える市民の会」も解散することにした、との連絡を受けた。別れの夕食を我が家で共にした。彼は草刈や伐採などに従事するボランティアー活動団体に参加するということであったが。その後、彼とは連絡がとれない。新住所もわからないでいる。非常に心残りである。
7 滋賀で、30年間続いてきた「食品公害を考える会」が解散した。理由は会員の高齢化による、もう若い会員が入ってこないからだという。時代の流れなのであろうか。終刊号の機関誌は悲しかった。長年顧問をつとめてきた私にとっても悲しい思い出のひとつになった。
 もうひとつ、私が創立に深く関わった京都生活公害協議会もすでに、ほとんど同じ理由から、昭和年代の終わりの時点で20数年の歴史に幕を閉じている。この組織は「生活公害」という言葉をわが国で、はじめて生み出した、京都の女性たちによる、もっとも京都の町衆らしい、全国的に見ても最も早い昭和40年代に始まった、ユニークな市民運動団体であったと思う。何時の日にか、私がお付き合いしてきた、優れた女性たちの群像について、思い出を書き残しておきたいと思っている。
8 8月、名古屋の名城大学での、洗剤・環境科学研究会の第27回の集会に一泊で参加した。ひところに較べて、参加する会員が少なく、今昔の感を持たされた。実行委員会のご苦労が思いやられた。
 ここでも会員の高齢化による退会が相次いでいて、その反面、若い研究者の入会がないのだ、という。事務局が年額100万円程度の予算で会をやりくりしている。必要な資金が開発の研究分野には潤沢にまわっていても、検証の研究分野にはほとんどやってこない。だから、その結果はいつでもおかしいことになる。このままでは、この研究会にも幕ひきの時が近いのかもしれない。
9 コープさいたまのLAS洗剤新規供給開始問題には、昨年来、このホームページで取り組んできた。来年はこの問題で、洗剤・環境科学研究会でのシンポジウムが行なわれることになった。地道に対処しよう。これは生協、消費者運動の基本に関わる問題であるからだ。
10 油症問題の今日的な取り組みについて、被害者支援センターから援助を求められた。旧原告団、弁護団への紹介を行なった。全ての既往の油症問題関係者を再び同じスタートラインに乗せるために、精一杯協力したい。今と昔をつなぐ私の任務と責任は重い。
下田教授が油症研究チームをつくる計画を立てたが、うまくいかなかった。予算がなくても私たち研究者にできることが本当にないのであろうか。
11 11月、東京で油症問題シンポジウムが開催された。基調講演を行なった。かっての油症弁護団の事務局長の高木弁護士、原告団長、当時の支援者代表などもお見えになっていて懐かしかった。15年ぶりの出会いであった。沖縄から東京に戻ってきた宇井純君とも会った。やっとここまでこぎつけたが、来年からの取り組みが大切である。
12 故郷の五島列島久賀島の過疎化が止まらない。一時は3500名の人口は今や600名、しかも高齢者が大部分で、若者はほとんど見られなくなった。半農半漁の働き手の平均年齢はとっくに70歳をこえている。あと5年ないし10年でこの島は働き手のいない介護老人の保養所同然になろうとしている。どうしようもない感慨にとらわれる。しかしこれは実は全国の離島に共通する問題でもある。来年はなんとかこの問題にも取組みたい。
13 日生協の元副会長、元専務理事であられた勝部欣一氏が逝去した。私と生協をつないだ恩人であった。一緒に肩組をして歌った琵琶湖周航の歌が忘れられない。求められて高校時代のあやしげなドイツ語で、シューベルトの野ばら、ローレライを彼とデュエットしたこともあった。彼との協議の中で、生協の学者懇談会や食品添加物Zリスト委員会ができて、生協の食の安全確保の体制をつくることに貢献できるようになったことは知るひとぞ知る。
14 雨読、晴耕の舞台である、といいたい我が家のささやかな農園で、今年はスイカが始めてできた。大きかった。甘かった。そのほか、ナスビ、キュウリ、ピーマン、三度豆、ジャガイモ,サツマイモ、トマト、カボチャなどを収穫した。つるバラをはじめとして、たくさんの花が咲いた。今は、冬空の下で、ダイコン、ミズナ、エンドウ、タマネギ、カブラなどが育っている。もちろん無農薬である。枯葉を焼いてつくった熱々の焼き芋のうまかったこと。ただし、大半は家内の勤労努力のたまものである。
15 「陽残りて、なお昏るるに早し」という。年寄りが暇を持て余していたわけではない。今年も執筆に打ち込んだ。昨年の12月には「雪印の落日」(緑風出版)を、この3月には「食の安全システムを考える事典」(農文協)を出した。この年末には「食の安全は守られるか」(緑風出版)が刊行される予定になっている。相当に根を詰めた。しかし昔ほど講演の依頼がこなくなっただけに、時間の融通がつくようになった。
16 愛犬ムクの散歩と朝夕のえさやりは毎日の私の仕事になっている。今朝は粉雪が舞う中をムクと歩いた。一昨年の坐骨神経痛の苦しみを忘れない。今でも思わず足をいたわっている。この坐骨神経痛は、私が考え出した電子レンジを応用した温包療法で治した。同じ悩みを持つ人々に教えてあげたい。
17 このホームページのアクセスナンバーが開設以来の2年間で、16700をこえた。堅苦しい、面白みのない、一本調子の活字、論文だけのデジタルサイトが食の安全確保のための、「一隅を照らす」メディアの役割を果たしていることを鉾らしく思う。1日に約30名の方々が確実にアクセスしていただける、このフォーラムの窓をいよいよ美しく磨き上げたいと思う。ただし各社の検索エンジンに、「食品衛生、食品安全」のサイトがないために、未だに、この私たちのホームページを知らない人びとが多いことを残念に思う。
18 いずみ市民生協の食品安全自主規格作製委員会の座長として6ヶ月の期間をつとめた。見事な報告書ができあがった。
 国の食品安全に関する規格基準よりも厳しい生協独自のものを作るために、職員、理事、専門家が一堂に会して討議を行なった。この真面目な、正統派の生協の行き方に惜しみなく賛辞を贈る。ご協力いただいた名武昌人神戸大学名誉教授に深甚なる謝辞を捧げる。
19 毎月の第3火曜日には、ならコープの品質管理室の雑誌会に参加している。すでに30回を重ねた。毎回2名が順番に調べてきた各種の安全、衛生関連雑誌の論文について解説する。参加者全員が知見、情報を共有することができる。この積み上げから得られるものはきっと大きいことであろう。他生協などにもこうした職員の教育、研修を薦めたい。
20 12月、某社が酸化チタンの農業分野への応用に関して私に協力を求めてきた。土壌改良剤や撒布液に酸化チタンを混合しておくと、農薬が分解され、糖度が上り、品質が改善されるのだという。問題は第三者的な研究機関での学問的な証明がなされることである。企業作製のデータでは信頼されない。文献によれば、酸化チタンが水分を分解して活性酸素を発生させるという。応用分野が広がっているらしい。来年の課題としよう。
21 最後に私事を書く。
 長女の梅宮典子は大阪市大の衛生工学の助教授として勤務している。その夫、正志は東京の外資系製薬企業の研究室に勤務、その子、孫の槙樹(マキ)は四天王寺女子学園中学の3年生。次女の森田佳子は専業主婦、その夫、温(アツシ)は三菱電気の研究所に勤務、その子、孫の佳奈子は京都教育大学付属高校の1年生。同じく孫の元(ハジメ)は洛星中学の2年生。そして最後に、忘れてはいけない。家内の朝子は京都看護専門学校、京都YMCA専門学校で栄養学の講師として、さらに京都糖尿病教室のスタッフ、京都生協の食品アドバイザーとしても毎日を忙しく過ごしている。私は彼女がつくるテストキッチン料理の迷試食官能テスタ―としてお役に立っている(つもりである。)
 やっと年賀状を書き上げた。03年もあと数日。
 来年こそは人類にとってよい年でありますように。とりわけ、イラクで自衛官たちがテロにあいませんように。(完)


(12月24日)クリスマス集会に参加する


 23日の夜7時、家内とふたり、聖イエス会嵯峨野教会(京都市右京区嵯峨野)のクリスマス集会に参加した。
 私も家内も、戦後の嵐のような時代に、バプテスマを受けている。私は青春というべき時期の約10年間、母の反対を押し切って教会生活に明け暮れた。それは大学の講義の時間割を忘れるほどに信仰に没頭した異様な毎日であった。この期間、結核という、戦後の混乱期の死病に取り付かれて、入退院をくりかえした。失意のどん底のなかで、アガペエとエロスの相克に激しくゆれ動いた。聖書の言葉に悩み、あるいは救われて、今にして思えば,若き日に熱中した神への祈りは原罪からの自己解放のためのうめきでもあったのだと思う。
 不安と抑圧と絶望のさ中にあった当時のユダヤのひとびとはそれらの桎梏から解放されることを待ち望んでいた。そしてついに神の声を聞いた。ベツレヘムに希望の星が輝いた。神はそのひとり子を救い主として遣わそうといわれた。聖母マリアに処女懐胎してこの世に現れたキリストは人々が待ち望んだ愛と平安と至福の象徴であった。それは夜明けの空の茫漠とした薄明などではなくて、むしろ暗夜に冴え渡る星の輝きとでもいうべきものであっただろう。この星に導かれて羊飼いたちがそして三人の博士が馬槽のなにイエス・キリストを見出す。このクリスマスタブローの情景は人々の待ち望んだ救いへの期待の大きさを思わせて何時見ても感動的である。
 昨夜、私はいくつかのクリスマスの讃美の歌を聞きながら、半世紀前の、過ぎ行きし若き日の、教会生活の頃を思い出して、さすがに感傷的になっていた。
 しかし、今日のイスラエル、ベツレヘムの聖地は憎しみと怒りの坩堝の中にある。アフガン、イラクでは、神の御名による、などという「テロとの戦い」で、殺戮がほしいままにされている。私は礼拝堂の冷たい椅子に座っていて、このカオスから人類が脱却することができるように、何時になく、強く強く、願わないではおられなかった。キリストは、まさしく多くの人々の祈りを収束して、父なる絶対者にむかって発出することのできる強烈な光芒の「輝点」として存在する。キリストの生誕は。だからこそ人類にとって意義があるのだと思う。
 「Durch Leiden zur Leben」(苦悩を通して歓喜へ)
 私たちの高校時代に学んだこの言葉を、今の私は、実感を持って受け入れることができる。何度か死の淵をくぐり抜けながら、この半世紀を曲がりなりにも生き抜いてきたからである。
 苦悩を通らない歓喜はないのだ。苦悩の時代での歓喜へのあくなき希望、私はキリストの生誕をその希望の象徴として確かに受け入れたいと思った。(完)




(平成15年1月28日)御挨拶


 近況報告を久しく行なってきませんでした。申し訳ありません。2月からはきちんと書きたいと思っています。


拙稿の御紹介 (7月15日記載)


1 毎日新聞の「エコのミスト」誌の7月23日号が本日発売される。
拙稿「何故,食品メーカーは堕落したのか」(2600字)が掲載される。短文のなかに、このテーマを扱うことに苦心した。御一読を願う。

2 本日「女性のひろば」の8月号の拙稿「あいつぐ違法添加物事件、何が問題?どうすればよいのか?」(4500字)を送付した。
いずれもテーマは依頼者がもちこんだものである。消費者へのメッセージを心をこめて。


(7月9日記載)
 無念である。17日の大阪の講演は行けない事になった。加藤氏にFAXをいれる。申し訳ない.体調が優れない。許して欲しい。7件目のキャンセルである。


      7月7日記載


 このたび、当初から私が顧問をつとめてきた滋賀の食品公害をなくす会が解散することになった。そして会誌「ゆずり葉」のお別れ号に寄稿を依頼された。喜んでお受けして,以下のような拙文をお送りすることにした。
 この会は30年にわたって続けられてきたが、会員の老齢化,会員数の減少,会計の逼迫などの理由で存立が不可能になったという。
 今は本当は消費者、住民にとって大変重要な時期であるというのに、この種の地域に根ざした草の根の組織が次々に駄目になっていく。そして正直に言って、経済的にゆとりのある組織だけが生き延びていくように思える.手弁当で、ボランティアでやって行けるほど現実は甘くなくなってしまった。さびしいことである。

『ゆずり葉』は誰にもゆずりたくない。

                               顧問 藤原邦達

 いま終わろうとしている、「食品公害をなくす会」の、30年の時の流れは、あなた方一人ひとりの、この時代の中の、家庭での、家族との人生の時間の流れでもありました。いろんなことがありました。この間、ひたすらに食べ物の純粋性を求めて、食生活の安全、安心を願って、地域の食と農の現実を身にしみて感じながら、皆様の会が、今日までつましく時間を刻んでこられたことを、すばらしいと思います。
 得られたものは決して少なくありませんでした。そのいくつかをあげてみましょう。

1 食品の安全、安心、安定が人権の基本にあるということを学びました。
 人権とは、死んだ人間の権利ではなくて、生きた人間の権利であり、したがって、生きるための食生活が大切にされるのは当然のことです。食生活が守られない社会は人権が尊重されない社会です。皆様方の30年間の活動は、会員それぞれが、人としての権利を守ることに心した、すばらしいとりくみであったといえます。

2 食品の安全、安心、安定を大切にすることが子供たちへの最高の贈り物であったということを実感しました。
 育ち盛りの子供たちに、地場産の新鮮な無農薬野菜をつかった食事を与えたときに、言わずもがなに伝わった、母親の思いは必ずや何らかの形で子供たちの身心の発達に寄与していると信じます。よい教育のための30年の時間が持てたことを心から感謝したいと思います。

3 同じ思いの仲間たちとの心の通い合った時間を共有できたことをありがたいと思います。
 人間同士だから、勿論、意見の対立もあったでしょう。予算がなくて泣いたこともあったでしょう。実際、時代遅れのガリ版ずりの会報が、つい最近まで私方にも送られて来ました。パソコンやワープロがこれほど使われているご時世だというのに、ガリ版、謄写版などという骨董機械を、誰かがこつこつと使い続けてこられた皆様の取り組みのあり方をすばらしいと思ってきました。しかし、始めがあれば必ず終わりがあります。せめてこの30年の時間が与えてくれた心の通い合った仲間との人間関係をこれからも大切にしてゆこうではありませんか。

4 生協、農協、地場の農家の方々とのつながりを大切にしていくことを学びました。
 滋賀の生協は、かっては日本中の生協運動の鏡でした。琵琶湖をかかえた環境保全運動でも、食生活との取り組みでも、ひところ、全国的な注目を浴びていました。皆様の会の長老会員のかたがたはそのことを証言することができます。皆様の会はこの生協の運動に大きなき励ましと刺激を与え続けてきた、ということができます。
しかし何時頃からか、滋賀の生協がおかしくなってしまいました。私はその一切の経過をしっかりと見つめてきました。
 生協、農協は消費者の食生活の安全、安心、安定を実現するための大切な組織です。皆様の会が解散したとしても。皆様が滋賀の生活者、消費者、生産者の協同、連帯のために、いっそうの心配りを惜しまれないように願っています。
 お世話になって農家の方々からも多くのことを学んだことを感謝したいと思います。

5 この会で学んだことは必ず生かされます。
 この会で与えられた視点を大切にしてください。社会のからくりを見抜いてください。雪印食品以来の問題状況の真相をしっかりと把握してください。時には怒ってください。一部の企業の堕落を許さないで下さい。そうした思いを子供たちに正しく伝えてください。そしてちいさなことから、できることから取組んでください。  私が機関誌「ゆずり葉」の巻頭言に書いたことはいまでも通用します。この時代の中で自分に出来ることを求めて積極的に生きてください。

 最近、表示偽装事件、違法添加物製造、使用事件、品質保持期限の書き換え事件などが頻発しています。新聞の一面に、そうした記事が再々出るようになっています。記者団の前で、社長が操り人形のように頭を下げる光景が当たり前になり、新聞紙面には各社の謝罪広告が大きなスペースを占めるようになっています。こんなことはこの半世紀の間、おおよその食品問題に取組んできた私にとっても初めての経験です。このままでは消費者の知る権利、選ぶ権利、安全である権利を保証するための表示制度が信頼されなくなる。わが国の添加物のポジティブリスト・システムが空文化する。そのような不安が立ち込めている、たいへんな世相であるというのに、そしてBSE問題を経験してきたというのに、生協などの消費者団体の動きが非常に鈍くみえます。
そうした時に、皆様の30年間も続いた会が幕を閉じる、というのは本当につらく、悲しいことです。
 せめて、解散した後、食品公害をなくす会の「OBの会」を作って、3,4人でもよい、有志が時々集まって、お茶を飲んで話し合うことができませんか。一人一人が1,2枚の手書きの、ワープロ打ちの文章を持ち寄って,後は参加者の人数分だけコピーしてホッチキスで閉じるだけの、持ち回りの、「ゆずり葉文集」ができないでしょうか。郵送費、紙代、手間賃ぐらいは、自弁でまかなえませんか。私のHPの中の小論でよければ、いつでも寄稿します。時代にあった形のOB会の組織がつくれないでしょうか。
 私は、長い間、顧問を務めてきた者の一人として、皆様のことは決して忘れません。
 「ゆずり葉」を誰にゆずるのか。誰でもない、30年の歴史の功罪を、自分自身のためにゆずりたい。それぞれの人生がある限り「ゆずり葉」から与えられたものを失いたくはない。今の皆様は私と同じように、きっとそう思っておられることでしょう。
 皆様方が、よい人生、よい食生活を享有できますように。祈ってやみません。
 悲しむことをやめます。むしろ、今後の皆様方との新しい人間関係を前向きに大切にしていくことに希望を持ちたいと思います。
 最後に、私に対して、「ゆずり葉」最終号への寄稿の要請をしていただいた中野順子さまに感謝いたします。真情溢れるすばらしいお手紙でした。感動いたしました。あなたのような方々の情熱が、この会を今日まで支えてこられたのだと思います。今後とも解散後のみんなをつなぐために頑張ってください。ありがとうございました。

                                 以上

 PS:この文章は私の下記のHPに掲載させていただきたいと思います。ご了承くださいますか。

     http://homepage2.nifty.com/safety-food-forum/


真相を誤解するな (7月3日記載)

 食品関連の不正事件が続発しています。連日、私への取材が相当数あります。重要なことは最近の表示違反,違法添加物製造,使用事件を企業のモラルの問題にしてしまう、一部のマスコミなどの傾向があることです。
 そうでなくて、事態を社会的な仕組みの緩みの問題として理解する必要があります。例えば、6月29日に、福岡の日本食品が輸入しただし用のすじ肉を国産牛肉と偽って国の補助金を詐取したと言う事件が報道されましたが、すじ肉をつめたダンボール箱、9000箱の入った倉庫を検査した農水省の係官は結局一箱も違反を発見できなかったといいます。これなどは、いかに今日的な行政側の検査,監視機能が低下しているかを象徴的に物語っています。
 実監視回数に対する法定監視回数の比率である監視率は,年々低下を続けており,今日では全国で約14%になってしまいました。県によっては5%以下の所もあります。また行政の違反企業に対する処分,警告件数は昭和53年に比べて,平成10年には9分の1にまで減りました。したがって違反承知で営業する企業にとって,もはや食品衛生法も食品衛生行政も全く怖くなくなっているのです。最近の事件がすべて内部告発や密告で露見していると言う事実は、まだまだ隠された不正,違反が山ほどあるに違いないと思わせるような現状にあるのです.悲しいことです。消費者は公的な食の安全性を守る仕組みが崩壊しようとしている現実を知るべきです。
 エコノミスト誌が今私に要請している論文のテーマは「何故、食品メーカーは堕落してしまったのか」ということですが、その堕落を誘発する社会的な仕組みを摘発して、これを変えなければ,消費者の根深い食不信,食不安,食不満は決してなくなりません。BSE問題調査検討委員会の報告書で示された,リスク評価機関の設立や食品安全庁の新設ぐらいのことで,消費者の食の安全が守られるなどと考えるのはナンセンスです。今国民,消費者にとってしなければならないことは、消費者の権利を重視した食品安全法の制定であり,食品衛生行政の抜本的な変革です。リスクアセスメントだけでなく、地域現場でのリスクマネージメント、リスクモニタリング,リスクコミュニケーションを責任を持ってやりぬく公的な仕組みの構築です。年々、食品衛生監視員の数を減らしながら、兼務数を増やして、指導、監視の実務を骨抜きにしながら、何がリスク評価の強化なんですか。
 最近の新聞には各社の謝罪広告が相当なスペースを占めるようになっています.記者団の前で、会社幹部が操り人形ように平身低頭する。違法,違反事件が後をたたない。皆でわたれば怖くない、そのような風潮を招きかねない情勢が食の分野に固定化しようとしています。表示が信用できない。ポジティブリストシステムが崩壊しようとしている。こんなことは戦後のあらかたの食品関連事件を経験してきた私にとっても全く始めてのことです。
 消費者は真実を知るべきです。消費者団体は奮起するべきです。


つぎの拙著の目次がきまりました。BSE問題以後を考える企画です。(7月1日記載)


タイトル 「ポストBSE問題の展望」

―これからの食の安全をどうするのかー

著者 藤原邦達

第1部  BSE問題の本質を考える

1 歴史的な経過を総括する
(1) 事実関係の記録
(2) 事実経過からえられたもの

2 プリオン病の本質をさぐる
(1) プリオン病の概要
(2)  BSE発生の背景
(3)  BSEと新型CJDの関連性
(4)  異常プリオンの概要
(5)  肉骨粉についての見解
(6)  代用乳についての見解
(7)  BSE発症の予測
(8)  関連した疑惑について
(9)  プリオン病と種差
(10)  プリオン病と母子感染

3 プリオン病についての疑問点の整理

4 異常プリオンの排除
(1)  異常プリオンをふくむ臓器部位
(2)  牛由来の調味料、医薬、化粧品など
(3)  牛由来製品の安全性の点検
(4)  自主点検の手順
(5)  牛の解体処理法の改良

5 BSEの検査体制
(1)  わが国の検査体制と問題点
(2)  検査方法の問題点
(3)  検査法の改良のための取り組み

6 BSEと新型クロイツフェルト・ヤコブ病の予防
(1)  異常プリオンの検出
(2)  当面の予防対策
(3)  献血の規制

7 BSEの発症要因の解析
(1)  出生時点での一般状況の調査
(2)  飼育期間での一般状況の調査
(3)  投与飼料の一般状況の調査
(4)  出所と由来の追及
(5)  生きた家畜の輸入と移動
(6)  補足的な資料についての検討

8 BSEから派生した諸問題
(1)  牛肉の安全性に対する不安
(2)  消費者の牛肉不買
(3)  畜肉表示偽装事件の発生
(4)  表示一般に対する不信感のひろがり
(5)  雪印乳業の凋落、雪印食品の解散
(6)  企業倫理への不信感のひろがり
(7)  食品行政への失望と変革への期待のたかまり
(8)  消費者の権利要求のたかまり
(9)  農場から食卓までの一貫した政策への期待
(10)  予防原則導入の必要性
(11)  飼育技術の変革への期待
(12)  酪農、畜産業の将来への危機感の台頭
(13)  国際的な防疫体制との連帯の必要性の認識



第2部  危機管理のための提言

     ―BSE問題から得られた教訓を生かす―

1 BSE問題からの教訓の受容
(1)  BSE問題の特徴
(2)  BSE問題から得られた教訓

2 汚染源と汚染ルート解明の必要性
(1)  汚染源の解明についての農水大臣の見解は
(2)  宇野牛にK消費が回復しなかった真の理由が理解されているのか
(3)  汚染源を突き止めて異常プリオンを根絶することこそが重要である
(4)  牛肉の消費を回復するための体制づくりは
(5)  わが国での汚染源の追及は

3 消費者保護のための行政の抜本的な変革を
(1)  当事者の責任認知の必要性
(2)  とるべきであった対策は

4 消費者保護のための食品衛生法の抜本的な改正を
(1)  現行食品衛生法の問題点の要約
(2)  実務上の課題の山積
(3)  BSE問題が立証した食品衛生法改正の必要性
(4)  食品表示の徹底をはかる

5 酪農、畜産物の消費の回復を
(1)  危機的現状を正確に認める
(2)  個別の課題と早急に取組む

6 酪農、畜産業の育成と発展を
(1)  すぐれた品種の確保
(2)  飼料の安全性の確認
(3)  医薬品の慎重な使用
(4)  飼育環境の整備
(5)  検査、調査体制の確立
(6)  輸入検疫体制の強化
(7)  指導、監視体制の強化
(8)  関係者の資質の向上
(9)  屠殺、解体処理の方法の改善
(10)  飼料供給者の責任の重視
(11)  消費者への情報の公開
(12)  酪農、畜産関連の研究の推進
(13)  酪農、畜産業の振興
(14)  中小企業支援対策の推進

7 当事者の責任を考える
(1)  酪農、畜産関連の生産者として
(2)  国、政府として
(3)  研究者、技術者として
(4)  販売者、供給者として
(5)  消費者として
(6)  生協、農協として


第3部 ポストBSE・食品安全・法改正、行政変革へ

1 BSE問題調査検討委員会の報告書の概要

2 BSE問題調査検討委員会の報告書の評価するべき部分

3 BSE問題調査検討委員会の報告書の残された問題点

4 BSE問題調査検討委員会の報告書に見られるリスク分析の導入に関する問題点について

5 BSE問題調査検討研究会の報告書の後を受けて
  −緊急提言・消費者側は対応を急げ―

6 行政側が委嘱した審議会、調査会などの問題点

7 食品安全・法改正、行政変革の実務作業のフレームをどうつくるのか

8 あるべき食品安全・法改正、行政変革の手順について

9 食品安全・法改正、行政変革の方法論に欠陥はないのか

10 EUでの食の安全システムの形成に学ぶ
   −どのような類型の食の安全システムを目指すのかー

11 食品被害の体験に学ばない食品衛生法の改正運動は本物ではない

12 もう消費者に食不安、食不信などとはいわせない
   −もしも完璧な食品安全法ができたなら―

13 時間との競争が始まった

14 言い出しっぺの責任は重い

15 本気で取組むつもりがあるのかが問われている

                                以上


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皆様に感謝(6月20日記載)

 退院した後,HP再開後、皆様からのアクセスが急激に増えています。やはり書きこまねばアクセスしていただけないことがよく分かりました。おそらく明日で2000を越えるだろうと思います。感謝します。


論説の掲載のお知らせ(6月19日記載)

 私の協和香料化学添加物違法製造事件に関する論説「食品安全を揺るがす事態」が赤旗、6月7日版に掲載されています。ご覧下さい。


著書の書評の現状について(6月19日記載)

 3月25日に刊行した拙著「雪印の落日」{緑風出版刊)の書評がつぎの各紙に掲載されています。
日本経済新聞、日刊現代、週刊エコノミスト,東京新聞、中日新聞、北海道新聞、赤旗 なお、週刊金曜日から要請された著者の自薦文も参照してください。

2002年6月15日の近況報告  退院のご挨拶とHPの再開宣言:

 去る5月14日、思いもかけぬ坐骨神経系の激痛に見舞われて、急遽、近所にある宇治病院の整形外科病棟に入院しました。そのような突然の入院のために、このSAFETY FOOD FORUMのHPもやむなく運営不可能となり、一時休止宣言もできないまま、退院以後の今日まで、約1ヶ月間機能を完全に停止して参りました。
 幸いに、大事には至らず、今では大略痛みもとれました。勿論まだ本調子ではありませんが、徐々に復帰を図りたい所存です。
以上のような次第で、本日からこのHPを再開できるようになりましたことをお知らせ申し上げます。併せて、この間、予約した講演をお断りするなど、皆様にたいへんなご迷惑をおかけしましたことについても深くお詫び申し上げます。
 この一ヶ月の間に,食生活の安全分野では、以下のような出来事がつぎつぎに発生しました。
@ BSE問題調査、検討委員会の報告書をうけた食品安全委員会の新設への動き
A 雪印食品、雪印乳業関連の諸問題
B ミスタードーナッツ関連の違法食品添加物使用問題
C 表示偽装事件の続出
D 協和香料KKの違法食品添加物製造、市販問題
 こうした事件に関連して、入院期間中に、私に対する取材やお問合せが、いくつかありましたが、全てお断りせざるをえなかったことが残念です。また執筆中の「BSE問題以後の食品安全の展望(仮題)」の完成が遅れてしまたことを申し訳なく思っています。
 入院中は医師、看護婦、そして必死に療養に取組んでおられる患者の皆様方から多くのことを学びました。それらの成果を生かして、これから徐々に、マイペースを取り戻したい所存です。しかし、もう以前のような無理はきかない、きかせない、との家内からのご託宣もあって、ゆっくりと、慎重に、時間配分につとめねばなりません。
今後ともよろしくお願い申し上げます。
以上HPの再開に当たってご挨拶申し上げます。


2,002年6月16日 坐骨神経痛という病気について

 坐骨神経根が圧迫されて神経が異常に興奮し、引きつり,強直感、痛みが臀部,大腿背面部、下肢背部、ふくらはぎ、足首などに発生する。 歩行が困難になり、寝返りも不可能になる。整形外科には、高齢化時代を反映して患者が詰めかけている。
 治療法は安静、牽引、投薬、点滴、そして神経根ブロック,手術などであるが、概して神経系の異常を的確に治療することは非常に困難であると見受けられた。
 たとえば、問題神経組織を特定して,これに対して集中的に対処するというようなことがまだ不可能であり、相当にアバウトな治療法が依然として採用されている。
 たとえば、神経根ブロックはキシロカインを神経根近辺に注射して一次的に神経を麻痺させて痛みを抑える方法であるが、主治医は「神経をリセットする」と言う表現をとっていた。多子化に一時的にはリセットして痛みは収まるが、またある時間後にぶりかえしてくる。勿論なかにはそのまま痛みが納まってくる人もあるという。
これほど医学が進歩した時代であるというのに、いわゆるペインクリニクの分野には課題が山積しているようにみうけられた。

2002年6月16日 検査法の進歩について

 今日の画像診断技術の進歩は相当に評価できる。
 整形外科の場合には必ずレントゲン撮影、CT、MRI検査が行なわれる。とくに最後者は磁気共鳴装置であって鮮明な画像が得られる。手術などではMRI診断は欠かせない。  生化学検査、血液、尿検査なども必ず行なわれる。入院当初には、すべての検査が実施されて、治療方針の概要が決定される。
 病院を選ぶ場合には、その病院がどの程度の診断設備を持っているか、またそれらの診断検査のデータをどの程度、正確に解析、処理出来るかについて良く調査しておくことが必要であろう。


坐骨神経痛という病気について(6月18日記載)

 高齢化社会では老化にともなう神経系統の痛みを経験する人々が増えてくるだろう。事実私はこれまで頭痛,腰痛、関節痛等を全く経験したことはなかった。神経痛がどんなに深刻な生活障害なのかを全く知らなかった。特に2足で直立するようになった人間にとって,両脚にかかる負担が極めて大きく、高齢者がほとんど歩行困難や、姿勢障害に悩んでいるかを、この坐骨神経痛の経験からよく理解できるようになった。
 整形外科の外来や病棟には神経痛に悩む高齢者が溢れている。もちろん壮年、青年期の人たちもいる。椎間板ヘルニア、脊柱管狭窄症などといった病気は長年の脊柱のゆがみや姿勢不良によって発症する。そして微妙な神経系を圧迫して強直や痛覚を発生させる。
 実際に、寝返りや歩行が困難になるような神経の猛烈な痛みを経験して思うことはいかに若い時期からの正しい姿勢の保持や運動が大切かと言うことである。腹筋や背筋を適度に鍛えておく必要があるかということである。
 歩けると言うことがどんなに幸せであるか、と言うことは入院して見て始めてわかる.病院では、ベッドに寝ていて、廊下を歩く人々を心からうらやましく思った。
根気良く リハビリテーションに励む患者たちの涙ぐましい毎日を見せられて、手足が自由に動くと言うことがどんなに素晴らしいことかがよく分かった。
 坐骨神経痛という病気はそのような神経痛の一種である。


講演のキャンセルをお詫びする。(6月18日記載)

 この所の神経痛による入院で6箇所の講演予約をドタキャンした。まったく申し訳ないことをした。もっとも12年前の直腸ガンの手術の時には,6ヶ月先までの23件の講演予約をキャンセルしたこともあった。
 今回は特に、久しぶりの北海道講演をお断りせねばならなかったことが残念だった。6ヶ月前からのご依頼を間際になって中止せねばならなかったことは誠に汗顔の至りである。許して欲しい。つぎの機会をお待ちいただきたい。このHPの中で、とくに釧路市の田中さんにお詫びの言葉を申しあげる。


鍼灸はよく効く(6月20日記載)

 正直なところ,私の坐骨神経痛の治療では、整形外科での、手術を除くあらゆる治療法よりも、家内の旧友である宇治市内の女性の鍼灸師の、実に2時間に及ぶ鍼、灸、ゲルマニュウーム片の添付、通電療法が最も有効であったように思う。信じられないことであるが,これは真実である。


 
私の故郷について(2002年1月記載)

 私は、わが国の最西端、長崎県の五島列島、久賀島(ひさかじま)の出身です。
久賀島には戦後は一時3500人もの人口がありましたが、今では650人にまで減っており、典型的な過疎化に苦しむ地域になっています。何とかしてこの過疎化を食い止めようとして、現住者、出身者たちが協力して取組んでいます。
 久賀島はキリシタン信仰の島としても有名です。わが国最後の殉教者を出した「牢屋のさこ」の天主堂の十字架が夕日に輝くありさまはまさしく壮絶である、としか言いようがありません。五島列島は西海国立公園の一部でもあり、海つりの名所としても知られています。ぜひ一度お出かけください。

 私はこの故郷を題材にして昨年の7月に、一編の歴史小説(1500字、180枚)を書くことにしました。
題名を「紅毛船漂着記―久賀島での対応―」といいます。
 一艘の大破したスペイン船が16世紀末、久賀湾に漂着したという設定です。
 私が始めて書いた歴史小説ですが、このHP上に始めて披露することにします。毎週1話を掲載することにします。約50回で終わる予定です。


小説ー紅毛船漂着記ー久賀島での対応

藤原邦達作

 五島・久賀島年代記には、西暦一六五五年(明暦四年)六月二二日の記録に、「昼間、奈留島の西の口に向けて石火矢(大砲)をたくさん撃つ船が現れる。奈留代官は唐船と見て、曳き船を多数伴って久賀島の蕨小島の元まで乗り出した。唐船は天気が悪いので港へ入りたい、と申し出たため、奈留へ曳航。シャムから来た、唐人六八人乗りの船だった。」とある。
 この物語は、その八〇数年前に、南欧、イベリアからやってきた一隻の外洋帆船が久賀島に漂着した際の、成書には全く記載されていなかった七ヶ月間の出来事について書かれている。
(久賀島の地図)

第一話 最初の場面、サンタ・ドミナ号の漂着

 前夜まで荒れ狂っていた台風がようやくおさまった。元亀元年(一五七〇年)七月三日の夕刻、大破した巨大な唐船が久賀湾、久賀突堤沖に漂着して久賀の部落は大騒ぎになっていた。
 三本のマストが三本とも折れ曲がっていて、大きく傾いたこの船は満ち潮に流されて突堤付近にまでたどり着いた。破損した船首部分に刻まれた船名はサンタ・ドミナ号と読み取れた。船首に立っていた船長の名はジョバンニ・バッティスタ・コスタ、高貴な面立ちが特徴的な三〇歳になったばかりの青年であった。彼はかってイベリア半島の東部を支配していたアラゴン王家の末裔で、今はマリョルカ(マジョルカ)島に住むスペイン王家の貴族、伯爵であった。
 イベリア半島では八世紀以来、その北部にいたキリスト教徒と中南部にいたイスラム教徒が激しく争っていた。キリスト教徒は十字軍の気運に促されて一二世紀頃には半島の北半部分を占領した。そしてカスティラ、アラゴン、ポルトガルの三国が強大となるが、そのうちカスティラ王女イザベラとアラゴン王子フェルディナンドが結婚して、一四七九年に両国が統合されてスペイン(イスパニア)王国が成立した、スペイン王フェルディナンド五世は同じ年にイスラム教徒の最後の拠点であったグラナダを征服して統一を果し、美しいアルハンブラ宮殿を手に入れた。
 ドミナ号の船長としてジパングに派遣されたコスタはカスティラ王女と結婚したアラゴン王子の兄の曾孫にあたる。一四七九年当時のアラゴン王国では正統な王位の継承をめぐって二人の王子が争っていた。カスティラ王国では弟の王子に肩入れして王女と結婚させて両国の統合が行なわれた。兄の王子の一族は対岸のマリョルカ島に逃れて、あくまでもアラゴン王国の独立を目指したが、次第に力を失って、ついに一六世紀になってスペイン王家の貴族の一員となり、伯爵の称号を受けることになった。ドミナ号にはマリョルカ出身の、伯爵コスタを支持してアラゴン王国の再興を願うマリョルカ島出身の乗組員たちの一派とあくまでもスペイン王国に忠誠を誓う甲板長や副長、機関長たちのような旧カスティラ出身の乗組員の一派が乗り込んでいた。
 サンタ・ドミナ号は、マリョルカ島の首都パルマの港を丁度一年前の一五六九年七月三日に出航した。マリョルカ島は、イベリア半島の東岸に位置する都市バレンシアの沖合いにあるバレアレス諸島のなかにあった。船長のコスタ伯爵は東の果てにある黄金の国と噂されたジパング(日本)に到達して交易を行い、手に入れた財宝をスペイン王に献呈して、アラゴン王国の再興を願い出たいと思っていた。
 この船には甲板長と機関長、副長の三幹部が同乗しており、乗組員は六九人であった。ちなみにそのうちコスタをふくむ七人がマリョルカ島の出身であり、その他の幹部の三人をふくむ全員がカスティラ地方の出身であった。言うまでもなく、マリョルカ系の乗組員とカスティラ系の乗組員は出航以来事毎に対立していた。
 ドミナ号はマラッカで、たまたまジパングに布教することを命じられて故郷のリスボンからやってきたイエズス会の宣教師フランシスコ・ロペスを乗船させて九州の鹿児島に向かっていた。しかし、南支那海で猛烈な台風に見舞われて、三本のマストの凡てを折られ、帆を奪われ、船首と舷側をひどく損傷して三日三晩漂流するはめになった。ようやく台風もおさまったあとで、潮流に乗って、五島列島付近に漂着した。そして幸運にも久賀湾の入り口の折紙鼻付近で満潮に押し流されて、波静かな湾内の久賀突堤の沖合いに到達することができたのであった。
 船長コスタは天測儀と海図で、この地点がジパングの西端の五島列島の中央部であることを突き止めた後、入り江の周辺には相当数の民家の集落があることを確認した。舷側からおろした小舟が、鉄砲隊に守らせた使者の副長を乗せて、突堤に近づいた。妨害は全くなかった。一同は無事上陸した。迎えに出た役人に案内されて、代官所の大広間に通された。副長はマラッカで学んだ日本語を片言ではあるが話せた。挨拶のやり取りがすんだ後で、副長は事情を説明した。台風にあって大破したこと、積み荷を海に棄ててしまったので水と食料の補給を至急に要請したいということ、同時に船体の破損部分の修理をしてもらえるかどうかを打診したいということなどを話した。
 突然出現した、始めてみる紅毛人の奇妙な日本語での要求に代官たちは面食らって即答することが出来なかった。隣島の福江の宇久藩主にうかがいを出したうえで正式な回答をする、としか答えることが出来なかった。久賀島は宇久藩の直轄で、派遣されてきた代官が管理していた。
 副長は、いや何日も待ってはおられない。今夜からすぐに水と食糧が要る。直ちに都合して欲しいと重ねて要求したが、役人たちは藩の許可なく提供することは出来ない、との一点張りでどうしようもなかった。押し問答がしばらく続いたが、全く埒があかず、結局、副長は怒って一旦交渉を打ち切って、ドミナ号に帰って船長と相談することにした。 ドミナ号では幹部会議が開かれた。今すぐに補給がなければ飢え死にする。乗組員たちは殺気立っていた。何とか水と食糧を手に入れねばならない。結局、船長コスタは余り乗り気ではなかったが、甲板長が強硬に主張して、大筒(火砲)を撃って威嚇して、そのうえでもう一度交渉するしかない、という結論に達した
 ドミナ号は直ちに久賀の集落の裏山をめがけて、舷側にあった四門の大筒を撃った。飢えた乗組員たちはボートをおろそうとしていた。
 村人たちは雷鳴のような大筒の発射音のあとで、空を切って飛んできた弾丸が裏山で炸裂して、松林がなぎたおされるのを見て肝をつぶした。それは、まさしく久賀島の歴史始まって以来の出来事であった。
 コスタ船長は宣教師ロペスと二言、三言話し合ったあと、大声で水夫たちに命令した。 「ここはまだ、どのような地域であるかがはっきりしない。上陸する際には必ず武装して十分に注意するように。絶対に勝手なことをしてはならない。それから、食糧と水は副長が代表して手に入れられるように交渉する。決して乱暴を働いてはならない。」
 しかし空腹で死にそうになっていた乗組員たちは船長のいうことをほとんど聞いていなかった。彼らは我先に舷側のロープを伝って五隻のボートに飛び乗った。そして、夕闇のなかを、陸地を目指してひたすらにオールを漕いだ。台風で翻弄され続けて空腹と疲労困憊の極限にあった彼らにとって大地を踏みしめたいという思いはひとしおであり、船長も上陸を阻止するわけにはいかなかった。
 突然、乗組員の一人が威嚇のために陸に向かって鉄砲を発射した。コスタ船長はその異様な雰囲気に不安を感じて、すぐ横にいた宣教師ロペスの顔をみやった。
 ドミナ号の久賀湾侵入の知らせは、たまたまキス漁に出ていた久賀の漁師たちによって、いちはやく長老野原伝十郎に伝えられていた。すぐに代官の松浦平左衛門にも知らせがいった。この当時、西欧の外洋帆船が九州各地の港に現れたという噂は五島列島にも届いていたが、久賀島の住民にとって、始めてみる紅毛船の、折れ曲がってはいたが、三本も帆柱のある、夕陽に映えて黒光りのする巨体は全く驚異的であった。そしてまるで雷鳴のような大筒の轟音がすべての村民をとびあがらせた。ワラベ蕨、タノウラ田之浦、フカブラ深浦,イノキ猪ノ木などの各部落の人びとは小高い丘に上って、久賀湾に浮かぶ奇怪な紅毛の船のアカリ灯光を遠目に食い入るように見つめていた。しかし彼らはその時、間もなく飢えた狼のような乗組員たちが身近に現れて、略奪、暴行の限りを尽くそうとしていることを、そして村中が恐怖のどん底に突き落とされようとしていることを全く知らなかった。
 代官は数発の大筒が撃ちこまれた直後に、藩奉行に注進する、と言い残して、早馬を飛ばして田之浦に直行した。そこからすぐに伝馬船に飛び乗ってとなり島の福江の城に向かった。何のことはない、代官は恐怖の余りに、現場放棄、敵前逃亡と同じ事をしたのであった。
 医師の藤原の武生(たけお)は急遽、長老宅をたずねて「、宇久藩の支援は全くあてにならない、自分たちだけで事態を解決せねばならない、何とかして女子供たちを護らねばならない。対策を相談するために、緊急に評定衆を招集すること」を進言した。この島には藩の代官が常駐していたが、各部落の揉め事の解決や農漁業の対策や重大な決定事項の処理などでは各部落の代表である評定衆が合議して事にあたることになっていた。長老はその纏め役としてもっとも重要な地位を占めていた。



第二話 時代的な背景について
 わが国では戦国時代の真っ只中の、西暦一五〇〇年代に入ってすぐの頃に、西欧ではポルトガル、オランダ、スペインなどの諸国が海外に植民地を求めて大航海時代に突入していた。その頃、地理的大発見、遠洋貿易航路の開拓、海外市場の獲得のために外洋帆船が急速に進歩した。一四八六年に喜望峰がみいだされ、一四九二年にコロンブスがアメリカ大陸を発見し、バスコ・ダ・ガマがインド洋貿易航路を開拓したが、これらはいずれも典型的な三本マスト横帆船によるものであった。
 一五一〇年にはポルトガル人がゴアを占領し、翌年にはマラッカに到達した。一五五〇年以降は各国の船が西南、北東アジアの各地に来航した。西欧の文化と宗教がこれらの外航船に伴って東洋にもたらされたことは特筆に値する。東洋人は、西欧人の残忍な征服者としての一面と平和な宗教者としての両面を同時に見せつけられることになったが、こうした西欧人の表裏、光陰についての印象は、アジアの人々の意識の中に今日まで根強くあとをひいているように思われる。
 一五四三年(天文一二年)、種子島に漂着したポルトガル人が始めてわが国に鉄砲をもたらした。まもなく一五四九年(天文一八年)、聖フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸して始めてキリスト教をわが国に伝えた。
 五島列島でのキリシタンの歴史は一五六二年、永禄五年、キリシタンの日本人医師ディエゴが第一八代五島領主宇久純定の病気を数日で全快させたことに始まるとされている。一五六六年には、ポルトガルの外科医の免許を持っていたルイス・デ・アルメイダ修道士と日本人のロレンソ修道士が派遣されて、再発した純定の病気をなおした。このときに始めて福江で二五人、奥浦で一二〇人に洗礼を授けたと記録されている。
この頃からわが国の近海には、黄金の国、ジパングを目指して航行してきた西欧の船が現れるようになったが、他方で同じ時期にわが国の後期倭寇の船団も東南アジア、中国大陸の沿岸各地に現れて猛威を振るっており、わが国だけが東西文化の交流と無関係に存在していたわけではなかった。
 中央本土では織田信長が一五六〇年、永禄三年に桶狭間の合戦で今川義元を破り、一五六八年、永禄一一年には将軍足利義昭を奉じて京都に入り、その翌年には伝来した最新兵器、鉄砲の製造基地であり、貿易港であった堺を征服した。この間に信長に代表されるわが国の武将たちは鉄砲の戦術的効果に着目して、製造された鉄砲の争奪戦に血道を上げた。その後の信長の全国制覇もこの時点で最先端武器の製造基地、堺の攻略、支配に成功したからだと言われている。
 仏教の低迷、僧侶の堕落、特権階級との癒着が民衆を絶望させていたこの時代に、従来の中国文明に代わって、西欧文明が伝来し、キリスト教という新しい宗教が民衆にひとつの希望を与えることになった。あらゆるところで新旧体制の相克、混乱、交代が始まっていた。
 一五六九年、永禄一二年には信長はキリスト教の布教を許可している。
 この物語は、その翌年、一九七〇年、年号の改まった元亀元年の七月、マリョルカ籍の外洋帆船ドミナ号が久賀湾内に漂着したことから始まる。



第三話 地獄の始まりの一夜

 その夜、長老は評定衆と村中の男たちを久賀の海沿いの高台にある禅門寺に招集した。紅毛船をはばかって、ろうそくの灯がもれないように窓には覆いがひかれた。住職の禅尊はその夕べ鐘楼に登って梵鐘を打ち鳴らしたあと、評定が始まるまで本堂でひたすら念仏を唱えていた。
久賀湾に浮かんでいた紅毛船の夜景はまた、村人たちを驚かせた。夜襲を警戒して、 また威嚇のためにともされた十数台のランターンが左右の舷側に吊るされていて、こうこうと夜の海辺を照らしていた。禅門寺に集まってきた男たちは、海岸寄りの久賀湾を取り囲む数カ所の高台から紅毛船を眺めて、ただならぬ光の渦に恐怖を新たにしていた。  定刻までに、足腰の立たない老人と病の床にあるものを除いて、島中のすべての部落の、すべての男たちが集まった。竹やりを持ち、鍬、鎌、棍棒を持って、中には長らく使ったことのなかった弓矢をたづさえて、総勢五六〇人の日焼けした男たちが本堂と中庭に集っていた。
 長老の短い挨拶のあとは日ごろから最も人望のある武生がまとめ役になって、この非常事態をどうきり抜けるかについて喧喧諤諤、怒号の飛び交うような評定が行なわれた。  およそ二時間もたった頃であった。突然山門のあたりが騒々しくなって、髪を振り乱した女たちが子供を抱いて、恐怖に震えながら駈け込んできた。彼女たちは狂ったように叫んだ。
 「紅毛たちが襲って来た。鉄火矢を撃ち鳴らして、深浦に上陸したあと、山越えして蕨、田之浦にまでやってきた。手当たり次第に食い物をあさって、女子供に乱暴、狼藉を働いている。」
ドミナ号の乗組員たちは暴風雨の中で、積荷を海に捨ててかろうじて助かったが心身 ともに飢えていた。そして食料調達の交渉が不調に終ったことを知った時点で彼らは船長の命令を無視して、直接行動に出たのであった。もはや指揮系統はなかった。彼らは鉄砲を撃ちながら、われさきに民家に侵入した。部落の男たちは全員禅門寺に集まっていて、そこには妻子や娘たちのほかには誰もいなかった。食べられるものは手掴みで食べた。それだけではなかった。食欲が満たされたあとで、長い船旅で禁欲の限界に達していた荒らくれ男たちは人目もはばからずにいたるところで暴行を働いた。女たちは数人の男たちに押さえつけられて、存分に犯された。悲鳴とうめき声がそこここに響き渡った。娘たちは今まで見たこともなかった赤ら顔の、鬼のような男たちに入れ替わりたちかわり犯された。抵抗は出来なかった。ほとんどの娘たちは恐怖のあまりに失神してしまった。それは征服者たちが歴史のあらゆる局面で演じてきた光景でもあった。丁度四百年前の文永、弘安の役の際に,蒙古軍の兵士たちが隣り島の壱岐、対馬でしたように、それは命懸けの闘争に勝ち残った男たちが異民族のなかに自分たちの子孫を残すための本能の儀式でもあった。相手が異教徒、異民族であると言うだけで、性獣たちの論理と作法が平然とまかり通ったのであった。
 逃げ込んできた女たちは正面にいた武生に向かって叫んだ。
「武生様、おまえのたまき様が侍女たちといっしょにさらわれて行った。」
 武生の婚約者であったたまきはその日は三人の侍女を連れて、深浦の叔母の家を訪ねていた。そこに乗組員たちが乱入してきたのである。
 会場は一瞬静かになった。たまきは村一番の美女、才媛であり、村塾の教師でもあった。長老の娘として、武生と来春には婚儀が行われることが決まっていた。そのたまきが三人の侍女たちとともに紅毛船に拉致されて行ったという。一瞬長老の表情が変わった。そして武生の顔も青ざめて唇が引き締まった。武生は大刀を腰にさして立ちあがり、飛び出して行こうとした。男たちも一斉に外に向かって駆け出そうとした。
 しかし、長老は大手を広げてその前に立ちはだかった。そして大声で言った。
「待て、おまえたちの気持ちはわかるが、今、このままで、てんでにあの黒船に立ち向かっても勝ち目はない。この評定をまとめあげて、村中で取り組むしかない。武生よ。たまきだけのことではない。三人の侍女たちも取り戻さねばならん。冷静に、とにかく、まずは交渉によって局面を打開するのだ。」
武生は漸く思いとどまって座長の席に戻った。
その時であった。鍛冶職人の親方、田之浦の伝次が立ち上がった。伝次の娘ちづもさらわれた侍女の一人であった。
「長老様、紅毛船の横暴を食い止めるためには力が必要です。竹槍や鋤、鍬では勝てません。勇ましいだけでは駄目です。田之浦の倭寇衆のいうことでは紅毛船は今マラッカ、ルソン、支那の各地で植民地をかすめとり、至る所で原住民に乱暴を働いているそうです。彼らは鉄砲という恐るべき武器を持っていて、その力には弓矢、刀剣も全く刃が立たないといわれています。」
 ここで伝次は一息ついて、すぐに大声で続けた。
「実は、私は泉州の堺で修行中に種子島から伝来した鉄砲というてつひや鉄火矢の鋳造の仔細を学んできました。種子島とは縁故のある紀州の根来衆の鍛冶職人とも一緒でした。私はその鉄砲を一挺持ち帰っています。私は田之浦の鍛冶場でその鉄砲を急いで製造したいと思います。ぜひお認め下さいますように。
 交渉するにしても、抑止力の裏づけがないと相手方の無法を食い止めることは出来ません。道理や勇気だけではやっていけない末世の時代に生き残るには力を貯えるしかありません。」
 当時わが国にやってきた西欧人たちは、わが国の鍛冶職人たちが精巧な南蛮渡来の機械製品を直ちに摸造することができる技術を持っていたことに一様に驚いていた。時計、天球儀そして鉄砲の製造もその例外ではなかった。時は戦国時代の末期、覇権を争っていた武将たちの着眼も見事であった。鉄砲が決定的に勝敗を決める武器として有効であるという評価が直ちに下された。それらの大名の代表的な存在が織田信長であった。彼は堺の鍛冶衆に命じて、鉄砲の大量生産を可能にした。伝来時点からわずか一七年後の永禄年間、桶狭間の戦の以後、鉄砲隊が大活躍をすることになった。各地の武将たちも例外ではなく、当時堺には鉄砲鍛冶を学ぶために多数の職人が全国から集まっていたといわれている。 伝次はもともと久賀島中の鋤、鍬などの農機具や包丁、釣り具などを一手に扱う鍛冶職人の家に育った。父親の傳吉は新しい技術を習得させるために伝次を堺に修行に出した。伝次はそこで種子島以降の、ポルトガル、スペイン、オランダ人たちがわが国にもたらした時代の新しい風を実感するようになった。彼は鋳造技術がつぎの時代を切り開くという直感に基づいて、鉄器製造の先端基地であった堺の高度な鋳造、鍛造技術を存分に吸収した。船舶補修の金具類を始めとして、精密機械である時計、オルゴールから、そして当時堺で盛んに造られていた鉄砲の造り方まで、当時の最新、最高の技術を身につけたのであった。後年、研究熱心で天才的な伝次の曾孫は、水田の草取り機械である「伝次車」を発明して本土、全国に普及されるようになったといわれている。
 伝次は外洋帆船ドミナ号を技術屋として冷静に観察していた。長崎、堺などで見てきたポルトガル船と比較していた。村人たちが驚愕した大筒の威力も知っていた。そして大筒と並んで紅毛たちが船上から撃ってきた鉄砲にも驚くことはなかった。
 彼は会衆の前で、今すぐ大筒は無理でも鉄砲なら作れる。紅毛の侵略から村びとを守るには鉄砲を作って、それも出来るだけ沢山製造して男たちに配備して、鉄砲隊を作るに限ることを力説した。その時点では、民家に乱入した紅毛人たちの略奪、暴行の被害に遭った女子供以外の誰ひとりとして鉄砲を見たことがなかった。
 伝次は自分が秘蔵していた鉄砲を持ってきていた。会衆が水を打った様に静かになって注目する中で、彼はそれを袋から取り出して、たま弾丸をこめて、火縄に点火した。発射音が鳴り響いた。村人たちは突然のその轟音に飛び上がった。弾丸は遠くの鐘楼付近に置かれていた標的に見事に命中した。どよめきがおこった。煙と火薬の匂いがあたりに立ち込めた。男たちはそのような魔法のような仕掛けが本当に造れるのか、半信半疑であった。長老は冷静に質問した。
「それだけの原料の砂鉄はあるのか」
「堺から持ちかえった鉄屑と十年分の砂鉄の貯えがあります。」
 武生が問うた。
「五〇挺つくるのにどれくらいかかるのか。弾丸も出来るのか」
 伝次はやや考えて答えた。
「二〇人の人手を集めれば二、三ヶ月くらいで出来るでしょう。弾丸の火薬はのろし用のものを精製すればよいと思います。」
久賀島に火急の事態が発生した事を隣島の宇久藩庁に知らせるために、田之浦の後の 山からのろしを上げることが決められていた。田之浦にはのろし衆がいて、いつでも役立てられるように、本土から取り寄せた相当量の火薬を用意していた。のろしの打ち上げも種子島以後に南蛮人から学んだ技法であった。
 長老は決断した。
「よし。伝次は田之浦衆を集めて鉄砲五〇挺を二ヶ月以内に造れ。ただし、この武器は将来たとえ藩からの申し出があっても、決して渡してはならない。たまきと侍女たちの取り戻しの交渉には通詞が出来る武生と私の二人があたる。今夜はこれで散会する。くれぐれも軽はずみな行為を慎むように。注意して帰るように。」
 男たちは紅毛たちに荒らされたという各部落にある我が家を目指して息せっきって帰って行った。帰路を急ぐ男たちの目には久賀の海に浮かぶドミナ号のランターンの光がおぞましく映っていた。ドミナ号が時折鳴らす汽笛の音は久賀島の人々のおそれと怒りと憎しみをかきたててやまなかった。



第四話 ドミナ号甲板上での狼藉

 ドミナ号の乗組員たちは本国を出航してから、征服地の各地の港でしてきたとおりの乱暴狼藉をこの久賀島でも行おうとしていた。
拉致されてきたたまきと3人の侍女たちは村村の襲撃から帰ってきた荒くれ男たちの、その夜の酒盛りのなぐさみものにされるはずだった。船底の酒蔵だけは台風の被害を受けなかった。酒に女という悦楽は外航船にはつきものであった。こうした場合には、船長はいつでも見て見ぬふりをせねばならなかった。
 たまきと侍女たちはたちまち裸にされた。とりわけたまきの肌はぬけるほど色が白かった。男たちは自分たちよりも肌色が白い日本人の女に驚きながら、ひとしきりはやしたてた。
 そこへ副長が突然現れて、村の長老の娘であるたまきだけはこれからの交渉に人質として役立てる、と言う理由で、船長室に連行する、と言い渡した。男たちは不服そうであったが結局副長の命令に従った。
 そのあとは、甲板上は杯盤狼藉,酒池肉林の現場と化した。
性獣の一番手はいつも中年の甲板長ガルシアに決まっていた。彼は侍女の一人に近づいて両腕をつかんでひきたてた。悲鳴をものともせず、マストの下にあるロープ置き場の小高い台の上にあお向けに押し倒して、縛り付けた。ワインをグラスにいっぱいについで、  「さあ花嫁さん、いっぱいいかがですか」といって、無理やりに唇を押し開いて流し込んだ。侍女は蒸せかえって咳き込んだ。赤いぶどうの酒は白い肌をピンク色に染めて流れた。幾度も悲鳴が上がった。男たちは喝采した。たちまち全裸になった甲板長は女の上に激しく覆い被さった。再び悲鳴が上がった。男たちはすぐ近くに集まってきた。そして、その情景を間近に見ながら歓声をあげて酒盃を傾けた。ガルシアには忽ち絶頂が突き上げてきて、そして終わった。つぎつぎに男たちは台の上に上がって、同じ行為を繰り返した。
 ほかの2人の侍女たちも甲板の片隅で泥酔した男たちの犠牲に供されていた。男たちが疲れ果てて、情欲が枯渇するまで、その行為は繰り返し繰り返し行なわれた。それは紛れもない姦淫であり、強姦であり、母国では決して許されない犯罪であった。しかし当時の外航船では、このような現地人に対する無法、非道の行為は決して処罰されることがなかった。命がけで未知の国を目ざして航海してきて、しかもここ数日間、激しい台風に耐えて、ひとしお鬱積していた情欲が沸騰していた。それらの行為はあたかも男たちの冒険の代償でもあるかのように行なわれた。すさび果てた男たちの激しさに、時には女たちの命が失われることさえあった。
 異教徒、異民族間の性的交流は普通のことであった。そのようにして人類の混血と進化が促進されて来たのかもしれなかった。
 征服者には、命がけの戦闘を勝ち抜いたことへの代償として被征服者へのあらゆる性的暴力の行使が正当化されてきた。そのたびごとに悲喜こもごもの人間模様が描かれてきた。 昨夜の乗組員たちの久賀島に上陸して行った暴行や今しがたドミナ号の船上で繰り広げられていた凌辱の情景もそのような異民族交流の一こまであったのかもしれなかった。
いうまでもなく親善、交易という平和的な接触のなかで、異民族間の性的な交流が可能となった場合もある。遠距離間の諸民族の海を越えての出会いがあった。物品の交換の代償としての性的交流もありえた。貿易に従事した当事者と現地住民の間に婚姻が成立することもあった。船が漂着して、乗組員と現地の女性との間に愛が芽生えることもあった。暴風雨を避けて寄港した船の停泊が現地民と異邦人の混血を促進することもあった。そして何時の場合でも船は重要な性的交流の媒体となってきた。
 五島列島は、わが国の最西端に位置しており、玄界灘を介して大陸、朝鮮と最短距離にあった。さらに九州本島がヨーロッパとの文化的、経済的な交流の中心地であった関係で、東南アジアから北上してくる黒潮に乗ってやってきた多数の異邦人の船は、五島列島に漂着し、あるいは嵐を避けて寄港した。とくに久賀島には玄界灘に開かれた北向きの入り江である久賀湾があったために、毎年のように襲来する暴風雨を避けて見知らぬ外洋帆船が寄港して、水や食糧を要請することが多かったものと思われる。
 その一方で、荒海に育った久賀島の男たちは田之浦、蕨の港から倭寇の乗組員となって船出して、大陸、東南アジアの各地の女性たちとのさまざまな性的交流を経験することになった。後年、シャム国のアユタヤには四〇〇〇人もの日本人がすむ町ができるほどであったという。もしも徳川幕府の鎖国政策がとられていなかったなら、日本人もまた西欧人と並んで異民族との大規模な性的交流の歴史を問われるような存在になっていたかも知れないだろう。



第五話  船長室の場面

 たまきは裸にされたまま船長室に連れられてきた。さすがに長老の娘であるということで、捕らえてきた男たちもすぐには手を出すことが出来なかった。副長には水、食糧を手に入れるための交換条件の人質にする思惑があった。
 船長室は広々としていて、壁際には大きなベッドが置いてあった。副長が立ち去った後、ドアを開けてこっそりと入ってきたのは機関長のゴンザレスであった。たまきは後ろ手に縛られてベッドの上に転がされていた。ゴンザレスは目の前に横たわっている女体のあまりの美しさに思わず息を呑んだ。
 マリョルカを出航してから十二ヶ月、この中年男の禁欲にも限度があった。ゴンザレスは拉致してきた時からたまきを狙っていた。
 戦利品にも等しい裸の娘の前では、女を犯す、というキリスト教徒の罪悪感は全く失われていた。
 ゴンザレスはもどかしげに服を脱いだ。たくましい裸身には黒々とした胸毛が見られた。急いでしたばきを脱ぎ捨てて、いきなり、うつぶせになって身をかばおうとしていたたまきの上にのしかかって、しっかりと抱きしめた。懐かしい女の香りがした。麝香を焚きしめてあったたまきの柔らかい肌の感触は男の官能を掻き立てた。たまきはもがいた。しかし後ろ手にくくられた体は男の体重に押さえつけられて全く身動きが出来なかった。つぎにくるものを予感してたまきは舌を噛もうとした。しかし、いざとなれば死ぬことは簡単ではなかった。舌は噛みきれなかった。男は無理矢理たまきを仰向けにした。馬乗りになって、豊かな乳房を押さえつけた。身をかがめて乳首を唇に含んだ。体をずらしながら、そのまま下に伸ばした右手の指先が、ふくよかな恥丘に達した。たまきは恐怖と羞恥のあまりに失神しそうになった。しかし決して現実を逃避しきることはできなかった。男の手は、しっかりと閉じられた両足を内側からこじ開けようとした。たまきは暴れた。不自由な腰をくねりながら精一杯抵抗した。悲鳴を上げた。男はベッドから立ちあがって、タオルを取ってきて、たまきの口に猿ぐつわを噛ませた。それから周りを見回して、部屋の片隅にあったロープを持ってきた。今度はベッド際にたまきを追いこんでから,そのきゃしゃな右足をベッドの右の支柱にしっかりとくくりつけた。馬乗りになって、両の乳房をしっかりと押さえつけている男の体重で、たまきの抵抗は完全に押さえ込まれた。耐えられないほどに男の欲望が高まっていた。異国の処女を犯すという、経験したことのないような誘惑が男をいっそう高ぶらせた。
 たまきは女が辱められれば、命を断たねばならない、と教えられていた。しかしこの最後の瞬間でも舌を噛みきれなかった。涙を流しながらもうどうでもよいと思った。たまきは裸身をうねらせながら抵抗することが無駄だと知った。自分はこのまま、この紅毛人に連れられて久賀島から姿を消すことになるのだ、それなら死ぬのと同然だと思った。
ゴンザレスは半ば放心状態になっていたたまきの両足をこじ開けた。たまきは覚悟した。これが許婚の武生との別れだと思った。よりにもよって紅毛人に犯される定めになったことを、悲しみながら、そして目を閉じて最後の時を待った。
 その瞬間であった。たまきの上にかかっていた体重が急に軽くなった。目を見開くと,ベッドの傍らには黒い衣装をまとった背の高い紅毛人が立っていた。胸には十文字の飾りがかかっていた。まだ若かったが、乗組員たちには見られないような気品があった。ベッドから突き落とされたゴンザレスは下半身をかばいながら、立ちあがった。
 「機関長よ、服を着なさい。その醜悪な裸身をかくしなさい。兄弟よ。罪を犯すなかれ。イエス・キリストの名において。そしてあなたの帰りを待っている故郷の家族の名において。」
 たまきはその人物が何を言っているのかわからなかった。しかし威厳に満ちたこの人物が抗うことの出来ない霊的な力に満ちていることがわかった。この人物が男を完全に圧倒している雰囲気がそこには確かに漂っていた。
 「兄弟よ。私はあなたのこれまでの苦難を知っている。異国への旅路が、航海がどんなにか過酷であり、苦痛であったかを私はよく知っている。そして同時に、殺すなかれ、盗むなかれ、偽るなかれ、犯すなかれ、というモーゼの十戒が悪魔の誘惑によって、この船の寄港地のいたるところで乗組員たちによって無視されてきたことも知っている。今もまた、この船の甲板では不法に拉致してきた娘たちに対して姦淫の罪が犯されている。乗組員たちによって、まさしく酒池肉林の地獄絵が繰り広げられている。私はイエズス会の宣教師として神の教えを世界各地に広めるためにこの船に乗ってきた。しかし、寄港地のいたるところで、あなたがたの悪魔のような所業が繰り返されて、そのたびに私の忠告はことごとく無視されてきた。私にはもはや罪の許しを祈るしかなかった。進んだ西欧の文明と神の教えを未開の地にもたらし、この地上に平和と安息を広めるという私たちの任務は現実にあなた方によって裏切られつづけている。あなた方は寄港地では、いたるところで姦計をめぐらし、殺戮をあえて行い、獣慾をほしいままにしている。」
 正気を取り戻して、制服を身にまとった機関長はいまいましそうに、たまきの足首のロープを解いた。そしてそばにあったガウンを投げかけた。たまきは急いでそれをまとった後、両手で前を覆うようにしてベッドの横にひざまずいた。
 「この女は村の長老の娘でたまきという名であると聞いている。たまきはたしかに美しい。たしかに魅力的である。しかも彼女がおまえの前に裸形のままに置かれたことよって、おまえはたちまち悪魔の誘惑に負けた。私は隣室で女の叫び声を聞いていた。そしてひたすら神の加護を祈っていた。しかし、女の悲鳴は極限に達しようとしていた。ついに私は立ちあがってお前をひきとめねばならないと思った。」
 「ゴンザレスよ、さあ祈ろう。神とその子と聖霊の御名において。これまでのお前の所業について許しを求めよう」
 そこへ船長のコスタが入ってきた。彼は室内を見渡して、すぐに状況を察知した。しかし何も言わなかった。黙ってひざまずいてロペスに倣って祈りの姿勢をとった。不承不承ではあったが、機関長も従わないわけにはいかなかった。
 獣慾の場面が一転して厳粛な祈りの場面に変わったことに、たまきは驚いていた。
わが国の神官、僧侶たちは瞑想し、座禅し、祈祷はするが、神社か寺院という舞台があって始めて神官、僧侶であることができたのではないか。彼らは直接このような生活の場面に現れて、その場所で立ち働いて、そしてそこで共に祈るというようなことをしたであろうか。えてして権力者の側に立って強者としてふるまい、弱者の側には立とうとしない僧侶や神官が多かったのではないか。
 ここでは質素な僧衣をまとったこの紅毛の人物が状況を一転させて、たちまち祈りの場をつくった。この霊的な力が、精神的な何物かが後日の彼女の人生を大きく変えるようになることを、たまきはそのときはまだ気づいてはいなかった。
祈りが終わったあとで、宣教師ロペスはたまきのそばに歩み寄って、その黒髪に手を置いていった。
 「許してほしい。私はゼウス・大日様の教えを伝えるためにやってきた宣教師です。私の名はロペスといいます。罪人のさがが、そして悪魔の誘惑がこのような事をさせてしまった。私たちの国の船乗りたちが異国の各地で幸せに暮らしていたあなた方を犠牲にしています。その傍らで私たちが神の教えを広めようとしていることに私は疑問を感じています。法王庁への報告書にもそのことを書いています。どうしようもない怒りと悔しさに私の筆跡はいつも乱れています。どうか、このたびの無礼を許していただきたい。」
思いもかけず、それはたどたどしいながらも、たしかに日本の言葉であった。
 ロペスの心を込めた謝罪の気持ちは確かに伝わった。ロペスはたまきにとって救い主になった。やっと落ち着きを取り戻したたまきは深深と頭を下げて感謝の気持ちを表わした。 当時、世界的な布教にあたるイエズス会などの宣教師たちは、布教予定地の言葉をあらかじめ習得するように定められていた。ロペスも漂流してきた日本人漁師から、マニラで日本語を学んでいた。ロペスはフランシスコ・ザビエルが一五四九年にはじめて上陸した鹿児島を目指して、この船に乗り、ようやくこの久賀島に漂着したのであった。
 一五〇〇年代、ちょうどわが国の戦国時代の末期に、ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスは世界の各地で覇権を競い合っていた。国王たちは植民地を拡大するために外洋帆船を世界中に派遣した。征服、領土拡張、交易の任務を帯びた各国の船には、神の教えを異郷の各地に広めるために宣教師が同乗していた。キリスト教以外の宗教は偶像崇拝の教えであり、そのような信仰を持つものは悪魔の支配下にあり、したがって、異教の国を征服し、人々を悪魔から解放して、キリスト教徒に変えることが最高の正義であるとされていた。
 キリスト教国の国王の旗をかざして、あわよくば植民地支配を可能にすることを求めていた当時の西欧列強の圧力がついに東洋のはてにあるジパングにも及ぶようになった。そのドミナ号という尖兵がついにこの久賀島の現地にまでも現れるようになっていたのである。  「船長コスタよ、早く拉致してきた娘たちを返しなさい。村人たちの怒りを買ったままでは、私たちは食料も手に入れられない。船体の修理もたのめない。そして何よりも、私は上陸して神の教えを説くというイエズス会から託された私の任務を正しく果たすことができない。この人たちを返すみかえりに、私たちの要求が認められるように一刻も早く交渉を成功させていただきたい。」
 コスタは深く頷いた。甲板上ではまだ狂宴が続けられていた。船室ののぞき窓からは、さまざまに演出された恥態に歓声を上げている裸体の性獣たちの情景が見えていた。コスタは急いで窓の覆いを下した。そして言った。
 「コスタよ。あなたの権限で、必ずあの男たちの乱暴をやめさせなさい。」
コスタはゴンザレスを伴って急いで船長室を出た。そして甲板上の狼藉の現場に急行した。  「必ず父上のもとに帰れます。しばらくここで辛抱して下さい。衣服はすぐに届けさせます」
 ロペスはたまきに優しくそう言って、すぐに船長たちの後を追って出ていった。
たまきは始めて声を上げて泣いた。何故にこのような非道が行なわれるのか。男たちの身勝手が許されるのか。辱めを受けねばならないのか。かろうじて危険を免れたあとの安堵と怒りと無念さが入り交じって涙が止めどもなく流れ落ちた。


第六話  久賀島の歴史的な位置づけについて
 五島久賀島年代記刊行会の山口伝司氏らがまとめられた「久賀島年代記」の最初の一行には、「古く西暦八〇四年、延暦二三年、七月六日、遣唐使が松浦郡田浦(田ノ浦のことか)を出航する。このとき空海は第一船に乗船、第三、第四船との連絡途絶。」と記されている。
 小野の妹子が西暦六〇七年に、始めて遣隋使として大陸に派遣されて以来、わが国の中央政権から中国に向かって出航した当時の最高の文化人、高僧とその随員たちを乗せた船舶は途中、必ず玄海灘の荒波を突っ切って航海せねばならなかった。夏は台風銀座といわれるような荒海を、冬は寒波烈風が吹きすさぶ海上を安全に航行するために、五島列島は九州と大陸との中継地として選ばれたものと思われる。隣の福江島の三井楽は万葉歌人の歌に詠まれて、最果ての万葉の地として有名である。とりわけ史実にある田ノ浦は各地に同名の場所があるが、地形的に外海に面した優れた内湾を抱えている点で、久賀島の田之浦は大陸への、または大陸からの使節団の中継、補給、寄港地として、奈良、京都の中央政府にもひとしお名を知られていたのではなかろうか。
 久賀島が長年にわたって、わが国の最高水準の文化人とその随員、官僚たちの寄港、宿泊地として、さらに大陸から持ち帰られた最高水準の文物の一時保管の場所として位置づけられていたこともこれまで余り知られていなかったように思われる。
 五島列島は確かに離島であり、それゆえに平安時代以後の宮廷の勢力争いに破れた公卿たちが流罪となり、無念の涙を流しながら隠棲した場所であったかもしれない。彼らのうちのあるものは寺子屋をつくって地域の子供たちに読み書きを教え、土地の人々に尊敬されるようになっただろう。となりの奈留島には、かってその悲運の公卿の死後に遺徳を偲んでつくられたという藤原大明神と称するほこらがあったといわれるが、いつしか朽ち果てて、今はその場所すら定かではない。
 久賀島の人々は今日でも教育熱心であるといわれる。これは明治政府が学制を制定した明治五年からわずか二年後にこのような離島であるにも関わらず久賀、蕨、田之浦の三箇所もの小学校を同時に創立していることからも明かである。遣唐使以来の文化的な伝統がしからしめるものであったのではなかろうか。
 後になってロペスの報告書のなかにも「私たちが見てきたどの地域の人々よりも、おそらく西欧の諸国よりも識字率の高い人々がこの島に住んでいることに大きな感銘を受けた。」と記されていた。
 かって、イエズズ会の聖フランシスコ・ザビエルは日本人ヤジロウと出会って間もない一五四八年一月の書簡第五九に「もしも日本人すべてがヤジロウのように知識欲が旺盛であるならば、新しく発見された諸地域のなかで日本人は最も知識欲の旺盛な民族だと思います。」と書き、その後も日本の国情や文化や宗教事情についての一層詳しい情報を入手することに努めるようになり、ついにその翌年日本に渡航する決意を固めることになったとされている。イエズス会だけでなく、フランシスコ会、アウグスティノ会などの当時日本に来航した多数の宣教師たちも異質だが高度に発達した日本の文化や日本人の礼節、美徳をいずれも高く評価している。
 久賀島、奈留島には藤原姓を名乗る人々が多くいる。彼らの中には京都から流されてきた藤原一族の子孫であると信じている人々があることも事実である。
藤原の武生も誇り高い久賀の男たちの代表的な一人であった。
 後にロペスは武生と出会って、蘭学が出来て、西洋医学を修得したこのような優れた人物が久賀島という僻地に住んで、土を耕し、魚を釣りながら、村人の診療にあたっている事実に驚くことになる。後日、彼は「ジパングという国がこのような、高潔で信望があり、学習熱心な、しかも礼儀正しい人々によって支えられているとすれば、自分たち、西欧人の、キリスト教文明とは何であったのかを疑いたくなる。日本人こそ、その生活態度において、ノンクリスチャン・クリスチャンそのものではないのか」とまで書き送っている



第七話 長老と武生たちのドミナ号への訪問

 隣の福江本島の宇久藩庁に急を知らせに行った代官からは一向に音沙汰がなかった。例によって藩の家老、老中たちの評定に手間取っているためと思われた。
 長老は焦っていた。
 「藩からの連絡と指示はなぜないのか。催促しているが全く返事がない。久賀島を見捨てるつもりなのか。」
 「藩の老中たちは当てになりません。彼らは紅毛船がしたいだけの事をすれば帰って行くと踏んでいるのです。福江島にいたときに私は武士たちの保身術の醜さをいやというほど見せつけられました。」
 武生は豊後で西洋の医学を学んだあと、永禄五年(一五六二年)から福江島の大名宇久藩の居城にしばらく蘭方医として仕官していた。しかし彼は侍たちの事勿れ主義的な日常に嫌気がさし、故郷の久賀島が医者を必要としていることを理由にこの島に帰ってきた。そして晴耕雨読の毎日のなかで、診療に当たってきた。彼は西洋医学を学ぶなかで西欧の思想に触れ、キリスト教の教義にも関心を持っていた。また植民地拡張という目的の蔭で中国、東南アジアの人々が犠牲になっているという情報もおぼろげながら倭寇船などをとおして知っていた。いま入航している紅毛船も掲揚されている国旗から、おそらくスペイン系の船であると見ていた。
 二人は、ともあれ、独自に、評定所として、ドミナ号と折衝するしかないと決断した。
 ロペスは長老と武生たちが初めてドミナ号を訪問した際のことを詳しく書き送っている。  長老と武生と村の評定衆二人が舷側を登って甲板上に現れて一礼したときに、ポルトガル人の通詞が言った。
 「これは紛れもなくジパング、日本の人々です。私たちは偶然ジパングに流れ着いたのです。この人々は村の長老の野原伝十郎と医師の藤原の武生と村の議員たちであると言っています。本日は要求があるのでやってきた、とのことです。」
 長老と武生と議員たちは名前を呼ばれるたびに一礼した。
 そのとき、いくらか酒のはいっていた甲板長が、無礼にも三人の先頭に立っていた裃姿の武生に対して、突然サーベルを鞘ごと差し向けて威嚇しようとした。横紙破りのガルシアで通っていた甲板長のいつものやり口であった。
 「何だ。医者だと。われわれは田舎医者には用はない。とっとと帰れ。」いかにも無礼で傲慢な態度であった。通詞は一瞬ためらったが、思いきって、武生にすぐに帰るように言っていると伝えた。しかし武生は冷静にそれを無視した。長老が武生は衆を代表するひとりであることを説明した。同時に武生は、目の前に突き出されていた甲板長のサーベルをはねのけながら、一見して船長とわかる制服をきていたコスタのほうに歩みよって話しかけようとした。無視されて怒った甲板長が、
 「交渉に剣はいらない。」
 といって、武生の腰に刺していた刀を奪おうとした。武生は静かにその手を振り払って  「いやこの剣は私たちの誇りです。渡すことは出来ません。どうしてもお望みなら互いに剣の勝負で決着をつけましょう」
 と見事なイスパニアの言葉で言った、船長はじめ乗組員たちは一様に耳を疑った。このような、ジパングの片隅の、これほど辺鄙な島の日本人の口から、これほど正確な自分たちの国の言葉を聞くとは思わなかった。
 甲板長も一瞬驚いたが、腕には特別に自信のある彼は「剣の勝負」という言葉に飛びついた。たかが田舎の医者風情が何を言う、とばかりに、いきなりサーベルを引き抜いて前に躍り出た。この雰囲気に船長も長老もそしてロペスも止めに入ることは出来なかった。 武士道と騎士道の決闘のマナーに大差はなかったようだった。
 武生も目にもとまらぬ早さで刀を抜いた。見たことのないような見事な細身の、軽くそりの入った短刀であった。それは聞きしに勝る見事な日本刀であった。海賊たちが倭寇に勝てなかったのはこの優れた日本刀のせいであると聞いてきた。中国の青竜刀も中東、西欧のサーベルもこの日本刀と刃を交えれば必ず折れてしまうと言うことであった。
背の低い見るからに貧相な日本人と背の高い見るからに威風堂々たる西欧人が対峙していた。それぞれの文化と歴史を担って、東西二つの民族の長短二本の剣が光を放っていた。とりわけ武生の正面、青眼の構えは独特であった。船上は完全な静寂に包まれた。母国のカスティラでは一、二といわれた腕前の、自信に満ちた甲板長の、目にもとまらぬ剣の手さばきもさすがに見事であった。斬るという武術と刺すという武術の勝負でもあった。武生とガルシアの剣は上下、左右、水平に激しく動いた。ロペスはたかが離島の一介の医者風情であるはずの、この人物の剣さばきがほとんど信じられなかった。武生には全く隙がなかった。ときおり二本の剣が交差して火花が飛んだ。甲板長は次第に船尾に追い込まれて行った。そして半時の後、信じられないことに甲板長の頽勢はもはや明らかであった。そのとき喘ぎながら甲板長の放った鋭いサーベルの剣先が武生の胸元を刺しぬいたかと思われた瞬間、武生の剣は激しい音を発してサーベルを根元から二つに切り離していた。剣先が空を飛んで海面にしぶきを上げて落ちた。呆然と立ちつくしていた甲板長の胸元に武生は日本刀の切っ先をしばらくあてがったあと、静かに刀をもとの鞘に収めた。そして軽く一礼して長老のそばに歩み寄った。乗組員たちのあいだから感嘆の声があがった。見事な武生の勝利であった。
 一部始終を見ていたロペスは感動した。この島には侮辱した相手を許す、寛容で冷静なこのような人物が住んでいる。質素で飾り気のない、しかも勇気と礼節を重んじる、この島の、この日本人たちの信条を是非とも知らねばならない、と思った。このような人々によってキリストの教えが信仰されることこそが私たちの理想である、彼はそう思った。それが武生についての第一印象であった。
 しかし、母国ですら全く経験したことのないような、徹底的な屈辱にまみれた甲板長ガルシアの内心は決して穏やかではなかった。たかが剣が折れただけである、それに俺はシラフ素面では決して負けてはいないと思った。荒荒しく、足早に自室に引きさがったガルシアは悔しさを紛らわすために強い酒をあふった。
 コスタは長老たちをあらためて船長室に招き入れて歓迎の意志を伝えた。お互いに身内の通詞がついて会話はスムースに進もうとしていた。常づね反抗的で乱暴な甲板長がいないのが船長コスタにとって幸いしていた。ロペスも交渉に参加した。双方は全く対等であった。日本人たちは言うべきことを言った。船長たちはそのときはまだ知らなかったが、久賀側では鉄砲の鋳造がすでに始まっていて、武力的にも負けない自信を持っていた。武生も甲板長との決闘に勝って、決して引け目を感じない、みごとな自信にあふれた応対であった。海鳴りのする久賀島の海辺で鍛えあげられた武生の声は朗々としていた。
 「本日は本来ならば代官が応対、折衝するはずでありますが、隣島の福江の城にあなた方の来訪について報告に行ったまま帰らないので、緊急に島の評定衆を代表して参上しました。」
 「私は船長の伯爵ジョバンニ・バッチスタ・コスタです。スペイン国王を代表してご挨拶申し上げます。この船はあなたがたの国との交易を求めて鹿児島に向かっていました。しかし途中南シナ海で台風にあい、マストを折られて漂流し、この島にかろうじてたどり着きました。」
  「私はフランシスコ・ロペスと申します。ポルトガルから派遣されて、あなた方の国にゼウス・大日様の教えを説くようにという使命を与えられてやってきた宣教師です。」   長老は待ちかねたように言った。武生は冷静に通訳した。
 「あなた方の乗組員は昨夜、ひそかに上陸して、村に侵入し、略奪の限りをつくしました。私たちの妻子を辱め、私の娘のたまきと3人の侍女を拉致していきました。私たちはそのような非礼を決して許すことは出来ません。」
 武生も言った。
 「あなた方は無法にも突然大筒を打ち込んで私たちを威嚇しました。このようなことはあなた方の国では許されていないはずです、」
 船長コスタは自分が押さえきれなかった乗組員たちの無礼を恥じていた。
 「申し訳ない。全く私の責任です。乗組員たちは三日間飲まず食わずでひどく飢えていました。お許しください。長い航海のあとの開放感のために、ひどい乱暴をさせてしまったことをお詫びします。償いはします。賠償金は必ず支払います。すぐにも拉致してきた彼女らを解放します。」
 そのとき、いつのまにか交渉の席に戻ってきた甲板長が大声で叫んだ。強烈な酒の匂いが漂っていた。
 「いや、人質の交換は二度にわけてするべきだ。こちらの要求が聞き届けられるまでは全員を解放することは出来ない。今日は長老に免じて娘のたまきを解放しよう。侍女の三人は水と食糧の補給を受けて、そして船体の修理が済んで、この船が出航するときまでは渡せない。」
 武生はすぐに反論した。
 「拉致して行って人質とはおかしいではありませんか。不法に拉致した責任はどうするのですか。」
 武生の言い分を全く無視して甲板長は言った。
 「返さないとは言っていない。返すのに少しばかり順序をつけると言っているだけだ。」  長老がすかさず言った。
 「それなら、娘のたまきを人質にしてほしい。三人の侍女を先に、今すぐ引き取りたい。私の娘であり、武生の許婚であるたまきを先に引き取ることは村人に対して申し訳が立ちません。」
 長老はその昔、京都の公家、徳大寺家に出仕していた北面の武士であった。久賀に帰国して、おされて村の長をつとめていた。ロペスはそのような自己犠牲の精神が身についている日本人の実例をその後何度も経験するのであるが、こうした美徳や節操がいったいどのような文化や宗教的な背景から生まれてくるのかを知りたいと思った。
 「いや、自分は代表としてやってきたお前たちに敬意を払ってこのように提案しているのだ。好意は黙って受ければよい。」
 甲板長はいつものように一度言い出したら決して自説を曲げなかった。船長もロペスもこのままでは交渉が決裂することを恐れた。甲板長の本音では、手の届かない船長室のたまきよりも、自分たちの自由になる、今では慰安婦にも等しい三人の娘たちのほうが大切だったのかもしれない。しかし表向きには、はじめに長老の娘を返す、という言い分はドミナ号側としては相手方の使節に最大の敬意を払うということにもなる。船長もロペスもこの交渉をまとめる上でのひとつの方策になりうるという考え方から、甲板長の提案を一応支持することにした。とにかくたまきを今返したあとで、侍女たちを早急に返すように努力すればよいと思った。
 長老と武生はたまきを先に引きとることを固辞したが、同行していた評定衆の二人が村人たちには自分たちからよく説明するから、と説得を繰り返した。そして最後には、いろいろと不満な点はあろうが、この折衝をとにかく成功させるために、と言うことで、ついにドミナ号側の提案を受け入れることになった。
武生が言った。
 「第二の要求は、二度と乗組員たちが上陸して乱暴を働かないようにしてほしい、ということです。昨夜はたまたま村中の男たちは寄り合いで不在でしたが、今度もし村に侵入するようなことがあったら、血で血を洗う騒ぎになるでしょう。」
 船長が応えた。
 「わかりました。乗組員たちは余りにも飢えていたのです。申し訳ありませんでした。二度とそのような無礼なことはさせません。」
昨夜の乱暴ものたちをひきつれていた甲板長はふてくされて、そっぽを向いた。船長はことばを継いだ。
 「私たちからもお願いがあります。その第一は食糧と水を補給してほしいということです。積荷はあらかた海に捨ててしまいました。しかし金貨はまだ相当に残っています。それを代価として差し上げましょう。
 その第二は、時どきは乗組員たちを上陸させて、土を踏ませてやって欲しいのですが。 その第三は船体の補修のために船大工を派遣してほしいのです。船首とマストと船側の各所でひどい損傷が見られます。このままでは出航できません。勿論代価は支払います。しかし、この島に船大工がいるのでしょうか。」
 「もちろん船大工はいます。田之浦には倭寇衆などと呼ばれているひとびとの基地があります。彼らは本来海外との交易を目的としていますが、勿論海賊などとは戦います。私たちは倭寇などといわれることは全く不本意なのですが、とにかくその倭寇のための外洋帆船の新造、整備に従事している立派な腕利きたちがいます。これまでも玄海灘を航行する中国や朝鮮の船が難破、漂着して修理を求められることがありました。見たところこの船の破損は相当にひどいようですが補修は出来るでしょう。それから第一の食糧、水の補給ですが、この島の食材がお口に合うかどうかわかりませんが、米、いも、野菜、それに鶏、魚介類を人数分十分に提供できるように、努力してみましょう。第二の上陸の件は武器を携行せず、護衛つきでなら結構です。」
 「ありがとう。私たちの国マリョルカは地中海の島国です。魚介類は喜んでいただきます。これまでの非礼を許していただいた上に、当方の要求をことごとく受け入れていただいて感謝します。ところで、今お聞きしたところではあなたは蘭学を学んだドクターだということですが、台風でマストが折られたときに下敷きになって負傷した乗組員たちがいます。診てやって頂けないでしょうか。」
 「喜んでそうしましょう。私の診療所に一時入院させてください。」
 「もうひとつ、これはいきなり非礼になるかもしれませんが、あなたのその腰の日本刀を譲ってもらえないでしょうか。代金はいくらでもお払いします。わが国では日本刀の鋳鉄技術が高く評価されています。実は私は以前からその有名な日本刀をぜひ一振り欲しいと思っていました。」
 武生はためらった。しかしそのためらいの理由はコスタやロペスにはほとんど理解できなかった。武生の剣は有名な備前の刀工長文の作で、国中でも比類のないほどの名剣であった。しかし武生は思いきって、そして喜んでその申し出でを受けることにした。最愛のたまきを返してもらえる喜びと感謝には代えられなかった。
 「わかりました。しかし代金はいりません。あなたとの友情のしるしにさし上げます。」
 武生は見事な作りの鍔飾りのついた短刀を腰から抜き取って、丁重に差し出した。船長は感激して受け取ったあと、甲板長の剣を根元から断ち切った不思議な日本刀の鋼をもう一度確認するために、剣を抜いてもよいか、とたずねた。おそるおそる抜き放たれた日本刀の輝きはまぶしいばかりであった。しかも、船長がどれほど目をこらしても、そこには刃こぼれひとつ見当たらなかった。
 そのときにロペスが長老に声をかけた。  「長老殿、私からのお願いも聞いていただきたいのです。私はポルトガルからあなたの国日本にデウス・大日の教えを広めるように命じられてやってきました。この私が上陸して、村のひとびとにデウス様の教えを語ることをお許し頂けないでしょうか。」
 武生は、今から二七年前の聖フランシスコザビエルの来日以来、天文年間にトルレス、ガーゴなどの宣教師たちが各地で伝導に従事し、とくに山口、豊後では大名の支持を得てキリスト信者が大きな勢力になっていることを知っていた。弘治三年(一五五七年)に宣教師アルメイダが豊後府内に建てた病院では蘭方医学での治療が行われて、久賀島から派遣されていた武生らも当時、大きな影響を受けていた。永禄年間には大村純忠が教会堂を建立し自らも洗礼を受けて、キリスト教徒が次第に増えていた事実もわかっていた。
断る理由はなかった。長老は武生と評定衆たちの同意を得てから言った。
 「いいでしょう。代官たちの了承が得られるように口添えしておきましょう。」
双方は合意した。侍女たちの即時釈放はかなわなかったが、いずれは帰ってくることが確約された。いくつかの条件はついたが、交渉は一応は成功であった。
別れ際に、たまきが船長室から連れ出されてきた。身にまとっていたのは純白のシルクの最高級のドレスであった。それは船長がマニラで母国のスペイン王女への贈り物として作らせていたものではあったが、昨夜の機関長ゴンザレスの過ちへの謝罪を込めて、ロペスがすすめて、あらかじめ用意させたものであった。洋式のドレスをまとったたまきは輝くように、そしてまばゆいばかりに美しかった。全員が注目する中で、釈放されたたまきは長老と武生の前にかけよった。そして涙を流してひざまずいた。船長も乗組員たちも許婚の二人が抱きあって喜ぶ情景を想像していたが、そうではなかった。そのかわりに、武生はいたわりの表情をみせて、やさしくたまきの手を取り、父親の手と重ねてやった。美しい情景であった。
 長老、武生、たまきの三人と評定衆を乗せた小舟が櫓の音を響かせて、静かな海面に航跡を残しながら、ゆっくりと久賀の突堤に向けて帰って行った。ロペスたちは何時までも見送っていた。
大きな夕月が久賀の裏山の稜線にかかっていた。



第八話  宇久藩船の奇襲

 甲板長はその夜、憤懣やる方なかった。昼間の決闘に完敗したことの恥辱によって著しくかきたてられた興奮がどうしても収まらなかった。強い酒を持ってこさせて、浴びるほど呑んでみたが眠れなかった。乗組員たちも恐れをなして近寄ろうとしなかった。彼はふらつく足を踏みしめながら、侍女たちが囚われていた船倉の牢獄に現れた。
 裸体のまま身を寄せ合っていた侍女たちは大男の甲板長ガルシアのただならぬ形相におののいて逃げ惑った。そしてついに部屋の片隅に追い込まれた。甲板長はその目の前で服を脱いで全裸になった。赤ら顔の、まるで鬼のような面相であった。身体中ひどく毛深くて、紅毛、毛唐という表現が正確にあてはまった。拉致された日の夜から、男たちの性の奴隷となって、無体な凌辱を受けとめてきた娘たちも、興奮しきって欲望を露わにして迫ってくる鬼畜のようなガルシアにはおびえ切って幾度となく悲鳴を上げた。
 ガルシアは娘たちの間近に詰めよって、身悶えする侍女の一人を軽々と抱えあげ、ベッドまで運んで投げ下ろした。抵抗を諦めて泣きじゃくる女の両足をいきなり大きく開いて持ち上げた。娘は男の巨体の下に完全に組みしかれた。切り裂くような悲鳴があがったあとで、やがて男の獣のようなうめき声があがった。
 ガルシアはおもむろに立ちあがって、震えているもう一人の娘を捕えてきて床の上に転がした。そこでしばらくいたぶりを続けているうちに再び活力を取り戻して、ガルシアは今度は後ろから覆い被さった。激しい動きの後で、娘の悲鳴のさなかに、ふたたび男の淫靡な獣声があがった。
 三人目の娘はなかなかつかまらなかった。酔っていたガルシアはしばらく追いかけていたが、震えているその娘をようやく捕まえたときには、なぜか彼の体内には、あの昼間の武生への憎しみと復讐の衝動が入り混じった嗜虐の情念が燃えたぎっていた。出航以来、長らく休眠することを余儀なくされていた彼本来のサジズムが目覚めた。娘をベッドの4隅の支柱に大の字に縛り付けて、何度も何度もロープで打ちたたいた。真夜中の船内を切り裂くような悲鳴が何回も響き渡って、船長もロペスも乗組員たちも起きてきた。一同が船倉の牢獄に駆けつけたときに、薄ぐらいランターンに照らされたベッドの上に彼らが見たものは、女体の上で獣慾の絶頂を極めようとしていた甲板長の異様な姿態であった。 コスタ船長が駆け寄って、ガルシアを引き離そうとした。しかし異様な恐怖と興奮のさなかに密着していた二人を容易に切り離すことはできなかった。みんなが息を呑む中で、ロペスはバケツに汲んでこさせた海水を浴びせかけた。そしてようやくだらしないガルシアの下半身があらわになって衆目にさらされた。
 船長とロペスが叱責したが、ガルシアは一向に受けつけなかった。
 獣欲の情景は終わって、船倉の扉は閉ざされた。乗組員たちは裸のまま、小脇に衣服をかかえて、よろよろと自分の部屋に帰っていく惨めなガルシアの後姿を見送った。

 それからひとときのあと、眠りにつくことが出来ないで後部甲板に出てきた宣教師ロペスは夜明けの薄明かりの下で祈っていた。
 そのときであった。突然、舷側の海面から銃声が聞こえた。驚いて海鳥たちが一斉に飛び立った。見張りの水夫が大声で叫んで銃を撃ちかえした。
 「襲撃だ。襲撃だー。」「起きろー。配置につけー」
 銃声と入り混じって、非常事態を知らせるラッパが鳴り響いた。熟睡中を突然たたき起こされて、船内は一時大混乱に陥ったが、間もなく全員が配置についた。サンタ・ドミナ号の周りには陣笠に具足をつけた侍たちを乗せた小舟十数そうが群がっていた。縦長の旗には宇久藩と書かれており、独特の紋所が風にひらめいていた。弓から矢が放たれた。しかし甲板上まではとどかなかった。鉄砲もまばらに鳴り響いていたが、たいした数ではなかった。
 指揮官と思わしい人物がドミナ号にむかって「即刻立ち去れー。藩の命令である。」と叫んでいた。久賀詰めの代官であった彼は福江の城に急を知らせに行った後、宇久藩内の評定の決定に基づいて、急遽、十数隻の舟に侍たちを乗せて立ち帰り、島の北端にある折紙鼻を回って湾内に入ってきたのである。もちろん彼らは村の長老と武生たちが昨日、ドミナ号側との交渉を済ませていた事など全く知るはずもなかった。同様にドミナ号の側でも代官たちの攻撃が武生たちとは無関係に行われていることを知るよしもなかった。
 飛び起きてきた甲板長ガルシアは叫んだ。
 「それみろ。日本人などあてになるか。昨日は交渉成立で安心させておいて、今朝はこの体たらくだ。卑怯者め。だまし討ちが奴等の本性だ。よーし、こうなったら皆殺しにしてやれ。人質も殺してしまえ。」
 船長もロペスもおかしいと思った。昨日の武生たちの別れ際の表情を思うと、この事態が全く信じられなかった。しかし今、ドミナ号を攻めているのは紛れもなくプロの侍たちの戦闘集団であった。接近した舟から火矢が飛んできた。このままでは焼き討ちにあう。帆柱の折れたドミナ号は身動きが出来ない。乗組員たちは甲板上を走り回って火矢を消そうとした。矢が刺さって倒れるものも現れた。甲板長が命じるまでもなく、舷側に隠れた乗組員たちは銃を構えて撃ち出した。やはり鉄砲は弓矢よりもはるかに威力があった。小舟の侍たちは一人二人と倒れた。鉄砲の射程距離は弓矢よりも遥かに大きかった。そして数挺の鉄砲をいっせいに射撃するときの轟音が戦闘を圧倒的にドミナ号側に有利に導いた。船側の大筒も火を吹いた。沈没する小舟が何艘も現れた。劣勢を覚った侍たちの舟は逃げ惑った。沈没を免れた数艘の小舟はドミナ号とは相当な距離を保って控えていた代官の舟のまわりまで後退して集結した。代官の舟には赤い宇久藩の旗印がついた長旗が掲げられていた。
 甲板長ガルシアは船長を無視して大声で叫んだ。
 「よーし。今だ。あの旗をめがけて大筒を撃つんだ。発射用意。」
 コスタはこの状況で、そこまですることが、今後の交渉を困難にすることを慮ってためらっていた。ロペスの意見を聞きたかった。しかし、乗組員たちはひどく興奮していて、直ちに甲板長の指令に従った。舷側の四門の大筒に弾丸が込められた。甲板長が手を振って合図した。そしてついに大筒は一斉に火を噴いた。
 つぎの瞬間大きな水しぶき飛沫が上がった。集結していた小舟のど真ん中の海中に弾丸が落ちた。たちまち数艘が沈んだ。代官の赤い長旗が叩き落とされて海面に浮かんだ。つぎの一発がもっと正確に小舟のひとつに着弾した。更に数艘が転覆した。残ったたった二艘ほどの小舟がほんの数人の侍たちを乗せてほうほうの態で逃げて行った。宇久藩側の完敗であった。
 船長コスタは海に投げ出された侍たちを救助するように指示したが、甲板長はこれに逆らって、「無視せよ」といった。船長は海に落ちた侍たちが久賀湾を泳ぎきって向こう岸にたどり着けると判断して、それ以上何も言わなかった。
 今度こそ久賀勢に完勝した甲板長は大声で叫んだ。
 「勝ったぞ。今夜は祝賀会だ。」乗組員達は歓声で答えた。
 乗組員たちの人気が回復したと思ったのか、それからは甲板長はことごとに年若い船長コスタを無視するようになり、露骨に横柄な態度を示すようになった。
 ロペス宣教師はすぐに船長室にやってきた。
 「武生らがこんなことをするとは考えられない。何かの間違いがある。おかしい。」
 「同感です。すぐに事情を調べましょう。それから、実は私は侍たちがたった二挺ではあったが、鉄砲を持っていたことが気がかりです。旧式で飛距離があまりないもののようだったが、とにかく日本にも鉄砲という飛び道具があることがわかりました。」とコスタは言った。
 ドミナ号の周りで突然始まった戦闘の轟音に気づいた武生たちはすぐに浜辺に集まって一部始終を見つめていた。
 戦闘が終るのを待ちかねたように、武生たちは評定衆を代表して、白旗を立てた小船に乗込み、ドミナ号に向かって急いで漕ぎ出して行った。
 見張り番の水夫が大声を上げて通報した。船長にはそこに武生が大きく手を振っているのが見えた。舷側の縄はしごを伝って急いで乗船してきた武生は、この攻撃がその後の現地の事態を全く知らなかった宇久藩の侍たちの暴挙であるということを説明した上で陳謝した。
 すぐに誤解は解けた。事情を知った甲板長はいまいましげに横目で武生をみやりながら、足早に船長室を去って行った。武生は負傷した乗組員たちの救護を申し出た。
 別室に運び込まれた負傷者たちを手当てする武生の手つきや身のこなしをじっと見ていたロペスとコスタは武生が完全に母国の医者たちと同じ医療を行っていることに驚いた。持参した強い酒で傷口を洗い清めて、手際よく処置する情景は武雄が西欧の医学に完全に習熟していることを示していた。じっと見つめられていることに気づいて武生はいった。
 「何かご不審でしょうか。ご心配は要りません。私は豊後の病院であなたたちの国の医学を修行してきました。」
 ロペスは知っていた。一五五二年(弘治元年)には豊後ではじめて宣教師たちによって育児院が開設されていた。それ以来宣教師アルメイダを先頭とするキリシタンによって西欧の最先端の内科、外科医学の臨床的な技術が導入されて、同地には養老院、病院、孤児院などが続々と開設されていた。一五五九年、永禄二年には病棟、薬局、手術室はもとより、遠隔地からやってくる患者のための宿泊施設、医師の宿舎や付属の日本人医師の養成施設が設けられていた。
 武生はそこで六年間学んだあと、宇久藩の蘭方御典医となった。そこを辞したあと、この久賀島に帰って今日まで診療を続けてきたのである。
 武生は手当てを終わった。その鮮やかな手際のよい手つきに船長も乗組員たちも感謝した。  「いや、私たちの手違いでこのような不始末をしでかしてしまって、こちらこそ心から謝ります。」
 武生は軽く会釈して立ちあがった。急いで島の診療所に帰って、今度はこの戦闘で負傷した侍たちの手当てをせねばならない」といった。
 ロペスはじっと一部始終を見つめていた。このような、文武に優れた人物が鄙びた離島にひっそりと生きている、この日本という東洋の小国には強烈な関心を覚えた。
 武生は別れ際に、小舟のうえから船長に言った。
 「帰って代官たちによく説明しておきます。彼らも事情を知って赤面することでしょう。改めて謝罪するよう説得しておきます。」
 船長もロペスも深く肯いて手を振った。しかしそのような彼らの姿を甲板の片隅から、不愉快そうに、妬ましげにじっと腕組みして見つめている甲板長ガルシアとその仲間の機関長ゴンザレスの姿があったことを記して置くことにしよう。
 


第九話  伝次の鍛冶場の情景と鉄砲隊の特訓

 禅門寺での評定の結果に基づいて、伝次は鍛冶場のすべての職人たちを集めて、鉄砲を作ることになった旨を伝えた。自分たちのいない間に、上陸してきたドミナ号の乗組員たちに妻や娘たちを犯された職人たちは復讐のためなら何でもするつもりになっていた。親方の伝次の娘ちづも拉致されたままになっていた。職人たちにとって、鉄砲という、侵略者たちと戦うための最強の武器をつくる、それは胸の踊るような未知の技術との取り組みでもあった。
 後になってロペス宣教師が本国に書き送った書簡に、驚嘆を込めて記録しているように、久賀島の鍛冶職人の技術水準は、非常に高かった。
 田之浦にあった倭寇の基地では古くから外洋帆船の建造に必要な金具の鋳造が行われていた。刀剣などの武器の製造や修理もできた。代代鍛冶職人の親方の家に生まれた伝次は当時のわが国最高の先端技術のメッカであった堺で最新の鋳造技術を学んできた。田之浦の伝次の鍛冶場では船大工としての技法だけでなく、精密な鍛造技術の開発も行われた。たとえば当時の日本刀の切れ味は世界で最もすぐれた技法の成果であった。
 日本人が刀にかけた情熱は単に切れ味だけではなかった。日本刀の造型、装飾にまつわる芸術的な美意識も世界的に例のないものであった。日本刀は外敵と戦う最強の武器であるとともに、責任をとって自らの腹を切るときの鋭利な刃物でもなければならなかった。自他の生死に直結する、したがってそれはあらゆる意味で人の命を賭けた最高の作品でなければならなかった。
 伝次が、種子島からわずか十数年後に堺で大量生産に移行していた鉄砲製造技術をこの久賀島に持ちかえって来ることが出来たのも故あることであった。伝次は職人たちを集めて秘蔵の鉄砲の実物を見せながら、図面を熱心に説明した。職人たちは食い入るように伝次の言葉に聞き入り、指先をみつめていた。隣の広間ではポルトガル製の時計儀が律儀に時を告げていた。
 鋳造原料の準備、砂鉄の溶鉱と鍛造の手配、焼入れの算段、金型の製造などが話し合われた。短期間に五十挺という数を揃えるためには、運搬、ふいご方などにも多人数の人手が必要であり、たびたび長老のもとに注進がいった。
 外洋に面した田之浦港の一角にある伝次の鍛冶場には、熱と炎と煙が立ち込めて、まるで戦場のような喧騒があたりを支配していた。そこでは職人たちの不眠不休の作業が続けられていたが、とくに銃口内部の螺旋状の弾丸道をつくることには苦心した。それらのとりくみの一切は厳重な秘密のもとに置かれていて、もちろん久賀湾に浮かんでいたドミナ号にも全く知られることはなかった。
 後日、ロペス宣教師は法王庁への報告書に、久賀島の日本人が始めて鉄砲を持ってドミナ号の前に立ちはだかった時の驚愕について書き送っている。なぜ、このような未開の民族が最新の武器をこれほど大量に持っているのか、ましてその鉄砲がこの島で、どのようにして短期間に製造されたかなどは西欧人には全く想像することも出来なかった。
ロペスはまもなく久賀島に上陸して布教にあたることになるが、その際に、実際に伝次の作業場を見せてもらう機会を与えられた。晩年、ロペスは追想録の中でこのように記している。
 「日本人は自分たちがこれまで見てきた未開地のどの民族よりも高度な技術の水準を持っていた。彼らは精巧な天球儀、時計などを作ることが出来た。西欧の器械、道具を模作することに長けており、それどころかより優れたものにしたてあげた。もしも江戸幕府が後になって鎖国令を出して自ら孤立の道を選ぶようなことがなかったら、やがて日本人は自分たちよりも優秀な外洋帆船を造って、進んだ武器を積み込んで、世界中に進出し、われわれと互角に戦うことになったであろう。倭寇の勢いが東南アジアで食い止められたのは、江戸幕府の鎖国令によって、倭船と日本人の後続が断たれたからであり、西欧諸国にとっては非常に幸いなことであった」
と記している。
 一六〇〇年代に入る頃にはシャムに山田長政らの日本人町がつくられ、日本本土とは和製の外洋帆船による往来が盛んに行なわれていた。しかしこうした海外への展開もこの直後の朝鮮への侵略で手痛い敗北を喫したこともあり、国内制覇重視の徳川幕府の政策によって、間もなく終結を見なければならなかった。徳川幕府の鎖国政策はあらためて世界史的な観点から見直される必要があるだろう。
 ロペスは、さらに鉄砲が種子島に伝来してからのたった二十年後の永禄年間には信長らによって盛んに戦闘に活用され、独特の鉄砲隊が組織され、射撃の戦術が発明されていたことについても報告しており、そのなかでこのような西欧でさえもありえなかったような戦略、戦術を組織的、効果的に生み出すような恐るべき民族が鎖国によって自らを封印するようになったことに安堵した、とも述べている。
 ロペスは、後日、布教の帰りに立ち寄った伝次の家で、懐かしいオルゴールの音楽を聞いて思わず耳を疑った。それは数年前に伝次が堺の外人居住区に出入りしていた際に、公館にあったマドリード製の器械を精巧に模作したものであった。その曲はフィレンツエの懐かしい民謡の調べであった。
 予定の鉄砲五〇挺は間もなく完成した。しかしさらに追加の五〇挺を製作するようにとの長老の命令が下った。女たちがのろし用の硝石を精製してつくった火薬も出来あがった。撃ち方は伝次と武生が知っていた。長老の命令で島中の若者の中から五〇名が選ばれて、ザザレ細石流の海岸で演習が行なわれることになった。
 宵闇をついて密かに集まった若者たちは長老が特別に指名した屈強の者たちであった。彼らは鉄砲をこれまで操作したことはもちろん身近に見たこともなかった。堺から持ちかえった鉄砲は伝次とその職人たちによってさらに改良されていた。いちいち火縄銃のように銃口から弾丸を詰め込んで、火縄で火薬に点火する必要がないように、弾丸自身に火薬が詰め込まれている最新の方式で、撃鉄で火薬を爆発させて直接弾丸を発射することができた。
 夕月の光をあびて、若者たちが持つ銃身の放列は黒々と輝いていた。今日は長老たちが視察に来ていた。
 伝次が始めに一発を放った。轟音が海辺に響いた。若者たちは一瞬脅えたが、すぐに立ち直った。彼らは久賀の村塾で読み書きと武術を学んだ仲間であった。手渡された解説書を十分に読みこなして、すぐに、伝次と武生の指導どおり鉄砲という武器の操作を身につけた。
 この銃には火縄部分がないので雨天でも使用が可能であり、射撃間隔が非常に短い。後日この改良銃をみせられたポルトガル人たちもその性能に驚嘆したという。このような僻地とでも言うべき離島に、ヨーロッパにもなかったような優れた武器があることは全く信じられない事態であった。
 サザレ細石流は久賀からは相当に離れていたとはいえ、鉄砲の試射音は久賀湾のドミナ号にもかすかに聞こえていた。さすがに船長のコスタはいぶかしがった。水夫たちの誰かがまた上陸して銃を放って乱暴しているのではないか、あるいは宇久藩の侍がまたやってきたのか、とも疑った。しかしその事実はなかった。空耳か、雷のいたずらか、彼はそれ以上の事を考えようとはしなかった。
 出来あがった五〇挺の鉄砲にはどれひとつとして不良品がなかった。五〇人の若者は射撃術を完全に習得した。一人あたり弾丸が五〇発ずつ配られた。鉄砲は一〇挺ずつにわけられて、久賀湾から遠く離れた、田ノ浦、ハマンワキ浜脇、猪ノ木、蕨、ゴワ五輪の五箇所の土蔵に極秘に保管される事になった。
 伝次は厳しく命令した。
 「この鉄砲は命令がない限り決してとりだしてはならない。ドミナ号の乗組員たちが上陸して再び乱暴するようなことがあったとしても決して抵抗してはならない。この鉄砲は自衛力として五〇挺揃えて使用してこそ効果がある。たとえどんなことがあったとしても、われわれは勝機が見えるまではひたすら耐えねばならない。個人的な抵抗では勝ち目はない。しかし忍耐が限界にきたときにこそ総力をあげて、この鉄砲を使っていっせいに反撃する。そして必ず勝つのだ。われわれは侍ではない。だが、われわれには先祖から受け継いできた久賀魂がある。そしてそれに加えてこの武器がある限り、今こそ誰よりも強いことを忘れるな。」
 みんなは肯いた。そして明け方の山道を通って、それぞれの家路をたどって帰って行った。伝次は長老に告げた。
 「もうすぐ倭寇の船団が深浦港に帰ってきます。私はいざというときには彼らの協力も仰ぎたいと思っています。」
 長老は満足そうに肯いた。
 「戦わないことは理想だ。しかし邪悪に満ちた現実の世界では戦わなければ征服される。命さえ奪われる。だから最低限度の自衛力を持たねばならない。個人としては私は武器を持ちたくない。だが村の長として、この久賀の島を守るという責任において、この間のような略奪や暴行を許さない仕組みを作っておかねばならない。本当は宇久藩の侍たちがこうした役目を正しく引き受けてくれればよかったのだが。」
 久賀部落に帰っていく長老たちの提灯がゆれながら夜道を照らしていた。遠くにドミナ号のランターンの灯かりが見えた。あの船の中に娘たちが囚われている。責任感の重さに耐えかねたように、そして憤懣やる方ない思いを胸に秘めながら、長老はひたすら黙って歩き続けた。


第一〇話 久賀島の暮らしと長老たちの報告

 長老と代官たちはこれまで事々に対立していた。戦国時代のほとぼりが次第に収まりかけていた当時には、後の江戸時代ほどの厳格な士農工商の身分制度は確立してはいなかった。しかし武力を持った侍の権威はひときわ高く、農漁民との身分格差は大きかった。時代の最先端を行く蘭学を学んで帰ってきた武生たちが自治制度をこの久賀島に持ちこんで、わが国には余り見られなかった村衆の衆議、衆論を重んじるような行動に出ていることが福江島の藩庁では非常に懸念されていた。さらに堺から帰った伝次が武生と協力して、堺衆なみの自治制度を作り上げてしまったことにも不満であった。
 しかし、久賀島の生業はどの島よりも盛んであった。久賀衆は年貢をきちんと上納した。藩には文句のつけようがなかった。久賀衆は漁労と畑作の両方に従事することが出来たから比較的豊かであった。島のどの海岸でも、そしていつでも魚介類を釣り上げることが出来た。潜ればあわびやサザエがいくらでもとれた。その魚介類を売って、あるいは干物にして粟、稗、麦、米を買い、野菜をあがなうことが出来た。どんなに貧しくても飢えるものがなかった。したがって差別語でいうような乞食は昔から全く存在しなかった。両親に何かがあって路頭に迷うような子供たちがあったとしても、村の共同体が立派に彼らを育て上げることができた。
 武生や伝次のように本土で教育を受けて、技術を磨いてきた先輩たちが村塾で教師になった。面白いのは外洋帆船に乗って諸外国との貿易にあたってきた田之浦の人々を村塾に招いて、当時はわが国では最先端の情報であった海外の状況について村衆の見聞を広めるように努めていたことである。これらの外洋帆船は異国の海賊などと戦うことが多く、したがって国外では倭寇などと呼ばれて、その無敵ぶりがひどく恐れられていた。しかし、実際にはこれらの人々は、勇猛果敢な、無敵の日本人の商人たちであった。進んだ造船技術の精華を尽くした倭寇の舟が外洋に面した田之浦の入り江に定期的に帰ってきていた。倭寇の若者たちは久賀島の子供たちの英雄でもあった。
 魚介類の供給が容易で、野菜なども家のすぐ横で育ち、雑穀、いも類なども温暖な天候の中で豊富にとれたから、食生活がとりわけ豊かであった。しかし現金収入がほとんどないという点では、本土で言うような意味での豊かさではなかったかもしれない。
もちろん時代の波はこの島にも容赦なく押し寄せていた。五島列島の諸豪族をほろぼして領主となった宇久藩の支配下におかれるようになってから高い租税をかけられるようになった。
 長老たちを中心とする久賀衆は代官との対立を深めて行った。しかし宇久藩は貴重な税収源であるこの島を失いたくはなかったので表向きには決して独自の自治・評定の仕組みに対して弾圧を加えるようなことはしなかった。
 久賀にあるじやーしゃーど在所の宿では、毎月定例の村衆の寄り合いが持たれた。細石流、田之浦、いちこぎ市小木、ごわ五輪、わらべ蕨、折紙など、島の外周部の部落と久賀湾内沿いのふかぶら深浦、久賀の各部落を代表する総代がそれぞれの地域の要求と情報を持って集まってきた。
 その夜の臨時の評定には、昨日の襲撃に失敗して、宇久藩から引き連れてきた大半の侍たちを失ってほうほうの体で逃げかえってきた代官松浦平左衛門も腕に包帯を巻いて出席していた。もちろん代官は評定所では傍聴者であり、出席して参考意見を言うことはあっても、積極的に発言する権限はなかった。藩からの要求を持ちこんで衆論にかけるのがその任務であった。当時、泉州堺で確立されていた自治の形態は、遠くこの久賀島においても生きていた。
 会衆が揃ったところで、長老が口火を切った。
 「紅毛船の乗組員の乱暴狼藉に対して、先日、私と武生と評定衆二名が抗議に行ってきた。久賀部落の妻子たちが痛い目にあったことには同情する。しかし辱めにあったことは一刻も早く忘れてほしい。これはさだめ運命であり、人の力ではどうにもならなかった。娘たちには傷物になったなどという引け目を決して感じさせてはならない。若者たちとの婚儀の支障にしてはならない。たとえ将来紅毛の子供たちが生まれるようなことがあっても何らの差別もしてはならない。海流の流れの中にあるこの島では古くから漂流してきた中国、朝鮮、南方系の人々を暖かく受け入れてきた。私たちの体にはトツクニビト外邦人の血も流れている。このたびは紅毛人の血が混じろうとしている。これも神仏が与え給うた摂理であって、心してこのさだめ運命を受け入れねばならない。」
 痛ましい、しかし理にかなったきりだしであった。武生はたまきのことを思った。拉致された以上は船上で犯されたかもしれない。婚儀を前にしてもはや生娘ではなくなったのかもしれない。多分そうであろう。やり場のない不安と怒りと嫉妬が武生の胸中にうずまいていた。もしも、たまきが紅毛人の子を孕んだとすればーーー、武生はそのような苦しい思いに耐えかねて、ひそかにこぶしを握り締めていた。
 「私たちは彼らから二度とこのような乱暴はしないとの確約を取った。これからは見張り番を置いて乗組員たちの出入りを厳重に警戒することにする。」
 たまきだけが解放されて帰ってきたことを知った侍女たちの父親のひとりが予想されたように、立ち上がって気色ばんで抗議した。
 「なぜ長老の娘だけが帰されて、私たちの娘は帰らないのか。われわれは納得することが出来ない。」
 長老は苦しげに釈明した。
 「許してほしい。私は四人とも返して欲しいと言った。しかしそれは拒否された。そして彼らは二度に分けて解放すると主張した。私はそれでは三人の侍女たちを先に帰してほしいと頼んだ。しかし、紅毛たちはどうしてもたまきを先に解放するという方針を変えなかった。申し訳ない。その代わり彼らは船の修理が終わって出航できるようになれば必ず直ちに全員を解放すると確約した。」
 同行した評定衆が事情を詳しく説明した。それに次女のちづを拉致されていた伝次が親たちをなだめた。私心のない長老の人柄は平素から十分に信頼されていた。さすがに会衆はそれ以上追及することはしなかった。
 船大工を派遣すること、食糧と水を補給することについて約束したことも報告された。 この件については、案の定、代官が文句を言った。
 「それは藩が決めることである。藩主の命令なしにそのような約束をしたのは許せない。」
 武生が立ちあがった。
 「それでは代官はドミナ号側との交渉もしないで、なぜいきなり攻撃するようなことをしたのか。帆柱が折れて動けない船にどうしてすぐに立ち退けなどといえたのか。そんな船を予告も無しに攻撃してどういう結果が生まれると考えたのか。もしもそれが藩庁の命令だとすれば、実に愚かしいことである。しかも結果は多数の舟と人命を失って惨敗してしまった。彼らの怒りを買ってしまった。その責任はどうとるのか。」
代官には全くいうことがなかった。
 「幸い私たちが再び紅毛船を訪問して、不意の攻撃について十分に説明し、謝罪して事無きを得たが、これからは私たちと十分に話し合って行動してほしい。」
 武生は会衆に、伝次たちの尽力で、すでに五〇挺もの鉄砲が完成していて、若者たちによる鉄砲隊の訓練が進んでいることを伝えた。今後ともドミナ号側と平和的に交渉はするが、もしも約束をたがえるようなことがあれば、断固として反撃する。その力はしっかりと蓄えておかねばならない、と説いた。代官は「鉄砲五〇挺」には驚嘆した。これはいったいどういうことだろう。この島の人々の実行力の確かさには舌を巻くしかなかった。もう全く武生らに任せるしかなかった。
 田之浦衆が言った。
 「もうすぐ倭寇の船団が帰ってくる。いざという時には応援をさせよう。決して毛唐なんぞに負けることはない。」
 「しかし安易に戦ってはならない。娘たちを無事に取り返すことが先決だ。それまでは慎重でなければならない。」
 いつも元気で勇ましい蕨衆が立ち上がって叫んだ。
 「あいつらには絶対に負けないぞ。」
 座敷から溢れ出して庭いっぱいに詰めかけていた男たちから期せずして歓声があがった。久賀衆は意気軒昂であった。もはや敗残の代官たちに立つ瀬はなかった。交渉に万全を期し、会衆ががっちりと結束して、しかも完璧な武力を備えた長老と武生たちを中心とする久賀島の体制は極めて堅固であった。
 その夜久賀衆は協議の末、久賀突堤に見張り小屋をつくって、ドミナ号からの乗組員の外出を監視することになった。彼らが上陸する時には必ず長老の許可をとり、各部落に知らせて、必ず護衛をつける。食糧、水の搬入の経理も船体を修理する人足の出入りの管理もここで取り扱うことが決められた。
 来週に迫った折加美神社の秋の祭礼をどうするかについては、なかなか意見が一致しなかったが、長老の決断で実施することになった。これは、村中の緊張を緩和することに役立つのではないか、とする武生たちの助言を受け入れたからである。伝次も折加美神社はドミナ号の停泊している海域のすぐ近くにあるから、乗組員たちにも祭礼の賑やかさが聞こえて、村に平和な雰囲気が戻ってきたことを感じさせることになるだろう、と賛成した。 この評定の直前になって、実のところ拉致された娘たちを力づくでも奪還せよとの強硬意見が彼女たちの出身部落から噴出していた。それは当然のことであった。今後の交渉を平和裏に進める立場から長老や武生たちが、予め懸命に説得して、一応はこの意見を押さえ込むことに成功し、肝心の評定が混乱することを防げた。しかし、これは三人の娘たちがドミナ号の牢獄で実際にどのような暴虐を経験していたかを何人も全く知らなかったからである。ドミナ号の荒くれ男たちはこれまでの寄港地でしてきたとおり、この久賀島でも当たり前のように拉致してきた娘たちを、夜毎、慰安婦同様に、好き放題にもてあそんでいたのであった。


第一一話   獣行の罪についての論争

 乗組員たちが拉致してきた侍女たちを船倉の一室に閉じ込めて、情欲のはけ口にしていることを宣教師ロペスは何度も何度もやめさせようと試みた。
 今日も甲板長ガルシアを呼び出して説得にあたっていた。
 「神の御名において、そのような行為は禁止されるべきである。汝ら、姦淫するなかれ、とある教えをキリスト教徒であるあなた方が無視することは許されない。即刻彼女らを解放してやるべきだ。聖職者としての私は乗り合わせている同じこの船のなかでのあなた方の淫乱な行為をこれ以上見て見ぬふりをしていることは出来ない。法王庁や本国への報告書にも、何時までもこの恥ずべき真実を伏せておくことは出来ない。神の教えを未開の土地に広めるためにきた私のいるところで、同じ国から来たあなた方が平然と姦淫の罪を犯していることに私の胸は張り裂けそうである。」
 ロペスの説得は真に迫っていた。一点の矛盾もなかった。
 しかし、甲板長には悪魔の論理が用意されていた。
 彼ははじめに中世の暗黒時代以来の宗教支配によって引き起こされたさまざまな矛盾について述べた。中でも魔女狩りと称される宗教裁判が、一五〇〇年代の現時点でも盛んに行われていて、標的とされた男性、女性が逮捕され、全く一方的に論告され、求刑されて、最終的に、衆人監視のなかで、最も残酷な火あぶりの刑に処するような野蛮な行為が堂々と行われていることを非難した。その実はキリスト教の新旧両派の勢力拡張、他派抑圧が目的であるというのに、聖職者ともあろうものが一人の人格を魔女と規定して葬り去るなどということは最大の罪悪に該当する。しかもそのような魔女裁判の不当性を非難すると、非難した本人が逮捕されて魔女裁判にかけられて殺される、だから批判ができない、したがって権力者はますます不当な魔女狩りに狂奔する、ということになる。神のみが人を裁くことが出来る、というのが聖職者のあるべき信条ではないのか、魔女裁判による火刑は宗教に名を借りた最も残酷な殺人である、それは、ここで貴方が指摘する、われわれの娘たちに対する行為以上の重大な罪悪ではないか。
 ガルシアはさらに、当時問題にされていた聖職者の堕落腐敗ぶりについてのべた。権力の側に癒着して大衆への奉仕を忘れるどころか、たとえば村村で結婚前夜の娘たちの処女を奪う、いわゆる初夜権を当然のように行使している神父たちがいるという。あるいは懺悔、告白の神聖な場を淫欲のために悪用する僧職たちが存在することについて、または表向きは神の言葉を伝えながらその裏で蓄財にはげむいやしむべき悪僧たちが多くいることについても厳しく指摘した。
 一五〇〇年代のはじめに、ルネッサンス文芸の愛好家であった教皇レオ一〇世はセント・ピーター寺院の改築資金を調達するために免罪符を発行したが、魂の救済を金次第にするという、およそキリスト教の教義とはかけ離れたことが教皇自身によって行なわれていた。ガルシアはそのような時代のカトリック教会に対する批判的な風潮の中で新時代の知識人として育っていたのである。
 当時、こうした風潮に反発する宗教改革の機運が澎湃と広がっていた西欧の社会的な状況を背景に、今日の聖職者にはもはや人に説教する資格はない、とガルシアは言いきった。 ここで甲板長たちが生きていた一五七〇年当時のヨーロッパ人の宗教的な認識がどのようなものであったかについて触れておかねばならない。
 周知のように一四世紀のおわりになって、イタリアを中心に宗教支配を排除するルネッサンスの光が広がった。王権やキリスト教の支配を絶対視する中世は自然科学の進歩や市場経済の発展に即して次第に新しい時代に移行しつつあった。古典的な人間中心主義が台頭し、たとえば神曲を書いたダンテやヒューマニズムをうたったペトラルカ、さらに古い権威、体制を風刺したデカメロンを書いたボッカチオらが輩出した。一五世紀には、このようにして貧富の格差が増大する中で新しい形態の権力構造が作られた。メディチ家はその象徴であり、そこではルネッサンスの文芸、文化の大輪の花が開くことになった。
しかしイタリアを中心とする繁栄は大航海時代が始まって植民地からの富がオランダ、スペイン、ポルトガルなどの西欧諸国に移行するに及んで終止符を打った。代わってオランダが北と南のヨーロッパを結ぶ商業の中心地となり、市民生活が興隆し、イタリアと並んでルネッサンスの文化がひろがった。オランダ人のエラスムスが教会の腐敗を痛烈に批判し、嘲笑した「愚神礼賛」をあらわし、フランス人のモンテーニュが「随想禄」を書いた。そしてスペインのセルバンテスが「ドン・キホーテ」を書いて騎士道までも風刺した。一五〇〇年代の初頭には文化人、知識人の間では、もはやかっての教会の権威や信仰の価値は地に落ちていたのである。
 だからこそ、その頃から、形骸化したキリスト教を改革しようとする機運が大きく盛り上がってきた。ドイツでのマルチン・ルターらの宗教改革のほむらはそのような時代を背景として燃え盛っていた。免罪符を売りつけて教会の財源を稼ぐ悪弊がはびこった時代を変えようとする動きが始まっていた。ルターは異端のそしりを恐れずにローマ教会との論争を受けてたち、聖書を唯一の権威と位置付けて、教皇と教会の権威を否定した。
 そのようなヨーロッパの動きはドミナ号が久賀島に漂着した時点から丁度半世紀前のことであった。
 「だからこそ私たちは、すなわちイグナチウス・ロヨラ師の設立したイエズス会の神父、宣教師たちは、堕落したカトリック教界を立て直すために、フランシスコ・ザビエル師のあとを受けて、こうして厳しい布教の道をたどっているのです。」
 とロペスは言った。しかしガルシアの言ったことは真実であった。いかにも既存の権威が崩れて行く時代の流れは否定できなかった。内心ロペス自身が悩んでいる問題点が的確に指摘されていた。いかにも苦しい自己弁護と知ってのロペスの言い分であった。しかし信ずるところは言わねばならなかった。改めて、大きく息を吸って、じっと甲板長の目をみつめながら言った。
 「たとえ、理屈がどうであろうと、時代の風潮がどうであろうと、唯一の権威、最高の規範である聖書の教えるところによれば、暴力にたよりながら淫行にふけるあなた方はこのままでは天国に行くことはできません。悔い改めてその恥ずべき所業をやめなければ、必ず神の怒りに触れるでしょう。」
 ガルシアはこれを無視して、さらに反論を続けた。
 「もうひとつ言いたいことがある。ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリス諸国の船はいまや全世界に植民地を求めて航海しているが、その先々の未開の土地で、土着の人々をどれほど殺戮してきたか、奴隷にしてきたか、彼らを本当に人間として扱ってきたか。あなた方聖職者はこの紛れもない事実を誰よりもよく知っていたはずだ。あなた方は外航船に同乗していた。そして未開地に上陸して、殺人者たちの隣にいて、彼らがやってきた事実を誰よりも身近に見て、知っていたはずだ。しかしローマ教会は何もしなかった。原住民を地獄の苦しみに追いやった諸国王や征服者たちを決して破門することはなかった。最も恥ずべき策略を用いてインカ帝国を滅ぼしたピサロ総督でさえも処罰しようとはしなかった。この事実をあなたがたはどのように考えているのか。
 姦淫も罪ではあろう。しかし殺人はそれ以上の大罪ではないか。あなた方、聖職者は、なぜ国王たちに、この植民地、征服地での非道をやめさせようとしないのか。それは原住民への布教以前になすべきことではなかったのか。未開の異教徒は人間ではない、守られるべき対象ではない。キリスト教徒だけが救いの対象になる神の前の人である、それが現実に存在するあなた方とわれわれに共通する大前提ではないのか。十字軍のイスラムとの死闘に際しても、そうだった。イスラム人に対しては戒律は一切守られなかった。かれらを殺して征服して支配することこそが神の最も喜び給うところであるとしてきたのではなかったか。異教徒は改宗しないかぎり、抹殺するべき存在であり、野獣同然の、あるいはそれ以下の対象でしかなかったのではないか。
 今われわれが死の苦しみに耐えて航海に従事し、国王の目的に献身する過程で、現地、未開の人々の体を借りて、ひと時の快楽を満たすための些少な舞台をしつらえることがそれほどの罪悪であろうか。この船でだけは乗組員がすべて聖人であれ、ということはできない。本当のところは、従わぬ異教徒の、偶像崇拝の輩を殲滅して、各地にキリストの教えを守る新しい植民地を広めることがあなた方聖職者にとっても望ましいと考えているのではないのか。
 いま、俺たちは人質として捕らえてきた未開の異教徒の娘たちの、命までもとろうとは思っていない。ただ、このドミナ号の大航海を成功させるために、男たちの士気を高めるために、ひと時、娘たちの体を借りているにすぎない。もう一度いう。異教徒を征服し、殲滅し殺戮することが許されているというのなら、異教徒の女たちをわれわれのかりそめの慰安の対象にする程度のことがなぜ許されないのか。」
 ロペスは呆然としていた。この論理は明らかに間違っている。しかし、現実には大航海に乗り出した船が寄港して、異教徒と戦った各地では例外なく戒律は無視されている。異教徒の殺戮は正当化されている。殺さなければ殺されると言う論理がまかり通っている。いったい姦淫が殺戮よりも重い罪であると言うことができるのだろうか。
 さらに、甲板長はだみ声を張り上げて言ってのけた。
 「娘たちも人間であり、女なんだ。彼女たちは今はまだおびえているが、そのうち男たちと交わることを喜ぶようになるだろう。いやきっとそうして見せる。そうなれば、もはや姦淫ではない。消極的な合意ということになる。人間とはそうしたものなんだ。いかなる生物であっても多少とも強制や暴力を伴わないで行われる性的交流はありえないんだ。律法をうるさくいうパリサイ人なみの認識はもはや通用しない。生身の人間にとって姦淫の罪なんてものは、もはや何処にも存在しないんだ。俺たちは殺さない。俺たちは俺たちのおきて律法において、俺たちの慣例にしたがって、あくまでも合法的に快楽を追求する。別れの時には娘たちにはしかるべき礼金を与えるつもりだ。ただ時がくるまでは決してこの楽しみを手放すつもりはない。
 あなたは「デカメロン」や「カンタベリー物語」を読んだことがあるか。あなた方には人間の性の享楽のすばらしさがわかっていないんだ。食欲よりも情欲が低級である、などという証明はどこにあるんだ。食欲と同様に情欲もまた金であがない、金で償えばよいのだ。お説教はもういいかげんに止めにしてほしい。」
 唇を噛んで聞いていたロペスに対してガルシアは続けて言った。
 「「色情を持って女を見るは、心中においてすでに姦淫したるなり」、という聖書の言葉はよく知っている。教会に行けばいつも聞かされた言葉だった。しかしお説教をしてくれたその神父は、実のところ村でも札付きの女ぐせのよくない人物だった。どだい、五体健全な男が色情を捨てきるなどということが出来るのだろうか。出来ないことを知っていてこの聖句は書かれている。出来ないのが当たり前だ。それなら始めから悩むことはやめたほうがよい。俺たちはしたいことをする。とやかく言われることはない。」
 無言の中で立ちつくすロペスをさげすむように、甲板長はそう言いきって荒荒しくドアを押し開けて出ていった。
 甲板長の論理はその当時の混乱した時代の中で生きていた一部の知識人の風潮を物語るものであったのかもしれない。
 大航海時代が始まってから、西欧人征服者たちの犠牲になったアフリカ、印度、アジア、北南米大陸などの原住民の数はどれくらいあったのだろうか。殺人、誘拐、捕縛、略奪、暴行、虐待などというような、各種の非道が、どの地域で、誰によって、どの期間、どれくらいの人々に、どのような被害をもたらしたか、収奪された富はどれくらいであったのか。そのような事実を明らかにするための調査研究はまだ十分には行われていない。
 西欧諸国では、今日、人道の名においてなどと称して、戦争犯罪を裁くことに熱心であるが、それならば過去の異民族の征服や抑圧の歴史を誰がさばくのであろうか。
 アメリカ大陸からヨーロッパ大陸に流入した金銀はドミナ号の時代の一五四五年から一五六〇年の統計では世界の総産額の七七%に達していたとされている。その富は本来、現地の住民が現在、未来にわたって享有するべきものであった。一方的に収奪したのは、それらの地域に進出した西欧のキリスト教諸国であった。
 残念なことに甲板長ガルシアの言い分には相当な説得力があった。ロペスはそのような時代の流れの中で、キリストの教えを説くことの難しさを如実に味わいながら、底知れぬ無力感にとらわれていた。



第十二話 武生とたまきの再会

 長老の家に帰ったたまきは、周囲の人々が、無事の帰還を喜んでくれていても、ふと視線をそらすことがあることに気がついた。両親が以前と違ったやさしさといたわりの目で見つめていることにも気づいていた。たまきにはその理由がすぐにわかった。紅毛人たちが村に乱入して、狼藉を働いたあげくに女たちに凌辱の限りをつくした。そのあと、たまきが三人の侍女たちとともに拉致されてドミナ号に連れ去られ、一夜とはいえ荒くれ男たちの間にいた、ということが何を意味するかが人々には容易に想像されていたに違いない。率直にいうなら、当然、たまきもまた、すでに船内で純潔を失って、あるいは紅毛人たちの子種を宿したかも知れない一人の女として見られていたのである。武生との婚儀を間近に控えていた時点での思わぬ災難に、たまきもたまきの周辺もどうしてよいのか迷っていた。そしてたまきにはもうひとつ自分だけがさきに帰されてきたことが心苦しく、申し訳なく、また非常に心外であった。侍女たちの家族に会わせる顔がなかった。
 たまきはとにかく武生にだけは事情を説明せねばならないと考えた。使者に文を託して、お会いしたい、と申し伝えたところ、夕刻にいつもの、あの海辺の丘のやぶ椿の林でお待ちしている、と言う返事をもらった。
 名残の夕日がやっと山の端に沈んだ頃に、たまきは、家人にはかくれて一人で家を出た。登り坂の山道から湾内に浮かぶドミナ号の灯が見えた。あの夜の忌まわしい記憶が甦って、たまきの胸をかきむしった。
 椿の原生林の間の草いきれのたち込めた小道を登りきって、いつもの逢う瀬の場所にたどり着いた。そこにはすでに遠くの玄海灘の大海原をみつめながら、腰に手をやって思いに沈んでいる武生がたたずんでいた。
 たまきは無言で武生の胸に飛び込んでいった。武生も激しく受け止めて抱きしめた。たまきのつややかな黒髪が武生の頬をなでた。二人ともしばらくはことばを忘れてそうしていた。倒木のまうえに二人並んで座った後で,初めてたまきが切り出した。
 「ご迷惑をおかけしました。」
 「いや、何よりも無事で帰れてよかった。」
 武生は、たまきが本当に「無事」であったのか、を知りたかった。しかし言えなかった。たまきは、その本当の事を聞いてほしかった。乗組員たちに裸にされたあと、侍女たちと離されて船長室に連れこまれたこと、そして機関長ゴンザレスに犯されそうになったこと、そして、その寸前にロペスという宣教師に助けられたことを、正確に知ってほしかった。しかし、あまりにも汚辱にまみれたそれらの事実を自ら口に出すことがはばかられた。武生は、昨夜来、眠られぬ夜を考えあぐんで、九分九厘、紅毛人の子種を宿したかもしれないたまきを何も言わずに妻に迎えようと決心していた。もう仔細を聞く必要はないと思っていた。ただ暖かく迎えてやることが男らしい所業であると思っていた。たとえ紅毛人の子供が生まれても、それはたまきのせいではない。まして生まれてくる子供には何の罪もない。たださだめ運命がなせるわざに過ぎない。たまきへの愛には何の曇りもない。武生は哀れなたまきの心中を察して、あらためて引き寄せてしっかりと抱きしめた。涙が武生の腕に滴り落ちた。
 たまきはその夜、実は重大な決心をしていた。この体で純潔を証明しよう。言葉よりも何よりもそのことが真実を正確に物語る。それは武生と同じく一睡もできなかった昨夜のうちにまとまった彼女の結論であった。
 武生もまた同じことを決心していた。たまきの身に何事があったとしても自分の行為によって、たまきのすべての過去の汚辱のしるしを抹消してしまおう、そうしなければならぬと思った。二人の目的とする行為は一致していた。それは二人がはじめて男と女になることであった。
 武生はたまきを静かに若草の上に横たえて、夜目にも真っ白く輝くようなたまきの肢体をあらわにした。身も心も委ねているたまきのふくよかな乳房をやさしく愛撫しながら、その乳首を唇に含んだ。やがて両足をやさしく押し開いて、そのはざまに、すでに耐えがたく、しとどに燃え盛っていた男性の象徴をおしあてた。たまきは抵抗しなかった。一瞬、あの夜のいまわしい情景が頭をよぎったが、その記憶を激しく打ち消すように、体を武生にすりよせていった。いとしい人と一体となること、今はそれだけを身も心も求めていた。たまきの体は生まれて初めて激しく燃えた。
 「たまき、一緒になろう。」
 武生は息を弾ませながらそう言った。たまきも喘ぎながら深く肯いた。そして武生の下半身は確かに激しく動いた。
 そのとたんに激痛がたまきの全身に走った。声にならないうめき声がたまきの口からあふれ出た。武生は驚いて一瞬身をひいた。そこには鮮血が滴り落ちていた。鮮やかなたまきの処女性と純潔のしるしがそこにあった。武生は驚いて言った。
 「たまき、おまえは」
 それ以上の言葉はなかった。武生はすべてを覚った。そうか、そうだったのか、懸念は消えた。武生は涙を流しながら、感極まってたまきを抱きしめた。たまきは今、武生によって始めて確かに女になったのである。愛が、喜びが満ち溢れた。そしてあらためて二人は、今は完全に二人だけのものとなった最初の男と女の行為に没入していった。激しい武生の営みに、もはや始めの痛みの感覚が消え去って、燃え上がった二人の喜悦の声が椿の原生林にあでやかにひびきわたった。しっかりと抱き合って、息を弾ませていた二人のまわりには黄色い忘れな草が風に揺れていた。宵待ち月が昇って、それから何度もなんども絶頂の時がきて、二人は完全に結ばれた。
 すべてのことが杞憂であった。すべての愛の証明が終わった。
 立ちあがったふたりは坂道を降りて海岸の波打ち際におり立った。月光の下で、ささやくように,押し寄せてくる小さな波頭がきらきらと光っていた。二人は再び全裸になって、手をつないで、沖合いに向かって進んでいった。快い水の感触があった。そのちぎりの行為のしるしを洗い清めたあとで、あらためて二人はいとおしげに抱き合った。中天にかかった月の光が二人のシルエットを砂浜の上にくっきりと映し出していた。
 みそぎの時は終った。二人は衣服をつけて、手をとりながら夜の小道を帰っていった。もう誰に見られてもよかった。
 たまきの家に近づいた時、おおよそこの事態を推察してか、娘の帰りを待ちわびていた長老夫妻が提灯を灯して門の傍らに立っているのが見えた。
 「お父様、お母様」たまきの声は明るく弾んでいた。武生が微笑みながら一礼した。長老夫妻はすべてを覚った。喜びに相好を崩しながら言った。
 「武生どの、上がっていきませんか。」
 「いえ、今日はもう晩いので、また改めて,参上します。」
 「そうか、では、婚儀の日も近いことじゃ、あらためておいでなされ。」
 武生は一礼して、晴れ晴れと我が家をさして帰っていった。
  潮騒が遠くに聞こえていた。ドミナ号のランターンの灯が海面に映ってかすかに揺れていた。



第十三話  船体の修理が始まる

 田之浦の船大工たちがやってきた。ドミナ号では驚いた。このような小さい島に一二人もの船大工がいることが不思議であった。かれらはこの島が倭寇の外洋帆船の基地のひとつであり、造船、補修のための進んだ技術の持ち主たちが住んでいることを知らなかった。 船大工たちは興味深そうにドミナ号を検分した。損傷が帆柱と船首とあるいはこのままでは浸水の危険性がある右舷側の一部であることをたしかめた。ドミナ号が日本の交易船や倭寇の外洋帆船よりも鋳鉄部分を多く使っていることにも注目した。
 その翌日から作業が始まった。補修部分の木材が運び込まれ、間もなく補綴のために見事に形を整えた鋳鉄板が持ちこまれた。それらは大八車といわれる搬送器械に乗せて田之浦から山越えして久賀の突堤に運ばれた。そのあと、小舟に乗せてドミナ号に積み込まれた。船大工たちは実によく働いた。
 ロペスと船長は舌をまいた。イエズス会だけでなく、フランシスコ会、ドミニコ会、アウグスティノ会のすべての宣教師たちが日本人の器用さについて書き残していることをロペスは改めて思い出していた。ザビエルがマラッカ滞在中に日本人ヤジロウ〔またはアンジロウ〕と出会って記した「理路整然として、機知に富むヤジロウの応答ぶりと知的好奇心に接して,日本人に大いに関心を持った、」というくだりを思い出した。
 イエズス会総会長ロヨラあての、一五五二年四月九日づけでゴアから発信されたザビエルの書簡では「日本人は天体の運行や月の満ち欠けの理由などを熱心に聞く。――――雪や霰、彗星・雷鳴・稲妻などの自然現象の説明は民衆の心を大いに惹きつける。」と記しているが、日本人の自然科学に対する並外れた関心は当時の宣教師たちにとっても驚異的であったらしい。
 ロペスも後年本国につぎのように書き残している。
 「日本人はわれわれの時計、天球儀、オルゴールのような精巧な機械を器用に模作することができる。そればかりでない。それらを改良してよりすぐれたものに仕上げてしまう。彼らは意欲的であり、勤勉であり、発想が豊かであり、あるいは西欧人以上の技術力を持っている。その最も典型的なかれらの労作が日本刀である。この鋼鉄は中国、西欧のいかなるはがね鋼よりも強靭であり、見事な切れ味を持っている。」
 しかしこれに続いて彼が書き残しているつぎの文章もまた非常に興味深い。
 「もちろん,日本人には、唯一最大の欠陥がある。それは彼らが商才に欠けているということである。彼らは駆け引きを嫌う。もうけることにはあまり関心を示さない。もしも日本人に策略を用いることを習熟させたなら、世界にとってこれほど恐ろしい民族はない、といえるのではなかろうか。」
 船大工たちの作業は順調に進んでいた。帆布については長老が命じて村の女たちの織機を動かすことに決まった。食糧の搬入も順調に行なわれていた。年があければ出航できる、船長と甲板長はそう考えるようになった。


第一四話  宣教師ロペスが武生を訪問する

 武生はたまきから船長室での出来事を聞いた。そしてロペス宣教師に救われた事を知った。そのお礼にロペスをじゃーしゃーど在所の宿に招待した。あらためて三人の侍女たちの早期釈放についての助力も求めたいと思った。
 ロペスには始めてみる日本人の住まいであった。靴を脱いで、玄関の間をあがると家人がそこに並んでいた。そして、彼らはひざまづいて、手をついて、額を床にこすりつけんばかりに、丁寧にお辞儀をした。畳と言われる、表面を植物繊維で編み上げた、特徴のあるカーペットが規則正しく何枚か敷き詰められていた。家中には木と竹と紙がふんだんに使われていた。天井とふすまと言われる引き戸との間には欄間と呼ばれる見事な彫刻のある仕切り板が見られた。どの部屋にも障子とふすまという自由に移動できる簡易な障壁があった。西欧のドアのような部屋の扉はなかった。そして個室も見あたらなかった。鍵のかかる部屋などもちろん見られなかった。寝室もなかった。ベッドも寝具もどこにもなかった。後になって教えられたところでは日本人はふとんという移動式の寝具を持っていて、それらを就寝時に「押入れ」と言われるロッカーから取り出して敷いて寝ると言う。そして朝はその布団を畳んでロッカーに収納して,その部屋を居間として使用すると言う。 ここでは非常に合理的で簡素な生活が営まれるようになっていた。
 ロペスは奥の間に招き入れられた。座布団といわれるクッションが与えられた。ひざを折って座ることができないので困っていたが,武生が自由に伸ばしていてもよい、と言ったので救われた。武生は豊後で修行していた間に紅毛人との付き合いがあり、ロペスの扱いは心得ていた。行届いたホストぶりであった。いちいち日本人の暮らしについて解説してくれた。和やかな雰囲気が漂っていた。ロペスはこの国民は礼節を見事に様式化することに成功していると思った。
 座敷とよばれる、おそらく最も広々とした、すばらしい部屋の横には、板張りの、縁側といわれる磨き上げられたフロアーがあり、その向こう側には、自然の風景をかたどった庭園があった。池を囲むようにして岩石が組み合わされ、枝振りのよい松が植えられ、飛び石といわれる敷石が置かれていた。ここでは驚いたことに、直線、方形、円形といった基調でなくて、曲線、菱形、楕円と言った乱調が重んじられていた。一見無造作に置かれた飛び石の,それでいて見事な調和が成り立っている日本式の庭園は西欧のそれとは全く異なっていた。東南アジアや中国で見てきたどの庭園とも異なった様式美が感じられた。 そのときふすまが静かに開いて、畳に額をつけんばかりにふかぶかと一礼した和装の女性があった。たまきであった。
 ロペスは日本人の女性の盛装を始めて見た。金銀の刺繍の入った帯が輝いていた。鶴に朝日をあしらった絵模様の、振袖と言う優雅なドレスを着ていた。あの船長室での、髪を振り乱した、あられもないたまきの肢体を見ていたロペスにとって、このたまきの美しさは格別な驚きであった。黄色人種などと言われる日本人の女性の、むしろ自分たちよりも白くみえる肌の色がまぶしかった。ロペスはこの日、「たまき」という名は高貴な珠玉の輪を意味することを武生から聞かされた。光り耀く、美の極致とでも言うべきひとりの女性が穏やかに、しとやかに、あでやかにそこにいた。
 武生が、たまきを救っていただいたことについて丁重に礼を言った後で言った。
 「たまきに茶を立てさせましょう。」
 ロペスは、当時、日本の武将たちの間には「茶の湯」という不思議なティーパーティーが流行していて、その中心的な指導者の宗匠が堺という泉州の町に住んでいるということを聞いていた。その堺の町にはイエズス会の宣教師たちも再々訪れており、西欧からの貿易船も時おり行き来していることも知っていた。
 庭の飛び石を伝って案内されたのは、茶室という、質素なつくりの離れ屋であった。
 静寂の中で、部屋の片隅に作られた、小さな炭火の炉のなかで沸かされる茶釜の音がしん、しんと広がっていた。正座して座っている同席した日本人たちはまるで瞑想を楽しんでいるかのようであった。このような寡黙と礼節を重んじる儀式の中で、以心伝心による連帯と親睦をはかろうとする日本人と言う不思議な人種がこの東洋の片隅に住んでいると言う事実をロペスは改めて知らされた。
 珍しい和菓子が出されてきた。それは甘蔗から作った糖と甘薯ともち米の粉末をこねあわせてつくられたものだと説明された。材料はいずれも倭寇船がルソンのスペイン人から仕入れてきたものであるという。
 ちなみに、甘蔗と甘薯はいずれも一六〇〇年代に入ってポルトガル人らによって日本に持ち込まれ、奄美大島、鹿児島などを経由して五島列島などでも大規模に栽培されるようになった。この和菓子は後の徳川時代になって、芋と米を蒸して、搗きあげて甘蔗糖をいれてつくられて、「かんころ」という名称でこの地方の特産物になった。
 武生が本土や上方のようなよい和菓子が手に入らないので、これで辛抱してほしいと恐縮して言った。そのあと、たまきがたてた、奇妙な形の、しかし風格のある茶碗に入れられた抹茶が振舞われた。ロペスはにこやかに手を取って教えてくれた武生の指示どおりにその茶を飲み干した。一座の人々は興味深そうにその情景を眺めて微笑むようになり、和やかな雰囲気が漂うようになった。
 ロペスがみた日本の陶器は独特のものであった。それは中国のものとも非常に違っていた。後年の彼の書簡では、この時代の日本の焼き物は桃山時代という日本の文芸ルネッサンスの時代に移行する前夜のニュアンスを持っていたと書かれている。それは、やがて勃発した朝鮮の役のあと、多数の陶工が連れられてきて、朝鮮風の焼き物の影響を受ける直前の、さらに室町時代末期の、つぎの時代へのダイナミックな変化を予言するような、独特の純粋で不思議な雰囲気を持っていた。それは民族的な伝統を最も顕著に示していた。西洋のような均衡のとれた、左右対称の美的感覚とは全く異なって不均衡、乱調子の中にかえって統一的、整合的な美しさを感じさせる芸術的な焼き物であった。
 堺に鉄砲鍛冶の修行に行ってきたという伝次が紹介された。サンタ・ドミナ号の修理のための見事な鋼板を作ってくれていると聞いていた伝次は堺で「茶の湯」を学んできたという。高名な茶の湯の宗匠であった千の利念の弟子筋でもあるという。この茶席の茶碗も伝次が堺から持ち帰ったものであるということであった。
 ロペスはこの日本人たちの「茶席」の独特な雰囲気は世界のどこにも見られないものであると思った。全員が威儀を正して、会話を控えめにしながら、様式どおりに、ひとりひとり丁寧に調合されたティーを飲む。それは感謝の礼をつくして、「いただく」といってもよいような雰囲気のなかに、言い知れぬ和やかさと親しみを感じさせる不思議極まるセレモニーでもあった。
 ロペスが正式に紹介された。武生はロペスがここにいるたまきの恩人であると言った。ロペスも自分がこの国に新しい神デウスの教えを伝えるためにやってきたことを率直に話した。何も臆するところはなかった。このようなすばらしい人々の間に,キリストの愛の教えを伝えることができるのはロペスにとって何にもまして大きな喜びであった。
和やかな空気が流れていたが、そのとき居並ぶ人々の中にいた一人の老人がロペスに向かって控えめではあったが、厳しい口調でいった。
 「実は私の孫娘をふくむ三人の娘がドミナ号に拉致されたまま帰ってきていません。あなたは神デウスの教えを説くといわれるが、娘たちをどうするおつもりか。」
武生がすぐに引き取って、先日の船長たちとの交渉の経過について説明した。ロペスはうなだれながら言った。
 「許しがたい罪が犯されていることを認めます。彼女らをあなた方に返すことが私に与えられた最大の責任であると思っています。必ず釈放されるように全力を尽くします。この後私はそのことで武生様と相談するつもりでいます。」
 武生が言った。
 「現在のところ、船の補修が進んでいますが、それが済むまでは人質としておくと彼らはいうのです。これは明らかに無法です。しかしもうしばらく辛抱してください。私も全力をつくします。」
 娘の親たちは武生を心から信頼していた。娘が村のために人質となっていることに誇りを感じている家族たちさえあった。
 ロペスと武生は中座して別室に移った。残りの会衆はこのあと連歌・俳諧の集いを楽しむことになると聞かされた。日本人は庶民の日常的な会合においてさえ、短詩をたしなむという特異な風習を持っている、このような国民は世界の何処にもみあたらない、ロペスは後日母国にそのように書き送っている。彼はそのなかで、この国では虫の声、木々をわたる風の音さえしみじみとした人々の喜びとなる。四季の変化が自然を美しく彩るために、人々は「風流」という高貴でしかも多感な心の状態を保つことができるのではないか、とも述べている。
 武生とロペスは三人の娘たちの釈放について相談した。前回の折衝では一応船体の修理が終った時点で解放すると言う約束ができていたが、二人が一番おそれているのは、これまでに外洋帆船の征服者たちがたびたび各地でしてきたように、当然のように捕虜を奴隷として連れかえり、売り飛ばすということがここでも行なわれる可能性があるという点だった。人質として公正に取り扱う、という対等の約束が無視されるのではないか、ということであった。その上ロペスの心中は複雑であった。三人の娘たちが公正に扱われているどころか、慰安婦同然の性奴の扱いを受けていることを武生は全く知らないでいる。しかしそれだけはどうしても知らせるわけにはいかなかった。もし知られれば大変なことになる。自分が何とか尽力するしかないとロペスは思った。
 大航海時代にはいってから、西欧人が行き着いた異教、未開の土地の人々に対しては神の十戒は必ずしも適用されていなかった。ロペスはこうした醜い現実に対して戦いを挑む必要があると思っていた。それは未開の土地での布教以前になすべきことであり、布教のためにもなすべきことであると信じていた。
 武生は言った。
 「ロペス様、船長を説得して、彼女らを救出することが出来るように協力してください。あなた方が内部で手引きしていただければ、必ず救い出せると思います。」
「わかりました。帰って船長とよく相談してみましょう。ただ問題は甲板長のガルシアの存在です。」
 ロペスはロザリオの十字架をしっかりと握り締めながらそう誓った。
 続いて武生は言い切った。
 「あなたには何でも打ち明けますが、私たちの田之浦港には、間もなく強力な倭寇の船団がインドシナから帰ってきます。彼らと一緒に戦えば怖いものはありません。無法に対しては断固戦うのが私たち久賀衆の流儀です。」
 武生は自信にあふれていた。わが方にはドミナ号のような大筒こそないが、もう間もなく予定の五〇挺以上の鉄砲が仕上がる予定である。鉄砲隊の訓練も進んでいる。漂着した紅毛船に対しては友好的、平和的な交渉を尊重するが、万一約束をたがえるようなことがあるならば、武力に訴えてでも三人の娘たちを取り返さねばならないと思っていた。ただしどのようにすれば全員を無事に救い出せるのかが問題であり、そのために武生らは考えあぐねていた。
 その夜、ロペスは船に帰って、自室のほの暗いランターンの下で本国につぎのような報告書をしたためていた。
 「今日、日本人の住居を訪れて多くのことを学びました。東洋の日本という国の片隅にある久賀島という離島にさえも、このように多くの秀れた人々が住んでいることに感銘を受けています。
 彼らの生活は私たち西欧人とは全く対照的です。かれらの衣服の大部分は草木の繊維でできており、袖が広く、長く、まるで鳥が翼を広げたように見えます。たとえば今日たまきが着ていたフリソデ(振袖)という着物はまさしく翼を持った鳥のファッションであり、男たちが下半身につけていたハカマ(はかま)というスタイルはまるで鳥が尾を広げたようです。これに対して私たちの衣服には、上着、下履きともに、まるで四足の獣のような感じがあってそれぞれに極めて対照的です。
 日本人は一部の鳥肉を除いて、ふつう動物の肉類を食べません。鳥がするように魚介類を好んで食べています。彼らは鳥のように植物の実と葉を食べ、根さえ食べます。私たちが家畜を飼い、狩猟をして肉類を多食するのと対照的です。彼らは食生活でもやはり鳥的であり、西欧人はけもの獣的であるということができるでしょう。
 そして住居でも、日本人は鳥のように、木と草から作った家屋に住んでいますが,私たちは獣たちが岩山のあなぐらに住むように石づくりの堅固な建物に住んでいます。
日本人の感性はまるで鳥のように鋭敏です。彼らの建国の英雄である「神武」は「やたのからす烏」という一羽の道案内の鳥に導かれてこの国を東に攻め上ったと言われています。 私たちとはあらゆる点で極めて異質で対照的なこのような人々に、エルサレムで発祥して西欧で育てられた西欧の宗教が果して本当に定着することができるのかどうか、このようにすぐれた資質を持った日本の人々を今日まで育て上げてきた神道や儒教、仏教からキリスト教に転向させることができるのか、あるいは改宗させる必要があるのかどうか、私は少なからず疑問を感じるようになっています。少なくともそうすることが非常に困難であるかも知れないことだけは確かであると思っています。」
 そして報告書の最後の部分には武生との相談の仔細が記されており、その日の結びにはこう記されていた。
 「私は恥じています。漂着したこの船では、乗組員たちが村村に侵入し、乱暴の限りをつくし、三名の女を人質に取り、あまつさえ連日連夜淫行を重ねているというのに、この久賀の日本人たちはどのようなキリスト教徒よりも礼儀正しく私たちに応対してくれています。寄港地の人々を、一方的に未開の、野蛮な人種ときめつけて、異教徒、即偶像崇拝の輩とみなされた地域では、当然のように、あらゆる卑劣な手段を用いることさえ許されている、とするような西欧人の中にある暗黙の考え方が、今、キリストの教えを広める上で最大の障害になっており、また今後とも最大の汚点となるであろうことを聖職者の方々にはぜひとも知っていただきたい。
 今の私には、ドミナ号の無法の輩の武力にはうちかつことが出来ません。ああ、神よ許し給え。救い給え。あなたの力だけが頼りです。一刻も早く彼女らを救出することが出来ますように助け給え。」
 ランターンの灯がそのとき大きく揺らいだ。ロペスは書き続けた。
 「武生は厳しく指摘しました。すなわち、彼は「それぞれの絶対者を信仰する宗教同士が排除の論理で対立し、ひいては騒乱や戦争にまで発展して殺戮しあうという、古今東西の歴史的な事実を考えると、人々の平和、安泰という普遍的な理想を達成するためには、宗教は無力であり、むしろ有害でさえある、という考え方が出来るのかもしれない。」
 「武生はもっと厳しく言いました。「イスラム教とキリスト教の対立に始まった十字軍の東征でどれほどの人々が死に、傷つき、犠牲をこうむったか、それは最も典型的に異宗教間の相克が人類にとっていかに深刻な課題であるかを示している。さらに、もうひとつの問題がある。それは異教徒を殲滅することに合理的な理由がつけられて、領土の拡張や植民地からの収奪が宣教、布教と一体化して行なわれるおそれがあるということだ。東洋はそのような西洋勢力の侵入によって大きな被害を受け取った。真に地上に平和をもたらすものは本当に宗教なのであろうか。民族、地域、貧富の違いを越えて人類が本当に平等で安泰で友好的であるためには、宗教以外の、もっと人間的で倫理的な価値観が必要なのではなかろうか。」
 武生のこのような見解は仏教、神道、儒教、キリスト教の世界を冷静に客観的に見つめることの出来た知識人の考え方として真摯に受け取ることが必要なのではなかろうか。私は異教徒を直ちに邪教徒と言ってはならないと思う。いちがいに異教徒を偶像崇拝の人々として排除してはならないと思う。その実はキリスト教の教義の中にこそ平和が至上のものであり、異なった信仰や考え方の人々とも融和することの大切さがうたわれていることを私たちが強調せねばならないのではないか。」
 「それにしても、今この同じ瞬間に、この船の船倉では本国では決して見られないような凌辱が、異教徒、異民族差別の象徴的な行為として、当たり前のように行われている。しかも私は甲板長らの武器の砦の前に、どうすることも出来ないでいる。ああ、神よ、もしも私に剣をとることを許し給うならば、もしも私が死を覚悟して乗り込むことを許し給うならば。ああ、神よ、主よ、良きすべを、良き道を示し給え。」
 この日の報告書のところどころには、彼のその夜の苦悶と涙のしるしと思われるインクのにじみが認められた。


第一五話  ドミナ号での激論と翌朝のクーデータ―

 サンタ・ドミナ号では船長を議長にした定例の幹部会議が開かれていた。
 久賀に漂着して相当な波瀾があったこの一ケ月ほどのあとで、態勢をどう立て直すかが話し合われていた。
 船長コスタがこれまでの経過を報告した後。船体の修理が着々と進んでいることを説明した。そして甲板長のほうをむいていった。
「問題はこれほど久賀衆のお世話になっていながら、この船に三人の女たちを引き続き監禁していることである。ロペス宣教師からも何回もきびしく注意され、長老からも繰り返し要求が来ている。私は船長の職権で直ちに彼女らを釈放したいと思う。諸君の同意を得たい。」
 甲板長は大声で言いたてた。
 「いやあの女たちはあくまでも人質であり、船体の補修が済むまでは帰さないほうがよい」
 仲間の機関長と副長も頷いた。
 ドミナ号には、はるかに若輩でありながら、王族の一員であり、爵位まで持った船長コスタの支配下に入ることに反感を持っている甲板長ガルシアを中心とする幹部たちがいた。彼らは船長の出身地マリョルカがかって所属していた旧アラゴン王国とは仲がよくない旧カスティラ王国の出身であった。出航当時から、これまでも何かにつけて彼らは反抗的であり、船長コスタは困惑していた。
 「日本人たちは協力してくれている。漂着した私たちに人質を取る権利がどこにあるのか。最初に村を突然襲撃したのはわれわれではないか。このままでは私たちは海賊そのものになりさがってしまう。武力で押さえつければ何でもできる、そこにはキリスト教国の正義も騎士道の誇りも全く見られない。やがてロペス宣教師が本国に報告書を書き送ることになるであろうが、このままでは私たちの名誉が失われることになるであろう。」
船長の一点も非の打ち所のない発言をさえぎるように甲板長がいった。
 「最初に乗組員たちが村に侵入したのは、あの台風の荒波の中で生死の境をさまよってやっとたどり着いた後の飢えと開放感とがそうさせたのであって、全くやむを得ないことだった。だいいちあなたは正義とか騎士道とか言われるが、世界各地の大航海に派遣されているわが国や諸国の船はそれほど紳士的な振る舞いをしてきたのだろうか。各国とも異教徒たちであると言う理由だけで、彼らを征服し、凌辱し、殺戮し、奴隷にするというような、教会がいうようなきれいごととは程遠い所業をまるで当たり前のようにしてきたのではなかったか。それはそうしなければこちらがやられるからだ、という論理に基づいているのだ。
  信頼できるのは武器だけだ。われわれはこのジパングで西欧諸国の仲間たちと同じことをしているにすぎない。それにわれわれは久賀衆には金貨で代償を支払うと約束している。彼らはそれで納得しているのではないか。」
 船長はさすがに声を荒げて言った。
 「娘たちを金で自由にしてもよいという約束はしていない。武力と金さえあればどんな非道でも正当化しようとするのか。私は断固として娘たちの釈放を命令する。」
 そのとき機関長のゴンザレスがいった。
 「娘たちのことは後まわしにしましょう。それよりも聞いてください。私はこのさいこの久賀島を占領するべきだと思います。この島をスペインの日本進出の拠点にすることをすすめます。」
 「なに。この島を占領する?そんなことはできない。」
 予想もしなかった機関長の提言に船長は驚いてそう叫んだ。しかし副長が大声で続けて言った。
 「いや私も機関長の意見に賛成です。私たちのこれまでの調査ではこの島の戦略的な価値が非常に大きい事がわかりました。久賀島は五島列島の中心にあります。そしてこの久賀湾は北向きの波静かな入江であり、玄界灘を航行して日本にやってくる外洋帆船の停泊地、台風などの避難地としての絶好の条件を備えています。現に私たちの船も久賀湾にたどり着いたから助かったのです。しかも山ひとつ越えれば田之浦湾と言う,これはまた南向きの、日本本土、長崎方向に開いた入江があります。村民の船大工も東洋のどこよりも優秀で外洋帆船の補修さえ可能です。この田之浦と久賀湾の二つの特徴を持ったこの島を、黄金の国といわれる豊かな国、ジパングと交易し、または、できれば支配するための前進基地として、わが国の租借地あるいは領土とすることは国王と国民に捧げる最良の贈り物になるでしょう。ここに堅固な基地を作って、わが国の東洋艦隊を集結、常駐させるようにするべきです。折紙鼻に砲台をつくれば、この久賀湾を完全に支配することが出来ます。」
 船長は大きく首を振り、両手を広げて叫んだ。
 「それは無法であり非道であって、絶対に許されない。それに久賀衆はそんなに簡単には攻め落とせない。日本人はこれまでみてきたどの異邦人よりもすばらしい。これは宣教師たちの報告書での一致した見解である。あの武生の強さを見ただろう。彼らには間単には打ち勝てない。それにわれわれの一存でそのような事をすることは許されない。私は国王からそのような命令を受けてはいない。」
 甲板長は武生のことを持ち出されて不愉快そうに言った。
 「要するに武力の相違がすべてを決定する。いい実例がある。われらのピサロは数百年の歴史を誇ったインカ帝国を滅ぼした。これは結局西欧人の武力が圧倒的であったからだ。ついでながら、スペインのインカ征服ではオランダもイギリスもスペインの領土拡大と略奪した金銀財宝を大変うらやんだが、民族が滅びるほど徹底的に殺戮されたマヤ人のことを誰も全く問題にはしなかった。キリスト教文明とは所詮そのようなものに過ぎない。相手が異教徒であるかぎり、何をしても許される。皮膚の色が違えばそれだけで蔑視する。それが現実なのだ。船長の考え方は甘すぎる。われわれはわれわれの繁栄と発展を第一に考える。われわれの利益だけを考えて行動すればよいのだ。異教徒の利益など論外なのだ。私も久賀島の占領を支持する。」
 険しい雰囲気が漂う中で、甲板長はさらに語気を強めて言った。
 「コスタ船長は台風の接近を予測出来なかった。しかもあの台風のさなかで明らかに操船ミスを犯した。舵の取り方を誤った。マストが折られ、帆布が飛ばされ、船首と舷側が大破したのはそのためである。それに貴重な積荷を海に投げ捨てるという誤った命令を下した。久賀湾に入ってきてからの日本人どもとの折衝でも終始弱腰であった。とくにわれわれが折角捕らえてきた特上、上玉のたまきという人質を釈放したという失敗は大きい。奴らに妥協する必要は全くなかった。大筒をぶっ放して脅かせば、それですべてが解決したはずだ。今われわれが今日このような窮地にあるのは、船長、あなたの責任だ。あなたは若すぎる。貴方は船長として適任ではない。われわれはあなたの辞任を要求する。」
 機関長も副長も肯いた。殺気立った雰囲気の中で、船長は立ちあがった。
 「私は絶対に辞任しない。あの嵐の中で私は最善を尽くした。ミスはなかった。だからこそ無事、久賀湾に入ることができたのだ。もしも積荷を捨てないでいたら船はとっくに沈んでいただろう。久賀衆との折衝に成功したからこそ、田之浦の船大工たちの協力を得て船体の修理が順調にすすんでいるのではないか。食糧も供給されているのではないか。」
 そしてしばらくおいて、いかにも苦々しげに言いきった。
 「私の方針に従わないものは私の権限で即刻逮捕することになる。本日の会議はこれで散会する。」
 甲板長、副長、機関長たちは船長コスタ一人を置きざりにして、乱暴にドアをあけて出ていった。

 その翌朝のことであった。朝方になってやっと寝付くことができた船長コスタは突然たたき起こされた。目の前に甲板長と機関長、それに副長の三人がサーベルを抜いて立っていた。ドアの付近には鉄砲を構えた数名の乗組員がいた。甲板長が言った。
   その翌朝のことであった。朝方になってやっと寝付くことができた船長コスタは突然たたき起こされた。目の前に甲板長と機関長、それに副長の三人がサーベルを抜いて立っていた。ドアの付近には鉄砲を構えた数名の乗組員がいた。甲板長が言った。  「船長、あなたを逮捕する。幹部三人の合議による決定である。あなたの権限を今から私が掌握することになる。」
 昨夜の激論の結末は幹部たちの反乱であった。マリョルカ出身の若造の船長に対するカスティラ出身の古参幹部たちのクーデータ―であった。甲板長は、無言のまま、すぐに起き上がったコスタを後ろ手に縛り上げた。そして乱暴にひきたてながら甲板長と従卒たちは船長室を出て薄暗い廊下の階段を降りて行った。やがて頑丈な鉄の扉のある部屋の前で立ち止まって、鍵があけられた。
 「これから母国に帰るまで、この部屋に監禁する。」
 甲板長はにんまりと笑ってコスタに言った。
 「ご執心の三人の美女たちとご一緒だ。ゆっくり楽しむがいい。」
 そして、突然の闖入者に脅えている娘たちに対しても、
 「美男子のコスタ元船長だ。一人対三人でよろしくやれよ。」
 と下品な笑い声をあげた。そして従卒たちに命令した。
 「コスタの服を脱がせて素っ裸にせよ。それから片足だけに足錠をつけて、鎖で柱に繋いでおけ。名誉を剥奪された男の惨めさを思い知らせてやるがよい。」
 銃口を突きつけられて、娘たちの前でコスタは下着まで切り裂かれるように剥ぎ取られた。そしてまるで奴隷にするように鎖で繋がれた。コスタの怒りと屈辱は頂点に達した。しかし、いまさら抵抗は全く無駄であった。
 「船長、あなたを逮捕する。幹部三人の合議による決定である。あなたの権限を今から私が掌握することになる。」
 昨夜の激論の結末は幹部たちの反乱であった。マリョルカ出身の若造の船長に対するカスティラ出身の古参幹部たちのクーデータ―であった。甲板長は、無言のまま、すぐに起き上がったコスタを後ろ手に縛り上げた。そして乱暴にひきたてながら甲板長と従卒たちは船長室を出て薄暗い廊下の階段を降りて行った。やがて頑丈な鉄の扉のある部屋の前で立ち止まって、鍵があけられた。
 「これから母国に帰るまで、この部屋に監禁する。」
 甲板長はにんまりと笑ってコスタに言った。
 「ご執心の三人の美女たちとご一緒だ。ゆっくり楽しむがいい。」
 そして、突然の闖入者に脅えている娘たちに対しても、
 「美男子のコスタ元船長だ。一人対三人でよろしくやれよ。」
 と下品な笑い声をあげた。そして従卒たちに命令した。
 「コスタの服を脱がせて素っ裸にせよ。それから片足だけに足錠をつけて、鎖で柱に繋いでおけ。名誉を剥奪された男の惨めさを思い知らせてやるがよい。」
 銃口を突きつけられて、娘たちの前でコスタは下着まで切り裂かれるように剥ぎ取られた。そしてまるで奴隷にするように鎖で繋がれた。コスタの怒りと屈辱は頂点に達した。
 しかし、いまさら抵抗は全く無駄であった。


第十六話 ロペス宣教師の上陸

 甲板長たちのクーデーターがあった日の前日に、ロペスは武生から久賀島をご案内しましょうという誘いを受けていた。
 迎えに出た武生とたまきといっしょに小舟に乗って、ロペスは久賀湾を始めて海上からみることになった。船頭が二人、それぞれの櫓をこいだ。空はよく晴れていて雲一つなかった。風もなく海はよく凪いでいた。
 小舟は久賀の突堤付近を離れて東側の岸沿いにまわっていった。海底が透けて見えた。小魚が群れていた。キスという魚が多いと説明された。久賀湾の水深は比較的浅く、潮がひくと海岸の相当部分が干上がった。村人は砂浜で貝類を集めることが出来た。時には逃げ遅れた体長3尺もあるミズイカを浅瀬に見つけることが出来た。露出した岩の表面では牡蠣がいくらでもとれた。浅瀬では少しもぐるとアワビ、サザエが無数にいた。まさにこの入り江は海の宝庫であるということだった。
 海岸にはあちこちに奇妙な形をした岩がそびえていた。おそらく火山岩であろう。遠くに見える、島にしては相当に高い山並みは一面の緑に包まれていた。森かげには亜熱帯のたたずまいが感じられた。ロペスは母国のイベリア地方や 地中海とは全く異なった風景を珍しそうに見わたしながら武生とたまきにあれこれと質問をしていた。現れては消える海岸の奇岩、絶壁、白砂青松の風景はそれぞれに名前をつけて、名勝として記録にとどめるべきだと思えるほど特徴的であった。なぜこのような美しい内海が既存の文献に全く記載されていなかったのかが不思議に思えた。
 五島列島は日本の最西端にあるために、大陸、東南アジアから暖流に乗って流れ着いた珍しい熱帯、亞熱帯の植物群落が随所に見られるという。雨量が多く、毎年の夏、秋には猛烈な台風がやってくる、だから民家のまわりには石積みの見事な塀が造られており、風で屋根が飛ばないように押さえの石が置いてあるということだった。海岸沿いに点在する集落が見えた。
 この向こうが大開(オオビラキ)という、その山道を登れば見事なやぶつばきの原生林があるという。武生がつばきをカメリアと翻訳して説明してくれた。真っ赤な美しい花が咲くという。この木はヨーロッパにはなかった。ロペスは苗木を母国に持ち帰って植えてみたいと思った。
 ロペスは久賀湾の周辺の緑の山々を見渡しながら、いつの日にかこのすばらしい景色のなかに、キリストの恩寵ゆたかな天主堂が建てられて、その先端に十字架が輝いているような光景が見られる時代がやって来ることを想像していた。
 海鳥が群れをなして飛んでいった。風が出てきた。はるかかなたに奇妙な形をした巨岩が聳え立っているのが見えてきた。その久賀湾の玄海灘への出口付近は折紙鼻と呼ばれていた。立ち上がったロペスの僧衣が風にひるがえった、潮の流れが速くなった。船頭が、ここでは満ち潮の時には舟は前に進めないのだといった。湾の外は見渡す限りの荒海であった。武生は少し外海に出てみましょう、といった。船頭は慎重に櫓をこいだ。波が高くなって波しぶきがかかるようになった。小舟は左右にゆれながら折紙鼻の真横をとおった。垂直に突き立った巨岩の列はたしかに絶景であった。名にしおう玄界灘から打ち寄せる波頭がきらきらと輝いていた。この付近には、難破して舟板に体を括り付けたままの死体が時折打ち上げられてくるということであった。ここに見られる岩石のありさまはこの島がその昔、火山の爆発によってつくられたことを明らかに証明していた。かって何億年かの昔、猛烈な噴火があって海底が隆起してつくられた島が五島列島であることは、隣の福江島には今でも時折噴煙をあげるおんたけ鬼武という活火山があることからも明らかである、とたまきが教えてくれた。
 島の漁師たちはこの外海に出て、島の周りでイカの夜釣りをするという。舟縁にたいまつをたいて、その灯に集まってくるイカを独特の釣り針で引っかけて釣り上げる、特別なえさはいらない、一晩で百匹も水揚げする漁師はざらにいるということであった。船頭が、これがそのイカ釣りの仕掛けだといって見せてくれた。
 武生が言った。
 「ロペスさんのお国では魚を生で食べることはないでしょう。わが国では新鮮な魚を生で味わう習慣があります。徹夜で漁をして、朝方、釣り上げたイカを舟の上で刺身、つまり生の魚の切り身にして、味噌をつけて食べる。これに小量の酒が入れば最高です。」
 舟が湾内に戻ると波がたちまち穏やかになった。久賀湾が天然の良港である証拠であった。武生はこの久賀湾の入り江がこのように玄界灘からの避難所になることが出来るために、これまで多数の大陸、東南アジアなどの舟が寄港したことがあると話した。またわが国から中国へいった使節(遣唐使、あるいは遣随使)の舟もこの久賀島を基地にすることが多かった。遠い昔には弘法大師という仏教の高僧で広く日本人に慕われている人物が中国におもむく際にこの湾の外側にある田之浦の港に寄港したといわれているとのことであった。
 舟は静かに南下して湾の西岸にあるふかぶら深浦と言う部落を望む位置に来た。その入り江を回って間もなく、もとの久賀の突堤に帰り着いた。久賀はこの島一番の民家の密集している集落であった。
 陸に上がってから武生は言った。
 「この次の機会には島の外海に面した部分を陸上からご案内しましょう。特に田之浦部落には舟大工の仕事場や鉄器の鋳造所があります。伝次の仕事場にはぜひともお連れしましょう。」
 その伝次の娘ちづが人質としてドミナ号に拉致されていることをロペスは後になって知ることになる。


第十七話  ロペス、下船して長老の家に寄宿する

 ロペスはその夜、武生の勧めで在所の宿に泊まることになった。そして翌朝、サンタ・ドミナ号に帰って、船内がただならぬ様子である事に気がついた。ロペスの部屋の隣にあった船長の部屋の長椅子には甲板長ガルシアがいぎたなく寝転んでいた。そしてすぐにコスタ船長が解任され、逮捕されて船倉に閉じ込められたことを知らされた。
 ロペスは、こうなった理由を聞いたが、甲板長は「船長として不適格だから、幹部会として決定を下した。」としか答えなかった。
 ロペスは聖職者として船内の指揮命令系統とは無関係でなければならなかった。教会関係者はただ同乗している、同乗させてもらっている、というだけのことであった。
 ロペスはコスタに会わせるように要請したが、拒否された。仔細を知ることができなかったが、おそらく甲板長と船長とのこれまでの根深い対立が原因であり、しかもおそらく船長コスタの側が潔白であることをロペスは信じて疑わなかった。
 甲板長らにとって、ロペスもまた船長同様に煙たくて、憎たらしい存在であった。その点はたまきを犯そうとしてロペスに止められた機関長のゴンザレスも全く同様であり、二人はつねづね「この坊主もどうにかしたい」と思っていた。しかし聖職者は治外法権を持っていたからどうしようもなかった。そして結局、甲板長は、布教のために久賀島に上陸したがっているこの坊主を望みどおり下船させてやろうと考えた。
 甲板長は、ロペスが昨夜は武生の家で一夜を過ごしたことを聞いた後で、
 「いっそのこと、しばらく武生の家に世話になられてはいかがかな」
 と言った。そして返事をためらっているロペスに、
 「ここ数ヶ月間は、船体の修理で船内はごった返すだろう。島での伝道のためにもしばらく下船されることをお勧めする。荷物はすぐに届けさせよう」と有無を言わさず畳みかけた。
 ロペスは船長コスタのいない船には留まりたくなかった。また、もともと久賀の現地に寝泊りして、神の言葉を伝えたいと思っていた。
 「わかりました。武生と相談してみます。」
 ロペスはその足で在所の宿の武生の所にひき返した。そして、船長が逮捕、監禁されたこと、甲板長が実権を把握したこと、自分も追い出されたも同然であることを告げた。その上で久賀のどこかにおいてほしいと懇願した。武生は腕組みしてこの情勢の急変について考えていたが、すぐに使いを出して長老と相談した。そして、ロペスを長老の家の離れ屋に寄宿させることにした。
 武生は言った。
 「これから、村衆との緊急の評定を開きます。ロペス様もご出席頂いて、もしも何か質問があれば、船内の状況などについてご説明くださいませんか。あの甲板長が相手となると、これからは相当に難しいことになりそうです。」
 すぐに主だった久賀衆が集められて、評定が始まった。
 武生の提起した問題点は、まず第一に、甲板長が船長コスタと交わしたわれわれとの約束を守る意志があるのかどうか、と言うことであった。第二に、コスタ船長の逮捕をどう考えればよいのか、第三に人質の侍女たちを本当に返してくれるのか、ということと、最後に最も懸念されるのはあの挑戦的な甲板長が、船体の修理が終わった後、どのような行動に出るのか、まさかこの村を再度攻撃するような暴挙をあえてする恐れはないだろうか、ということであった。武生は最初に船を訪問した時に、甲板長と剣を交えながら、この男がどのような人物であるかを十分に見抜いていた。
 激論が交わされたが、結局めぼしい結論は出なかった。そしてどのような情勢にも対処できるように、とにかく、警備を厳しくすること、鉄砲の製造と増産を急ぐことと鉄砲隊の訓練を徹底すること、田之浦衆の船大工の派遣を一時停止することなどが取り決められた。
 傍聴していたロペスはこの離島の人々が鉄砲の製造について当たり前のように語っていることに驚いた。鉄砲隊の訓練をしているなどとは全く想像も出来ないことであった。母国のポルトガルでもこのような話がこのようなところで行なわれることはないだろう、と思った。
 武生はロペスの前ではあったが、ためらわずに言った。
 「西欧各国の船が植民地をつくろうとして、世界の各地に派遣されるようになってから、容赦なく各地の住民を殺戮している事実がある、と帰ってきた倭寇衆が伝えています。そればかりか捉えた住民を奴隷として売り買いしていることもどうやら事実のようです。ドミナ号が甲板長らにのっとられた以上はどのようなことがおこるかわかりません。ただ、いまのところは船体の修理が途中であり、田之浦衆の助けが必要であるから馬鹿なことはしないだろうが、とにかく厳重に警戒する必要があります。」
 ロペスは評定を聞きながら、甲板長の一派が人質に取っている侍女たちに日夜加えている非道、淫虐の行為を、武生を始めとして、ここにいる久賀衆が誰一人として知らないことに、胸をなで下ろすような気持ちであった。もしもそのことが知れたらどのようなことがおこるかをひたすら恐れていた。
 キリストの博愛の教えを説こうとしている自分たち西欧人が、その一方で、未開、異教の 人々に無法、残虐の限りをつくしている。その許しがたい矛盾が武生たちにも周知されていることに、あらためて強い危機感を感じないではおられなかった。


第十八話  その夜のドミナ号での情景

 支配権を把握した甲板長らは船長室で祝杯をあげていた。もう全く酔いが回った甲板長は、「久賀島を占領してやる」とわめいていた。そして、「必ずあの武生めに復讐する。それからあの上玉のたまきを俺の自由にしてやる」と叫んでいた。久賀衆が苦心して集めて、毎日のように運び込んでくれている食糧の鶏肉や魚介類が焼き上げられて、山のように積み上げられていた。あの台風の中でさえ捨てないで大切にされてきた船底の巨大な酒樽が持ち出されて、おきまりの杯盤狼藉が始まった。母国の港を出て一年以上にもなる荒くれ男たちには鬱憤がたまっていた。淫靡な歌や卑猥な笑いが至る所にうづまいていた。もはやうっとおしい宣教師のロペスも堅苦しい船長のコスタもいなくなったドミナ号はまるでバッカスの独壇場であった。
 男たちは例によって船倉の娘たちのところに行こう、と言い出した。酒がいつもの情欲を呼び覚ましていた。甲板長を先頭に十数名の乗組員たちがわめきながら繰り出して行った。汗臭い男たちの体臭が船倉に続いている狭くてほの暗い階段の中にたちこめた。
甲板長は同じ牢獄の中にいるコスタがどうしているかに関心を持っていた。若い三人の女と一人の若者を裸にして閉じ込めた、ということが彼の嗜虐の心をひときわかき立てていた。
 船倉の扉が乱暴に開かれて、乗組員たちは歓声をあげて乱入した。三人の娘たちは部屋の片隅に一塊になって震えていた。もう一方の片隅にはコスタが両手で前を隠すようにして立ち上がっていた。
 甲板長が呂律のまわらぬだみ声でわめいた。
 「よう、船長、いやコスタさんよ。ご機嫌はどうかな。女どもとの裸の付き合いはいかがかな。もう何回かお楽しみはお済みですかな。
」  荒くれ男たちはすぐにコスタを後ろ手に縛って柱にくくりつけた。その上で、酔っ払った乗組員達は笑いざわめきながら、そして酒杯をあふりながら、コスタの露わにされた部分をからかいはじめた。コスタの顔が屈辱にゆがんだ。大声で叫びながらつばを吐きかけた。乗組員たちは怒ってコスタの口に猿ぐつわを噛ませて黙らせようとした。
 「それでは、しばらくの間、俺たちのお楽しみの風景をごらんいただこうかな。」
 コスタのうめき声を打ち消して、男どものあざ笑いの声が船倉内にひびきわたった。その後はもはや言うまでもなかった。男たちは衣服を脱ぎ捨てて、われさきに女たちに駆けよった。抵抗する手足を縛って、前から後から女体を貪った。部屋の三箇所で、同時に凌辱が行われた。男と女の喘ぎとうめきの声が次第に高まって、何回も何回も獣たちの絶頂を告げる声があがった。淫水の滴りがベッドと床のあちこちににじみを作った。
コスタの男性も荒くれ男たちの玩弄の標的とされた。男たちは乱交の順番を待ちかねながら、酒盃をあげて、大声でわめきながら身動きができないコスタの裸身をもてあそんだ。
聞くに耐えない卑猥なことばを投げかけながら、コスタをいたぶった。この情景はおおよそキリスト教徒の常識では考えられなかった。どうしようもなかった。コスタは死にたいと思った。激しくもがいた。しかし、嘲笑する男たちの前に、若いコスタの男性が耐えかねて、樹液をほとばしり出すまで、あの手この手のいたぶりの時は終わろうとはしなかった。
 女たちとの戯れに堪能して、よろめきながらコスタの前にやってきた甲板長は、あざ笑いながら言った。
 「いかがです、コスタさん。ご満足でしたかな。ご不足ならこのつぎには本当に女たちにお相手させましょうか。いやその必要はないわけだ。ここで何時でも出来るんだからな。」
 そして手に持った鞭でコスタの下半身を激しく打ち据えた。
コスタは声をあげなかった。よく耐えた。しかし目には涙があふれた。嗚咽がもれた。無念であった。
 夜明けが近かった。さすがに、数時間にも及ぶらんちき騒ぎにつかれはてた男たちは甲板長を先頭によろめきながら帰っていった。
 最後に縛めを解かれたコスタは部屋の片隅にひざまづいて、張り裂けるような屈辱の思いのなかで悔しさの涙を流していた。
 侍女たちはその男が元船長であり、コスタという名前であることを知った。そして自分たちと同じく不法に拘束され幽閉されて、男たちの玩弄の対象になっていることを確認した。


第十九話  ロペスが村塾に招かれる。

 長老の家の離れ屋に落ち着いたロペスは間もなく武生に案内されて村の子弟たちのセミナリオ、すなわち学校である村塾を見学することになった。
 長老の野原家からすこし歩いたところに武生の住む在所の宿があり、その隣に藩の行政府である代官所があった。その前に住民の議会にあたる寄合所の表札が立っていた。代官所は宇久藩の出先ではあったが、寄合所の決定を経ないで勝手に触れを出すことはできなかった。先日のドミナ号に対する襲撃は非常事態ということで、藩の直接の判断で決行されたのだが、結果的に代官所側の明白な軽挙、失態である、ということになっていた。
 武生の診療所は寄合所の隣にあり、あたりの日本式の建物とは異なる西欧スタイルの洋館であった。豊後で西欧の学問を身につけた武生が南蛮の書物の挿絵を模して、いのき猪の木部落の大工衆に建てさせたものであるという。武生とたまきを中心とする数名の教師たちが教えている村塾はその隣にある純和風の建物の中にあった。
 「わが国では昔から学問は貴族を中心とした特権階級のものとして伝えられてきました。中国の文献や仏教の経典が教養の基本とされました。当初の漢文は確かに大きな影響を与えましたが、今から五〇〇年も前の平安時代になると次第にわが国独特の和風の、かな文学の発展が見られるようになりました。特にポーエムの一種である和歌、短歌と呼ばれる短文系の詩歌が貴族社会以外にも広く普及しはじめました。私は豊後のセミナリオでラテン語をおそわり、西欧の文学についても学びましたが、わが国の和歌や俳諧のように凝縮された文学表現が広く国民の間に愛されて行き渡っているような国家はどこにもみられなかったと思います。」
 武生の解説はロペスには極めて新鮮であった。東洋と西欧の二つの学問を学んで総合的に対比的に論議できる人物がここにいた。
 「西欧のあなた方も教会を中心に独自の学問を発達させてきました。中世のルネッサンスを経て人文主義の思想が台頭し、繁栄する西欧諸国にはキリスト教から解放された文学の花が開いた事も知っています。しかしわが国ではすでに平安の時代、おそらく西暦では一〇〇〇年の頃に、かな文字の発明とともに「竹取物語」、「伊勢物語」などが書かれ、とくに女流作家である紫の式部が書いたといわれる「源氏物語」はおそらく世界最古の小説ではないかと思います。
 今でこそ、あなた方は日本人を男尊女卑の国とお思いでしょうが、平安の昔には女性も教養を積んで、とくに文学の世界には女性の作家が輩出しています。このような国も珍しいのではないでしょうか。」
 ロペスには驚くべきことであった。この東洋の片隅の島国に、これほど独自の文化が見事に開花していたことを西欧人は全く知らされていなかった。
 「現在、ほとんどの大名は部下のために藩校、つまり藩の学校を建てています。武士には武道だけでなく学問の素養が要求されます。ただ強いだけでは軽蔑されます。ご存知のとおり、わが国には侍を頂点にした身分制度がありますが、武士だけでなくて農民,庶民にいたるまで、読み書きそろばんの学習が大切にされて、あちこちに村塾、寺子屋などといわれる小規模の学校がつくられています。」
 ロペスは書物所と呼ばれている別棟に案内された。武生らが集めたといわれる図書が並んでいた。後日、ロペスが武生から聞いて詳細に記録された目録が教皇庁に書き送られているが、そのほとんどがロペスには全く読み取れない漢籍と呼ばれる中国の漢字で書かれた本であった。しかし、かな文字といわれる相当数の文学書,物語ものも集められていた。これらは写本といわれて丹念に手書きで写し書きされたものだという。
 その奥まった部屋の一角にはラテン語、スペイン語、オランダ語と母国の懐かしいポルトガル語で書かれた書籍が並んでいた。天文、医学、そして神学書までもが相当数集められていることには目をみはった。
 さらに興味があるのは、先に日本にやってきた宣教師たちの労作と思われる、日本の伝統的な文学書である「倭漢朗詠集」、「金句集」などのラテン語訳の写本があり、またキリスト教の入門書である「ドチリナ・キリシタン」や「コンテムツムンジ」のような宗教書の日本語訳の写本までもが置かれていたことである。これらは武生が豊後のセミナリオで集めたものが大部分であったが、相当数は伝次が堺で修行中に武生からの依頼で交易船から入手したものであると聞かされた。このような文献図書を収集することの必要性を感じ取って、そのために相当な努力をしてきたであろう武生たちの資質の高さに、ロペスは改めて驚嘆させられた。
 東洋の文化の素養を基盤にしたうえで、西欧の文化を貪婪に吸収しようとしている日本人たちが、今生み出そうとしている、その新しい文化とは何か、ロペスは整理された和洋の図書の書棚の前で、深く考えさせられていた。
 武生はロペスに熱心に語りかけた。
 「私はあなた方のラテン文明以来の宗教や思想が優れていることを認めます。しかしそれだけが絶対であるとは思っていません。東洋の宗教,文化にも奥深いものがあります。それらの文化と思想の融合、交流と言うことが大切だと思っています。私は豊後の病院であなた方の利他、博愛,奉仕の思想を学びました。キリスト教の、広く世の中の欠陥を変えようとする働きが具体化された事業としての、病院、孤児院、救ライ院、育児院などが豊後の地につぎつぎに開設されていました。私はその宗教のあくことのない、社会的、事業的な展開には感銘を受けました。これは仏教伝来の初期を除いて、わが国の既存の宗教には見られないことでした。そしてそれらの施設と事業の運営のための学校も優先的に設けられていました。私は教育を重視するあなた方の姿勢に学ばねばならないと思いました。組織を作り、行動を重んじることに熱心である、というあなた方のありかたは私たち東洋人の、えてして観念と瞑想と孤独の中に閉じこもりがちな傾向を改めるために、おおいに参考になると思い知らされました。フランシスコ・ザビエル師の来日以来,わが国の社会の各方面で、上は宮廷から、大名、学者、宗教界、はては庶民にいたるまで、キリスト教界から前代未聞の大きな刺激を与えられており、わが国に大きな変化がおころうとしています。私は、ここでは、いずれあなた方の国に留学してあなた方の文化を本格的に学ぶことが出来るような人材を育てるために、子弟の教育に全力を尽くしています。」
 ロペスは答えた。
 「何時の日にか、あなた方の使節団が私の国や法王庁を訪問されて、広く世界に目を開かれることを期待しています。私もそのために出来るだけのことをしたいと思います。
 あなたは教育の大切さを言われましたが、私たち西欧人の庶民の識字率は実の所余り高くはありません。私たちこそもっと教育に力をいれねばならないと思っています。」
 武生は続けて言った。
 「わが国では今、諸大名の群雄割拠する戦国の世が終わろうとしています。京都では織田信長の覇権が成立しようとしています。混乱期が終わって新しい時代が始まろうとする非常に不安定で流動的な時期に差掛かっています。こうした時期に大切なのは、人々の考え方であり、生き方であり、そのありようを誤らないための教育がしっかりと行なわれていることが必要です。幸いなことに、この久賀島では 昔から人々は教育にたいへん熱心で、このような村塾での教育を充実するように大変な支出をしてくれています。おそらく日本人は例えば倭寇や各地にある日本人町に見られるように、これから海外にさかんに進出してゆくことになるでしょう。その場合に、間違った行動をしないように、例えば西欧の諸国がしているように植民地をつくろうとしたり、領土を広げようとしたりしないような、しっかりした考え方を持っていることが求められるようになるでしょう。ただ私は今侵略の魔手にさらされているアジアの諸国を救わねばならない、とするような考え方が急速に高まってくることによってわが国がやがて戦火に巻き込まれるようなことがなければよいがと思っています。
 武生はここで一層力をこめて語った。
 「実はわが国の武将たちの中には、戦国の時代が終わって、全国統一ができたあと、朝鮮、中国に進出して、唐天竺までもわが国の領土にしようというような誤った考え方を持っている輩がいます。例えば織田信長やその臣下の豊臣秀吉らはそのようなことを言っています。これはとんでもないことで、他国の人々を殺戮するばかりでなく、勝ち目のない戦にわが国の人々を巻き込んでいくことになることは明らかです。言いたくはありませんが、あなた方の国が今アジアなどでしているのと同じ過ちをわが国もしてしまうおそれがあるのです。
 しかし、武士という特権階級では主君の命令に絶対服従が求められており、今更武士たちの考え方を変えるのは至難のことです。従ってこの村塾では、普通の武士以外の農民、漁民、商人を教育することによって、「殺しあい、奪いあい、せめぎあい」をしない人々の数を増やし、資質を高めることによって、これらの平安を大切にしようとする人々の勢力を少しでも大きくして行こうとしているのです。
 それから、この島からも船出している倭寇衆のすべてが、本当に海外貿易だけに従事しているとは思いません。事実、倭寇などと呼ばれているように、海賊たちと戦ううちに、海賊紛いの行為を東南アジアの各地で働いているものがあることも認めます。人々の中にそのような侵略、略奪行為を許さない心を育てることにも、この村塾では力を入れています。」
 ロペスは人々の心の領域に関わる、そのような教育が宗教、信仰とどのような関係のもとで実施されるのかを聞きたかった。既存の宗教と切り離して武生のいうような教育ができるはずがない、西欧で現在興隆しているヒューマニズムだけで、宗教を抜きにして平和が守られる社会を作ることが本当に可能なのか、ロペスは疑問に思っていた。その部分がどのようになっているのか、ここでの教育の実態をもっともっと注目していく必要があると思った。
 村塾の教師役は武生とたまきとほかに長崎帰りの青年三人と今は捕らわれているたまきの侍女三人が勤めていた。伝次もときおりやってきて講師を勤めた。
 たまきは日本古来の国語、文学と作法を教えていた。今は古今和歌集という日本の独特のポエムを講義している最中だといった。たまきはこの村塾に教師として勤めていた武生の母が上方の京都で学んできた国文学の素養を伝授されたのだという。伝次は数理、科学を担当していた。勿論工作の実学も指導していた。田之浦の鋳造所も実習場所として用意されていた。伝次の素養は堺での修行時代に、スペイン人から最新の西欧の科学技術を教授されたものであるという。武生は教頭として村塾全体の統率、管理にあたっていたが、同時に医学、語学を教えていた。注目すべきことは武生は自分の蘭方医学だけでなく、麻酔での針灸や生薬などを用いる漢方医学のよさを認めていて、渡来していた中国人の漢方医を講師においていた。語学ではスペイン、ポルトガル語の教科を武生が担当していた。
 生徒たちは五歳から二〇歳まで、現在は七〇人が学んでおり、初級、中級、上級、専門部に別れていた。全員が村営の寄宿舎で暮らしており、今では長崎や五島列島の各地からも生徒が集まってきているという。
 専門部の講義は極めて過酷であり、毎日のように、次回までに参考文献を何冊も読んでくるように、との宿題の指示が出た。したがって図書蔵の読書棟では朝までランプの灯が消えたことがないということであった。村塾の運営には相当な評定所の予算が使われていたが、ここで使われた初期投資は後年必ず大きな利益となって帰ってくるというのが武生たちの信条であった。
 武生は情熱的に語った。
 「この学校の教課はあなたがたの豊後や京都での一般子弟を対象としたセミナリオのものを参考にしています。将来はもっと高度なコレジョのようなものを作りたいと思っています。東洋と西洋の文化をつなぐことを目的としてつくられたこのような形の村塾はおそらく日本の何処にもないと思います。私と伝次とたまきの考えでつくりあげた新しい教育の形です。武士たちのための旧来の藩校でもなく、寺子屋でもありません。」
 「デウス様の恩寵によって、皆様の久賀島という美しい興味ある地域にたどりついて、このような見事な学校を見ることができたことを光栄に思います。あなた方は中国の文化を受け入れて、これを基盤として独特の日本文化を作り上げてきたと聞いています。その上、この久賀島では倭寇衆がもたらす情報を通して東南アジアや海外の今日の在りようまでも知ることができます。そして、さらにザビエルの来日以来の西洋文化を豊後,長崎、堺などを通して受け入れようとしておられます。それは、今日の世界の中でも全く稀有の取り組みであろうかと思います。中近東のエルサレムに生まれて、西欧に育ったデウス様の教えを私もあなた方にこそ正しくお伝えしたい。西欧文化の精髄を知ってほしい。あなたがたのようなすばらしい人々ががもしもキリシタンになっていただければ、地上にも天上にもこれ以上の喜びはないことになるでしょう。」
 ロペスの声も高揚していた。武生が微笑みながら言葉を継いだ。
 「ロペスさん。お願いがあります。今日、ここにおいで頂いたことを生徒たちも大変喜んでいます。話でしか知らなかった、わが国の言葉で紅毛人といわれる本物のポルトガル人に会えると言うことで彼らは朝から沸きかえっています。これから彼らのために何か話してやってくださいませんか。」
 「喜んでお受けいたします。」
 ロペスにも生徒たちとの出会いは待ち望むところであった。
 しきりの襖が開かれて畳敷きの大広間が現れた。そこには生徒たちが額を床にすりつけて平伏していた。武生が言った。
 「額をあげい。ポルトガル人の宣教師、僧侶のロペスさんをおひき合わせする。」
待ちかねたようにいっせいに頭をあげた生徒たちは、そこに生まれてはじめて紅毛人を見た。完全な静寂の中で視線がロペスの一点に集中した。先日来の突然のドミナ号の漂着、大筒の射撃、弾丸の炸裂、乗組員の村への侵入と略奪などといった紅毛人に対する恐怖と関心の入り交じった生徒たちのまなざしが穏やかな笑みを浮かべて立っている長身のロペスの一挙手一投足に集中していた。
 「デウス様の新しい教えを伝えるためにポルトガルからやってきた宣教師のロペスです。私は久賀島という平和で静かな島を私たちの国の船がかき乱してしまったことを申し訳なく思っています。いずれ船体の修理が終われば船は立ち去ることになるでしょう。でも私はここにとどまって、みなさまにデウス様の教えと私たちの文化をお伝えしたい。」
 ロペスはその大広間の正面横にオルガンが置いてある事にすぐに気がついた。こんなところに西欧の楽器が置かれていることは全くの驚きであった。母国のコレージョで演奏法を学び、教会で安息日がくるたびに奏楽していた、そのオルガンに、漂着したこの島の、このようなところで出会うとは全く信じられないことだった。懐かしかった。ロペスはすぐにオルガンに歩み寄って、椅子に座った。そしてペダルを踏んで、おもむろに鍵盤を押さえた。
 最初の音が鳴り響いた。ロペスは水を打ったような静けさのなかで、しばらく瞑想したあと、かって母国のキリストの十字架のかかった聖堂の、ステンドグラスごしに降り注いでくる光の中で弾いていた「アヴェ・マリア(めでたしマリア)」、「サルヴェ・レジーナ(あわれみ深き后)」、「ミゼレーレ(あわれみたまえ)」の三曲を立て続けに演奏した。
 オルガンの起原は非常に古く、一、二世紀のローマ時代にさかのぼるといわれている。その後楽器として次第に改良され、一〇世紀半ばのウインチェスター教会にあったオルガンの絵では今日のパイプオルガンの原形が見られる。一四八〇年にメムリンクが描いた「奏楽の天使たち」にはポータティブ・オルガン(オルガネット、左手でふいご、右手で鍵盤を弾く携帯用、行進用のオルガン)が見られる。一五世紀には、構造も音質も格段に進歩して、オルガネットのほかに、室内用のポジティブ・オルガンが発達した。ロペスの修学時代には、ソロ・ストップもつき、鍵盤も数段になって、教会などでの演奏が盛んに行われていた。ロペスは一四世紀のオルガン音楽の始祖ランディーニのあと、ガブリエリらによってつくられたベネツイア楽派の流をくんだ技法を習得し、新しいトッカータ、カンツオーネなどの演奏にも習熟していた。
 宣教師たちが奏でるオルガンの演奏は武生も豊後でしばしば聞いていた。天文二〇年(一五五一年)ザビエルが山口で大内義隆に拝謁して始めてクラヴォ(ピアノの前身)を献上して以来、西洋音楽を聴く機会が増えていた。武生が学んだ豊後のコレジオにもオルガンがあった。しかし久賀島の子供達にとって、この春、伝次が堺からとりよせてくれたばかりの、そのオルガンの音楽を聞くのは全く始めての、まるで夢のような経験であった。
 あるときは朗々として、あるときは繊細に、ロペスの奏でるオルガンは高く低く鳴り響いて、大広間にこだました。まぎれもなく、ヨーロッパの中世の教会音楽が日本の最西端の久賀島の片隅で演奏されていた。子供たちは陶然としていた。琴でもない、笛でもない、その、聞いたこともない旋律の、天国の調べのような音楽は村塾の付近を歩いていた村人たちを立ち止まらせた。何時の間にか大広間の周りには大きな人垣ができていた。咳ひとつきこえてこない静粛があたりを支配するなかで、ロペスは最後の楽章を弾き終わった。 期せずして盛大な拍手がおこった。
 詰め掛けた人々に向かってロペスはもう一度静かに話しかけた。
 「演奏を聞いていただいてありがとうございました。お見えになっている村の方々のためにもう一度ご挨拶いたします。私はポルトガルからやってきた宣教師のロペスと申します。私はデウス、大日様を崇める新しい信仰をこの国に広めるために、この島に導かれてきました。今日は武生様とたまき様の案内でこの村塾を見学して大変な感銘を受けています。ここで学ぶあなたたちが将来あなたがたの国だけでなく世界のためにすぐれた役割を果たされることを確信しています。
 久賀島の皆様が天にいます「デウス様」の恩寵をゆたかにお受けになるように祈っています。」
 当時の宣教師たちが西欧以外の文明圏にキリスト教をひろめる場合に最も苦慮したのはキリスト教の唯一絶対神をどのような訳語で民衆の前に示すのか、ということであったという。ザビエルは天文一八年(一五四九年)にヤジロウ(もと真言宗徒)の示唆によって、神を「大日」(大日如来)と呼ぶことにしたが、天文二〇年には山口で、そのような仏教語を廃して、率直に「デウス」を使用することにした。そして後にこの「デウス」が正式な用語として採用されていた。「天主」という言葉が使われたのは一七〇〇年代の江戸幕府の時代になってからのことであったという。
 ロペスは生徒たちの前に歩いていって、ひとりひとりの手をしっかりと握った。生徒たちは握手という、こころを伝える西洋の仕方を学んで知ってはいたが、ここではじめてそれを経験した。大きな、暖かい、真っ白なロペスの手のひらの感触は生涯忘れることはないと思われた。微笑みと和やかさが大広間いっぱいに広がって、集まってきた村人たちも加わった歓談と交流の和やかな時間が流れていった。


第二〇話  伝次と武生の久賀島人観

 伝次と武生は従来からお互いの家に行き来して、しばしば意見の交換をする機会を持っていた。好物の酒を酌み交わしながら、二人は深更にいたるまで語りあうのが常であった。長老やたまきが同席することもあった。
 その夜、武生はたまきを伴って、田之浦の伝次の家に出かけて行った。鉄砲製造の進行状況を現場で確認した後で、三人は伝次の家の一間で、堺から取り寄せたという南蛮渡りのテーブルと椅子に座って、ぶどうの酒を静かに酌み交わしていた。
 遠くに見渡せる田之浦の夜の外海には、いか釣り舟の漁り火が光の軌跡を残して海上を少しずつ動いていた。
 久賀島の明日をどうするかが、二人にとっての、かねてからの課題であった。大きく動く国内外の情勢についての、かっての仲間たちからとどけられた九州各地や京都、大阪、堺などからの、それぞれの情報の解析を行って、そこから浮かび上がってくる問題点を慎重に確かめ合った。その上で、島の自治対策や村塾での教育方針にそれらをどう反映させるか、が話し合われた。
 今日の話題は村塾での人間形成や教育方針に関わって、久賀人の気質の長短について考えてみようということであった。
 伝次はかねてから久賀衆の性格や人となりについて独自の意見を持っていた。
 「閉じられた久賀島のような一つの島嶼に住んでいる住民のありように、大きく影響してくる外部からの要因は数多くあります。例えば、数十万の蒙古の軍勢が押し寄せた、あの文永、弘安年間の元寇の役の際に、あの離島の対馬が徹底的に痛めつけられたように、島嶼では外敵の侵攻を再三経験することになります。それから内外の経済的な圧力がその島嶼を自然と交易の場所にしてしまうことがありますが、この場合にも大きな影響がもたらされることになります。さらに、島外の人々を乗せた舟の寄港ということも人間的な交流関係をつくりだします。荒天を避けて、とつくに外国の舟がある日入り江に停泊し、碇を下ろして島民に近づく事例も数多くみられます。このたびのドミナ号のように大騒ぎになったり、難破船が漂着して乗組員たちを島民が救助するということもしばしばありました。昔から中国、朝鮮の舟はこの五島列島にはたびたびやってきて大陸の情報や文物をもたらしました。この久賀島でも、その閉鎖された社会に持ち込まれる、そのような新鮮な外部社会の影響力が島民のありようを少しずつ変えてきたと思います。こうしたことは九州本土やまして上方の京都や大阪、堺などでは全く考えられないことです。島の住民が、たとえば異国の風俗を受け入れたり、新しい習慣や考え方を身につけたり、異国の人々の子供を宿したり、長い長い人間の歴史を経験しながら、今日の久賀衆の心身のありようがつくられてきたのだと思うのです。外部からの影響力を率直に受け入れたことによって、新しい世代が生み出され、意識の変革が行なわれてきたという点では、この九州ほど、中でも朝鮮や大陸にももっとも近く、同時に南からの海流にも洗われた五島列島ほど顕著な場所はなかったと思います。それから、見逃してはならないのは、古く遣唐使船の停泊地であった久賀島が遣唐使とその随員たちというわが国のもっとも高度な文化人たちがもたらした東西文化の影響を身近に受け取る立場におかれていたということです。そういえば、野原長老の本家の古い障子の下張りに、漢詩の文字が浮かびあがってきて、話題になったことがありました。あれは一時は弘法大師の真筆ではないかといわれた程の騒ぎでしたね。 今回は、ドミナ号がやってきて、はじめて聞く雷鳴のような大筒の音で存分に驚かせてくれたし、紅毛人が村に乱入して乱暴を働き、娘たちが拉致されるというようなことが起ってしまいました。そして私の鍛冶場では現に鉄砲をつくるという思いもかけないような作業が行われていて、全く異常な事態になっています。
 それからこれは大変重要なことですが、ロペス宣教師のように新しい神デウス・大日の教えがもたらされて、旧来の久賀衆の神仏信仰や儒教によって培われてきた精神的な基盤が大きく揺らごうとしています。
 この島の久賀衆の心身がどのように変えられていくのかということに、われわれはたえず注意していなければなりません。古くから伝承されてきたすぐれたもの、美しいものを失ってはならないし、新しく与えられた状況がもたらす悪しきもの、醜きものに染まってはなりません。とくに、ロペス宣教師がもたらそうとしている新しい信心こそは人々の魂のありようという最も核心的な部分に関わることであるだけに深い関心を持って見守る必要があると思います。」
 武生は深くうなずいて言った。  「そうです。そして久賀島の場合には、その一方で島外に出かけて受け取ってきたさまざまな体験をとおして自らを大きく変革する機会も与えられてきました。
 たとえば、田之浦衆や蕨衆の若者たちは倭寇船に乗り込んで諸外国に繰り出しました。そして交易と戦闘をとおして、自らを大きく変えました。そして毎年彼らはある種の国際人となって帰ってきました。タイ国やカンボジア国などで現地の人々と結ばれて、異国の女を伴ってこの島に帰ってきた者もありました。また自ら移民となって島の外に新しい故郷を持つた人々がもたらす情報が島民の目を大きく海外にひらかせていることも否定出来ません。スラバヤやシャム国で暮らしている親戚に文を託す人々も現れています。一部の蕨衆のように海外に出かけていって、貿易に従事して金銀財宝を貯えることができた者もいます。例のルソン帰りの蕨衆は高台に白壁の大きな館を構えて、ルソンの使用人をおいて贅沢な暮らしをするようになっています。
 古くから再三くりかえされてきた飢饉の場合でも、島の外の地方豪族や大名による支配や弾圧をうけた場合でも、また人口の増加が激しくなって、次男や三男が食っていけなくなった場合でも、島の人びとの島外への移動が行われます。そして彼らは何時かはまた帰ってきて、変質した彼らの風儀をこの島に新しく持ち運んできたのです。」
 伝次は深く頷きながら、堺からの到来もののぶどうの酒をギアマンのグラスについて武生にすすめた。そして言った。
 「特異な気候、風土も島の人々の気質に深く関連するでしょう。久賀島の場合を考えてみると、人々の性格の中には、さまざま特徴的で興味深いものが見られます。」
武生はグラスの中の、ぶどうの酒の香りを楽しみながら言った。
 「海に囲まれている、ということが必然的に久賀衆の中に、たぐい稀な冒険、進取、工夫の気風を生み出したことは確かでしょう。資源や食糧生産にも限界のあるこの島の中だけでは生きていけません。だから、それは当然のことであったかもしれません。村塾での教育にあたっても、心づくり、体づくり、物づくり、智慧づくり、人づくりという、この島の人々がよりよく生きていくための、必須のありようを何よりも大切にする必要があると思います。どれほど沢山の情報を集めたとしても、それらを正確に把握し、解析し、活用することが大切であり、そのための能力を持つことが必要です。情報とは所詮、流れて行く、運ばれて行くものに過ぎません。何時か情報がもっと、もっと氾濫するような時代になった時にも、たとえば情報処理の機械が出来るような時代が来るとしても、この点を誤らないようにしたいですね。つまらない情報や情報操作に踊らされるのはむしろ大変有害で危険なことなんです。」
 伝次は言葉を継いだ。
  「久賀衆には本土にあこがれる気持ちが強いですね。それから概してこの島の人々は並外れて強烈な上昇志向を持っています。孤立感もありながら、そこからの脱出志向もひときわ強い、井戸の中の蛙同然の優越感と孤立していることの劣等感とを併せ持っているというのも、離島ならでのことでしょう。
 それから了見が意外に狭く頑固なところがある、異常なはにかみやでもあります。いったん思いこんだらなかなか補正がきかない。直情的である、意識転換が困難である、などという欠点も目立っています。駆け引きが出来ない。取り引きが苦手です。商売にはどうもむいていないというのも短所でしょうか。
 それから、狭い島のなかでは包み隠しができない。何もかも見えている。だから開けっぴろげです。うそはすぐばれる、だから正直であらざるをえない、というのでしょうか。鍵をかけて寝る必要がない。まあ盗人が全くいないというのは自慢してもよいでしょう。」  「しかし、大まかで、相当にずさんで、いいかげんで、貴方任せというところも多分にありますよ。」
 「誰れのことを言っているのですか。」
 二人は笑って杯を交わした。会話に加わってきたたまきも微笑んだ。武生が言った。
 「しかし、評定では久賀衆特有の頑固さには全く手をやきますね。でも結局、いったん決まったことは絶対に守る、死んでも守る、というのは心強いことです。久賀衆は気が荒い。それは夏になると台風がつぎつぎにやってくる。久賀衆は小さい時から、台風一過後の廃虚からの立ちあがりは何度も経験済みです。外海は屈指の荒海、玄界灘、気が弱くては生きていけない。この島の人々にはどこの誰よりも忍耐力があります。ただし、その反面、繊細な感覚を身につける機会がないというのは困ったことです。これは明らかに久賀衆の欠点です。
 先日ロペス宣教師が村塾で、あなたが堺で手に入れてきたオルガンを弾いてくれました。そしてその音楽を聴いた時の村人たちの驚きようは一方ではありませんでした。まるで天国の調べを聴くようだといっていました。繊細さに欠ける日常だからこそ、久賀衆はあのような美しい音楽に素朴で新鮮な感動を覚えたのでしょうか。」
 伝次も頷きながら、微笑んで話を続けた。
 「とにかく久賀衆の何よりのとりえは性格が明るくて柔和だということでしょう。海産物に恵まれているせいか、体も特別丈夫に出来ています。健康でよく食べてよく働きます。私の鍛冶場でもよそ者は勤まりません。田之浦の船大工衆も実によくがんばります。それに楽天的ですね。私は堺で修行中に、仕事中にため息をつく人たちがいる、ということに驚きました。この島にはおよそ愚痴を言ったり、弱音を吐く人たちは見当たりません。これは何よりのとりえですね。」
 月夜であった。庭には、南の国から島の最北端にあるざざれ細石流の海岸に流れ着いたという熱帯樹のタニワタリやハマユウが青白く葉先を光らせていた。
 たまきが二人に酒をすすめながら言葉をはさんだ。
 「欠点といえば、島国根性などといわれる閉鎖性をあげねばなりません。身内には開放的ではありながら、島の外の人々にはなかなか心を許しません。警戒感を持っています。なじみにくいようです。同族意識が強く、連帯感、愛郷心というような美徳の反面で、島外の人々に対してはしり込みします。しゃれた冗談が言えるわけでもなく、ただきまじめに、しこしこと仕事に打ち込んでいる、これでは周りが楽しいという事にはなりませんね。」
 「これは手厳しい。まさに私たちのことを言われたようだ。」
  伝次と武生は頭を掻いて大声で笑った。たまきも微笑みながら言葉を継いだ。
 「極端な貧富の差がないのは、よいことですが、楽に暮らして行けるということが経済観念に乏しいという欠点にもつながっています。金にものを言わせるというような事がもっとも軽蔑されるというのはよいのでしょうが、もう少し金銭感覚を持ってもらわないと、村中で金のかかる事業をするという点では困ってしまいます。私たちが村塾の経営に四苦八苦しているのも当然だろうと思います。」
 「いや全くそのとおりです。たまきさんは女性だけに実によく久賀衆の生活感覚を見抜いておられる。それに金銭感覚も抜群のようだ。武生さん、さきざき気をつけて下さいよ。」
 まるで生まれながらの兄弟のような三人は声をそろえて笑った。
 「久賀の女といえば、本当かどうか私にはわかりませんが、情が濃いなどといわれます。それから並外れたしっかり者で、働き者であることでも有名です。九州女の気の強さには定評がありますが、それに輪を掛けて久賀女はしたたかです。実際にどの家庭でも女は余り口出しはしなくても、事実上完全に実権を握っているというのが現状ですね。たまきさんはどういうことになるのかな。」
 三人はまた笑った。たまきが言った。
 「村塾の教育では、女性の場合には読み書き算盤に特に重点をおいています。もちろん全教科で男女の差別はしませんが、私は女子たちには毎日の食事つくりの技を身につけさせることに力を入れています。武生さまのいう医食同源という思想に共鳴するからです。主人が外で人一倍働けるように心身の精気をつけさせるのは家庭の食事です。子供たちの育ちを支えるのも毎日の食事です。おいしくて、滋養があって、楽しい家庭の食事つくり、食卓つくりこそは家を守る女性の最大の仕事です。」
 それは、たまきが武生との家庭をつくるときの心構えを示すものでもあっただろう。後日ロペスは村塾の教科の中に、「調理方、養生方」という時間割があることに驚かされた。それは西欧でもまだ見たことのない見事な家政の実学であった。
 武生は早くに亡くなった母フサのことを思い出していた。武生の父七蔵は福江の藩校で秀才とうたわれ、教頭が藩主に「神童現れる」とまで報告したほどの才能の持ち主であったという。彼は恩賜の短刀を拝領して藩校を卒業したあと、さらに藩主に命じられて、はるばる京の都の藩の出先に赴任したが、不幸なことに労肺を病んで、九歳の武生と生まれたばかりの妹のれいを置いて、三十一歳の若さであの世に旅立ってしまった。母のフサはそのあと久賀に帰って、現在のたまきのように村塾で教師として長年つとめたが昨年病を得て亡くなっていた。五十三才の天寿であった。武生とれいはこの母が存命中に、一言でも愚痴や泣き言を言うのを聞いたことがなかった。いつの世であっても、女一人で生きるということは並大抵の苦労ではなかっただろう。舅、姑につかえて、在所の宿の体面を取り繕い、その実は火の車の家計を支えて働き、しかも武生の教育にも全力を尽くした。武生の豊後の医学校での学業とその後の病院での修行のための仕送りもしてきた。れいの教育にも熱心で、これからは女子にも教養が大切だと言い続けた。子供たちが机に向かっている間、彼女は決して先きに寝所に赴くことはなかったという。しかも他人の悪口を言わず、妬まず、それこそ忍耐の中で、生きて、働いて、そして静かにその生涯を終えた。
 母フサは教育者としても立派であった。生活の苦しさを忘れるためでもあったのだろうか、村塾での教育には特別に情熱を傾けていた。ひとりの教え子が放課後に深浦の海岸でおぼれて亡くなったときの、母の身も世もあらぬ悲しみようを武生は覚えている。我子にも教え子にも同じように愛情を注いでいた母の偉大さを妹のれいも目の当たりに感じることができた。
 武生は島外での修行の時が長かったために、この母に孝養をつくす間もなく、そして隣の島で急患を看取っていたために、死に目にさえも会えなかったことを思い出して、時折その墓の前で手を合わせて親不孝を詫びていた。
 久賀の女は辛抱強い。働いて働いて働きぬく、それは武生の母だけのことではなかった。朝に星をいただいて起き、夕べに月をいただいて帰る、漁の手伝いに、畑仕事に、愚痴る暇がないというのが久賀の女の当たり前の姿であった。
 たまきが言った。
 「今日は女性の話が出ましたが、女だからといって、歌心がない、読み書きが出来ないのはおかしいのです。男に奉仕するだけの女では世の中は暗くなってしまいます。昔わが国では紫式部が、清少納言が、そして和泉式部のような女流作家がすぐれた作品を世に残しています。その当時は通い婚といって殿方が女の家に通って来たといわれています。久賀の村塾でも女が差別されるような教育はしない方針です。男女が対等に、家庭を作り、世の中を作っていくことが出来るような時代がいつか必ずやってくることでしょう。」
 三人は深く肯いた。
 夜も大分更けていた。武生とたまきは丁重に礼を言って伝次の家を立ち去った。田之浦から久賀に帰る夜道は月の光で明るかった。伝次は門辺に立って、遠くの曲がり角で二人が手を振るのにこたえていた。
 途中の山道で、昔からどんなひでりでも決して涸れたことのない、こんこんと湧き出ている、名水のいわれの高い泉の水を、たまきは両手にすくって、武生に飲ませた。幼少の頃、父の七蔵が語ってくれた、がっぱ(河童)が出るという沼地横の薄暗い小道も、「怖い、怖い。」と甘えかかるたまきの手を引きながら、武生は駆け足で通り抜けた。
 来春には二人の婚儀が行なわれることになっていた。


第二一話  田之浦衆の侵入と乗組員たちとの乱闘

 簡単には久賀に上陸出来なくなったドミナ号の乗組員たちは、船上で毎日することもなく、ただ酒と女の楽しみにふけるしかなかった。あの嵐の中でさえも、舟の重心を保つために、船底の酒蔵だけは海に投げ捨てられることがなかった。だから酒は浴びるほどあった。煙たかった宣教師のロペスは上陸させられてもういなかった。規律にはひときわ厳しかったコスタも甲板長に逮捕されて船倉の牢獄に閉じ込められていた。そしてその同じ場所に拉致してきた三人の娘たちがいた。酔っ払った乗組員たちは夜ごとここを訪れては乱痴気騒ぎをしていた。
 三人の裸の女と一人の裸の男を、彼らはいつでも獣欲と玩弄と嗜虐の対象にすることができた。三つのベッドと鎖とロープとさまざまな責め道具が甲板長ガルシアたちによって用意されていた。
 ガルシアは当時の堕落した上流階級の、色欲を満たすための密かな楽しみごとを知っていた。自ら作り上げたドミナ号の船倉の牢獄は好色文学の愛読者であり、加虐愛の実践者であった彼にとって、まさしく背徳の、そして嗜虐の格好のユートピアであった。
 絶頂の時を告げる淫獣たちの雄たけびが幾度となく繰り返される、その地獄図絵は日毎に深刻さを増していった。責め具の楽しみが次第にエスカレートして、娘たちはもはや耐え切れなくなっていた。ついには酔っ払った乗組員たちが全く自由を奪われたコスタまでも、責め具の生け贄に仕立て上げた。囚われてから一ヶ月も経たないうちに、高貴なコスタの童貞は粗野そのものの乗組員たちによって、無残に、無造作に踏みにじられてしまった。舌をかみ切って死なない限り、恥辱を免れることは出来なかった。
 その日はなぜか昼間からこの船倉の牢獄は乗組員たちの淫欲のはけ口として使われていた。恥じることのない獣たちの絶叫といけにえたちの悲鳴が船倉の外にまで漏れ聞こえていた。  伝次は船内に入って修理にあたっていた田之浦衆に対して、
 「どうあっても三人の娘たちを救け出さねばならぬ。とりあえず、おりを見て、娘たちが囚われている場所を探しあてるように。」と密かに命令していた。
 その日、船側の修理にあたっていた船大工たちは船内の様子をうかがっていたが、奥深い船倉の一隅から女の悲鳴が聞こえたように思った。この船の乗組員に女はいない。その声は囚われている三人の娘たちの居場所から出ているに違いないと彼らは推測した。
船内に入って修理作業に従事していた六人の船大工たちに、現場の若親方から、即刻その声の出所を突き止めるようにという極秘の命令が出された。
 銃剣を持って付近を警備していた乗組員たちに気づかれないように、船大工たちは立ち入りが禁止されていた船底に潜入した。そして物陰から物陰へと巧みに移動して、ついにその異様な声の出所が右舷の船倉の一室であるということをつきとめた。若親方の命令はそこまでであったが、探索にあたっていた船大工たちはこの機会に娘たちを救出することを決意した。その中に、娘たちの一人が妹であった若者がいたことも彼らが独断で行動することになった理由であったのかもしれなかった。
 彼らは異様な物音が聞こえてくるその部屋の鉄の扉を無理やりこじ開けて飛び込んだ。そして、薄暗いランプの下で、複数の裸体の性獣たちが娘たちを相手に醜悪な行為を繰り広げている情景を目の当たりにした。その余りにも意外な光景に、呆然として突っ立っていた田之浦衆の若者たちは、その間に見張りの乗組員たちが近づいてきたことには全く気がつかなかった。
 乗組員たちは田之浦衆を発見した。たちまち双方入り乱れての乱闘が始まった。今まで情欲の虜になっていた男たちもほとんど裸のままサーベルを振るって飛び出してきた。受けて立った田之浦衆は勇敢だった。しかし彼らは鑿と小刀しか持っていなかった。しかも多勢に無勢だった。田之浦衆は廊下に押し出された。騒ぎを聞きつけた甲板長も駆けつけて来て、たちまち船倉前の薄暗くて狭い廊下は血で血を洗う修羅場となった。
 田之浦衆の一人がようやく敵中をすり抜けて、その時、船首の修理にあたっていた若親方に急を告げた。子分たちが余計な事をしてくれた、という困惑の表情が彼の顔を一瞬引き攣らせたが、すぐに、そこにいた船大工の全員に、小舟に乗り移って久賀の突堤に帰るようにと命じた。助っ人に駆けつけようとして、はやる田之浦衆を必死に押しとどめながら、彼は言った。
 「俺に任せておけ。必ず仲間を連れ戻す。お前たちはさきに帰って武生様と大親方に報告せよ。」
 若親方は腰に差した日本刀を抜き放って、右手に持ちながら、知らせてきた若者に案内させて、船倉への階段を走って降りていった。
 乱闘現場では双方に怪我人が出ていた。血潮が一面に飛び散っていた。抵抗を切りくぐってその場に到着した若親方は大音声で叫んだ。
 「待て、刀を引け。子細はそれから聞く。」
 通詞役が甲板長に趣旨を伝えた。
 「約束を破って、田之浦衆は船底に入ってきた。非は明らかにそちらにある。」
 甲板長も大声で叫んだ。
 若親方は数名の血みどろの田之浦衆の前に立ちふさがって、
 「刀を引け、俺に任せろ。」と怒鳴った。
 そして船倉前の廊下の片隅に彼らを座らせた。交渉が始まるかにみえた。
 その時であった。甲板長は突然反対の廊下側に待機して照準を合わせていた数名の鉄砲隊に向かって叫んだ。
 「撃て。」
 轟音が鳴りひびいて、同時に若親方を始めとする田之浦衆はその場に折り重なって倒れた。背中から撃たれた若親方は倒れながら振り返って叫んだ。「卑怯者―――」。しかしもう一度、二度、一斉射撃の轟音が船倉の廊下にこだまして、田之浦衆全員のの息の根は完全にとまった。
 甲板長は交渉を求めてきた相手方を卑劣にも殺戮した。問答無用であった。この船倉の牢獄で行なわれていたことを見てしまった田之浦衆を絶対に生きて返すわけにはいかなかったのである。
 その鉄砲隊の派手な射撃音は久賀の突堤で待っていた田之浦衆と武生たちにも聞こえた。いぶかりながら待っていた彼らの前に、夕刻になって、船内からボートに乗せて運ばれてきたのは若親方を始めとする七名の田之浦衆の遺骸であった。
 家族と仲間の船大工たちは突堤におろされた死体に取りすがって号泣した。検死した武生は彼らが頭と心の臓に数発の銃弾を受けていることを確認した。運んできたドミナ号の乗組員にその場で切りかかろうとするものもあった。武生は彼らを必死に押しとどめて言った。
 「どういうことか説明を求める。帰って責任者に告げてほしい。正式な話し合いを緊急に行いたい。」
 ドミナ号のボートは逃げるように帰っていった。航跡の波しぶきが夕日に赤く染まって輝いていた。


第二二話  非常事態への双方の対応

 その夜、在所の宿では緊急の評定が開かれた。庭には盛大にたいまつが焚かれ、縁側から大広間にかけては浩々と大ろうそくの火が輝いて、長老と久賀島の全部落の評定衆がそろっているのが見えた。宇久藩の久賀島代官も同席していた。こうした場合、久賀島では代官には発言権が与えられないのが常であった。まして過日宇久藩の船団がサンタ・ドミナ号を攻撃して手痛い敗北を喫した直後であるだけに代官は終始傍観するしかなかった。 村中の男たちが集まってきていた。特に仲間を七名も、しかも伝次の後継者と期待されていた敬愛する若親方を殺された田之浦衆は殺気立って会堂前の庭を埋めていた。武生は上座に座って目を閉じていた。
 長老が評定の始まりを告げた。冒頭から論議が沸騰した。
 「ドミナ号を焼き討ちにせよ。紅毛を皆殺しにせよ。」という意見が田之浦衆から出た。殺された仲間の葬儀を明日に控えて、弔い合戦を、という気持ちはよくわかった。
 「しかし、勝てるのか。どうやって近づくのか。どうして船に乗り込むのか。大筒を撃たれたらどうするのか。犠牲者がもっと増えるのではないか。」
 「いや、敵に知られていない鉄砲隊をうまく使うのだ。」
 「火矢を打ち込んで船を焼き討ちせよ。」
 「しかしそれでは三人の娘たちを取り戻せるのか。攻めればたちまち娘たちは殺されるのではないか。娘たちを取り戻せて、しかも奴等を皆殺しに出来る手だてがみつかるのか。」
 論議は白熱した。評定は混乱した。司会にあたっていた伝次も半ば匙を投げて成り行きに任せた。庭先に詰め掛けていた田之浦衆の若者が叫んだ。
 「長老、あなたはドミナ号が入港して以来、弱腰すぎた。奴等は突然上陸して、食糧を略奪した。女たちに乱暴した。そして娘たちを拉致していった。しかもわれわれは奴等に食べ物を供給し、奴等の船を修理してやっている。そして今度は若親方を始めとする七人の仲間を殺された。なぜ貴方は黙っているのか。なぜ復讐に立ち上がらないのか。」
 伝次が言った。
 「長老を非難してはならない。確かに彼らの行為は目に余る。しかし長老は仏の慈悲にすがって、和の心を重んじて、忍耐して、平安のうちに事態を解決しようとしておられるのだ。このたびの田之浦衆七人の犠牲については、この私が誰よりも怒りに燃えている。復讐してやりたい。だが、その前に一体なぜ、何があってこのようなことになったのか、その事情を正確に知らねばならない。」
 武生もそう思っていた。検死してわかったことは全員が鉄砲傷を負っていておそらく即死であったと思われる、これは何を意味するのか。船体が修理出来なければサンタ・ドミナ号は絶対に出港出来ないのに、その船体の修理にあたっていた田之浦衆をこうした死に様に追いやった事情が武生には全く理解出来なかった。いったい若親方までも死なせてしまった理由は何なのか。
 イチコギ市小木衆が言った。
 「紅毛どもはまた上陸してくるのではないか。攻めるよりも守りを固めるのが先決ではないか。船では勝てなくても陸に上がった奴等には勝つ方法がある。」
  気の荒いことでとおっている蕨衆が叫んだ。
 「水と食物の補給を止めよ。船体の修理もすることはない。帆布を織る作業も止めよ。奴等はすぐにも音を上げるだろう。」
  穏健な深浦衆が腕組みして言った。
 「しかし奴等を久賀湾から一刻も早く追い出すことが先決だ。とにかく娘たちを取り戻して、奴等の船を出港させるためにどうするかを考えねばならぬ。」
 在所の宿の内と外とが沸き立って、評定は夜半に及んだ。長老は武生と伝次を別室に呼んで協議した。そして再び大広間の正面に現れて大声で言った。
 「本日の評定の決断を下す。」
 一座は水を打ったように静かになった。出尽くした論議をまとめるのはいつもの長老の役割であった。
 「彼らの過日来の暴虐が目にあまることはいうまでもない。しかしこれ以上血を流すことをしてはならない。田之浦衆の気持ちはわかるが攻撃してもあの大筒に勝てるとは限らない。紅毛船の側でも船体の修理と帆布の準備が出来ない限り出港出来ない。だから彼らがこれ以上無体なことをすることはないであろう。したがって規定の方針通り、交渉によって、娘たちを取り戻し、この悪魔の船を一刻も早く久賀湾から出ていってもらうように全力を尽くす。
 とりあえず明日武生と伝次を交渉に赴かせて、今回の事態の真相を究明させる。その結果によっては再び評定を開くことになるであろう。」
 評定は終わった。会衆はそれぞれの思いを持って帰途についた。久賀の海にはドミナ号のランターンの灯が波間に揺れていた。田之浦衆の一同は無念そうにその灯を指差しながら帰っていった。

   同じ時刻にドミナ号でも乗組員の全員が甲板上に集まって会議を開いていた。正面の甲板長たちのところには大きなランプが輝いていた。夜の海上をとおして、遠くの在所の宿のあたりがたいまつの火であかあかと見えていた。さすがに乗組員たちも緊張していた。昼間の乱闘で負傷したものもいた。甲板長が相手の全員を射殺したことがどういうことに発展するかは全く読めなかった。
 甲板長が言った。
 「奴等はおそらく娘たちを取り返すために、あの部屋に入ろうとしていたのであろうが、そんなことはどうでもよい。とにかく今回の事態は田之浦衆が禁じられていた船底内に立ち入ったことにそもそもの原因がある。これは久賀衆との約束に反する。だから処罰したのだ。先方に非がある以上、当然のことをしたまでだ。」
 乗組員の一人が言った。
 「もちろんそうだが、何も全員を射殺することまでする必要がなかったのではないか。」
 甲板長が答えた。
 「人質の部屋で何が行なわれているかを知られた以上、奴等を一人も生きて帰すわけにはいかなかったのだ。」
 乗組員たちには返す言葉がなかった。人質たちを獣欲のはけ口にしてきた彼らには何もいうことがなかった。卑劣な夜毎の享楽は武生たちとの契約には勿論なかったことだった。
 「たとえ非が先方にあったとしても、村の連中を怒らせてしまった以上、これで田之浦衆の船体修理が中止され、帆布の織方が仕事を止めたらどうなるのか。永久に出港出来ないではないか。それに水と食糧の補給が止まったらどうするのか。明日からお手上げではないか。」
 「折角、奴等をここまで騙しおおせてきたものを、もうどうしようもないではないか。」
 甲板長の何かと過激なやりかたに対する反感と懸念はもともと以前から乗組員たちの間にあった。射殺して、説明無しに死体を送りつけた、というのも確かにまずいやり方であった。
 「この機会に、娘たちを返還してはどうか。その代わりにこれまでどおり修理を続けてもらい、食糧を補給してもらう、というのはどうか。」
 この穏健なマリョルカ出身の乗組員の意見に対して機関長が答えた。
 「娘たちを今帰すのはまずい。船体の修理が完了し、帆布が出来あがって、いつでも出港出来るようになってから帰すのがよい。」
 「しかし何の条件も出さずに先方が修理を続けてくれるとは考えられない。」
 会議は予想どおりここでも難航した。
 「いっそのこと、この島に上陸して占領してしまえばどうか。前にも言ったように、母国スペインの前進基地として、この久賀島は絶好の条件を備えている。我方の武力は圧倒的である。あのピサロ総督のように計略を巡らして、お人好しの長老を虜にしたうえで、いっせいに村を砲撃し、焼き討ちにしてしまえば、一挙に片付く。」
「いやそれほど簡単ではない。日本人はこれまで見てきた中で最もクレバーな人種である。彼らには日本刀という武器がある。あの武生の強さを見たか。戦えば当方にも相当な犠牲者が出るだろう。」
 「だから今回は何とか相手をなだめるしかない。出港準備ができた段階で村を砲撃しようと、上陸して占領しようと、こちらの勝手である。しかし今は相手との交渉にこぎつけて、修理を続けさせ、食糧を補給させるしかない。」
 甲板長と機関長たちの幹部が集まってひそひそと話し始めた。
 三人の娘をこの際釈放するという案については、釈放すれば人質がなくなって、村の側では修理と食糧補給を打ち切ってしまうおそれがある、だからそれは出来ない。また娘たちがこれまでのわれわれの所業を長老等に訴えるようなことにでもなれば、ただごとでは済まないだろう。だから結局、娘たちを帰すことは出来ない。
 甲板長は思い切って言った。
 「そこで提案がある。俺はあのコスタを人質として奴等に渡すのが一番いいと思う。」
 一瞬機関長たちは驚いたが、甲板長は続けて言った。
 「あのコスタがおれたちが娘たちにしてきたことを長老たちに話すことはないだろう。コスタにとってもわが国の名誉に関わることだからな。それに先方では、このドミナ号にとって最重要人物の船長様が自ら人質になってきた、ということで、安心するに違いない。俺たちが船長を解任して船倉にほうり込んであることなど、村人の誰も知らないことなんだ。上陸しているロペスの口は堅いだろう。宣教師が自ら内情をばらすことはありえない。」
 しばらく相談が続いた後、結局そうするしかないという結論になった。
 甲板長が立ち上がって、壇上に進んだ。
 「新しい船長として命令する。今回の事態の後始末のために早急に先方と折衝することにする。何も心配することはない。俺に任せておればよい。三人の娘は返さない。船体の修理と食糧補給を続けさせるために、もと船長のコスタを人質として先方にさし出すことにする。とにかく一刻も早く出航にこぎつけることだ。修理さえ出来たら、あとはどうにでもなる。そうだ、出航間際には大筒を弾丸があるかぎり村中に打ち込んでやってもよいだろう。とにかく今は時を稼がねばならぬ。」
 乗組員の間に動揺が走った。とくにマリョルカ出身の乗組員はコスタを人質にすることにはこだわった。しかしそれ以外に代案はなかった。この甲板長ガルシアの、人間の屑の、ここまで堕落した策略、姦計には呆れ果てて、さすがに良心の呵責を感じる者たちがあった。しかしそれ以上何もあえて言う者はなかった。会議は深夜になって終了した。
 その夜は、さすがに船倉の牢獄を訪れる乗組員たちはいなかった。
 秋たけなわの久賀の海は今日も波静かであった。


第二十三話   コスタと三人の娘たち

 船倉の牢獄の、たったひとつしかない覗き窓のあたりは、外からわずかに漏れてくる昼、夜の光でほの明るくて、淫らな荒くれ男たちが立ち去った後の、娘たちの集まる場所になっていた。
 三人の娘たちの素性について少しばかり説明しておこう。
 村塾の教師であり、武生につぐ位置にあったたまきの侍女でもあったこの三人は、村でも最も格式の高い家柄の娘たちであった。村塾では和洋の教育を授けられ、長老によって選ばれて、たまきの助手として働いていたいずれ劣らぬ才女たちであった。
 つるは二四歳、久賀の西にある猪の木部落の旧家の出であった。ちぬは二二歳、久賀の南西にある浜脇の網元の家に生まれた。 ちづは一九歳、田之浦の親方伝次の娘であった。 三人の娘たちはあの夜、突然村に乱入してきた異国の男たちに拉致されて、ドミナ号に連れ込まれ、船倉の牢獄に閉じ込められた。それ以来、完全に自由を奪われ、男たちの情欲の対象となってきた。しかし彼女らはもう決して泣いてばかりはいなかった。彼女らは久賀衆が必ず自分たちを助け出してくれることを信じていた。
 そこに突然、裸にされて、元船長のコスタがほうり込まれてきた。何があったかわからなかったが、コスタが自分たちと同様に、荒くれ男たちのなぶりものにされて、恥辱にまみれた存在になっていることも目の当たりに見てきた。娘たちはその当初の異常な体験に動転した時期もしっかり乗り越えて、今では非情な淫獣たちの行為にたじろぐこともなくなった。当初の羞恥の感覚はとっくに消えていた。
 やがて、三人の娘たちとコスタは同じ責め苦に遭う者として、狭い牢獄の同じ場所にいて、同じところに眠る仲間として、自然と声をかけ、声をかけられる関係を作りだしていた。耐えねばならぬ、死んではならぬ。そして何時かはここを出なければならぬ、そのためには生きるために、互いに励ましあって協力しなければならない、それが牢獄の今を生きる四人の人間たちの覚悟であった。
 コスタは娘たちをとおして、この日本という国を、この五島列島を、そしてこの久賀島についてより詳しく、深く知ろうとした。娘たちはコスタをとおして紅毛人たちがどのような人種であるのか、西欧諸国がどのような現状であるのかを知ろうとした。そして間もなく西洋には甲板長たちとは対照的なコスタのようなすぐれた若者がいることを理解した。四人の間には、洋の東西をつなぐ人間の親近感と友情が次第に育とうとしていた。
男と女の生理的な相違はもちろんあった。それが露骨に弄ばれる現場にされているという、狭い牢獄の現状はどうしようもなかった。夜毎の、荒くれ男たちがやってきたときの淫乱地獄のさなかに生かされているということも確かに逃れようのない事実であった。
しかし、娘たちもコスタも決して希望を棄てなかった。いつか、連日連夜の汚辱の情景が必ず悪夢であったといえる時が来る、そう信じていた。肉体がどれほど犯されようとも精神までは犯されない。むしろ精神はより強く、よりたくましくなる。希望がある限り、いつかはここを出て見せる。男たちの淫行を単なる行為として終わらせよう。気持ちまでも動揺させることはない、娘たちはそう思うことにした。出航の時点になれば必ず人質は帰される、そう信じようとした。
 男たちが帰った後で、コスタから聞く紅毛南蛮の話は興味深かった。夕方から夜にかけての邪悪な地獄のような時間が過ぎ去って、静寂が帰ってくる深夜のひとときにコスタと片言で語り合うことが娘たちの何よりの慰めになった。
 西欧の家では靴を脱がないで暮らしていること、暖炉といういろりがあること、クリスマスというお祭りがあること、そしてキリストという神の子を孕んだ処女マリア様のこと、さらにコスタは望郷の思いを込めて、いくつものマリョルカの伝説、民話も語り伝えようとした。娘たちはコスタの口から聞く千夜一夜物語の楽しさに胸を踊らせた。しかし残してきた父母たちのことを語った時にはコスタの目には涙がたたえられていた。
 侍女たちも久賀島の明け暮れについて語った。木と紙と竹で出来ている家のこと、草履と足袋について、春先の若葉に映える海と山の美しさについて、そして夏から秋にかけての恐ろしい台風について、秋祭りの喜び、お正月の楽しさについて、話題が尽きることはなかった。コスタは娘たちの語る日本の民話の面白さにも興味を感じた。しかし心配をかけている父母たちのことに話が及ぶとさすがに娘たちも目頭をおさえるようになっていた
。  コスタは再びドミナ号の船長に戻ることが出来るだろうか、母国に帰って国王の前に伯爵として再び立つことが出来るだろうか、年老いた両親はどうしているだろうか、と思った。牢獄の片隅で幾度も幾度も十字を切りながら祈っているコスタの姿を娘たちは見ていた。それは日本の若者たちには見られない光景であった。
 ちづが近寄ってきて尋ねた。
 「あなたが祈っているのは、神様か仏様か、どちらなんですか。」
 「私たちの神様です。デウス様です。大日様です。」
 牢屋に入ってからもう三ヶ月が経過していた。船長の日本語もようやく片言の域を脱していた。ザビエルがはじめて神を大日と訳して日本人に語りかけていたことをコスタは知っていた。
 「デウス様は私たち、人間を作ってくれました。デウス様は試練を与えます。人は罪人だからです。今の私たちは試練を与えられているのです。しかし、デウス様の子キリストの僕であったパウロという信心深い使徒は「すべてのこと、あい働きて益となる。」と説いています。私たちの今の苦しみも悲しみも必ずいつかは私たちのために益となる日が来ることでしょう。」
 「デウス様は一人子キリストをこの世に遣わされました。私たちの罪をあがなうためです。クリスマスはそのキリストのお生まれになった日なんです。キリストは数々の試練にあいながら、私たちを救うために十字架にかけられて殺されました。」
異国の教えは神と人とを厳しく区別していた。侍女たちが信心している仏教では、人が修行して悟りをひらけば仏になれると教えられていた。成仏という言葉があるが、キリスト教では人がどんなに努力しても悟るということはない、という。娘たちは何という厳しい教えなのだろうかと思った。
 娘たちはまさしく淫虐そのものの乗組員たちの罪でさえも贖うであろう、キリストの十字架の意味がどうしても理解出来なかった。彼女たちはいぶかしげに問いかけた。
 「あの男たちも本当にキリシタンなんですか。あなたの国では、人々は本当に信心しているのですか。」
 コスタは答えられなかった。あらゆる悪行をほしいままにしている甲板長や乗組員たちの罪でさえも許す神があることが彼にも信じられなかった。恥を重んじる日本の男たちは決してそのようなみだらな所業に及ぶことはない、娘たちはそう確信していた。コスタもまた、どう考えても淫乱な乗組員たちを弁護することは出来なかった。
 娘たちは、西欧には教会という寺院があって、人々は七日ごとの安息日にここに集まって神様の教えを聞くことを間もなく教えられた。そして、コスタがたびたび引用する話が独特の聖書という教義書から引用されていることを知った。コスタは牢獄の床に、指先で故郷の天主堂の絵を描いて見せた。ちづは私もぜひ一度マリョルカ島に行ってみたいと言った。コスタはいとしげに、何時か必ずあなたを連れて行く、と約束した。
 ゼウス神、キリストそして極楽とは対照的な悪魔、地獄という存在があることを教えられた時には、娘たちは大きく肯いた。よくわかった。飲んだくれて夜毎、情欲を満たすためにやってくるあの男たちはまさしくサタン、悪魔の申し子そのものであった。
 コスタはかって教会で学んだキリストの教えを、思い出し、思い出しして娘たちに教えた。  コスタは必ず「われらが罪を許し給え」と祈った。娘たちには何の罪も犯していないコスタがいう「われらが罪」の意味が最初はわからなかった。日本人にはそのような考え方はなかった。しかし「われら」とは、自分と自分に罪を犯す人々のすべてを意味することを娘たちは間もなく理解するようになった。
 娘たちは乗組員たちが立ち去った後で、コスタといっしょに本当に祈りたいと思うようになった。そして間もなく祈りというひとつの行為が悪魔の所業を清めて、新しい自分に生まれ変わることの出来る、心安らかな自分を取り戻すことのできる、ひとつのすぐれた儀式であり、習慣であることに気づくようになった。彼女らはコスタから十字を切るという新しい祈りの形を教わった。
 その汚辱にまみれた牢獄は何時の間にかキリストの言葉が伝えられる信仰の場に変えられて行った。


第二四話  ガルシアの思想の限界とコスタたちの祈りへの傾注

 封建制度と宗教支配の時代を経て、一三〇〇年代以降のヨーロッパにはルネッサンスの光が輝くようになっていた。それまでの身分的、戒律的な束縛を打破する自由な人間中心主義の思想が広がっていた。一五〇〇年代になると、中世を支配してきたカトリック教会も次第に腐敗の度合いを増してきた。たとえば聖職者のありかたが滑稽視されて、嘲笑の的にされるような風潮さえ一般化してきた。エラスムスらの人文主義者が既存の宗教の戒律や騎士道を皮肉るような作品をつぎつぎに発表して、人間が自分自身の目でものを見て、自分自身の心でものを考えることをよしとする気風が知識人の間に広がっていた。芸術も古い体制と決別して、自由な人間の姿を描き出すことができるようになった。レオナルド・ダビンチやラファエロ、ミケランジェロらの写実的な作品が登場してヒューマニズム全盛の時代にさしかかろうとしていた。
 甲板長ガルシアはそのような時代の中で育って来た。
彼はカトリックの教えを意識的に厳しく排除して生きようとしていた。あらゆるモラルの桎梏を解き放って人間の本性に忠実な生き方を選ぼうとしていた。人間が生物である以上、本能という避け難い獣性を抑圧することは出来ない。秩序、良俗などといわれるものは個人の自由を抑圧するために、体制側の支配者の便利のために設けられたものにすぎない。倫理や道徳などといわれるものは必ず偽善を伴っており、そのような他律的な観念によって、たった一度しかない貴重な人生を束縛してはならないと考えていた。「地獄に落ちる」などと言われることをナンセンスだと信じていた。彼は罪悪などといわれる社会的な認識の基準自体を疑っていた。彼にとっての真実とは、ある刹那にこうしたいという純粋な人の思いであり、意志であり、行動そのものであった。何時、どこで、誰と、何をしようと全く自由であった。食欲も情欲もその意味において無限に肯定されねばならない。自己保存が可能な限り、戒律などといわれるものは無視してもよいと考えていた。ガルシアには妻も子も家族もなかった。ガルシアが奔放に生きるためにはそのような係累は一切不要であった。
 船倉の牢獄は彼が設定した実験の場であった。それは、理不尽さは充分承知の上で、三人の娘と一人の若者を閉じ込めて、ガルシアの信条を実証することのできる現場として設定されていた。
 なぜ神だけが真実である、とされてきたのか。悪魔もまたまぎれもない真実ではないのか。ガルシアは「美徳である」とされているものを否定しようとは思わない。しかし同時に「美徳でない」とされているものが否定されてはならない、悪もまた善とならんで人間の真実である、と考えていた。
 そもそも誰かが「地獄に落ちる」という幻想を確からしく振りまいたところに問題があった。支配者が既得の権利、権限を保持するために作り上げたこの世の倫理、道徳という桎梏は人間を決して幸福にはしない。欲するままに、自由に行動できた時に始めて自己実現の喜びがある、それこそが人間にとって真実なのである、と考えていた。
 愛を捨てて憎しみを選ぶ、優しさを捨てて楽しさをとる、その時に人間に見えてくるもの、それを知りたい、刹那、刹那の人の悦び、その悦楽が連続する人生こそが理想ではないのか、ガルシアはそう思っていた。いわゆる善であれ、悪であれ、それらは既存の道徳という規範に照らして、かりに名づけられた表現形であるにすぎない。むしろ刹那、刹那に人間の内部からこみ上げてくる喜びや快感こそが唯一の真実であり、人はその喜びや快感の感度をより高めるためになされるすべての行為をこそ肯定せねばならないのだ、と思っていた。
 ガルシアにとって、船倉の牢獄がこの世の地獄といわれることは覚悟のうえでのことであった。乗組員たちに、そこではすべての羞恥心を取り去るように命令した。そこでは泥酔と飽食はもちろんのこと、とりわけ情欲の抑圧からの解放に全力をつくすように奨励した。醜悪とされる部分を意識的に開陳させた。現実からの逃避と幻覚の楽しさを追求させた。享楽の頂点を極めようとするあらゆる行為を歓迎した。不道徳などといわれてきたあらゆる行為が認められた。快楽追求のためには、人に恥辱を与えること、醜態をさらすこと、そして人を虐待すること、それらの行為が限りなく肯定された。そしてそのようなガルシアの壮大な実験を行うために、三人の娘と一人の若者が犠牲に供されていたのであった。

 しかしガルシアの思想には重大な誤りがあった。この船倉の牢獄での現実が示していたように、人間が善であれ、悪であれ、「思いのままに行動する」ことが出来るためには、その陰に必ず「思いのままに行動することが許されない」犠牲者の一群が存在していたのである。すなわちガルシアの思想は、強者、征服者にのみ可能な思想であり、万人の、人間共通の思想になりうることは出来なかった。
 抑制と調和と協調という規範の中に人の喜びや快楽を位置づけるのでなければ、征服者に対する、抑圧された人々の抵抗はいつかは復讐という形で噴出して、みんなが傷つくような悲惨な結末が必ず待っている。それこそは歴史が教えてきた真実であったのである。ロペスの思想は喜悦と快楽の充足どころか、不安と恐怖が充満する、復讐の連鎖を約束する考え方に過ぎなかったのである。
 生け贄にされている娘たちの心中には、いくつかの不安があった。その第一は、この苦しみが何時まで続くのかということであった。コスタは船体の修理が終わって、出航するときには必ず解放されると言ってはくれたが、甲板長たちの約束を本当に信頼してよいのかどうか不安であった。その第二は、たとえ解放されたとしても、婚約者の決まっているつるとちぬにとって、このような紅毛人によって徹底的に汚されてしまった自分たちがそのあとどういうことになるのか不安であった。その第三は、このままでは妊娠して、異人の子をはらむ可能性があるということが不安だった。毎日のように何人もの男たちの精を受け入れねばならない、という現実は恐ろしかった。その第四は最も大きい不安であった。それは男たちの秘術を尽くした手練手管によって、女体のなかの情欲のほむらを掻きたてられることであった。当初の恐怖感や嫌悪感がおさまって、汚辱や加虐に対する幾ばくかの慣れが生じた時に、自らの体内に、かすかではあったが、異様な快美感の目覚めが感じられて怖かった。肉体に住む悪魔の存在を完全には否定し切れなくなろうとしているそのような徴候がひどく不安であった。
 甲板長ガルシアはそこまで読んでいた。彼の邪悪な 経験では、いずれ強制が強制でなくなり、暴力が暴力でなくなり、強姦が強姦でなくなる時が来ると信じていた。彼は悪魔のたくらみもまた真実であると考えていた。
コスタは男たちが去って行ったあと、彼女たちを励ました。それはコスタにしかできないことであった。
 しかし、涙を流して不安を訴える彼女たちに対してコスタに言えたのは、「祈りましょう」というたったひとつの言葉だけであった。
全く逃れようのないこのような閉塞状態の中で、暗闇の中に一縷の光を見出すための、無から有を生じるような唯一の行為は、精神を集中して、ただただ祈る、熱心に祈る、と言うことだけであることが間もなくわかるようになってきた。ただいたずらに嘆き悲しむよりも、この現実が試練であり、その試練に打ち勝つために、人の運命を司るという絶対者にひたすら救いを求めることだけが残された道であることが納得できるようになってきた。信仰が力であり、希望が力となることがわかってきた。
 コスタは祈りの対象としての彼自身の神について熱心に語った。とりわけ苦難の道を歩んで十字架にかかって人の罪をあがない給うたキリストについて懸命に語った。「試練から救い給え」というのではなく、「試練に耐えさせ給え」と祈ろうと教えた。ここではコスタは誰よりもすばらしい伝道者の役割をはたしていた。そう明な娘たちであった。たまきの助手として村塾に勤めていた彼女たちの教養はコスタを驚かせた。彼女らはたちまちキリストの教えを十分に理解するようになった。信仰を受け入れてコスタと共に祈ることができるようになった。
 このようにして、甲板長ガルシアがあらゆるモラルを否定して、悪魔の棲み家、享楽追及の現場にしたはずの、その船倉の牢獄は囚われ人たちのための信仰の城となり、希望の砦となり、魂の教会になって行った。ガルシアの邪悪な思想は完全に否定されたのである。 コスタはとくに最も年若いちづを可愛がった。ちづもコスタを慕うようになった。
あれは始めてコスタがこの牢獄に放り込まれた日の夜のことだった。酔っ払った乗組員たちがやってきて、その一人がいきなりちづをベッドに押し倒そうとした。見かねたコスタがいきなりそこにあった椅子を男に投げつけた。コスタは怒った数名の男たちに取り押さえられて、そのあと両手両足を縛られてひどい拷問をうけた。しかし傷だらけになりながら、コスタは決して音をあげなかった。
 その夜、男たちが帰った後、ちづはコスタに近寄って縄を解いてやった。そして水を汲んできて飲ませてやった。コスタは微笑んで「ありがとう」と片言の日本語で礼を言った。 乗組員たちが激しい情欲を燃やしつくして部屋から出て行った後には、かならず静かな休息の時間がやってきた。コスタと娘たちは語り合った。そのとき、そこはもはや決して地獄などではなかった。エデンの「ぱらいぞ」(パラダイス)であった。
 やがて、つるとちぬはコスタとちづの間に、ほのかな、しかし純粋な愛が目覚めたことに気がつくようになった。


第二五話  武生らと甲板長らとの交渉

 七人もの田之浦衆の死骸が送りつけられたことについて説明を求める、という厳しい要求がドミナ号に届けられて、武生らと甲板長らとの交渉が久賀の突堤の広場の、幡幕を張り巡らした中で行なわれた。
 今回は死者を出したあとの折衝であったから、双方とも緊張しきっていた。いつ始まるとも予測出来ない突発事態に備えて、甲板長は鉄砲隊を前後に従えていた。武生の側には刀を携えた深浦衆と蕨衆が護衛についていた。いまだに興奮が覚めやらない田之浦衆は大事を取ってじゃーしゃーど在所の宿の警備にまわされていた。
 甲板長が最初に口を開いた。
 「交渉の前に言っておこう。我方の火砲は代官所と在所の宿に照準を合わせている。何かあれば直ちに発砲する。」
 武生は脅迫めいた言い分を無視して、静かに言った。
 「なぜ七人もの田之浦衆が殺されたのか、その理由を説明してほしい。」
 「昨日の昼、田之浦衆は禁を破って船底内に侵入した。物盗りを働こうとしたに違いない。これは許し難い行為であり、我方は彼らを追いつめた。しかし、それでも抵抗を止めなかったので全員をやむなく射殺した。非はあくまでも田之浦衆にある。」
 甲板長は平気でうそをついた。
 武生は、昨夜駆けつけた伝次から、実は修理方の田之浦衆に侍女たちの所在を探らせていたことを聞いていた。田之浦衆が船底内に侵入したのは確かに約束違反であった。しかし全員が皆殺しにされた理由がどうしても解せなかった。
 「なぜ全員が即死というような結果になったのか、一人も生存者がないというのはどういうことなのか。」
 甲板長はいかにも勝ち誇るように言ってのけた。
 「鉄砲というのはそういうものだ。撃てば必ず人を殺すことが出来る。心の臓を貫くからだ。剣の比ではないんだ。」
 未開の人種には鉄砲などという最新兵器が無縁なものであるといわんばかりの言い分であった。甲板長はかって武生との船上での剣の試合に完敗したことを未だにこだわっていた。だから我が方の銃はお前たちの剣よりもはるかに強いことを強調したかったのかもしれない。
 しかし甲板長は、この時点で、久賀島衆が鉄砲をすでに七〇挺も鋳造していて、しかも鉄砲隊を特訓中であることなど全く知らなかった。
 武生は言った。
 「田之浦衆は激昂している。このままでは船体の修理も帆布の織り上げも出来ないことになる。侍女たちの人質も帰していただけないのではこれ以上の協力はむつかしい。」
 甲板長はせせら笑って言った。
 「われわれは何時でも攻撃することが出来る。久賀島全域を力で征服したうえで、思うように船体の修理を命じることも出来るんだ。武力は全能である。そのことを世界中の至る所でわれわれは見せつけてきた。力だけが新しい秩序を作ることが出来るんだ。」
甲板長には、未開人種、異教徒、非文明人、皮膚の色が自分たちとは異なった人種に対して無意識にこみ上げてくる偏見があった。このような手合いには力でものを言わせるに限る。母国の旗を打ち立てて国王にこの地を領土として捧げれば、最高の栄誉を得ることもできる。インドでもマカオでも、ルソンでもそうしてきた。前世紀の終わりにはコロンブスが西印度諸島にスペインの旗を立てて、全ヨーロッパがわき立った。たかがジパングの、その片隅の久賀島などという所で一介の医者ごときに頭を下げることはない、甲板長はそう思っていた。
 武生は言った。
 「この際三人の娘たちを帰していただければ、船の修理は続けさせよう。帆布も織らせよう。出港出来るようにしよう。」
 「いや人質は出航までは帰せない。」
 そして甲板長は押し問答の末に、いかにも恩着せがましく言った。
 「それでは、出航が出来るように協力をしてもらう条件として、こちらも人質を出そう。そして出航時点でこの人質と娘たちを交換しよう。それではどうか」
 武生は意外な提案に驚いて、即答することが出来なかった。問題はその引き渡される人質がどのような存在なのか、ということだと思った。甲板長は引き続いて言った。
 「そちらに渡す当方の人質は、何と船長のコスタ伯爵様だ。」
 複雑な甲板長の笑いの意味を武生は十分に理解出来なかった。ドミナ号の中で、逮捕された後の、船長コスタの身の上に起っていたことについては、先に上陸したロペス自身も何も知らなかった。まして武生は甲板長が実権を握ったこと以外は何もわからなかった。武生は一瞬信じられないという表情を見せた。しかし甲板長がドミナ号の持ち主であるコスタという重要人物をあえて人質として提示してきたのは今回の問題の重要性を考えたうえで、どうあってもドミナ号の修理を済ませて出航しようとしているのだ、と思うことにした。船の持ち主が人質なら、人質交換は絶対に可能であろう。娘たちは確実に帰ってくるだろう。
 「よし。了解した。それでは明日ここで人質のコスタ船長をいただく。勿論丁重に取り扱う。田之浦衆には責任を持って修理を続けるように説得する。」
 武生はさらに言葉を続けた。
 「娘たちは元気にしているだろうか。」
 「勿論、三人とも大事にされている。毎日楽しく暮らしているよ。」
 白々しい嘘を平気でいう甲板長の鉄面皮の、極悪人の口調がさすがに少しばかりかげりを見せていたことに武生は気がつかなかった。


第二六話 甲板長らの久賀島占領計画

 ドミナ号では幹部会議が開かれていた。武生らとの交渉は成功だった。七人の田之浦衆全員を射殺した一件は彼らが誓約に違反して侵入したのであるから、どのような処置があっても致し方ない、先方に文句が言えるはずがない、甲板長はそう押し通したことを誇らしげに報告した。そして提案した。
 「修理を続けさせる条件として、当方ではもはや不要の人物であり、そしてとっくに船長の資格を剥奪されているコスタを人質に差し出すことにした。場合によっては、コスタはこの島に置いて帰ってもよい。人質交換などすることもない。娘たちは帰りにスラバヤあたりで高値で売り飛ばしてもよい。とにかく、何でもよい。あとは出航に早くこぎつけることだ」
 機関長のゴンザレスが言った。
 「賛成だ。ところで私はこの機会に、本気でこの島を占領するための作戦を立てるべきだと思う。」
 占領という言葉を聞いた後、一瞬、さすがに会議の場に緊張が走った。
機関長はこれまで修理に来ていた田之浦衆から島の様子を詳しく聞いていた。苦心して手に入れた久賀島の地図を広げながら、先日来練り上げてきた作戦計画を説明しだした。
 「この島はとなり島の福江にある宇久藩の領地ということになっているが、実際には長老を中心とする自治の仕組みが作られている。したがって武士がほとんどいないので攻略するのは容易である。先般の代官たちとの戦闘では、我々は文句無しの勝利を収めた。
 前にも言ったように、この島の戦略的価値は絶大である。朝鮮、大陸、そして日本本土をにらんだわが国の東アジアの拠点として、この久賀島をぜひともわが国の領土にするべきである。島民の鍛冶、船大工職人たちの技術水準も高度であるし、ジパング侵攻の拠点としては全く申し分ない。占領後には久賀湾をわが国の外洋帆船の基地にする。折紙鼻には砲台を据え付けて出入りの船を制圧する。そして外洋への出撃用には田之浦湾を使用する。久賀島を占領して要塞化するのは難しくない。
 久賀島を拠点として、我々はいずれ本土に進出をはかる。ジパングが世界最大の銀の宝庫であるらしいことはこれまでの西欧に届いている報告書ですでに明かであり、われわれの作戦は本国でも高く評価されるに違いない。」
 副長が言った。
 「問題は当方の犠牲をどう最小にして攻略に成功するか、ということです。」
 機関長は書きつづってきた書類を示し、久賀島の地図をペン先で差し示しながら言った。
 「まず、夜半に舟を出して、一隊は最も手薄だと思われる深浦に上陸する。もう一隊は久賀に上陸して、山越えで蕨部落を奇襲する。もう一隊は反対側の山越えで田之浦を制圧する。いずれも鉄砲隊を先頭にして、抵抗するものは打ち倒す。敵には鋤、鍬くらいしか武器はない。日本刀がそんなにあるとは思えない。あっても飛び道具には勝てないはずだ。相手方の抵抗は朝方になって手強くなるだろう。しかし、ここでドミナ号の大筒を久賀島の各部落の至る所に打ち込む。間違いなく村中は大混乱になるだろう。そこで、あの平和が大好きな長老は「命が大切だ」などと言って、和睦を申し出るに違いない。ここはインカ帝国をだまし討ちにした、あのピサロの流儀で行く。まず長老を人質に取る。あとは殺そうと生かそうとこちらの勝手。鉄砲と大筒という武器にものを言わせる。」
 副長が遮って言った。
 「しかし相手には倭寇が得意としている火矢という武器があります。それに仲間を殺された田之浦衆がいきり立っているはずです。そして何よりも怖いのはあの武生がどんな作戦を立ててくるかです。そう簡単には攻め落とせないでしょう。」
 「いや、大筒の威力は絶大だ。ここから久賀湾沿いの部落のすべてが射程距離の中にある。もちろん上陸前に各部落を狙い撃ちにする。必ず奴等の度肝を抜くことが出来る。武生といえども戦意を喪失する。大混乱のさなかに上陸して鉄砲隊を先頭に山越えして田之浦、浜脇、細石流、五輪、蕨のすべての突堤を占拠する。本隊が久賀の長老と武生を捕虜にする、これで万事が片付く。そして母国の国旗を在所の宿とあの折紙鼻の巨岩の上に立てよう。絶対に勝てる。」
 甲板長はそう言って机をたたいたが、最前列にいた乗員の一人がつぶやいた。 「本船の修理は本当に出来るのか。緒戦では勝ったとしても、怒り狂っている田之浦衆を脅かして働かせることが出来るのか。俺たちは一刻も早く母国に向けて出航したいんだ。出航が難しくなるような結果にはしないでほしい。」
 機関長が言った。
 「いや大丈夫。その時には、また奴等の女子供を人質にとればよい。奴等は人質には弱いんだ。人質釈放を条件にして船体の修理をさせるんだ。」
 「そうだ。修理が完了ししだい、鉄砲隊を中心とする二〇名程度の駐留部隊をここに置いて、本船は平戸または豊後に向けて出航する。そこで久賀島がスペインの領土になったことを宣言する。そのあとで、ドミナ号はいよいよ母国への帰路につくんだ。」
 甲板長は異国の土地を占拠することを当然だと考えていた。占領して、その土地を国王に捧げて、そのうえで偶像崇拝の異教徒をキリシタンに改宗させることがローマ教会のもっとも望むところだろうと思っていた。
 副長が会議のまとめにかかった。
 「とにかく、今はコスタを人質としてさし出すことで、修理を続けさせましょう。そのあとのことは修理が出来あがった時点でもう一度考えましょう。ドミナ号さえ動くようになったら、帆にいっぱい風をはらんで走れるようになったら、もう何も怖くはありません。誰に遠慮することもないんです。その時は何でも出来ます。」


第二七話  船長コスタ、人質となる

 船長と三人の娘たちは、その翌日、酔いしれてやってきた乗組員たちの口から、修理に来ていた田之浦衆の七人全員が射殺されて遺体が運び出された、ということを聞き出した。田之浦出身のちぬは許婚の安否を思って涙を流した。しかしどうしようもなかった。
 今夜もまた、乗組員たちの乱痴気騒ぎが始まった。その船倉の牢獄は、人の心の美しさ、優しさ、気高さ、素直さ、それらが全く否定され、無視されて、人の肉体の、獣性の、欲望の充足だけが価値を持つ修羅場であった。そこは支配者に対する被支配者たちの絶対服従という前提のもとで、どのような非人間的なことでも実行可能な密室であった。そこでは肉欲の感覚をいやが上にも高めるために、ありとあらゆる工夫が仕組まれていた。
田之浦衆との命をかけた戦闘の興奮がまだ覚めやらない乗組員たちは、その夜はいつにもまして乱れに乱れた。娘たちの悲鳴もひときわ高く聞こえた。コスタが男たちのあくどい玩弄の対象にされたこともいうまでもなかった。
 夜明け方になってやっと静けさが戻った牢獄で、いけにえたちがぐったりと横になっていた時に、監視人の一人が覗き穴からコスタに向かって声をかけた。
 「船長、いやさ、元船長のコスタよ、起きろ、いい知らせだ。おまえは船長の資格で、人質となって久賀に行くことになった。喜べ。」
 コスタはそれがどういうことか全くわからなかった。半信半疑であった。ぼんやり突っ立っていると、
 「さあ服を着ろ。」といって下着類と久しく見なかった船長の制服が投げ入れられた。足錠の鎖を解かれたコスタは言った。
 「どういうことか説明を求める。」
 「俺たちには詳しいことはわからん。田之浦衆の射殺事件の事件の後始末のためにこうなったらしい。とにかく早くしろ。今からすぐに上陸させるということだ。」
 コスタは仕方無しに、とにかく服を着た。一ヶ月ぶりであったろうか。下着をつけるときに奇妙なことに娘たちの視線が気になった。船長服の正装を纏ったコスタはやはりマリョルカの貴公子であった。
 コスタは三人の娘たちのところに行ってそれぞれの手を取った。娘たちは涙ぐんでいた。短い期間ではあったが、醜悪な情欲にまみれた地獄の中で、コスタと娘たちとの間には、国籍を超えた、清らかな親しみが生まれていた。とりわけちづとの間には、友情以上の感情が芽生えていた。
 「必ずあなた方を解放するように努力します。祈って、信じて、待っていて下さい。キリストは必ずあなた方を試練から救ってくれます。」
 コスタが十字をきった。そして娘たちも同じように十字を切った。
 コスタは別れ際に、ちづをしっかりと抱きしめて耳元でささやいた。
 「ちづ、愛しているよ。ちづ,必ず信じて待っていてほしい。」
 乗組員たちに囲まれて久しぶりに見た甲板には乱雑に物が置かれていた。整理が行き届いていなかった。甲板長たちが現れて、コスタを取り囲んだ。
 「ドミナ号の修理を田之浦衆に引き続いてさせるために、工事が終わるまで、お前には人質になってもらう。ただし船長の資格ということで行ってもらうことになる。」
 「今更、船長の資格で、というのはどういうことか。」
 「久賀衆の納得を得るためにはそういうことでないといけないのだ。とにかくこの船を出港させるために、船長としてのお前の人質が必要なんだ。つべこべいわずに、とにかく行ってもらう。」
 それ以上は問答無用であった。コスタは舷側から小舟に乗せられて久賀突堤に近づいた。 そこには武生たちがいた。長老もいた。そしてたまきもいた。ロペス宣教師もいた。丁重な出迎えであった。コスタは深深と一礼した。
 そして出迎えの人々の口から最初に聞いた言葉は、娘たちの母からの「三人は元気にしていますか。」という真に迫った問いかけであった。
 コスタの表情が一瞬歪んだように見えた。ロペスだけにはその理由が分かっていた。本当の事を言えば大変なことになる。コスタは答えた。
 「はい、元気です。私との人質交換でそのうちに必ず帰ってきます。心配しないで下さい。」
 この白々しい嘘は、双方にとっての、より大きな不幸と混乱を防ぐために必要である、コスタはそう自分自身に言い聞かせていた。一刻も早く娘たちを解放するためにも、こう言わざるを得ないのだ、と思い込もうとした。
 武生たちのねぎらいの言葉を受けて、コスタは久賀の在所の宿の一室に居室を与えられた。 そこでコスタは一昼夜死んだように眠りつづけた。
 コスタには全く拘束はなかった。監視なしで外を自由に出歩くことさえ許された。


第二八話   ロペス宣教師、神社、仏閣を訪ねる

 ロペスは寝起きしていた野原の家でたまきから熱心に日本の神、仏の信仰について学んだ。本格的な布教にそなえるためであった。すでに渡日していたザビエル師らの先輩たちが書き送っていたたおびただしい報告書はローマで十分に研究しており、おおよそのことはわかっていた。とくにザビエル師は離日後の一五五二年一月二九日付けのコチン発の書簡において、日本の仏教界についての詳細な報告を行っていた。「どの宗派にも重要な戒律の中に世界と霊魂との創造を説くものはない。地獄と極楽は異句同音に説いても、その何たるかを説明する宗派はない。」キリスト教は仏教とちがって、創造神を認めて崇拝する。創造主デウスの存在を証明するとともに人間の霊魂の存在を証明し、原罪による人間の堕落とキリストによる救いの意義を宣布する、というのが当時の宣教師たちの一致した見解であった。
 神道についても調査がなされていた。宣教師たちは書き送った書簡で、神道もまた仏教と同じく偶像崇拝を行うものとして理解していた。祭礼も「偶像を敬う祭り」とみなされていた。
 もともとは人間であった多数の仏、神が崇拝されており、広大な寺院に無数の仏像が置かれている日本の宗教を偶像崇拝の教えとみなしたのももっともなことであった。ザビエルは「この土地には宗教者なるものが沢山」おり、と書き、別の宣教師は「神主と称する白衣の僧」がいるとも書いている。彼らは概して特権階級として存在しており、真に民衆の救済にあたっているとは見えなかった。このことは、イエズス会の宣教師たちには、おりしも西欧諸国で教会の堕落が顕著になり、聖職者の体制化が問題になっていて、内外からの反教会的な風潮が顕著になっていたことと二重写しになって見えたことであろう。
 しかしロペスは武生やたまきたちのすぐれた人間性が日本伝来の神仏崇拝によって育まれていることに興味を示していた。在来の宗教には長い歴史があり、それらがその土地で育ってきた深い理由があるはずだ、したがってそれらを一概に安易に否定してかかってはならない、民衆が心豊かに、平和に生活出来るためには、いかなる宗教であれ互いに排除の論理をとることには問題がある、と感じていた。むしろキリストの教えを従前の宗教と平和的に共存させることが大切である、何を信心するかは押し付けるものではなく個人が自ら選ぶものであると思っていた。勿論これは教皇庁では破門に値する異端の考え方であることはよくわかっていた。報告書には書けないことがらでもあった。
 東の山に日が登るときに、静かに手を合わせてたまきたちは祈る。夕べには仏壇という、立派なホーム・テンプルに香をたいて念仏を唱える。彼らの穏やかな、節度ある生活態度は西欧のキリスト教国と称するいかなる人々のものと対比しても劣っていないと感じていた。この人々の人格の基盤は必ずしも無知蒙昧、偶像崇拝からつくられてはいないことは明かである、そしてかってザビエルが言ったように、このような人々にこそキリストの教えを伝えねばならないと思っていた。
 ロペスはある晴れた日に、たまきに案内されて禅門寺を尋ねた。杉並木のアーケードをくぐって石の階段を登った。その雰囲気は西洋にはなかったものであった。概して西欧、近東の寺院は人家の密集するところにある。しかし東洋の寺院は概してゆたかな緑に囲まれた自然の中にある。登り詰めたところに山門といわれる巨大なゲートがあった。その左には巨大な鐘、梵鐘をつるした鐘撞堂があった。礼拝のとき以外は、僧侶が打ち鳴らすこの鐘の音がこの島の時報の役目を果しているという。石畳を進むとその右側には均整のとれた巨大な寺院の建築物、本堂が聳え立っていた。これは村中で最大級の建造物であった。西欧の教会とは全く異なっいた。ロペスが木材だけでこのような構造物がよくぞ造れたものだと感心して、その正面にたたずんでいると、一人の僧侶が現れて丁寧にお辞儀をした。たまきが二人を紹介した。彼はこの寺の住職、責任者で禅尊と言う名であった。禅門寺は禅宗の寺であった。
 本堂の中に招じ入れられたロペスは正面を見た。左右に灯されたろうそくの灯かりで金色に輝いている奥まったところには穏やかな面ざしの瞑目した仏像が置かれていた。ロペスは日本人の信仰の対象であるとされてきた仏の像を始めて身近に見た。これが先輩の宣教師たちが極力排除、克服しようとしてきた偶像の紛れもない本体であることを確認しようとした。
 偶像崇拝とはいうが、日本人は彫像そのものを崇拝するのではなく、その仏像に象徴される絶対者としての仏をこそ崇拝しているのではないか。偶像自体は仏の化身であり、単なる彫刻であり、見事な芸術品でもある。それはヨーロッパでも同じ事ではないか。システィナ礼拝堂を始めとして西欧各地の教会にあるキリスト、聖母マリアの聖像もそれ自体は彫刻であるが、われわれはその聖像をとおして神を、主を見ているのである。西欧の人々は、自己中心的に、単に異教の場合を偶像と呼び、キリスト教の場合を聖像と呼んでいるに過ぎないのではないか、ロペスにはそのように思えてきた。
 禅尊の礼儀正しい対応はロペスを感動させるほどであった。二人は仏教の仏とキリスト教の神デウスの対比について語り合った。ロペスはキリスト教の神を日本語にどのように訳すべきかに迷った。創造者、絶対者としての神をどのように訳するべきか、先輩宣教師と同じ問題に遭遇していた。
 ロペスはザビエルにならって同じく全能者、絶対者としての神を「デウス」として語った。その子のキリストの降臨、昇天、復活という信仰の核心について説明した。
ロペスは禅尊から学び、禅尊はロペスから学ぼうとした。
 ロペスはかってキリストの十字軍がサラセンのイスラム教徒と戦ってどれほどの犠牲者が双方から出たか、宗教をめぐる確執がどのような結果になるかを知っていた。しかもそのような犠牲を払いながら肝心のカトリック教界は堕落、腐敗の一途をたどっていたのである。誠心誠意、神の教えを伝える。その上で人々が信じて選ぶ、心のよりどころとしての信仰・宗教であればそれでよい。排除し合ってはいけない、ロペスはそう思うようになっていた。
 禅尊との対話は片言ながら、昼時まで熱心に続けられた。相互に大いに得るものがあった。禅尊は別れ際に言った。
 「今、私たち、仏に仕えるものもこのままでは民衆の信望を失うことを恐れるようになっています。本土の京都、大阪、豊後,山口などでは、キリシタンの勢力に押された佛僧たちが支配者の大名たちと結託してあなた方を邪宗門などと称して排斥しています。しかし私はむしろ僧侶自体が自らを変革せねばならないと思っています。ひそかに戒律を破って奢侈淫欲に走り、特権意識に持って民衆を見る、大名に取り入って政僧になろうとする、悟りを開くためにということで、寺院にこもって瞑想にふけるが、民衆の苦しみには触れようとしない、そのような僧侶が増えています。私は今日、禅の本来の心を取り戻さねばならないのは僧職自身だと思っています。」
 ロペスはこの言葉はそのまま自分たち西欧のカトリック教界にもてはまるものと受け取っていた。今から約五十年前にドイツのウイッテンベルク大学の教授マルチン・ルターが教皇レオ一〇世のドイツ国内での免罪符の販売に反対して九五か条の批判文を発表して以来、西欧では宗教改革のほむらが燎原の火のように広がっていた。プロテスタント派の勃興はカトリック内部にも大きな混乱を生み出して、イエスス会その他のカトリックの内部改革を目指す勢力も台頭していた。
 禅尊はこれから座禅に入ると言った。たまきが座禅について解説した。それは中国の宗 からもたらされて、僧栄西がはじめた臨済宗、僧道元が始めた曹洞宗での修行のしかたであり、座禅によって人間に内在する仏性を自覚し、仏教の開祖である釈迦の境地に近づこうとしているのだという。武生もたまきも時折座禅の席に参加するという。座禅によって心が洗われるという。それは生きる喜びを自覚させてくれるという。ロペスはこのような日本人の信仰をもっと正しく理解するために、ぜひ一度自分も座禅の席に参加させて欲しいと頼んだ。禅尊は喜んでお迎えすると言った。
 昼食は久賀の海が見える松の木陰でとることになった。たまきが作ってくれた竹籠に入った弁当が開かれた。母国では決してお目にかかれない、海草から作った海苔のシートで巻き上げたおにぎりの味をロペスはおいしいと感じるようになっていた。卵焼きや焼き魚の味も覚えた、竹筒に入れたお茶を飲んだ。もうロペスは完全に肉食の味を忘れて、久賀島の粗末な食事にすっかり慣れてしまっていた。
 そのあと、たまきはロペスを折加美神社という神道のテンプルに案内した。鳥居と呼ばれている特異なゲートは神域への玄関口、入り口だという。神殿の奥にはみがきあげられた鏡がおいてあった。それが神の象徴だという。たまたま責任者の神職は不在であったが、くつを脱いで礼拝殿まで上がった。素足に白木の感触が快かった。欄干と欄間には複雑なヘビのような動物の彫刻があった。たまきは中国から伝えられた龍と言う仮想の神獣であると説明した。
 ここには偶像はなかった。御神体という鏡、剣、首飾りなどが正面の神殿に収められていて、これに向かって拝むのだ、という。ここでもまた、象徴としてのこれらの物体の向こう側に、日本人は偉大な神を見ているのだと思った。日本人の文化はあるいは象徴化の文化というべきではないのか、ロペスはそう考えるようになっていた。
 日本人の神は仏とは異なり無数にある。遺徳が偲ばれる故人がやがて神社に祭られるようになる。「やおよろず八百万の神」という言葉があり、これらの大勢の神たちは年に一度出雲大社というところに集まって会議を開くという。たまきは、そう説明したあとで、どうも神様たちはそこで今年の男女の縁結び、結婚相手をきめるための評定をするらしいのです、といって楽しそうに微笑んだ。
 たまきが語る日本人の神たちは創造神デウスのような絶対者、全能者としての恐るべき対象としてではなく、ごく普通に親しめる、微笑ましくもある、人々の仲間のような神たちであったことが印象的だった。そして、日本人が崇敬する最高の神が天照大神という女性の神であったのもたいそう興味深いことだった。
 折加美神社からの帰途は海沿いの小道であった。潮の香が立ち込めていた。引き潮に逃げ遅れた魚たちが浅瀬で跳び跳ねていた。夕日に光る遠くの久賀の海の白波が美しかった。野良仕事から帰る村人たちは丁寧に挨拶をした。ロペスは人々が次第に自分を理解してくれていると感じていた。黒衣の長身のロペスと付き従う和服のたまきの、およそこの島では思いもかけなかったような和洋の二つのシルエットが家路に向かっていた。


第二九話  久賀衆、自衛の戦力を貯える。

 武生の持論はこうだった。交渉は徹底して行う。しかし条理を尽くした当方の意志が無視されるような場合には、あるいは蔑視感を相手方に持たせないためには、そして双方にとって合理的で満足出来るような結果を得るためには、いざという時の自衛の力を持っていなければならない。
 武生は、現に、いざとなれば鉄砲や大筒を撃ち放つことのできるドミナ号側とは随分と不平等な対応を余儀なくされているという認識を持っていた。とくに、混乱した世相の中で、王侯貴族の専権によってではなく、住民の評定の結果に基づいて行動する自治の組織を運営していく場合には、相応の防衛組織を持つことに力をいれねばならない、これはこれまで一〇〇年以上も続いてきた戦国時代の騒乱をつぶさに検証してきた武生の結論であり、このたびのドミナ号の出現によってもまさしく実感させられた持論であった。
画期的な自治の仕組みを作り上げていたあの泉州の堺が、あれほどの先端的な鉄砲製造などの技術力を持ちながら、信長に征服されたのは、まさしく自衛力の構築に失敗したからだと考えていた。
 武生は相手方にこれ以上の無法を許さないために、とくに彼らが東南アジアや中国でしばしばしてきたように、久賀に再び上陸して、場合によっては村を占拠するような事態をおこさせないために、先般の評定で決定した鉄砲の製造と鉄砲隊の訓練に力を入れねばならないと考えていた。
 福江の宇久藩の軍事力が当てにならないことはもうよくわかっていた。
伝次の指導下にある田之浦の鍛冶場では、予定の五〇挺をはるかに超えて、もう七〇挺もの鉄砲が出来あがっていたが、あと三〇挺を急いで追加するように求められていた。黒光りのする鉄砲が鍛冶場の地下倉庫に並べられていた。それらは火縄銃ではなく、伝次が改良した最新型の弾丸込め式の銃であった。伝次は技術者として親譲りの並外れた才能を持っていた。後年彼の同じ名前の曾孫が伝次車といわれた田の草取り機械を発明して全国的に使われることになったのも故なしとはしない。
 旧式の鎧甲冑に身を固めて弓矢を持った侍たちが紅毛たちに立ち向かえないことはよくわかっていた。鎌倉武士たちが武士道の精華を競いあっていた三〇〇年前の文永一一年(一二七四年)に、突如として蒙古の大軍が博多に押し寄せた時に、大陸の最新火器の前に、もはや武士道だけでは戦えないことが実証されていた。久賀島では、折りよく鉄砲と言う最新兵器が導入されて、村方だけで戦える力が持てるようになった。これは非常に画期的で幸運なことであった。もちろん鉄砲の製造と鉄砲隊の整備に関する事実は厳重な秘密のもとに置かれていた。
 鉄砲隊の若者たちは漁場や農作の合間を見ては細石流の海岸に集まって訓練をうけた。伝次の堺仕込みの新知識は若者たちを魅了した。とくに新兵器である鉄砲には関心が高まったが、伝次は若者たちに強調した。兵器は攻撃するためにあるのではない、自衛のためにある。出来れば使用しないで済むのが最善である。それは日本刀の論理と全く同じである。  伝次は陸上での戦い方と小舟に乗って攻める海上からの戦い方との両方について訓練した。細石流の荒波の打ち寄せる海辺での鉄砲の発射音は久賀湾のサンタ・ドミナ号には遠雷のかすかな響きとでも聞こえていたのかもしれなかった。
 若者たちの士気も高かった。娘たちが三ヶ月が過ぎても帰ってこないことへの苛立ちがあった。不条理を許してはならない、神仏の道に外れた事を認めてはならない。それは村塾で武生が徹底的に教え込んだ徳目であった。若者たちはその武生の決断を待っていた。 とりわけ田之浦衆は怒りに燃えていた。仲間が若親分を始めとして七人全員射殺されたと言う事態は余りにも異常であり、許せなかった。船倉に立ち入ったために殺されたと言う先方の言い分も信じられなかった。娘たちを救出するためだったという事実も全員の死亡によって知られることはなかった。しかし、何があったにせよ、余りにも残酷な殺されようであった。
 田之浦衆の若者は気の荒い蕨衆と共にサンタ・ドミナ号に夜襲をかける事を主張した。いずれも荒海に小舟を操る事にかけては天才的な才能を持ったこの二つの部落の人々は特別に勇敢な事で知られていた。実際には武装貿易集団であったのだが、倭寇船に乗り組んで遠洋を駆け巡っていたのもこの部落出身の若者たちであった。彼らは縄ばしごをかけて船内に乗込めば必ず勝てる、などと主張した。
武生は言った。
 「時を待て。平和のうちに事を解決せねばならない。しかしもしもあまりにも理不尽な事をしようというのなら、その時には戦かわねばならぬ。そして戦う以上は必ず勝たねばならない。そのための戦力を懸命に貯えて置こう。
もうすぐ倭寇の船団が田之浦に帰ってくる。彼らの協力を得る事ができれば決して負けはせぬ。鉄砲隊の訓練にもいっそう励まねばならぬ。」
武生と伝次はその時にはもうドミナ号との海上決戦に備えて、幾度となく作戦計画を練っていた。
 若者たちの大親方伝次と武生に対する信頼は万全だった。
 ある日、伝次は武生に言った。
 「実は今、石火矢の製造を考えています。」
 石火矢とは大筒、大砲のことである。日本にはまだ何処にもなかった大筒を伝次がつくろうとしていた。傳次は堺で友人の根来衆がポルトガル人からもらったという図面を写し取ってきた。さらに、頼み込んで乗せてもらったポルトガル船で、その大筒の実物と訓練のありさまを実地にみてきたという。伝次は自信満々であった。
 「われわれがドミナ号と対等に渡り合えるためには鉄砲だけでなく、あの大筒と同じものを持つことが必要です。私はこれまで弟子たちと、図面を取り出して研究してきましたが、やっと製造する目どがつきました。鋳造に必要な鉄材はもう充分に用意してあります。火薬はのろし用のものを精製して使います。実は弾丸はもう鋳造済みです。あと一ヶ月もすれば大筒を折紙鼻の丘の上に備え付けて、久賀湾を出入りするすべての船に照準を合わせることができます。」
 一〇〇挺もの最新型の鉄砲とこれを使いこなす訓練の行き届いた鉄砲隊と着着と鋳造がすすんでいる大筒と到着が間近い命知らずの倭寇たちの船団と、およそ最強の軍事力が久賀島に整備されつつある事に、ドミナ号の幹部たちは全く気がついていなかった。

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第三〇話  田之浦衆の野辺の送り

 無残に殺されて遺骸が帰ってきた七人の田之浦衆のための葬儀が行われることになった。その話を聞いたロペスは自分も出席したいと言い出した。長老もたまきも困惑したが、武生は「よいでしょう。」と言った。もうその頃には黒衣の僧服を纏ったロペスは村人からはドミナ号の乗組員とは全く異質の、村人にとって信頼できる人格として認知されていた。それにしても田之浦衆の憤激は異常に強烈であり、葬儀のさなかに、興奮の余りにロペスに対して危害が及ばないとも限らなかった。武生は自分も同伴するので心配はない、と断言したが、念のために久賀衆の護衛をつけることにした。
 このたびの不幸な事態が発生したことについての正確な理由は知らされていなかったが、ロペスはドミナ号の修理を熱心に手伝ってくれていた七人もの田之浦衆が殺されたことについては、キリストに仕えるものとしてはもちろん、ドミナ号に乗ってきた異郷の人間としても深い責任を感じていた。葬儀にはドミナ号を代表して心から哀悼の意を表したいと心に決めていた。
 それだけでなく、ロペスはかねてから仏教徒の葬儀の実際を見たいと思っていた。人の死を悼む、人間の別れの儀式こそはその宗教の神髄を表わす、人々の心情を正しく表現するものであると考えていた。
 当日、ロペスは武生とたまきといっしょに葬儀の場所である田之浦の寄り合い所の会堂についた。そこには長老を始めとして、村中の主立った人々が集まっていた。正面には七つの丸い棺桶が並んでいた。左右にはこの島特産の野辺の花々が供えられていた。正面には大きなろうそくが何本も燃えていた。香炉には線香が煙をあげており、強烈な香りが立ち込めていた。そこには禅門寺で見たような仏の偶像はなかった。その代わりに棺桶の上には、死者が愛用したという短刀や手鏡や手まりや、色鮮やかな千羽鶴と名づけられた、折紙で作った沢山の鶴を束ねた美しい紙飾りが置かれていた。死者の霊があの千羽の鶴に乗って極楽に行くことができるように、恋人、妻、家族たちが心を込めて折り貯めたものだと、たまきが解説してくれた。ロペスはこのとき始めて日本には紙切れを折りこなして、自由自在に鶴、亀、人形などをつくる独特の文化があることを教えられた。
 別れの時は悲しかった。村人たちは涙を流していた。家族は声を上げて泣いていた。このような死にかたはこの国では非業の死と呼ばれていた。不条理な死に方という意味だった。日本では、無念のうちに、怨みながら死んでいった人々を極楽に行かせるためには、死者に代わって友人や妻子が復讐してやらなければならない、そのための「敵討ち」と言う習慣があると聞かされていた。主君は敵討ちのための公式な許可状を発行したという。この国の人々は平和的である。しかし名誉を非常に重んじる。だから「体面」という、プライドをけがされた場合には自らの命を断つことをいとわない。恥ということには極めて敏感である。すでに宣教師たちが残虐な自殺行為であるとして報告していた、世界のどこにもない「切腹」と言う死の儀式がこの国にはあることもロペスは十分に知っていた。
 この七人の田之浦衆が絶対に盗みを働くはずがない。彼らは良く働く、温厚な若者たちであった。村人たちはそのことをよく知っていた。妻子があり、あるいは婚約者があり、平和に、まじめに暮らしていたこれらの若者たちが無残に殺された。ドミナ号という予想もしなかった闖入者が久賀湾に居座って以来、村人たちは略奪され、拉致され、そしてまたしても若者たちが犠牲になった。気の荒い田之浦衆が憤激するのはもっともだった。死んだ若衆たちの仲間は倭寇船に乗り込んで異国の海賊たちと戦ったこともある。手鍵のついた縄ばしごを舷側から投げあげて、敵船に乗り込む事も出来た。ドミナ号に戦を仕掛けよ、という彼らの訴えには、決して勝つ成算がなかったわけではない。
 ロペスは正義のための復讐が終わらなければパラダイスには行けないと言う思想のなかに、この国の人々の「名誉」にかける情熱を見たように思った。
 それにしても長老も武生もそして評定衆もロペスが驚くくらい、よく忍耐していた。それとも彼らはドミナ号の大筒という圧倒的な火力が久賀の部落を壊滅に追い込む可能性があることを恐れていたのであろうか。いずれにしても、田之浦衆の暴走をしっかりと抑え込んで行く事が出来たのは、地元の大親方である伝次の存在によるところが大きかった事はいうまでもない。
 禅門寺の禅尊と三人の僧侶が静かに棺の前に進んだ。金色の帽子をかむり、紫色の僧衣をまとった禅尊は線香をたき、そしてひとしきり念仏を唱えた。会衆は手を合わせて唱和した。手元に置かれた小さな鉦が打ち鳴らされた。禅尊と3人の僧侶の念仏は高く低くよく調和していた。
 ロペスは小声でたまきに質問した。
 「この念仏は死者のために復讐を誓っているのですか。」
 たまきは一瞬戸惑ったがおもむろに、しかし正確に答えた。
、  「これは死者の霊を慰めるための経文の言葉であり、復讐とは関係ありません。復讐は人の思いであり、しきたりです。仏教では人の思いは空しいものであるという考え方があります。「色即是空、空即是色」と言う思想は、色すなわち人の愛、人の思いの空しさを説いています。「無常」と言う思想は、この世の憂いに心を乱すのではなく、安らかな心境にあることを意味しており、たとえば座禅によってその心の状態を保つことが出来るとされています。仏教には因果応報という考え方はあっても復讐という思想はありません。」
 キリスト教には「目には目を、歯には歯を」という復讐の思想があるが、敵討ちというようなしきたりは見られない。敵討ちという日本人の実際的な行動は仏教とは無縁であるというのか。ロペスにはほとんど理解出来なかった。
 ともあれ、この世の恩讐を超えて死者が仏となることを何よりも希求する人々の心を美しいと思った。そして念仏が「成仏」のためにあることもわかったように思えた。
読経のあとで、長老が弔辞をのべた。七人の死者の生前での生きざまについて語った。しかし彼らの死にざまについては当然詳しく触れられることはなかった。在りし日を思って会衆は鳴咽した。正装した妻子たちは声をあげて泣いた。親しい仲間と思われる若衆たちもしきりに涙を拭っていた。
 この人々をこのような不幸に追い込んだことを許し給えと、ロペスはひそかに自らの神に祈っていた。これらの人々に平安を与え給へと祈っていた。一度も十字を切らないで、村人たちと同じように、両手をあわせて合掌して、ひたむきに祈っている異国の僧がそこにいた。人々はそのことに気づいていた。
 葬列が組まれた、棺桶は前後を親しい若衆に担がれて、ひとつずつ出ていった。妻子が位牌という、仏僧が本人の死後に名づけた冥界での名前であるという「かいみょう戒名」を記した木札を持って先頭に並んだ。村人たちは縦長の弔旗を何本も掲げてそのあとに従った。
 武生が小声で言った。
 「この久賀島の葬列は朝鮮半島系の習俗を色濃く伝えています。本土のものとは明らかに違っています。この島では古来朝鮮の人々との深い交流がありました。この島と半島との間には、はるか南方からやってきた黒潮が枝別れした対馬暖流が流れていますが、両国の漁師たちはこの外海を横切って往来していました。時折、朝鮮の人々が漂流してきて、地元の娘と結婚して定着するようなこともあったようです。
 久賀島には高麗島伝説というのがあって、昔、久賀島の前には高麗島という、朝鮮に実在した国の名前のついた小島がありましたが、ある年激しい地震があってこの島が水没して消滅してしまった、と言い伝えられています。これは久賀島と朝鮮半島との、ただならぬ深い関係を暗示しているように思われます。このような死者を葬る人生最大の行事に朝鮮半島の色彩が認められると言う事実は大変意義深いことだと思います。」
 ロペスにはよく理解できた。五島列島の北端の上五島では天気のよい日には朝鮮の済州島が見えるという。おそらく太古の時代には陸続きであったとも思われる。
 「私たち、この島の住人の顔つきには二種類あるようです。そのひとつは南方系で「くまそ熊襲」といわれる丸みをおびた顔で、もうひとつはほほ骨がやや張り出した面長の朝鮮の人々とよく似た顔です。これは私たちの先祖の二つの地域からの由来を示しているのだと思います。」
 武生はいかにも南方系らしい自分の四角い顎をなでながらそう言った。
 葬列は墓地に到着した。ロペスは日本人の墓地を始めて見た。山の斜面に墓石が密集して乱雑に並んでいた。戒名が墓碑の表面に記されていた。新しく埋葬された死者は「にいぼとけ新仏」と呼ばれて、その場所にそとば卒塔婆といわれる、その表面に戒名が記された木の柱がたてられていた。墓石が正式に建てられるまでの相当期間、そうした状態にしておかれるという。花と線香が供えられ、人々は敬謙な祈りを捧げた。
 田之浦の死者の棺桶は若衆たちが掘った穴に収められて土がかけられた。人々はそろって禅尊らの最後の別れの読経を聞いた。とりわけ若くして夫を失った新妻たちの嘆き悲しみは人々の涙を誘った。高く低く響き渡る読経の声が山あいに広がった。深い緑の奥山で仏法僧の鳴き声が唱和するように聞こえてきた。
 仲間を失った若者たちは鳴咽した。無念がった。その墓場のある小高い丘から、久賀の海に浮かんでいるドミナ号の完成真際の三本マストが陽光を浴びて輝いているのが見えた。 長老も武生もたまきもこうした悲運がこの島に突如として舞い込んで、しかもこの先さらにどのような事態が待っているのか見当もつかない現状を思っていた。ロペスは、そのような災いをもたらした、まさしくそのドミナ号に乗ってこの島に来た。人々の魂の救いのために、平和を来たらすために、神の言葉を伝えるために来たことがここでは村人たちにとって全く逆の結果になってしまったことに深い自責の思いを味わっていた。
 あるいは、イエズス会などの未開地への宣教、布教の「聖なる試み」は西欧各国の植民地拡大の野望を容認する形で、あるときにはこれに上乗りする形で行なわてきたのではなかったか、あるいは私たちはこの久賀島に見られるような悲劇を全世界に拡散することに貢献しているのではないか。祈りでは征服者たちの無事だけを願っていなかったか。執り行われたミサでは味方のためだけの恩寵が求められていたのではなかったか。今目の前に嘆き、悲しんでいる多くの人々を見ながら、ロペスは瞑目して「主よ、われらの罪を許し給え」と心から祈らないではおれなかった。
 救われるべき者が殺され、祝福されるべき者が犯されていると言う、今この時に世界各地で見られている現実を、私たちは見て見ぬふりをしているのではないか。メキシコとペルーを「征服」して、民族を滅亡にまで追い込むような大量殺人を敢えてした、あのコルテスもピサロも母国では英雄視されてきた。西欧諸国では新世紀の始まりなどとして祝福されている大航海時代こそは世界各地の現地の人々にとって悲劇の時代の始まりではなかったのか。自国、自民族の繁栄だけが神の恩寵であるとする、神の選民だけが豊かになり、幸せになる権利を有する、といわんばかりのおごった考え方がどれほどの悲劇を各地にばらまいてきたか、ロペスは久賀島に来て、今このように嘆き悲しむ人々の前に立って、始めてそのことを正確に実感できたように思った。異教徒であろうと、キリスト教徒であろうと、人として、等しく尊重される社会こそが理想とみなされるべきではないのか。儒教であれ、仏教であれ、神道であれ、人々の信仰の自由を認めた上で、なおかつキリストの教えに帰依する人々の数を増やすことが真の宣教、布教ではないのか。しかしこのようなエキュメニカル(汎宗教論的)な考え方は当時の教皇庁の方針に楯突く考え方であったのかもしれない。
 葬儀は終わった。紅毛人ロペスの目にも熱い涙があふれていたことを村人たちはしっかりと見ていた。ロペスが悲劇の運び手であるドミナ号に乗ってきた異国の人ではあっても、村人たちの味方であることが十分に理解される機会となった。
 母国の葬儀とは全く異なる様式の中で、ただ一つ常に共通なのは死者を悼む人々の嘆き、悲しみ、そして涙であった。ロペスはその人間の生き死にの真実という原点を大切にしながら、この久賀島の人々の間にキリストの教えを伝えようと思った。


第三一話   マリョルカ派の乗組員と甲板長の対立

 マリョルカ派の乗組員六名は、元船長コスタに対する甲板長たちのやりかたに不満を持っていた。コスタが船長を解任されて船倉の牢屋に閉じ込められ、三人の娘たちと共にカスティラ派の玩弄の対象になっていることに対して激しい怒りを感じていた。
 彼らは何度か甲板長たちに抗議してコスタの釈放を迫ったが、甲板長を中心に船の支配権はカスティラ派が完全に掌握しており、要求がとおらなかった。その後コスタが人質と言う形ではあるが、牢から出されて釈放されて、船長の資格で久賀島に上陸することになったことで、マリョルカ派は一応了承せざるを得なかった。
 その日の朝、ロペスが上陸して以来、司祭のいない、日毎に参加者が減っていく、寂しい安息日のミサが甲板上の片隅で開かれたが、そのあとで、マリョルカ派は会合を開いた。そして、このまま久賀衆の恨みをかっていると、ドミナ号の行く末が危険であり、コスタの命も保証出来ないことになる、という結論に達した。そして、あらためて船の幹部たちと話し合いを持つことになった。
 マリョルカ派と幹部たちの折衝は翌日の午後に船長室で開かれた。マリョルカ派が突きつけた書面にはつぎのように書かれていた。
第一  三人の娘たちに対するカスティラ派の乗組員たちの無法を直ちに止めて彼女たちを早急に釈放するべきである。マリョルカではこのような淫行は許されない。教会の教えにも反する。
第二  娘たちには謝罪の上、しかるべき賠償金を支払わねばならない。
第三  同時にコスタの人質を解いて本船に戻し、船長として復帰させるべきである。コスタはアラゴン王家の末裔であり、マリョルカ家の伯爵の地位にあることを忘れてはならない。
第四  七人の田之浦衆の死亡については、彼らが盗賊ではなかったことを明らかにして名誉を回復し、久賀衆に陳謝するべきである。
第五  本船の修理、食糧の支給分については必要な代価を必ず支払うべきである。
そうすれば必ず平和が戻ってきて、久賀衆との関係を修復することが出来る。スペインとドミナ号の名誉が保たれる。このままでは決して平穏には済まないだろう。久賀衆はいつか復讐を考えるだろう。何よりも神の怒りを買うようになることを恐れねばならない。

 マリョルカ派の理にかなった、非の打ち所のない要求を一読したあと甲板長は幹部たちを代表して平然と答えた。
 「最初に言っておこう。この船では、今は私が船長として、あらゆる実権を握っている。この権限は非常に重い。私の命令に反対する者を逮捕することも銃殺することも出来る。私のすべての命令は幹部会の決定によって支持されている。そのことを忘れないでいてほしい。
 ところで、第一項に関しては、お前たちにこの事を要求する資格自体がない。お前たちマリョルカ派の何人かは最初の日に久賀島に上陸して、略奪、暴行に参加していたではないか。恥を知れ。今更信心深いもののいいようをするのはおかしいではないか。。
母国を出航して以来、ドミナ号が停泊した異国の至る所で、女たちを連れ込んで相手をさせるのは当たり前のことだった。勿論、原則としてそれ相応の金は渡してきた。人質の娘たちは無条件に当方の支配下にある。命さえ保証してやれば、多少のことには目をつむる、と言うのがわれわれの流儀である。お前たちが納得できないと言うのなら、釈放時に代償を支払ってやってもよいんだ。一人当たり金貨5枚ではどうだろう。結局は彼女等の儲けになるはずだ
 要求の第二については、何も謝罪することはない。これも礼金さえ正当に支払えばすむことである。
  つぎに第三のコスタの件だが、コスタの人質は本船の修理を成功させるために絶対に必要である。だから、コスタにはそうしてもらっているのだ。先方も娘たちとの交換であると解釈している。多分久賀衆は大切にしてくれているだろう。
 コスタを船長職に戻すことは出来ない。解任は幹部会の決定である。前にも説明したように、コスタは台風のさなかに本船の操縦を誤った。そして結果的に、どうしようもない、このような僻地に漂流し、われわれがこのような苦難に追い込まれる原因をつくってしまった。本国に持ち帰るべき貴重な積み荷を海に棄てさせた責任も重い。それにコスタにはスペイン王国に背いて、アラゴン王家を再興しようとする謀反の疑いがある。お前たちにも思い当たる点があるのではないか。」
 謀反人扱いされたマリョルカ派の血相が変わった。剣を抜いて立ち上がろうとするものもあった。しかし甲板長は鉄砲隊に目配せしながら、これを無視して言葉を継いだ。
 「第四の田之浦衆の件については、あくまでも先方の不法侵入というルール違犯によるものであり、当方としては必要な措置を取ったまでである。未開の人種には契約とルールの大切さを思い知らせてやらねばならない。ルールの遵守こそは文明と未開を区別する鉄則なのである。重大なルール違反は厳重に処罰する。先方にはなくて、当方のみにあった鉄砲という武器が正当に行使されたことによって、全員死亡という事実が残っただけのことにすぎない。
 われわれの安全と秩序を守るためには武力が必要である。圧倒的な力こそがすべてを解決する。本船が無事に本国に帰れるためには、今後とも断固として武力を相手方に示し続けることが必要であり、お前たちのような優しい中途半端なやり方をすることは出来ない。優柔不断なコスタを船長からはずしたもうひとつの理由もそこにある。」
第五点だが、もちろん代価は支払ってもよい。俺たちは金で解決出来ることなら何でもする。
 最後に言っておくが、われわれはギリシャ、ローマの文明を受け継いで今日に至っている西欧のすぐれた文化を持つ国の代表である。われわれは十字軍の苦しみもルネッサンスの栄光も十分に経験してきた。そして今やキリスト教国として人類最高の文明、文化を享受するようになった。ドミナ号はまさしくそのような西欧国家の代表である。無法、合法はわれわれが判断するべきものであって、かりそめにも異教徒、未開の連中が判断するべきものではない。われわれのルールは世界的な規範であって、これに従わない者は何人たりとも許されない。
 例えば、ピサロ提督はそのような前提のもとに、未開のインカ帝国をわが国の領土にしたのだ。お前たちもわかってほしい。お前たちの言う道理なるものはこの未開の、異教徒のジパングという国の、その片隅の久賀島では全く無意味なんだ。神はわれわれの神である。法はわれわれの法である。われわれはその法理を神と国王に代わって、今や世界の至る所で執行しているのだ。」
 甲板長はここで激しく机をたたいて言った。
 「われわれのやり方と違うことは、それだけでよくないことなのだ。違うのは罪悪だ。違うものは処罰せねばならない。」
 雄弁に声高に話し終わった甲板長は続けて言った。
「このさい、お前たちに言っておこう。われわれ幹部会は人質交換どころか、場合によってはこの島を占領するための作戦を検討している。われわれの武力だけでこの島を占拠することは十分に可能である。」
 乗組員たちは一瞬驚いたが、すぐに問い返した。
 「コスタ船長はどうするのだ。命が危ないではないか。」
 甲板長は笑って答えた。
 「船長を解職されたコスタがどうなろうと、その時はその時だ。一伯爵ごときがどうなろうと、この島を占領して国王に捧げることの方がはるかに重要なんだ。われわれははるばるジパングにまで派遣されてきたのに、何も土産を持たないで帰国することは出来ない。」
 「コスタが危険にさらされるようなことをしてはならない。甲板長、あなたははそもそもこの船がマリョルカ島のコスタ伯爵の所有であることを忘れてはならない。コスタはその船長であり、かってのアラゴン王家の血筋を引いている。あのマストにはスペイン王とコスタ伯爵の旗が翻っている。われわれはこの剣にかけてもコスタを守る。ガルシア、貴方はこの船を盗もうとしている。」
 アラゴン派の乗組員たちは剣に手をかけて詰め寄った。しかし甲板長はまったく動じなかった。
 「鉄砲隊がお前たちを狙っていることを忘れるな。それに、今の俺にはお前たちを、アラゴン王国の再興をはかったという陰謀の嫌疑で、いつでも全員を逮捕する権限があるんだ。」
 マリョルカ派とカスティラ派の対立が一層先鋭になったまま、ひとまずその夜の交渉は物別れに終わった。


第三二話  台風の夜の体験

 五島列島は概して南西方向からやってくる台風の通路に位置していて、久賀島にも毎年のように、初夏から晩秋にかけて何本かの激しい台風がやってきた。
 その日、ロペスはたまきに案内されて、布教の途中に蕨部落のたまきの姉みちの嫁ぎ先に立ち寄っていた。
 朝から雲行きがおかしく、海風の勢いが次第に強くなっていた。みちはロペスたちに今日は外出はやめるようにとすすめた。台風が来るらしい。それに昨夜から海鳴りがする、これは台風がやってくる前兆であると話した。
 蕨のみちの家のすぐ横には漁師たちの舟溜りがあった。蕨部落は漁師の村であった。向かいの奈留島と同様に外洋に乗り出していって、豪快にブリ、マグロ、カツオなどの大物を釣り上げたり、沿岸部ではイカナゴ、イワシ、サバ、アジなどを水揚げした。夜はイカ漁のために蕨部落の近海には漁り火が点々と浮かんでいた。しかし今日は舟を出すものは一人もいなかった。漁師たちは舟溜り中の舟と舟とを、とも綱でつないだ。その上でその綱じりを突堤の杭にしっかりと結びつけた。
 まだ帰ってこない舟がある、と漁師たちが騒いでいた。空模様を判断して、早いめに引き揚げる潮時を見つけないと、台風に巻き込まれてしまう。事実、この島では毎年何人かの犠牲者が出ていた。
 前夜から聞こえていた海鳴りは海底の岩石が台風の荒波に洗われて擦れ合う時に発生するのだという。事実蕨の浜辺に打ち上げられる小石はたいてい平たく丸くて、よく磨かれていた。
 昼過ぎには風が強くなり、雨の勢いも激しくなってきた。家々の雨戸が閉められ、男たちはその隅々を釘付けし始めた。屋根板には大石が重しとして置かれた。叩き付けるような風雨の音がロペスたちの耳に聞こえ出した時には、つぎつぎに突堤に打ち寄せる高波が真っ白い水しぶきをあげていた。舟溜りには、波にさらわれないように互いにとも綱で体を括りあいながら、まだ帰らぬ夫や同僚たちの舟を待ち望んで、じっと沖合いを見つめている人々の姿があった。この部落では、毎年、こうして何人かの遭難者を出してきた、ということであった。
 繰り返して押し寄せる高波が満潮時と重なって海面を次第に上昇させていた。まるで滝のような豪雨が家の前の道にあふれて、海水と交じり合った。海岸べりの家々はまるで海中に取り残されたように見えた。突堤にぶつかる高波のしぶきがロペスたちのいる家の屋根に振りかかって激しい音をたてていた。
 家中が真っ暗になってろうそくが灯された。みちは落ち着いて茶をすすめながら語り始めた。
 「蕨衆は久賀島中でも気性が荒いことでとおっています。男たちはたいてい漁師として生計を立てています。海に出る以上は海の機嫌をとるしかありません。凪いだ日も荒れた日もあります。男たちは漁から帰って酒を飲みます。蕨の男たちには大酒のみが多く、酔えばこんなに明るくて陽気な人たちはありません。単純で短気で良く怒るが、あとをひくことがない。気持ちのよい男たちです。くよくよとこだわっていたら玄海の外海で働く命懸けの漁師は勤まらないからでしょう。」
 台風は最高潮に達していた。海辺にある家々の屋根には打ち寄せる高波のしぶきが直接降り注いでいた。海水をかぶるたびに屋根がきしんだ。母屋の隣にある牛小屋では心細そうに牛たちが騒いでいた。雨漏りどころではなかった。海水が直接室内に降り込んできた。 みちは少しも慌てないで語り続けた。
 「心配いりません。この島の長い歴史のなかで、こうした天災に耐えられるように家が作られています。同時に私たちは恐怖に耐えられる性格を身につけることが出来たと思っています。しかし、悲しいことに毎年漁に出たまま、台風に巻き込まれて帰ってこない男たちが何人かあります。そのたびに、かわいそうに後家さんになる女たちが出ます。今日も隣の家の主人の舟がまだ帰ってきていないそうです。たぶんもう駄目かも知れません。悲しいことです。」
 たまきが言葉を継いだ。
 「蕨の女たちは気性が強いことで有名です。どんなに打ちのめされても女たちはすぐに立ち直ります。今こんなことをいうのは不謹慎かも知れませんが、夫を失った女たちはやがて必ず立ち直って、いい男を見つけて立派な家庭を作っています。男たちも後家さんだからといって差別しません。狭い島の中では、そのような助け合い無しにはやっていけなかった歴史があるのだと思います。部落中が一家のような関係になっています。子供たちも部落みんなのものとして大切に育てられます。みんな平等に貧しいからそうせざるを得なかったのでしょうね。」
 みちが茶を入れかえながら言った。
「おかしなことをいいますが、女たちにも魔がさすことがあります。ロペスさまの前で気が引けますが、女たちが道ならぬ恋をして、夫以外の男の子を産んだとしても、その子供は生涯なんの差別も受けません。子供たちには何の罪もないんです。女たちは長老から注意はされますが、ひどい咎めを受けることはありません。男と女の関係は平等です。どんな子供でもみんなのもの、部落中のものとして可愛がって育てられます。」
そう語り終わった頃には、西の空がやや明るくなっていた。
 律法、戒律で互いを拘束しあいながら、その実は、その裏では見えなければ何でもするというような陰湿な形骸化した愛の世界はこの蕨衆には存在しないのであろうか。ロペスは寛容の中にある人間の愛と共生の本音の世界を垣間見たように思った。  風がおさまり、雨も小止みになっていた。海岸に集まってきた人々の叫ぶ声が聞こえてきた。
 「おーい、死体があがったぞー」
 まだ高波が時折、打ち寄せてくる、もよりの砂浜には隣家の漁師の舟が大破して打ち上げられていた。父と子の体は船底に並んで、しっかりと綱で結わえられていたが、すでに二人ともこときれていた。取り縋っておらび泣いている妻女と子供たちを村人たちが慰めていた。
 長い歴史のなかで、台風の島、久賀島の海辺の部落ではこうした情景が幾たびとなく繰り返されてきたのであった。


第三三話 村祭りの夜の情景

 寄合所の評議では、今年はロペス号の入港という非常時でもあり、田之浦衆の射殺という事件があったあとでもあるから、折加美神社の秋祭りは中止しよう、という意見が出たが、武生らが、むしろこういう時だからこそ、島じゅうに賑やかに、明るい雰囲気をつくりだした方がよいと主張して、例年どおり祭礼が執り行われることになった。もちろん伝次らが、万一の事態に配慮して、ドミナ号の監視体制を強化し、鉄砲隊をひそかに久賀突堤と神社の森の背後に配置することを主張して認められたのはいうまでもない。
  その日の夕方、ロペスはたまきと武生に案内されて、秋祭りを見に行くことになった。ポルトガルでも一年の収穫を神に感謝する類似の祭礼があったが、これは全く同様な祭礼にことよせた一種のフェスティバルだと思った。久賀部落には昼間から景気のよい太鼓の音と笛の音がこだましていた。折加美神社の鳥居に入るまでの道路にはちょうちんをつけた屋台がいくつか並んでおり、子供たちの好物の飴や団子が売られていた。娘たちが集まっている屋台には財布や櫛や化粧道具が並んでいた。からくり人形の小屋には村人たちの行列が見られた。島中から集まってきた老若男女たちが嬉しそうに、楽しそうに、この神社の境内にあふれていた。たまきはこの島には昔から盗賊はいないと言った。狭い島社会では他人のものを盗む行為は必ず露見して、盗むことの意味がないのだという。今日もこれらの人々は全く戸締まりをしないでここに集まって来ているという。
 神社の正面には木箱が置かれていた。賽銭箱といって貨幣を投げ入れて神に感謝の寄付をするのだという。神官に金を渡して、御札をもらって家内安全や豊作の約束を取り付ける人々の姿も多かった。ロペスは今母国の周辺で大きな騒ぎになっている法王庁の免罪符のことを思い出した。しかし免罪符が本人の罪業の許しを願うものであるのに、ここでは賽銭が神に特別な現世的な恩恵を願う意味を持っている点が非常に違っていた。金銭で罪業の免除を願うのと、現世利益を願うのとどちらがより悪いのかという問題はあるだろう。しかし武生は、神社での賽銭とか御札の問題はあまり突き詰めて考えないほうがよい、金を出す本人も、はした金で幸運が買えるほど世の中が甘くないことはよく知っている、神様もそんなに金次第で運命を左右してくれるようないいかげんな存在ではないことはよくわかっているんですよ、といって笑った。あれは習慣であり、習俗であり、いわば神社への寄付行為であり、その時、そうすることによって本人の気が済めばそれでよいというような意味合いを持っているのです、と説明した。
 神殿では二人の娘が紅白の衣をまとって音楽に合わせて舞っていた。ロペスが始めてみる日本の舞踊であった。たまきが「みこ巫女のおかぐら神楽」だと教えてくれた。日本の音律は概して繊細で単調で哀愁を帯びていた。管楽器の一種と思われる「しょう笙の笛」「ひちりき篳篥」と時折打ち鳴らされる大太鼓や鼓、小太鼓の調べが神殿を囲む山あいに静かに広がっていった。
 音楽に特別な興味を持っているロペスはこれらの楽器について多くの質問をしたが、たまきはこれらの楽器の大部分は中国から伝えられたものであり、中には中近東からシルクロード絹の道といわれる経路を経てわが国にもたらされたものもある、と答えた。そして何時か、京都の宇治にある平等院の金堂の壁面に飾られてある「ぎがくてん妓楽天」をご覧になればよい、とすすめた。そこでは五〇数種類の楽器を持った天女の彫像がみられるということであった。
 神社に近い久賀の突堤沖に浮かんでいたドミナ号の船上にも祭りの太鼓の音が聞こえていた。折加美神社に集まる村人たちの姿が遠くに認められた。夜になると家々につるされた祭礼の提灯や神社前のたいまつの明かりが乗組員たちにも見えた。
 故郷に帰りたい、葡萄がたわわに実るイベリアやマリョルカの我が家に帰りたい。そして故郷の妻子や仲間たちと陽気な祭りを楽しみたい。遠くに見える村の祭りの灯火はもう一年以上も無味乾燥な船上生活を強いられている彼らの望郷心をかきたてた
。  「船員たちを上陸させましょうか。」と副長が甲板長に向かって言った。
 「大混乱になるよ。田之浦衆が興奮する。長老たちが許すはずがない。それに偶像礼拝の場に参加するなどとんでもない。やめたほうがよい。」
 機関長が笑って言った。
 「今上陸して、この島を占領するのは訳もないことだ。あの神社周辺に大筒を打ち込んで、あたりを修羅場にしておいてから、鉄砲隊を先頭に攻め込む。絶対に勝てる。在所の宿を占領してわが国の国旗を掲げる。いかがですか。」
 「まあ待て。それは船体の修理が終わってから考えよう。いつでも出来ることだ。それよりも今夜は船員たちに人質の娘たちのところへ行って、存分に楽しむようにさせてやれ。今日は特上の酒を出してやれ。こちらは毎日がお祭りだ。酒はたっぷり用意してある。」
 甲板長たちは声をそろえて笑った。
 ロペスたちは芝居小屋の前に佇んでいた
。  村人たちの年一度の最大の楽しみは芝居、踊り、狂言、漫才などの娯楽をたっぷりと携えて巡業してくる芝居一座の公演を見ることであった。一座は登りを建てた芝居舟に乗って毎年のようにやってきた。笛太鼓を鳴らして、秋の収穫が無事終わった喜びに湧く村村をめぐってきた。久賀島にはいつもこの時期にやってきた。一座の芸人たちは公演期間の間、長老の指示にしたがって民家に分宿した。子供たちにとって、それがまた最大の楽しみだった。
 久賀湾に太鼓を鳴らして陽気に入ってきた芝居衆の舟は今年は異様な三本マストの巨大な黒船が久賀突堤沖に停泊しているのに驚かされた。ドミナ号の側でも鳴り物入りで異様な芝居装束をした芸人たちを乗せた舟が入ってきたのは全く意外であった。一時は鉄砲隊が甲板上に呼び出されたほどであったが、しかしすぐに修理方の田之浦衆から、この舟が全く敵意を持っていない芸人たちの舟であることを聞いて了解した。
 祭りは最高潮を迎えていた。つるされた多数の提灯の下で、島中の若者たちが娘たちと混じって手振りよろしく踊っていた。それは伝承されてきた久賀踊りであり、歌われていたのは久賀島の民謡であった。単調な手振り身振りを繰り返す踊りの輪がいくつも出来ていた。時にはテンポが上がって陽気に腰を振るしぐさもあった。歌と踊りは何時終わるとも知れなかった。例年、翌朝までこの人々の恍惚とした踊りの輪は途切れることがないという。
 武生はたまきのいない所でロペスに語った。
「わが国ではこの収穫のあとの神社での祭礼と、そのあとの歌と踊りの習俗が古くから受け継がれてきました。昔からこのようなセレモニーは全国各地で行なわれており、「うたがき」と呼ばれています。この久賀の島でも、うたがきは若者たちが配偶者を見つけ出す絶好の機会になっています。」
 幾組みもの若者と娘たちが手を取りあって踊りの輪から抜け出して行った。そして鎮守の森の暗闇に消えていくのが見えた。決して逃げかくれする風情ではなかった。彼らには明るく陽気な微笑みがあった。人々の祝福が認められた。あちらこちらの木陰では若い男女が身を寄せ合って座っていた。
 「配偶者がおおよそきまった段階で、若者は娘の家に深夜通ってきます。私たちはこれを「よばい夜這い」などとよんでいます。いやこれは恥ずかしいことではありません。こそこそとするわけではありません。むしろ、これは公認のことであって、親たちが娘の寝所の板戸をあけておいて、若者が忍び込みやすい環境をこしらえてやっているのです。男は目的を達して明け方になって帰っていきますが、こうした期間がしばらく続いてから、始めて娘は結婚の意志を明らかにすることになります。」
 武生の言葉にロペスが口をはさんだ。
 「もしも娘さんが結婚したくないと言ったらどうなるのですか。」
「その時は男はきっぱりとあきらめねばなりません。未練がましい行動は男の恥ということになっています。この島では女が結婚の主導権を握っているのです。女系社会であるといえます。」
 「しかし女性の純潔と貞操はどういうことになるのですか。」
武生は女性の純潔と貞操を尊ぶのが西欧社会のモラルであることを豊後で学んで知っていた。同時に建前と現実が大違いであることも聞いていた。
 「純潔と貞操も勿論大事です。しかし結婚にとってもっと大事なのは二人の間にほんものの愛情が育つかどうかです。愛情が持てるかどうかの模索の時間を与えるのがこの風習の核心であるといえるでしょう。もしもかりに娘が身ごもったとしても、別れる時は別れます。出産した子は、そのつぎに結婚した男が自分の子供として分け隔てなく大切に愛しみ育てる、と言うのがこの島の流儀です。これは不道徳なことでしょうか。」
 ロペスは答えに窮した。今ドミナ号の船倉ではキリスト教の洗礼を受けた西欧人の乗組員たちが何をしているか、そのことを武生たちは全く知らない。純潔であれ、貞操であれ、踏みにじってきた男たちは帰国すれば何気ない顔をして家族とともに教会のミサに参列するに違いない。「うたがき」というこの習慣はかってローマ時代にも各地に存在した。キリスト教文明はこれを否定した。しかし、それは建前だけのことであるという事実が残った。支配階級も僧職までも生身の人間であると言う事実は変えられなかった。建前と本音の使い分けが巧妙に行なわれて、偽善という、より深刻な状況が残った。にもかかわらず、西欧文明は自分の流儀以外のありかたをただちに邪悪、不法、無知として批判し、非難してきた。異国、異郷の文化も宗教も習俗も時には武力をもって否定してきた。欺まんも殺戮も相手が未開人たちであるという理由で大目に見られてきた。ロペスは、複雑な心境になった。
 「年に一度の「うたがき」の場には早く夫を失った若妻たちが参加しても許されます。それどころか、夫と別れることを考えている妻たちがつぎの結婚相手を探すためにうたがきの列に加わっても認められます。これは、けなげに暮らしている人々の嘘偽りのない愛情の証しの交換の場になっています。」
 うたがきは最高潮に達していた。この島の暮らしと命を創り出す性と愛の証しを求めて、踊り歌う男と女の人の輪が、燃え上がるかがり火にあかあかと照らし出されていた。


第三四話  コスタとロペスの会話

 人質として在所の宿に預けられているコスタからぜひ相談したいことがあるという申し出を受けて、ロペスはある日の夕方彼を訪問することになった。
 コスタに与えられていた部屋は屋敷の奥まった独立した家屋で「はなれ離れ」と呼ばれていた。家人に案内されて、磨き上げられて黒光りのする板張りの長い廊下を通りながら、真横に日本式の庭園を見た。自然を模した小山、小川、池、樹木と岩石が不規則に、しかも見事な調和を保って配置されていた。灯篭と呼ばれる石の燭台がひっそりと置かれていた。飛び石といわれる踏み石をたどってコスタのいる離れ屋に入った。案内してきた家人が丁寧に一礼して去っていったあと、コスタとロペスは再会を喜び合った。
 「今日来ていただいたのは、お願いがあるからです。私はあの甲板長らが人質にとっている哀れな娘たちを何とか救い出したいのです。お力を御貸し頂けないでしょうか。」
 ロペスにとっても、三人の娘たちのことは最も心残りな、心痛む課題になっていた。ましてコスタは同じ船倉の牢獄に監禁されて、乗組員たちによる蛮行の現場を連日連夜目撃させられていた。
 何故にそのような非道が許されるのか、異教徒であり未開の人種であるというだけのことで、人を人として認めない。母国では絶対に許されない不道徳がここでは黙認されている、それは何故なのか。村人には見えない所で凌辱が繰り返されている、これは許せない。二人の意見は完全に一致していた。
 コスタにも、これまでの各地での命を懸けた戦闘のあとの、心身の荒廃、生き残った者の性のすさみと高まりは理解できていた。征服者における獣性の回復は古今の歴史の中で確かに否定できないことであった。被征服者に征服者の遺伝子を注入して、自民族の拡大を図ってきた本能的な人間の歴史があったことも事実であったろう。
 しかし、いかに命を懸けてかちとった勝利の代償であるとしても、殺される者の、犯される者の目にあふれていた涙、愛する者たちと別れる悲しみ、非業の運命にさらされた人々の痛みを省みようとしない人々の罪業は許されてよいのであろうか。
 「殺すなかれ。姦淫するなかれ。盗むなかれ。偽証を立つるなかれ。」聖書のいたるところにあるキリスト教の戒律は現実に西欧諸国の征服地、植民地の至る所で無視されてきた。後の時代になって、いつか大航海時代の私たち、西欧諸国の過ちは必ず世界の人々から批判を受けることになるであろう。コスタはそう思っていた。
 ロペスは言った。
 「だからこそ、神の前に私たちは救いがたい罪人であることを自覚せねばなりません。私たちは救われることが必要です。聖書のロマ書に、「すべての人罪を犯したれば、神の栄光を受くるに足らず。」とあります。我が兄弟コスタよ。私たちは罪人以外の何者でもないのです。伝道の書にも「タダシク正義して善を行い罪を犯すことなき人は世にあることなし。」と書かれています。キリストの救いはだからこそ意味を持つのです。イザヤ書にも「我らは皆潔からざる物の如くなり、我らの義はことごとく汚れたる衣のごとし。」聖書の世界では人の本性を正確に見抜いています。そしてその上でこの人の、自らのどうしようもない姿を、イザヤ書では「我らは皆羊の如く迷いて、おのおの、おのが道にむかい行けり。」と表現しています。迷える羊であるという現実に目覚めなければ、牧人としてのキリストの姿は見えてきません。
 あなたの今の心境はよく分かります。この原罪にまみれた私たちのためにヨハネは「人あらたに生まれずば、神の国を見ることあたわず。」と述べています。神はこのような私たちを救うためにキリストを遣わし給うたのです。今あなたがあらたに生まれるために、何をすることが必要なのかを考えねばなりません。」
 コスタは言った。  「おっしゃることはよくわかります。しかしよくあるような原罪の一般論に逃げ込んではならないと思います。私はここに来てからも娘たちのために祈り続けてきました。しかし祈ることだけでは問題が解決しないことを神が教えてくれました。剣をとって立て、「目には目をといえることあり」と聖書にもあります。私は剣をとってドミナ号に乗り込もうと思います。私たちには騎士道の誇りがあります。久賀衆がこれほど寛容で、私たちによくしてくれていることに対してもこのままではすみません。命がけで甲板長らの行為を止めさせねばなりません。これが私のたどり着いた結論です。」
 ロペスはしばらく考えてから言った。
 「あなたの気持ちはよく分かります。しかしもしあなたが逆に殺された場合に状況は一層悪くならないでしょうか。甲板長の剣の腕前はイベリアでも指折りのものであり、失礼ながらあなたよりもはるかに上です。それにいつも鉄砲隊を従えています。人質のはずのあなたが乗り込んでも問題にもされないのではありませんか。正面から武力で衝突するのでは双方に犠牲者が出ます。もしも人質の貴方がいなくなったら、娘たちとの人質交換も不可能になります。それよりも、武生らと協力して人質交換の時期を早くすることを考えるべきではありませんか。」
 コスタは武生たちに今の心境を知られるのを恐れていた。なぜこんなに娘たちの救出を焦っているのかを知られたくなかった。武生たちは娘たちがどのように惨めな生活を強いられているかを全く知らない。日本人が考えている人質の通念からは想像も出来ないような待遇が行なわれている事実を知るよしもない。武生たちに、現時点であらためて娘たちの救出を持ち出すことの真意が問われることを恐れていた。コスタは言った。
 「いや、この時期に、武生たちには救出問題を持ち出すことは絶対に出来ません。」
 重苦しい沈黙が二人の間に漂ったが、コスタはしばらく考えてからすがるように言った。 「ロペス様、それでは娘たちの釈放について交渉するために、私と二人で、ドミナ号に行っては頂けないでしょうか。そのあとのことは、そのうえで考えたいと思います。」
 「わかりました。急いでそうするようにしたいと思います。ただし剣を持ち込むことは固く禁じます。」
 深く肯いたロペスにコスタは言った。
 「私は、実のところ、このままではあの甲板長たちが船の修理が終りしだい、人質の娘たちを返さないで出港するようなことが起らないか、を非常に心配しています。事実、各国の外航船では、捕虜や奴隷を売り飛ばして金にかえることが平気で行なわれています。私を置き去りにして行く可能性もあります。とにかく何とか娘たちを急いで救出する方法を考えねばなりません。」
 ドミナ号の汽笛の音が聞こえてきた。それはいつもこの時刻になれば久賀湾に響き渡る異国からの横柄な進入者たちの咆哮であった。
 コスタが話題を変えて言った。
 「私はここにいて、出入りする村衆の会話が少しづつ理解できるようになってきましたが、実は伝次らの鍛冶職人がこともあろうに鉄砲を鋳造しているらしい気配を感じています。あなたはどう思いますか。」
 種子島に始めて鉄砲が伝来して以来、日本各地の大名たちは鉄砲の模作と量産を競い合っていた。この事実は当時来日していた多数の宣教師たちが法王庁や母国に書き送った報告書にも書かれていた。また中国の文書にも日本人が鉄砲を多数所持していることが記されていた。後に、種子島の伝来から五〇年後の時点で日本では二〇万挺というような信じがたい数の鉄砲が造られており、当時、世界一の軍事大国であったと報告されているほどであった。後年の朝鮮侵略が当初大勝利を博したのも、鉄砲が駆使されたからだということも記録には明かにされている。
 この久賀島でも、堺で修行してきた伝次がもたらした鉄砲製作技術はもともと倭寇の基地として鋳鉄、冶金の高い技術水準を持っていた田之浦衆に伝えられ、しかもたちまち模作の域を越えて火縄方式以上の撃鉄発射方式の鉄砲を製造することが可能になっていた
 ロペスは言った。
 「久賀衆の技術の水準は驚くほど高い。ドミナ号の船体の修理状況を見ていてもそれはよく分かります。そして非常に彼らは勤勉です。法王庁の文書では日本各地で鉄砲が作られているとありましたから、ここでも鉄砲が作られているかも知れません。
 そういえば私が布教の途中で、ザザレ細石流の海岸を歩いていた時に、ダーンと言う音が何回か断続的に聞こえてきました。私は同道していたたまきや村人たちに何の音かと尋ねましたが、彼らは首を振って「知らない」といいました。しかしその表情は何か変でした。もしもそれが雷鳴でなかったなら、相当数の鉄砲の射撃音であったと思います。武生たちにもこの話をしてみましたが、彼らはこのことでは「何も答えられない」の一点張りでした。」
 「もしも久賀衆が鉄砲を持つようになったら、そしてドミナ号と戦闘を交えるようになったら、おそらくドミナ号は永久に出航出来なくなるでしょう。たいへんな悲劇が発生するでしょう。何とかそれだけは食い止めねばなりません。」
 コスタはその時には娘たちの救出どころではなくなると思った。
 「久賀衆の技術力を馬鹿にしてはなりません。すぐれた知的好奇心と鋳造技術をあわせると、あるいは伝次たちの鋳造炉では鉄砲はおろか、大筒さえ製造することも決して不可能でない、ということかもしれません。」
 ロペスは最新の火砲が火を吹くような戦闘が始まれば、間違いなくこの狭い久賀湾に、この世の地獄が出現するだろうと思った。
 「この温和な久賀衆を馬鹿にしてはなりません。武生といい、たまきといい、村塾での教育では、印度、中国などの学問と武生や伝次がもたらした西欧の学問が広く学ばれています。倭寇がもたらした東南アジアや印度洋の最新情報なども伝えられています。村民の識字率などはわが国よりも高く、彼らはなぜか非常に教育熱心です。これは恐るべき人々です。
 村塾では体練と言う教科があり、医者の武生が武術を教えています。あなたも武生の剣の力をご覧になったように、久賀島の人々は武術のたしなみを持っています。中国、東南アジアを荒らしまわっているといわれる倭寇の基地が田之浦にあり、この島の若者たちがその倭寇衆に多数参加していることもご存知のとおりです。彼らを怒らせたらどういうことになるか。」
 ロペスはあらためてコスタに平和的な、絶対に血を流さない方法での問題の解決を強く望む、今剣をとって立ち上がっても結果は決してよくならない、と諭した。そしてもう少し情勢を見てから、必ず自分が同行してドミナ号に行くと約束して帰っていった。
 禅門寺の鐘の音が真っ暗な夜の久賀湾に低く長く響き渡った。仏教では「諸行無常の鐘の音」という、どうしようもない絶望の淵にある人々を悟りの境地に導くという、ロペスはこの仏の道が今では少しは理解出来るように思えた。


第三五話  ロペスの布教活動

 ロペスは宣教師としての本来の使命をはたすために、ひたすら布教活動のありかたを検討した。まず布教の前提として、日本人の特徴を把握することに努めたが、とくに直接の対象である、この久賀島というこの地域の特殊性、人々の気風、自治の形態、教育体制、産業経済などの実態を知るために、武生を始めとする多くの人々の意見を繰り返し聞くことにした。その結果として、この島にキリストの教えをひろめることの意義が非常に大きいと確信できるようになった。かってフランシスコ・ザビエルが日本を東洋で最も興味のある伝導の地である、とした理由もよくわかった。
 母国を出発するまでに目を通してきたイエズス会の宣教師たちの日本からの膨大な報告書にも日本本土の当時の情勢がよく解析されていた。ロペスはいずれは本土中央の京都、大阪、堺、江戸などに行きたいと思ったが、それ以前に今、この久賀島という、おそらく日本列島の些細な僻地であるにちがいないこの地域ですら、すぐれた人材があり、行き届いた教育が行なわれていることに非常に驚いていた。
 この島で、まず人々を神デウスの教えにめざめさせる、それが神が与え給うた使命である。それから長崎へ、平戸へ、豊後、山口を通って、いずれは京都に行こう、そう思っていた。
 ロペスは長老に新しい神の教えをのべ伝えることについて許諾を得たいと申し出た。ロペスは公的な認証のもとで正々堂々と教えをひろめるべきだ、と思った。長老は定例の評定の場にこの件を持ち出して村衆の了承を取り付けた。禅門寺の住職、折加美神社の神官からも了解が得られた。特に禅尊はロペスとすでに会って話したことがあり、信仰が個人の選択によって選ばれるべきものであると言う点でロペスと意見が一致していた。
ロペスの布教については武生が全面的に協力した。村塾の施設を使うことも了承した。ロペスの日本語は相当に上達していたが、たまきがたえず同行して各地域を案内することになった。
 ロペスは村塾の一室にたまたま置いてあった活版印刷機械を見て非常に驚いた。ロペスは東洋には中国の木版印刷や朝鮮の鋳造銅活字印刷しかなく、いずれも活字版の上に紙を置き、その裏からはけでこするといった方法で印刷されているという報告を受けていたが、西欧ではグーテンベルグが一五世紀に発明した活版印刷の方法がさらに改良されていた。事業家フストはこれを用いて、四十二行聖書(詩編)などを印刷していた。ロペスはローマでの修学時代にこのような印刷機で刷り上げられたテキストで勉学した。
 ところが日本にはない、と聞いていたはずの活版印刷機がここ久賀島の村塾の一隅に置かれていたのである。聞いてみると、やはり伝次が堺で修行中にポルトガル人の説明を受け、田之浦に帰ってから図面を引いて、苦心の末についに完成させたということであった。活字本体の製作も伝次の進んだ鋳造技術の成果であった。
 ロペスは武生と伝次にたのんで、この印刷機械を主として、「すきりつうら」、すなわち聖書の重要部分の要約などの伝道用の書き物を増し刷りするために使用する許可を得た。日本文への翻訳にあたっては武生やたまきが協力したことはいうまでもない。
 さらにロペスは村塾の講堂の大広間とそこに置かれているオルガンの使用を申し出たが、夕刻以降の使用が許された。武生は前回のロペスの演奏を聞いていた村人たちがもう一度、演奏を聞きたいと言っている事にも配慮した。
 ロペスは久賀衆の知的好奇心の旺盛さと識字率の高さを最大限に活用して、夜の時間の村塾を新しいキリストの教えを知らせるための拠点として全面的に活用することにした。
 それはある晴れた日の、夕焼けが美しいひとときのことであった。村塾のあたりからオルガンの調べがりょうりょう喨喨と響いていた。これを聞きつけた野良仕事を終えて家路を急ぐ村人たちが、大講堂の広間に三々五々集まってきて、ロペスによって演奏されている不思議な音楽に酔うように聞き入っていた。耳なれた日本の音楽よりも、はるかに高い音階が、あるいははるかに低い音階がリズミカル律動的に流れてくる。音の拡散と収斂が力強く行なわれる。信仰心のあつい作曲者によってつくられた、その中世の音楽はまるで天国もかくやと思われるほど美しかった。ロペスは時折目をつむって、故郷の教会の礼拝で演奏していた、かっての日々のことを思い出しながら、ひたすらに鍵盤を押し続けていた。  何時の間にか大広間にいっぱいになった村人たちは日本の僧侶が決してしないであろう、このような楽器を演奏する西欧の黒衣の僧侶がここにいて、彼が新しい信仰をひろめるためにやってきたことを確かに認めることが出来た。
 演奏がやんだあと、たまきたちがきれいに印刷された紙片を配って歩いた。そこには 「人の罪、救いと赦し、デウス様の愛」とだけ、大きく書かれていた。
 ロペスが会衆の前に立って話し出した。
 「久賀島の皆様、私は遠い唐天竺の向こうのポルトガルという国から、新しい信仰を広げるためにここにやってきました。あなた方は今、神様、仏様を信心しています。天照大神とお釈迦様を中心とした沢山の神神と仏様があなた方を守ってこられました。けれどもこの新しい私たちの教えでは信心はただひとりの神様であるデウス様に捧げられます。」
 村人たちは始めて唯一の神の存在を知った。会場は静まり返っていた。ロペスは語り続けた。
 「私が今演奏していた音楽はこの唯一の神デウス様に捧げるためにつくられました。西欧では七日ごとに巡ってくる憩いの日、祈りの日に教会と言う寺院のこのような広間で音楽が奏でられます。そうです。皆様のお経のように、ミサ曲という讃美の調べを村中のみんなで歌います。」
 そう言いながらロペスは美しいテナーの声を張り上げて、「主よ、恵みを」という聖歌の一節を歌った。その調べは透き通るように美しく、人々の心をうった。
 「この歌は、デウス様が私たちの悩みや苦しみや悲しみを癒し給うようにお祈りする時の歌です。」
 ロペスは一冊の分厚い書物を取り出した。
 「これはデウス様について書かれた本です。「どちりな・きりしたん」といいます。私たちの信心の入門書です。これからは私がこの書物について、ここで、毎週の中日の夜にお話をすることにします。聖書研究会を開きます。どうかお聞きになりたい方々は御出でください。美しくて楽しいオルガンの調べもお聞かせしますよ。」
 「どちりな・きりしたん」はザビエルがマラッカに滞在して布教活動をしていた時に、 来日にあたって最初に準備したキリスト教入門書であった。したがって当時来日した宣教師にとって最も重要なテキストとされていた。宣教師用のローマ字本と日本人用の国字本があったが、ロペスが持参していたのは、そのうちの国字本であった。ロペスはこの本からの引用文をたびたび印刷機で刷り増しして村中に配り、伝導用に用いることにした。
 「この本にはこう書かれています。「罪を犯したことのない人は世の中に一人もない。」(伝道書)私たちは罪業に汚れています。このままでは救われません。私たちはこのことをまず最初に正しく認めねばなりません。あなた方は修行して、悟れば仏になれると学んできました。しかし本当に人が悟りの境地に達することが出来るのでしょうか。人が人である限り、悩み、悲しみ、苦しむのです。それは人が永遠に罪を担った存在であるからです。
 「人の自ら見て正しとする道にして、その終りはついに死に至る途となるものあり。」(しん言)と書かれています。自分は正しいと思っていても間違っていることがあるのです。私たちは私たち自身を救うことは決して出来ないのです。別のところには「我らはみな潔からざる物の如くなり、われらの義はことごとく汚れたる衣の如し」(イザヤ書)とも書かれています。」
 村人たちは、あらためて自分自身の毎日の生活を振り返ってみた。死者たちとの悲しい別れがあった。つい先日の台風で蕨衆の漁民が遭難して亡くなった。突然の紅毛の船の侵入で略奪があり、娘たちが拉致された。悲しみ、苦しみは絶えることがない。神だのみもしている。菩薩様にも祈っている。しかしこの苦しみはなくならない。この新しい信心ではその同じ苦しみを自分が罪人であるからと認めた上で、どうしようというのであろうか。  ロペスは言った。
 「私たちの信心では「人あらたに生まれずば、神の国を見ること能わず」(ヨハネ伝)とされています。あらたに生まれ変ることによってのみ救われるのです。」
村人たちは、「あらたに生れ変わる」ということがどういうことなのか、という一点に関心を持つようになった。ロペスはその答えをなかなか言出そうとはしなかった。
ロペスはここでまたオルガンに向かった。荘厳な中世のミサ曲が夜のしじまのなかに流れた。


第三六話  ロペスの布教方針と音楽の位置づけ

 キリスト教と音楽には歴史的に切っても切れない関係があるのは周知のことである。ロペスはオルガンという西洋音楽の精髄を伝道に駆使することを考えた。日本の人々がはじめて聞く西洋音楽と西洋楽器の醸し出す音響はキリスト教の「ぱらいぞ」すなわちパラダイスを連想させるものとして、あるいはすべての日本の人々が希求する極楽浄土を象徴するものとして役立つのではなかろうか、と思った。オルガンを聞く村人たちの満ち足りた表情は予想以上のものであった。
 オルガンが奏でる洋楽は、単調で幽玄な、そして枯淡な和楽とは、音階、音域、リズム、メロディーのすべての点で対照的であり、非常に異なっていた。日本の人々にとってそれは始めて聞く調べであり、異国の人が弾く異郷の音楽であり、全く新しい信仰を象徴するものとなる。
 ロペスはすばらしい選択をした。
 今、村人の新しい信仰のための感性は研ぎ澄まされようとしている。人々を感動させたのは、オルガンの演奏が醸し出す特異な、これまで全く耳にしたことのない音列と音量の反復であり変化であり、魂を揺り動かすようなクレッシェンドとディミュニエンドであり、音間隔の配列であり、メロディーの展開であり、テンポのアップ、ダウンであり、音調、音感のニュアンスが感じられる独特のパッセージであった。気高く、厳かに、楽しく、甘く、感性をいちずに高揚させるその音楽はあたかも天国のありようを象徴するものとして人々に受け入れられていった。
 ロペスが奏でた音楽は荘厳なミサ曲ばかりではなかった。人々の雰囲気に応じて、出身地のイベリア半島の、あるいはマリョルカ島の、海蒼き地中海の歴史、文化が凝縮された民謡や舞踏の調べも演奏することがあった。人々の祈りと暮らしの表現としてのそれらの音楽の調べがここ異郷の、しかし同じ海の故郷、久賀島の村人たちの胸をうつたのも当然のことであったのかもしれない。
 ロペスは演奏の合間に巧みに、唯一神デウスのこと、そのつかわし給いし神様のひとり子キリストのこと、十字架の救いのことを、まださほど流暢ではない日本の言葉でとつとつと話した。そしてそのことがまた村人たちに新鮮に迎えられた。
ロペスの布教方針は正確につくられていた。すでに日本に渡来していたザビエル以来の多数の宣教師たちの報告書を綿密に検討した結果であった。この考え方は久賀島の現実に触れる中で大きく変更が加えられた。そしてつぎのような方針が彼の本国への報告書には具体的に記載されていた。
 (一)人々の集合と参加の現場を重視する。
   聖書研究会を週一回持つ。安息日についての理解を深めて、   ミサへの参加を奨励する。村塾でのオルガン演奏を聞く人々   の集まりを重視する。街角に出て、可能な限り人々の集まり   のなかにいることを心がける。
 (二)公的な認可と支持をとりつける
長老、村衆の認可と支援を要請する。村塾の教室と大広間を   利用することについて武生らの支持を得る。村の主要な人物   の了解をとりつける。ザビエルらの先輩たちが京都や豊後な   どでしたように、地域の首長の認可をうることに全力をつく   す。ただしザビエルらは当時の将軍と朝廷のいずれが真の日   本の王であるかに迷ったという。
 (三)既存の神道、仏教、儒教などを攻撃しない。
折加美神社、禅門寺との関係に配慮する。安易に偶像崇拝な   どと非難しない。個人が選択するそれぞれの信仰を尊重する。   共存、共生をはかる。この点では従来のイエズス会の宣教師   たちとは異なった方針を採る。
 (四)聖書の言葉を証しする。
   聖書の物語りは日本人には非常によく理解される。すべては聖書を基本として語り  かける。
 (五)キリストの十字架の意義を最も重視する。
   十字架は既存のあらゆる日本の宗教との唯一の相違点である。十字架の意義を理解  しないでキリスト教の信仰はありえない。
 (六)音楽の効果を活用する。
オルガン演奏による西洋音楽の効果が確かめられている。論    理だけでなく、人々の感性に迫るために活用する。
 (七)文書活動を重視する。
最新の印刷機械をもちいた文書を配布する。村人たちは印刷   物の鮮明さに驚いて食い入るように読んでいる。
 (八)描画の効果を活用する。
配布する紙片には、遠近画法に基づいた、可能な限り写実的   な絵画を書く。村人は非常に興味を示す。遠近画法は日本で   は未だに用いられていない。
 (九)介護、医療にも協力する。
西洋医学を修めた医師 武生らと協力し、病める者、足なえ    の者、年老いたる者、気の狂いたる者、弱き者たちの癒しと    介護に力をつくす。イエズス会では宣教師の医療行為を禁じ    ようとしているが、武生との協力の中で可能な限り、力をつ    くす。
 (一〇)労働に参加する。
村人の勤労の場に参加して、汗を流す。田畑に下り立って共   に働く。舟に乗って共に漁労に従事する。一緒になって網を   曳く。
 (一一)華美な服装は着用しない。
安息日のミサの日でも質素な僧衣を着用する。平素はいつで    も労働可能な服装をするように心がける。
 (一二)究極の目標の達成を常に念頭におく。
究極の目標は人々がデウスとキリストと聖霊を認めること   にある。
さらに罪を告白し、救いを求めて信仰を言い表わし、聖なる   バプテスマ(洗礼)を受けてキリシタンに帰依することにあ   る。

 ロペスはこの久賀島の明日を担う村塾の子供たち、村の若者たちが新しい神の教えに関心を持ってくれていることを最も心強く思っていた。出来れば自分の周辺にあって布教を助けてくれる弟子たちが現れることを切望していた。また、あらゆる治療の効果がなく、長らく病の床にあって、ロペスに救いを求めてくる人々を大切にしたいと願っていた。そして何よりも、布教を成功させる上で、現に久賀湾上に居座って村人の心情に重くのしかかっているドミナ号に、人質として囚われている娘たちを救助することに全力を投じる必要があると思っていた。


第三七話  ロペスの説教を聴く

 ロペスは村塾の大広間で、あるいは街角に立って説教を続けた。次第に彼の言葉は村人たちの間に浸透していった。新しい信仰の骨格が徐々に理解されていった。この新しい宗教にも天国「ぱらいぞ」と地獄「いんふぇるの」という日本人の既存の宗教的な枠組みに近い概念があることが共感を得た。絶対者としての神デウスの存在もすべてのものの始まりを支配する仏教の大日如来との対比である程度わからせることが出来た。要するに、人間と隔絶した絶対者が存在することを理解させるのは日本人にとって、それほど困難なことではなかった。
 「始めに言葉あり。言葉は神とともにあり。言葉は神なりき。」というヨハネ伝の冒頭の本来難解なはずの聖句も日本人には意外に早く理解された。しかし問題はキリストの救いの概念という、日本人の既存の宗教観にはない考え方をどのように納得させるかであった。  ロペスはすでに、人々が救われねばならない存在であることを強調してきた。人々が自ら罪人であることを認めるように全力をつくしてきた。それがすべての出発点であると考えてきた。そしてこの汚れ果てた自分自身を自らの力では完全に救うことが出来ないことも自覚するように導いていった。ロペスは「オキテ律法の行為によりては、一人だに神の前に義とせられず、律法によりて罪は知らるるなり。」(ロマ書)との教えを示してきた。この世にはパリサイ人の偽善が充満していることも語ってきた。
 そして人々が自らの救いについて深く考えるようになった時に、ロペスは始めて「汝らはめぐみ恩恵により、信仰によりて救われたり、是おのれによるにあらず、神の賜物なり、行為によるにあらず、これ誇る者のなからんためなり」(エペソ書)の言葉を引用した。 信仰によってのみ救われる、という概念は、念仏によってのみ救われるとするこの国の既存の宗教観とも一部相応していたが、神の一方的な恩恵によって、信仰によってのみ救われることが強調された。キリストの教えでは、救いが人によってかちとられるものでなく、神から与えられるものであることを、したがって自ずから感謝の思いが生まれることを理解するようになった。
 ロペスは「これらの事は皆神より出ず、神はキリストによりて我らを己とやわ和らがしめ、かつ和らがしむるつとめ職を我らに授けたまへり。」(コリント後書)の言葉を説いた。神はキリストという独り子を遣わして我らを救い給うたことを、十字架の苦しみを担って私たちのために殺されたキリストの愛について、ロペスは心を込めて、ていねいに語り続けた。「それ神はその独子を賜う程に世を愛したまえり、凡て彼を信ずる者をして永遠の生命を得んがためなり」(ヨハネ伝)という聖句がある、神の愛のゆえにキリストが降臨し、キリストを信じる者が永遠の生命を得る、というこの神とキリストと自分との関係を熱心に説き続けた。
 ロペスはそのとき、「神の愛をたたえるために」、「神の愛に感謝するために」といって、オルガンの前に座ってしばらく祈った。そしてそのあとで荘厳なミサ曲を演奏した。村人たちは感動して、陶酔して、自然とロペスのように祈る姿勢をとるようになった。
 ロペスの村塾の大広間での説教は村中の人々の関心の的になった。とりわけ村塾の子供たちがロペスを慕って集まってくるようになった。ロペスは子供たちをひとしお可愛がった。彼が時折座興にして見せた西洋の魔術、手品には感嘆の声があがった。彼が描いた西洋の絵画は村中の子供たちの宝物になった。


第三八話 村人たちの反応

ロペスの、聖書の言葉に基づいて、十分に理詰めでありながら、しかも村人たちの感性に訴える布教の方法は成功した。当時の中央といわず、地方といわず、戦国騒乱の世の中で、力のある者だけが勝ち残る混沌とした世情の中で、祈っても、願っても、お念仏を唱えても、どんなに修行に励んでも、依然として惨めな、不幸で悩み多い境遇を逃れることが出来ない、どこまで行っても救いのない閉塞状態にあった人々にとって、救いが与えられると言う、全く新しい信仰が注目されたのは当然のことであった。当時の儒教や仏教や神道にある厳しい戒律の世界が実は矛盾と欺瞞に満ちたものであるという実感もすでに人々の心中にあった。その欠陥を正面から指摘して、おきて律法によっては絶対に救われることはない、と言い切る新しい信心が説得力を持つようになったのも十分に理解できる。村人たちは次第にロペスの言葉を受け入れるようになっていった。
聖書の言葉をわかりやすく示したロペスの刷り物は村中に行き渡った。ロペスが遠近画法で描いたみごとなさし絵の入ったこの書き物は全く目新しい印刷物として、興味深く大切に取り扱われた。
村塾での集会を始めとして、ロペスがたまきを伴って行くさきざきの集会には人々が多数押しかけるようになった。特に村塾でのロペスの演奏とロペスの歌う、故郷の、地中海の民謡の調べは人々をとりこにした。ローマの神学校の聖歌隊で鍛え上げたテノールの歌唱力はすばらしい効果を発揮した。たとえ言葉が通じなくても、人々に歌の心は理解できた。その同じロペスの語る信仰の言葉が次第に確実に村人の心を捉えるようになっていった。 子供たちがロペスにあわせて歌うようになった。ロペスは武生にすすめて、洋楽を村塾で教えるようにした。子どもたちは間もなくすばらしい、天使のような声でミサ曲を歌うようになった。ロペスは彼らの前に立って指揮棒をふるった。数ヶ月前まで、誰がこのような光景がこの島に見られることを想像出来たであろうか。
ロペスは何時の日にか、この久賀島に教会が建てられて、ステンドグラスごしにもれてくる七色の光の中で、そして十字架のキリスト像の前で、真っ白いガウンを着た子供たちの聖歌隊が神の誉め歌を歌う光景が見られる日がくることを夢見ていた。
ロペスの前に集まってきた病めるものたちはロペスの祈りによって、病が癒されたと証言するようになった。足なえの者たちが立ち上がって歩けるようになったという噂が広がった。これは武生らとの協力の下で行なわれた周到な医療によって始めて可能となった事実であり、決して奇跡などではなかった。しかし新しい教えの新鮮で強烈な感動が心身に新しい活力を吹き込んで、信じられないような現象を生み出すようになったことも一概に否定することは出来なかった。新しいキリストの教えは次第にこの久賀島に広がっていった。 しかし、武生は、現に久賀湾上に黒々とした巨体を横たえて居座っている悪魔のようなドミナ号と、これに乗ってきたロペスという、喜びと希望をもたらして神の救いを説いている一人の僧侶とのコントラストが次第に際立ってきたことをひしひしと感じ取っていた。突如として舞い込んできた災厄の元凶と天国の予言者の共存という久賀島始まって以来の事態がここに同時並行的に展開していた。そしてこの矛盾が何時どういう形で解消される日が来るのかを考えあぐんでいたた。
人々は天国、キリスト、そして十二人の使徒たちについて語るロペスの来訪を待ちわびるようになった。異郷の、いわば、西洋の神話を聞くように、聖書の物語が理解されていった。人々は反逆者ユダの悲しい話に下克上の今日の世相を見たように思った。娘たちは最後の晩餐でのキリストの心を思って涙した。使徒パウロが諸国を遍歴して、目からうろこが落ちるような体験をしたこと、どのような苦難にあっても、「すべてのことあい働きて、益となる」といったこと、それらは村人たちの日常の諸体験と重なって、すなおに心に染みとおって行った。そして聖書の言葉はいつでも励ましと力を与えるようになった。そのような新しい信心に帰依しようとする願望が久賀島の各地に次第に大きく育っていった。 村人たちが最も興味を示した説話をいくつかここで紹介しておくことにしよう。
その一は、キリストの誕生当時のローマ支配の過酷さの物語であった。これは村人たちの宇久藩による税収奪の厳しさ、侍たちの支配の不条理を怒って一揆を起した先祖たちの物語を思い出させた。
その二は、マリア様の懐妊とキリストの誕生の物語であった。三人の博士がベツレヘムの星を目指して祝福にやってくる。西洋ではクリスマスといって村中でお祝いをするという、暖かい、楽しい、嬉しい、喜びにあふれたロペスの話に村人たちは聞き入った。馬小屋のマブネ馬糟の中に生まれ給いしマリアの子、それこそが救い主キリスト、神のひとり子であった。キリストは決して王侯貴族の子として生まれたのではなかった。マリアの処女懐胎は素直に受け入れられた。神様に出来ないことはない。人には出来ないことを神様が証明したのだ。神様が人の世に分身を送りこむために、そうし給うたのであって、極めて当然のことだ、と考えた。
その三はキリストの布教の物語であった。各地を歩いてパリサイ人たちと対決する。弟子たちを見出す。そして何よりも、あのすばらしい山上の垂訓の一言一言は村人たちの心にしみた。それは既存の日本人の道徳律と決して矛盾するものではなかった。キリストの言葉は常に弱き者のためにあった。貧しき者のためにあった。野の百合のたとえは美しかった。一粒の麦のたとえは農民たちの心にしみわたった。素朴なたとえの中にそれぞれの人生を改めて深く考えさせてくれた。
その四は姦淫していた女に石を投げていたパリサイ人に「汝らのうち罪無き者まず石を投げうて」といい、女を諭して行かせた、というキリストの話であった。人を裁くことの出来る資格は何人にもない、罪人の自覚がこれほど身にしみた説教はなかった。
その五は、最後の晩餐の悲しい別れの話であった。ユダの裏切りを知りつつ許したキリストの存在感は、ロペスがかって感動したレオナルド・ダビンチの最後の晩餐図を思い出しながら心をこめて描いたさし絵によって非常に強く村人たちに迫ってきた。
その五は、十字架を背負って、茨の冠をさせられて、刑場への道を喘ぎながら歩いたキリストの話であった。そのような事例は既存の日本人の信仰の中には全くなかったことであった。十字架上で盗賊と並んで磔の刑に処せられたキリストの話に涙を流す多くの村人たちがあった。
その六は、そのキリストの復活の話であった。復活と言う概念は日本の宗教にはなかっただけに最も印象的に受け取られた。そのキリストの死を最も悲しんだのがマグダラのマリアという、かってもっとも蔑まれる位置にいた娼婦であったということも、如何にキリストが庶民の味方であったかを物語っていた。姦淫の罪を許して彼女を最も優れた信仰者に変えていったという、このキリストの話もたいへん注目された。
その七は、一二人の使徒たちが各地を回って行なった伝道の物語りであった。特にパウロがさまざまな迫害にあいながら、キリストの教えを広めていく、その人間味あふれた説話は人々を魅了した。
その八は、聖書の全体に描かれているキリストとその使徒たちが常に貧しい者、弱者の側にあって、支配するもの、この世の権威、体制の側にはいなかったという事実であった。抑圧に抵抗して、魂の自由を求めて、武力、暴力には依存しないで、正義、信義、信仰によって、不条理と戦ったと言うことであった。
その九は、百匹の羊よりも一匹の羊の救いを追求する神の愛の純粋至高の心であった。こうした愛の概念はわが国にはなかった新鮮な響きでもって迎えられた。
そして最後に、その十は、殉教という抑圧を撥ね返す人々の死の形についてであった。わが国にある切腹と言う、死の儀式は来日した多くの宣教師たちをひどく驚かせたが、従容として死に殉じた使徒、信仰者たちの話は村人たちに正しく理解された。殉教した多数の信徒たちによって大きく全世界に広がった信仰こそがこの新しい教えであることに村人たちは感動した。
それから丁度三〇〇年後の一八六八年に、この久賀島こそがそのキリシタン信仰のゆえに多数の殉教者を天国に送らねばならなかった、その紛れもない現地になることを、その時には何人も知ることは出来なかった。


第三九話  最初の信仰の告白

 ロペスの説教は今夜も行なわれていた
。  村人たちは見事なロペスの受難曲の演奏を聞いた後で、たまきによって配られた印刷物を手に取りながら彼の話に聞きいっていた。村人たちはこれまでに、自分たちが救われねばならない、まさしく罪人そのものであることを認めてきたが、そのうえで、どうすれば救われるのかの一点こそを知りたがっていた。
ロペスは聖書にある次の言葉を示した。
 「汝口にてイエスを主と言いあらわし、心にて神の之を死人の中より甦らせ給いしことを信ぜば救わるべし。それ人は心に信じて義とせられ、口に言いあらわして救わるるなり。」(ロマ書)
 人々の前にイエスを主と言いあらわすことが救われるために必要である。この信仰の救いは、自分をキリストの僕であるということを、人々の前に、告白し、証言することによってのみ可能となる。ロペスは熱心に説いた。それは、いわばキリストの教えを受け入れたことの証明であり、もっとも重要なことであると強調した。
「キリストが主であることを認めた者には、「ばうちずも」(洗礼・バプテスマ)を授けます。」
 ロペスの朗々とした声が響き渡った。人々がその信仰の諾否を自らに問う時期に来たことは明らかだった。ロペスは続けた。
「聖書には「神はみこころ御意を成さんがために汝らのうちに働き汝らをしてこころざし志望をたて、わざ業を行わしめ給えばなり。」(ピリピ書)と書かれています。神はいま、あなたがたのひとりひとりに働きかけておられます。」
励ましの祈りが続いた。会場は高揚していた。この久賀島に最初のキリシタンが生まれようとする瞬間であった。
 「私は神を信じます。」澄み切った声で最初に立ち上がったのは、たまきであった。凛々しかった。美しかった。気高かった。人々は注目した。長老の娘、武生の許婚、久賀島一番の、女性の鑑とされてきたたまきがキリストの神を受け入れた。たまきが久賀島最初のキリシタンになる。静寂が破れた。続いて二名の娘たち、九名の若者たちがつぎつぎに立ち上がった。「私も信仰を受け入れます。」その声が会場のあちこちにこだました。奇しくも一二使徒と同じ数の若者たちがその夜、信仰を告白したのであった。
ロペスは感激した。涙があふれてきた。ついに最初の信者たちがジパングのこの島に、自分の宣教の成果として誕生しようとしている。神の恩寵を感謝しないではおれなかった。両の目に感動の涙があふれてきた。たまきが最初に名乗りをあげたことがひとしお嬉しかった。ロペスは会場の村人たちに言った。
 「皆様、感謝の祈りを捧げましょう。主は今私たちと共に、ここにいまします。主よ、あなたのしもべ僕になることを告白した多くの兄弟姉妹たちとこの島に住む多くの人々とともに、あなたの限りない恩寵に感謝いたします。父と子と精霊の御名において、アーメン」
 村人たちは深深と頭を下げて、ごく自然にロペスがするように胸元で十字を切るしぐさをした。
 会衆が去った後、ロペスは一二人の信仰を告白した若者たちを集めてあらためて深い、深い感謝の祈りを捧げた。そしてそのあと、オ・グロリオザ・ドミナ(栄光の聖母・マリア讃歌)のオルガン曲を弾いた。至福の時であった。若者たちはこの世の天国を味わうように思った。


第四〇話 「ばうちずも」のための修練

 久賀島で最初のキリシタンを誕生させるために、ロペスは、ばうちずものための教育、修練に全力を投入することにした。
 ロペスは信仰を告白してキリシタンになることを決意した若者たち一二名をたびたび自分の宿舎に招いてさらに奥深いキリスト教の教義について教育した。学び、考え、そして常に祈りながら次第次第に彼らがキリシタンとしてふさわしい存在になるように導いていった。
 ロペスは彼らを核にして信仰をこの島に、全五島に広めようと決心していた。したがって、ばうちずもまでに十分な時間をかけようと思っていた。
 ゆくゆくはいくつもの天主堂を各地に建立して、この一二弟子とともにこの島にもっと大きな信仰の輪を広げたい。そのために必要なすべてのことを教えようとした。
 たまきには教会の聖歌隊の伴奏をさせるためにオルガンを教えることにした。彼女の手指の器用さと音感の確かさにはロペスは舌を巻いた。彼女にはみごとな絶対音感があった。和楽とは全く異なった音律を容易に受けいれたばかりか、楽譜までたちまち理解して、彼女は急速に上達して行った。たまきの弾くオルガンの回りには村の娘たちがいつも大勢群がってきて、その鍵盤を縦横に走る真っ白い指先をじっと見詰めていた。
 ロペスが用意したものはイエズス会が準備した日本人向きの教則本であった。彼はドミナ号を再三訪れて、母国から携行したこれらの書物を取り出して、その重要部分を印刷して生徒たちに配布した。
 何よりも繁用されたのは入門書の「ドチリナ・キリシタン」(公教要理)の和訳本であった。そのほか、教理書としての福音書、オラショ類や告白の手引書「さるばとるむんじ」などがあり、修道、信心書には「コンテムスツムンジ」や「ヒイデスの導師」、「ぎゃどぺかどる」などの観想書(キリストとの個人的な対話書)などがあった。また日常的な生活の模範書などもあった。これらはいずれもヨーロッパでかってベストセラーになったものの和訳であったが、ドチリナのように布教地日本の風習に会わせた教理説明を行って、現地適応の柔軟な姿勢がとられていたものもあった。
 どちりな・きりしたんに「言葉は俗の耳に近く、義はデウスの高き理を現す」とあるように、平易ではあるが美しい、奥深い日本語訳がつけられたテキストが多かった。これらのすぐれたイエズス会の教則本が「当時の日本人、中でも知識人の魂を強くゆさぶり、武士道のバックボーンとなり、 殉教という壮絶な死に方をも敢えて甘受する力をもたらし た」とする文献が後日したためられたほどである。
 キリスト者としての修練にも力が入れられた。「善き業をもたらす」ために厳しい自己練成が課せられた。ロペスは好んでつぎのような聖書の言葉を引用した。
「我が兄弟よ、人自ら信仰ありといいて、もしおこない行為なくば、なんの益かあらん。 かかる信仰は彼を救い得んや。」(ヤコブ書)
 「われ汝らがこれらにつきて確証せんことを欲す、神を信じたるものをして慎みて良き業を務めしめんがためなり。」(テトス書)
 一二人の洗礼志願者たちはよく学び、よく行った。昼間はそれぞれに生業に努めながら、夜は村塾のロペスのもとに集まって、ひたすら聖書を学んだ。行いを正すと言う点ではすでに彼らには仏教、儒教の素養があった。厳しい戒律に耐えることは彼らにとってさほど問題ではなかった。しかし従来の日本人の徳目の中ではさほど重視されていなかった、回りの「弱きもの」への奉仕、救済という新しい献身のありかたについては大いに学ぶとこ ろがあった。
 ロペスはドチリナ・キリシタンの中に後年記載されることになったキリスト者のための一四ヶ条を具体的に示した。
 一 飢えたる者に食を与える
 二 渇したる者に飲物を飲ます
 三 裸の者に衣類を与える
 四 病人をいたわり見舞う
 五 旅人に宿を貸す
 六 囚人の身元引受人になる
 七 無縁の死骸を納骨する
 八 人に良き意見を加える
 九 無知なる人に道理を教える
 十 悲しみの者をなだめる
 十一 折檻すべき者を折檻する
 十二 恥辱を堪忍する
 十三 隣人の至らぬ事を赦す
 特にこの中で愛、慈悲の掟を「第一肝要の事」として、キリスト者がこの教えを国中に広めていけば「たがいに殺し殺される猛きけだものの住処」であるこの世も必ずや「ぱらいそ・てりある」(地上の楽園)になると教えた。
 キリストの教えのなかで、愛という概念の新しさが一二人の若者たちの心を捉えた。彼らは人の愛エロスがひいては神の愛アガペエに昇華され、包摂され、祝福されるようなものであってこそ、本当の人の幸せがあり、家庭の喜びがある事を学び取った。
 しかし、キリストの教えを伝えているロペスには、常にひとつの重大なわだかまりがあった。それはどっかりと久賀湾に腰を据えているドミナ号のことであった。船内には拉致されて塗炭の苦しみの中にある三人の娘たちがいた。そこにはロペスだけが知っている凌辱、姦淫の、まぎれもない罪業の事実があった。高貴なキリストの教えを説くたびごとにどうしようもない背徳の現実が身近に存在していることにロペスは悩み続けていた。
 若者たちはロペスをとおして西欧人を見ていた。西欧人はキリスト者であった。ロペスが乗ってきたその西欧人のドミナ号の乗組員たちがこの村に侵入してどのような振る舞いに及んだか、若者たちは戒律や修行を学ぶときにはいつもこの問題に行き当たった。罪なきものに対する砲撃、略奪、暴行、拉致、田之浦衆の殺害、それらの、聖書ではおよそ最も許されない行為が平然となされていることについての疑問が大きく育っていたことを忘れるわけにはいかなかった。
 理想と現実との乖離、それはロペスの悩みでもあった。大航海時代に西欧人が各地で行っていた、異教徒、原住民に対する非道、悪逆のひとつの典型こそが、ここにあるドミナ号そのものであった。しかもその大航海時代の外航船には、キリストの教えを全世界に伝えるべく宣教師たちが同乗していたのであった。
 ロペスは、今日、戦うべき相手は異教徒、異民族ではない、戦うべき相手はむしろ西欧人自身の領土拡張、世界支配の欲望であり、その欲望を制約、阻止することに熱心でない腐敗した教会の体制であると思っていた。しかし久賀島の若者たちにはそこまでのことは言わなかった。言えなかった。ただし、目前にあるドミナ号に関しては、「それは神の許し給わぬ「るしふぇる」(サタン・悪魔)の化身であり、罪人たちの実証であり、この罪は何時か必ず罰せられる」ことをあえて明言せざるを得なかった。
 ロペスは「あんじょ」(エンゼル・天使)と「るしふぇる」(サタン・悪魔)がし烈な戦いをしていることを、あえて正確にドミナ号の実例で示した。天使がかならず打ち勝つことを確信しようと言った。若者たちの信仰が決してドミナ号によって躓くことがないようにこころを込めて教え、そして祈った。


第四一話 最初のバプテスマの情景


 文献によれば、五島のキリシタンの歴史は一五六二年に始まる。
 その後、永禄九年(一五六六年)ポルトガルの修道士ルイス・デ・アルメイダと日本人のロレンソ修道士が五島に派遣され、福江で二五人、奥浦で一二〇人に洗礼を授けたとされている。後年、天正四年(一五七六年)には福江、奥浦、六方にも教会ができて信者は二〇〇〇名を越え、五島キリシタンの最盛期を迎えた、と記されている。
 またもうひとつの文献によれば、神父アレッサンドロ・ヴァラレツジョは元亀二年(一五七一年)、復活祭のあと、Sungulmeという大値賀島(福江島と久賀島の古名)から九里程離れた村に布教に行き、六〇〇人に洗礼を授け、つぎの日に他の島に渡って、五五〇人に洗礼を授けた。Sungurumeからは三人の使者が多くの船を率いて迎えに来た。村人は海岸に出そろって歓迎した、と記されている。このSungulumeがどこかは不明であるが久賀島のざざれ細石流であるとする説がある。

 洗礼の儀式が行われることはロペスが書き上げて印刷され、配布された書き物によって島中に知れわたっていた。
 一二人の若者たちのそれぞれの家族たちはさすがに不安になった。とくに娘たちの場合には紅毛の信仰を持てば嫁に行けないのではないかと心配する親たちもあった。ロペスは一軒一軒その家庭を訪ねて、本人を励まし、家族を安心させた。一人の脱落者も出なかった。とくに信望の熱い武生の婚約者であるたまきが入信するということの影響は大きかった。  たまきは武生に新しい神を信じることについて了承を求めたが、武生は心から賛成した。武生は、新しい信仰がわが国にはなかった新しい文化をもたらすことを確信していた。わが国が世界の中で何かの使命を果す時がいつかは来るであろうが、その時には広く西欧文明についての理解が必要になる。そしてその西欧文明を育んだキリスト教信仰の世界にたまきが深く関わることは望ましいことだという考え方であった。すでに上方、京都、大阪、堺や豊後、山口、長崎、平戸、大村などでは新しい風が吹いている。織田信長がキリスト教の布教を許可したと言う噂も広がっている。この久賀島でも期せずして新しい時代が始まったのだと思う、と武生はたまきに話した。
 武生はたまきのオルガンの演奏を聞くことが楽しみであった。もともと和琴の名手であったたまきはロペスが驚く程のすぐれた上達ぶりであった。ほかに入信志望者の二人の娘たちにもオルガンの教習が課せられたが、ロペスは日本人の音楽の才能、とくに指先の器用さには感嘆した。後年のロペスの報告書に、将来、この国民は西洋音楽を習得して、世界的な演奏家を送り出すに違いない。また伝統的な東洋音楽と西洋音楽との融合を成し遂げて世界的に大きな貢献をすることになるであろう、と記している。
 蕨、田之浦、浜脇、猪木、深浦などの出身者である一二人の若者たちはロペスから厳しい教育を受けた。生まれながらの仏教徒である村人たちにとっては、ふつう僧侶になる場合は別として、特別な経典についての学問や修行が必要であったわけではない。しかしキリシタンになる場合には、沢山の本をよみ、講義を聞き、戒律を守って修行することに耐えねばならなかった。彼らはロペスとともに炎天下に道路を修理し、雑草を刈り取り、農作業を手伝い、目覚しく汗を流して働いた。そのような社会奉仕のありかたは従来の日本の宗教にはなかったものであった。しかも嬉々として喜びに満ちあふれた彼らの姿が村人たちには極めて印象的であった。
 ロペスは彼らと親しく接するうちに日本人に対する理解を一層深めていった。そして将来この国に神の教えを広める上で、どのようなことが大切であるかが理解されるようになった。
 そのひとつは日本人には強固な仏教由来の来世信仰がもともとあり、「あの世」の存在を信じている。あの世の霊魂が自分を守り導いてくれるという考え方がある。したがってキリスト教の絶対神がキリストを介して自分を救い給う、という理念は容易に受け入れることができた。救いと言う概念も理解しやすいと思われた。
 その二に、問題はキリスト教の神が唯一神であり。万物に霊が宿っていて、それぞれに人を守るという日本人の考え方を超越する必要があると言うことであった。しかし絶対神は万物霊を超越する至高の存在であることが次第に理解されて行った。
 その三は日本人の家族、血縁の関係や部落などでの結束が非常に強く、村落などの互助、連帯の組織が非常にしっかりしているので、今後キリスト教信仰を地域にあまねく広げる上で、そのような人間関係を重視しながら、信仰を深め、ひろげて地域社会全体をよくしていき、生活を改善していくことが可能であろうと思わせた。
 その四は、日本人の名誉を重んじる性格が際立っていると言うことが注目された。恥辱を最大の汚点とする、体面ということに配慮する、それは西洋の騎士道以上のものがある。名誉を傷つけられた場合に日本人は自らの腹を切って自殺する。頚動脈を斬らないで、自らの手で衆人環視の中で、腹部正面を切り裂くという伝統的な死に方は責任の取り方としては最高の形であった。後年ロペスも切腹の現場を見る機会があったが、慄然としてその夜は眠れなかったという。このような国民は世界中のどこにもない。信義と礼節を特別に重んじる。もしもこのような国民に神への忠節を守る心を植え付けることができれば大きな成果を得るであろう。迫害に対しても必ず耐え忍んで信仰を守りぬくことができるであろう。
 その五は、日本人は教育学習に熱心である。学ぶこと、読むことに特別に関心がある。識字率が非常に高い。それは西欧以上である。したがって西欧文化の精髄としてのキリスト教にも非常に興味を示す。この国が今後世界に目を開いて行く時に必ずキリストの教えが注目されて、国民の間に深く静かに浸透していくことになるであろう。既存の仏教を積極的に排除する必要はない。両者は共存して互いにその特徴を発揮しながら、東西宗教が切磋、共存することによって、優れた社会、文化をつくることに貢献するであろう。
ロペスはこの時点で以上のような感想を書き残している。
 一二人の若者たちはよく勉強した。ロペスは簡単なラテン語やポルトガル語までも教えた。彼らはよく質問した。自然科学には特別な関心を示した。ロペスは、天文学ではローマ教会の立場をはなれて、当時ヨーロッパでコペルニクスが地動説を唱えて問題になっていることも率直に伝えた。若者たちの目はらんらんと輝いていた。活版印刷の原理を学んだ後、伝次の協力を得て実習が行なわれた。大航海時代の船が世界各地に向かっていることも話した。現に久賀湾にドミナ号が侵入してきた理由についてもよく説明した。
 しかし、いうまでもなく、ロペスが最も力を入れたのは聖書についての理解を深めることであった。この点ではすでにイエズス会がザビエル以来営営として日本教化のために準備してきたテキストなどが大いに役立った。
 若者たちが始めて「神を信じます」と告白してから二ヶ月が経っていた。いよいよバプテスマの日が来た。ところは久賀島の西北端、玄界灘を望むざざれ細石流の海岸であった。その朝、その情景をひとめ見ようとして、大勢の村人たちが集まってきていた。
 人々が食い入るように見つめている中で、一二人の若者たちは、ロペスが作らせた白衣のガウンを着て、春まだ浅い玄海の海辺のほとりに立っていた。そして同じ白衣を着たロペスを先頭に、凍るように冷たい初春の海の波しぶきを浴びながら、静かに沖合いに向かって進んでいった。ロペスの胸の十字架が朝日に映えて時折きらきらと光った。
 海水が胸まで達する地点で一同は立ち止まった。穏やかな波がひたひたと彼らを洗った。全く寒さを感じなかった。
 ロペスはひとりずつ洗礼を授ける、といい、最初にたまきを指名した。たまきはロペスの前に進み出た。さざ波が彼女の胸元に漂った。
 ロペスは言った。
 「あなたは、罪人であることを認めますか。」
 たまきは答えた。
 「はい。認めます。」
 ロペスは続いて言った。
 「キリストがあなたの罪のために十字架にかかって死に給い、神がキリストを死人の中から復活させ給うたことを信じますか。」
 たまきは答えた。
 「信じます」
 「あなたは今、人々の前でイエスがあなたの主であり、救い主であることを告白しますか。」
 ロペスのこの最後の質問に、たまきは深く肯いて答えた。
 「はい。告白します。」
 ロペスは十字を切ったあと、たまきの黒髪にしずかに手を置いて言った。
 「バプテスマを施します。」
 そして一瞬たまきの全身は海中に完全に沈められた。
 ロペスが頭に置いた手を放した時に、静かに水上に上半身を現わしたたまきに対して、ロペスは心を込めて言った。
 「あなたは今、クリスチャンとして生れ変わりました。神の恩寵が豊かにあらんことを。おめでとうございます。」
 たまきの目に涙があふれた。生涯の中で最も数奇なこの数ヶ月の体験を経て、今思いもかけなかったキリシタンとしての新しい人生が始まる。涙が止まらなかった。海岸に上がったときに、武生が歩み寄って「おめでとう」と言ってたまきの手を取った。
 朝日がさんさんと輝いて、空には数羽の海鳥たちが高く低く旋回していた。つぎつぎに一二人の若者たちにバプテスマが授けられた。久賀島に新しい歴史が刻まれた。
ロペスはその夜、心を込めて報告書に記している。
 「私の宣教師としての生涯に、始めて、このジパングの久賀島で洗礼を施す光栄を得ることができた。バプテスマのヨハネが始めてキリストに洗礼を施した時の感動を私もまたここに体得することが出来た。感謝である。後世、この島の歴史にキリシタンの教えがどのような影響を刻むことになるかは神のみが知るところであろう。願わくは、一二名の若者たちの信仰がいよいよ深く、固くされて、天には栄え、地には平和をもたらすために、彼らが懸命に生きて働くことができますように。」
 その夜、たまきたちは余りにも激しい感動のために、一睡も出来なかった。枕元には、ロペスから贈られた真新しい「どちりな・きりしたん」の書物が置かれていた。


第四二話 日本人に対する評価

 ドミナ号が漂着してから5ヶ月が経過した。イベリア半島からやってきた西欧人たちの日本人に対する評価は次第に固まって行った。ジパングの西端の取るに足らないこの久賀島で見た日本人たちの資質は驚くべきものであった。かってのザビエルたちの証言は決して大袈裟ではなかった。
 何度かの折衝をとおして見た武生という人物の才覚、学識、識見。日本人でありながら西洋医学の抜きんでた医師であり、イベリアきっての剣の達人であるはずの甲板長ガルシアを完敗させた武術の力量、それらは西洋と東洋のすぐれたものを身につけた完成された人格を思わせた。ドミナ号の乗組員も船長もロペスもそして甲板長のガルシアさえもそのことを認めざるを得なかった。なぜこのようなすぐれた人材がこのような離島にひっそりと生きているのか不思議でさえあった。
 そして伝次とその田之浦の船大工たちの見事な技能も感嘆に値した。鋳造技術、溶接技術、それらは倭寇船という世界に向けて進出するべく用意された最先端の船舶のために、長年かかって積み上げられてきた水準の高い技術であった。鋳鉄技術の精髄は見事な日本刀の切れ味に集約されていた。東南アジアを経由した西欧の技術も存分に吸収されていて、彼らはドミナ号の構造のすぐれた部分に学びながら、同時に修理を完璧にやり遂げようとしていた。正直に言ってこのような離島にこのような技術者の集団があったことが信じられなかった。それに彼らが勤勉であり寡黙であり、誠実であり、統制を守って堅実に仕事をすることにも驚いた。先にジパングについて宣教師たちが書き送っていた日本人への評価が正しいことが裏書きされた。
 ドミナ号の一同を驚かせたもうひとつの事はこの久賀島にすぐれた自治制度があったことであった。ここに来るまでは、未開の各地でそうであったように、大名と言う豪族の封建君主のもとで日本人が支配され、搾取され、奴隷のような生活を強いられているのではないか、と思っていたが、この久賀島では藩の支配のもとにはありながら、評定衆による自治の仕組みが確かに機能していた。武生と伝次が豊後や堺から持ち帰った民衆中心の思想とシステムはロペスらにとっても全く予想外のものであった。人質として在所の宿に預けられていたコスタもたび重なる評定衆の集まりを観察しながら、あらためて自由な彼らの発言と最終的な裁決の鮮やかなありように驚いていた。おりしもヨーロッパでは専制君主の桎梏に耐え切れない市民社会の勢力が台頭しつつあった。支配階級としての貴族、僧侶たちの放恣な生活が民衆の反感を集めていた。人文主義が次第に力を得て、文学の世界では既存の体制を風刺する風潮が高まっていた。後年フランスでの市民革命の火を吹き上げるための地下のマグマが次第に上昇し始めていた。ロペスやコスタ、甲板長らはその変動の時代に育った人々であり、その彼らがこのひなびた久賀に民衆の自治と議会の実際を見たことが驚きであったのは極めて当然のことであったと思われる。
 村の学校にはオルガンがあり、最新式の印刷機があった。先進的な西洋事情を学ぶ教科があり、豊富な内外の図書をそろえた図書館があった。識字率の高い村人たちがいて、何よりもフランシスコ・ザビエルが感嘆した向学心、知的好奇心の旺盛さが特徴的であった。 ドミナ号の甲板長らは後になって思い知ることになるが、伝次らの田之浦衆は鉄砲を模作し、さらに改良して、その時点では実に一〇〇挺近くを鋳造することに成功していた。しかも独自の、侍ではない、普通の若者たちによる鉄砲隊まで編成して、すでに猛訓練を始めていた。これは鉄砲が種子島に始めて伝えられてからわずかに二〇年後のことであった。ドミナ号が無敵を誇っていた大筒までも伝次が堺から持ち帰った図面をもとに鋳造を始めていたのである。
 大航海時代は国内的な閉塞状態を打ち破るために、西欧諸国の支配階級がもくろんだ壮大なプロジェクトの時期であった。植民地から収奪された富によって、国民の政治的、経済的な不満を和らげるための格好の企画であった。そのためには航海術を始めとする当時の自然科学の理論と技術が駆使された。このようなエキセントリックな指向性を持った特異な時代を当時のキリスト教界は世界的な布教の機会であると捉えた。腐敗と堕落と沈滞を指摘されていたカトリック教会自体も現状を打破せねばならなかった。自己革新が必要であった。マルチン・ルターに触発されたプロテスタントの興隆があり、体制内革新の焔もまたカトリック教会を震撼させるようになり、奮起したイエズス会などが世界的な布教に乗り出すことになった。
 しかし、ドミナ号の場合にも認められたように、植民地の獲得や交易による利益の収奪をもくろむ乗組員たちは国王への忠節のために、祖国の発展のために、と言う名目のもとで異教徒、未開の住民たちに対してはどんな卑劣な事でもあえてした。そして教会関係者は征服者たちが現地住民に対して行った不法行為を徹底的に非難することなく,かえって異教徒、偶像崇拝の輩がうけるべき報いであるとして黙認していた。征服されたインカの人々の人権は完全に無視されていたのである。
 久賀島の場合には、武生、傳次といった優れた人物の存在や村衆の団結の前に、その後ドミナ号では上陸して不法行為をすることが出来なかった。久賀島ではそのようなことが赦されなかった。
 おそらく、当時の西欧列強の最大関心事であった黄金の国日本が全く侵略を受けることがなかったのは、ドミナ号の関係者が久賀島で認めたような日本人の民度の高さとすぐれた資質に対して武力の行使をためらわせたためであったものと思われる。
 当時から丁度三〇〇年前の文永一一年(一二七四年)と弘安四年(一二八一年)に、日本は二度にわたって圧倒的な武力を誇る元軍の襲来を経験した。対馬では女子供の手のひらに穴を明けて数珠つなぎにされたと伝えられている。当時、神風などと呼ばれた暴風雨によって元軍を撃退することが出来た、などといわれているが、しかし実際にはすでに博多湾に上陸していた元軍と果敢に戦って、多大の損害を出しながら、それでもそれ以上の本土侵攻を許さなかった日本人の勇敢な資質があったことを否定することは出来ないだろう。  久賀島の人々が受け取った西欧文化の最初のものは信仰という人々の魂のありように深く関わる部分であった。ロペスは純粋な意味での、武力とは無関係な形での新しい信仰をこの島の人々に植え付けることに成功したと言うことができる。占領し、支配し、搾取しながら異教を排除し、そこに新しい神への信仰を持ち込もうとした大航海時代の方式はここでは一切通用しなかった。いや、通用させることができなかったと言うべきであろうか。 歴史を世界的で客観的な動きの中に正確に捉えることは重要である。久賀島においても、ドミナ号でも、人々は一五七〇年当時の奔流のように激動する世界情勢の中に正確に位置づけられていたのである。
 ルイス・フロイスは三五年間を日本で暮らしたが、彼の来日時点は一五六三年であり、久賀島にドミナ号が漂着する数年前であった。彼は一五四九年のザビエルの来日から一五九三年までの出来事を「日本史」「日欧文化比較」の二冊の文献に書きしるしている。


第四三話 歴史は獣行を裁かねばならない。

 この久賀島で唯一、隠されたところで行なわれている無法の現場はドミナ号の船倉の牢獄であった。そこは依然として、乗組員たちの慰安の場、酒池肉林の饗応の場として位置づけられていた。三人の娘たちは哀れな生け贄として存分に玩弄の対象とされていた。
 母国を離れて一年有余の間、乗組員たちは明日をも知らぬ海また海の船旅に出て、喜望峰の沖をとおり、何回か台風に見舞われて、生死の境をさ迷ってきた。この時代、空と海はほとんど同じ意味を持っていた。その向こうに何があるのか、誰も知らなかった。前人未踏の地にも幾たびか寄港して、ある時には驚いた先住民たちの奇襲に会い、何度か絶望の淵を這い上がってきた。沢山の仲間が病に倒れた。敵との斬りあいで死んでいった。今生き残っている者は生き残ってきたことの報酬として何をしても赦されると感じていた。そこでは厳しいキリスト教の戒律が守られるはずがなかったのである。
 命を賭けた戦いのあと、人々には野性の回復が認められた。食うこと、飲むこと、眠ることはいうまでもない。そして何よりも荒くれ男たちは放恣な性の欲望のはけ口を貪婪に求め続けた。大航海時代の表向きの歴史には描かれていない、船乗りや兵士たちの赤裸々な人間的な真実の姿を被害者の側からもっと正確にえぐり出さねばならない。その事を通じて大航海時代を生きた人間たちの真像に迫らねばならない。
 未開地では殺人も暴行も凌辱も平然と行なわれた。それは罪悪ではなかった。それは征服者の権利であった。異民族、異教徒はそれだけで敵であり、殺さなければ殺される相手とみなされた。相手が皇帝であろうと、王族であろうと遠慮することはなかった。
 六世紀から一四世紀にかけて栄えたマヤ文明はある意味では当時のヨーロッパよりもすぐれた文明であった。これを受け継いだアステカ文明は太陽暦を持ち、みごとな神殿・ピラミッドを建造した。これと前後して中央アンデスではインカ帝国がつくられたが、それは高度に発達した石造技術によって灌漑設備、道路、宮殿などを持つ見事な都市文明であった。このような平和ですぐれた国家を、ある日突然出現したスペインのピサロ提督が一握りの鉄砲隊の力でいとも簡単に攻略することに成功した。インカの人々は西欧のような戦闘的な集団ではなかった。その卑劣で偽計に満ちた征服者の物語は周知されている。勝者の側が書き残した当時の記録でさえも読むに耐えない。しかも存分に殺戮され、凌辱されたインカの人々の側からみた悲劇の歴史はまだ正確には記述されていないのである。
 ドミナ号の船倉の牢獄でも、出航以来の一年有余の辛酸と台風で遭難して危うく死にそうになったことへの代償として与えられた特権が荒くれ男たちによって存分に行使されていた。漂着直後のような、上陸して村落に侵入して乱暴を働くことが厳禁されたあとの男たちのうっぷんのはけ口は船倉の牢獄での酒と女でしかなかった。
 そこでは男女の交わりが人間の愛情の極致としてではなくて、獣類と同じ次元での生物ヒトの欲望を充足するために一方的に執拗に追求された。羞恥心も罪悪感もない、究極は恍惚感の絶頂で終る行為が何度も何度も繰り返された。欲情を成就するためには、醜悪な行為さえも限りなく肯定された。そればかりか残虐な行為からも快感を引き出そうとした。そこでは荒くれ男たちが母国では決して赦されなかった行為を平然として行うことが認められていた。
 抵抗すれば殺される。極限状況の中で娘たちは迫ってくる男たちの前で、いやでも女を演じなければならなかった。女は女でなければならなかった。有無を言わさぬ「受け入れる本体」でなければならなかった。あらゆる姿態が強要された。娘たちは恍惚を味わうためのあらゆる試みの道具にされた。男たちは故郷に残してきた妻も子供たちも忘れていた。安息日には家族と教会のミサに出席していた日々の事も全く念頭にはなかった。明日知れぬ命ある間の快楽だけを貪婪に追い求めた。
 充足とそのあとの倦怠の繰り返しが交互に訪れる男たちの生理は普通は制約の中に閉じ込められていた。しかしその制約が解き放たれた時に、とくにその制約を不必要とする条件と論理が見つかった時に、男たちの生理は獣たちの生理に回帰した。
 そしてその船に同乗していたキリスト教の宣教師たちは、本当にロペスのように悩みに悩んだのであろうか。そこに人の原罪の苦しみを如実に見たのであろうか。祈りに祈ったのであろうか。はたして彼らは本当にその無法、非道を阻止するために命を賭けて戦ったのであろうか。異教徒に対して残虐の限りをつくした荒くれ男たちの行為を身を挺して阻止しようとしたのであろうか。聖職者の信仰とは、そのように無力なものであったのだろうか。彼らが無為、黙認をあえてしてきたとすれば、そのことを支えたものは、やはり異教徒に対する優越感、選民観であったのだろうか。未開の、とくに有色人種を一方的に下僕、下女、奴隷にすることが生まれながらに許容されている、とするような西欧人の意識はいったいいつ頃から、そしてどこから由来したのであろうか。
 何故に、そこを「未開の地である」と規定したのか、何故に、その「未開地を征服する」ことが許されたのであろうか。大航海時代の西欧諸国のありようを人類史的に明白に犯罪的、侵略的な行為であったとする史観を確立する必要があった。人道の名において、このような誤った選民感を徹底的に裁く必要があったのではなかろうか。
 ロペスはこのような危険で傲慢な選民意識を放置しておくと、さきざき人類の歴史の中に大きな禍根を残すことになるだろうと思った。


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第四四話 ロペスとコスタがドミナ号に乗り込む

 ロペスは、三人の娘を解放するために、ドミナ号に乗り込んで交渉するという、コスタとの約束を果さねばならないと思った。
 ある日の宵闇が濃くなった時刻に、ロペスは武生の了解を得た上で、コスタを伴って、久賀突堤から小舟に乗ってドミナ号に到着した。コスタは剣を持ってはこなかった。
 舷側にいたマリョルカ出身の乗組員たちは久しぶりに見るコスタたちを喜んで迎えた。しかしすぐに甲板長たちが現れて二人を船長室に連行した。船長室には以前とは打って変わって雑然と衣類などが散らかっていた。
 「どのような用件で、どのような資格でここへ来たのか。コスタよ、お前はもう船長ではない。人質にすぎない。ここに来る資格はない。それとも何かの使命を託されてやって来たのか。」
 甲板長は性急に、大声でまくしたてた。コスタは答えた。
 「いや、武生らとは無関係に、元船長として自発的にやってきた。要求はただ一つ、三人の娘を直ちに釈放してほしい。」
 「私からもお願いします。久賀衆は誠心誠意船の修理をやってくれており、食糧も補給してくれているではありませんか。人質など必要がないのではありませんか。」
 ロペスのその言葉に甲板長は大声でわめいた。
 「娘たちを人質にとっておればこそ、あの連中は修理してくれているのだ。食糧も出してくれるのだ。それに船の修理や食糧の代価はたっぷり金貨ではらってやるつもりだ。」 コスタは憤慨して言った。
 「お前たちはあの娘たちに人質以上の事をさせている。私はその事実をこの目でしっかりと見てきた。村人に対して全く申し開きができないではないか。」
甲板長はせせら笑って言ってのけた。
 「相変わらず、甘っちょろいことをいう。コスタよ、お前は船長としてはるばるここに何をしに来たのだ。未開地を征服しに来たのではなかったか。征服者には生殺与奪の権限がある。これはローマ時代からの鉄則だ。三人の娘についていえば俺たちは殺しはしない。遊ぶだけだ。インカを殺戮したピサロ提督よりもはるかにましだ。俺たちはそのうちに、必要なら遊ばせてもらった代金もきちんと支払うつもりだ。」
「あなた方のしていることは金貨では支払えないほど罪深いことです。」
ロペスが耐えかねて声高に言った。
 「主は姦淫を許し給わない。あなた方は三人の娘たちを盗み、犯してきた。これは破門に値することです。」
 甲板長はせせら笑って言った。
 「ロペス宣教師。俺はあなたにかねてから聞こうと思っていた。俺が聖書を引用するのはおかしい気もするが、あえて言おう。マタイ伝などに、キリストが、表向きをつくろう人々をしきりに非難しておられる事はご存知のとおりだ。例えば「わざわい禍害なるかな、偽善なる学者、パリサイ人よ、汝らは酒杯と皿の外を潔くす、然れど内は貪欲と放縦とにて満つるなり。盲目なるパリサイ人よ、汝まず酒杯の内を潔めよ。さらば外も潔くなるべし。」(マタイ伝)とある。
 あなたがたは未開地に関する限り、外では神の教えをひろめるなどときれいごとを言いながら、その実はあらゆる貪欲と放縦が行なわれることを見逃してきた。植民地からの最大限の富の収奪が行なわれることをよしとしてきた。植民地が増えるたびごとに本国では「神の恩寵に感謝する」などと言って、盛大な祝賀会が開かれてきた。ヴェスプッチやコロンブスの西印度諸島(新天地アメリカ)発見の時がそうだった。
 教会の堕落ぶりは教会の内外に改革の動きが始まっていることからもよく分かる。カルヴィンやルターのプロテスタントへの動き、ザビエルのイエズス会結成への動きなども周知のとおりだ。民衆は今敏感になっている。俺の田舎でも神父たちが国王の側に立って住民を圧迫し、金次第の免罪符を発行していることに怒りが渦巻いている。
 俺たちが今していることは、お前たちに今更、おきて戒律など持ち出されて非難される程のことではない。」
 ロペスは苦しげであった。キリストの一二使徒たちは各地を経巡りながら決して異教徒を差別してよいとは教えなかった。しかし殺すなかれ、姦淫するなかれ、盗むなかれ、偽るなかれ、と言う戒めを今、西欧のキリスト教徒の私たちは大航海時代と言う歴史的な現実の中で、新たに発見された未開の現地では完全に無視しているのではないか。しかもそのことをキリスト教界が大きく問題にしたことはなかったのではないか。むしろつねに国王たちの側に立って、異教徒を征服して、新しい植民地ができたことを単純に神の恩恵であるなどとみなしてきたのではないか。
 しかし、ロペスは確信を持って言いきった。
 「たとえ現状がどうであろうと、聖書の教えは何人であれ、姦淫することを禁じています。あなた方の娘たちにしていることは正しくありません。」
 コスタが言葉を継いだ。
 「そうだ、村人たちは娘たちがどのような境遇に置かれているか、そのことを全く知らないでいる。正当な人質として大切に扱われていると信じている。それは日本人の道徳観として当然のことだ。私は今人質の自分に対して彼らがしてくれていることからそれがよく分かる。彼らは信義を重んじる。名誉を尊ぶ。武生から学んだことは彼らには武士道と言うモラルがあって、はずかしめ辱めを受けることを最大の恥と考えて、その恥をはらすためには命を惜しまない、と言う事実だ。もしもお前たちが今していることが分かったら、ただではすまないだろう。報復を恐れるがよい。」
 機関長が薄ら笑いを浮かべながら言った。
 「コスタさん、元船長さんよ。この船はマリョルカ島を離れてもう一年になる。その間に乗組員たちの数名を病で失い、数名を各地の港での戦いで死なせた。生き残った乗組員の異教徒たちに対する恨みは深い。そして今荒くれ男たちの心と体の飢えは頂点に達している。酒と女は彼らの暴発を紛らすために必要だと判断している。そうしてやらなければ彼らはまたひそかに上陸して村に侵入して、好き放題のことをしでかすに違いない。三人の娘たちは安全弁として、あるいは管理された慰安婦として必要であるということだ。」
 何という偏った、ひずんだ考え方であろうか、ロペスは娘たちに対する凌辱さえも必要悪として肯定する彼らの思想を絶対に許してはならないと思った。それは戦場には慰安婦を伴うことが必要であるとする考え方に通じるものであり、女性と人間に対する重大な冒涜であると思った。コスタは言った。
 「久賀衆はこの前村に侵入されて以来、自衛しようとしている。私は武生を中心とする評定衆の動きを見ていて、彼らが武装しようとしているように感じる。彼らを怒らせたらこの船は出航出来なくなるだろう。」
 副長が笑って言った。
 「久賀島というちっぽけな地域の彼らにできることは知れています。この前の宇久藩のプロの侍集団のとの戦いでさえも私たちは完勝しました。たかが村衆ごときに負けるはずがありません。」
 機関長のゴンザレスが言った。
 「とにかく今三人の娘を返して、もしも彼女らを散々慰み者にしてきたことがばれたら、それこそ大変だ。船体の修理はたちまち中断されて、出航出来なくなる。修理が完了して出航直前に人質交換と言う形で返すのが一番いいだろう。」
 「そうだ。ただし、言っておくが、そのあとでコスタはもとの船倉の牢獄にかえってもらう。お前はアラゴン王国の復活をめざす、スペイン王家に対する反逆者であり、許すことはできない。この船はもはや伯爵コスタのものではなくて、船長として指揮をとっている私のものだ、ということを忘れるな。この船はバロマ・デ・マリョルカ港ではなくて、イベリアのバレンシア港に回航されるのだ。」
 甲板長は冷酷にいい放った。ロペスはため息をつきながら、コスタの肩に手を置いて言った。
 「コスタよ。今夜はこれで帰ろう。」
 コスタは立ち上がって言った。
 「われわれは決して断念しない。また来る。私は剣にかけても娘たちを解放してみせる。」
 甲板長は大声で笑って答えた。
 「剣のお相手なら、いつでも致しますぞ。楽しみに待っているよ、若造さん。」
 舷側を下りながら、コスタはあの哀れな、ちづがどうしているか、一目会いたいと思った。しかしそれは所詮かなわぬ夢に過ぎなかった。
 久賀の村落の灯が遠くに見えていた。この船で起っていることを何も知らない静かで平和な人々の夜のひとときであった。


第四五話 肉体と魂について語る

 その夜、コスタは宿舎でロペスと明け方まで語り合った。
 コスタはちづへの思いを始めて告白した。そして今、現実に荒くれ男たちに汚され続けているちづの肉体と純粋な愛が宿る魂との関係についてロペスの意見を聞きたいと思った。それはコスタにとって避けてはとおれない課題であった。
 ロペスの見解はつぎのとおりであった。
 「情欲という人の本能と魂との関係については、ローマの修道院でも大いに論議されてきました。それは決して教会が避けてとおってきたテーマではありません。
 情欲の最終的な状況は両性の結合ということです。これを正確に客観的に肉体と魂との関連で考えて見ましょう。
 人類の歴史が始まって以来、夫婦と言われる人々や夫婦でない人々との間での性的な結合はそれこそどのような単位でも表現出来ないほど無数に、無限回数繰り返されてきました。しかし、この場合の性的な結合の形態はつぎの五つに分類することができます。
 一 愛情の極致としての性行為
 二 享楽自体のための性行為
 三 金銭の代償としての性行為
 四 強制・暴力の形態としての性行為
 五 慰安の一類型としての性行為
 この中で、第一の場合は純粋な愛情が両性の間にみなぎっており、その愛情の成就の極限として性行為であり、相思相愛の夫婦や男女の間の性的な交渉であるということができます。そして第二から第五の場合は霊肉一体とはいいかねる場合であり、しかもこの地上で最も多く、行なわれている性的な結合の形態です。両性の結合がもたらすものは性的快感でありますが、神は第一の場合以外の快楽をお許しにはなりません。もう少し別の角度から分類すると、両性の情欲に基づく行為と、男性または女性の一方的な情欲に基づく行為の二つの場合があり、妊娠することを期待する場合と期待しない場合に分類することもできます。
 神は第一の場合以外をお認めにならないと申しましたが、たとえば第四、第五の場合のように、異性の一方からの強制や暴力によって性行為が成立する場合や、異性を慰安の道具として設定することによって性的結合が行われる場合には、その受け身の側の人々が罰されることは決してありません。むしろそれらの人々に対して、神の憐憫と癒しが必ず与えられます。今ドミナ号の船倉で娘たちに行なわれている性行為は凡て第一以外のものであり、許されるものではありませんが、娘たちの肉体は汚されても魂は決して汚されることはないのです。むしろ彼女たちは忍耐によってより強くされて、神によって祝福された未来を持つことが出来るようになることでしょう。耐え難い試練の中で、ちづのあなたに対する愛も一層深くなることを信じて下さい。」
 コスタは心から感謝した。そして語った。
 「娼婦たちはいくばくかの金銭を得るために肉体を悪魔に売っています。しかしあの三人の娘たちは何らの代償なしに、一方的に性奴として取り扱われているのです。私はこの目で見てきました。彼女らは外界から完全に隔離され、全裸にされて、立ち、座り、食べ、眠り、排泄することまでも一切を衆人環視のもとにおかれています。夜毎の獣液にまみれた体を洗うために、さすがに時折差し入れられる湯桶を使う時でさえ、男たちの淫らな視線を遮るすべさえありません。羞恥心を無視されて、感情も意志も無視されて、全面的な従属を強要されながら、彼女たちには荒くれ男たちに犯されるための存在価値しか認められていないのです。しかも男たちは、全く反応してこない娘たちに腹を立てて、娘たちの性感自体を目覚めさせようとして、手練手管を弄しています。雄たちは雌たちの官能の同時的な絶頂を伴わなければ決して満足することはないのです。肉体への強要は耐えられても、感覚への強要は耐え難いものです。娘たちにはそのことが最もこたえているはずです。私は娘たちがどこまで耐え切れるのか、そのことを最も恐れています。」
 人の霊と肉の切り離しがたい関係のなかにこそ悪魔が住んでいる。
 男の行為が始まって、男の性徴が極限状況に達して、結合が強制される。挿入と抽送の過程で娘たちの肉体が意志や感情とは無関係に反応し始める、自己保存本能は、反応しなければ傷つく、殺される、生身の体はそのことを知っている。女たちが泣き叫ぶことさえも、男たちは快美感の絶頂によるものと受け取って喝采する。それは獣たちの世界ではごく当たり前の情景であった。
 ロペスは言った。
 「悪魔のうごめきを食い止めるために、今こそ祈らねばなりません。私もその肉体の悪魔の存在を確かに認めます。
 今娘たちが最も恐れているものがよくわかります。長期間の性的奴隷、家畜同然の生活では、確かに魂の純粋性が次第に失われていくかもしれない。意志が感情を抑制し、霊が肉体と無関係に存在していた時期は確かにあったでしょう。しかし四ヶ月の時間が動物的な本能を次第に覚醒させてゆき、男たちの加虐行為にさえ嗜虐的に反応する自身の肉体を感じるようになったことに気づいた時に、娘たちは始めて愕然とすることになるでしょう。今あるいは娘たちはそのような変わり行く自分自身のありように青ざめて、苦しんでいるのではないでしょうか。
 どのように感情的に、意志的に拒否しようとも、暴力で犯された娘が妊娠することがあります。全く快美感を感じない性行為によってさえも受胎することは可能です。そのような肉体的な生物としてのヒトの現実を認めねばなりません。人の官能の動物的な現実は否定できないのです。
 人類の、民族の闘争の歴史の中で勝者が混血を強要し、敗者がそれを受け入れて新しい時代を作ったように、魂の尊厳を打ち砕くような悪魔の勢力が実在することを認めないわけにはいきません。娘たちは今そのような危険な状態に置かれているのです。 今は祈るしかありません。祈らないではおれません。悪魔の誘惑が断ち切られるように神の助力を祈りましょう。」  コスタは久賀湾の海上に見え隠れするドミナ号の信号灯を眺めながら語り続けた。
 「私は娘たちと同じ部屋に閉じ込められて、縛られたまま、この目で現場を見ることを強要されました。とくに、私との間に愛が芽生えてきたちづが目の前で犯されることは地獄の苦しみでした。それは強制的な、暴力的な、集団的な姦淫であり、多数の男たちによる少数の女たちに対する動物的な性行為でした。はたして娘たちの魂がこのような肉体的な堕落を誘う男たちの誘惑に完全に耐えきれるのか、原罪に負けた人間の歴史がここでも再現されることはないのか、私はそのことに悩んでいます。娘たちの清純な心までもが汚されないか、私はそのことを心配しています。私は強姦によってみごもった場合でさえ堕胎を禁止するような教義があることを疑問に思います。暴力さえも神の恩寵と見なければならないのでしょうか。私はちづたちが男たちによって受胎させられるようなことには耐えられません。」
 ロペスは言った。  コスタよ、神は祈りに応えられます。神は淫欲にふける男たちを必ず罰されることでしょう。」
 ロペスは続けて言った。
 「今夜もドミナ号の乗組員たちは船倉の牢獄に集まって酒宴と淫虐の愉悦にふけっていることでしょう。しかし、三ヶ月にもなる連日連夜の同じ行為の繰り返しのはてに、男たちの中にもひそかな倦怠感と全く新しい感情が目覚めようとしているはずです。
 所詮、性欲とは、異性の性徴との結合願望にすぎません。それは動物通有の欲望であり本能です。快感は本来種族保存のために必要な、性行為を完璧に遂行させるための代償として、すべての生物に与えられたものでありました。しかし人という特異な動物は何時からか性行為を快楽自体のために追求するようになっていきました。そればかりか人々は、ドミナ号の乗組員たちのように、加虐的、嗜虐的な性的暴行を手段とした、おぞましい性行為さえもあえてするようになったのです。
 しかし獣欲が充足されたあとには必ず倦怠のひと時が生まれます。その行為のあとの、人々が放心状態に追い込まれた、そのひと時に、獣欲とは全く無縁な新しい感情が生まれてきます。その直前までの、劣情に狂った自己を恥じて、場合によっては罪人の自覚にさいなまれて、ゆるし赦しへの願望を持つようになることもあるでしょう。そこから透明で無色な、知、情、意の世界が広がって、そしてエロスからアガペエへの昇華が行なわれるようになることもあるのです。
 その船倉の一室はおよそ最も強烈な獣欲充足の場であったかもしれません。しかし、そこでさえも、その行為のあとに忍び寄ってくるひとときの倦怠感を男たちは消し去ることは出来ないはずです。男たちはわれを忘れるために、やみくもに性獣の行為を繰り返してはみましたが、結果的に、そのあとで自責の思いを、悔恨の思いをますます深くしていくはずです。そして故郷に残してきた、帰りを待つ恋人や妻子たちへの思慕が次第に高まってくることを感じないではおれないはずです。肉欲のエロスは必ず昇華の時を迎えねばならない、獣性を超えた人間性への憧憬を否定することは出来ないのです。それこそが神の仕組まれたエロスの変容なんです。
 当初は荒くれ男たちを熱狂させた三人の異国の娘たちとの性行為も、やがて同じことの繰り返しでしかなかったことに気づくはずです。そして四ヶ月という長い時間が男たちに必ずある種の慣れと空しさを感じさせるようになってくることでしょう。
 異教徒に対しては生殺与奪の権利が与えられているとする船乗りたちの感覚は獣欲充足の権利についても同様です。悲しいことに今は被征服者を家畜同様に売り買いしても咎めるものがありません。いかなる残虐行為も自分たちを殺戮しようとした敵に打ち勝った者の当然の権利行使であると考えられています。
 しかし、娘たちは実は被征服者そのものではないのです。単なる人質であったはずです。にも関わらず彼女らにはあらゆる暴虐が加えられている、そのことについてわだかまりを感じる乗組員たちの思いが必ず次第に高まってくるはずです。娘たちを一刻も早く解放するべきである、という意見が必ず出てくるはずです。村人たちには全く隔絶された船倉で、最も耐え難い暴力的な姦淫が秘密裏に行なわれているということについての反省がドミナ号の乗組員たちの間に次第に芽生えてくるはずです。その行為のさなかに娘たちの目にあふれてくる涙の中に映し出された深い悲しみが男たちの心にある種の感情を芽生えさせるはずです。とくに獣欲を満たした後の時間に見せられた娘たちの涙には良心の疼きを感じるはずです。愛なき行為の空しさを心の重荷と感じる乗組員たちの数が必ず増えて来るに違いありません。
 昇華と言う言葉があります。どろどろした獣欲は何時までもそのままではありえないのです。エロスが必ずアガペエに向かって変容して行こうとすることを信じましょう。それこそは神の摂理であり、普遍の真理なのです。」
 コスタは深く肯いた。状況は必ず好転する、そう信じようと思った。

 もう夜明けが近かった。最後に、コスタはロペスに田之浦の伝次親方への伝言を頼んだ。それは予想されたとおり、「ちづとの婚約を許してほしい」ということであった。しかし、人質交換のあと、このコスタはドミナ号に戻されて再び牢獄に入れられることになるであろう。そしてドミナ号が出航してしまえば、コスタとちづはどのようにして添い遂げることが出来るというのであろうか。暗澹たる気分の中で、しかし神の助けだけを確信しながら、ロペスは伝次に必ずとりなすことを約束した。
 ロペスは黒い衣を翻しながら、東の空が明るさを次第に増してきた久賀の道を帰っていった。そこには台風の余波と思われる、晩秋にしてはひどく生暖かい風が吹いていた。


第四六話  久賀島社会の変貌とロペスの足跡

 ロペスと最初に洗礼を受けた一二人の弟子たちの必死の伝道の甲斐があって、久賀島の各地では信仰を告白するものが続出した。短期間の間に受洗者の数は三〇〇名を超えるようになっていた。
 ロペスが聖書に基いて定めた七日ごとの安息日のミサには多数の信者が集まるようになった。
 ロペスは「いげれじあ」(教会)を建てたいと思った。建築にも詳しい田之浦の伝次のもとに相談に行った。バレンシアやイタリアの聖堂の絵を描いて示した。それは遠近画法に基いた、当時の日本には見られなかったすばらしい絵図面であった。
 教会建築の理想はいうまでもなくローマにある教皇直属のセント・ピーター寺院である。かってブラマンテが設計し、その後ミケランジェロが縮小、設計、施工したといわれる壮大な寺院建築をロペスは知っていた。しかし今ロペスがここに建てたいと願っているのは母国のポルトガルの、生まれ故郷の片田舎にある村の天主堂をモデルにした教会であった。この久賀島の各地に人々が集う信仰の拠点を造りたい。この絵図面のような小さくても見事な教会を建てたい、ロペスは特別に景観にすぐれたはまんわき浜脇とごわ五輪の地をあげて、ここにはいつか海上からもよく見える十字架のある白亜の天主堂を建立したい、と協力を求めた。伝次はかって上方での修行中に、堺と京都に建立されていた天主堂とセミナリオの洋風建築を見ていた。彼には、その後武生の久賀の診療所の洋風建築を手がけた経験もあった。伝次はロペスの依頼を了承した。そして、図面をひいて見ることを約束した。

 ロペスの伝道のための、村塾の大広間での夜の説教にはあい変わらず大勢の人々が集まってきていた。
 異常な反響がひろがっていた。最近では、オルガンの珍しい演奏と美声で美貌の南蛮僧を見ようとして、うわさを聞きつけた奈留島、福江島からも人々が船を仕立てて久賀島にやってくるようになった。これらの人々は久賀湾沖に停泊している珍しい紅毛の巨船を見ることも楽しみにしていた。しかしドミナ号の巨大な汽笛音が突然鳴り響くと訪問者たちは胆をつぶした。久賀島はキリシタンと紅毛船の島として五島中に一躍有名になってしまった。来訪者たちは始めは知人の家に泊まっていたが,その数が増えるに連れて野宿するものが出るようになり、ついに村の評定所では久賀と深浦と蕨に物見客のための宿泊所を建てて対応するようになった。後年、ドミナ号の騒ぎが収まったあとになってから、この施設は久賀島の観光宿泊施設「つばきの里」と呼ばれて大変有名になった。
 この島を訪れた他島からの人々は久賀湾の美しい風景と何箇所かの椿の原生林のすばらしさに魅せられた。隣の奈留島に近い蕨部落と福江島に近い田之浦部落の船着場は大変にぎわうようになり、売店では島の特産品である鮮魚、干魚などの魚介類や椿油などが飛ぶように売れた。これらの変化は長老や評定衆にとって全く意外であり驚くべきことであった。評定所では道路を改修し、湾内の名勝を経巡るための巡回船をしたてて便宜をはかった。もちろん久賀突堤沖にどっかりと腰をすえたドミナ号は人々の注目の的になった。そのうちに湾内のキス釣りが評判になり、外洋に出かけて海釣りをする人々がやってきた。島の宿泊所はますます混雑するようになった。もちろんよい話ばかりではなかった。病人が出て島の診療所の人手が足らなくなった。揉め事がいくつもあって警備の人数がいるようにもなった。ごみやし尿の湾内への垂れ流しが問題になった。島の評定所は頻繁に会合を開いて対策を協議せねばならなかった。
 武生はこのような他島から物見遊山客が多数押しかけるような異様な状態を憂慮していた。実はドミナ号を巡る事態は極めて深刻なのである。このあとどのような情勢が展開するかわからなかった。場合によっては一触即発の事態さえ想像される。ドミナ号の修理が終わって出航するまで、人質を取り返すまでは油断が出来ない。なりゆき次第では、他島の人たちを戦火に巻き込むおそれさえある。実のところ、この島の現地では鉄砲隊が極秘に猛訓練を続けているのである。決して楽観は許されない。武生は評定のたびごとに、何回となくそのように警告してきた。代官所に対してもたびたび善処方を申し入れてきた。 ロペスの教会運営は緻密に行われていた。最初の一二人の弟子たちの教育を徹底して行い、「どちりな・きりしたん」を暗誦することが出来るようになるまで訓練した。
 ロペスはたまきとあと二人の女性の信徒にはオルガンの演奏を教え、信徒の全員に教会のミサ曲を教えた。西欧の音階を彼らは見事にこなすようになり,合唱というような当時の日本では考えられなかった美しいハーモニーが村塾の大広間から聞こえるようになっていた。村塾の生徒たちも喜んで合唱隊に参加するようになっていった。彼らは驚くほど短い期間のうちにソプラノとアルトとテナーとベースの美しい和音階での合唱が自在に歌えるようになった。
 夕闇が迫る頃になると、子供たちが心を込めて歌う歌声が海上のドミナ号にもかすかに聞こえてきた。乗組員たちは最初は不思議がったが、そのうちに久賀島でおこっている事態が次第にわかるようになってきた。そして甲板に出て、その故郷のなつかしい調べを聞きとろうとするものが現れるようになってきた。彼らの心の中に望郷の思いが次第に大きく育つようになってきたことはいうまでもなかった。

 文献によれば、わが国ではじめてラテン語の歌ミサがあげられたのは天文二一年(一五五二年)山口でのことであり、在留イエズス会士によるものであった。弘治元年(一五五五年)には大分において日本人信徒からなる聖歌隊によってキリストの受難を記念する聖週間のための聖歌が歌われた。「アヴェ・マリア」などは日本人信徒によって広く歌われるようになっていたといわれる。
 ロペスは武生とたまきたちと音楽の話をするのが何よりの楽しみだった。彼は日本の伝統的な音楽と楽器にも興味を示した。たまきが弾く琴の調べをこよなく愛した。そのほか三味線、神社で聞いた笙、じちりき篳篥、鼓、太鼓の調べにも関心があった。勿論武生たちは西洋音楽についてくわしく質問した。ロペスはオルガンのほかに、もっと繊細で音の高低、強弱の表現にすぐれたクラヴィア、ピアノという楽器が発明されていることを話した。  武生はすでに豊後での修学中にクラヴィアの音楽を聴いて知っていた。このクラヴィアは天文二〇年(一五五一年)にザビエルが山口で大内義隆に拝謁した際に献上したものであった。
 ロペスはすでに九州の大分で、アイレス・サンチェシュが日本人少年に声楽と器楽を教授しているという報告書を数年前に見たことがある、おそらくこれは日本での西洋音楽の始まりではないか、と言った。ロペスはオルガンのほかに、西欧にはヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのような弦楽器があり、クラリネット、オーボエ、ホルンのような管楽器の一群があって、これらの楽器を組み合わせて演奏する小規模の室内楽のような形の音楽があることなどを説明した。ロペスは和洋の音楽の融合ということが出来ないだろうか、といった。例えばたまきの弾く琴とヴァイオリンによる二重奏はおそらくすばらしい効果を生み出すに違いない、また太鼓、鼓を洋楽の中に取り入れた場合の効果にも大いに関心があると言った。
 西欧では音楽会という催しがある、久賀島でも、ちかじか村塾の生徒たちによる和洋音楽の演奏会を開いてみてははどうだろうと提案した。そしてロペスは何時の日にか、この島の村塾に多数の種類の洋楽器を寄付できる日が来ることを希望すると熱っぽく語った。
 ロペスは若者たちの生業の合間を見ながら、昼間は彼らを二名ずつの組にして各部落に派遣して伝道に当たらせた。そして夜は彼の宿舎に集めて独自の教育を行った。これらの弟子たちは後日イエズス会から任命されて正式に日本人の修道士、宣教師として五島や長崎などの各地に派遣されていくことになる。この時期の宣教師たちの本国に書き送った報告書には日本人の信者たちのありようが子細に記されている。
 ロペスは何よりもキリストの教えを正しく伝えるためには聖書を日本人にわかりやすい言葉で翻訳することが重要であると考えていた。武生とたまきの協力を得て、ロペスが庶民むけに翻訳した文章は活版印刷機にかけられて久賀版聖書がつくられた。そしてその相当部数が当時久賀島を訪れていた福江、奈留、上下五島の人々にも頒布されるようになった。  ロペスは武生の依頼によって,村塾の正規の授業の講師となり、進んだ西欧の天文、地理、数学を教えた。彼の報告書によると、日本人たちは自然科学には特に異常な関心を示したという。この点はかってザビエルが書き残したとおりであった。また実学として畜産、牧畜を教えた。実際に野生の山羊を捕らえて家畜として飼育することにも成功した。後に久賀島のかくれキリシタンたちはわが国では珍しかった牧羊、牧畜を山間地で細々と続けるようになった。
 ロペスはたまきの案内でこの島の各地を細かく歩いた。海岸沿いの危険な火山岩の崖道を、南方から流れ着いた熱帯産の植物が生い茂る海辺の小道を、その海原の向こうには大陸と朝鮮半島があるという細い山道を、時にはつばきの原生林の木陰の間道を歩いた。久賀島は狭いようで意外に広かった。そこここの集落で歓迎を受け、教えを説き、告白を受け、懺悔を聴き、キリストの言葉を記した印刷物を各戸ごとに配って歩いた。村人の家に泊まって、村人と同じ質素な食事をした。子供たちには珍しい西欧の伝説、神話を、寓話、文学を話して聞かせた。アラビアン・ナイトや一三世紀に修道僧プラヌデスが集約したといわれる有名なイソップの寓話には子供たちが熱中した。ロペスが描いて持参した西洋の遠近画法による絵文書は見事な刷り上がりの印刷物となってとくに人気が高かった。
ロペスの描いた見事な西欧の教会、天主堂の絵図面は新しくキリシタンになった人々の注目をひいた。白亜の建物の尖塔の上に燦然と輝く十字架、堂内のステンドグラス、磔台上のキリストと、神のひとりごを抱くマリア様の聖像、正面の十字架とその左右にあるパイプオルガンの列柱、聖歌隊と司祭、神父たちの姿、それらはまさしく天国の情景に見えた。信者たちの間に一刻も早く自分たちの教会を持ちたいという気運がいやが上にも高まった。 ロペスは村人たちの生活を共に体験しようとした。蕨の浜辺では村人たちと一緒になって魚網を引いた。引き綱をしっかりと握っているロペスの指先のすぐ近くに漁師の妻女たちの節くれた指先があった。渾身の力を込めて、汗を流して、声をはり上げて共どもに魚網を引いた。そうした情景を遠くからじっと見つめている禅門寺の住職、禅尊の姿があったことも付け加えておかねばならない。
 田之浦では伝次の仕事場を訪ねた。日本刀の鍛造場の気迫には圧倒された。このような精神性と技術力が渾然一体となった物づくりの状況は西欧には見られなかった。精進潔斎という一種独特の生活態度を維持しながら物を作るという、したがって作られた物には命が宿る、魂がこもる、という人々の思想には考えさせられるものがあった。そうまでして物つくりに熱中する勤勉な日本人の気風が将来的にどのような展開を見せるかが大いに注目された。実はこの時すでに一〇〇挺近くが製造されていた鉄砲の製造所や大筒の鋳造現場はさすがにロペスには見せられなかった。造船所では相当な大きさの木造船が建造されていた。伝次は詳しくは説明しなかったが、明らかに外洋船であった。東南アジアに行き交う日本の船がすでに相当数に上っていることは周知されていたが、その種の船になるものと思われた。木造船ではあったが、接合部分、船首、船尾、舷側の一部などには鋼鉄板が使用されていた。それは非常に強度の高い、堅牢な軽量の船であり、したがって、おそらく速度が極めて早いものと推定された。ドミナ号とは全く違う造船の手法がとられていた。ロペスはこれまでにマニラやマラッカやシャムに現れる日本の船隊の優秀性については聞いていたが、その理由をここで見つけたと思った。後になってたまきから田之浦が倭寇船団の基地のひとつであると聞かされたが、このままでは、ちかじか東南アジアから印度洋に向かって展開していた日本の船団が東洋に進出してきた西欧の船団と衝突するような不幸な事態が起るのではないか、と思われた。
 ロペスは武生から許しを得て集会所として使っている村塾の大広間を愛用した。驚くほど上達したたまきたちが弾くオルガンの伴奏に合わせて故郷の歌を歌うことがあった。ロペスも人の子であり、一人の若者であった。たまきはロペスの目に時折涙が浮かんでいるのを見ることがあった。彼もまた僧衣の中に、あらゆる人の情感と雑念を押し隠して、それらを祈りによって昇華させて、ひたすら神への奉仕に献身しようと努めている一人の生身の人間であった。キリストが十字架にかかった後に、使徒たちが伝道のために歩んできた苦難の道を、ロペスは今再び、この久賀島でひとりの修道者として辿ろうとしていた。自分の部屋に帰ったあとの、孤独の時のロペスの祈りは最も厳しく、最も激しく、痛ましくさえあった。
 ロペスは修道者の、「えくれじあ・みりたんす」(戦う使徒たち)につきまとう底知れぬ孤独を、ひたすら祈りと音楽に没入することよって癒そうとした。時折、深夜に起き出して、村塾の誰一人いない、暗闇の会堂で、ひそかに、ひめやかに、心をこめてオルガンに向かっているロペスの姿が認められていた。


第四七話  ロペスが日本人の宗教観を考える

 キリシタンに改宗する人々の数が増えるに連れて神道、仏教の信者たちの危機感が強くなってきたことは言うまでもない。久賀島の民俗、習慣を支えてきたこれらの既存の宗教はもちろん島民の間に根強い影響力を持っていた。すべての島民は生まれながらにして神社の氏子すなわち神社支持者のメンバーであった。何か建物を建てる時には神官が祭祀を行い、中心的な役割を果していた。子供たちの誕生、結婚、祝い事でも神社は大切な舞台となった。鎮守の祭礼は村一番の定例の行事であった。久賀島では、一歳の誕生日には、新生児の前に、筆と銭とものさしを置いて、その子がそれらのいずれを握るのか、を家族が見守るという行事が行われた。もしもその子がものさしを握れば、将来建築家になる、銭を握れば商人になる、筆を握れば学者になる、と言い伝えられていた。三歳になると、両親が手を引いて餅の上を歩かせるというしきたりがあった。これにはその子が将来食べるものに困らない、ゆたかな人生を歩むように、という親たちの願いが込められていた。一三歳になった男の子には「へこ帯」をしめて成人を祝った。へこというのは兵子ということであり、何時でも戦士として戦える年になったという自覚を持たせることを願ってのしきたりであった。これらの行事は凡て神道信仰と深い関係にあった。いうまでもなく結婚式は神社の神前であげられた。
 他方で寺院は葬礼から代代の墓地の管理までひろく担当しており、神社と見事に役割を分担していた。このように二つの宗教が平和に共存してつくられている民俗は世界的にも珍しいものと思われた。ロペスのような西欧人にとって、これらの宗教が特別に排除の論理を持とうとしていないことが驚きであった。
 禅門寺には後の時代になって過去帖と呼ばれることになる物故者の記録簿があった。何周忌、何十年忌と言われるような仏式の祭祀、法事が全く当然のように各戸でとりおこなわれていた。彼岸の会式、盆の会式(うらぼんえ盂蘭盆会と称した。)甘茶祭り(釈迦の誕生祝い)が寺院で行なわれていて、それらは村人たちの民俗、生活行事として完全に定着していた。
 そして他方で収穫を感謝する神社の祭礼も盛大に行なわれていた。
 ロペスは来日に先立って、ザビエル以来の宣教師たちの報告書で日本の仏教界の実勢を十分に理解していた。なかでも直前に渡日していたフロイスやジョアン・ロドリーゲス・ツズらの著作であった「日本史」や「日本教会誌」の中で、仏僧の説く世界観と信仰はもとより禅宗、浄土宗、一向宗、天台宗、真言宗、日蓮宗などについて、その生活や作法に至るまでの記述を細かく学んでいた。しかし、それらの布教初期の聖職者の熱心の余りになされたと思われる仏教の異教、邪教としての偏った位置づけには相当に疑問を感じていた。  久賀島に上陸して、現地の実状を実際に見た時に、日本人のなかにある清潔、貞節、信義、礼節、素朴、簡素、正直などと表現されるモラルの基準の高さが既存の宗教とは無縁ではありえないことが理解できた。儒教という中国伝来の教えが重要な役割を分担していることもわかった。キリスト教と仏教、神道などの既存の宗教とは、どちらかが正しく、どちらかが正しくないと言う関係ではなく、ただ「相違している」と言う関係にあり、東西文明の源流に発する宗教として互いに地域、民族の歴史や特性に応じて特徴的であるということが出来る。したがってこれらの宗教の排除、克服をめざすことは現実に大きな混乱を生み出し、ひいては東西の文明を互いに否定しあうことになってしまう、という彼の持論が確認できたように思われた。キリスト教と仏教とは互いに対立するよりも、相違点を認め合いながら、共存して教勢を競合し合う道をこそ模索するべきであると思っていた。勿論このような考え方はイエズス会の公式な見解とは全く異なるものであったかもしれない。  とりわけ再々訪れて話し合った禅門寺の住職の禅尊の人柄には尊敬の念を禁じえなかった。禅尊は言った。
 「わが国の仏教では、一世紀前までの、民衆の間に深く浸透して、活き活きと活動することの出来た時代が終って、今一種の沈滞と混乱の時期を迎えています。既存の仏教諸宗と新興の諸宗との競合が激しく、体制化と世俗化が同時に進行して複雑な様相を呈しています。それに本土では織田信長らが戦国時代を終結させる過程で、仏教僧の偽善、堕落、腐敗を極端に攻撃、否定するようになりました。他方で信長は狂信的な宗門の一揆衆などとも戦闘を交えるようになり、ご存知のようにキリスト教を積極的に支持する方針をとるようになりました。もちろんこれに反発する勢力も強くて予断を許さない情勢になっています。
 私たちの禅宗でも鎌倉幕府や朝廷、諸大名に近づいて体制化の道をたどる傾向があって、最近では庶民の間に熱心に浸透していった往時の活力が疑われるようになってきました。 今あなたがおいでになってから、この島の人々が急速にキリシタンに改宗するようになっているのは当然のことかもしれません。私は仏教の僧職にあるものとして、人々の救いとは、希望とは何か、その基本に立ち返って信仰のありかたを深く考え直してみる必要があると思っています。仏教の経典は僧職だけのものとなり、もはや民衆のありようの日常的な規範を求めることのできるものではなくなろうとしています。これに対して信徒のひとりひとりが日々、聖書を読んで深く学び、正しく行おうとしているあなた方キリシタンの、実生活と緊密に結びついた信仰のありようをうらやましく感じています。
 支配者の側の宗教になることは危険です。必ず宗教自体の堕落を招きます。そればかりではありません。神道、仏教をふくめて武士階級、支配者集団と結託した時に、わが国を神格化、特殊化するような思想が主流を占めるようになります。わが国を「神の国」であるとするような思想は危険です。「神の子」である特定の支配者に従属するものとして、人びとの世界を規定するような国家は将来必ず間違いを犯すことになるでしょう。」
ロペスはここ久賀島のことではなく、仏教界のことでもなく、本国、西欧におけるカトリック教会の現状を言われているように思えた。禅尊は知らないであろうが、西欧のキリスト教界でも、いま禅尊が仏教について指摘しているような教会の堕落が指摘されており、大きな混乱が発生していた。
  禅尊は続けて言った。
 「喜捨、寄付を受けるのが当然となり、与えることを忘れて、与えられることに安住するような宗教者になりたくはありません。民衆の中におり立って、極楽浄土を民衆と共に希求することによって民衆に支持されるものでありたい。民衆の風俗の中に溶け込もうとはしない、沈滞した憂うつな世俗宗教者にはなりたくありません。私たちの禅門の曹洞宗や臨済宗の始祖、高僧たちのように市井の現場に下り立って、民衆に愛されるような宗教者になりたいと思います。私は貴方が村人とともに海岸で網を引いておられる姿を見ながら、つくづくうらやましいと思いました。
 本土でのキリシタン支持の風潮が今後どうなるかはわかりませんが、信長候以後の支配者たちが再び仏教や神道支持に回帰するようになった時に、仏教や神道の体制化がさらに進んで、いっそうの堕落、腐敗、沈滞の風潮がはびこることになるでしょう。
 この久賀島において、ただ今進行している事態は民衆にとって何が最も魂の救いになりうるかを見せてくれている貴重な実例であると思います。私たちももう一度、仏典の奥義を読みなおして、釈尊がどのように民衆の間に立って教化、布教を行ったか、その原点に立ち返りたいと思っています。」
 こうした禅尊のような仏僧の考え方は既存の宣教師たちの報告書の中には全く見られなかった。ロペスは禅尊のいうことはむしろ自分たちにとっても重大な教訓として受け取るべきであると思った。民衆は生まれて、生きて、いつか老いて死ぬ。悩み、悲しみ、苦しみ、病んで、迷いながら生きて、生涯を閉じる。この世の現実は誰ひとりとして満たされたものではありえない。だからこそ、救いを求め、極楽、天国、あの世にあこがれる。神、仏、ゼウス、すなわち絶対者に祈る。そのような宗教の原形において、キリスト教も仏教も神道も異なるところはないはずだ。ただ個別の起原と発展の過程が東西あい異なって結果的に形態上の相違が生じたにすぎない。異教を直ちに邪教と決め付けて、異教徒を人間として認めない、したがって宗教に起因する騒乱が絶えない、人の命を救うべき宗教同士の争いによって大勢の人が死ぬ、そのような現実を許容してはならない。今、大航海の時代に、異教の各地で植民地の獲得、支配に伴う殺戮と謀略と非道を伴うような状況が黙認されている、そのような布教の実態を許さないためにも、今私たち聖職者は正しく行動せねばならない。ロペスはこの時点で、後の世になってローマ教会も採用せざるをえなかった「エキュメニカル・エバンゲリスム」と言われるような新しい考え方にすでに到達していたのであった。ロペスは禅尊のような仏教徒の真摯な態度や考え方があることについても、また久賀島のように神仏二つの宗教が共存してすぐれた風俗がつくられていることについても、母国に正しく報告しておく必要があると思った。


第四八話  出航前日のドミナ号での会議

 船体の修理も終わった。マストも帆も完全にできあがった。いよいよドミナ号は久賀島を離れることができる。実に七ヶ月間にも及ぶ不本意な停泊であった。
 出航直前の幹部会議が船長室で秘密裏に開かれていた。甲板長、副長、機関長らが集まっていた。コスタ元船長と人質の三人の娘たちの処遇を巡って批判を強めながら、日毎、事毎に反抗的になってきたマリョルカ派の処遇も議題になっていた。
甲板長が口火を切った。
 「われわれは台風に見まわれて漂流し、この久賀湾に到着してから七ヶ月もの間、よくがんばってきた。人質を盾にして村人たちに食糧を提供させ、船体の修理をさせてきた。これはわれわれがあの弱腰のコスタを船長の座から追放したからこそできたことである。コスタと小うるさいロペス宣教師ともども久賀島に上陸させて、われわれカスティラ派の思うとおりに事を運んできた。そしていよいよ明日は出航の日となった。明朝、最後の水と食糧を積みこんだら何時でも出航できる。
 しかしまだまだ片付けなければならない問題が残っている。それをこれから相談したい。腹蔵なく意見交換をしよう。」
 副長が言った。
 「甲板長、貴方の意見を結論から聞かせていただきたい。」
 「まず、はじめに、この船はマリョルカ島のバルマ港には帰らない。イベリアのバレンシア港に帰ることにする。そして真っ先にスペイン王家にコスタの謀反を訴えて、われわれがこの船を取り返して来たことを申し出る。
 第二に人質のコスタは引き取らない。第三にマリョルカ派の乗組員も帰国させない。第四に人質の三人の娘たちも久賀衆には渡さない。その上で明日正午すぎに出航する。」
 非常に大胆な甲板長の見解に驚いて、機関長のゴンザレスが言った。
 「なぜ,コスタを引き取らないのか。この船はコスタ伯爵の持ち船ではないか。いきなりバレンシアに帰ってもよいのか。説明してほしい。」
 「答えよう。確かにコスタの船である。しかしコスタはアラゴン王家の再興のために今回のジパング回航を利用しようとしてきた。これはスペイン王家に対する謀反を企てたということになる。許すことはできない。この点についてはすでにこれまでの幹部会議で結論が出ており,船長の資格を剥奪してコスタを投獄してきた。そして更に人質としてさし出した。代わって船長に就任した自分には彼についての処遇をきめる権限を与えられている。コスタを引き取らないということは、人質交換で返されてくるコスタを生かしておくことは出来ないと言うことだ。」
 副長がことばを継いだ。
 「もう少し詳しく説明してください。」
 「これには第三のマリョルカ派の処分も絡んでいる。コスタの復帰を望んでいるマリョルカ派もまたアラゴン王国の再興を望む連中であり、反逆者である。したがってこの際コスタと共に消えてもらおうと思っている。それから第四の娘たちを返すわけには行かない理由はもうおわかりであろう。われわれが人質の娘たちを散々慰み者にしてきたことを久賀衆に知られるわけにはいかない。娘たちを島に帰せば俺たちがしてきたことが後日、本国に知らされるようなことがおこりかねない。上陸して布教しているロペス宣教師の報告書に書かれないともかぎらない。大事を取って彼女らにも消えてもらうことにする。
もう少し正確に説明しよう。明朝、人質交換の舟がドミナ号と久賀島の双方からやってくる。当方の三人の娘を乗せる舟のこぎ手としては、コスタが帰ってくるということで喜んでいるマリョルカ派の六名全員をあてる。先方の舟にはコスタとおそらく武生が乗りこんでくるだろう。二つの舟が接舷して互いに人質が乗り移ろうとするときに、ドミナ号では火砲と鉄砲を発射して二つの舟を撃沈してしまうのだ。その直後に本船は出航する。湾口を目指して帆走する。もちろん、人質交換の舟を出す前に帆を十分に張っておいて、何時でも出航できるようにしておくのだ。」
 「そのような乱暴なことをして。後日問題になりませんか。」
 心配そうに言った副長に向かって、甲板長は説明を続けた。
 「いや、もう少し詳しくいうと、人質交換の時点で、当方の習慣に従って、祝砲のつもりで鉄砲を発射するのだ。ただし、その流れ弾が見物の久賀衆の間に落ちるように仕組んでおく。もちろん相当数の負傷者が出るだろう。必ず彼らは騒ぎ出して、怒って反撃してくる。おそらくこの挑発に乗った連中は矢を射たり、場合によっては藩から持ちこんだ旧式の鉄砲を撃って来るにちがいない。そうなるとあとはこちらの筋書きどおりになる。
 「自衛のために」、ということで、これに応射する形で、こちらの鉄砲隊が一斉に火を吹き、そのあと決定打として二隻の人質の舟をめがけて存分に大筒を撃ちこむのだ。」
 機関長が膝をたたいて言った。
 「なるほど、それで十分に言い訳ができる。後日問題になったとしても、トラブルに巻き込まれたのだ、と言い逃れることが出来る。一挙に邪魔者も消える。われわれはこの程度のことはこれまで何処でもやってきた。あの賢明なピサロ総督のやりかたにあやかろう。まして今のわれわれにはスペイン王家に対する忠誠という大義名分がある。やるなら完全にやろう。邪魔者を一人でも生かさぬように大筒を集中的に叩き込もう。彼らの口を完全にふさいでしまおう。」
 副長が言った。
 「少々、かわいそうな気がします。やましい感じもしないではありません。しかしここまできたらやむをえないようです。まあ、今夜、久賀衆に手渡すことになっている修理や食糧の礼金はきっちり支払っておくことにしましょう。」
「それに、この半年間、娘たちにたっぷり楽しませてもらった礼金分も大いに弾んでおくんだな。」
 甲板長は高笑いしてそう言った。機関長が言葉を継いだ。
 「大筒を撃つのなら、ついでに徹底的に在所の宿を始めとする久賀湾のすべての拠点を砲撃して、村中を大混乱に追いこみ、その後で鉄砲隊を先頭に上陸してこの島を占領してはどうか。この間も言ったように、この久賀島はわが国のジパング支配の重要な拠点になりうる。一方的にわれわれが攻撃したというのではなくて、われわれが攻撃されて応戦した,と言う形で上陸、占領したと言う説明が可能なはずだ。今はチャンスだ。」
「場合によってはそうしてもよい。あの憎い武生めを捕らえて存分に痛めつけてやりたい。 それに、あの上玉のたまきもたっぷりいたぶってやりたい。将来ともこの占領地を守るのは簡単だ。われわれには強力な武器があるんだ。福江の宇久藩の侍たちが出てきてもたいしたことはない。」
 甲板長の言葉をさえぎるように副長が言った。
 「いや、そこまではしないほうがよいでしょう。久賀湾周辺の部落は制圧することができたとしても、外海に面した蕨、田之浦などをどうするのですか。蕨が勇猛で特別に気が荒い命知らすの漁師たちが住んでいる村であることを忘れてはなりません。それにあの日本刀を造っていると言う田之浦衆は七人の仲間が殺されたことで、復讐心に燃えています。いくら鉄砲があったとしても、陸上戦では相当に犠牲者が出るでしょう。」
 「いや、ドミナ号は今や何処へでも航行できる。湾口を出て海上から蕨を砲撃し、続いて田之浦を砲撃し、完全に奴等の戦意をくじいてから、上陸する。これなら絶対に勝つことができる。」
 機関長は机をたたいて言いきった。副長はさらに続けた。
 「あのロペス宣教師をどうしますか。一部始終を見ることになるロペスが母国と法王庁に書き送る報告書がありますよ。」
 「報告書はどうにでもなる。報告書を運ぶのはわれわれと仲間の船しかないんだ。すりかえてもよい。海中に捨ててもよい。実際遭難したりして本国につかない報告書は五万とあるんだ。それに第一、騒ぎのきっかけが祝砲の流れ弾と久賀衆の誤解に基づくトラブルにあったということであれば何も問題はない。そのあとは、われわれが自衛のためにやむを得ず行動したということで万事が片付くんだ。宣教師は神様のことだけ考えておればよい。われわれが進駐したあとで、この島にキリシタンの信者がいっぱいできるように存分に応援してやれば文句はないだろう。」
 副長はまだ納得しかねるように言葉を継いだ。
 「それにしても当方にも相当な被害が出る可能性があります。そんな手荒いことをしないで済ます方法がないものでしょうか。
 私はひとつもっと穏健で犠牲の少ない方法を提案したいと思います。ドミナ号の出航の祝賀会と言うことで、久賀衆の長老と武生、それに主だった村の評定衆を招待するのです。コスタもいっしょに呼んでもよいでしょう。律義な彼らはきっと盛装してやってくる。彼らが乗船したところで、全員を直ちに逮捕、監禁する。あとは全くこちらのしたい放題です。そのまま出航してもよい。長老と武生、コスタは適当に東支那海 あたりで処分してもよい。マラッカ近辺で奴隷として売り渡してもよい。三人の娘たちも同じです。喜望峰あたりで売りに出せば、日本娘として珍しがられて高値で売れるでしょう。
勿論、長老と武生たちを人質に取った上で、機関長のいうように、上陸して島を占拠してもよいでしょう。この作戦は非常に賢明です。」
 甲板長が感心して言った。
 「確かに面白い。しかしそれこそ少少やりすぎではないか。副長のような紳士がそんな作戦を考えつくなんて、とても信じられん。」
 「とんでもない。これは三〇年前にわがピサロ提督がインカ帝国を攻略した際の戦術と全く同じです。最も効率的な方法です。まず欺いて相手の首領を捕らえる。そのためにはどんな謀略を用いてもよい。当方の犠牲を少なくするためには何をしてもよいのです。相手は未開の異教徒だからです。いや正面から戦うより相手の犠牲も減るでしょう。久賀島のためでもあるのです。ピサロはほんの一握りの兵卒を率いて、ただし鉄砲という相手にはない最新の武器を用いてあのインカ帝国を壊滅させることに成功しました。そして彼はスペイン王の栄光のためによくやったということで母国では大いに賞賛されたのです。ピサロだけではありません。オランダ、イギリス、ポルトガルの遠征隊もアフリカ、東印度、インドシナ、マラッカ、ルソンなどで同じようなことをしています。こうした事例は数え上げればきりがありません。未開の異教徒は捉えて奴隷として、家畜並みに売り買いしても違法ではないのです。私の作戦は同じ事をこのちっぽけな久賀島で実行しようというだけのことです。これは必ず成功します。」
 得意げに策士の副長が言った後で、甲板長が決断した。
 「わかった。すばらしい作戦だ。ぜひそれで行こう。ではまず、今夜これから使者を送ろう。そのさい、これまでの礼金を持参させよう。その際に正午に出航の祝賀式と昼食会をするので、長老と武生と評定衆全員を招待する旨を伝えることにする。そしてそのあと午後になってから人質の交換を行うと言わせよう。奴等はやたらに礼儀正しくて、おまけに人がいいときているから絶対に乗ってくる。そうすれば明日の出航祝賀会は一転して捕虜にした久賀衆たちの歓迎会に切り替えられるということだ。あとはこちらの自由にできる。すぐに出航するか、または上陸して島を占領するかはゆっくりきめればよい。その時点で、相手の出方次第で慎重に作戦をきめよう。彼らを捕虜にすれば、あわてて出航することもない。
 そうだ、あのたまきも何とか招待するように仕組めないだろうか。武生とたまきを捉えたらどうしてやろうか。ぞくぞくするような気分だ。」
 このあと甲板長、機関長、副長は、乗組員全員に対して、明日の人質交換では不測の事態に備えておくように、とくに鉄砲隊には戦闘準備を怠らないようにと命令した。さらに大筒の砲手たちには弾丸を十分に準備しておくように注意した。
 その夜、ドミナ号は三本マストに帆をいっぱいに張って、試運転のために久賀湾内を航行した。海岸に集まった村人たちが注目する中を、ドミナ号は誇らしげに汽笛を鳴らして、威風堂々と夜目にも鮮やかに白波を切って進んだ。マストにつけられたランターンの灯火が波間に映って、ほのかに漂よいながら静かに航跡を残していった。
 明日は紅毛船がいよいよ出帆する、という噂は島中に広がった。人質になっている三人の娘の親たちは緊張していた。コスタにも明日ドミナ号に返されるという連絡が入った。もちろん本国に帰るドミナ号の出航がロペスにも久賀島にひとり残されることになる伝道者の厳しい生涯の始まりになることを思わせた。


第四九話   出航前夜の久賀衆の評定

 禅門寺の本堂では久賀衆の評定が行なわれていた。本堂前の広場にはかがり火が焚かれていて、あたりは真昼のように明るかった。大勢の村人たちが評定を傍聴するために集まってきていた。
 ドミナ号が久賀湾に漂着してから七ヶ月有余の月日が流れていた。その間に久賀島始まって以来の重大な事態がいくつもおこった。略奪、暴行、拉致、死傷、あらゆる異常な情景が展開した。村衆はよく耐え、よく忍んだ。そしてようやく明日、その悪魔のような紅毛船が出て行くことになった。
 しかし、まだ最後の課題が残っていた。それは三人の娘たちを無事取り戻すことであった。しかし、そのことはコスタとの人質交換という形でおそらく無事、決着がつくものと思われた。もうひとつ、先ほどドミナ号からの使者が船体修理と食糧支援の礼金をとどけて来た。さらに明日の出航祝賀会には長老と武生とたまきのほか評定衆全員を招待する、とのことであった。評定所ではこれにどのように返答するかを決定しなければならなかった。
 長老が最初に挨拶した。
 「この七ヶ月余り、よくぞ辛抱してくれた。心から礼を言う。とくに拉致された娘たちの親御殿にはよくぞ堪え忍んで下さった。また殺された七人の田之浦衆の家族、妻女殿にはあらためて心からお悔やみ申し上げる。」
 娘たちは帰ってくるが、死者たちが再び帰ることはない。そのとき庭のかがり火がひととき高く燃え上がったように思われた。
 座長をつとめていた武生が言った。
 「実はドミナ号から船体修理と食糧支援の礼金が届いている。莫大な金額の金貨が木箱に詰められて持参された。受け取るべきであろうか。」
 論議は相手の好意を受け取るのが礼儀であるというものと、後日何の代価であるかと詮索された時に、この金が修理代や食糧代だけでなく彼らの村への侵入や蛮行、無礼をも赦すものとして受け取られたとみなされることは避けねばならない、したがって受け取るべきでない、とするものがあった。代官は受けとることをすすめた。論議が続いたが、最後に長老が裁決した。
 「この金は受け取らない。明日丁重にお返ししよう。ご厚意はありがたく受け取るが、漂着して困っているものを助けるのは当然のことであり、わが国の流儀である。こうした場合に礼金を受け取るのは信義に反する、と申し上げておこう。帰国の長旅では、途中、金子が入用のことでもあろうし、乗組員のために使ってほしいということにしよう。」
 つぎに祝賀会への招待の申し出でがあったことが告げられたが、これはお受けすることが当然の礼儀である、として全員が出席することに賛成した。長老と武生とたまきと評定衆の全員がドミナ号の別れの昼食会に参加することになった。長老が「喜んで出席する」と返答しようと、裁決した。
 ところが、傍聴を許されていたロペスは胸騒ぎを覚えた。この招待には甲板長たちの何らかのたくらみが隠されている。もしも長老たちと評定衆たちに万一のことがあれば、久賀島は無政府状態になる。したがって全員がドミナ号に行くのは危険である。ロペスはそう思った。そして近くにいた伝次にその旨を話した。伝次は武生に中座させて別室で協議した。二人はすでにインカ帝国を滅亡させたピサロの事件を知っていた。甲板長が信頼出来ないこともわかっていた。長老とも打ち合わせたあと、評定の場に帰った武生は会衆に言った。
 「このたびは招待をお断りすることにする。ご厚意だけはありがたくお受けすることにしよう。そのかわりに祝賀の席に祝い酒を届けよう。この島を守る責任のあるものが全員島を留守にすることは許されない。万一の事故にも備えなければならない。」
 会衆は全員納得した。そのあと伝次が立った。
 「万一の事態に備えるためには自衛力を保持せねばならない、との前回の評定の結論に基づいて、われわれは鉄砲の鋳造を行ってきた。幸い最新式の中篭め銃が開発できて、ちょうど今一〇〇挺がそろったことを報告しておこう。」  聞いていたロペスは驚いた。たった六ヶ月の間に、この島で一〇〇挺もの銃をそろえることができたと言う事実は全く信じられなかった。しかも火縄銃ではなくて、中篭銃というのは一体何だろう。
 「鉄砲隊の訓練も終った。いざという時の警備にも十分耐えられるようになった。明日は何事もなく無事に人質の交換が終ってドミナ号が出航するようになる事を信じたいが、万一の事態が発生した場合に備えて警備体制を敷いておくことにする。」
 もう一人、腰を抜かすくらいに驚いていた人物がいた。それは宇久藩代官の松浦平左衛門であった。倭寇衆に気兼ねして、これまで自治権を与えてきた久賀島の評定衆が鉄砲一〇〇挺を用意して、しかも強力な鉄砲隊を編成したという。何たることか。隣島にある宇久藩の本城にさえ、鉄砲は一〇挺ぐらいしかないというのに、今更のように侍、武士の権威も色褪せるような思いを持たないではおれなかった。この事実は早速宇久藩庁に知らせねばならないと思った。
 後日、久賀島で製造された鉄砲が田之浦衆の倭寇船に積み込まれて、東南アジアの各地で海賊たちとの戦いで猛威を発揮することになったことを付記しておこう。
会衆の中から質問があった。
 「万一の事態とはどういうことか。」
 「このような緊張した状況の中では相手方にも当方にも誤認事故が発生しがちである。誤解からの敵意が発生して、戦闘が勃発するということがありうる。結果的に大混乱が発生する。そのような事態はたとえば鉄砲や大筒の暴発や誤射というようなことによってもおこりうる。当方でも、田之浦衆は七人もの仲間が殺されたことから復讐心を燃やしているであろう。大いに気をつけてほしい。厳重に言っておくが、たとえ何があっても、長老の命令無しに動いてはならない。今は統制のとれた行動こそもっとも大切なのだ。」
田之浦衆を代表する人物である伝次の口からこのような言葉が出たことに会衆は事態の緊迫ぶりを十分に感じ取った。伝次は続いて言った。
 「このような乱世の中では、自分を守る力がなければどのようなことが起っても責任が持てない。平和を口にするだけでは平和は守れない。ドミナ号が漂着して以来の事態はわれわれにそのことをよく教えてくれた。鉄砲隊の編成については先に述べたとおりであるが、ここでもう二点付け加えておきたいことがある。」
 会衆は静まり返って聞こうとした。
 「その第一点は鉄砲だけでなくわれわれは大筒の鋳造にも成功した。すでに折紙鼻の高台に砲台をつくって大筒を据え付けてある。これで久賀湾を出入りするすべての船に照準を合わせることができるようになった。」
 会場がざわめいた。ロペスと代官はまたしても舌を巻いた。堺で最新の鋳造技術を学んできた伝次という、恐るべき男がこのような離島に住んでいたことは予想外であった。しかし実は倭寇船の基地でもある田之浦では伝次のようなすぐれた技術者の集団が必要とされており自ずから高度な技法が育っていたのも必然のことであったといえるであろう。
 「その第二点は、長らくマニラ近海で貿易に従事していた田之浦倭寇の船団が一昨日、港に帰ってきた。本日すでに折紙鼻の内と外に数隻ずつ配置を終っている。無事ドミナ号が湾外に出て行くまで警護と監視にあたることになっている。」
 会場の中から質問が出た。
 「最悪の場合、どのような事態が予測されるのか。」
 「不測の事態から予想されるものは、――――」
 伝次はここで一旦息をついたあと、声を張り上げていった。
 「それは、率直に言うが、第一にドミナ号からの鉄砲の一斉射撃であり、第二に大筒の湾内各部落への打ち込みであり、第三に鉄砲隊を先頭にした久賀島への上陸である。」
 広場の群集のなかから大きなざわめきが起った。
 「それではどう備えるのか。」
 異口同音に質問がとんだ。
 伝次は相手方の出方がどのようなものであろうと十分に対応できるつぎのような作戦を示した。彼はこのことのためにこれまで武生と幾晩も徹夜して考え抜いて来たのであった。
 鉄砲隊を一〇人ずつ一〇隊に編成する。うち五隊はこぎ手をつけた五そうの漁船に乗ってドミナ号の周辺に配置する。ただしドミナ号からは鉄砲が見えないように工夫する。残りの五隊のうち三隊は倭寇の船に乗せて警戒に当たらせる。残りの二隊は陸上の警備にあたらせる。ドミナ号の鉄砲は六挺程度と思われるから、これで十分対抗できると信じる。なお鉄砲隊の射撃によって甲板上の乗組員が手薄になった後、火矢を帆に向かって撃てば有効な武器となる。したがって当方の倭寇船でも十分に火矢を準備しておく。
 もしも相手方が上陸してくるようなことがあれば、鉄砲隊は直ちに陸に上がって応戦する。大筒が打ち込まれることも考えられるので湾内の各部落では戦闘がはじまり次第、女子供を山手に避難させるように十分に手配しておく。なお全体の戦闘の司令部をこの久賀の突堤に置く。時どきの合図はのろしを上げて行うことにする。
 倭寇船団からの切り込み隊は縄ばしごでドミナ号に乗り込んで、最後の止めを刺すことになるだろう。>BR>  念のために言っておくが、当方から攻撃を始めることは絶対にしてはならない。相手方の虚をつくやり方は久賀衆の信義に反する。あくまでも平和のうちに、人質交換を終わって、無事ドミナ号が出航することを願っている。以上の構えは万一の事態に備えるためである。
 明日は午後から人質交換と言うことになっているが、念のために警備はすでに今夜から始めることにする。村の衆はこのあと急いで各部落に帰って、ここで決まったことをみんなに知らせてほしい。それから他の島から来ている見物客は明日は一人も外出させてはならない。今夜のうちから触れを出しておくように。」
 このような周到な作戦配備が行なわれていることをドミナ号では全く知らなかった。ロペスは甲板長たちが無謀な行動に出ないことを祈った。しかし彼らが素直に三人の娘たちを返すか、どうか、甚だ疑問であると思った。娘たちにあれほどのことをしておいて平気で返せる訳がないと思われた。そうしたくないために何らかの暴挙に走る可能性があることを懸念した。
 ロペスはそのあとコスタを訪問して評定の一部始終を伝えたが、コスタも全く同意見であった。甲板長らは必ず何かを仕組んで来る。それにしても久賀衆の目を見張るような対応ぶりには驚いた。短期間にそれだけの鉄砲を準備し、大筒までもあの折紙鼻に据え付けるとは。それにあの恐るべき倭寇船団を敵にまわしては勝てるはずがない。ひなびたこの久賀島の人々に、ここまでの危機管理能力があるとは全く信じられなかった。コスタは同時に自分の持ち船のドミナ号が無事であることを祈らないではおれなかった。
 ロペスもコスタもその夜は一睡も出来なかった。勿論在所の宿でも明日の不測の事態に備えて、評定衆たちの、さらに細かい打ち合わせが続いていた。台所では、たまきを中心とした女たちが徹夜で炊き出しの準備に追われていた。そしてその中には帰ってくる三人の人質の娘たちのために祝いの赤飯を準備する親たちの嬉しげな姿が見られたことも付記しておこう。


  最終回 第五〇話  出航当日の情景、ドミナ号の最後

 元亀二年(一五七一年)三月一五日、快晴、いよいよドミナ号の出航の日を迎えた。甲板長らが昨夜、使者に託して持参した謝礼の金貨は意外なことに、受け取りを辞退されてきた。機関長が提案した出航祝賀会への長老、武生、たまき、評定衆の招待についても謹んでお断りするという挨拶があった。
 ドミナ号ではこれを受けて早朝から作戦会議が開かれた。そして結局、始めに甲板長が示した作戦で行くしかないという判断に達した。
 型通りの乗組員だけの出航の祝賀の宴も終わった。三人の娘を送り届けて、元船長のコスタをひきとるということで、マリョルカ派の六人全員が人質交換の舟艇のこぎ手になるようにという命令も伝えられた。
 正午が過ぎて、人質交換の時が来た。娘たちが真っ白いドレスを着せられて甲板上に現れた。久しぶりに見る外界の眩しさに彼女らは伏せ目がちになって歩いてきた。まぶしいほどの気品に満ちていた。海岸沿いに集まって、遠くから食い入るように注視していた村人たちは娘たちが現れると一斉に名前を呼んで拍手した。母親や家族たちはしきりに涙を拭っていた。
 マリョルカ派の乗組員たちは彼女たちを舷側から舟艇に乗せた。彼らは娘たちと交換に、自分たちの主君である元船長のコスタを乗せて帰れることを、ことのほか喜んで送迎役を引き受けたのであった。舟に乗り移った彼女らの目からは涙があふれていた。理不尽に拉致されて、人質として、しかも自由を束縛されて、荒くれ男たちに存分に弄ばれて今日にいたったことを村人たちの誰も知らない。そのことは彼女らにとっては、もはや救いではなくて、新しい苦しみになろうとしていた。そのことを隠して生きねばならないこれからの人生を耐え難いものと感じていた。とくに自分たちを待ってくれている許婚たちとの再会が恐ろしかった。しかし、ちづの思いだけは違っていた。彼女はコスタが同じ船倉に囚われていて、自分たちに起っていることを全部知り尽くした上で、なおかつ自分を愛してくれていたことに心から感謝していた。けれどもそのコスタは人質交換と言うことでドミナ号に帰っていく。そして本国に向けて出航していく。自分とは今日が永遠の別れになるだろう。そのことがひどく悲しかった。
 久賀の突堤からはコスタとこぎ手四人を乗せた小舟が静かに波を切って近づいてきた。 ちづは懐かしい制服姿のコスタをみつけた。コスタも久しぶりにいとしいちづの姿を見た。故郷イベリアの純白のドレスを着せられたちづの姿はマリョルカ島で見たどの娘よりも美しかった。突堤の先端から見ていたロペスはこの二人が、今またすぐに離れ離れになるであろうことを悲しんだ。そしてひたすら祈っていた。
 「神よ、二人の愛を成就させ給え。汚辱の淵にも汚れることなく、みごとに開いた蓮の花のように、美しい二人の愛を祝福させ給え。」
 二人を乗せた舟は互いに別れるために近づいていたのである。ロペスは哀れな二人のために目頭を拭っていた。
 ちづに対するコスタの求愛についてロペスから聞かされていた父親の伝次の心境も複雑であった。いったいどうすればよいのであろうか。
 二そうの舟は次第に近づいた。そして舷側すれすれに並んだ。
 その時であった。突然ドミナ号から銃声が鳴り響いた。筋書き通りに甲板長が発射を命じたのであった。弾丸は見物していた村人たちの一人にあたった。悲鳴が上がった。大きなざわめきが起った。しかし、長老は応戦することを命じなかった。色めきたつ鉄砲隊を武生が抑えた。祝砲の誤射か、暴発ということもある。長老は事態を静観しようとした。あくまでも人質交換を無事に終了しようとした。
 久賀衆は全く応戦してこなかった。甲板長の目算は狂った。このままでは思惑どおりに運ばない。情勢は不利に展開する。甲板長は機関長と早口に打ち合わせて、ついに大きな賭けに出た。舷側三門の大筒に発射が命じられた。
 大筒が火を吹いて、轟音が久賀湾に木魂した。村人たちは震え上がって蜘蛛の子を散らすように逃げ惑った。大筒の弾丸が人質交換の二隻の舟のあたりに落下して巨大な水柱が何本も上がった。両方の舟に乗っていた人質も乗組員も全員が海中に投げ出された。
そのときドミナ号は突然碇を上げて動き出した。大筒を撃ちながら、そして鉄砲を乱射しながら、湾の出口方向にむかって北上を始めた。
 長老は卑劣なドミナ号の振る舞いに始めて怒りを露わにした。そしてついに戦闘の開始を命じた。
 武生は、最初の合図ののろしを上げた。五隻の鉄砲隊の舟はそれぞれ一〇人のこぎ手が懸命に櫓をこいでドミナ号のあとを追った。そして一斉にドミナ号の甲板めがけて発砲した。
 甲板長たちは一瞬耳を疑った。これほど多数の鉄砲が自分たちを狙ってくることなど全く想像もしなかった。大筒の砲手たちが被弾してつぎつぎに倒れた。応戦するにしても六挺の、しかも旧式の銃では全く相手にならなかった。舷側の両側から打ち込まれてくる銃弾は甲板上に出ることが危険な程になった。それでも機関長は砲手たちを励まして大筒を発射させた。ねらいは武生や伝次たちのいる突堤の司令部と在所の宿であった。轟音がなり響いた。落雷のような地響きがして弾丸が落ちた。だが、蛇行するドミナ号から撃つ火砲の照準は定まらず、ほとんど命中することはなかった。しかし巨大な水柱はいくつも上がった。久賀衆の男たちははちまきをして手はずどおりの配置につき、女子供たちは山手に避難した。
 甲板長たちは全く意外な展開に狼狽した。もはや久賀湾からの脱出を図るしかなかった。しかし帆にうける風がほとんど凪いでしまって、船の動きは鈍かった。それに対して久賀衆の小舟は時折海中に打ち込まれる大筒の水柱の間をかいくぐって自由自在に動き回り、接近し、射撃した。五隻の舟からの、五〇挺の新式銃の威力は絶大であった。
 人質を乗せた二隻の小舟は一旦転覆したが、幸いなことに、娘たちも水夫たちも、そしてコスタたちも泳ぎの腕は達者だった。遠ざかってゆくドミナ号からの射撃も突堤付近ではもはや心配がなくなって、付近にいた全員が救助に向かった。そしてひとりひとりを小舟に助け上げた。マリョルカの乗組員たちも全員が無事だった。
 舟が転覆した直後に、コスタは海中でちづを探し当てた。二人は水中でしっかりと抱き合った。ちづの濡れた黒髪がコスタの腕にまつわりついた。息をすることも、泳ぐことも忘れてしまった二人は、海中に沈んだままで熱いくちづけを交わした。思いがけない再会であった。
 ドミナ号上は大混乱になっていた。甲板長の目算は外れた。機関長の上陸計画も吹っ飛んでしまった。それどころか追尾する久賀衆の小舟からの鉄砲の威力は凄かった。照準が正確で甲板に出ることは危険を伴うほどであった。折紙鼻を目ざして走る船足は遅かった。それでもちょうど久賀湾の中ほどまで逃げ延びて、甲板長らはこれなら脱出は可能であると判断した。鉄砲には船体自体を破壊する力はない。帆と舵が健在である限り必ず湾の外に出れる。そう思った。
 その時、二度目ののろしが打ち上げられた。折紙鼻方向を見ていた副長の目に数隻の船隊が急速に接近してくるのが見えた。大声で知らせを受けた甲板長にも、やがてそれが三隻の中型帆船であることがわかった。長旗には漢字で船名らしいものが記されていた。それは紛れもなく東南アジアの近海で見たことのある倭寇の船であった。田之浦倭寇の船は急速に接近してきた。各船上に配置されていた鉄砲隊はドミナ号めがけて激しく射撃した。後ろから追尾してくる小舟五隻の鉄砲隊と前から接近してくる倭寇の船団にはさみ討ちになりながらドミナ号は蛇行したが、何度も何度も立ち往生することになった。大筒を時折撃って抵抗したが距離が近すぎて命中することはなかった。
 勇猛な倭寇の船はドミナ号の舷側すぐ近くに迫って来た。鉢巻き姿の男たちがすぐそこに見えた。そしてついに得意の火矢をうち込み始めた。倭寇が東南アジアで海賊船と戦った時に、この火矢の威力は絶大であった。帆に火がついて船が立ち往生をしたあとで勇敢な倭寇たちは日本刀を振りかざして相手の船に乗り移り、敵を完膚なきまでに殺戮した。それは当時の世界中の船乗りたちに知れ渡っていた随分と有名な話であった。ドミナ号の乗組員は震え上がった。
 副長が駆け込んできた。
 「白旗を掲げて降参しましょう。このままでは逃げ切れません」
 最後尾のマストの帆に火がついて激しく燃え上がっていた。しかし折から強く吹いてきた北よりの風にメインマストの帆が大きく膨らんで船の速度が上がった。甲板長はまだ強気であった。舵輪をしっかりと握りながら言った。
 「絶対に逃げ切って見せる。今更降伏するわけにはいかない。」
 機関長も自分たちがしてきた無法、非道、欺瞞の数々がもはや許されるわけはないと思っていた。今はただひたすら逃げ切りをはかるしかなかった。それにしてもこの銃弾の嵐は予想もしないことであった。また倭寇船まで出現するとは意外であった。武生たちの周到な戦略には完敗したと思った。上陸して久賀島を占領するなど全く甘い幻想に過ぎなかった。
 乗組員たちの半数は被弾して血を流していた。救助する余地もなかった。
ロペスは折加美神社裏の小高い丘に上って今は見えなくなったドミナ号のために祈っていた。ドミナ号の同胞たちがはるばる故郷を離れてこのジパングにたどり着き、武力に頼んで無法の限りをつくした報いを今受けている。ダンテの神曲の中の「怒りの日」の情景を思い浮かべた。今なお大きく湾内に鳴り響いている大筒と銃声の轟音は人々の命のやり取りを嘲笑う悪魔るしふぇるの饗宴そのものであった。
 「ああ、されど神よ、彼らを救い給え。彼らの罪を許し給え。」
 ロペスの回りには何時の間にか人々が集まってきて祈りの輪が出来ていた。新しく信仰を告白して洗礼を受けた人々であった。この久賀島始まって以来の恐るべき一日を経験した今、彼らは憎しみの対象であるドミナ号の人々のためにさえ祈ることを教えられていた。 ドミナ号は折紙鼻の出口付近にようやく辿り着いた。ここを出れば玄界灘だ。もう心配することはない、と思った時に、機関長は折紙鼻の出口に待ち構えている数隻の帆船を発見した。またしても倭寇の船隊であった。
 折紙鼻の潮の流れは早く、満ち潮どきの海水は湾内に流れ込んできて、船足を完全に止めてしまった。ドミナ号はたちまち立ち往生した。もう湾外には出られなかった。絶望であった。
 ドミナ号内が大混乱に陥った時に、三度目ののろしが上がった。同時に折紙砲台の大筒が火を吹いた。伝次の快心の作であった火砲は正確に発射された。甲板長たちは愕然とした。何という信じ難いことがつぎつぎに起ることか、久賀衆がなぜ、火砲を撃てるのか。
 巨大な水柱が船の前後にいくつもいくつも上がった。倭寇の船はその間を縫って接近し無数の火矢を打ち込んだ。銃撃が激しいためにほとんど防火の手段が封じられた甲板上では、あちこちに炎があがっていた。メインマストの帆にもついに火がついて燃え上がった。そこここに負傷した乗組員たちがうめきながらのた打ち回っていた。もはや断末魔の情景であった。
 ついに折紙砲台からの一発が命中した。右舷が大破して海水が流れ込んできた。船体は大きく右に傾いた。生き残った乗組員たちは海に飛び込んだ。甲板長は舵輪にしっかりと体をくくりつけて、火炎をあげながら静かに傾いて行くドミナ号と運命を共にすることを決意した。彼の最後の誇りを示そうとしたのであろうか。
  おわりの時が来た。マリョルカ島からはるばるやってきたドミナ号は名残惜しそうに巨大な水しぶきをあげながら、船尾から次第に久賀湾の海中に姿を消そうとしていた。

 玄界灘に大きな夕陽がためらいがちに沈んでいった。ドミナ号が完全に海中に消え去ったのは、西暦一五七一年、元亀二年三月一五日の夕刻のことであった。
 完全に静寂をとりもどした久賀の海に、禅門寺の夕べを告げる鐘の音が低く、長く鳴り響いた。その時、諸行無常の思いの中で禅尊はひたすらに般若心経を誦み続けていた。
                          (完)


  藤原邦達の近況2


ワールドカップ閉幕所感(7月1日記載)

 6月30日、サッカー・ワールド・カップはブラジルの優勝で幕を閉じた。試合終了直後の選手たちの表情に、私はさまざまな「人間」を感じていた。いうまでもなく舞い上がるブラジルの得点王、勝者ドナウドの表情は輝いていてすばらしかった。しかし私は戦いの終わったあとのゴールポストにもたれながら、そしてやがてそこに寄りかかって長い間座っていた敗軍の将、ドイツのゴールキーパー、カーンの、正面をみすえて耐えていた、その表情に強く惹かれた。まさしく、それは男のなかの男の、ほれぼれする表情であった。
 インタービューに答えて、カーンは言った。「1点目は、私のミスで失った。責任を感じている。」


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 本が完成しました。昨年の12月末に刊行されて市販されています。
表題は正式に「食品被害を防ぐ事典」となりました。版元は農文協です。
同社からは、これまで「輸入食品に反対する事典」、「遺伝子組換え食品を考える事典」と事典と名のついた本が2冊出ています。
「食品衛生法の改正、食品行政の変革」が絶対に必要である,公的対応の遅れが、O157事件、雪印低脂肪乳事件、狂牛病事件などを次々に引き起こす根源的な理由であることを結論的に示しました。(02年1月17日)
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 今、狂牛病問題の原稿をまとめています。この夏ごろまでには本にしたいと思っています。書店には狂牛病コーナーが出来ていて、多彩な著者による多数のすぐれた作品が並ぶようになっています。然し、私は、こんどの本では、公的対応の欠陥を公衆衛生学の立場から指摘する、という論旨で貫きたいと思っています。西ドイツでは保健、農業両大臣が狂牛病の責任をとって辞任しましたが、わが国の相当する両大臣は大口をあけてステーキをほおばって見せてくれました。この写真は外国にも配信されたようですが、生産酪農家が倒産寸前の塗炭の苦しみを味わっている時に、ずいぶんと情けない情景でありました。
 公的当事者が責任を取らない、という風潮が食品衛生、安全の分野でもまかり通っています。「さむらい日本の古きよき時代」は過ぎ去ったのでしょうか。
一刻も早くこの本を仕上げたいと思っています。(1月16日)


「週刊朝日」から輸入食品の安全性についての取材がありました。この記事は3月1日号に掲載されます。(2月20日)

お知らせ


 拙著「雪印の落日」(緑風出版)(320ページ、定価2000円+税)が出来上がりました。書店に出てくる正式な刊行日は3月25日になります。
 雪印乳業食虫毒事件とそのあとの雪印食品牛肉表示偽装事件を総括した本としては最初のものとなることでしょう。内容は以下のとおりです。
  第1部 雪印低脂肪乳食虫毒事件の総括
  第2部 雪印食品牛肉表示偽装事件の総括
  第3部 国産酪農、畜産業の信頼性を高めよう
 昨年末に刊行した「食品被害を防ぐ事典」(農文協刊)とともに、皆様のご高覧をいただくように願っています。        (2002年3月15日)


  私は最近、私が全面的に協力してきた、安全,安心の砦といわれてきた生協の、とくに最近の生協運動のありかたについて、有志の方々と一緒に、じっくりと考えて見たいと思っています。(3月18日)


生協という組織について考えよう
 私は研究所在職中から今日まで、食の安全性を確保するために、生協という消費者の組織に全面的に協力してきました.1980年代から90年代にかけて、日生協の諮問機関であった学者専門家懇談会の幹事として、あるいはその活動の一部であった食品添加物についての自主基準であるZリストの作成のための委員会の座長の1人として微力を尽くしてきました。他方で職員や組合員の学習活動の講師としても、全国を東奔西走して、おそらく私の計算では、この30年近い間に、総計数万人にも達する多数の方々に私の話を聞いていただいたと思っています。
 おそらくこのような体験をさせていただいた研究者は私以外にはなかったことでしょう。  何故私がこのように生協一辺倒の姿勢を貫いてきたのか、それは私が日生協の出版部から刊行した3冊の拙著、とくに「生協運動に科学とロマンを」、「生協運動と食生活の安全性」等を読んでいただければわかってくださると信じています。
 商品と言う現実的な対象,日常的な必需品をかたに取られた中での食生活の安全を実現しようとする運動は,抽象的で,観念的な理念志向だけではやっていけません。「よりよい食品、よりましな食品」の創造を目指して、,商品をつくり、事業を推進する、その実践する人々としての職員たちや組合員たちと行動をともにする、その生活協同行為こそが私にとって、まさしく生きがいであったのです。
 勿論、がっかりさせられたこともあります。これが生協運動といえるのか,と思ったこともあります。しかし、所詮人間が作っている組織です。不完全なのは当然です。そんなことで迷うことはない。ただ私は生協という組織の基本が誠実なロッチデールの精神によって構築されていることに励まさされて、今日までやってこれました。
 私は何時か私なりの生協物語を書いてみたい、ヒューマン・ストーリーを綴ってみたいと思っています。(3月18日)

生協の仲間の皆さんへ

 今私がこのHPに書き込んでいる時事評論のシリーズを是非読んでください。先にこのHPにアクセスしていただいた方は私の文章をコピーして仲間の目に触れるようにして下さい。(後日メールで使途をお報せいただければ十分です)
 食品の安全に関わって,長年取り組んでこられた生協運動にとって、この半年がまさしく正念場であること、ここで、なにもしなければ、後で必ず責任を問われるような状況にあることを知ってください。
 取組みがいかにもおくれています。
 このシリーズは今後も継続します.今はNO15まで出来ています。
 特に組合員活動や組織部門の職員はしっかりと読んでください。何故私がこんな事をいうのか理解してください。今こそ生協運動の本質が問われているのです。
                                 以上


 拙著の発刊について

 今日25日は最近作の拙著である「雪印の落日」(緑風出版)の発刊日です。
 この本の前半の第1部になる「雪印乳業食中毒事件を総括する」の部分はもっと早く本になるはずでした。しかし、個別企業名がついた本というのはなかなかすんなりと受け入れてくれる版元がなくて,一旦は刊行を断念していました。その後、やっと緑風出版の高須さんから声がかかり、原稿をお渡しすることになりましたが、その寸前の、1月22日になって、同じ雪印グループの雪印食品による牛肉表示偽装事件が発覚して、急遽,第2部としてこの事件の原稿を追加するとになりました。新聞などの情報を丹念に集約ながら,まさしく同時進行形で原稿を作成しました。そして2月の22日の雪印食品の解散決定の時点で書き上げて、編集部に送付した,と言うようないきさつがありました。おかげでおそらく,雪印グループの二つの重要な事件を扱った本としては,最初のものになったと思います。
 私はカって「PCBの軌跡」(医歯薬出版、1977年)と言う本を書いたことがありますが,これは私が直接関係したPCB問題についてのわが国での歴史的な経過をきちんと記録に留めておくことを目的としものでした。同様に誰かが、雪印乳業の低脂肪乳食中毒事件と雪印食品の牛肉表示偽装事件の真実を歴史に刻んでおく必要があるとの思いから、今回の本を書くことになりました。
 二つの事件を取り扱ったので、少々内容が膨大となり、定価が2000円と値が張る結果になりましたが、5000人を越す大食中毒事件の記録として、さらに原因企業を解散にまで追い込んだ、わが国の消費者運動の歴史に残る記録としてぜひとも御高覧頂くことを希望しています。
 この事件は企業の皆様にとっては,おそらく、なによりもすぐれた反面教師になることでしょう。消費者の皆様にとっても,必ずや食の安全への警鐘を鳴らすことに寄与するであろうと確信しています。
(緑風出版 tel:03-3812-9420)


 この本の書評が日本経済新聞その他数祇に掲載されています
 私はもっと消費者に注目されて欲しいと思っています。(02年5月1日)


身辺近況雑記

 雪印食品の幹部5人の逮捕を受けて,関西テレビからの自宅取材がありました。当日夕方放映されました。〔5月10日)
 雪印食品の解散について、時事通信からの取材がありました。(4月28日)
 いずれも、この問題の背後にある,農水省など行政の責任が不問に付されるようなことがあってはならない事を強調しておきました。
 赤旗,日曜版に拙著「食品被害を防ぐ事典」〔農文協刊01年12月刊)の書評が出ました。(5月12日)
「 週間金曜日」誌のすすめで、拙著「雪印の落日」(緑風出版。02年3月刊)の自薦書評を送付しました。
 ついでながら、小生、連休直後に、突然、坐骨神経痛で起立不能となり、釧路、奈良、滋賀などの講演をオール・ドタキャンせざるを得なくなりました。みっともないことで申し訳ありませんでした.この場を借りて心からお詫びしておきます。本当の所は、よる年波と言うことでしょうか。当分は講演受諾不能と御承知おきください。(5月12日)


 坐骨神経と言うのは,体内の神経系では最長のもので、臀部から下肢までの運動機能を支配している。したがって各種の原因による坐骨神経痛の苦しみは筆舌に尽くし難い。七転八倒の激痛があり、歩行は不能、失脚と言う言葉があるが、老若男女を問わず,寝たきり状態にしてしまう。神経痛というのは厄介で、医学的にも的確な治療法がない。 今の私がまさしくそれである。何故こうなったかもわからない。各種の治療法があるようだが、どうすれば確実に治るのかもわからない。さて、何時頃、どうすれば回復するのか。(5月15日)



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